第三十七話【退行】
朝。
靄がかかったような思考が、急速にクリアになっていく。
霧が晴れ、ぼやけていた視界もすぐにクリア。
透き通るような朝の空気の中、視界には……サイトの寝顔があった。
「……フフッ」
ルイズは小さく笑い、サイトの体により密着する。
トクントクンと波打つ彼の胸の鼓動が僅かな振動となってルイズに伝わる。
サイトの眠りはいつも深い。
ちょっとやそっとでは目覚めない。
だが、彼の体質なのか生活サイクルなのか、サイトはある一定時間を過ぎるとパッ目を覚ましてしまう。
彼は寝付きと目覚めは良い方だった。
逆にルイズの眠りはいつも浅い。
浅く、長い。
起きても意識が覚醒するまでにやや時間を必要とする。
だからこんな朝は貴重だった。
ルイズは早く起きていても、若干寝ぼけていることが多く、意識が覚醒しきる頃にはサイトはもうベッドにはいない。
こうして、自分がしっかりと覚醒した状態で眠っているサイトの傍に居られることは、実はあまり多くないのだ。
その為、今朝の彼女は上機嫌だった。
「サイト♪」
小さく彼の名を呼ぶと、ルイズはサイトの耳元に近づいてその耳を、
「はむっ」
口に含んだ。
「……? ……むにゃ……zzz……」
サイトは一瞬表情を顰めるも、まだ目を覚まさない。
気を良くしたルイズは、一旦含んでいた耳を離すと首に近づき、露出しているサイトのうなじを小さい舌で滑るように舐める。
ザラザラとした感触と、確かに彼が平賀才人であるという実感を伴ってルイズの心をサイトの味で満たしていく。
どんなスイーツよりも甘く、どんなスープよりも濃厚な……言葉で言い表す事の出来ないその味にルイズは満足し、モゾモゾと動いてサイトの上に覆い被さる。
「ん……うう……?」
サイトは起きそうで起きない。
ルイズは微笑みながらサイトの胸に肘をついて寝顔を覗く。
もう、これだけでお腹一杯だった。
サイトの決して同じ瞬間は無い表情をつぶさに網膜に焼き付けて行き、それに飽きることは永遠に無い。
「んん……う……あ……?」
と、サイトの瞼がゆっくりと開き始めた。
「おはよ、サイト」
「ふわぁ……おはよルイズ……ってうお!?」
ゴンッ☆
サイトは目を覚ましてすぐ目の前、自分に覆い被さるようにしているルイズに驚き、混乱したまま咄嗟に起き上がろうとしてルイズと額をぶつけ合ってしまった。
「っ痛ててて……っと、ごめんルイズ」
ルイズも突然のことで相当痛かったのか額を抑えてベッドの上で座り込んでいた。
が、
「えへへ、サイトにまた傷つけられちゃった♪」
額を抑えながらはにかんだように笑った。
***
「出来た……出来たわ!!」
いくつかの香が混じった匂いがする一室。
複数の瓶があちこちに転がり、そのどれもが空っぽだった。
「これをあとはゆっくりと熟成させないと……」
目の下にはうっすらと隈さえ作って、ややしなびた金の髪を縦にロールした少女、モンモランシーは不敵に嗤った。
「でもまだ、効果を持続させるには弱いわ……せいぜいこれじゃ持って五日ね。こっちももう少し長く熟成させて期間を引き延ばさないと混ぜ合わせた時に効果を期待できない……」
モンモランシーはコトンと小瓶を置き、未だ蒸留中のフラスコを眺める。
と、ふと手近にあった鏡に目を奪われた。
「……酷い顔ね、ちょっと根を詰めすぎたかしら」
自身の酷い顔の有様を見て、顔を洗いに行こうとモンモランシーは扉のノブに手をかけ……思い留まった。
(どうしよう、あの小瓶ここに置いていっても大丈夫かしら? 万一ギーシュが尋ねてきてあの小瓶に気付いたら……いえそれよりもそれを使ってしまったら……!!)
