第四十四話【二手】
タリナイ。
タリナイタリナイタリナイ。
体中が渇き、飢え、“それ”を渇望してやまない。
胃は空っぽで、脳が栄養を摂取すべきだと訴えているがそんなことは“どうでもいい”
タリナイタリナイタリナイ。
全く持って足りない。
些かも足りていない。
“それ”の残りなんてもう水筒の底にある水滴ほどにしか、いやひょっとするともっと少ないかもしれない。
ところが今、“それ”が少しこちらに寄って来てくれた。
あれほど避けられていたのに、それは終わったのかと喜び勇み、泣くほどの歓喜を覚え、天に召されるかのような心の内の震えを感じた時、
ドォォォォォォォォォン!!
「賊だ!! 賊が襲ってきた!!」
その爆発音が、耳障りな“それ”以外の声が、事態が、“それ”を遠ざける。
ああ、また私の中が“満たされない”
***
港町ラ・ロシェールは、通常の港とは違い、海には面せずごつごつとした岩群の中に存在する。
辺りにはあまり緑が無いせいか、ここからの一次産業はそれほど多くない。
その為、この町は流通の要となることで繁栄してきた。
アルビオンとの交易もほぼラ・ロシェールが主流であり、ラ・ロシェールには陸と空、両方の調度品が舞い込んでくる。
その中には珍しい物も多く、貴族が欲しがる物も少なくない。
故に、ラ・ロシェールは地形に恵まれずとも(ある一点においては恵まれているが)その“町の在り方”によって繁栄している町である。
だが、それは調度品を求める者、旅行を楽しむ者、と言ったいわゆる貴族、そうでなくともお金にある程度余裕のある人間からの見解だった。
辺りが岩に囲まれたこの町では、町の外での生活は難しい。
だが、町で暮らして行くにはお金がいる。
ではそれが無い者はどうするか。
答えは単純にして明快。
……ここから去るか、略奪か、である。
幸か不幸か、港町としてのラ・ロシェールには人の行き来が多い。
それ故、そういった旅人を鴨にした盗賊まがいの人間が生まれるのは何も不思議なことでは無かった。
サイトとギーシュが馬に乗りながらラ・ロシェールに向かう途中に襲って来た連中も、そんな“あぶれ者達”だったのだろう。
そんな彼らは、本当に時々、自らの危険を顧みずわざわざ町まで入って略奪をすることがある。
町には港町というだけあって、防衛設備、防衛兵、そういった防衛の為の手段もあることから、盗賊達にとってはハイリスク、ハイリターンな為、それをやる者は少ない。
少ないが、皆無では無い。
「サイト!!」
バン!! と戸を開けて疲れた顔のギーシュが出てきた。
「今窓の外を見たらこの騒ぎはどうやら盗賊らしい!! オマケに狙われてるのはこの宿のようだ!! ここは一旦離脱しよう!!」
「え……あ、ああ、わかった」
サイトは、正面の鷲色の瞳から視線をズラして駆けだしたギーシュの後を追う。
横目で「お前も早く来いよ」とルイズを見やると、何かを訴える鳶色の瞳が、酷く悲しげに見えた。
軋む木の床をドタドタと優雅とはほど遠い走り方で移動し、三人は階段を駆け下りる。
下は既に盗賊との防衛が始まっているのか、いくつものテーブルを立ててバリケード代わりにして店の人が怒鳴っていた。
そのバリケードテーブルの中の一つに、今回の旅の同行者、護衛の役割を持つワルドはいた。
ワルドは三人に気付くと小さく手招きして呼び寄せる。
「まったくついてないな、こんな時に襲撃に合うとは。しかし我々は任務をやり遂げなければならない」
被った帽子から覗かれる鋭い目が、盗賊達を睨む。
全員で突破するには些か敵の数が多かった。
目視出来るだけで入り口に八人。
外での騒ぎも止まっていないことからまだ数人は外でも行動しているはず。
ここからではわからないメンバー、さらに相手が保険として予備選力を保存していたとしたら、状況は益々不利になる。
このままでは今日の出向便すら危うい。
いや、逆に出向が早まる可能性もある。
決断の時だった。
「いいか諸君、こういった任務の場合、全員が目的地に着かずとも、誰かがたどり着ければ成功とされる」
今回の目的は手紙の回収。
確かに、極論を言えば全員でたどり着かなければならない理由は無い。
「ここは足止め役と任務遂行役の二手に分かれようと思う」
冷静にそう指摘するワルドにサイトは怒り心頭だった。
