「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラ、オラァッ!!」
ああ、やっぱストレス解消にはこれが一番だぜ!
そんな愉快痛快な叫びを心中で上げつつ、息もつかせぬ拳打のラッシュを叩き込み、よろめいた所を顔面への渾身のストレートで締める。
哀れな犠牲者は血と歯を飛び散らせながら後方に数メートルほど吹っ飛び、薄汚れたコンクリの壁面に衝突した後、ズルズルと力なく崩れ落ちた。
そんな様子を他人事の様に眺めながら唸り、返り血の滴る拳をゆっくりと引っ込めて、前田啓次はしみじみと一人呟いた。
「オレってさァ、やっぱ強ェんだよな。……まァそれなりにゃ」
つい今しがたノックアウトした男の他に、啓次の周囲には十数人ほどの同年代の男共が気を失って転がっている。
連中は揃って、頭に包帯を巻いて集合場所に現れた啓次の姿を嘲笑い、侮辱的な野次を飛ばしたのだ。
喧嘩っ早さに定評のある啓次の血管がブチ切れたのは当然と言えよう。その必然が生み出したのが、目の前に広がる惨状という訳だ。
「見ろよアイツ、一人であんだけの人数やっちまいやがったぜ……」
「マジかよ、バケモンじゃねぇか」
「おいおい、しかもあいつ怪我してるじゃんよ。ひょっとして俺らのボスより強いんじゃねーの?」
「ギャハハ、バッカ、さすがにそりゃねぇって!」
どうやら知らずの内に注目を集めていたようで、周囲に集ったギャラリーからは賞賛と畏怖のどよめきが聞こえてくる。
まあ、さほど広くもない廃工場の中で一対十八の乱闘を演じたのだ。暴力の匂いに目が無いこの連中の注目を浴びるのは当然の話か。
数時間前の自分なら、連中の反応に対して素直に浮かれて調子に乗れたんだがなァ――と啓次は苦い感情と共に思う。
十八人の男を問答無用で叩き伏せ、地に這い蹲らせた拳。
それが掠りもしない本物の“バケモノ”が存在することを知ってしまった今となっては、連中の頭の悪い褒め言葉など虚しく感じてしまう。
つい先刻まで、前田啓次は自分の力に絶対的な自信を持っていた。事実として喧嘩に敗北したことは一度もないし、自身を上回る力の持ち主に出逢った事もなかった。
わざわざ家を出奔して県外の高校に進学したのは、地元には居ない強者との闘いを求めたからでもある。
「強ェ奴と会えたのはイイけどよォ。あんなケチがつくとはなァ」
自分の力は何処に行っても通用すると信じ込んでいた。
世界は広く、自分より強い奴もいるかもしれない。しかし、相手が誰であろうと自分ならば楽しい勝負が出来るに違いないだろう―――この堀之外に越して来た一週間前の時点で、啓次の抱いていた認識はその程度のものだ。
甘かった。啓次の苦手とするカルーアミルクすら霞んで見える程の、激烈な甘さだった。
辿り着いた新天地で啓次が遭遇した初めての“強者”は、楽しい勝負どころか、勝負すらもさせてはくれなかった。
全力で繰り出した自慢の拳は初撃の時点で完全に見切られ、いとも容易く空を切る。お前の拳などわざわざ防ぐ必要すらないと言わんばかりに、相手は終始コートのポケットから両手を出そうとしなかった。
根本的な実力差を嫌と言うほど思い知らされる、余裕に満ち溢れた態度。今こうして振り返って見ても、初めから勝負として成立していなかったのは明らかだった。
アレは遊びだ。最初から最後まで、徹頭徹尾これ以上なく完膚なきまでに、遊ばれていた。事実、奴が「飽きた」と口にした後の展開は……正直、思い出したくもない。
「井の中の蛙、かァ。自分じゃ分かんねェもんだな」
上には上がいる。そのまた上には上がいるのだろう。
啓次の想像を遥かに超えて、世界は広大だった。あのまま地元でお山の大将を気取っていては何時まで経っても気付けなかったであろう事だ。
今回の一件で自身のどうしようもない未熟さを自覚できた分、自分は運が良かったのかもしれない。
血塗れの拳を見つめながら感慨に耽っていると、何やら周囲が騒がしくなってきた。
「あ、アレは……」
「ボスだ、ボスのお出ましだぜ」
「ん?」
啓次は眉根を寄せた。郡を為すチンピラ連中の間を抜けて、誰かがこちらに向けて歩み寄ってくる。
その何者かは、カツン、とコンクリの床で高らかに靴音を響かせながら、啓次の目の前で立ち止まった。周辺の床の上で白目を剥いて気絶している男達を冷たく一瞥した後、啓次の顔を下から覗き込むようにしてジロジロと無遠慮に眺める。
「何だか騒がしいと思ったら……はぁ。キミ達、味方同士でなにやってんの?これだから脳味噌まで筋肉で構成されてる連中は困るよ」
「あァ?」
ああなんだ喧嘩を売られているのかじゃあ取り敢えず泣くまでブン殴っとくか、と殆ど反射的に動きそうになる拳をどうにか抑えて、啓次は状況把握に努める事にした。
何の遠慮も躊躇も抱かずに殴り飛ばすには、眼前の相手の容姿が問題だ。何と言っても、パッと見た感じでは自分よりも年下の、小柄で線の細い少女である。
全体的な雰囲気を一言で表すなら、猫っぽい。特徴的な猫目で、その上結構な猫背だ。
加えてどういう訳だか袖の余りまくったダボダボのコートを羽織っており、ただでさえ小柄な背丈がますます縮んで見える。男の中でも比較的長身の啓次と対峙すると、軽く頭一つ分以上の身長差があった。
「何だテメェはよ」
どう考えても一度でも見たら忘れられないタイプの人間だが、生憎と見覚えはない。
