四月九日、金曜日。
まるで鈍器で殴り合うかのような耳障りな音と、あたかも骨をへし折られたかのような喧しい悲鳴をアラーム代わりに、俺は目を覚ました。
のっそりと緩慢な動作で上半身を起こして、枕元の目覚まし時計に目を遣る。表示時刻は、午前五時ジャスト。
なんと言うことだろう、本来の起床予定時間よりも一時間以上も早い。なるほど、道理で寝足りない気分な訳だ。
しかしそれでいて、わざわざ二度寝するほどの纏まった時間も残っていないときた。全く、何とも中途半端なタイミングで叩き起こしてくれたものである。
眠い目を擦りつつ、窓の外に映る景色を睨み付ける。
当然の話だが、時間帯が時間帯だけに、部屋の外はまだまだ薄暗い。
ベッドの縁に腰掛けたまま朦朧とした意識で思考すること数分、俺は意を決して立ち上がった。
「やれやれ。致し方ない」
丁度いい機会だと思って、本日はいつもより気合を入れて朝の鍛錬に取り組む事にしよう。
ひび割れがあちこちに走った鏡の前にて洗顔、歯磨きを済ませ、手櫛で寝癖を抑え付ける。
次いで蝶番の軋むクローゼットの中から適当な上着を選んで引っ掛け、最後に冷えた麦茶で渇いた喉を潤してから、俺は玄関のドアを開け放った。
朝方の新鮮な空気を吸い込みながら、間違っても踏み外さないよう慎重に階段を降りて、いつものように中庭へと向かう。
予想通り、そこでは我が従者が勤勉に木刀の素振りをしている最中であった。
「あ、お早う御座います、主!」
「うむ」
俺の姿を見つけるや否や、いつものように鍛錬を中止してぱたぱたと駆け寄ってくる蘭に、鷹揚に頷く。
「今日は随分と早いお目覚めですね。あ、すぐに朝食を用意致しますので、少々お待ち頂ければ幸いに存じます」
「うむ。俺は此処で鍛錬を始めるとしよう」
「ははっ、ではこちらまで食膳をお持ち致します。して、和・洋のいずれをご所望でありましょうか」
「和」
「承知致しました!この森谷蘭、主のご期待に沿うべく死力を尽くして朝餉を用意致しますっ!」
無駄に暑苦しく叫ぶや否や、蘭は鍛錬用の木刀をぽいっと放り投げて、老朽化した階段を嵐の如き勢いで駆け上がっていった。
刀は武士の魂などと良く言うが、一応は武家の血筋であるハズの蘭の行動を見ている限り、その言葉も眉唾物に思われて仕方がない。
「まあ。木刀は所詮木刀。刀には含まれない、と言う事か」
地面に無造作に転がっているソレに一瞥をくれてから、俺は強張った筋肉をほぐす為に背伸びをする。
途端、バキリボキリ、と想像以上に壮絶な音が全身から聞こえてきた。やはり昨日の俺は相当に疲労していたらしい。
肉体的にはそれほどでもないが、主に精神的な意味での消耗が酷かった。まあ、かの悪名高い川神百代と真正面から対峙して五体満足で生き延びているのだから、この程度の疲労で済んでいるのはむしろ僥倖と言ってもいいのだろうが。
川神学園への転入。いくら自分で選んだ道とはいえ、あんな怪物の相手は可能な限り御免蒙りたいものだ。
いつも以上の時間を掛けて体の各部を念入りにマッサージしながら、俺はそんな事をつらつらと思考していた。
「不肖森谷蘭!只今主の朝餉をお持ちいたしました!」
数分後、ちょうど柔軟体操を終えたそのタイミングで、突風のごとく舞い戻った蘭が俺の眼前にて急停止した。その両手には幾つかの食器を載せたトレイを捧げ持っている。
「今朝の献立は」
「主は和食をご所望と仰せになられましたので、握り飯と味噌汁、漬物の三品を」
「大儀であった。己が鍛錬に戻るがいい」
「ははーっ!主の臣下として恥じぬ己となるべく―――」
弛まぬ研鑽を重ね鍛錬を繰り返し雨ニモマケズ風ニモマケズ云々。
もはや定型文と化した蘭の暑苦しい決意表明を適当に聞き流しながら、俺はトレイの上で温かい湯気を立てている味噌汁のお椀に手を伸ばす。
それにしても。配膳の際にあれだけ激しい動きをしていながら、味噌汁が一滴も零れていないのはどういう理屈なのだろうか。
「……考えた所で、無意味か」
とっくの昔に人間辞めてる連中に人間の理屈を当てはめる行為自体がナンセンスである。
ちなみに朝食の味は文句なしであった。我が従者は人格がちょっとじゃ済まない程度にアレだが、掃除洗濯炊事等の家事全般に関しては疑いなく優秀なのだ。
これが変人でさえなければ嫁の貰い手など幾らでも見つかるのだろうが、天は二物を与えずとは良く言ったものである。
