「……なんだ、こりゃ。怪獣大決戦の跡地かァ?」
自身の眼前に広がる凄惨極まりない光景を半ば呆然と眺めながら、前田啓次は脳裡に浮かんだ率直な感想を口から漏らす。
台風一過、などという生易しい表現では到底追い付かない。仮に特大サイズのハリケーンが直撃してもここまで酷い様相は呈さないだろう。堀之外町・歓楽街区域のメインストリート、通称親不孝通りの一角が、比喩表現でも何でもなく――壊滅していた。クレーターじみた巨大な陥没が到る所に見受けられるアスファルトの路面には、地割れによって奈落へと通じる裂け目が各所に生じ、天へ向けて聳え立っていた電信柱や街路樹の類は根こそぎへし折られて地に倒れ込み、ストリートを挟んで林立する左右のビルは軒並み倒壊を終えて、今や粉塵を撒き散らす大量の瓦礫と化している。災害じみた破壊の規模の割に何処からも火の手が上がっていないのは、折り良く降り注いでいた豪雨に片っ端から鎮火されたからなのだろう。もしもその奇跡にも似た幸運が欠けていれば、今頃は文字通りの地獄絵図が出来上がっていた事は想像に難くない。
「おいおい……いくら何でも、こりゃねェぜ。ムチャクチャやり過ぎだろ、あの鬼女」
これはひどい、と思わず声に出して呟かずにはいられない惨状であった。何よりもナンセンス且つ笑えないのは、目の前の景観が天災による破壊ではなく、“人災”がもたらしたものだと云う点である。規格外の武力の所有者が遠慮を知らず暴れ回り、望むがままに衝突を繰り返した結果が、戦場跡と言うにも生温いこの“被災地”。
さほど遠くない街路からひっきりなしに響いていた轟音と、延々と続く地震の如き足元の揺れ具合からして、件の鬼畜系生徒会長様が大規模な激戦を繰り広げているであろう事は予感していたが……しかし、まさかここまで常識外れな光景を拝む羽目になるとは。
啓次はひとまず気を確り保つ為、ぶんぶんと勢い良く頭を振った。シャワーの直後さながら雨に濡れた金の長髪から無数の水滴が虚空に跳ねる。
「……」
改めて眼前の光景へと視線を向ければ、この災害を演出した張本人の姿が抉れた街路の只中に見つかった。愛用の珍妙な大槍を無造作に罅割れた地面に転がし、その傍へと大の字に寝転がって頭上の夕空を眺めている一人の女。
或いは最初から接近には気付いていたのか、柴田鷺風はふと思い立ったように啓次へと視線を寄越し、何処か大型肉食獣の起床を連想せずにはいられない、ゆったりとした動作で姿勢を起こした。腰元まで伸びた艶髪と同色の、ダークグレーの双眸が正面から啓次を捉え――ギラリと不吉な輝きを帯びる。その瞬間、啓次は今すぐ背中を向けて猛ダッシュで逃走すべきか本気で悩んだが、どうせ手遅れだと早々に諦めた。所詮、一度でも目が合ってしまった時点で運命は決しているのだ。無駄な抵抗は徒に被害を増やすだけである。
「やあやあ前田少年、ご機嫌いかがかな? ちなみに私はと言えばだね、かつて例を見ない程の素ン晴らしい爽快感に浸っている真っ最中なのだよ。おお、快なり快なり、人生の愉しみは此処に在り、だ」
傍目には全身に少なからぬダメージを負っているように見えるのだが、彼女特有の理解に苦しむテンションは至って普段通りであった。剛壮な鋼鉄の大槍を担いでのっしのっしと雄々しく歩み寄ってくる姿に、そういやこの女、ガッコじゃ瓶割りならぬ“ビル割り柴田”とか呼ばれて恐れられてたっけな――と些か現実逃避気味に思考しながら、啓次は精一杯の話術を以って戦略的撤退を試みる。
「あー、そうかよ、だったらアレだ、そいつは邪魔しちゃ悪いよな? オレはとっとと消えるんで、その最高にハイな気分とやらはどうか一人でゆっくり堪能してくれや」
「いやいやこの大いなる喜びを個人が独占するなどと、然様に欲深く罪深い振舞いは天地神明に誓ってしないともさ。是非とも地球上の全人類が共有し分かち合うべき福音だ。何となれば、今日と云う時は即ち一つの“愛”が見事、完全勝利を収めた記念すべき日と相成ったのだからね。おお礼賛せよ喝采せよ、此処に愛の保有する全能性がまたしても証明されたのだ。やはり私の信条は間違ってなどいない、燃え滾る愛は遍く人を救い世界を救う! 一人の愛・戦士としてこれほど嬉しい事が他にあるだろうかいやありはしない。さあさあ前田少年、諸手を上げて歓喜し給え。私と共に愛の勝利を祝そうではないか」
「悪ィけど宗教にはこれっぽっちも興味ねェんだよな……どうも胡散臭くて信用出来やしねェ」
「む? 何やら無知蒙昧にして愚鈍窮まる君は根本的な部分を誤解している様だが、私が信じているのは人間の人間による人間の為の人間臭い感情、即ち人の愛であって、神の愛なる胡乱な概念ではないよ。むしろ神は百三十年ほど前にドイツ辺りでポックリお亡くなりになったと言うのが私の見解だ。他人の信仰を否定する気は無いが、少なくとも私自身は偶像を崇める気にはなれないね。そも、私の定義する愛とは普遍的なものではなく、大なり小なり偏執的な性質を帯びたものなのだから。誰をも等しく愛していると云う事は、誰一人として愛していない事と同義だろう?」
「お、おう……」
せやな、と謎の関西弁が脊髄反射的に漏れた。つまりは日頃有効活用されない啓次の頭脳が己の役割を放棄した証拠である。そんな啓次の様子には一向に無頓着な調子で、自称愛の伝道師こと柴田鷺風の滔々たる語り口は止まらない。
「人の世に在る希望も絶望も、総ては人の切なる想いが紡ぎ上げるものであるべきだ――それでこそ人生は面白い。おもしろきこともなき世をおもしろく、高杉殿はまこと佳い句を遺したものだ。そう、だからこそ、私はかくも嬉しいのだよ。まぁ尤もこれは君には理解が難しい感情かもしれないがね。親愛なる殿の知遇を得た人間でなければ、この喜びの意味を共有するのは些か難易度が高いだろう。タッキーが例によって絶賛行方不明中である事が悔やまれてならないな」
タッキーて誰だよ、とわざわざ無用の突っ込みを入れる愚は犯さず、啓次は曖昧に頷きつつ相槌を打つだけに留めた。外宇宙までぶっ飛んだ思考回路の持ち主たる先輩への対処としてはそれが最も適切なのだと、啓次は度重なる失敗の末に学習しつつあった。
「あーいや全く、今回の一件に関しちゃオレは完璧に置いてけぼりだぜ。結局のところ何がどうしてどうなったのか、何も判りゃしねェ」
説明もなく唐突に襲われて気を喪い、説明もなく唐突に呼び出されて闘い、説明もなく唐突に去っていく敵手を為す術も無く見送った。それが今回の騒動における前田啓次が軌跡の全てである。遂に最後まで何一つ事情を知る機会を得ずして、堀之外全域を巻き込んだ争乱は決着を見てしまったらしい。
自分より先に板垣竜兵と闘っていた精悍な顔立ちの少年からは、何となく事情を訊き出せそうな気がしていたが……その彼も、眼前の敵が消えると同時に、多大なダメージを負った肉体に鞭打って急ぎ足で何処かへ去ってしまった。よって啓次はこの期に及んでも、さっぱり状況を把握出来ていないのである。
「まァ別にそこまで知りてェって訳でもないけどよォ。……ただアレだ、どういう事情があったにせよ、またしてもあの野郎と決着付け損なっちまったってのは気に入らねェな。中途半端もいいトコだぜ」
悪名高き板垣一家の長男、板垣竜兵。今度こそ、この拳で打倒してやろうと心に期して臨んだ闘いは、例の如く唐突な乱入者の出現によって問答無用で中断させられてしまった。板垣一家の長女と次女の二人組が闘争の場に現れるや否や、啓次には目も呉れず竜兵を拉致していったのだ。意気込んで固めた拳は叩き付けるべき対象を見失い、全く以って不完全燃焼のまま闘争は終結を迎えた。啓次にとっては概ねそれだけが今回の一件における不満であり、甚だ不本意な点である。