「ふざけんな!! ここで誰かを見殺「サイト」……ギーシュ?」
サイトが張り上げた声を抑えるかのように、小さな、しかし威圧ある声でギーシュは諫めた。
「今回はワルド子爵が正しいと思う。この状況下では全滅すらあり得る」
そうしてサイトの言葉を止めたギーシュは、
「だから……僕が残るよ」
───────堂々と自殺にも等しい言葉を言ってのけた。
「僕は……昼間の戦いで正直精神力を使いすぎたんだ。今もって回復したのは全快の五分から六分程度、だと思う。足手まといになるくらいなら囮役を引き受けるよ」
「お、おいギーシュ!!」
ギーシュの肩を掴んでお前正気か、とサイトは慌てる。
だがギーシュの瞳は揺らがない。
それが本気なんだと知ってサイトは目を丸くする。
「そうか、では宜しく頼む」
そんなギーシュにワルドは、君は足止め役決定だと何の感慨も感じられない声で決定を下した。
それが……さらにサイトの中の嫌悪感を増長させ、
「てめ「ワルド」……ぇ?」
“それ”に反応した“彼女”が、先程からの“やりとり”も相まって相当に苛々しながらサイトの言葉を遮る。
二度も言葉を遮られたサイトは、少し機嫌を悪くしながらも声を発した主、ルイズの言葉に渋々耳を貸した。
ルイズは射抜くような目でワルドを睨むと、
「貴方も残って。戦力的にも人数的にもこれでイーブンよ」
これはもう決定事項、と言いつけた。
「なっ!? ルイズ!! 僕は君の護衛だ、僕が君から離れるワケには……!!」
「必要ないわ、それに貴方は“私達”の護衛でしょう?」
「っ!!」
ワルドが一瞬押し黙る。
皆、既にわかっていたことだが、彼はルイズを特に特別視していた。
ワルドはしばし逡巡し、言葉を選びながら搾り出すように話し出した。
「心配、なんだ、わかるだろう?」
「わからないわね」
「僕たちはその……“そういう関係”じゃないか」
「これっぽっちも貴方と関係なんて無いわ」
ルイズはワルドの言葉を全て即座に短く切り捨てる。
「……!? せ、戦力がイーブンと言うが、君は使い魔君と行く気かい?」
「そうよ」
ちらり、とルイズはサイトを見やり、サイトから拒絶の意が出ていない事に内心安堵する。
「彼と僕では実力差は圧倒的だろう? それがわからない君じゃ無いはずだ」
最後の頼みの綱とばかりにワルドはルイズを見つめた。
そこでルイズはこの時初めて、ワルドへの視線に“敵意”以外の物を向けた。
ワルドはそれを見てホッと安堵の息を……、
「何を言ってるのワルド? もしかしてまさか無いとは思うけど、サイトよりも上のつもりで居たの?」
吐けなかった。
ルイズは心底不思議そうに、あり得ない物でも見るかのように、“敵意”以外の感情、“疑問”をワルドにぶつけた。
ルイズにとってこの世の全てはサイトである。
サイトより素晴らしい人はおらず、例え“どんな事柄だろうと”サイトより上の物など存在しない。
それは、『天上天下唯才人独尊』とも取れる、彼女の中の“絶対”の理である。
「……わかった、ここは君の意志を尊重しよう」
ワルドは小さく舌打ちすると、やれやれ重傷だな、と呟きながら羽根帽子を目深に被りなおした。
***
二手に分かれてからしばらくして、船の出る桟橋へ向かう為の大きな樹の中の螺旋階段でルイズはようやく安堵の息を吐いた。
それは盗賊達との喧騒から離れたからではなく、
「……ルイズ、早く行こう」
隣にいる使い魔との二人きりの空間故である。
ルイズ、ルイズ、ルイズ……。
呼ばれるだけでなんと甘く甘美な響きなのだろう。
一瞬それが、自分を指す名前という記号であることすら忘れそうになるほど、彼の声は心に染み入る。
「ルイズッ!!」
だから、突然彼に突き飛ばされた時、彼女は意味がわからなかった。
「!?」
一瞬の眩しい閃光。
空から、光が落ちてくる。
と、同時にサイトが蹲った。
文字通り光の速さで落ちてきたのは『雷』だった。
「サイト!?」
サイトに駆け寄ると、その腕は……赤黒く焦げていた。
タンパク質が燃えるような、嫌な匂いが立ちこめる。
さぁっとルイズの顔から生気が抜け落ちた。
「……い、熱……痛っ、くそっ、痛ぇ……!!」
サイトはそんなルイズに構う暇がないほど腕を押さえ、痛い、熱いと繰り返しながら蹲っている。
なんで、どうしてこうなった?
