第四十六話【風嫌】
「サイト、痛い? ごめんね、ごめんね……」
フネが飛んでからも、瞳に涙を一杯に溜めて、それでも傍を離れようしないルイズ。
腕はもう、痛いのを通り越して麻痺し始めている気がした。
これが壊死ってやつなのか? などとぼんやりよく知りもしない言葉を思いながら、サイトはいつの間にかこうやってルイズが傍にいることを許していた。
きっと彼女は内心この腕を見て“気持ち悪い”と思っているのだろう。
サイトは心のどこかでルイズの本心をそう読みながらも、突き放しはしなかった。
理由は一つ。
……恐かったのだ。
今まで何不自由なく暮らしてきた。
いや、お小遣いが足りないとか、テストで悪い点を取ったとか、そんな日常にある不都合は経験してきた。
だが、こんな“身に降りかかる危険”など、そう経験したことが無かった。
正確に言えば、ここまで自覚出来る“危険”を知覚したことが無かった。
この昨今、交通事故は増えていると言っても、未経験者は他人事のように感じる。
身近だったとしても、経験者でさえ時が経てば意識が薄れるほど、“現代”の人間に危機意識は少ない。
サイトとてその一人。
ましてや、自分が居た世界とは異なった世界での出来事。
急に降りかかった危険と痛みに、自分でもよくわからない恐怖を感じていた。
それは人なら、生き物なら誰しもが持つ本能。
“死ぬのが恐い”
だから今独りになるのは恐かったのだ。
***
サイトが震えているのが彼の体越しに伝わって来る。
ルイズはサイトの恐怖をその身を通じて感じていた。
感じて、堪らない気持ちが彼女を駆けめぐる。
何故サイトが傷つかねばならないのか。
何故サイトが怯え恐がらなければならないのか。
その気持ちは、彼女に今まで思った事の無い感情を抱かせた。
サイトを脅かす全てが“憎い”
思えば、彼女は“憎む”という事をしたことが無かった。
後悔、嫉妬、憤怒……数多くの感情を内包してきた彼女だが、何かを憎んだことは無かった。
一度サイトを失った時でさえ、激しい後悔はしても何かを“憎む”ことは無かった。
だが今、彼女はサイトを怯えさせるものを憎々しく思う。
それは、彼女の中に先程の桟橋での戦い時にも似た思いと、決意を生み出した。
“自分がサイトへの脅威からサイトを護らねばならない”
だから今はただ、サイトの怯えを自分が取り払ってあげたかった。
そう思う一方で、体中に“タリナイ成分”を目一杯補充する。
彼の傷んでいない腕を取り、触れる事で彼そのものをその身に刻みこむ。
久方ぶりにまともに触れる彼の温もりは、彼女の中の枯渇した“それ”ほんの少しずつ潤いを与え始める。
まだまだ、いくらこうしていても溜まるには時間がかかる……否、溜まった傍から穴が開いた袋のように抜けていくそれを追い求めて彼女はサイトの顔を覗き込む。
もっと、もっと近くで彼を見たい。
彼の吐息を感じたい。
彼の全てをその身に感じたい。
だからルイズはサイトの傍を離れない。
「サイト、大丈夫、大丈夫だからね」
自分に言い聞かせているようにも聞こえるそれは、だが確かにサイトの不安を若干和らげた。
そんな時である。
「右舷上空、雲中に船影あり!!」
新たな問題が発生した。
「何だあれ?」
サイトは不思議そうに首を傾げ、船員の次の言葉にその身を硬くした。
「空賊だ!!」
船内が慌ただしくなる。
こちらは戦艦ではない。
戦闘用の荷物など皆無に等しかった。
あっという間に空賊のフネはこの商船に横付けし、明らかに武装した空賊達がドカドカと無遠慮にフネに乗り込みお頭らしい人間が一人前に出た。
「船長は誰だ?」
見た目若そうな雰囲気とは裏腹の、黒い眼帯に口周りには黒墨でも塗ったように丸い髭を生やしたお頭はやや低い声で船員に尋ねた。
「……私だ」
一人、帽子の違いによって明らかに船長だとわかる初老の男性が名乗り出た。
「このフネの積荷は?」
「硫黄だ」
「成る程、ではそれは全て我々が頂こう。何、命までは取らないさ。無論、命と硫黄の交換をしたいのなら話は別だが」
海賊の頭はそう言うと、積荷を部下に運ばせ始めた。
サイトはその海賊の頭を見て、眉間に皺を寄せる。
「サイト……?」
サイトの異変を敏感に感じ取ったルイズは、心なしか不機嫌になり始めたサイトを不思議に思いながらもサイトに「待ってて」と言い残して傍を離れた。
本心を言えば、離れたくは無かったが仕方が無い。
“サイトの為を思えば”これは必要な事なのだ。
ああ、でも本当に離れたくない。
折角久しぶりに、数日ぶりという超長い年月ぶりにサイトに満足に触れていたのに。
内心重い溜息を何度も吐きながらルイズは空賊のお頭に近づいていく。
「ちょっといいかしら」
ルイズは空賊の頭に近づきながら手の甲を向けた。
「何だ? それ以上近寄る……!?」
空賊の頭は訝しみながらルイズに近づくことを止めようとして……狼狽えだした。
彼の視線は金のブレスレットをしている手の甲……ではなく、その指に嵌めている指輪だった。
ルイズは構わず頭に近づき、小さく呟く。
「私はアンリエッタ姫殿下よりの使者でございます、“ウェールズ殿下”」
「!!」
空賊の頭は目を見開き、しかし納得したように頷くと、
「お前、人質として俺のフネに来てもらおう、野郎共、撤収急げ!!」
号令をかける。
それを聞くとルイズはサイトの傍へとすぐに戻った。