「まあそう腐るものではない、男ならばすっぱり諦めて切り替えたまえよ前田少年。自陣営の敗北と云う形で戦の趨勢が定まったならば速やかに撤退を選択するは道理、ならば“時間内”に意中の相手と白黒付けられなかった君の落ち度だ。うむ、いやいやしかし板垣亜巳の潔い退き際、敵ながら天晴れだったね。流石は一家の棟梁、武力においてはタッツーに及ばないが、己の役割というものを過たず心得ている。あまりにも逃げっぷりが鮮やかなもので追撃の隙すら見付けられなかったよ。いやはやまったく残念無念」
「どうもオレの目には呑気に寝転がって休んでたように見えたんだがな……。あの二人組がオレをスルーしてくれたから命拾いしたけどよォ、こっちに来た時は生きた心地がしなかったぜ。仮にも師匠名乗ってんだから、少しは弟子の身を案じて動いてくれねェかもんかね」
「君の力を信じていた(棒)」
「堂々と嘘吐いてんじゃねェよ! 吐くなら吐くでせめて信憑性持たせる努力くらいはしろよ!」
「ぶっちゃけ動くのが面倒だった(迫真)」
「知りたくもねェ事実だぜ畜生! どォせそんな事だろォと思ってたけどよ!」
「前田少年。君は元気だなぁ。そのフレッシュな活力は心からの羨望に値するよ」
何故か本気の面持ちで感心されてしまった。欠片たりとも嬉しくはなかった。
げんなりしている啓次を余所に、愛称サギこと柴田鷺風は、ガシャリと重い金属音を響かせながら愛槍を宙に掲げて、あたかも勝鬨を上げるような朗々たる声音を張り上げた。
「さーて、いざ凱旋と洒落込もうではないか。我らは勝利者故に、その権利が有りまた義務が有る。勿論のこと今すぐにでも殿に拝謁して愛の勝利を言祝ぎたいのは山々なのだが、このタイミングだとお邪魔虫と成り果てるのは必定なので控えるとしようかな。フフフ、何せ私は愛天使の化身であるからして、その辺の機微という奴はバッチリ心得ているのだよ。どうだ見直したか前田少年」
「あーそうだなもんのすげー恐れ入ったぜ脱帽だ。……で、それは結構なんだが、何でアンタはオレの肩に腕回してんスかねェ」
「ん? 下僕たる君はこれから疲労困憊の私を負ぶってくれるのだろう?」
「だろう? って何を根拠にナチュラルに信じちまってんだよ! 百歩譲って弟子にはなっても下僕になった覚えはねぇよ! 冗談じゃねェぜ、オレはアッシー中に圧死なんて色々な意味で笑えねェ死に方はゴメンだからな」
「んんん? おやおや私の聞き間違えかな? そうだとも、女性の体重に言及しあまつさえ貶すなどいうデリカシーを解さぬゴミクズにも劣る所業を、まさか私の可愛い後輩が実行する筈がない。はてさて実際の答えはどうなのかな、前田少年。ちなみに返答次第では漏れなくダストシュートにボッシュートされる未来が待っていると思うので心して答えろよ、ああ?」
「誰も体重のコトは言ってねェから落ち着いてくれ頼む!」
順調に相貌へと浮かび上がりつつある鬼面にどうにか退散願うべく、啓次は割と必死に言葉を続けた。戦闘狂の気を持つ啓次ではあるが、怒れる鬼神の手によってミンチにされる未来は歓迎できるものではない。
「オレが言ってんのはドリルだドリル、アンタご自慢のそのクソデケェ武器! 一体全体何キロあんだよソレ……」
「やれやれ、何だそんな事か。粗暴な見た目の割にどうにも心配性だな君は、もしやギャップ萌えといふものを狙っているのか? 何にせよ、男なら細かい数字を気にするものじゃあない。いちいち小賢しい計算などせずとも、気合と根性と愛さえあれば世の中案外どうにかなるものだ。まあ、世にも素晴らしき我が羅閃のデータについてどうしても知りたいと言うなら答えて差し上げるが、うむ、総重量は……確か一トンには届かない筈だ、多分。だから君は安心して、豊穣なる果実の弾力を背中に感じる幸福を噛み締めるといいと思うよ」
「安心出来る要素が何一つねェ…… たぶんってなんだよアバウト過ぎんだろうが。真剣で勘弁して欲しいぜ、色々と……」
見る影もなく崩壊した灰色の街並みに、啓次の疲れ切った呟きが虚しく吸い込まれる。
人災の呼び名こそが相応しい“竜”と“鬼”は既に去り、容易くは拭えぬ巨大な惨禍の爪痕を残しながらも、堀之外町を覆う暴嵐は通り過ぎた。
騒乱に満ちた合戦を終えて訪れた束の間の静寂を賑やかに破り、一組の男女が凸凹だらけの街路を歩く。
どこまでも噛み合わない師弟コンビは、普段の調子を崩さないままに瓦礫の山を踏みしめて、至極マイペースな遣り取りを交わしつつ戦場を後にする。
「実際にやってみれば存外、ホラこう、火事場の馬鹿力的なポテンシャルを発揮するかもしれないだろう? フフフ……男は度胸、何でも試してみるものだよ。と言う訳で思い切りよくレッツトライだ、そーれっ☆」
「おい馬鹿やめろ手ェ離すんじゃねェよ! ソレこっちに倒すなよ、絶対倒すなよ、絶対――ウボァアアアッ!!」
つまるところ、柴田鷺風と共に居る限り、前田啓次の受難が終わる事は無いのであった。
悪名高き板垣一家の長男・板垣竜兵が束の間の昏睡から意識を呼び覚ました時、最初に知覚したのは不自然な浮遊感と不規則な揺れであった。
まるで誰かに身体ごと担がれて運ばれているような――曖昧にぼやけた思考が、薄らと現状を認識する。そして次の瞬間、脳髄に電撃が走った。竜兵はかっと両目を見開くと同時、喉から咆哮を発していた。
「ぉおおおッ! 離せ、離しやがれッ!!」
「うわわ、急に暴れないでよ~。びっくりしたなぁもう。アミ姉ぇ、リュウ起きちゃったけど、どうしよっか」
「言うまでもないだろうさ。そのまましっかり抑えときな、辰。口から内臓吐き出さない程度になら締め上げても構やしないよ」
「うん、わかった。リュウ行くよ~、ぎゅう~っ」
独特のぽわわんとした掛け声と同時、竜兵の胴体に巻きついた辰子の腕に“軽く”力が込められる。忽ちの内に襲い来る、めきりめきりと肉体が軋みを上げつつ圧壊されてゆく凶悪な感覚に、竜兵はもはや暴れるどころではなく息を詰まらせた。
肩の上で苦悶の形相を浮かべて藻掻いている弟の有様に気付いているのかいないのか、辰子は少し不満げな様子で唇を尖らせている。
「う~ん、やっぱりリュウはぁ、ゴツゴツしてて抱き心地が良くないんだよねえ。ちょっと筋肉が付きすぎてるのがダメなのかなぁ」
「かは、ぐ、そんな分析はどうでもいい! さっきから何処に向かってんだ二人とも、戦場はこっちじゃねえぞ!」
むしろ、全くの逆方向だ。流れゆく見知った風景から現在地を判断し、足の向かう方角から目的地を推測するに、亜巳と辰子の二人はどう考えても戦地たる堀之外町から遠ざかろうという意図の下に移動を続けている。
「おい、どういう事だよアミ姉ぇ! タツ姉ぇ!」
口角泡を飛ばして叫ぶ竜兵に対して返ってきたのは、いつでも冷静沈着な長姉・亜巳の醒めた言葉だった。
「全く……いちいち喚き散らすんじゃないよ、リュウ。敵を引き寄せちまうじゃないか。アタシ達が何のために暗い・臭い・汚いの三拍子揃った裏路地なんぞを退路にしてると思ってんのかねェ」
堀之外の街は板垣一家の狩り場であり遊び場、その全域が庭も同然だ。一帯の区域については、日光の射さない裏路地の入り組んだ構造までも完璧に把握している。どうやら亜巳はその知識を活かし、極力人目に付かない経路を選びつつ進んでいる様子だった。カツン、と硬質な音を響かせながら、薄暗く薄汚れた狭い路地をヒールの踵で踏みしめて、亜巳が淡々と口を継いだ。
「それに――せっかく首尾よくここまで逃げてきたんだ、わざわざ元来た道を戻ってどうしようってんだい? この切羽詰まった状況で無駄足踏むなんざ、アタシはゴメンだねェ」