そんな啓次の反応に対して、少女は心底呆れたような声を上げた。
「ハァ?何だ……、ってキミ、いかにも脳筋っぽい顔してるけどさ、流石にボクを知らないとか言い出さないよね」
「……クッ」
鎮まれ、俺の右腕。隙を見ては啓次の理性を無視して動き出しそうになる拳を抑え込む。
いかに喧嘩っ早い啓次と言えど、女の、しかも子供を相手に拳を振るうような真似はNGだ。男としての美学に反する。
「知らねーな。んで、何か文句でもあるってのかよ、あァ?」
「……。呆れて言葉が出ないな。一応、キミが現在進行形で所属してるグループのリーダーをやってる筈なんだけど」
「あ?リーダー?って事は何だ、テメェが“黒い稲妻”のボスなのかよ」
啓次が不良仲間を通じて“黒い稲妻”を名乗るグループの勧誘を受けたのは、確か三日ほど前の事だったか。
根無し草の一匹狼を自認する啓次としては、当初は特定の組織に属する気は無かった。
ただ好きな様に暴れるだけで構わない、束縛は一切しない――と説得されて軽い気分で加入したが、仲間になったつもりなどまるでない。
そういう背景もあって、啓次にしてみれば自分が“黒い稲妻”の一員であるという意識は底無しに低かった。今回のような集会に参加するのも初めてであるし、当然の如くボスの顔など知る筈もない。
それに、この貧弱そうな少女を一目見ただけで不良グループのリーダーだと判断するのは難しいだろう。
まじまじと改めてその場違いな姿を眺める啓次に、少女は不愉快げに鼻を鳴らした。
「何さ、キミも女のリーダーは認めないってクチなの?そういうの、いい加減ウンザリしてるんだけど」
「あー。いーや、そうじゃねェんだがな……」
いまいち整理し切れていない部分に触れられて、啓次の返答は歯切れの悪いものとなった。
「ふーん、ちょっと驚き。キミみたいなタイプは兎にも角にも、人を外見で判断する場合が多いからね」
意表を突かれたらしく、少女は少しだけ意外そうな顔だった。実際、数時間前の自分なら間違いなく舐めて掛かっていたであろう事を思えば、文句を付ける気にもなれない。
武力か知略か。この少女が何を以って粗暴者揃いの不良グループをまとめ上げているのかは判らないが、“何か”がある事だけは間違いないだろう。
―――もっとも、それがあのバケモノに対抗出来るほどのモノだとは、到底思えないが。
「ちょうど良かったぜ。アンタがボスだってェなら、ここで言っとくわ」
だからこそ、啓次は現在こうしてこの場所に立っている。わざわざこの集会に顔を出したのは勿論、ここに屯している連中に対しての仲間意識が芽生えたからなどではないのだ。
「んん?まあいいや。何?」
「入ったばっかでナンだけどよォ。オレ、今日限りでこのグループ抜けっから」
ちょっとコンビニ行ってくる、と同じ程度に軽いノリで告げる。
案の定と言うべきか、その言葉に対して眼前の少女が何かしらのリアクションを見せるよりも先に、周囲の取り巻きが喧しく騒ぎ始めた。
「あぁ!?なにフザケた事抜かしてやがんだてめぇ!」
「新入りが調子乗ってんじゃねーぞコラ」
「なになに、“教育”すんの?しちゃう感じぃ?オレも混ぜてくれよ、ぎゃははっ!」
口々に罵声を上げながら啓次を取り囲む。次いで、騒ぎを聞きつけた廃工場内の連中が次々と集まって来る。
彼らは裏切り者に対する怒りで表情を歪ませる――などという事もなく、むしろ大部分の連中は獲物を見つけた喜びに高揚し、ニヤニヤと残忍な笑みを浮かべていた。
“黒い稲妻”のメンバーの共通項は一つ。一方的な暴力の捌け口を常に求めていると言う点である。
「けっ、どうやら今度は一対十八どころじゃァ済まねェか」
黒い稲妻というグループの構成人数など把握していないが、ざっと見ただけでも百人は下るまい。
まあその程度は最初から覚悟していた事だ。たまには百人組み手と洒落込むのも悪くはない。
啓次はボキボキと骨を鳴らしながら、獰猛な笑みを浮かべた。その心中に恐怖心などはこれっぽっちもない。ひたすらに湧き上がる心地良い闘志に身を委ねるだけだ。
どれほど手酷く叩きのめされようが、そうそう簡単に性根が変わる事はない。結局のところ、前田啓次は真性の戦闘狂だった。
「さっさと掛かってこいや、タイマン張る度胸もねェチキン野郎共!後腐れなくぶっ潰してやっからよォ!」
怒号のような啓次の挑発が廃工場を反響し、空気が張り詰める。
「言ってくれるじゃんよ、ああ!?」
「ぶっ殺し確定!二度とオレらにナメた口効けねーようにしてやるよ」
一発触発の事態だ。誰かが何かしらの行動を起こせば、そのまま大乱闘に突入することだろう。
じりじりと包囲網を狭めてくる連中に対し、先手を打って自分から仕掛けようと、啓次が大きく息を吸い込んだ時であった。
「はぁ……あのさ。両方とも、少し待ってくれるとボクとしては嬉しいんだけど」
今の今まで沈黙を保ってきた猫目の少女、黒い稲妻のトップが口を開く。その声音は酷く気だるげで、彼女が現在の状況を少なからず面倒に感じている事は明白だった。
「ハァ?ボス、ここまで来てそりゃないッスよ―――」
さながら、餌を目の前にお預けを食らった犬である。連中の中の一人が、あからさまに不満たらたらの様子で少女に食って掛かった。
否、食って掛かろうとした、と言うべきか。
「はぁ。誰が口答えしていいなんて言ったのかな」
