第十六話【外出】
平賀才人は混乱の極みにあった。
……なんか、この世界に来てから毎朝こんなのばっかりだ。
しかし今朝はこんなのばっかりなどとは言っていられない。
刺激が強すぎる……否、刺激というレベルを突破しようとしている。
まず、白く細い腕が自分の背中に回っている。
それはまぁいい、経験済みだ。
次に細くしなやかな素足が自分の足を絡めるようにしてくっついている。
これは非常に高度な精神安定を必要とするが、なんとかかんとか耐えられるレベル。
恐らく一度初めての朝に体験し、耐えきったという経験がそれを可能たらしめている。
連日続けば自信は全くこれっぽっちも無くなるが。
問題は……小さい唇から断続的に吹きかけられる吐息が自分の顔間近にあるということだ。
前も確かそうだったが、これはマズイ。
ヒッデョーニマヅイ。
言葉がおかしくなるくらいマズイ。
相手は寝ているのだ無防備なのだ可愛いのだ。
薄桃色の唇が定期的に吐き出す吐息がくすぐったい。
が、コレも経験済みだと侮っていた。
そう、侮っていたのだ。
「ん……」
彼女の寝相の悪さ?はとどまるということを知らない。
サイトは思う。
ルイズは恐らく、抱き枕が無いと寝れない体質か何かだったのだろうと。
そうでなければ、そう思わなければ耐えられないしやっていられない。
「んん……」
彼女はその……最早近いのではなく、“接触”しているのだ。
彼女のその小さい鼻はサイトの胸に、肩にすり寄せられていく。
いや、“吸い寄せられる”と言った方が正しいのかもしれない。
彼女は時々寝返りを打つように顔を離す。
しかし、何故かはわからないが、急に表情を強ばらせ、クンクンと鼻を鳴らしてサイトの体に再び鼻を押し当てるのだ。
(寝てる間、ずっとこれをやっているのか……?)
サイトは心境複雑になる。
もし、ルイズが今のこれに慣れてしまって、以前使っていたと“思われる”抱き枕で満足出来なくなった時、常習化したこの添い寝は必須になってしまう。
サイトはあまりそういうことは無いが、友人には枕が変わると寝られない、と言うような奴が何人かいた。
ルイズも恐らくそのクチではなかろうか。
ルイズがサイト無しで寝られなくなった時、自分が元の世界に帰られるか疑問に思う。
帰りたいとは思うが、流石に彼女が寝られなくなるのもまた困る。
段々彼女の鼻を押し当てる位置が上ってきたり下降したりするのに冷や汗を掻くのも困る。
一応、世話にはなっているのだ。
あまり薄情な真似はしたくない。
昨夜は、お風呂での熱心な介護?にほだされて同衾を許してしまったが、今夜からは少し考えようか、そう考えをサイトは改めた。
……それが、更なる泥沼を生み出す事になるなどとは、この時は露程も思わなかった。
***
最高だ。
ルイズは目が覚めてからそう思う。
朝目を覚ませばそこにサイトがいる。
これ以上の幸せがあるだろうか。
「おはようサイト」
「おはよう」
返事が返ってくる事に再び歓喜。
いくらお金を払っても買えない価値がここにあった。
公爵家という地位を用い、財をいくら注ぎ込もうとこれ以上のものは得られない。
「ん、お願い」
ルイズは腕を伸ばす。
しばしサイトはボケッとし、次いで慌てて、
「あ、着替えか」
得心したようにベッドを降りた。
それが彼女をまた喜ばせる。
意思疎通が出来、かつ彼は自分が起きるまでベッドにいたと。
真実は彼女が信じられないほどの力でサイトを掴まえていたからなのだが、それを彼女が知る日は今の所無い。
ルイズは彼に触れられながら服に袖を通し、彼の黒い髪を見つめながらボタンを締めてもらう。
彼女の長い桃色のふんわりとした髪を櫛梳いてももらう。
そうして、今の彼女が着ている学生服はサイトが洗濯し、サイトが身なりを整え、サイトが着せた物一色となる。
それが、さらにルイズの心の震えを強くする。
「ありがとう、それじゃあ昨日言ってあった通り町まで行きましょうか」
「ああ、それはいいんだけど、“虚無の曜日”ってなんなんだ?」
「“虚無の曜日”というのは週のお休みの日のことよ。この日にみんな遊びに行ったり買い物に行ったりするの」
「日曜日みたいなもんか」
「“にちようび”? よくわからないけど多分そうだと思うわ」
そう簡単な説明が終わると、二人は馬を借りに行く。
「車じゃないのか?」
というサイトの質問に、