「どうするもこうするもねえ、まだ決着は付いてねぇだろうが! 俺はまだシンの奴と一度もヤり合ってすらねえんだ、尻尾巻くには早過ぎるぞ! 俺は、俺はまだまだ闘えるッ!」
「……さーて、そいつも怪しいもんだ。見た感じ結構なボロボロ具合じゃないか、オマエ」
「オイオイ冗談キツいぜアミ姉ぇ、俺達は“板垣”なんだ。こんなクソ下らねえ掠り傷ごときがダメージになんぞなるものかよ。なぁ……、アミ姉ぇもタツ姉ぇも闘えるだろ? なら負け犬みてえに逃げ出す必要なんざ何処にもねえ、そうじゃねえかよ!? だってのに何であんな――」
あんな真似を、と竜兵は怒りの形相で吠え猛る。織田信長へと続く道に立ち塞がる有象無象を蹴散らすべく竜兵が拳を振るっていた所へ、二人の姉が駈け付けるや否や、何を言うでもなく問答無用で鳩尾にボディーブローを叩き込み――そこで記憶は途切れているが、この現状を見れば姉達の意図は明白だ。
「流石にちょいとやり口が乱暴だったのは認めるよ。けどまぁ仕方無いだろ? 普通に声掛けたところで、頭に血が昇っちまったオマエが聞分けよく引き下がってくれるなんてアタシには思えなかったのさ。 例えその撤退命令が、愛しのマロードからの指令だったとしても……ねェ?」
「……マロード、アイツが……!?」
「ああ、少しばかり前に戦況報告があったんだよ。……確かにオマエの言う通り、アタシ達にはまだ多少なりとも余力がある。だけどねェ、それ以外の戦線が文字通りに総崩れじゃあ、もうどうしようもない。気付けば闘ってるのはアタシ達一家だけ、戦場のド真ん中で孤立無援状態ってのは笑えない状況だよ。マロードの呼び掛けに応じてゴキブリみたく湧いて出てきた有象無象どもはともかく、あの師匠までもがシンにやられちまったのが決定的だねェ。ったく、最初から分かっちゃいたが、つくづく化物だよあの男は」
「……そいつはシンなら驚くまでもねえ事だが……待てよアミ姉ぇ、“俺達一家だけ”、だと? そう言やさっきから姿が見えねえが、アイツは――天の奴は、どうしたんだ」
急速に冷えた頭を巡らせて周囲を見渡すも、人数倍は賑やかな妹の姿は何処にも見当たらない。
訝しげに眉を顰めている竜兵を見遣り、亜巳はどこか意地悪げな調子で、ルージュを引いた唇を歪める。
「なに、天の事なら心配は要らないさ。たぶん今頃はシンの奴と懇ろにやってる頃だろうからねェ」
「な……、まさか一人でシンと闘り合ってんのか!? クソが、抜け駆けの上にムチャ過ぎるだろうが! だったら余計にこうしちゃいられねえぞ、俺一人でも天の助太刀に――」
妹の危機を予感し、顔色を変えながら藻掻き始めた竜兵を、姉の面白がっているような声音が押し留めた。
「落ち着きなリュウ。さっきのは別に言葉遊びじゃなく、そのまんまの意味さ。要するにアレだ、天はシンの側に付いたって事さね。オマエが颯爽と駆け付けてみた所で飛んで火に入る夏の虫、二人掛かりでボコられるのがオチだろうねェ」
「んなっ、天アイツ裏切りやがったのかよ!? よりによってこの大事な聖戦で、ふざけた真似しやがって……!」
「こら~リュウ~。リュウだって自分のワガママに家族を付き合わせてるんだから~、そんな風に怒ったりしちゃダメなんだからねぇ。天ちゃんの好きにさせてあげようよ~」
「ま、やりたいことをやりたいようにやるのがアタシらの流儀だ。甘ったれた洟垂れの天も、ようやく自分なりの目的意識だの生き甲斐だのってヤツを見つけられたんだろうさ。やれやれ、何に付けても手が掛かって仕方ないお馬鹿な妹だったってのに、いざこうなっちまうと何やら寂しいモンだねェ。……とにかくそういう訳だから、オマエもアイツの事でグチグチ言うのはやめな。兄貴が妹の門出を祝ってやらなくてどうするってのさ」
「……ぐ、そりゃまあ俺も、そこまで本気で怒っちゃいねえけどよぉ」
頭の上がらない二人の姉から口々に窘められて、竜兵は満面に噴き上がり掛けていた怒気を渋々引っ込める。
何と言っても家族ぐるみで十年近い付き合いを続けてきたのだ。妹の天使が長らく織田信長を兄貴分と慕い、刷り込みを受けた雛鳥のような調子で孤高の背中を追い掛け回してきた事は良く知っている。
まさか、家族と離れてでも傍に居たいと願うほどに信長への執着が強いとは思っていなかったが……まあその点に関しては、執着の意味合いこそ異なれど、自分が抱く感情も同じ様なものだ。そう考えれば、天使の下した決断はそこまで意外という程のものでもない。
「まあ、アイツが望んだ結果だってんなら、それはそれで別に構やしねえ。……が、そういう事なら本物の兄貴に一言くらい言っとけって話だぜ、ったくよぉ」
「おぉ~、リュウが珍しく大人の態度だぁ、えらいえらい。ご褒美あげちゃおうっと、ぎゅう~っ」
「ぐがぁあああッ!? ぎ、ギブ! ギブだタツ姉ぇ!」
「え、Give? ホラ辰、リクエスト入ったよ。リュウがもっと強くして欲しいんだとさ」
「ギブアップっつってんだよッ! 殺す気満々かよアミ姉ぇっ!?」
喚きながら必死に背中をタップする事しばし、熊すら容易く縊り殺せそうなベアハッグから解放される。
まさしく九死に一生を得た思いで荒い息を吐いている竜兵を、どう見ても嗜虐的な色を帯びた目付きで見遣りながら、亜巳が口を開いた。
「ともあれ、これで事情は分かっただろ? 機が去っちまったなら、後は逃げるが勝ちさね。言っとくが、ここに来て玉砕覚悟の大暴れなんざアタシは付き合わないし認めないよ、リュウ。むざむざ家族を犬死させないのがアタシの、一家の棟梁の役目なんだからねェ」
「……ぐ、で、でもよぉ!」
「デモもストも聞く耳持たないねェ。……そもそもの話、オマエも気付いてるんだろ? 今回の戦で、アタシ達はシンの“敵”にすらなれなかった。板垣一家の誰一人として、まるでアイツの眼中には無かったのさ。ましてやウチで最弱のオマエがノコノコ戻ったところで、シンの奴に相手にされるハズもない。大方、陰気臭い“影”のネズミ連中辺りをけしかけられて終わりだろうさ。いや――ここは天をぶつけて忠誠の試金石にするってのが一番ありそうなセンか。アイツもアタシと同じく根っからのサディストだしねェ」
「――ッ!」
『目障りだ。消えろ』
脳裡を過ぎるのは、醒め切った無表情にて吐き捨てられた言葉。あの瞬間に心中を駆け巡った屈辱と憤怒の念がまざまざと蘇り、竜兵は奥歯を軋らせながら獣の唸り声を上げる。辰子の非常識な膂力でがっちりと抱え込まれていなければ、即座に見境なく暴れ出していた事だろう。
「くそ、チクショウが、だったら俺はどうすりゃいいってんだよ!!」
「どうもこうも無いだろうさ。今回は諦めて次の機会を待つ、他にどんな選択肢があるってんだい?」
「“次”だと? 例のカーニバルの計画もこれで台無しになっちまったんだぞ、次の機会なんざ一体いつ来るってんだ! ……それによぉ」
際限なく湧き上がる激昂に猛っていた竜兵の声音が、不意に暗い翳りを帯びて落ち込んだ。
「例え次に暴れるチャンスが来たとしてもだ……そもそも俺は、シンに見てもらえるのか? なあ、アミ姉ぇ」
「……それは」
竜兵の零した弱々しい問い掛けに、これまで淀みない舌鋒で弟を諌めてきた亜巳が、初めて言葉を詰まらせた。
「憎まれるのも嫌われるのも構やしねえ、むしろアイツが俺を“敵”として特別視してくれるってんなら本望だ。けどよぉ、あの時みてえにハナっから無視されちまったら、俺はどうすりゃいいんだ? この先もずっと、このシャレにならねえ“飢え”を抱えたまま生きてかなきゃならねえのか? 目の前に見えてるご馳走に喰らい付く事も出来ずに、指咥えて一生過ごせってのか? なんだそりゃあ、ふざけんなよ、冗談じゃねえぞ……生き地獄にも程があるだろうがッ!」
「――そりゃお前、世の中ってのは元々そういうモンだろ。ヒヒ、今更なに寝惚けた事言ってやがんだか」