馴れ馴れしく少女の肩に手を掛けようとした男は、次の瞬間には肋骨のへし折れる嫌な音を引き連れて宙を舞っていた。
啓次は驚愕に目を見開く。人体一つを高々と宙に浮かせた少女のモーションが、全く視えなかったのだ。
それが溜め無しで繰り出された前蹴りだった、と認識出来たのは、少女のしなやかな脚が天に向かって伸びているのを確認してからの事だった。
腹部への一撃で完全に意識を刈り取られたらしく、男は受身を取る事もなく落下。コンクリートの床に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「ふん。リーダーのお願い一つ素直に聞けない愚図なんて、ボクのグループには要らないんだよ。……そのくらいの事、他のみんなは分かってるよね?」
意識を失っている男の頭を容赦なく踏み付けながら、少女は酷薄に目を細めて周囲を見渡した。
無言。誰も彼もが目を逸らし、彼女と真っ向から視線を合わせようとはしない。些細な理由で仲間が足蹴にされている状況も関わらず、反抗する者は皆無だった。
小柄で細身の少女一人に、百人を超える不良達が完全に呑まれている。
啓次はどこか目の覚めるような気分でその光景を眺めていた。
そう、これだ。これこそが本物の“力”だ。
この少女が持つ力は、有象無象が振るう只の暴力とは一線を画している。まさしく、一線を踏み越えた先の領域に存在していた。
ただ一撃を放つだけ。ただそれだけで、対峙した相手のみならず、見る者全てにその圧倒的な武の実力を悟らせるソレは、あの男が啓次に対して振るったものと同質だ。
「さてと」
少女の眠たげな双眸がこちらに向けられ、啓次は素早く身構えた。油断の許される相手ではない事は十二分に承知している。
「やっと落ち着いて話ができるよ。それじゃあ、ゆっくり聞かせて貰おうかな」
「……あァ?」
しかし、どうやら相手には今のところ争いの意思は無いらしかった。拍子抜け半分、安堵半分といった気分で啓次は力を抜く。
はっきり言って眼前の少女は、今の自分には少しばかり勝ち目の薄い相手だ。
強者との闘いは望む所だが、それはあくまで“闘い”として成立している場合においてである。戦闘狂だろうが何だろうが、一方的に嬲られて楽しめる道理はない。
「聞くっつってもよ……何を聞きたいってんだ」
「勿論、理由だよ。キミがボクの“黒い稲妻”を抜けたいと思う、その理由さ。リーダーを務めてる身なんだ、グループの何が不満なのか気になるのは当然の話でしょ?」
そんな風に答える少女の表情は、妙に白々しく、どこか嘘っぽさを感じさせた。少なくとも本心を話している訳ではないのだろう、と啓次は当たりを付ける。
まあ彼女が内心で何を企んでいようとも、別に自分には関係のない事だ。わざわざ喧嘩を仲裁してまで“それ”を聞きたかったと言うのなら、素直に答えてやるとしよう。元より、特に隠し立てするような大した理由でもない。
「オレぁよ、ちょっと前まで自分こそが最強の男だと思ってたワケだ。だから、どんな無茶だろうが平気でやってこれた」
「んん?ちょっと、ボクは質問に答えて欲しいんだけど」
「まあそう焦んなや。オレぁ頭が良くねェんだ、筋道立てて話すなんざ無理な注文だぜ。まだるっこしい話を聞きたくねェってんなら質問は取り下げな」
「……いいよ。キミの好きな様に話せば?」
「へ、言われなくてもそうするぜ。……んで、オレはある男にブチのめされて、ちったァ自分の力ってもんを計れるようになった。そこでオレは初めて、今までどんだけ危ない綱を渡ってきたか分かってきたのさ。情報屋に改めて話を聞いてみりゃ、堀之外っつー街にゃヤバい奴らがうようよしてやがる。シマを荒らした相手は誰だろうが容赦なくぶっ潰す、そんなイカれた連中がよ」
啓次の乏しい記憶力ではごく一部の“イカれた連中”の名前程度しか覚えられなかったが、その情報だけでも十分過ぎる。
堀之外を暴力と享楽で纏め上げる表の支配者、板垣一家。
絶対的な恐怖を以って秩序を保つ裏の支配者、織田信長。
いいかお前さん、何があっても絶対にこの連中には逆らうなよ――と情報屋は冷や汗混じりに忠告してきたものだ。既にその片方に喧嘩を売ってしまった後だ、とは流石に言えなかった啓次であった。
「そんでもって、もう一つ大事なことが分かっちまった。ここ最近、その連中の縄張りをあちこち引っ掻き回してる命知らずな連中がいるらしいってな。確か、ブラックなんとかっつー名前のグループだったか?」
「ふーん。成程ね。それでキミは怖くなっちゃって、巻き添えを食らわない内に尻尾を巻いて逃げ出そうと思ったワケだ。なんとも男らしい事だね」
「あァ……?」
少女の言葉に、啓次は眉根を寄せる。本来ならば一瞬で血管がブチ切れるような皮肉だったが、今回に限っては戸惑いが激昂を凌駕した。
どういう訳か、嘲笑うような言葉の内容とは裏腹に、彼女は感心したような表情を浮かべていたのだ。
その態度にどうしようもない違和感を抱えながら、啓次は言葉を続けた。
「今のオレは自分が最強じゃねェことを嫌ってほど知ってんだ。それに、オレはいつかゼッテーに“あの男”の居る高みまで這い上がるって決めちまったからよ、こんな所で潰されて終わるワケにゃいかねェ」
「何だぁ。ごちゃごちゃ言っても結局はビビってるだけじゃねーか、腰抜け野郎が!」
「ギャハハ、ダッセェ!」