「ああ。掃除と云えば、蘭」
「はっ。何で御座いましょうか、主」
朝食を終え、蘭と並んで自分の得物を素振りしながら、おもむろに口を開く。
「ゴミは既に出してきたか」
「主の御起床の数分ほど前に済ませておきました!主のご意向を伺うまでは、と思いましたので、ひとまず玄関前に積んでありますが……如何いたしましょうか?」
「少々、訊いて置かねばならん事もある。蘭。案内しろ」
「ははーっ!蘭は確かに承りました!」
蘭は子犬が尻尾を振るような調子で、実に嬉しそうに血塗れの木刀を振った。
未だ乾いてはいない誰かの血が、滴となって地面に跳ねる。
ところどころに出来上がった血溜りと、散乱したナイフやらポン刀やらの刃を誤って踏まないように注意しながら、小規模な戦場跡と化した中庭を横切り、表玄関からアパートの敷地外へ。
少なくとも昨晩までは確実に存在しなかった、奇怪なオブジェがそこには聳え立っていた。
「二十五。いや、六か」
「ご明察の通りです、主。これほど大掛かりなゴミ出しは久しぶりでございました。まさに大掃除です」
「ふん。日も昇らぬ内からわざわざ骨を折りに来るとは、御苦労な事だ」
遠目にも分かるほどにズタボロにされ、無造作に積み上げられた二十六の人体をしげしげと眺める。揃いも揃って気絶している真っ最中らしく、呻き声すら上げていなかった。
どう見ても不自然な方向に折れ曲がった手足が時折ピクピクと痙攣している様が、何とも言えず不気味である。蘭の侵入者に対する容赦のなさ加減が良く窺える情景であった。
観察を続行。年齢層は十代後半から二十代前半程度、見た限り全員が男のようだ。どうやら哀れな犠牲者の中に女子供は混じっていないようで、少し安心した。
こういう風にいかにもそれっぽい容姿の典型的雑魚チンピラ連中が相手なら、俺としても余分な同情は抱かずに済む。
大体。
よりにもよって“蘭を相手に”“集団で取り囲んで暴行を加えようと”するから、ここまで徹底的に痛めつけられる羽目になるのだ。
無駄に刺激しなければ、せいぜい腕の一本ほどで済んだだろうに。まさに自業自得、骨折り損のくたびれ儲けという奴である。
「しかし。今回は手間取ったようだな、蘭」
「はっ。各個人の練度は失笑ものでしたが、なにぶん数が多く……面目次第もありません」
「許す。今後の精進に、期待する」
「ははーっ!主の御期待に沿えるよう、蘭は必ずや強くなってご覧に入れます!」
流石にこれだけの大所帯が相手と来れば、“普段通り”に声も立てさせずに瞬殺して終わり、と言う訳にもいかなかったか。
二階に位置する俺の部屋まで悲鳴が届くケースは珍しいと思ったが、そういう事情があったなら納得というものだ。
まあ、それはさておき。爽やかな早朝から気が重いが、俺は俺のすべきことをするとしよう。
「全く。無駄に、手間を掛けさせる」
俺はオブジェの中から適当な一パーツを選んで引っこ抜き、アスファルトの路面に引き摺り落とした。その際の衝撃と痛みで覚醒したのか、男は「ぎゃっ」と小さく悲鳴を上げながら勢い良く目を開ける。
焦点の合わない虚ろな視線が少しのあいだ宙を彷徨い、そして無表情で目の前に佇む俺の姿を捉えた瞬間、男の表情はみるみる内に恐怖の色に染まっていった。
「ひっ!て、て、テメエは……、クソッ、お、オレに手ェ出したらどうなるか分かってんだろーなぁ、ああ!?お、オレはあの“黒い稲妻”の一員で―――」
「黙れ。貴様は只、俺の疑問に回答しろ。それ以外の行為を許した覚えは無い」
なぜ朝一番に叩き起こされた挙句、こんな意外性の欠片も無いテンプレ野郎の相手をせにゃならんのだ。
盛大にうんざりした気分に襲われながら、俺は威圧のレベルを尋問用のものに調整する。
面倒極まりないが、こいつから訊き出しておくべき情報が多いのも確かである。
何せ、実に数週間ぶりに現れた“敵対勢力”の一員だ。
場合によっては、今週末の俺の行動予定に変更を加える必要も出てくるだろう。
「忠告は一度だ。二度はない。生きながらにして地獄を覗きたくなければ。貴様の有する情報の全て、洗い浚い吐き出して見せろ」
取り敢えず、HRの刻限に間に合うように手早く吐かせなければ。
腕時計で現在時刻をさり気なく確認しつつ、俺は誰にも聞こえない小さな溜息を吐いた。
夜討ち朝駆けは、織田信長にとっては割とありふれた日常の一ページである。