心中の巨大な懊悩を訴える竜兵の絶叫に応えたのは、二人の姉達のいずれでもなかった。
路地の前方から音も気配も無く現れた謎の人影に、亜巳と辰子は咄嗟に足を止める。亜巳は警戒する様に切れ長の目を鋭く細め――眼前に立つその姿を瞳に映した途端、大きく見開いた。
「し、師匠っ!?」
夜闇に棲まう魔物の如く、暗がりに溶け込む様にしてその凶悪な存在感を潜めつつ佇んでいる男の名は、釈迦堂刑部。板垣三姉妹に武術を仕込んだ師匠であり――情報によれば、この戦の中で織田信長に敗北を喫した人物でもある。
そして、それが誤報でも何でもない事実であることは、鍛え上げられた屈強な上体を斜めに走る凄惨な“傷”が、雄弁に思い知らせてくれた。痛みを感じていないのか、或いは強靭な意志力で苦痛を抑え込んでいるのか。流石に顔色こそ酷く青褪めてはいるものの、釈迦堂の表情は平然たるものだった。
「オウ。あー、見た感じお前らは無事だったらしいな。相当デケェ氣の持ち主とやり合ってたみてぇだが、ま、大したケガもねぇようで何よりだ。なんせ俺の方はご覧の有様だからな……俺への愛で斬ってねえから、冗談抜きで痛ぇんだわコレが」
「それは、刀傷……となるとやっぱり、シンの“アレ”は只の飾りじゃなかったってワケか。――っと、それはともかく、大丈夫ですか師匠? 動くのも辛いようなら辰に運ばせますが」
「あ、師匠も乗ってく~? 右がリュウでぇ、左が師匠。片腕だけどがっちり抱えて行くから、落としちゃったりはしないと思うよ~」
「いやいや気持ちはありがてぇが遠慮しとくわ。この怪我でお前のホールド喰らったら軽く昇天できそうだからな。……それよりもよぉ、話は聞かせてもらったぜ」
すかさず懐へと抱え込もうと伸ばされる辰子の腕から素早く身を躱しつつ、釈迦堂はゆらりと竜兵に向き直った。唇を歪めて、嘲笑うような口調で言葉を続ける。
「よぉリュウ、俺がこれまで散々言ってきたじゃねえかよ。弱いのが悪い、好きに生きたきゃ強くなれってな。基本、ご馳走にありつけるのは力を持ってる奴の特権で、弱ぇ奴はお零れに預かって細々と生きてくしかねぇのさ。んでまあ今のお前さんはアレだ、信長と喰い合うにゃ力不足もいいところの、残念な“弱者”なんだよなぁ」
弱肉強食。皮肉げな笑みを含みつつ釈迦堂が説いているのは、竜兵が常日頃から信奉している普遍の真理そのものだ。
板垣竜兵は生まれ付いての強者として、目に映る何もかもを好き放題に食い散らかしつつこれまでの人生を過ごしてきた。であるならば――ひとたびその立場が“弱者”の側に回った際、己が望むものを手に掴めなくなる事は、まさしく道理。何の不思議も無い、当然の帰結だ。
「俺が、弱者……? 喰われる側の、人間? ……だから、シンとはヤり合えねえってのか……?」
「ヒヒ、おっそろしくシンプルな話だろ? お前さんにとっちゃ何とも都合の良い事に、なぁ。何せ問題が単純ってこたぁ、解決法も単純って事だ。要するに――」
「強くなればいい。誰も彼もを笑いながら喰い散らかせる、正真正銘の強者になればいい……!」
「ま、そういう事になるわな。ただし生半可な強さじゃお話にならねぇ。信長の奴が無視したくても無視出来ねえ、そんなレベルの突き抜けた力を身に付けねぇと駄目だ。となると、普通ならどうしようもねえんだが……リュウお前、相当運に恵まれてるらしいな」
「……?」
「流石に俺や辰ほどじゃねえが、お前の才能も相当なモンだ。つまり強くなろうと思えば強くなれる側の人間っつー訳よ。ヒヒ、お前が喰われる側で終わりたくねぇってんなら、チャンスを用意してやってもいいぜ」
「チャンス、だと? 俺はアンタの教えを受ける気は――」
「別に今更になって武術を教えようって訳じゃねえ、ステゴロがお前の信条だってのは分かってるからよ。お前はただアレだ、俺に付いてくるだけでいい。実を言うとよ、俺が近々“肩慣らし”に行こうと思ってる場所、世界でも極々一部の武術家だけが修行地として利用してる、いわゆる秘境の類なんだが……お前さんの素質なら、そこで何ヶ月か過ごすだけで、武術なんぞ齧るまでもなく一気に強さを引き出せるだろうよ。おっそろしく過酷な環境の中で、それだけの期間を無事に生き延びられたら、っつー超絶厳しい条件付きだが。まあ、ぶっちゃけ殆ど自殺行為だわな」
「…………」
「つっても、別にコイツは今すぐ決める必要もねぇ事だ。どうせこの傷の療養期間中は俺も碌に動けやしねえし、お前の方で腹が決まり次第――」
「いや、悩むまでもねえ。俺はアンタに付いていくぜ」
一旦話を打ち切ろうとする釈迦堂の言を遮り、竜兵は欠片の逡巡も差し挟む事無く即答した。
踏み躙られる弱者としての生を甘んじて受け入れ、手の届かぬ御馳走を遠巻きに眺めて嘆息する人生など論外だ。ならば、いかに過酷であろうと、いかに生命を危険に晒そうと、板垣竜兵は強者で在り続ける為に足掻く道を選ぶ。食物連鎖の最上位に君臨する獣の王と成る為であれば、眼前に待ち受けるあらゆる苦難を乗り越え、総ての障害を打ち砕いてみせよう。
前途に確かな光明が見えたなら、其処を目指して猛進するのみだ。俄かに湧き上がってきた活力に野獣の如く双眸をギラつかせ、竜兵は猛々しく晴れやかな笑みを満面に浮かべた。
「ああそうだ決まってるじゃねえか、シンとヤり合う事こそが俺の生き甲斐だ! だったら命なぞ惜しくはねえ、アイツと対等の雄になる為ならそんなモンは幾らでも賭けてやる! ……アミ姉ぇもタツ姉ぇも止めないでくれよ、俺はもう決めたんだからな」
「はっ、気を回さなくても別に止めやしないさ。さっきも言っただろう? アタシらのモットーは、」
「“好きなことを好きなように、やりたいことをやりたいように”、か。……ははっ、そうだな、思い返してみりゃ俺達はいつでもそうだったぜ」
「これまではそういう生き方してても何だかんだ、全員が家を離れずに済んでたけどねェ、まあそんな時期ってのは都合よくいつまでも続くモンじゃない。何も出来なかったガキが一丁前に一人で立てるようになれば、こういうコトになるのは必然だろうさ」
「う~ん。家族みんなで一緒に暮らせないのは寂しいけど、やっぱりなにか大切なモノを見つけちゃったら、道が分かれるのも仕方ないのかなぁ」
家族と離れてでも己が目的に邁進しようとする弟を、亜巳と辰子は引き留めない。
しかしそれは一家の絆の脆弱さを示すものではなく――むしろ逆だ。例え各々の歩む道が分かたれたとしても、決して家族の繋がりが途絶える事だけは有り得ないと確信しているが故の、放任。
それこそが、“板垣”と云う自由気侭な悪党一家の在り方であった。
「と言うか良く考えると、天もリュウも“想い人”はシンの奴じゃないか。全く、奇縁と言うか悪縁と言うか……辰、頼むからオマエだけは、シンの事を“弟”呼ばわりして暴走しないでおくれよ」
「ん~。でもアミ姉ぇ、もし天ちゃんとシンがくっついたら、シンは私たちの弟になるんだよねぇ」
「……。……確かに、言われてみればそうだ。その発想は無かったよ。アタシにしてみれば元々シンは半分弟みたいなモンだし、そこまで違和感も無いと言えば無いが……やっぱり想像すると妙な気分だ。ま、お子様の天と偏屈なシンの組み合わせじゃ、当分そんな未来は実現しそうにないけどねェ。あの二人がヤってるところなんざちっとも想像出来やしない」
「ん? アミ姉ぇ、誰と誰がヤってるって? 言っとくけどよ、シンとヤり合うのは俺だぞ。これだけは誰にも譲らねえ」
「……リュウ。念のために忠告しとくけどねェ、修行先で性欲持て余して師匠襲ったりするんじゃないよ」
「あー、そん時は後腐れなくブッ殺して大自然に還しとくから安心しろ。俺としてもこの歳で処女散らす気はねえからよ」
