黒く、黒く。降り注ぐ雨粒も吹き付ける強風も、あらゆる事象を無明の闇の中へと呑み込んで、刃はただ厳然と其処に在る。
その有様に荒れ狂う嵐の如き激しさは伴わず、むしろ冷徹な静謐にこそ充たされていた。大気を震わせ大地を揺るがすような暴威は、何処にも存在しない。
だが――而してこの身を襲う、戦慄。忌むべき悪寒と、圧迫感。一切の物理的干渉を行わないままに、ただ眼前に在るだけで全身の皮膚を粟立たせる、常軌を逸した禍々しさ。
――そうだ。そいつが、“壁越え”ってヤツだ。
弟子の紡ぎ上げた凄絶なる業を目の当たりにして、釈迦堂は哂う。常識外れにして桁外れ。ヒトとしての枠を踏み越えた、規格外。然様に称され世の武人から畏怖される領域に、この殺意は疑い様もなく踏み込んでいる。
そう、“これ”は、殺気だ。凄まじいまでの高密度に凝縮された殺意の結晶。まさしく窮極の呼び名に相応しい、徹頭徹尾が純然たる殺意のみで構成された異色の外気功。薄紙一枚ですらも切り裂けないであろう黒刃は、しかし生命在る全ての存在にとって計り知れない脅威をもたらすだろう。あらゆる過程を省略して一閃の下に“死の恐怖”を見舞いに来るものだと、そんな予感があった。稀代の武人である釈迦堂刑部ですら、もしも真正面から刃を受ければ、まず無事に立ち続ける事は適うまい。
――だが……それだけじゃ、届かねえぞ?
なるほど、殺意の具現たる黒の大太刀は、あらゆる護りを貫き徹す無双の矛に相違ないだろう。幾多の武人達にとっては絶望的な高さで立ち塞がる“壁”を乗り越え、この身に脅威を感じさせる域に至ってみせたのはまさに見事と言う他無い。
だが、力を行使し得る事と、それを敵手へと届かせ得る事は、全く以て別の話だ。特化した一能のみが壁を越えた織田信長と、あらゆる戦闘能力が壁を越えている釈迦堂刑部との間には、依然として絶対的な実力の隔絶が存在する。釈迦堂が既に黒刃の有する危険性を認識し承知している以上、むざむざとその牙に掛けられる道理があろうか。態々背を向けて安全圏まで逃げ出すまでもなく――何ら対処の術に窮する事はない。
かと言って、敢えて刃を受けるような接待仕合じみた真似など論外。そこまでの御膳立てを良しとするほど、釈迦堂は生温い武術家ではない。他ならぬ信長自身も、よもや然様に甘い期待は抱いていないだろう。
――まだだ。まだ、何かあるんだろ?
釈迦堂は或いは世界の誰よりも、織田信長という少年の性情を知り抜いている。信長は、熱烈な夢想家としての側面と、冷徹な現実主義者としての側面を併せ持つ男だ。噴火寸前の活火山にも似た心情の裏で、絶えず永久凍土の如く冷え切った理性が策謀を巡らせている。そうした種類の人間が、ただ闇雲に“力”を振り回して一か八かの勝負に打って出る、などという事はまず考えられない。信長が行動を起こすならば、その背景には、例え一欠片に過ぎずとも、何かしらの勝算が用意されている筈。
――見せてみろよ、お前の全力。掛け値無しの全霊を、俺の前に曝け出してみせろ。
己の弟子が過酷な人生を通じて培ってきた、ありとあらゆる力を絞り出させた上で――万全を期して、迎え撃つ。それこそが釈迦堂刑部という男の望みであった。極上の好餌を目の前にした猛獣の如く、釈迦堂の昏い双眸は爛々と光を帯びる。その視線の向かう先は当然、数間の距離を挟んで対峙する弟子の姿だ。禍々しい威圧感に満ちた大太刀をゆらめかせ、蒼褪めた顔に決然たる意志の煌きを宿した少年。
嵐の荒ぶ虚空にて、互いの視線が交錯する。
永遠にも似た一瞬の停滞が過ぎ去り、そして――信長が、動いた。
「っ!」
右手に携える大太刀はそのままに、空いた左手を驚くべき迅速さでポケットへと突き入れ、衣服の内側に潜めた“何か”を取り出す。
無論、いかに迅速に為された動作とは云え、それは常人の物差しで測ったもの。釈迦堂刑部との対峙の最中に晒す隙としてはあまりにも大きい。その一瞬を衝いて彼我の距離を詰め、何をさせる暇も与えず急所へと拳を突き入れ五体を破壊し尽くす事は、決して不可能ではなかった。
「……」
だが、釈迦堂は敢えて、その道を選ばない。釈迦堂の最優先とする目的は勝利という結果ではなく、闘争の過程を心ゆくまで愉しむ事だ。道具を使うならば使えばいい。小細工を施すならば施せばいい。それもまた信長という弟子が研鑽を繰り返し一歩一歩積み上げてきた“力”の一種だと、釈迦堂は知っている。ならば遍く全てを引き摺り出した上で、それらを悉く喰らい咀嚼し味わい尽すまで。絶対強者としての自負と余裕は、依然として何ら揺るがない。
――さぁて、何をしやがる気だ?