周囲の連中から野次が上がると、それを皮切りに次々と嘲笑の声が飛び交い始める。瞬く間に悪意に満ちた不快な笑い声が廃工場を埋め尽くした。
「けっ、笑いたけりゃァ好きにしやがれ糞ッ垂れども。いつかオレが最強になった時、オレを笑ったことを存分に後悔させてやっからよォ!」
啓次が吼えると、連中の下品な笑い声は益々そのボリュームを上げた。
構いはしない。所詮は負け犬の遠吠えに過ぎないことは誰よりも自分が理解している。
今はまだ、負け犬でいい。いつの日か、この屈辱と怒りを糧にして、前田啓次は獅子へと大成してみせよう。
「あのさ」
男達の下卑た笑い声の渦巻く中、少女が気難しい顔で声を掛けてくる。
「ちょっと気になったんだけど。キミの言う“あの男”って、もしか」
そこまで言ったところで、少女は不自然に言葉を打ち切った。
訝しがる啓次を余所に、猫に似た目をカッと見開き、見えない何かに怯えるように大きく跳び退って、廃工場の玄関口に当たる鉄扉を注視する。
その扉が軋んだ音を立てて押し開けられた時、啓次はようやく少女の行動の意味を理解した。
文字通り、身を以って。
「ふん、此処で正解だったらしいな。宇佐美巨人の当てにならん情報も、稀には役に立つ」
己の身体と共に周囲の空気が瞬時にして凍り付く、異様な感触。それは、啓次にとってはどう足掻いても忘却し得ない感覚だった。
あれほど喧しかった笑い声も、誰かが一時停止ボタンを押したかのようにピタリと止まっている。
唐突且つ不自然な静寂に支配された第十三廃工場に、二つの靴音だけが鮮明に響いた。
「主。念の為、先ずは確認を取られるのが宜しいかと存じます。……流石に間違って斬り捨てたとあっては不憫です」
「ふん。斯様な時刻、斯様な場所に屯する連中の身など、預かり知らん事」
男が一人に女が一人。啓次にとっては決して見間違えようのない二人組―――織田信長とその従者、森谷蘭。
堀之外における恐怖の象徴として君臨する主従は、何ら気負った様子もなく、埃の積もったコンクリートの上を悠然と闊歩する。
「お、おい、何だテメーらは!」
「俺達のアジトに勝手に踏み入っていいとでも思ってんのかよ、ああっ!?」
そんな中、異様な雰囲気に呑まれまいと、メンバー数名が怒鳴り声を上げながら侵入者に詰め寄った。
そのあまりに命知らずな姿が数時間前の自分と重なって、啓次は思わず警告の声を上げようと口を開く。
しかし、それも既に手遅れだった。信長は眼前に立ち塞がる男達を、ゴミでも見るような冷酷な眼で一瞥した。
「頭が高い。控えろ」
その瞬間、何が起きたのかを正しく理解できた人間は恐らく啓次だけだろう。
まるで信長の有無を言わせぬ声音に従うかのように、男達の身体が次々と床へ崩れ落ちた。
「な、何アレ……」
啓次の横で、少女は顔を強張らせ、呆気に取られたように呟く。
床に倒れ込んだ男達は、誰も彼も口から泡を吹いて気絶している。そんな彼等の身体を踏み付けながら、信長は何事も無かったかの如く歩みを再開した。
もはや“黒い稲妻”の誰一人として、彼等を妨げようと動く者はいない。あたかも呪いによって物言わぬ石像と化したかのように、口を開くことすら忘れている。
「面倒至極ではあるが、訊いてやるとしよう」
そして、彼と彼女は廃工場の中央にて足を止めた。
誰もが彼もが硬直する中、一人の少女だけが全身の毛を逆立てるような調子で警戒心を露にし、姿勢を低くして身構えている。
その様子を見て何かしらの判断を下したらしく、二人組は少女に注意と視線とを向けた。
「偽証は死と同義と思うがいい。心して答えろ――貴様等は、“黒い稲妻”に相違ないか」
「フーッ、……うん、そうだよ。間違いない。一応名乗っておくよ。ボクはリーダーの明智音子さ」
「認めるか。くく、潔い事だ。同時に、愚かでもある」
「そう言うキミは、かの有名な織田ノブナ……ッ!?」
言い終えるよりも前に、爆発的に膨れ上がった殺気に貫かれ、啓次も少女も絶句した。恐らくは呼吸すらも止まっていただろう。
「ふん。記憶しておけ。俺の勘気に触れたくなければ。二度と、俺の姓名を、続けて、読むな」
心臓が凍るような恐怖に支配され、指一本動かす事すら適わない。
傍で巻き添えを被っているに過ぎない啓次ですらこの有様だ。真正面からその殺気を浴びせ掛けられている少女――ねねにはどれほどの負荷が掛かっているのか、想像すらしたくない。
今の織田信長が身に纏っている張り詰めた殺気に較べれば、先刻、親不孝通りで浴びせられた殺気など生温くさえ思える。所詮、この男にとっては啓次の相手など、正しく児戯に等しかったと言う事か。何とも笑えない話だった。
「バケモンにも限度があるだろーがよ、クソッ」
啓次は固まった舌を無理矢理に動かして、小さく毒づいた。その呻きを聞き咎めたのか、欠片の感情も宿さない双眸が啓次を射抜く。
「ほう。くく、これはまた、随分と早い再会だ。さて、貴様がこの連中の同志だとするならば。折角拾った命を早くも無駄にする羽目になるが、如何」
淡々と語り掛けるその言葉にも、表情にも、怒りや失望と言った感情は見受けられなかった。ただ事実を事実として確認しているだけの、無機質極まりない質問。
だからこそ、啓次の返答次第では、本当に何の情け容赦もなく命を刈り取られるだろう。こうして強烈な殺気に曝されている現在では、容易に想像できる情景だった。
「オレは、」