「フン、失敬な、男なら誰でもいいと思われちゃ困る。俺だって掘るケツは選ぶぜ。そうだ、いっそシンとヤり合うまで禁欲生活でもしてみるか? 我慢して溜め込めば溜め込むほど、本番の時に最高の快楽が味わえそうじゃねえか。くく――ああ、夢が広がるぜ。待っていろよシン、俺は必ず、お前に相応しい雄になって戻ってくるぞッ!」
「いいねぇ、その意気だぜ。……そうそう、どうせならトコトン難易度上げてやらねえとなぁ。ヒヒ、弟子想いの師匠を持った幸運に感謝しろよ? 信長ぁ」
……斯くして。
数年間の長きに渡り、類稀なる暴力性を以って川神の闇に君臨してきた強大なる獣の一群――混沌の支配者・板垣一家は、この日を境に堀之外の街から姿を消す。
かつての縄張りから追い立てられる敗者の身であれ、猛獣達の誰憚る事なき傍若無人な足取りと、何処までも自由気侭な騒々しさは、遂に最後の最後まで失われる事は無かった。
「……まったく、何とも賑やかなことですねえ。自分達が敗軍の将だという自覚が、果たして彼らにはあるのでしょうか? まあ、その理解に苦しむ気楽さのお陰で追跡が容易になっているのですから、勿論文句などありはしませんが」
場違いに喧しい遣り取りを交わしながら悠々と去っていく四人組へと、些かの距離を隔てた後方地点から呆れの眼差しを送りつつ、男は誰にともなく呟いた。痩身長躯の肉体をブラックスーツで包んだ、どこか不吉な相貌の男――名は丹羽大蛇。否、丹羽大蛇と名乗っている男は、二年前の堀之外で巻き起こったとある騒乱を切っ掛けに織田家の幕下に加わった。川神裏社会における金銭の流れの調整役を担うと同時に、信長傘下の諜報集団である“影”の指揮を任じられており、現在もまた、主君の指令に従って己の任務を果たしている最中であった。
「――織田様、標的を確認致しました。進路から判断するに、堀之外町より裏路地を抜けて港町方面への離脱を図っている模様です。如何されますか?」
『捨て置け』
欠片の感情すら載らない淡々とした声音が、重々しい響きを伴いながら耳元の携帯電話より流れ出る。
『後方にて指揮を執るべきお前自らが追跡を試みている。即ち、彼奴らを相手に追撃を為し得る残存戦力はお前の手元に無い――違うか』
「はい、畏れながら……各地で一斉蜂起した反乱分子の鎮圧に際し、“影”の実働部隊は既に大半が倒れました。実質的に戦力としては壊滅状態です。近隣地区の有力者に包囲形成を呼び掛けたとしても、相手が彼らでは足止めすら不可能でしょう」
『ふん、当然だ。板垣の家は、所詮は仮初めに過ぎずとも、この堀之外に於いて支配者で在り続けた強者。彼奴らが退路を拓くに徹したとなれば、易々と首を挙げる事が能わぬは道理よ。であるならば、新たなる支配体制を早急に構築せねばならぬ今、駒を徒に損なう必要は無かろう』
「……宜しいのですか? 仰せの通り、板垣一家の力は脅威そのもの。このまま取り逃がし野に潜伏させては、再び何かしらの機を得て織田様に牙を剥かないとも限りませんが」
『然様な愚挙を赦さぬが“影”の、そしてお前の任だ。そして――仮に獣共が懲りもせず俺の眼前に姿を見せたとなれば、其の時こそ真に、手ずから息吹を停めてくれよう。脈打つ心臓を引き摺り出し、一片に至るまで握り潰してくれよう。俺の統べる闇に意志なき獣の棲まう余地は無いと、遍く天下に知らしめる為の贄として役立ててやるのみだ。くく、くくくくッ』
耳孔から這入り込む凄絶な哂い声に、大蛇は抑え難い戦慄によって己の肌が泡立つのを自覚した。そして同時に、電話越しの会話で助かった、と今この瞬間に主君の傍に居ない己の幸運に感謝する。
魔王・織田信長が時折露にする汚泥の如き“憎悪”は、あたかも総ての光明を貪欲に呑み込む暗黒そのものだ。度外れて巨大に過ぎる邪悪な想念を前にして、脆弱な自我であれば押し潰されずに立ち続ける事すら不可能だろう。力に任せた単純な武威とは全く以って異質の、怪物的な心魂の在り方が織り成す不可避の圧力。世の何者にもまつろわぬ毒蛇として独り過酷な闇の世界を生き抜いてきた丹羽大蛇が、恐怖し、畏敬し、屈服した所以がそこにある。
『ヘビ』
「はっ」
『今日を以って、堀之外が統一は成った』
「ええ、まさに。最大勢力であった板垣一家が除かれ、その挙兵に乗じた潜在的な反乱因子もまた取り除かれました。ならば残るは語るに足りぬ烏合の衆、いかに不満を胸に抱き乱を起こしたとしても、所詮は支配体制を揺るがすに到る存在ではありません。川神の闇における貴方様の権威は、もはや何人の暗躍も効を奏さぬ程に磐石なものとなりましょう」
『然様――漸く、闇中に静寂が落ち、混沌が排され在るべき秩序が構築される。獣の巣窟は、人の住処に立ち戻る。そして其れが速やかに成されるか否かは、お前の働き次第。確と肝に銘じる事だ』
「承知しておりますとも。この丹羽大蛇、全霊を以って織田様の望まれる景観を整えさせて頂く所存です」
『で、あるか。ならば次の任を与えよう――板垣一家が動向の追跡は無用。此度の合戦による住人の動揺を鎮め、何れが勝利者であるか、市中の有力者に遍く知らしめよ。他には……ああ、乱に乗じて俺の首を挙げんと欲した愚物の“処理”も必要か。 速やかに全員の身柄を抑え、纏めて捕縛しておけ』
「拘束……となると、処分はなさらないのですか? 傘下へと取り込むには、些か織田様への敵愾心が強固過ぎるように見受けられましたが」
『くく、然様に処断を急ぐ必要はあるまい。人間で在る限り、いかなる愚昧の輩にも“使い道”は存在する。刷新された秩序を敷くに際し、俺の意を示すのであれば――いっそ目の前で血の雨の一つでも降らしてやった方が、衆愚も理解が易かろう?』
「ああなるほど、それは確かに大変有効な手でございますね。承知致しました、早速そのように手配を。……それでは、失礼致します」
息詰まるような緊迫感に充ちた通話を終えると、大蛇は傍の石壁に背中を預け、深く大きく息を吐き出した。いついかなる場合であれ、規格外の主君との対話は精神力に多大な消耗を強いる。常人の域を超えた胆力を自負する大蛇であっても、双肩に伸し掛かる重石が如き精神的疲労からは逃れられない。
それでも大蛇は可能な限りの迅速さを以って己の任を果たすべく、未だ意識を保っている数少ない部下へと指令を飛ばす為に再び携帯電話を持ち上げ――ふと思い立って指を止め、空を仰いだ。薄汚れたビルの谷間で切り取られた空。時ならぬ大嵐が去った後、今度は夕闇の迫る茜色の空。遥か頭上より堀之外全域を見下ろす天空を細い目で見返して、大蛇は口元を酷薄に歪めた。
「成立以来の数十年間、誰もが成し得なかった魔境の統一。あぁ、私はやはり間違っていなかった。あの人ならば、いずれ。いずれ必ず――“天下”に手が届く。世に変革をもたらし、歴史に名を刻む事すらも」
英雄や救世主として、ではない。己が意を以って万物を征する“覇者”として――織田信長という男は、新たな歴史の一ページを創生し得る存在だ。平和に飽いた現代日本に於いてはあまりにも稀少な、一身にて天下を揺るがす覇王と成り得る資質を宿した人間だ。であるならば、或いは今この瞬間すらもが後世に語り継がれる伝説の一幕。それは何とも愉快痛快で素晴らしい話ではないか、と大蛇は笑う。
「私を失望させないで下さいよ? ……いえ、まずは私の方こそ、失望させる訳には参りませんね。くくくっ」
満足な成果を示す事が適わなくなれば、信長は自分を容赦なく切り捨てるだろう。自他に対しておよそ妥協というものを赦さない、恐ろしいまでの峻烈さ――それこそが織田信長を覇者たらしめている性質の一つ。大蛇が日頃から信長の主君としての器を計っていると同様に、信長もまた常に大蛇を試している。