期待と昂揚に胸を躍らせながら、釈迦堂は目を鋭く細めて信長を注視する。ポケットから取り出された掌大の“何か”は黒い布に包まれており、その正体は判らない。まず間違いなく、悟らせないよう意図して偽装を施しているのだろう。
逆に言うならば、そこまでして隠匿しなければならないような“何か”を、信長は軽く手の中に握り締め、小さく息を吐くと同時に、それを――投擲した。
「っ!」
速度は、遅い。
アンダースローで上向きに放り投げられたそれは、くるくると回転しながら悠然と宙を舞う。
釈迦堂は、緩やかな放物線を描きつつ自身へと向かう黒塊を見据えた。
さて、手榴弾等の直接的な暴力装置か、或いは閃光弾や煙幕等の五感を奪う類の代物か。いずれであったにせよ、壁を越えたこの身にとってはさしたる脅威と成り得ないが、しかし油断は禁物だ。釈迦堂刑部の実力を誰よりも強く心身に刻み込んでいるのは、眼前の敵手に他ならない。ならば必然として、己の予想の及ばない“何か”が秘められている。
確信を胸に、いよいよ研ぎ澄まされた五感を以て、迫る黒塊と信長の一挙一動を同時に捉え――――
衝撃は、“背後から”襲い掛かった。
「――な、」
意識の死角を衝かれた事実に、喉奥から漏れるのは驚愕の声音。
不意に釈迦堂の身を襲ったのは、強靭な肉体を揺るがすような荒々しい暴力ではない。むしろ羽の様に軽く、撫ぜる様に優しげな態を装いつつ、“それ”は流れるような鮮やかさで釈迦堂の脚部に絡み付いてきた。その動作は、己の全身を縄へと変じて獲物を捕捉した蛇を思わせる。ならば、“それ”が次に為すべきは当然の如く、獲物に対する強烈な締め付け。鋼塊にも優越する釈迦堂の肢体を砕き折るには到底到らないが――その動作を阻害するには十分な力にて、脚部への拘束を施す。
「にゃははっ、猫ならぬ狸寝入り大作戦、大・成・功ッ!」
我が身へ降り掛かった異変の元凶を確かめるべく視線を落とすのと、鈴を転がしたように楽しげな声音が耳を打つのは、殆どタイミングを同じにしていた。
一刹那にも満たない時間の中、悪戯っぽく輝く焦茶の瞳と目が合う。血の気が失せて蒼白な顔には、しかし見間違え様も無く、“してやったり”と満面で主張するような会心の笑みが浮かんでいた。
『ああ、今の内にゆっくり休んでおけ。お前にはまた後で、大事な仕事をして貰わなきゃならないからな』
また後で、大事な仕事を。
激闘の末に力尽きて倒れゆくと見えた従者へと信長が投げ掛けた言葉が、稲妻の如く釈迦堂の脳裡に蘇る。
あれは、この後の難局を乗り越えて見せるという一種の決意表明、見事忠勇を尽した従者を安んじて眠らせる為の口舌などではなく――まさしく文字通りの意味だったのだ。あの時点で既に、信長の闘いは始まっていた。己に残された手札から戦場へと罠を伏せ、発動の機を常に窺っていた。それが見事功を奏した結果が、この背面からの奇襲攻撃。
――気付けなかった? まさか、この俺が、か?
確かに、一見して意識を喪っているとしか思えなかった小柄な少女の存在を、釈迦堂が残存戦力として数えていなかったのは間違いない。“壁越え”という偉業を達成してみせた弟子に気を取られ、“それ以外”を忘却の彼方に追い遣っていたのは事実。だが、その前提があって尚、釈迦堂の気配探知能力を以ってすれば、斯様に不意を討たれる事など有り得ない筈だった。
『ヒヒ……なかなか気配を殺すのが巧いな、お嬢ちゃん』
現に以前の遭遇の際、釈迦堂は少女の試みた奇襲を難無く看破している。いかに少女の隠行が見事なものであれ、こうも易々と己に気取られず接近する事など不可能である筈。何かしらの外因が働かなければ、現在のような事態は決して、
――ああ、そうだ。んな事は、考えるまでもねえわな。
そこまで考えたところで、何ら労する事無く正答に辿り着く。小賢しい手練手管を以って不可能を可能へと化かしてみせる奇術師のような輩は、今まさに己が眼前に居るではないか。先程からの一連の流れを振り返れば、その意図するところは明白だった。
即ち、“ミスディレクション”。主にマジックショーなどで用いられる、基礎にして必須の技能だ。視覚、聴覚等の五感を誘導する事で、相手の意識を己の望む方向へと向けさせるテクニック。信長は正体不明の投擲物を以って釈迦堂の注意を真正面の一点に集め――背面に潜む“本命”の動きから意識を逸らさせた。通常ならば存在し得ない“死角”を無理矢理に作り出し、其処を従者に衝かせたのだ。その事実を証明するように、信長が放り投げた謎の物体は、遂に何一つ異変を生じさせないまま地面へと転がっていた。
結果を見れば、信長の目論見は見事なまでに上手く運んだと言えよう。釈迦堂は奇襲への対応に失敗し、渾身の力で絡みつく少女の手足によって下半身を拘束されている。
だが、例え氣を扱い膂力を強化し得る武人とは言え、所詮は越えられぬ“壁”を間に挟んだ力関係。練度の差は明白であり、数秒と要さず力任せに振り解く事は可能だろう。
そして――だからこそ、その貴重に過ぎる“数秒”を最大限に活用すべく、信長が迅速な動きを見せるのは当然の帰結だった。
「―――――ッ」
己が従者の奇襲成功を見届けると同時に、信長は渾身の力を以って地を蹴り上げていた。数間の距離を隔てた釈迦堂へと真っ直ぐに疾駆しつつ、漆黒の大太刀を両手で握る。決然たる意志によって煌々と輝く双眸は、この一閃にて必ず仕留めると自身に誓っている様だった。
事実、これ以上の好機などもはや二度と訪れはしないだろう。脚を抑えられた釈迦堂に太刀筋から逃れる術は無く、また同時に最大の脅威だったであろう踏み込みからのカウンターも封じられている。五尺にも及ぶ長大な刃がリーチの優越に直結する以上、釈迦堂が身動きを取れない限り、信長は相手の間合いの外から一方的な攻撃を加え得る。そして一撃さえ命中させられれば、壁越えの殺気の産物たる黒刃は釈迦堂に致命打を与えるだろう。
――ああ、そうだ。ヒヒ、それでこそ“お前”だよなぁ。
いざ尋常に勝負、と堂々たる啖呵を切っておきながら、舌の根も乾かない内の不意討ち。それも最初から二人掛かりを前提として組み上げられた戦法に則って、である。或いは武人にあるまじき卑怯卑劣だと蔑み憤るべき場面なのかもしれないが、しかし釈迦堂の胸中に込み上げるのは全くの正逆に位置する感情だった。それでこそ、と。手段を問わず、汚名を厭わず、ただ勝利への一念を胸に全力全霊を以って闘争に臨む。地を這い蹲って足掻き藻掻き、遥か天上に輝く星へと必死に手を伸ばす。そんな在り方こそ――釈迦堂刑部が天敵と据えるに相応しい。
幾多の想念が錯綜し、無限と思える程に引き伸ばされた時間の中、徐々に二人の距離が詰められていく。
――だがよ。判ってんのか、信長? お星サマってのはいつだって、簡単に墜とせやしねえから憧れの的なんだよ。
瞠目すべき成長を遂げた弟子を前に、一切の加減、遠慮容赦は無用のものと、釈迦堂は心に定めた。
この紛れも無い窮地に臨んで、釈迦堂は本能に従う獣としての己を封じ、理性を主とする武人としての本領を呼び覚ます。それは即ち、合理。驕りも油断も全てを捨て去り、無法なる力を恃まず理に従う。現状を打開する為に、最適と思われる行動を常に選択する――そういう事だ。
……。
このままでは回避は不可能。さりとて脚を抑える少女への対処を優先すれば、その隙を衝かれるは必定。迎撃こそが然るべき対応だが、其れを為すためには間合いが課題となる。素手と大太刀、保有するリーチの格差は比較するまでもない。ならば――仮にそれらの問題を一挙に解決し得る手法が存在するとすれば、それは何か?
