第二十二話【思惑】
シーンと静まりかえる教室内。
教師の板書の音のみが室内を支配するこの場で、
ガタッ!!
突如として張りつめたような空気を壊す音が生まれた。
「どうした、ヴィリエ?」
板書をしていた教師、疾風のギトーは訝しみながら突然立ち上がった生徒、ヴィリエ・ド・ロレーヌを見やる。
「……いえ、なんでもありません」
ヴィリエは一度頭を下げると、突然立ち上がった時とは対照的にゆっくりと着席した。
それでおしまい。
教室内の空気は元の張りつめた学ぶ為の空間に戻る。
ただ、一人の生徒、立ち上がった少年の内心を除いては。
(……馬鹿な、僕の“遍在”がやられたっていうのか?)
遠くにある自身の魔法の結晶、決して一人での行使は不可能な風の高位魔法、それの消失を術者本人であるヴィリエは感じていた。
“遍在”とは風のスクウェアスペル。
自身の分身を作り出す、スクウェアに相応しい魔法だった。
この魔法の凄い所は、作り出された遍在は魔法を使えるという点だ。
スクウェアスペルは伊達では無い事の証明と言えよう。
ヴィリエは、一人で行使不可能のその魔法を先日ギトーと共に唱え、行使に成功した。
これは相手がスクウェアスペルだったから成功したようなもので、本来はそんな単純なものでは無い。
が、偶然か実力か、とにもかくにも成功したその魔法を、意外にもヴィリエは一人での持続を可能としていた。
彼もまた、確かに並では無いのだろう。
そしてここまではある意味、彼の計算通りだった。
ヴィリエは自身の席よりも左斜め前方を見る。
そこには、蒼い髪をした小柄な少女が板書を写しもせずに眼鏡を通して本を読んでいた。
羽根ペンを持つ手に力が入る。
まるで折ろうとしているのではないかと言うほど強いその力は、先程の自身の遍在の消失に端を発していた。
(くそっ!! これが上手くいった後、アイツに見せつける筈だったのに……!!)
自身の計画の頓挫に歯がみする。
本当なら、遍在がやっているのは“前座”の筈だったのだ。
踏みにじられたプライドを倍にして返し、その上で“本来の目的”を遂げる筈だった。
“だからわざわざ本当の自分”はこちらにいたのだ。
“偽装工作”も含めて。
ラインの自分が“遍在”を使えると普通思わないだろうし(実際一人では使えない)、魔法自体を知っている者もそんなに多くは無いだろう。
そんな自分が授業に出ているというのは大きなアリバイに繋がる。
相手は気に入らないと言っても公爵家の三女。
公爵家ともなれば逆にここまでの恥の隠匿に奔る可能性もあるだろうし、念には念を考慮してのアリバイ工作だったのだ。
これが上手く行けば後は“アイツ”だったのに。
握りしめた羽根ペンが軋みを上げ、もう限界だろうという時、
「ヴィリエ、授業は終わっているよ?どうしたんだい?」
ギーシュに声を掛けられる。
ハッと我に返ったヴィリエは、相手が“あの”ギーシュだと気付くと一睨みし、
「なんでもないさ」
立ち上がって教室を後にする。
「やれやれ、まだ根に持っているのかい? こちらが後腐れ無く話しかけているというのに」
ギーシュはそんなヴィリエに呆れるような声を出しながら、しかし何か訝しむようにしてヴィリエの背中を見つめていた。
蒼い少女は、とっくにいなくなっていた。
***
「遍在?」
「そう、“遍在”。“以前”見たことがあるからわかるわ」
ルイズは少し戸惑っているようなサイトに説明を始めた。
「本来、あの魔法はスクウェアメイジでないと使えない高位な魔法なんだけど……でもヴィリエはラインなのは間違い無いし、一体どうやって……」
「?」
サイトは魔法に関して詳しくない。
スクウェアというものもまだいまいち理解していなかった。
それでも、先ほどの少年が偽者、いわゆる影武者ないし影分身的な何かだったということはおぼろげながらに理解した。
(そ、そうか、そうだよな。ルイズにはきっと相手が遍在であることがわかっていたんだ。だからあんな近距離で魔法を……でなけりゃルイズが“あんな事をする筈無い”だろうし)
サイトは、冷静になって一瞬感じた一抹の不安を拭うと、ルイズの状態を見て……慌て始めた。
「ル、ルイズ!! それより怪我は無いのか!? さっき“なんとかカッター”とかいうので切られて無かったか!?」
ルイズのスカートは裂けていた。
太ももは露になり、見るも無残な姿だ。
それに先ほど確か一度“なんとかハンマー”とやらで吹き飛ばされもしたはずだ。