モンモランシーは「う~ん」と悩んだ挙句小瓶を手に取り部屋を出た。
部屋には、フラスコに少しずつ溜まっていく液体だけが残されていた。
***
サイトとルイズは着替えを済ませていつものカフェテラスで食事をしようと廊下を歩いていた。
何気ない会話をしながらカフェテラスへと歩いていると、つん、と何かの匂いをサイトは感じた。
「ん……?」
クンクンと鼻を鳴らして匂い嗅いでみる。
「サイト……? あ、何かの匂いが……」
ルイズもその香りに気付き、周りに視線を巡らし、一人の少女の姿を捕らえた。
「モンモランシー? 成る程」
ルイズは一人、納得したように頷いた。
「サイト、この匂いは多分あの娘よ。彼女は香水を作るのが得意なの。きっとその匂いだわ」
「へぇ、結構いい匂いだったから香水ならルイズがつけても似合うかもな」
サイトがそう口を開いた瞬間、ルイズの行動は早かった。
一瞬にしてその場から駆けだし、モンモランシーの肩を掴む。
「モンモランシー!!」
「えっ!? ちょっと何? ルイズ? いきなり何よ!?」
「その香水私にも分けて!! いえむしろ今使って!!」
「へっ!? ちょっ!? これはダメよ、ダメダメ!!」
モンモランシーは焦り、手に持つ小瓶をルイズから遠ざけようとし、昏いルイズの瞳に一瞬怯んだ。
「ヒッ!?」
瞬間ルイズの白く細い腕は伸び、
シュッ、シュッ、シュッ。
素早く奪った香水をルイズは自身に振りかける。
「あ、あああーーーーっ!?」
モンモランシーは青い顔をして声を荒げた。
「な、何てコトしてるのよルイズ!! それが何だかわかっているの!?」
ガクガクと肩を何度も揺らしながらモンモランシーは凄い剣幕で怒る。
「あうっ? ちょっ? あまり揺らさないでモンモランシー!! 香水でしょう? 無理矢理使ったのは悪かったわ、でもサイトが私に似合いそうだと言ってくれたんですもの。それに見たところまだ全然残っているじゃない」
確かに量はさほど使っていないし、霧状にして吹きかけているのだから、そこまで減ってはいない。
だが、
「そういう問題じゃないのよ!!」
モンモランシーは青ざめたままルイズの肩未だにガクンガクンと振り、まともにルイズからの会話を許さない。
「お、おいおい、ちょっとルイズを離してやってくれ。これじゃまともに会話もできねぇよ」
ようやくその場に着いたサイトが、ルイズとモンモランシーの間に入るようにして二人の距離を開け……、
────────ドクン────────
「あ……れ……?」
────────ドクン────────
喧騒が遠くなり、ルイズの視界が一瞬ぼやける。
「───────!!」
「───? ───!!」
モンモランシーやサイトが何を言っているのか理解出来ない。
胸を押さえ、その場に蹲り、
────────ドクン────────
「ルイズ!?」
ルイズの異変に気付いたサイトが彼女の肩に手を置いた時、パン、とその手を“ルイズ”に払われ、
「平民でしかも使い魔のくせに公爵家の娘に触れるなんて許されると思ってるの?」
今までに、サイトが聞いたことの無いほど冷たく、棘がある声で“ルイズ”が“サイト”を見下した。
「えっ?」
サイトは目を丸くして驚く。
今までにルイズからそんなことを言われたことは無かった。
「ふん、全く使えないんだから。そんな常識くらい知ってなさいよね。この程度もわからないなんて犬の方がまだ使えるんじゃないかしら? 犬以下ね」
だがルイズはサイトを汚いものでも見るかのように睨む。
サイトにはわけがわからなかった。
可愛く、いつも優しいルイズが急に豹変したように自分に攻撃的になった。
いつだったか貴族と平民には身分の差があることは聞いたことがあったが、ルイズはいつもそんな差など無いように接してくれていたのに。
「いいこと? 罰として貴方は今日は朝食抜きよ、戻って部屋の掃除でもしてなさい!!」