……答えは明瞭。届かぬならば、届ければいい。常人には為せぬ業を以って、状況の不利を覆してやればいい。遍く世を支配する詰まらぬ常識を引っ繰り返す事こそ、壁を越えた武人の本領だ。
結論――奥義には、奥義を。それこそが、現状における最適解。
釈迦堂は時間にすれば一瞬にも満たない思考の中で状況を分析し、判断を下す。そしてその瞬間には既に、肉体は思考に則して然るべき行動を起こしていた。
体内に滾る無数の氣が鳴動し、急速な活性化と共に全身を巡る。前方へと真っ直ぐに突き出される両腕は、筋肉の膨張に伴い黒鋼の砲塔と化す。撃ち放たれるべき砲弾は即ち、体内にて渦を巻きながら練り上げられた凶猛なる氣。発射の衝撃を支える砲台は、釈迦堂刑部の強靭無比なる肉体そのもの。数瞬の時を要さずして、どこまでも破壊的な迎撃の準備が、滞りなく整えられる。
「行けよォ――」
釈迦堂が誇る外気功の我流奥義に、“踏み込み”というプロセスは不要。例え自らが一歩たりとも動けずとも、彼我の距離など関係なく、その一撃は瞬きの間にあらゆる存在を穿ち貫く。常人の反応速度ならば目で追う事すら適わぬ速力にて、氣の保護を受けない人体ならば十回滅殺しても釣りが来る威力にて、狙い定める対象に無慈悲な終焉を運ぶ。織田信長の歪な外気功とは根本的に質の異なる、正真正銘の死を、絶対的な破滅を敵手へともたらす凶弾。
その名は――
「“リング”ッ!!」
両の掌より溢れ出す氣がチャクラムにも似た形状を取りつつ収束、凝縮された破壊のエネルギーへと変換された後……轟音と共に、発射。
世界を震撼させる凶獣の奥義が、曇りなき殺意を引き連れ、哀れな獲物を顎にて喰い千切るべく飛翔する。
「――――」
その、一瞬。擬似的に時すら停め得る釈迦堂の超人的な動体視力が、眼前に捉えたもの。
それは――笑み。
信長は、笑っていた。それはまるで、つい先程目にしたばかりの――そう、今も己の全力を振り絞ってこの脚に獅噛みついている、小柄な少女が浮かべてみせた会心の笑顔と同種の、まるでしてやったりとでも言わんばかりの表情。
…………。
例えばの、話だ。
一人の人間が此処に居るとしよう。氣の扱い方などまるで知らず、武の心得すら欠片もない、まさしく正真正銘の一般人だ。そんな人間に対し、とある狙撃主がスコープ付きライフルの銃口を向け、実弾を装填した上でトリガーを引いた場合、“彼”が死の運命から逃れる事は可能だろうか?
――結論から言えば、可能だ。
では、それは何故なのか。スナイパーの腕前が論外で命中しなかった? 否、紛れもなく百発百中の凄腕で、狙いは疑い様もなく正確だった。不慮の事故で銃が暴発した? 否、日頃のメンテナンスは完璧で、あらゆる機構は至極好調に動作していた。“彼”が命の危機に瀕した事で覚醒を果たし、秘めたる第六感を以って回避に成功した? 否、然様なご都合主義など有り得ない、と躍起になって否定するまでもなく、そもそも彼には眠れる資質など僅かたりとも存在していなかった。
ならば、何故。彼は必殺を期した凶弾の脅威から逃れ、生き永らえる事が出来たのか。
解答は単純明快――知っていたからだ。彼は自身が狙撃されるという事実を先んじて知り、狙撃主の位置とその腕前を知り、殺意と共に銃爪が引かれるタイミングを完全な形で知っていた。それ故に、超人的な反射神経も動体視力も、身体能力すら必要とする事無く、ただ銃弾の辿るであろう軌道から身体を逸らすだけで良かった。ただそれだけの単純な理屈で――傍目には奇跡とも思える“回避”は、在るべき必然として成立し得る。
そう、だからこそ。
本来ならば反応すら出来ない筈の“リング”を完全に見切り、その軌道から身を躱し。
危うくも己の傍を通り過ぎる告死の氣弾に一瞥も呉れる事すらなく、真っ直ぐに地を蹴って前進し。
直後に背後で生じた氣の爆発に何ら動じる事無く、禍々しき純黒の刀刃を大上段に振り上げ。
どこまでも強固な意志を宿した双眸を以って、一番弟子たる織田信長が此方を見据えているのは――奇跡と云う名の神の御業などでは断じてなく……脆弱なる人間が戦慄すべき執念によって血塗れの努力を積み重ねたが故に、成るべくして成った必然であるのだと。その一瞬に、釈迦堂は悟る。
――ああ、そうだよな。真剣で頑張ってたもんなぁ、お前。
織田信長という少年には、武人として大成するには足りないものが多過ぎた。凡百の武術家を目指すならばともかく、壁越えの人外達と並び競って頂点の座を争うとなれば、その欠陥は致命的だった。生半可な努力では到底埋め合わせられない程の大穴。それを僅かでも補う為、死を覚悟で鍛え上げたステータスこそが、回避能力。その基盤は身体能力に非ず――“観察”こそが、それを支える真髄だ。
そして、その為に必須となる数々の能力を強引に磨いたのは、他ならぬ釈迦堂自身である。常に死を親しい隣人として続けられた、一年間に渡る過酷な修行。その中で信長は自らの力を高めると同時に、釈迦堂という武人に関するあらゆる事項を観察し尽していた筈だ。いずれ越えると宣言した以上、思慮の限りを尽して打倒の術を絶えず模索し続けていたに違いない。
特訓中には辛うじて回避が可能となる様に手加減していたとは言え、信長は先程の技――“リング”も幾度か目にしている。それらの経験に基づいて、氣の流れや筋肉の動きといった予備動作から、発動に到るまでのタイムラグ、氣弾として撃ち放たれてから着弾までに描く軌道……総てを余さず脳内に叩き込み、幾度も幾度も、それこそ気の遠くなるような回数のシミュレーションを繰り返した果てに、たった一度きりの回避行動を全霊で練り上げたのだろう。いずれ必ず来る事が約束されていた、決戦の時に備えて。
