第二十一話【千殺】
「……ん」
ルイズは目覚めかけていた。
既に朝なのは何となくわかるが、今はまだまどろみの中にいたい。
こうやってサイトの腕の中にいて彼の温度を享受し匂いを嗅いでいたい。
そう思いながら手を伸ばして…………跳ね起きた。
「……いない……!!」
手を伸ばした先にサイトが居らず、温かみも匂いも感じられない朝。
いつ以来だろう。
絶望が体中を巡り、焦燥が彼女を支配する。
今までの幸福が実は全て夢だったのではないかという程に心が折れそうになった時、化粧台にある金のブレスレットが視界に入った。
「あ……」
アレがここにあるということは、少なくとも昨日までは夢では無いということになる。
慌ててその金のブレスレットをはめて現実を実感し、蚊ほどの安心を得てから部屋を見渡すと、サイトの他にいなくなっている物が一つ。
「デルフもいない……」
……トイレにでも行ったのだろうか。
そう現実的に現状を纏めベッドに座る。
一秒。
足が小刻みに揺れる。
二秒。
体中が小刻みに揺れる。
三秒。
限界だった。
「サイト分が足りない……!!」
体中から求めてやまないサイト。
サイトが傍にいるだけで得られるそれが、ほんの少し姿が見えないだけで気が狂いそうになる。
何せ昨日“一時間も”離れていたのだ。
それはもう一生分離れていたと言っても過言では無いというほどの時間だと彼女が思っていた時、
コンコン。
戸がノックされる。
「サイト!?」
ルイズは喜び飛び跳ねるが、いつまで経ってもサイトは部屋に入ってこない。
スッ。
代わりに、戸の下の隙間から白い紙切れが一枚入って来る。
ルイズは訝しがりながらそれを取って……凍りついた。
『君の使い魔君は預かった。無事に返して欲しくば今日の一時限目はサボってヴェストリの広場まで来い』
「な、何よこれ……!!」
体が震える。
サイトを失うかもしれないという死よりも圧倒的に恐い恐怖。
そして、
「冗談じゃ、無い……」
もはや存在すら許せないというほどの……怒り。
宛名を見て、彼女の瞳は何も映さなくなった。
『ヴィリエ・ド・ロレーヌ』
「ヴィリエ……!!」
ギリ!!と握り拳を作ることで紙がくしゃくしゃになる。
ルイズはテーブルの杖を取ると他には何にも目をくれずに部屋を後にした。
***
「くそっ!! 離せ!!」
サイトは暴れていた。
「うるさいな、平民のくせに」
ドガッ!!
「ぐへっ!?」
思い切り頬を殴られる。
「くそっ!! ずりぃぞ!! 離して正々堂々と戦いやがれ!!」
だが尚もサイトは喚く。
今朝トイレでサイトを捕らえた男、ヴィリエはウンザリしていた。
何故平民というのはこう立場もわからずに五月蝿く喚くのか。
だがそれも今の彼の滑稽さを見ることで多少、本当に多少だが溜飲は下がる。
サイトは風の手錠のようなもので手を後ろ手に縛られていた。
それを見ていると、まるで自分は無力ですと言っているようで、かつての決闘での屈辱的なことさえ忘れられる。
だがヴィリエが求めているのはこんな“前座”ではない。
「フフフッ」
思わず笑みが零れる。
今から楽しみで楽しみでたまらない。
おっと、ようやく来たようだ。
「ヴィリエ……サイトをはな……っ!?」
ルイズは来た途端サイトの開放を要求しようとしてサイトの顔を見る。
サイトの頬は少し赤く腫れていた。
──────空気が変わる。
ゴクリとヴィリエは息を呑んだ。
これに自分は打ち勝っている証明をしなければならない。
「サイト……その頬」
「わ、悪いルイズ、朝トイレに行ったら捕まっちまって」