未だルイズの豹変振りについていけず、ポカンとしているサイトにルイズは苛立ちながら、
「わかったらさっさといく!!」
弁慶の泣き所よろしく、サイトの脛に一発蹴りをいれてアルヴィーズの食堂へと向かっていった。
「~~~っ!!」
突然の事にサイトは対応できず、痛みで脛を押さえてその場に沈む。
モンモランシーは桃色の髪の少女の背中を黙って見送っていた。
サイトはよっぽど脛が効いているのか、涙目になりながらいまだしゃがんでいる。
視線をサイトに戻したモンモランシーはそのサイトの姿が余りに痛ましく可哀想に思え、
「今のことは忘れなさいな、二、三日もすればルイズは元に戻るわよ」
状況の説明をしてやることにした。
「ルイズが私の香水勝手に使ったでしょ? あれは“単体”で使用するとそういう副作用のでる“未完成品”なの。だから使っちゃったルイズはああなったってわけ」
「じゃあ、今のルイズはその香水のせいでおかしくなってて、二、三日でそれが元に戻るってことか?」
何処かすがるような目でサイトはモンモランシーを見つめながら必死に尋ねる。
それが脛の痛みのためかルイズの豹変振りのせいかはわからないが、とにかくサイトは必死だった。
「ええ、あれはまだ調合途中なの。単体で使うと効力は弱いけど記憶や精神、“心”に変動を与えるのよ。今回の場合、“精神退行”しているようね」
「精神退行?」
「そう、簡単に言うと“数年から数十年前の自分に内面だけ戻る”ような効果よ。ルイズって学院始まった当初はあんな感じだったし退行したのは精々一年くらいじゃ……あれ?」
モンモランシーは説明しながら首をかしげた。
こういった精神退行は、薬に頼らずとも起こる事がある。
心になんらかの負荷がかかりすぎると、自己防衛本能からか精神に異常を来たし、自分を護るために人格の分割や精神の退行などは稀に起こるのだ。
その際、精神退行者は殆どの場合“記憶”も退行することが多い。
ケースバイケースではあるが、大多数は自分が退行していることに気付かない。
それは今の自分が“現代”の自分だと理解しているからだ。
二十歳の人間が十年退行したとすると内面は十歳になる。
このとき、自分は十歳であると認識し、またその十歳の時までの記憶しか持っていない。
これを治療するにあたっては徐々に現代に近づくように記憶の催眠療法等を行うのだが……彼女はサイトが何者であるか知っているようだった。
(たまたま、記憶は残ったまま退行しているのかしら? いえ、でもそれじゃあルイズが自分の使い魔にこんなに厳しいなんておかしいわよね、召喚当時からベタベタだったし。う~ん?)
モンモランシーが急に悩みだしたことで、サイトは不安になる。
「お、おい!? ルイズ治らないのか?」
「あ、いえちゃんと治るわ。霧状にして使用したんだし、効果は薄いからさっきも言ったけど持って二、三日ね」
サイトは少し安心したように表情を緩め、立ち上がる。
もう脛も大丈夫のようだ。
「もういいの?」
「ああ」
サイトが立ったことでモンモランシーも考える事をやめた。
「それじゃ私ももう行くわ、まだこれの調合とか残ってるし。あ~あ、でも必要最小限で作ったからまた少し作り足さないと」
モンモランシーはぶつぶつ呟きながらその場から離れ、
(さっきはきっと機嫌が悪かっただけだよな、精神が退行してるって言っても“ルイズはルイズ”なんだし二、三日なんだから大丈夫だろ。俺も頼まれた掃除でもしておこうっと)
サイトもそれを見送ると考え事をしながらルイズの部屋へと掃除の為に歩き出した。
二、三日で治る精神退行。
それゆえにモンモランシーは深く考えず、サイトは“自分の知るルイズ像”から退行しても“ルイズはルイズ”と呑気に構えていた。
だから気付かない、いや、どうあっても気付けない。
彼女が一年、どころか数十年……およそ二十六年退行してしまっているという事に。