――掌の上、って訳かよ。本当に可愛くねえ弟子がいたもんだぜ、ったく。
ならば当然、そもそもにしてこの状況自体が、恐らくは信長の想定した通りのもの。信長は最初から釈迦堂に“リング”を使用させ、それを自らが回避する事を前提として戦術を組み立てていた。脚を封じ、リーチで優越し――釈迦堂が自らの判断の下に奥義を用いるよう思考を誘導し、そう在るべく周到に場の状況を整えていたのだ。対峙から現在に到るまでの一連の流れは、あらゆる事象が信長の脳内で紡がれたシナリオに従って推移している。そして恐らくは……まさに“今この瞬間”も、それは変わらない。
『必殺技にゃもれなく硬直ってモンが付いて来るだろ? 適当に撃って外した隙に懐まで入り込まれでもしたらその時点で反撃確定じゃねえか』
『キャンセルで隙消しとか出来ないのか? こう、G×Gの浪漫キャンセル的なノリで』
『できねーよ。人体構造と物理法則をなんだと思ってんだお前、最近噂のゲーム脳って奴か?』
思えば、釈迦堂が雑談として処理していたあの何気ない会話も、信長にとっては戦に備えた情報収集の一環だったのだ。天上に坐す師に対する弟子の挑戦は、遥か以前から既に始まっていた。
そう、“リング”は確かに強力な外気功だが、断じて万能無敵の必殺技などではない。ひとたび撃ち放てば、その強烈な反動は釈迦堂の強靭な肉体にすら数瞬の硬直を強いる。故に、もしもこれほどの近距離で標的を捉え損なうような事があれば、それは即ち……反撃の一閃を被らざるを得ない事を、意味している。
――ヒヒ。参ったな、こりゃ。
純然たる実力にはまさに天地の差がありながら、最初から最後まで翻弄され、掌の上で踊らされていた――その驚くべき事実に些かの苦渋を飲むと同時、それに倍する感嘆と賞賛の念を抱く。もはや釈迦堂の手中には、一切の選択肢が存在しない。回避は不可能、防御は無意味。迎撃の機は既に喪われた。事此処に到っては、覚悟を決して未知の脅威を受け止める他に道は無い。
――本当、大したもんだぜ、お前。
何処か場違いな穏やかさすら感じる心地の中、釈迦堂は氣を全身に充溢させ、来るべき殺気に抗するべく備える。
時を経ずして、天へと翳された黒の大太刀が、烈昂の気迫と共に振り下ろされた。
上段から繰り出されるは、左袈裟の一閃。風雨を断裂させつつ落下する黒刃が、やがて釈迦堂の右肩に食い込み――
「が、ァッ!?」
無意識の内に喉奥から漏れたのは、獣じみた呻き声。
寸刻前の悟ったように静穏な心境など――然様に呑気極まりない“余裕”など、正しく一瞬の内に欠片も残さず霧散していた。“これ”の保有する甚大な脅威に心身を晒されては、師としての体裁を取り繕う事など適う筈も無い。精神とは無関係な部分で、肉体に刻まれた本能が其れを釈迦堂に赦さなかった。
実体無き黒刃による斬撃がもたらす衝撃は、想像を絶するものであった。斬り裂いていく。断ち割っていく。皮でも肉でも骨でもなく、生命の根源の部分に存在する何かを。この刃は無情な冷徹さを以って、殺そうとしている。寒気と怖気が綯交ぜとなったおぞましい感覚が刃の裂いた“傷口”から広がり、神経を伝って全身を侵す。肉体に宿る本能が、最大限の勢力でアラートを鳴らし続けていた。絶対にこれの侵入を看過してはならない、これは釈迦堂刑部という一個存在に致命的な破壊をもたらす、と。
「ギィ、ガァアアッ!」
自然の内に人語の態を為さぬ叫びを上げながら、文字通り死に物狂いの内気功を以って殺気の蹂躙に抵抗する。徐々に押し込まれつつある黒刃を一刻一秒でも早く己が体外へと弾き出すべく、必死の想いでひたすらに足掻く。武人としての矜持など、もはや脳裡に浮かびすらしなかった。世に在る筈も無かった脅威を前に巨大な恐慌に駆られ、吼え猛り、狂躁しているのは――ヒトではなく、一個の獣。ただ遺伝子に刻み込まれた生存本能に従い、釈迦堂は無我夢中の内に己の定めた限界すらも踏み越えて、莫大な氣を体内に生じさせる。規格外の武人が身命を賭して練り上げた氣の勢力は、魂を斬り裂かんとする黒刃を押し留め――
「おおォォオオオオオオオオオオオッ!!!」
獣の咆哮と共に爆発的に膨れ上がった氣は、身に突き立てられた殺意の牙すらも超越した。尚も留まらず肉体から溢れ出した氣が衝撃波と変じて、周囲を薙ぎ払い――脚部に纏わり付いていた小柄な少女を一瞬の内に公園の敷地外まで吹き飛ばす。
そして眼前の少年もまた、釈迦堂の眼前に立ち続ける事は不可能だった。敵手を睨み据える双眸は未だ不屈の色を宿していたが、精神論で物理的な衝撃に耐えられる道理は無い。全身へと叩き付けられる暴虐の波濤に抗う事は適わず、足裏が地面から浮き上がり、枯葉の如く宙を舞う。
「――――――」
やがて荒れ狂う氣は収束し、あたかも総てが死に絶えたような静寂が落ちる。
幾多の想念を通わせた、僅か数秒間の交錯を経て、尚も立っているのは唯一人。
――闘争の権化たる凶獣は未だ、斃れない。
昔から、土の味が嫌いだった。
とは言っても、よほどの好事家を除けば好きだと言う人間も居ないだろうが――いや、それ以前の問題として、わざわざ好悪を区別する程に土の味というものを知っている人間が現代日本にどれほど居るのか?