「なに、その薄汚い平民が騒ぐから教育してやっただけさ。ちゃんと手加減はしてるよ、この広場がまた汚い血で汚れてはかなわないからね」
ヴィリエは悪びれずに言う。
「………………」
ルイズはもはや何も口を開かずにヴィリエを見つめていた。
睨むとか、怒りとか、そんなものは何も映していない。
例えるなら“虚無”
その瞳には、何も映さないただ瞳孔が大きく開いた黒い塊のみがそこにある。
──────風が、止んだ。
「……覚悟はいい? ヴィリエ」
それは質問ではなく、命令だった。
覚悟が出来ているかどうかを問うものではなく、覚悟をしろとの命令。
それにヴィリエは杖を持って答える。
「それは鏡に向かっていうべきなんじゃないのか?」
唱えるのはエア・カッター。
風の刃が真っ直ぐにルイズに向かって飛んで行き……爆発。
「っ!?」
一瞬、ヴィリエには何が起こったのかわからない。
もう一発エア・カッターを放つ。
だが、ルイズにそれが命中する前に、爆発。
爆煙から出てくるルイズは傷一つ負っていない。
“失敗”の爆発魔法。
唯一にして絶対のルイズの魔法。
今まではただの失敗としか捕らえていなかったが、なるほど。
自在に爆発を起こせるのなら確かに使いようはある。
だが、悲しいかな。
「これにはついてこれまい!!」
エア・カッターとエア・ハンマーを同時に唱える。
殴りつけ、切り刻む。
“ライン”だからこそ出来る上等戦術。
どちらか一方を爆砕したところで手痛い損害を被る筈。
そう思って唱えられたそれを、ルイズは表情も変えずに“二つの爆発”でもって迎撃した。
「……何だと?」
今自分は二つの風系統魔法を同時に使用した。
それをルイズは二つの爆発で迎撃した。
それはつまり。
「そんな、まさか、ありえない!!」
一つの魔法すら満足に行使できないルイズが二つを重ねる事などできるはずが無い。
いや、出来てはならない!!
あれはきっと一つの魔法が分岐しているに違いない。
ギーシュのワルキューレが一度に何体も錬金できるように、恐らく一つの魔法で二つの爆発を起こしたんだ。
そうでなければあいつが“ライン”である事になってしまう。
そんなことはあってはならない。
想定外のことにヴィリエは焦り始めた。
こんなはずではなかった。
あっという間に事を終わらせ、全力を出す前に愉悦に浸るはずだった。
ところがどうだ?
今ルイズはピンピンしているではないか。
その歩みを止めようとしていないではないか。
落ち零れのくせに落ち零れのくせに落ち零れのくせに!!
そうヴィリエが歯噛みした時、ふと視界には未だに暴れ続ける平民、サイトの姿が映る。
途端、天啓のように閃いた。
「動くなルイズ、それ以上近づくんじゃない」
ヴィリエのやや上ずるような声。
ルイズは全く気にしようとせず突き進む……ことはしなかった。
「………………」
ルイズは言われた通りにそこで止まる。
「そうだ、ははっ!! いいぞ!! そこを動くなよ? いや、やっぱり動いても良いぞ?この薄汚い平民がどうなってもいいならな!!」
ヴィリエはサイトに杖を向けていた。
満足に動けぬサイトでは、それを回避することなど出来ないだろう。
「………………」
ルイズは黙ったままサイトとヴィリエを見つめる。
それは、もし万一サイトにこれ以上何かしたらその時は容赦しないという意思表示のようでもあった。
それを読み取ったヴィリエは、
「安心しろよ、お前が言う事を聞けば何もしやしないさ、そうだな、まずはその場で土下座だ」
楽しそうにヴィリエは笑いながら命令する。
ルイズは何を言うでもなく、その場に膝を付いた。
スカートの裾は草に触れて汚れ、露出している膝下は地べたに直接付く。