体験者だからわかるが、あれは結構痛い。
ルイズは今地面にぺたりと尻餅を付いているが、それすらも実は立てないほど傷が酷いのではないかとサイトの不安を煽る。
「そんなことよりサイトは? ああ!? 手首に擦り傷があるじゃない!! 頬もまだ赤く腫れているし!!」
だが、彼女は飽くまで自身よりもサイトの安否を優先した。
「馬鹿!! 俺よりもお前だろう!?」
そんなサイトの怒声に、ルイズはあまり耳を傾けずサイトの手首を取る。
恐らく、風の魔法で縛られている時に相当無茶したのだろう。
幾分出血も見られる。
ルイズは泣きそうになりながらその手首の傷を舐めようとし、
「お、おい!? そんなことしなくていいって!! というか俺よりルイズはどうなんだってば!?」
慌ててサイトは手首を引っ込める。
「私は大丈夫、ヴィリエは私に傷をつけることだけはしなかったようだから」
ルイズは残念そうに肩を落とすと、サイトが首を傾げるようなことを言う。
「? どういうことだ?」
まさかあれだけやられて無傷だというのだろうか。
確かによく見ると、スカートは酷く裂けているものの出血は見られない。
体中泥だらけではあるが、それだけだ。
「恐らく、証拠を残さないためでしょうね」
ヴィリエとてそこまで馬鹿ではない、いやむしろ計算高いのだろう。
傷が無いということはやられた証拠が無い。
あるのは本人と使い魔の証言のみ。
使い魔は平民である事からその発言を低く見られるし、ルイズが親に告げ口して助けてもらおうとするほど自身のプライドが低くないことを理解していたのだろう。
ルイズは一瞬にしてヴィリエの思惑を読み取り、また、思惑通りに進んだ事を肌で感じた。
だがサイトにはそんな机上の理論など理解出来ないし、仮に出来たとしてもしたくは無いだろう。
故に、
「証拠? まぁよくわかんないけど一度部屋に戻ろう」
今はただルイズを気遣う。
「えっ? あ……」
サイトはデルフリンガーを鞘ごと背中から外すと、ルイズを背負う。
「サ、サササ、サイト……!?」
そんなサイトの積極的行動にルイズは顔を赤くし、
「そんな状態で歩いたらその……見えちゃうだろ!? 俺が部屋まで連れて行ってやるから」
「……うん」
半ば無理矢理で背負って貰ったルイズは、しかしすぐにピトッと背に体重を預けサイトに擦り寄る。
(サイト、暖かい)
手に少し力を込めて首に回し、しっかりと抱きついたところで、サイトはルイズの椅子代わりにデルフの横腹をあてがい、デルフを後ろ手に持ちながらゆっくりと歩き出した。
(サイトの匂い)
ルイズはそんなサイトの気遣いに胸を打たれつつ、今朝嗅ぐ事の出来なかった“濃厚な”サイトの匂いを首筋から堪能し、微笑を浮かべる。
「……なぁ」
そうしていると、サイトから声をかけられた。
「なぁに?」
「貴族って、みんなあんな感じなのか?」
「あんなって……ヴィリエのこと?」
「ああ」
「そうね、みんなってわけじゃないけど、貴族は大抵プライドが高いわ。だから気に入らない事は時に徹底して気の済むまで何かをやる事があるの」
「メイジって貴族、なんだよな?」
「いいえ、貴族はメイジだけど、メイジが貴族であるとは限らないわ。“αならばβである”ね」
「???」
「貴族で無くなったメイジもたくさんいるの。中には悪い事をする人だってね」
「ヴィリエって奴みたいに、か」
「ヴィリエは一応貴族よ?悪いからって貴族じゃないとは限らない。それにここは貴族の子が通う学院ですもの」
「貴族……メイジ……遍在……」
「サイト? どうかした?」
「いや、なんでもない。そうだ、遍在って風の“すくうぇあすぺる”だったっけ?」
「そうよ」
「風のメイジ……」
サイトは話をするにつれどんどん表情が険しくなり、目を釣り上げていく。
「サイト?」
ルイズは訝しげにサイトの後ろから見た横顔を見つめ、
「俺、風のメイジって、嫌いだ」
そんなサイトの言葉を聞いた。
それきりサイトは黙る。
ルイズはいまいち要領を得なかったが、それでも自分以外の者を嫌いだと言ったサイトに対して多少の歓喜の念を覚えていていた。
そう、ルイズでさえこの時からサイトに生まれたある一つの感情には気付かなかった。
類稀なる平民の極端な狭い範囲でのメイジ嫌い。
メイジが嫌いな平民は多くとも、ここまで限定されたメイジ嫌いはそういないだろう。
風のメイジ、それも遍在を使用するメイジを、サイトはこの日から異常に嫌うようになっていた。