……まあ、余人はともあれ、だ。少なくとも俺は、幾度も幾度も無理矢理に地面に這い蹲らされ噛み締めさせられた屈辱の味を、一度たりとも忘却した事は無かった。未来永劫同じモノは味わうまいと心に決め、その事を一つの目標に設定しつつ人生を過ごしてきた訳だが……誠に遺憾ながら、どうやらその点に関しては目標成就ならず、と言ったところらしい。
「………………ぅ」
口の中には、忌々しくも懐かしき土の味。正確には泥の味と言うべきなのだろうが、まあ両者の差異を事細かに語っても仕方が無い。いずれにしても最悪の味には変わりなかった。
ああ、兎に角、酷い気分だ。
被害を蒙っているのは口内だけではなく、全身がぬかるんだ泥土に塗れて汚れ切っているのが分かる。衝撃の所為でいまいち前後の記憶が曖昧だが、どうやら数秒の間に幾度も地面を転げ回った結果らしい。いい年をした男子高校生が公園で泥遊びとは、お世辞にも微笑ましいで済ませられる光景ではないだろうに。然るべき国家機関への通報・連行という笑えない事態を避ける為にも、一刻も早く立ち上がらなければ。
……。
立てよ。さっさと立て。呑気に寝転がってる場合じゃあ、ないだろう。
碌に脳髄からの指令に応えようとしないサボタージュ気味の筋肉を叱咤激励して、うつ伏せの体勢から身を起こす。ただそれだけの動作で力尽きでもしたかの様に、全身へと強烈な疲労感と倦怠感が襲い掛かった。氣の枯渇によって体温が喪われているのか、爪先から頭頂に到るまでのあらゆる箇所が凍える様に寒い。ほんの僅かでも気を緩めれば、途端に視界へと白い靄が掛かり始める。
何をせずとも急速に薄れゆく意識を、しかしそのまま霧散させる訳にはいかない。渾身の力で瞼をこじ開け、重石を持ち上げるような気合と共に視線を上げる。俺が今この瞬間に見据えるべき唯一のものを、視界へと捉える為に。
――ああ、畜生。アンタを相手に一撃で片を付けようなんて、やはり考えが甘かったか。
案の定だ。俺の越えねばならない真の壁は、依然として健在だった。数間の先にて両の脚で地面を踏みしめ、未だ倒れ伏す事無く立ち続けている。
ならば――俺もまた、立ち上がるのが道理だろう。一方的に見上げ、見下される忌々しい関係に終止符を打つと、そう決めたのだから。
「ぐ、ギィ……ッ」
動かぬ手足に力を込めようと試みれば、奇怪な音が咽喉から漏れ出た。構いはしない。もはや恥も外聞も知った事か。例えみっともなく小水を垂れ流してでも、立ち上がれ。その一事こそが、万事に優先する。
『わたしはシンちゃんが泣いていたら、なにがあっても助けます』
守る。
『どんなにむちゃだって言われても、むぼうだって怒られても、わたしはシンちゃんを助けます』
今度こそ、守る。
『どうしてもこうしてもなくて、そうするべきだからそうするんです! それはぜったいにぜったいですっ』
必ずこの手で守り抜くと、誓った。その約束は絶対だ。絶対に、絶対だ。
反故にする位なら――否、何があろうと反故になどしない。今更、惰弱な諦観なぞに俺の精神を折らせて堪るものか。
だから、立て。後の一生を立ち上がれずに過ごすとしても、今、此処で膝を屈して座り込む事だけは決して許さない。例え世界中の人々が寛容の笑顔と共にそれを許したとしても、俺だけは断じて己の挫折を認めない。
「―――ッ!」
……良し、そうだ、それでいい。やはり不可能などではない。まだ俺は、立てる。己を取り巻く理不尽へと立ち向かえる。
そうして漸く人並みに視点が高くなった事で、我が師匠のご尊顔が良く拝めるようになった。死人の如く青褪めた顔色で、心臓の鼓動を確かめる様に胸を抑え、大きく息を切らしている。俺の奥義をレジストする為によほど甚大な氣を消耗したのか、傍目にも苦しげな表情を浮かべたその姿は――既に遥か高みに坐す天上人のそれではない。
届いたのだ。己の全霊を賭して伸ばしたこの指先は、確かにその身へと届いていたのだ。凶星は地に墜ち、あれ程の禍々しさを誇った輝きは今や弱々しく明滅を繰り返している。
――“半端は許さねえ”、だったな。ならば、お望み通り……決着を、付けようじゃないか。
一太刀にて斃せないならば、どうする? ……対処法は、笑える程に単純明快だ。即ち、もう一太刀を浴びせるまで。それでも斃れないなら、更なる一太刀を加えればいい。幾度でも幾度でも幾度でも幾度でも、眼前の凶獣が地面に這い蹲るまで、ひたすらに殺意の刃を突き立て続けてやる。
先程の衝撃波で吹き飛ばされたのか、周囲にねねの姿は見当たらないが――いや、この期に及んであの有能な直臣を戦術的に頼る事はすまい。あいつは限界まで消耗した肉体に鞭打って、もう十分以上に働いてくれた。此処から先は、主君たる俺が果たすべき仕事だ。
「が、ァ、ァァアアッ!!」
再度の魔剣形成の為に氣を絞り出そうと試みれば、忽ちヒトのものとは思えぬ咆哮が喉から迸る。
それは生命維持の危機に瀕した肉体の発する危険信号と同義の絶叫だと知っていたが、俺は頓着しなかった。かつてない程に過酷な闘いとなる事は百も承知で、覚悟の上。俺のような欠陥だらけの武人が、釈迦堂刑部と云う本物の人外を相手に、何の代償もなく勝利を得られるようなご都合主義は元より期待していない。
相手が先程の一太刀から立ち直らぬ内に勝負を決さなければ、もはや二度と俺に勝機は訪れないだろう。故に、脆弱な肉体が漏らす惰弱な泣き言なぞに付き合ってやる暇は無い。
……いつでも、そう。世界は無情で冷酷だ。零を幾ら積み重ねても、数字が零から動く事は無い。そして必要不可欠な一を得る為に求められるものは、万人に対して平等ではない。
だが、どれほどの苦痛を伴っても、どれほどの努力を要しても、一歩ずつであれ確かに前へと進めるのであれば、いずれ必ず那由他の果てへも辿り着けるだろう。
故に、諦めない。
故に、闘う。
命を燃やし尽くしてでも、あらゆる理不尽に抗い抜いて見せよう。
――さあ、修行時代以来の久々に、地獄を覗いてくるとしようか。
今一度、死告の魔剣をこの手に握るべく、決死の覚悟で氣の生成を続行し――
「――――――」
不意に訪れたのは、酷く優しい感触。温かく、柔らかく、安らぎに充ちた感覚が、冷え切った肉体を慈しむ様に包み込んでいく。
抱擁。
背後からこの身を抱き留めているのが何者なのか、首を巡らせて確かめるまでもない。常に誰よりも俺の近くに在ったこの気配とこの温度を、余人と取り違う事など有り得ないのだから。
「……離せ、蘭」