「ええ、課せられた役割は果たしますとも。貴方様の行く末を最期まで見届けられないのは、さぞかし無念でしょうからねぇ」
何処までも冷え切った双眸に確かな“熱”を宿らせたのは一瞬、暗い眼差しの向かう先を汚濁に塗れた地上へと引き戻して、丹羽大蛇は携帯の通話ボタンに青白い指先を滑らせた。
織田信長の冷酷なる暴威と、“影”の暗躍によって完全な支配体制が築き上げられた暁には、川神全域の裏社会は一個人の掌中に収められる事になる。
ならば其の先には、果たして如何なる未来が待ち受けているのか。深淵の闇を歩む魔王の覇道は、如何なる軌跡を地上に描くのか。現時点にて、それを知る者は居ない。
だが――煤けた街並みを紅く染め上げる血色の夕日は、地平線の彼方へとその身を徐々に沈めながらも、遠からず堀之外に訪れるであろう未来の様相を、端的に暗示している風でもあった。
「……ふぅ」
我が家中にて恐らくは最も油断ならぬ謀臣こと丹羽大蛇との通話を終え、無用の長物と化した黒塗りの携帯電話を耳から引き剥がし、在るべき収納場所へと突っ込みながら溜息一つ。その間にも絶えず頭脳を全力で回転させ、差し当たって出しておかなければならない指示を軒並み出し終えたと云う事実を数回ほど脳内で反芻し、そして少なくとも暫くの間は休息を取っても問題ないのだという絶対的な確信を得た瞬間――いっそ笑えるほど急速な勢いで、全身から力が抜け落ちた。
「……っ」
度重なる激戦を潜り抜けた代償として、“氣”の欠乏度合いが洒落にならないレベルに達していた。今の今まで辛うじて立ち続けていられたのは、為すべき仕事が残っている以上、未だ倒れる訳にはいかないという張り詰めた使命感がギリギリのところで肉体を支えていたからであって……僅かでも精神の糸が緩めば、崩れ落ちるのは必然だ。自重を支える脚の感覚が消え失せ、ガクリと膝を着いた直後、ぬかるんだ公園の地面へと顔から前のめりに倒れ込み――
「お疲れ様でした、シンちゃん」
柔らかい声音と同時に、前方から優しく抱き留められる。己の存在の総てを以って相手を包み込もうとするような、寛容と慈愛の念に満ちた温もり。肉体だけでなく、その深奥に隠れた心魂までもが安らぎの中に抱かれている……そんな感覚は、果たして俺のセンチメンタリズムが生み出した単なる錯覚なのだろうか。
「今はもう、無理して気を張らなくてもいいんですよ。あなたは、私が護ります」
「……そう言うお前もかなり無理してるだろう、蘭。あの桁外れの“殺意”をコントロールする為に、少なからず消耗してる筈だ」
「ふふ、それにしたってシンちゃんほどじゃないです。それに……シンちゃんを護るためなら、私はきっと、幾らだって強くなれますから。心配御無用、なのです」
二の句を継がせない確信を込めながら言い切って、蘭は微笑んだ……のだろうと思う。蘭が前方に回り込んで俺の身体を受け止めた関係で、現状はまさしく真正面から抱き合うような形になっている。よって角度の問題で、己の肩に乗った顔を窺う術は無いのだ。
まあわざわざ見るまでもなく、その頭に花が咲いたようなお目出度い表情は容易に脳裏に浮かび上がったのだが。
「そうか」
「そうです」
「…………」
「…………」
……………。
……。
……いや、何だ、この空気は。場に漂う雰囲気は至極平穏なもので息詰まるような険悪さは欠片も無いし、知り合って二日目辺りのクラスメートよろしく沈黙が辛く感じられるような間柄でもないのだが……どうにも居心地が宜しくないと言うか、据わりが悪いと言うか、居ても立ってもいられないと言うか。蘭自身は俺に何を要求するでもなく、ただ安らぎを与えようとばかりに俺を優しく抱き締めているだけだと言うのに、この何かをしなければならないという謎の使命感と言うか焦燥感は一体、
――あなたを、心から、愛しています。
…………ああ、そうだ。そうだった。
よりにもよってあんな、ストライクゾーン中央を貫く剛速球のストレートでダイレクトアタックを食らってしまったばかりなのだ、全くのノーリアクションを貫けるような人間など居る筈も無い。仮に居るとすれば、それは世間的に“女の敵”とか呼ばれる唾棄すべき人種に他ならないだろう。
然るに俺は至極真っ当な感性を備えた健全極まりない男子高校生な訳で、今しがた熱烈に愛を告白した幼馴染の少女と抱き合って互いの体温を感じドクドクと高鳴る心臓の鼓動に耳を傾けていると不意に耳朶をくすぐる吐息は艶やかに熱く胸に感じる柔らかい感触に否応無く意識が吸い寄せられ――
「ぶえーっくしょぉーいっ!!」
不意に響き渡った、不自然なまでに豪快過ぎるクシャミの音が、異次元へと旅立ち掛けていた意識を強引に現実へと引き戻した。
「あれれー? 風邪引いちゃったのかなームズムズして我慢できなかったよ! それに較べてどこかの誰かさん達はすっっっっっっごく暖かそうで羨ましいなー。妬ましいなーいっそもう爆発しないかなー」
「ね、ねねさんっ!?」
蘭は大慌てで密着していた身体を引き剥がし、何やら黒々とした念の込められた禍々しい声の主へと振り向いた。頬を含む顔面全体が熟し過ぎたトマトの如く紅色に染まっている。今の今まで顔が見えなかったので判らなかったが、聖母じみた態度で俺を抱き締めている間も、どうやら全力で照れてはいたらしい。
「あれぇ、そんなに慌ててどうしたのかなラン。どうぞ遠慮なくラブ注入を続けちゃいなよ、私は止めないからさ。肌寒さに独り寂しく身を震わせながら、せめて燃え上がる愛の炎っていう焚き火の傍でなけなしの暖を取るとするよ。ほらほら雨に打たれて冷え切った私の身体がアツアツな熱を欲して震えてるよ、さあさあどうぞ存分にユーバーニンしちゃいなYO!」
我が第二の直臣こと明智ねねが、何故か錆だらけのジャングルジムによじ登り、残念なテンションで残念な妄言をヤケクソ気味に喚き散らしている。
対釈迦堂刑部戦にて氣の衝撃波に吹き飛ばされた際、或いは盛大に頭を打ってしまったのかもしれない。実に悲しむべき損失だ、救い様の無い莫迦ではあったが有能な家臣だったと云うのに。
「は・や・く! は・や・く!」
「う、うぅ……」
いよいよお子様めいてきた莫迦従者の煽りを真に受けて、耳の付け根まで真っ赤に染めながら俯く蘭。
一方の俺はひとまず地面にどっかりと胡坐を掻いて、世界からあらゆる貧困と戦争を根絶し恒久的平和を実現する為にはどうすればよいのか具体的な方策について思いを馳せていた。取り留めの無い思考の末に「ラブ&ピースだよ、殿」とドヤ顔でのたまうサギの顔が思い浮かんだが刹那で棄却。
大体そんな感じの回り道を経てから、俺はネコ娘の暴走を止めるべく、然るべき行動を開始した。
「もういいぞ、ネコ。その辺で十分だ」
「え、な、何がかな?」
「油断大敵、勝って兜の緒を締めよ……そう、確かにそいつは俺が常に心に留め置くべき諺だった。俺達はこの合戦における戦略目標は無事に達成した訳だが、未だ全ての問題が解決したとは到底言い難い状況。ならばまだまだ気を緩めるには早いと、お前はそんな至極もっともな警告をしてくれているんだな。恥を偲び道化を演じてまで主君を諌めんとするその姿、まさに臣下の鑑だ。うむうむ、俺は感動したぞネコ!」
「…………………いやぁ参った流石はご主人、ビックリするほどご明察だね! まあ看破されちゃったなら仕方ないなぁ。そうそう、そうだよ、私ってばまさにそういう事が言いたかったのさウン。かの曹孟徳だってうっかり鄒氏に溺れちゃったばかりに色々と大事なモノを喪っちゃったワケで、やっぱり常在戦場の心意気って大事だと思うんだウン。ね、まあ何はともあれそう言うワケだからさ、ランもその辺気を付けて欲しいかなーと思っちゃったりするお年頃なんだよねウン」