「ふははははっ!! いいぞ、そのままちゃんと頭も下げろ!!」
調子に乗ったヴィリエは命令をエスカレートさせていく。
ルイズは言われるがまま頭を下げた。
「良いぞ、良いぞ良いぞ!! 最初からそうしてりゃ良かったんだよ!!」
ヴィリエは笑い、杖を振るう。
途端飛んでいく風の刃。
「……っ」
ルイズのマントが、スカートが切り開かれる。
少し大きめにルイズの太ももが露出した。
しかしルイズは微動だにしない。
「どうした? 恐くて声も出ないか? 全く僕を怒らせなきゃこんな事にはならなかったんだぞ?」
ヴィリエはまた杖を振るって魔法を唱える。
「っ!!」
強い風に殴られるようにルイズは吹き飛び、数m先に倒れる。
「ほらどうした? 土下座の体制が崩れているぞ!!」
ルイズは起き上がりながら、大事なものなのか右手首のブレスレットを気にしている。
今度はアレを狙ってやろう。
「そら!!」
ルイズはまた転倒する。
「ははははは!!」
彼は今最高潮だった。
多少予定は変わったが、これで元の計画に大筋戻った。
故に、たった一つ、失念していたことがある。
それは彼にとって既に些細な事。
いや、信じていなかった事と言ってもいい。
「……てめぇ、ふざけんなよ」
自身が捕らえていた平民の使い魔。
彼がギーシュの作った剣で自分の魔法を切ったことを。
『お? お? おおおおお? 来やがったのか相棒!? おおおおおお? そうだ、心を奮わせろ!! その分おめぇさんは強くなれる!!』
キィンと音が鳴って背中の剣、デルフリンガーが抜けるのと同時に、サイトの手首を縛り付けていた風が消える。
『こんなチャチな魔法、吸収するまでもねぇんだが、まぁいいか!!』
そんな、本人にとってはどうでも良く、しかしヴィリエにはとうてい看過できない事柄が起きる。
「ば、馬鹿な? 一体どうやった?」
「うるせぇ!!」
サイトがデルフの柄を掴み、構える。
途端。
『うおっ!? キタ───────!!!!』
デルフの叫びと共に刀身錆びだらけだった剣が光り輝いていく。
「な、なんなんだよお前!!」
ヴィリエは杖を振ってエア・カッターを放つ、が。
それはサイトの構えた剣の前で霧のように消滅した。
『おめぇのちっぽけな魔法は全部喰っちまったぜ』
デルフが現状を簡単そうに説明するが、ヴィリエにとってそれは死活問題だった。
魔法が利かない?
馬鹿な、そんなことがあってたまるものか!!
いや、待てよ? 魔法が利くやつなら他にいるじゃないか!!
ヴィリエはそう思ってルイズに振り返ろうとした時、
「ルイズは傷つけさせねぇ!!」
サイトが飛び掛ってくる。
「う、うわぁ!?」
ヴィリエはサイトに向かって杖をがむしゃらに振る。
いくつか飛び出すエア・カッター。
それを、
「喰らい尽くせ、デルフ!!」
剣は全て吸収する。
ヴィリエはあまりにがむしゃらだった為、足がもつれて転んでしまった。
「いたたた……」
一瞬目を閉じ、次に開いた時、自分は杖を突きつけられていた。
「もう一度言うわヴィリエ、覚悟はいい?」
「ひぃっ!?」
それは最後通告などという生易しいものではなく、ただの宣告だった。
首に杖を突きつけられ、何ともわからないルーンが耳を通り、
「貴方は合計でサイトを“五回も”薄汚いと言い、サイトの血を“三回も”汚いと言った。あまつさえこのブレスレットめがけて魔法を放った」
────────千度殺しても気がすまないわ。
声無き声と同時に、杖の先が爆発する。
「なっ!?」
流石にサイトはそれに驚き、しかしそれよりももっと驚くべきことに、
爆発を受けたヴィリエの体が消えてしまっていた。