たったそれだけの言を紡ぐのに、想像を絶する力を要した。それでも喉から漏れ出たのは、無様な程に弱々しい掠れ声でしかない。少しでも距離を置けば、嵐に掻き消されてしまう事だろう。だが、俺の背中に華奢な身体を預けている蘭に対し、自らの意を届けるには十分だった。
「離せ。これは、俺の闘いだ」
「ダメです、離しません。これ以上は、限界です。シンちゃんの体が、保ちません」
「それを決めるのは、お前じゃない。俺はまだ、止まれない」
「シンちゃんは、十分に頑張りました。たくさんたくさん、頑張ったんです」
「……ああ、頑張ったさ。だから、何だ? “良く頑張ったで賞”でも授与してくれるのか? 生憎と、そんなものに価値を見出せるほど、俺は目出度い人間じゃない」
然様な慰めの言葉を掛けてもらう為に、血反吐を吐いて積み重ねてきた訳ではない。
俺が臨んできた闘いは、俺が臨んでいる闘いは、お前に下らない自己犠牲の決心を固めさせる為のものでは、断じてない。
お前が俺を許しても、俺が俺を許さない。
「これ以上、無駄な努力をするなよ。俺を諦めさせる、なんて事は早々に諦めるべきだ。何を言おうと、俺は、お前と一緒に――」
「――ええ、一緒に。一緒に、生きるんです」
ぎゅっ、と。俺の身体を抱き締める両腕に、力が込められた。燃えるような熱を帯びた声音が、耳元で囁かれる。
「私も、生きたい。シンちゃんの傍で笑って、一緒に未来へ歩いていきたい」
「……蘭?」
「一緒に生きたいから――、一緒に、闘うんです。痛みも苦しみも、もう二度と、シンちゃん一人に背負わせたりしない」
それは久しく耳にする事の適わなかった、力強さに充ちた蘭の声音だった。遠い昔日、俺が一目で憧憬の念を抱いた少女と同じ、どこまでも純粋で、真っ直ぐに胸へと響く声。
「シンちゃんの背中が、教えてくれました。ずっとずっと忘れてしまっていた、“立ち向かう”ことの意味を、思い出させてくれたんです。そして、私は、やっと見出せました。私が何のために生まれてきたのか、答に到る事が出来ました」
噛み締めるような想念と共に言葉を終えると、蘭はそっと抱擁を解き、俺の隣へと歩み出た。
いつの間に拾い上げていたものか、腰には呪わしくも鮮やかな件の朱鞘を帯びている。ひとたび抜けば、殺戮を撒き散らす血染めの凶刃。撫ぜるような仕草で鯉口へと五指を滑らせながら、蘭は決然たる口調にて言葉を続けた。
「だから、終わりに向かうためじゃなく。新しい始まりを迎えるために、私は自分の業と向き合おうと決めました。自分の血から逃げずに立ち向かおうと、決めたんです。……シンちゃんは、それを止めますか?」
煌くような意志の焔を黒耀の双眸に灯して、蘭はじっと俺を見据えている。問い掛けの体を取ってこそいるが、揺ぎなく据わったその眼差しは、例え何を言われても止まる気が無いと雄弁に語っていた。
……ああ、そうだ。頑固一徹で融通が利かず、思い込みが激しく人の意見をまともに聞かない。自分勝手で傍迷惑で――しかし疑いなく、誰よりも純粋で真っ直ぐな魂の持ち主。随分と離れていた所為で半ば忘れ掛けていたが、森谷蘭とは元よりそういう人間だった。我の強さで言うならば、俺など可愛いものだ。
「ふん」
止められない。今の俺では肉体的にも精神的にも、蘭を制止する事は不可能だろう。だが俺は、それが悪い事だとは思わなかった。
もはや蘭の瞳には、悲壮な諦観の色も自暴自棄の色も見当たらない。ありとあらゆる艱難辛苦を己の意志で乗り越えようという、呆れる程に力強い覚悟の光だけが充ちている。弱々しく座り込んで涙を流すだけがお仕事の“悲劇のヒロイン”は、どうやら既に廃業したらしい。ならば、俺如きが一体全体何を憂う必要があるだろうか。
―――ああ、悪くないじゃないか。全く以って、悪くない。
自然の内に口元へと浮かび上がろうとする笑みを堪えながら、応える。
「望む通りにすればいい。お前の無鉄砲な無茶無謀に付き合うのは、俺の宿命なんだろうさ」
ぶっきらぼうに言ってやると、忽ちの内に花のような笑顔が咲いた。
「一つだけ、お願いがあります」
「何だ?」
「……手を。手を握っていて、くれませんか? どうしようもなく弱い私でも、シンちゃんが傍に居ると感じられれば……それだけで、強く在れると思うから」
ああ、何だ。その程度なら、お安い御用。
神経が麻痺しているかのように巧く操れない腕をどうにか動かし、手と手を重ねる。恐る恐る絡めてきた細い指を、精一杯の力で握り締める。触れ合った掌を通じて互いの血が絶え間なく行き交っているような、不可思議な一体感があった。今の俺は、蘭の胸を打ち鳴らす鼓動すらも鮮明に感じている。恐らくは蘭の側でも、それは同じなのだろう。
「シンちゃん」
空いた片手で太刀の柄を握りながら、蘭が口を開く。
「何だ」
俺の相槌から一拍を置いて、朱鞘が静かに滑り落ちる。鋭利に光る白銀の刃が身を晒す。
その、刹那。
蘭はかつて見た中でも最高に眩しい、太陽すらも翳って見えるような満面の笑顔で、言った。
「――あなたを、心から、愛しています」
黒い海の底へと、潜っていく。自身の臨む不可思議な感覚を敢えて言葉にて形容するならば、相応しい表現は他に無いだろう。
己が周囲を取り巻くその色は、世に氾濫するあらゆる汚濁と悲劇を覆い隠し、傷に塗れた心を優しく包み込んでくれる夜闇の黒――では、ない。むしろ性質としては真逆の、決して他と交じり合うまいと云う排斥の念に満ちた、白刃の如く冷たい黒色。
矮小な個人の意志など瞬く間に呑み込み、溶解させてしまうであろう“黒”の正体を、森谷蘭は知っている。殺せ殺せ殺せ殺せと囁き訴え呻き唱えて吼え叫ぶ“彼ら”が何者であるか、知っている。それは数百年の永きに渡って森谷の血族が子々孫々に託してきた意志――即ち殺意の集合体だった。幾千もの血族が屍山血河と共に築き上げた妄念。救い無き世に救いの光明を求める祈りであり、純なる願い。
独りの身には背負いきれぬ膨大な想念の渦の只中に在って、未だ自意識が途絶える事は無かった。だが、何ら不思議はない――今この瞬間、森谷蘭は“独り”ではないのだから。
掌には、決して消えない温もりが在る。繋いだ手と手を通じて、魂と魂もまた繋がっている。幾億の闇に呑み込まれ、心身が儚く溶け消えようとも、其処には必ず残るであろう“熱”が在る。ならば、何を恐れる必要があるだろうか。この胸に宿る想いは、万の血族が遺した殺意であろうと掻き消せはしない。