「ちょっとちょっと、冗談はやめてよ。コイツはね、ゴミ同然の裏切り者で、これから皆で自分の立場を思い知らせてやろうとしてたんだ。キミ達が見事にいい所で邪魔に入ってくれたけどね」
どうにか口を開きかけた啓次に被せるようにして、ねねが声を張り上げた。信長の冷たい視線が数秒ほどねねを捉え、そして背後に控える従者に向けられる。
「蘭」
「ははっ、承知致しました!蘭は只今を以って、彼を殲滅対象より除外します」
……これは、少なくともこの場における身の安全は保障されたと考えていいのだろうか。いまいち状況が掴めないが、雰囲気から察するにそういう事なのだろう。
主従の遣り取りを見届けながら、啓次は小さく息を吐き出した。
ふと、小柄な姿が視界に映る。真っ向から織田信長と対峙する猫目の少女。
ねねの先程の発言は、自分を庇おうとしてのものなのだろうか。何分、彼女に庇われる理由としては全く思い当たる節が無いので、いまいち確信が持てない。
ねねはグループ“黒い稲妻”のリーダーだ。どう転ぼうが、啓次の様に見逃される事は有り得ないだろう。
啓次にしてみれば別に彼女を心配する義理はないし、理由もない。仮に心配してみたところで何か現実的な意味がある訳でもない。
何にせよ、この場における前田啓次の役割は終わったのだろう。望むと望まざるに関わらず、傍観者として状況の推移を見守る事しか出来ない。
「クソッタレがっ」
何故だか湧き上がる腹立たしい気分に任せて、啓次は自分にしか届かない小声で吐き捨てた。
「……それで?堀之外の裏の顔が、こんな辛気臭い所に何の用なのさ。一応言っとくけど、この秘密基地は部外者立ち入り禁止だよ」
猫っぽい茶色の目を油断なく光らせ、こちらの様子を窺いながら、少女――明智ねねが口を開く。
“黒い稲妻”のリーダーを名乗った彼女は、会話を交わしている最中も常に全身の筋肉をピンと張り詰めさせ、いつでも行動を起こせるように身構えていた。下手に動けば手痛い反撃を貰う事になるだろう。
外見は何ともアレだが、一つのグループを仕切るだけの実力は間違いなく感じられた。少なくとも素の俺では手の届かない相手であることは間違いない。
脊椎動物亜門哺乳綱ネコ目(肉食)を連想させて止まないこの少女をどう処理するか、今回の依頼はその辺りが鍵になりそうだ。まあ、ともかく様子を見てみるとしよう。
「ふん。辛気臭いのは事実だが、大いに結構。秘密基地から秘密墓地への模様替えも、容易になろうと云う物だ」
「はぁ、何とも物騒なことを仰るね。ボクは思うんだけど、暴力で全てを解決しようとするのは頭の足りない愚か者の考えだよ。人間、もっとクレバーに生きないと」
「だとすれば、貴女方こそ愚者の好例とでも言うべきですね」
俺の背後に控える蘭が冷たく言い放った。普段の馬鹿っぽさとは結び付かない、抜き身の刃を思わせる鋭い声音。蘭がこういう声を出すのは、大体がキレる一歩手前の時である。
「昨日の朝方、“黒い稲妻”は我が主の住いに刃を携えて討ち入ろうとしました。幸いにしてこの森谷蘭が下手人の全てを斬り捨て、大事無きを得ましたが、場合によっては――我が主に危害が及ぶ可能性とて在ったのです。故に、私は貴女方を許すつもりはありません」
結局のところ、そういう事だった。蘭がここまで怒りを露にする理由が、俺に関わること以外であった試しがない。本来、右の頬を打たれたら、困った顔で左の頬を差し出すようなお人好しなのだが。
「ふん。聞けば“黒い稲妻”とやら、表裏問わず、各所で見境なく暴れて恨みを買っていると聴くが。然様な事は、俺にとっては至極どうでもいい。問題があるとすれば、只の一度でも織田信長に手を出そうと血迷った事のみ。俺は己に仇為す“敵”は総て排除せねば、気が済まん性質でな。――さて、どうだ。そろそろ覚悟は終えた頃か?」
冷たく言い放ち、ねねに向けて脅すように一歩を踏み出す。同時に俺はその身に纏う威圧感を更に底上げしていた。
このレベルの威圧を受けると、ミシミシと音を立てて周囲の空間が歪んでいるような錯覚に陥る……らしい。天の奴が前にそんな事を言っていた気がする。
「くっ!」
板垣一家お墨付きの殺気を発しながらゆっくりと迫る俺を前にしては、流石に平静を保てなかったらしい。
ねねは顔を引き攣らせながら、数メートルほどの距離を一気に跳び退って、俺との間合いを広げた。
予想外に身軽な動作。ほう、と俺は心の中で感心する。少しばかりぎこちないが、殺気に中てられているにしては十二分に俊敏な身体捌きだ。
「ああもう!こうも明瞭に交渉の余地は無いって宣言されちゃあお手上げだよ、全く!」
彼女はうんざりした様な呻き声を上げてから、未だに凍り付いて呆けている己が部下達をギロリと睨みつける。
「で、キミ達はぁ、さっきから何をボーッと突っ立ってんのさ!和平交渉はもう決裂したんだよ、そんでもって相手さんはこっちを許しちゃくれないって言ってるんだ!やらなきゃやられるだけだってどうして判んないかなぁ!」
噛み付くような叱咤の叫びが、凍り付いた空気に僅かなヒビを入れた。
そこを見逃す事なく、ねねは現在の空気を打破せんとばかりに、小柄な身体に似合わない大音声を張り上げる。
「それとも何、キミ達は新しい伝説でも作りたいワケ!?“黒い稲妻”は百対二の勝負にビビって逃げ出した腰抜け集団ですって!言っとくけどボクは嫌だからね、自分が作ったグループが臆病者の代名詞として語り継がれるなんてさ!」