「おい、ルイズ……」
不安そうなサイトの顔に、少し胸を痛めながら、ルイズは「大丈夫」と小さく呟くとサイトと一緒に空賊のフネへと向かった。
ルイズの後を訝しげに着いて行きながらサイトは、空賊の頭をずっと睨んでいた。
***
「まずは非礼を詫びよう」
フネの客室らしき部屋に案内されたサイトとルイズは、空賊の頭に頭を下げられた。
いや、
「いえ、心中お察ししますわ、ウェールズ殿下」
アルビオン王国の皇太子に頭を下げられた。
海賊のお頭は付け髭と眼帯を取り、すらっと整った顔立ちを見せ、嫌味の無い金の髪を揺らし、改めて二人を見つめる。
「もう知っているようだが、私はアルビオン王国が一子、ウェールズ・デューダーだ」
そう、ルイズは彼が今回の任務の相手、ウェールズであることを知っていた。
何せ経験者なのだから。
「君たちはアンリエッタの使い、ということだが……」
ルイズの持つ水のルビーの指輪を見て、ウェールズは彼女達が本物であることを確信していた。
だが用件は当然のことながらわからない。
「その前に、水の秘薬を分けて頂けないでしょうか、サイト……私の使い魔の治療を行いたいのです」
「使い魔の治療……? 人が使い魔なのか? いや、失礼。すぐに用意させよう」
ウェールズはサイトの腕を見てこれは危険だと判断し、近くにいた者に目配せをした。
「ありがとうございます、こちらが姫殿下より仰せつかった殿下への書状にございます」
ルイズは頭を下げて膝を折り、書状をウェールズへと進呈する。
ウェールズはそれを受け取り読み始め、小さく溜息を吐いた。
「そうか、アンは……」
「はい」
少し寂しそうにするウェールズに、ルイズは頷いた。
丁度そこへ水の秘薬が届き、サイトの治療が開始される。
今彼らは突然王家に反旗を翻した貴族派に王党派として応じ、戦争をしていた。
その為、腐っても王党派というわけか、治療薬は豊富とは言えないが良質な物が揃っていた。
サイトの腕に感覚が戻り始める。
どうやら幸いな事に壊死はしていなかったようだ。
サイトは、自分の世界ならばここまで急激に回復する技術は無いな、と内心感心しながらも、ルイズと話す皇太子に不快感を感じていた。
「アンリエッタからの手紙だったね、すまない。彼女の手紙はここには無いんだ。手紙はニューカッスルの城に置いてきている。面倒だとは思うがニューカッスルまでご足労願っても構わないだろうか」
ルイズは一つ頷くとサイトに向き直り心配そうに彼の腕を見つめる。
治療を終えたサイトは軽く腕を上げることで元気な事を伝え、
「貴様!! さっきからその態度は何だ!?」
いきなり同室に居た空賊……もとい王党派の兵士に胸ぐらを掴まれた。
「先程から殿下に向ける敵意の目!! もう我慢ならん!! さては貴族派の回し者か!!」
憤怒した王党派の人間はサイトを射殺さんばかりに睨む。
「おい、やめないか」
ウェールズとてその視線には気付いていたが責めるほどの事ではない。
今は時期が悪いのだ。
王族に嫌悪を抱く者も少なくないだろうと思っていた。
「しかし!!」
だがやはり時期が悪かった。
もうすぐ彼らは最後の決戦を迎える。
そんなピリピリと気を張った時期に、我らが皇子に敵意を向ける存在を許せるほど彼らの精神に余裕は無く、寛容でいられなかった。
だが何度も言うように“時期が悪かった”
「……貴方、サイトに何してるの?」
ルイズはサイトに掴みかかった王党派の兵士の首を後ろから掴む。
「っ!?」
その瞳に光は無い。
彼女は薄暗い、漆黒の瞳で兵士の頭を見つめる。
「サイトを離しなさい、今すぐよ…………死にたいの?」
グッと首を掴む握力が増す。
「っなぁ!?」
あの細く小さな手のどこからそんな力が出るのか。
あまりの苦しみに兵士はサイトを離した。
本当は離すつもりなど無かったのだが、あまりの苦しさにそうするより無かった。
兵士がサイトを離すとルイズも兵士を離し、すぐにサイトの傍に寄る。
「はぁ、はぁ……なんなんだお前達は!? 殿下!! こいつらは危険です!! すぐにフネから叩き落としましょう!!」
「落ち着くんだ、こちらにも非はある」
あまりの出来事に兵士は息切れを起こしながらサイトとルイズを化け物でも見るかのように睨む。
ウェールズとて今の光景には背筋が凍るものがあったが先に手を出したのはこちらだ。
「部下が失礼をした。さらなる非礼を詫びよう。しかし僕も気になっていた。僕とそこの君は会うのは初めてのはずだけど……どうも敵視されているように感じる。良ければ理由を教えてもらえないだろうか」
ウェールズは部下の不始末を詫び、飽くまで穏便に事の収拾、原因の追究を試みた。
彼は元来、戦争などといった争いごと全般が嫌いなのだ。
皆の視線がサイトに集まる。
ルイズも少し、気になってはいた。
接点の無いはずのウェールズに、サイトはどうにも不快感を感じているようだと。
「あんた」
視線を一身に受けたサイトはゆっくりと、搾り出すように、
「風のメイジ、だろ」
そう、ウェールズを指した。
「? いかにも。私は風のトライアングルメイジだ」
一度も魔法を使っていないのにメイジとしての質を当てられたことに少々驚きながら、ウェールズは答える。
それがどうかしたのか、と。
だが、サイトはそんなウェールズ、一国の皇太子に向かって、
「風のメイジは嫌いだ」
そう吐き捨てた。