ひとたび気付いてしまえば、それは本当に簡単な事だった。自分の想いが分からない、と涙を流して苦悩した事実がまるで嘘であったかのように、導き出された答は明瞭であった。絶望的な高さにて立ち塞がる壁を前にも決して諦めず、文字通りに命を賭して困難へと立ち向かい続ける誇り高き背中。もはや力の残っていない肉体を引き摺って闘い続ける姿を、瞳に映した時――あらゆる理屈を越え、いかなる言葉も意味を為さない心の深奥にて、森谷蘭は己の想いを明晰に自覚した。
――ああ、わたしは、このひとを……どうしようもなく、愛している。
ただただ、愛おしい。喪いたくない。一緒に居たい。抱き締めたい。心も体も包み込んで、護りたい。
つい先程までは胸中に在った疑念も懊悩も逡巡も、激しく心を充たす一念にて押し流された。総ての感情はたった一つの想いへと包括されて、どこまでも純粋に煌いている。もはやこの身を縛り妨げるような“弱さ”は何処にもない。力強く脈打つ心より送り出されて肉体を巡る血は燃え滾るように熱く、冷たい雨に凍えていた心身は今やかつてない活力に溢れていた。
故に、立ち向かえる。弱い心では向き合えなかった己の業と、今こそ正面から対峙が適う。
心身を蝕み乗っ取ろうとする漆黒の闇を、胸に宿った灯火で掻き分け払い除けて、より深奥へと沈み続けると――やがて殺意の根源たる“海底”に、辿り着く。
「…………………………」
独りの少女が、其処/底に居た。
十歳にも満たないであろう幼い少女が、光の差さない闇の中、膝を抱えて座り込んでいる。
少女は血塗れだった。紛う事なき死に塗れていた。少女の周囲にあたかも遊び終えた玩具のような有様で乱雑に散らばっているのは、原型を留めぬ程の無惨さで切り刻まれた無数の死体。猫の死体があった。犬の死体があった。数え切れない、ヒトの死体があった。そして少女の傍には、良く見知った顔が二つ。森谷蘭が敬愛して已まなかった両親の、生首だった。己の撒き散らした血と死によって化粧された、赤と黒の化生。
ああ、なんておぞましい。まさしく魔物だ。忌むべき怪物、世に在るべきではない悪鬼。誰もが少女をそう判じ、適うならば存在すら忘却の彼方へと追い遣りたいと願う事だろう。だから――かつて、自分はそうした。目を逸らし、背中を向けて、じっとこちらを覗き込んでいる恐ろしい少女から逃げ出した。己の正義を疑いもなく信じていた無垢な少女は、他ならぬ自らこそが世の人々に憎まれるべき災厄に他ならないという現実に、耐えられなかった。脆弱な心を護るため、いつでもすぐ傍に居た少女に見ぬ振りをして、頑なに向き合う事を避け続けていた。
だが――今、こうして真正面からその姿を見れば、全てが分かる。
こちらを見返す幼い少女の双眸に、邪悪は無かった。纏わり付くような粘性の悪意も、世界に対する狂気的な呪詛の念も無かった。冷酷無情の悪鬼でも、残忍非道の魔物でもなく……ただそこには、何も知らない無邪気な子供の瞳が在るだけだった。
「そう、ですよね。あなたは、ただ……」
嘆息のように漏れ出た呟きに、幼い少女はきょとんと首を傾げた。
そんな少女と目線を合わせる為に腰を屈めて、柔らかく微笑みながら、言葉を投げ掛ける。
「あなたは、守りたかったんですよね。大切なものを、守りたかったんですよね。……その為の手段を、他に知らなかっただけで」
現世の物事を何も知らない少女は、しかし“殺す”事だけは誰よりも良く知っていた。森谷一族の受け継いできた殺意と殺法だけが、無垢な少女の有する力であり、行動原理だった。だからこそ――少女が目覚めてからの十年間、森谷蘭が大切なものを護りたいと願った時、少女はいつでもそれに応えた。忠誠を尽くすべき“主”が何者かに傷付けられそうになれば、少女はこの心の奥底から助力をしてくれていた。
森谷蘭は、眼前の少女を形作る“血”を想う。自らが“呪い”と断じて忌避した血族達の願いを想う。
この業を創めた遠い先祖は、それを受け継いできた一族は、そして今尚愛する父と母は――悪鬼の如く血に飢え、我欲のままに殺戮を繰り返す為に殺意を求め殺法を練り上げたのか? 己の望まぬ世界の在り方を呪い、そこに息づく生命達の仇敵たらんと欲するが故に血潮に塗れて闘ってきたのか?
違う。
『どうかすべての善き人々が、笑顔で在りますように』
彼らは、彼女らは――守りたかったのだ。世の平穏を、人々の笑顔を、悪しきものから守りたい。その一心を以って、己が信念を支えに刃を振るったのだ。世の人々はその在り方を疎むだろう。忌むべき狂気に冒された悪鬼と恐れ憎むだろう。それは決して誤った見解などではなく、どう足掻いても覆し様のない真実の一部だ。
だが……森谷一族最後の末裔である自分が、その信念に込められた祈りと願いを正しく理解しようとしなければ、彼らの切たる想念の全ては真の意味で、単なる狂人の戯言と成り果ててしまう。
『いいかい、蘭。森谷の剣は、この世の悪を絶ち、義を護る剣。殺す為に殺すのではなく、殺意を以って大切なものを護り通す為に在るんだ。……うーん、まだ君には難しかったかな? 大丈夫、もっともっと大きくなれば、いつかきっと理解できるさ。何と言っても君は私達の、自慢の娘なんだから』
遥か彼方に埋もれた幼き日の記憶が、不意に蘇る。
十年前、自らの責によって横死を遂げた両親。彼らはきっと、自分に生きて欲しかったのだ。自分達の娘ならば“血”と向き合い、殺意に呑まれず剣を握れると信じ、臆する事無く笑って逝ったのだ。それは間違いなく狂気に塗れた思考の発露ではあったが――同時に、疑いなき愛の証明でもあった。
ならば、応えよう。志半ばに斃れた幾千の血族と両親の想いに、今こそ応えよう。
殺意は在る。森谷蘭の傍に在る。その現実を正しく認識し――承認しよう。否定と拒絶が無意味であるなら、肯定と受容を以って迎え入れよう。それこそが森谷の剣士としての“完成”へと到る為に必要不可欠で、最も重要な行程に他ならないのだと、悟りを得たが故に。
「ごめんなさい。ずっとずっと、こんなところに閉じ込めて、見ない振りを続けてきて。あなたはいつでも、私のすぐ傍にいたのに」
穏やかな微笑みを湛えつつ、血塗れの少女へと語り掛ける。自分と同じ漆黒の双眸が、じっとこちらを見返していた。
全く、傍から見れば単純明快な事であるほどに、自分ではなかなか気付けない。それが森谷蘭の抱えるどうしようもないサガなのだろうな、と呆れ混じりに思考しながら、想いを込めて言葉を紡ぐ。
「わたしは貴女で、あなたは私」
決然たる言葉と共に、闇の底に座り込む少女へと、手を差し伸べる。
十年間、目を逸らし続けてきた少女の瞳を真正面から見据えて、真っ直ぐに――告げる。
「さあ――共に、往きましょう?」