何故サイトが傷つかなければならない?
なぜさいとがきずつかなければならない?
ナゼサイトガキズツカナケレバナラナイ?
思考が巡り巡る。
どうして?デルフは何をしていた?サイトが傷ついた?何故?
そう何度も何度も同じような思考をループさせ、戻ってくるのは結局、
ナゼサイトガキズツカナケレバナラナイ?
それだった。
コツコツコツ……。
足跡が聞こえる。
自分たちの背後から、“仮面”を付けた“何者か”が近寄ってくる。
いや、
「……そう、やっぱり貴方なの」
ルイズにとってはそれが“何者か”わかっている。
過去に起きた出来事を覚えているのだから。
わかっている。
理解している。
理解している?
本当に?
だから二手に別れた。
だが結局、“前回同様”こうなった。
本当に、自分は理解しているのか?
ルイズは虚ろな、光を宿さぬ虚無一色の瞳で目の前の仮面を見つめる。
仮面をした何者かは、そのルイズの顔に一瞬狼狽の意を見せたが、すぐにも“新しい雷”を落とした。
そう、この相手こそが先程の雷を落とした人物にして、今現在のルイズの、最大の嫌悪の対象だった。
雷は蹲っているサイトを襲う。
咄嗟に相手の標的が読めたルイズはサイトを引き寄せ、雷から難を逃れる。
豪雷音と共に先程二人がいた場所はパラパラと木が焦げ落ちた。
ライトニング・クラウド。
“風系統”の上位魔法である。
次にそれを使われれば、こちらの……とりわけサイトの安全は確保されないかもしれない。
理解している。
理解している?
本当に?
「いいえ、認識不足、かもしれない」
ルイズは知らず、小さく呟いた。
甘かったかのかもしれない。
きちんと理解しきっていなかったのかもしれない。
瞳が、何も映さない虚無の瞳が、仮面を捉え、小さな唇から“聞こえない程小さな呪文”が紡がれる。
途端、仮面の何者かは突如起きた爆発に巻き込まれ、足場となる螺旋階段が壊れた為に下へと真っ逆さまに落ちて……闇へと消えた。
“サイトといる為”に、自分はもっと甘さを捨てた徹底的な“やるべきこと”があるのかもしれない。
仮面が消える姿を睨み見ながら、ルイズはそう思った。
何をすれば良いのか、一緒にいるためにどうすれば最善なのかはまだわからない。
だが、“今やったこと”がそれに繋がる気がした。
「……大丈夫サイト? 辛いでしょうけど行きましょう。船に行けば“きっとお薬も手に入る”わ」
苦しむサイトを見て、自身のその小さな胸を多大に痛めながら、ルイズはサイトを促した。
一定にして“決まっていた”歯車の動きが一つ、ズレ始めると、その小さな歪みは、やがて全ての歯車へと影響していく。
今、その一定にして“決まっていた”歯車の動きに、軋みが生まれた。