「“くるま”? ああ、あの馬より速いという乗り物ね。ハルケギニアでの移動はもっぱら馬か竜、あとはグリフォンのような幻獣なの。サイトの言う“くるま”という生き物は聞いたことが無いわ」
ルイズはそう応え、サイトが苦笑した。
「車は生き物じゃないんだ。魔法の力も使わずに速く移動できる機械の乗り物、かな」
普通のハルケギニアの人間、もしくは以前のルイズならサイトの言葉を疑い、鼻で笑うような説明だが、このルイズはサイトのその言葉を素直に受け止めた。
その理由の一つに、彼女は『ゼロ戦』を知っているというのがあげられる。
実際に目にしているのだ。
グリフォンや竜よりも速く、魔法でもない乗り物を。
「へぇ、サイトの世界は凄いわね」
ルイズは楽しそうに微笑み、馬を“一頭だけ”借りた。
「一頭だけなのか?」
不思議そうにするサイトに、
「だってサイト“まだ”乗れないでしょ?」
ルイズの言葉に、サイトは頷いた。
生まれてこのかた馬など乗った事が無い。
イキナリ乗れと言われても、憧れはあるが、上手く行くかの自信は無い。
「乗り方は今度教えるから、今日は一緒に乗らないと」
ルイズはそう微笑み先にサイトを馬に乗せる。
「わっ!? とっとと!?結構バランスが難しいな、これ」
「大丈夫、私が前に乗るから掴まって」
ルイズはそう言うと、一瞬口端をつり上げ、しかしそれを慌てて隠して馬に跨り手綱を握る。
「おわっ!? ちょっ!?」
「掴まって」
「悪い!!」
サイトは言われるがままにルイズに掴まり何か少し柔らかい物を……「あぁん」……あぁん?
サイトは後ろから腰に手を回すように掴まった“つもり”だったのだが、今の変な嬌声は……。
「……えっと? 俺いまモシカシテ……」
「さて、行くわよサイト。しっかり掴まってるのよ」
ルイズはサイトの質問には答えずに、馬の横腹を蹴る。
途端に馬は動き出し、慌てたサイトはルイズをぎゅっと掴む。
もちろん、さっきより手の位置は念の為に下の方。
それにルイズは何を言うでもなく、馬を走らせる。
……未来を知っているという役得は、昨夜も含めて存外あるものだ、とルイズは内心で喜びながら。
***
ルイズとサイトが出発してほどなく。
「モンモランシー、君は今日も薔薇のように美しいね」
「もう、ギーシュったら」
気障ったらしい台詞を言う金髪の少年と長い金髪を縦にロールした細見の少女が馬小屋に近づく。
少年は、胸は白く開いたヒラヒラ付きのワイシャツにマントを着けていた。
「今日は一緒に町まで行く約束だったねモンモランシー」
その少年、今二年生では知らない者はいないと言うほどの有名人、ギーシュ・ド・グラモンは一緒にいる少女、モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシに楽しそうに話しかける。
「そうね、最近の貴方は忙しそうだったものね」
少し棘のある言い方でギーシュはモンモランシーに睨まれる。
「おお、許しておくれモンモランシー。君だって見ていたのだからわかるだろう?」
「ええ、あの場は確かにしょうがなかったし、カッコ良かったわ。でもそれを聞いた他の女の子達が次々とギーシュと食事したりしてるって聞いたけど?」
ギロリと視線が一層厳しくなる。
「そ、そそそれは誤解だよモンモランシー!! 彼女たちとは何でも無いんだ、本当さ!! だからこうやって今日君と一緒に町まで行くんじゃないか」
「そうね、今日はトリスタニアのブルドンネ街だったかしら」
二人はそう会話しながら馬を借りる。
「はい、グラモン様とモンモランシ様ですね、どうかお気を付けて」
大きい麦わら帽子を被り、作業着のようなものを着た馬の世話役兼貸し出し役の男はそう言うと、二人に馬を貸し出し、見送った。
「しっかし、虚無の曜日は貴族が馬をよく借りにくるよなぁ」
世話役の男は頭を掻きながら先程馬を借りた二人を名簿に記入する。
馬の使用記録簿は念の為に世話役の男がつけるようになっていた。
「さっきはヴァリエール嬢が借りに来たし、今度はグラモン家の四男とモンモランシ嬢ときた。俺等平民に虚無の曜日は関係ねぇなぁ」
無論、振替のようなもので休みがあったり、給料は高かったりするが、みんなが休んでいる時に働くというのは少々辛いものだ。
「今朝は早くに他にも女の子が馬を借りに来てたしなぁ、全く貴族ってのは羨ましいや」
そう世話役の男はぼやく。
名簿の一番最初には、
ケティ・ド・ラ・ロッタ
と書かれていた。