一瞬の空白。
そして少女は、無邪気に破顔して――嬉しそうな笑顔のまま、差し伸べた手を、掴んだ。
急速に意識が浮上したのは、その直後。
少女との邂逅は、現実に於いては一秒にも満たない時間だったのだろう。己の深奥へと潜る前と、状況は何一つとして変わっていない。左手には無限の力を与えてくれる温もりが。そして、黒の海底にて幼い少女の手を握った右手には――降り注ぐ雨粒を散らして冷たく冴え渡る、一振りの白刃が在った。朱塗りの鞘は地に落ちて、抜き身の刃を制するものは己のみ。それでも、不安はもはや無い。
一瞬だけ瞼を閉して息を吐き、傍でこちらを見守る少年に向けて声を発する。
「シンちゃん」
「……もう、いいんだな?」
「はい。ホントを言えば、いつまでも繋いでいたいですけど……刀刃を片手で扱えるほど、私は器用になれませんから」
「くく、そうだろうさ。お前ほど不器用な人間なんて、川神中を探した所でそうは居ないだろうからな」
「むぅ。否定はしませんけど……、そんな風に不器用な女の子は、キライですか?」
「……いいや。割とストライクゾーン、ド真ん中だ」
「ふふっ。ホントにシンちゃんは、口が巧いんですから。……でも、今回は、騙されてあげます」
名残を惜しみながら、絡めた指を解き、重なり合っていた双つの掌をそっと離す。
繋いだ手と手が解けても、魂を結ぶ繋がりは消えない。胸を充たす温もりは残っている。ならば、先程までと何ら違わず、恐れる事は何も無い。
「釈迦堂さん。無粋を承知で、申し上げますが――今この瞬間より、貴方の相手は私と、然様にお心得戴きますよう」
刃の切っ先と共に向けられた宣戦の言葉を受けて、釈迦堂刑部は青褪めた唇を歪めながら愉快げに笑う。
「ヒヒ、構やしねえよ。そういうお約束を派手に叩き潰してこそ、悪党やってる甲斐があるってモンだ。言っとくけどよ、俺は縁結びの噛ませ犬なんつーアホらしい役回りで終わってやる気はねえからな。最後まで陳腐な王道物語って奴を貫きてえなら――せいぜい気張りやがれよ、若造ども」
楽しげな言葉を吐くと同時、屈強な体躯より吹き上がる闘氣は依然として禍々しく、そして万人を寄せ付けぬ力強さに満ちている。
むべなるかな、一刀を携え向かう敵手は、川神院元師範代・釈迦堂刑部――壁の向こうに坐す凶獣は、かつて森谷蘭の繰り出す全力の剣閃を鼻唄混じりに捌き得た怪物だ。いかに消耗し憔悴し衰弱しているとは言え、その圧倒的な実力差は易々と埋まるものではない。
「――いざ」
故に。昔日の己を超克し、望む未来を切り拓く為に――森谷蘭は、己の殺意を解放する。
釈迦堂の纏うそれをも霞ませる程に禍々しい漆黒の氣が内より溢れ出し、外界を浸蝕し始める。両手に握る白銀の刃が瞬く間に黒く染まり、二回りは長大な大太刀へと姿を変える。手にした得物だけではなく、異形の氣は肢体の全てに纏わり付き、闇の中へと呑み込まんとばかりに覆い尽していく。
そして――それらの行程を、明瞭な自意識の下に、俯瞰する。
この身に宿る膨大なる殺意の渦は荒れ狂う波浪にも似て、理性による制御は及ばず、半ば意識を手放し流れに身を委ねる他に道は無い。事実、自らの意志でこの絶大な“力”のうねりを使いこなし得た経験は一度として無かった。
だが、今ならば。自身の内に在る殺意を承認し、我が身の一部として受け入れた今ならば。燃え滾るような熱を伴いながら胸中を充たす想念によって、不可能は可能へと変じる。即ち、獣の暴虐ではなく人の剣理を以って、全身を駆け巡る莫大な力を行使し得るだろう。
無論、未だ殺意の制御そのものに習熟していない以上、満足に意識を保ち得るのは僅かな時間に限られよう。故に――勝敗を決するは、一太刀。次なる一閃に、己の培ってきた全てを込める。
「…………」
真正面から敵手と向き合い、刃を中段に構える。何の変哲も無い、剣術の基礎たる正眼の構え。
だが、それで良い。問題は何も無い。この立ち合いに、巧緻を凝らした奇想天外の魔剣は不要。
思えば物心付いた頃から、来る日も来る日も剣を振り続けてきた。雨の日も、雪の日も。日の昇る前から起床し、ひたすら地道な素振りを重ねてきた。万難を排して“主”を守護する刀となるべく己に課してきた、一心不乱の鍛錬。それらの全てが己を裏切らぬと心底から信じ、研鑽の果てに築き上げた最高の“一閃”を見舞うまで。
―――シンちゃん。私の、守るべきひと。
斯くして少女は生死を別つ死線の際に、一途な心で少年を想う。
常にこの胸の裡に住まい続けてきた彼は、いかなる時も歩みを止めず前へ前へと進み続ける。不屈の意志と滾る熱情を力に換えて、進むべき道を切り拓いてゆく。きっとこの先も、負傷を恐れず、苦痛を厭わず、絶望すらも己が器に呑み込んで、躊躇う事無く覇道を邁進するのだろう。
――ならば私は、一身を以ってその身を支え、明日へと羽撃たく翼に成ろう。
――あなたの掲げる眩しき“夢”に絶えず寄り添い、遥かな未来へ共に翔ぼう。
「――――――」
瞬きの合間に、踏み込みが大地を粉砕し、太刀筋が大気を斬裂する。
数間の距離が有する意味を消失せしめ、殺意の黒刃は音すらも置き去りに奔り抜ける。
――其は、複雑怪奇の魔剣に非ず。偏に一人を想い続ける乙女の一念が織り成す、何処までも愚直な壱の太刀。
即ち“愛”の一字にて殺意を征し、刹那の狭間に“壁”をも越えて閃く一刀は、
―――比翼之剣・天下布武。
弐の太刀は、要らなかった。
勝因:愛。
字面で見ると何やら読者の皆様から石を投げられそうですが、事実なのでどうしようもないという現実。
と言う訳で、色々と勘繰っていた方が多そうなサブタイトルは割とそのままの意味でした。信長と蘭の関係に関しては一段落付いても、他に色々と決着を付けるべき事が残っていますので、物語全体としての最終回はまだ先になります。もうちょっとだけ続くんじゃよ、的な。
今回、釈迦堂さんという反則級の強キャラをオリキャラが打倒するというアレな展開を書く以上、戦闘描写に相応の説得力が伴わなければ目も当てられない事になりそうだったので、色々と解説を挟んで補完を試みていますが……結果的に文章が冗長に感じられたなら申し訳ありません。スピード感と説得力の二つを上手く両立出来る人は本当に凄いと心底思う今日この頃です。精進あるのみ。
まだ物語は続きますが、兎にも角にもこの一つのチェックポイントまで漕ぎ付けられたのは、ひとえに読者の皆様の有難い支えあっての事。宜しければ今後も、今作の鈍い歩みに付き合って頂ければ嬉しく思います。それでは、次回の更新で。