「お、おお……」
「そうだよな、考えてみりゃ相手はたった二人なんだ」
「それに俺達には無敵のボスがいるじゃねぇか!負けるワケがねぇって」
罵倒混じりの激励は確かな効果を挙げたようで、硬直していたメンバーが次々に金縛りから復帰していく。
未だに顔色は真っ青で、手足の動きもどうにもぎこちないが、只の石像が“動く石像”になっただけでも劇的な改善と言っていい。
「何つったってここはオレらのアジトなんだ、得物も揃ってる!やれない道理がないぜ」
「裏の顔だか何だか知らねぇが、俺達“黒い稲妻”を舐めんじゃねぇぞッ」
見る間に大多数のメンバーが復帰し、撒き散らされる殺気へのお返しとばかりに雄叫びを上げ始める。ねねは闘志を取り戻した男達を見渡し、そしてこちらを鋭く睨み据えた。
やれやれである。統率力が高いのは結構な事だが、この状況でそれを発揮されても誰も得はしないだろうに。
「ふん。中々、上手く煽るものだ。……あのまま逆らわずに幕引きとする事が、最も易しく、優しい道でもあったものを。残酷なものだ」
「……」
俺の言葉に反論する事もなく、ねねはただ苦々しげに表情を歪めた。その様子を見る限り、自覚はあるのだろう。やはり彼女は、“黒い稲妻”に勝機があると考えてはいない。
実際、見たところリーダーである明智ねねを除けば、一山幾らでそこらに転がっているような有象無象の集団に過ぎない。“織田信長”の魔手に掛かれば鎧袖一触、瞬く間に壊滅するのは必定―――と、そんな風にねねは考えている事だろう。
現実的に、この状況下で俺にできる事などほとんど無いのだが、長い年月を掛けて作り上げられた“虚像”にとってはチンピラ百人斬りなど朝飯前もいいところ、なのである。
「オイコラテメ、さっきからゴタゴタとうるっせーんだよ!覚悟決めろやオラァッ!」
黙り込んだねねの姿に焦れたように、集団の先頭にいた鼻ピアスの不良が雄叫びを上げた。それを切っ掛けに、遂に“黒い稲妻”が動き始める。
鉄パイプに木刀にメリケンサックにサバイバルナイフ。
無駄にバリエーションの豊富な凶器をそれぞれの手に握って、五人ほどの男達がやや遠巻きに俺達を取り囲み―――そして、喚声と共に一斉に襲い掛かってくる。
「ふん」
溜息を吐きたいような気分で、俺はその光景を眺めていた。
こうなってしまってはもう手遅れだ。
せめて徒手空拳で俺達に喧嘩を売る男気が彼らにあれば、まだ救われたものを。
「是非もなし」
俺が呟いたのと、銀閃が迸ったのは、どちらが先だったか。
「え」
唯一、その瞬間をその目で捉えられたであろうねねが、呆けたような声を上げる。
数瞬が過ぎ去った後――薄汚れたコンクリートに血の雨が降った。パラパラと生暖かい血飛沫が所構わず降り注ぎ、俺の顔面に不快な感触を残していく。
「ぎぃ、ああああぁぁッ!!」
何とも形容しがたい絶叫が響き渡る。
床に転がって苦痛に悶える男達は、揃って切り裂かれた脚から腕から、ドクドクと新鮮な血を垂れ流していた。
赤く濁った血溜まりが順調にその規模を広め、鼻につく鉄錆の臭いが瞬く間に廃工場に蔓延していく。
「……」
そして、それらの全てに一切の関心を覚えていないような、そんな冷め切った顔で、森谷蘭は抜き身の愛刀を横薙ぎに振るう。刃に付着した赤い血が払い飛ばされ、ぱたぱたと音を立てながらコンクリートを打つ。
どうやらそんな我が従者の姿は、観衆達の恐怖心をますます煽ったようである。
「う、うわ、わぁああああああっ!」
誰かが恐慌に染まった叫びを上げると、途端に場は騒然となった。
「き、斬りやがった!アイツ、ホントに斬りやがったぞっ!」
「い、イカれてやがる……!人殺しがっ」
口々に喚き立てる。パニック寸前、見事なまでの混乱っぷりだ。リーダーのねねでさえ、表向きは取り乱してこそいないものの、どう見ても顔色が悪い。
取り敢えず、この反応ではっきりした。どうやら“黒い稲妻”は裏社会に属する類のグループではないらしい。
彼らの反応は、日常的に出血を目にする事に慣れていない、表側の一般人のそれに他ならない。仮にこれが演技だとしたら表彰ものだろう。
「貴方達がその手に持つ得物を以ってすれば、人を害する事は容易です。そのような物を軽々しく主に振るおうとする愚か者を、刃にて誅するのは、それほどおかしいですか?」
喧々囂々と騒ぎ立てる群衆に向かって、蘭が平然と問い掛ける。
あたかも人を斬ることに何の疑問も抱いていないようなその態度は、“黒い稲妻”の面々には無慈悲な殺戮機械の如く映ったことだろう。
「さあ、次は何方ですか。私は主の敵を砕く忠実なる刃なれば、悉く斬り捨て、先祖代々受け継がれし我が太刀の錆としてくれましょう」
その言葉に、自分が斬り捨てられる姿を嫌でも想像させられたのか、集団に更なる動揺が広がる。
実際のところを言えば、蘭は初めから手足の腱を正確に狙ったのであって、殺意を持って太刀を振るった訳ではない。見た目こそ多少派手に出血しているものの、それだけだ。よほど対処が悪くない限り、間違っても命に関わるような傷ではない。
そういう訳で、本来ならば人殺し呼ばわりされるのは筋違いなのだが。
しかしまあ、わざわざそれを教えてやる必要もないだろう。勝手にこちらの意図を誤解して勝手に恐怖してくれるなら、俺としては願ったり適ったりだ。