「ね、ねねさん……、ただ意味もなくイジワルを言ってるだけだと思ってしまったのは私の浅慮だったのですね……っ! ああ、深い意図を察する事も出来なかった未熟な蘭をどうか許して下さい!」
感激と慙愧の念に身を打ち震わせながら深々と頭を下げる蘭。その後頭部を盛大に引き攣った表情で見下ろしているねね。そしてそれらを横合いから傍観しつつ、やっぱり嘘は良くないよな嘘は、などとしみじみ思っている俺。
ああ、この何とも言えない莫迦莫迦しさ。
つい昨日までの我が家中に在った日常の空気が、何やら途方もなく懐かしいような心地だ。
「……くふふっ、あはははっ」
堪え切れないように笑い始めたのは、ねねだった。目の端に涙の粒を浮かべながら、晴れやかな笑声を響かせる。
「良かった。うん、ホントに良かった。私の居場所、私の大事な“家”は、ちゃーんとここにあるんだ」
「ねねさん……」
「――おかえり、ラン。振り返ってみれば短い家出だったけどさ、わたし、ものっすごく心配したんだからね。も、もう、こんなコトは、しちゃダメなんだからねッ」
「……はい。ただいま、ねねさん。ごめんなさい。そして――ありがとう」
「~っ」
目を見据えながら真っ直ぐに告げられたその一言で、とうとう感情の堤防が決壊したらしい。
忽ちの内にぐしゃぐしゃと歪んだ顔を隠すようにして、ねねは勢い良く蘭の胸へと飛び込む。深く穏やかな微笑みを湛えて小柄な身体を受け止め、両の腕で慈しむ様に抱き締める蘭の姿は、姉のようにも、母のようにも映った。
茜色に染まる公園に、嘘吐きな少女が一心に紡ぐ真実の哭声が響き渡る。
際限なく零れ落ちる大粒の涙は、小さな肩に背負い込んできた想いの雪解けなのだろうか。俺は暫し瞼を閉ざして、孤独に怯える幼い少女の魂に寄り添った。
涙が止まり、震えが収まるまではそうしていてやろう――と、そんな己の意志をも同時に確かめながら。
「……と言う訳で。例の暴力メイドからの連絡によれば、実質的にドイツ軍の狩猟部隊を止めたのは例の騎士様、クリスティアーネ・フリードリヒらしい。詳しい所までは教えちゃくれなかったが、何やら身体を張って連中を説得したとか何とか。ともあれ肝心な点として、物騒な軍隊の皆様は既に撤退したそうだ」
「フリードリヒさんが……。ああ、わたし、思えば彼女にも酷い事を……っ! 正々堂々立ち合って下さった相手に、あんな非礼を――」
「ああもういちいち自分を責めるな鬱陶しい、申し訳ないと思うなら本人に直接謝れば済む話だ。過ぎた事でグダグダと落ち込むのは、許しを乞うた後でも十分だろうよ」
「でも……、あんな狼藉を働いてしまった以上、私はもう学園には戻れません……フリードリヒさんに謝る機会だって」
「だからな、その辺りは全部俺に任せろと言っておろうに。この一時間だけで決め台詞を何回言わせる気なんだお前は? “裏”のあれこれが一通り片付いたら、次は川神鉄心との交渉に赴く。舌先三寸を使ったネゴシエーションなら俺の土俵だ、釈迦堂のオッサンと真剣勝負なんてふざけた難易度設定に較べればイージーモードにも程がある。悪い結果にはさせやしないさ。無用な心配はするな……良いからお前は、黙って俺に付いて来い」
「――――はい」
どうしようもなく頑固一徹な蘭のこと、性懲りも無く反論の一つでも飛んでくるかと思いきや、返って来たのは素直過ぎる程に素直な声音。
意外に思って正面から顔を見遣れば、思いがけず熱い眼差しが俺を見返した。漆黒の双眸は潤みを帯びて、白皙の両頬は赤みを帯びて。慎ましやかに恥らいながらも、濡れた視線に載せて切々と己の想いを訴え掛ける立ち姿は、まさに大和撫子と云う形容が相応しい。
不意に重なった双つの視線は虚空で絡み合い、瞳の奥に映る互いの姿が徐々に大きく――
「げほ、げほごほげほっ! 折れた肺がアバラにっ! うう、ご主人、私はもうダメかもしれないよ……っ」
「一体どういう状況なんだそれは」
いつの間にか調子を取り戻していた従者第二号による脈絡の皆無な新作ボケが唐突に披露され、瞬間的に場の空気がブチ壊される。
夢見心地の表情で少しずつ顔の距離を詰めてきていた蘭がハッと我に返り、両頬を手で押さえながらプルプル震えてその場に蹲っていた。
何と言うか、俺も出来れば同じリアクションを取りたい気分である。男としての沽券に関わるので実行はしないが。
「……まあ、頃合ではある、か。いい感じに休憩も出来た事だし、山積みの厄介事を片付けに動くべきだろうな」
尚も猛烈な疲労感と倦怠感を訴える肉体に鞭打って、立ち上がる。
今回の闘争は既に織田信長の勝利と云う形で決着が付いたが、それでめでたくハッピーエンドとは相成らぬのが現実の辛い所だ。闘争を終えれば、今度は億劫千万な戦後処理が待ち受けているのである。
数刻の内に勢力図が大きく変動した川神裏社会の掌握――ある程度までは大蛇の手腕に任せていても問題は生じないだろうが、だからと言って流石に全ての事案を丸投げする訳にもいかない。俺はあの危険極まりない毒蛇にそこまでの信を置ける程に豪胆ではなかった。
それに加えて、問題の根源的解決を望む為にも、色々な意味で厄介な独軍中将殿とはなるだけ早く何らかの形で接触せねばなるまいし、川神鉄心含む川神院との交渉も今日中に済ませておきたい。そしてもう一つの問題もまた、手を拱いて看過するには些か重大過ぎよう。
「やれやれ、過密スケジュールにも程があるだろうよ。月曜日からこれじゃあ流石に心が折れそうだ……」
苦しいです評価してください、と異世界へとメッセージを飛ばしたくなる気分に駆られながら、どうにも緩んでいる精神に喝を入れ直す。
公園の入り口へと近付いてくる人影に俺が気付いたのは、丁度その時だった。
蘭もまた同時にその間違え様の無い気配を感じ取ったのか、弾かれた様にそちらへと首を向ける。
「…………」
程なくして、人影は俺達の居る公園へと辿り着いた。
孤高の狼を思わせる、野生的でありながら理知的な雰囲気。精悍に整った顔立ちと、猛禽にも似た鋭利な目付き。
忘れ難い大切な過去を俺達と共有する唯一の幼馴染――源忠勝が、傍目にもボロボロの身体を引き摺り、ふらつく足を懸命に支えながら、其処に立っていた。
「――タッちゃん!!」
歓声とも悲鳴とも付かない声を張り上げて、蘭は無我夢中の様子で忠勝へと駆け寄った。
「……蘭」
「タッちゃん、ひどいケガです! たくさんお話したいことはありますけど、まずは急いで手当てしないとッ」
「いや、いい。今は、いいんだ」
「え? た、タッちゃん……?」
「――オラ、とにかく手を離しやがれ。そうベタベタ触るんじゃねえ。大袈裟に騒がなくても、オレは死なねぇよ。さっさとくたばるには、まだこの世に心残りが多過ぎるからな」
心配の念を満面に浮かべて触診する蘭を、乱暴な言葉とは裏腹な優しい手付きで振り解き。
忠勝は覚束ない足取りながらも、迷いの無い一歩を踏み出した。
そうして――織田信長と源忠勝は、幼き日の記憶を刻んだこの場所で、数歩の距離を挟んで向かい合う。
「……」
「……」
どこまでも静かに相対する俺達の間に、言葉の応酬は無かった。言葉などという不純物は、元より必要無かった。相手の瞳を真正面から見詰める視線に、余す所なき総ての意が込められている。であるならば、想いを正しく共有するには、目と目を合わせれば十分だ。
どちらからともなく腕を持ち上げ――次の瞬間、二つの掌が空中にて擦れ違う事無く交錯する。
そうして重なる俺達の手が高らかに打ち鳴らしたのは、心中に在るあらゆる想念を僅か一挙に込めた、会心のハイタッチ。
遠い過去に築いた幾多の想い出を一瞬で駆け抜け飛び越えて、乾いた音色が現在の公園に響き渡る。