「さて。俺を敵に回す、その意味を。貴様らの骨肉に刻んで、理解させてやろうか。傷の痛みに悶える夜、悪夢と共に明瞭に思い出せるように、な」
他者の血で紅く濡れた顔を冷酷に歪ませながら、俺は“黒い稲妻”の連中に向けて、手加減無しの殺気を放出した。
十中八九、これでチェックメイトだろう。その為の下準備は既に整っていた。
実際に蘭の手で“斬り捨てられた”仲間の姿を連中の目に焼き付ける事で、俺の有する殺気は具体的な実体を手に入れている。
“殺されるかもしれない”と“実際に殺される”とでは、その恐怖の度合はまるで異なる。今の連中が俺に対して抱くであろう恐怖心が、当初とは比にならない程に巨大なものであることは間違いない。
歯向かえば問答無用で斬り捨てられ、血の海に沈められる。そう、あそこに転がっている、五人の仲間のように。
そんな状況下で心が折れなければ、それは既に不良グループとは言えない。チンピラと呼ばれる人種の持つスペックには、あくまで限界があるのだ。
「うっ」
元々、動揺に次ぐ動揺で完全に浮き足立っていた彼らは。
俺の言葉を決定打として、容易く崩れた。
「うわあああ!冗談じゃねぇっ!!」
「チクショウ、こんな所で死んでたまるかよぉっ!」
俺の殺気を浴びせ掛けられた事で、無残に斬り捨てられ、血の噴水と化す己の姿を幻視したのだろう。彼らは恐怖に染まった情けない悲鳴を上げながら、恥も外聞も無く逃走を始めた。
殺気とは本来、受け取る者に“死”をイメージさせるもの。故に、“死”という概念と基本的に縁遠い一般人にはかえって効果が薄い場合が多い。
しかし、具体的な例を、それも自分の目の前で鮮烈に見せ付けられた直後、という条件が付けば――まあ、ご覧の有様である。
「ちょ、ちょっと!こら、キミ達、逃げるなっ」
「無駄だ。死に勝る恐怖はなく。そして恐怖を超越するには、連中は弱過ぎる」
慌てた調子で喚いているねねに、俺は少し同情しながら声を掛けた。俺と蘭にやられた十人ほどの仲間と、更には殺気に耐えて踏み止まったリーダーをあっさりと置き去りにして逃亡する彼らに、グループの誇りはこれっぽっちも感じられなかった。
正直、そんな小物連中を放って置いたところで大した害にはならないだろうが、まあ仕事は仕事。手を抜かず、きっちり追い討ちを掛けておくとしよう。
「蘭、手筈通りに。往け」
「はっ」
廃工場から脱出しようと、入口の扉に向かって一目散に駆けていく“黒い稲妻”の面々。
蘭は太刀を片手に彼らの二倍近い速度で疾駆すると、追い抜き様に刃を一閃していった。誰かを追い抜く度に血飛沫が舞い、新たに人体が一つ床に転がる。
「やめて、もうやめてよ!どう見たってみんなもう戦意なんて残ってないじゃないか!」
「……」
正面から必死の形相で吠え掛かってくる少女に、黙って視線を向けた。
決して恐怖を感じていない訳ではないらしく、顔は青褪め、華奢な身体は小刻みに震えている。それでも、端に涙の浮かんだ目を俺から逸らす事なく、真っ直ぐに睨んできた。
はてさて、一体何がここまで彼女を駆り立てるのやら、少しばかり引っ掛かるな。あくまで勘でしかないが、単純な情や義侠心とは異なるような気がした。
「ふん。己を見捨てた部下の心配とは、何とも寛容な事だ」
「いいから止めてよ!止めないって言うなら力尽くでも――」
「下らん。格の差を理解できんほど、愚昧でもあるまい。五体を留めぬ屍を晒したいか?」
姿勢を低くして剣呑な気配を放ち始めたねねを、すかさず収束させた殺気を以って制する。
忍足あずみというプロの殺人者を拘束し得たほどの威圧。もっとも、あのレベルの殺気を放ち続けるには精神力をガリガリ消費しなければならないので、今回はやや控え目に設定してあるのだが。
「うぅっ……!」
それでも“表側”の住人には十分過ぎるほどの威力だ。顔色をますます蒼白にして、ねねは頭から爪先まで硬直した。
暴れ出されたら俺一人の手には負えそうもないので、少なくとも蘭が仕事を終えて戻ってくるまでは、このまま拘束しておくとしよう。
「ひぃぃっ」
「ぎゃああっ!」
哀れな子羊を追い立てる我が従者は絶好調のようで、ゴールを目指す連中の内、既に十数人ほどが志半ばで斬り捨てられていた。
されど、たかが十数人。“黒い稲妻”は百人以上もの大人数で構成されているのだ。
このままでは、残りの大多数の面子は無事に工場外への脱出を果たしてしまう――と思われる所だが、抜かりはない。
「ふん。伏兵は、戦の常道」
何と言っても工場の玄関口には、二人の腕利き――宇佐美巨人と源忠勝を事前に配置済みである。
後門の狼に追われ必死に逃げ出してきた羊を狩ろうと、前門では二匹の虎が手ぐすね引いて待ち構えているのだ。残念ながら羊達の群れには、大人しく諦めて餌となって貰う他ない。
「くく。計画通り」
心中にて会心の笑みを浮かべる。ここまで俺の目論み通りに事が運んだのは久し振りだ。
何せ今回、俺自身のした事と言えば殺気を放っただけである。それ以外には一切何もしなかったにも関わらず、敵対勢力を完璧に叩き潰し、依頼を完遂する事に成功したのだ。最小の労力で最大の成果を得る――実に素晴らしい。
用意しておいた小道具も使わずに済んだので、出費もほぼゼロに等しかった。返り血を思いっ切り浴びたコートは流石にクリーニングに出す必要があるだろうが、まあその程度だ。
明日は稼いだ報酬金で仲見世通りに繰り出して、思う存分高級和菓子を堪能しよう。
――――俺が異変を察知したのは、脳内にて文字通りに甘い夢を描いていた時だった。
突然だが、武の世界における常識の一つ、“気”について講釈させて貰おう。
この地球上に存在するありとあらゆる生物は、“気”と呼ばれる生命エネルギーを内包している。当然ながら、万物の霊長やら何やらと持てはやされる地球内生命体であるところの人類もまた同様に、この“気”を保有している訳だ。
その所有量や性質は個人によって様々であり、ある程度武に通じている者はそこを利用して、“気”を探ることで相手の存在を感知し、個人を特定する事が可能なのだ。蘭のような人外連中と較べると悲しいほどに精度は悪いが、大雑把になら俺でも出来る。
そして、ここで本題だ。俺は廃工場の外に、代行人の親子を配置しておいた筈である。が、現在、鉄の扉の向こう側から感じる“気”は、間違ってもその二人のどちらのものでもない。
明らかに異質だった。奈落の底の如き禍々しさと、天を突くような雄大さを併せ持つ異様な“気”。
「まさか」
記憶を探ること数秒、俺がその正体に思い至った瞬間。
「は、早く扉を開けろ!追いつかれちまうっ!」
「ん?ちょっと待て、向こう側に誰かが――」
とんでもない振動と轟音が廃工場を揺るがせた。
直後、工場の入口を守る鉄扉が、文字通り“飛んできた”。
直線状に居た十数名の男達を巻き込みながら常識的に有り得ない速度を保って約五十メートルの距離を飛行し呆然と立ち尽くす俺の身体をギリギリのところで掠めて通過していった―――って何だ、これは。
「何だァ一体、ってうおわああああッ!?」
後ろを振り返ると、金髪ピアスのチャラ男が巻き込まれて派手に宙を舞っているのが見えた。前田啓次、そこに居たのか。まるで気付かなかった。
まあ今は空気の存在などを気にしている暇など無い。悪い予感に人知れず身を震わせながら、俺は随分と開放的な姿に成り果てた入口へと目を向ける。
「あのねぇ、辰。扉を開けろとは言ったけど、向かい側の壁まで蹴り飛ばせと言った覚えはないよ」
「う~ん、加減がムズカしいんだよねぇ……まあいいかぁ。ちゃんと開いたし」
悪い予感は見事なまでに的中した。なるほど、前門で待ち構えていたのは虎ではなく、実は龍だったというオチか。何ともまあ、無駄に良く出来た話だ。
「うはは、まあいいじゃんかアミ姉ぇ。選手入場は派手な方が気分出るぜ!」
「くくくっ。違いない」
呆気に取られた顔で突っ立っている“黒い稲妻”メンバー達の存在などまるで意に介していないかのように、傍若無人に喋りながら工場に足を踏み入れた四人組。
揃いも揃って、嫌になるほど良く見知った顔だった。
「うっはー、既に死屍累々じゃん。すっげー、床が血まみれだぜ」
場違いな無邪気さではしゃぐ三女、板垣天使。
「ん~、ちょっと匂うなぁ。服に染み込んだらイヤだなぁ」
場違いな呑気さでぼやく次女、板垣辰子。
「これは結構な惨状だねェ。一体誰がこんなえげつない事をやらかしたのか……なんて、考えるまでもないけどね。フフッ」
場違いな妖艶さで笑う長女、板垣亜巳。
「ああ。この堀之外には、俺たちの獲物を横から掻っ攫うような命知らずはいねぇからな。そんな真似を出来るのはいつだってお前だけだ――なぁ、シン」
そして長男、板垣竜兵が、俺に向かって獰猛に笑い掛ける。
そんな状況に対して、俺は怒りやら嘆きやら呆れやらを通り越し、いっそ笑い出したくなるような気分に襲われていた。
「い、板垣一家……!?冗談でしょ……?」
弱々しく呻いたねねの言葉に、俺は心中にて全力で同意する。
圧倒的な暴力で堀之外を支配する、悪名高き板垣一家。何というか、場違いだ。場違いにも程がある。何故こんな時間にこんな場所でこんな奴らと遭遇する羽目になるのか。
偶然の産物?いや、そんな事は有り得ないだろう。あまりにもタイミングが良過ぎ、いや悪過ぎる。誰かの意図が絡んでいるのは間違いない。となると、何者だ?そんな事をして何の益がある?
「ふん」
色々と考えるべき事は多いようだが、少なくとも一つははっきりしている事があった。
どうやら“黒い稲妻”との一戦は、ただの前哨戦に過ぎなかったらしい。道理で妙に難易度が低い訳である。
織田信長にとっては、ここからこそが真の正念場。
ゆっくりと息を吸い込んで、吐き出す。気付けば、傍には蘭が控えていた。似合わない凛とした表情と、手に携えた血塗れの太刀が何とも頼もしい。
「主」
「問題ない。退屈を紛らわす相手には、悪くないだろう」
さて。吐き出した強気な言葉とは裏腹に、全く以って気は進まないが、仕方がない。
誰かさんのお望みのままに、第二ラウンドを始めるとしよう。
「ねートーマ、さっきから何見てるの?」
「ふふっ、見世物ですよ。とても楽しい舞台です」
お久し振りです。一人でも覚えていて頂けたならそれだけで嬉しい。
半端なく更新が遅れてしまい、大変申し訳ありません。
作者のスキルがもっとあれば、と自分の到らなさを嘆くばかりです。定期更新している方を少しは見習わねば……
あと今回、原作キャラが最後しか登場しないという暴挙に出ていますが、こうした構成は恐らく今回が最初で最後です。
二次創作としてあまり良くない書き方だと自覚していますが、今回に関しては今後の展開の為にどうしても必要な話だったので、寛大な心で見逃して頂ければ幸いです。
それにしても、天使ちゃん真剣天使。 それでは次回の更新で。