その音響の意味する所は即ち、昔日より続いた呪わしき因縁の決着を告げる、誇りに充ちた勝利宣言。
それはまさしく――揃って泥塗れの俺達が挙げるに相応しい、百万語にも勝る無言の勝鬨であった。
―――堀之外合戦、これにて終幕。
チャイルドパレス――川神重工業地帯の入口に聳え立つ大アミューズメント施設、直訳にて“子供たちの宮殿”。その名に反して何処か言い知れぬ禍々しさを漂わせた無骨な外観は、しかし今秋のオープンを見込んでいる以上は未だ建造途中のそれであり、本来であれば建物内部に人影が存在している筈など無い。
「……これにて幕引き、ですか。終えてみれば、何とも、呆気ない」
しかし今、鉄骨造りの大宮殿の最上階、煌く様に壮麗な内装の施された大劇場の舞台上に、一つのシルエットが疑いなく存在していた。降り注ぐ照明の光を浴びて立ち尽くしているのは、私立川神学園の制服を纏った男子生徒。
虚しい空白で充たされた眼前の観客席へと両腕を広げ、睨む様に天井中央のシャンデリアを見詰めているその姿は、楽団を導き一曲の演奏を終えた名指揮者か――或いは観客が不在の劇場にて独り最後まで踊り続けた、滑稽な道化か。
「ははっ」
葵冬馬は、男女問わず万人を魅了する端正な顔立ちを醜悪に歪めて、嗤った。己をも含めた世界の全てを嘲弄するような、そんな笑い方だった。
ありとあらゆる役者は既に舞台から去り、最後に残されたのは演出家たる一人の少年。混沌を愛する獣達に“マロード”と呼ばれ慕われた年若き扇動家は、もはや何をするでもなく其処に居る。
この場で唯一命を有する存在が、あたかも美しき彫像の如く身動きを取らなければ、必然として物音の一つも響かない。広々とした大ホールは今や、あたかも一種の別世界と化したかの如く、完全な静寂で充たされていた。
「――若ッ!!」
だが、騒乱に満ちた人の世に在る限り、その静けさもまた永遠では有り得ない。
上手側舞台袖の大扉が慌しく押し開けられ、新たな人影が舞台上へと駆け込んで来る。ああ、計算通りだな、と頭の片隅で思考しつつ、冬馬は天井に向けていた視線をゆっくりと下ろし、誰よりも見慣れた幼馴染の一人へと向き直った。
「……ああ、準。丁度いいタイミングでした。つい先ほど、終わりましたよ」
「………」
この壮大な“秘密基地”まで全力で駆けて来たのか、井上準は傍目にも疲労した様子で、大きく息を乱している。川神学園の白地の制服は、降り注いだ雨と噴き出た汗の双方に濡れていた。
ステージの上で足を止め、呼吸を整えている準を見遣りながら、冬馬は常と変わらない涼しげな声音を投げ掛ける。
「今はもう祭りの後。いえ、それとも後の祭り、なんでしょうか。いずれであったにせよ、幕引きは訪れました」
「それは、つまり――」
「敗北ですよ、準。私達にとって有利な形で動く筈だった独軍特務部隊は、九鬼従者部隊の参戦によって足止めを受けた挙句に成果を挙げず撤退。広範囲に呼び掛けて蜂起を促した武人達は、板垣天使の離反もあって全滅。主戦力の板垣一家は全員が信長の家臣団を突破出来ず、そして――ジョーカーたる釈迦堂さんすらも、信長本人によって敗北を喫したそうです。敵軍は一角たりとも崩せず、自軍は総崩れ……この絶望的な状況で勝機を見出し劣勢を覆せる様なら、私は間違いなく稀代の大軍師になれるでしょうね」
感情の色が一向に滲まない、どこまでも淡々とした戦況報告だった。敗者に在って然るべき負の想念の気配は何処にも見当たらない。
緊張に強張った顔で敗報を聴き終えた準は、冬馬の不自然な態度に疑念を抱くよりも、まず安堵したように表情を和らげていた。
「そうか……。俺達は、負けたんだな」
「完敗、ですね。私は信長を少しも侮ってはいませんでしたが、それでもまだまだ見積もりが甘かったようです。……本物ですよ、彼は。従者絡みの精神的動揺の隙に乗じる心算でしたが、どうやらそんな小細工が通じる相手ではありませんでした」
「……なぁ、若。だったら、もうやめようぜ、こんな事。この負けは、悪事から足を洗うには良い機会だ。一世一代の賭けに負けて“マロード”の影響力が綺麗さっぱり消えちまった以上、今まで開拓したユートピアの流通ルートだってすぐに潰される。もう“カーニバル”の実現は不可能だ。これ以上裏でセコイ真似を続けたって、あいつに、信長に勝てるとは……俺には、思えない」
「……」
「若――」
「ふ、ふふ、ははははっ」
苦痛を堪える様な表情から絞り出された準の訴えを受けて、葵冬馬は肩を震わせながら笑った。それは本来在るべき形のように、楽しさや喜びと云った希望的な感情を表現する為のものではなく――むしろその正対に位置する、どこまでも破滅的な性質を帯びた、底無し沼の如く昏い昏い笑声。
「準は大袈裟ですね。たかだか一敗を喫した程度で、何を弱気な事を。この一戦で、私達の手足、つまり動員可能戦力は大きく損なわれた……それは認めましょう。しかし、マロードと云う頭脳は未だ健在。織田信長がいかに強大な武勇を誇ろうと、私の存在にまで辿り着けない限り真の決着には到らない。違いますか? ――そう、観念する必要なんて何一つ無いんですよ。幾度芽を摘み取られようと、私が生きている限り、新たに混沌の種を蒔く事はできる。何と言っても私は、“悪”のエリートで在るべきなのですから」
「……若」
その瞬間、準がいかなる想念を噛み殺し、いかなる表情を湛えていたのか。伏せられた眼差しに宿るのは諦念か、悔恨か――冬馬はその目で確かめようとすらしなかった。暗い濁りに充たされた双眸は、既に傍に立つ準の姿を捉えてはいない。苛烈な憎悪を以って睨み据えるようなその視線は虚空を貫き、宮殿の天井を貫き、遥か彼方の天へ、或いはその眼下に広がる世界そのものへと揺ぎ無く向けられていた。
「……ユキを、迎えに行って来る。アイツ、外で野良猫見つけて、追っかけ回して遊んでるからな」
「はは、こんな時でもユキはマイペースですね。ええ、お願いします。私は、今後の悪企みに備えて情報を整理しなければ」
あくまでも涼やかな冬馬の声に、準は沈黙のままに頷きを返して、力なく肩を落としながら大劇場を去っていく。
劇場入口の重々しい大扉が開いて、閉じて――ホールの中には、再び一人が残される。
「…………」
生の息吹が消え失せた冷ややかな空気を吸い込んで、冬馬は両目を静かに閉ざした。
「準。ユキ」
静寂の落ちた舞台の上で、独り。葵冬馬の唇が紡ぐのは、いつでも共に在った幼馴染の名。
そしてそれきり、言葉は絶えた。微かな呟きに込められた想念の形を知っているのは、未だこの世にただ一人。
――稀人の目に映る世界を。閉ざした瞼の裏に見る夢を、誰もが知らない。
後始末回で大きく更新間隔を空けてしまうのは宜しくないと判断し、いつになく連投気味に投下。
感想欄での釈迦堂さんの人気っぷりには驚きと納得が半々といった気分ですが、そんな釈迦堂さんは残念ながら板垣一家ともども今回を以って一旦退場と言うことで、今後しばらくは出番が無いかと思われます。こ、これはあくまでもストーリー展開の都合であって、別に他のキャラがオッサンに食われるからとかそんな理由じゃないんだからね! 勘違いしないでよね!
……まあそれはともかく、今回にて合戦は終了。次回からは久々に学園に舞台が戻ります。某トラブル漫画ばりのラブコメ展開が始まるかどうかは別として、延々続く殺伐とした雰囲気からようやく解放されそうで一番ホッとしているのは間違いなく作者。リアルの都合もあって少しばかり更新は遅れるかもしれませんが、読者の皆様には寛大な心でお待ち頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。