そんな慌しい早朝の一幕も気付けば過ぎ去り、俺と蘭は現在、川神学園の正門を潜っていた。
中央校舎の時計を見上げれば、七時五十五分を指し示している。HRの開始は八時二十分なので、かなり余裕を持って到着できた事になる。
うむ、頑張って脅した甲斐があったと言うものだ。
「さて。征くぞ、蘭」
「ははーっ、私めはどこまでもお供いたします!」
そんなこんなでやってきましたB棟二階、2-Sクラス。
引き戸をガラリと開けて教室内に足を踏み入れた瞬間、ビシリと音を立てて空気が凍り付き、皆の視線が一斉にこちらに集中する。
冷静に考えるとかなり嫌な反応だが、しかし俺としてはとっくの昔に慣れ切ってしまっているため、もはや何も感じない。期待通りの反応に、むしろ安心感すら覚えるほどだ。
やれやれと心中で肩を竦めつつ、沈黙した教室を横切って窓際の席へと向かう。
異変が起きたのは、その時だった。
「お、織田くん、おはよう……ございます」
一瞬、それが自分に向けられた挨拶だと認識できなかった俺を誰が責められよう。想定外かつ不意討ちにも程がある。
ざわり、と教室中で小さなざわめきが巻き起こった。
そんな事態を引き起こした人物は、精々が眼鏡くらいしか特徴のない、顔も名前もまるで記憶していない女子生徒。
俺が訝しむままに彼女を凝視すると、見る見る内に顔色が青ざめていく。周囲の生徒達は固唾を呑んで状況を見守っている様子だった。
この場合、最低限の対応だけはしておくべき……なのか?むう、想定外過ぎて咄嗟に正しい判断が浮かばない。どうしたものか。
「……ああ」
取り敢えず、彼女と目を合わせたまま悠然と頷いてみせた。それだけの動作でも、反応があったのが嬉しかったのか、女子生徒はあからさまに安堵したようにホッと息を吐いた。
「えっと、森谷さんも、おはよう」
俺の時よりもかなり気楽そうな調子で、今度は蘭に声を掛ける。
「は、はいっ!?あ、お、お早う御座いますっ!」
やはり蘭にとっても想定外の展開だったのだろう。若干慌てた調子だったが、しかしそれ以上に喜びが勝っている様子だった。
そして、女子生徒の挨拶を皮切りに、教室のあちこちから遠慮がちな「おはよう」が聞こえてくる。
「わっわっ、何という事でしょう、こんなに沢山の方達に挨拶を頂けるなんて……主、主、蘭は皆さんにご挨拶を返しても宜しいのでしょうか!?」
「許す。好きに振舞え」
「ありがたき幸せにございますっ」
蘭が喜び勇んで挨拶を返して回る様子を横目に自分の席に腰掛けてから、俺は腕を組んで事態の分析に務め始めた。
解せぬ。どうにも解せぬぞ。一体全体どういう事態なのだろう、これは。
「おはようございます、信長」
この三日間で多少聞き慣れてきた柔和な声が、俺の思考を中断させた。
気付けば、隣の机の上に優雅に腰掛けて、葵冬馬がこちらをにこやかに見ていた。
「ふふ、流石は私の見込んだ人物ですね、信長。こうも早くこのSクラスの方達に認められるとは、驚きを禁じえません」
どこか嬉しそうに語る冬馬の言葉は、現在進行形で俺の脳内を駆け巡る疑問に、ピンポイントで答えてくれそうなものであった。
「認める?」
「ええ。自分の属するクラスをこういう風に表現するのはくすぐったいものがありますが、この2-Sは紛れもないエリート集団です。各々が自分の能力に自信を持ち、そして相応のプライドを持っている。そんな彼らから自発的に挨拶をされるほどに認められるのは、そう容易いことではないのですよ。かくいう私も、去年は少し苦労しましたからね」
気障ったらしく眼鏡を持ち上げてみせながら、冬馬は懐かしむように微笑んだ。
聞いたところによると、冬馬は学年総合順位で不動の一位、全国模試ですら常に十位以内をキープしているらしい。
つまりは成績優秀者が集うSクラスの中でも特に突き抜けた頭脳を持っており、そのルックスもあって、クラス内とは言わず学園内の誰もが一目置く存在という立場を確保している。
その葵冬馬が言うのだから、確かな説得力がある。なるほど、そういう事か。
「ならば、切掛けは。昨日の決闘、か」
「おそらくは。あなたは転入して日が浅いので実感が湧かないかもしれませんが、英雄はクラス委員長。云わば、S組の顔です。あなたはその英雄と真正面から勝負し、そしてライバルとして認めさせさえした。……誰にでも出来ることではありません」
「成程、な。ふん、その程度の事で他者を認めるなど、気楽な連中だ。理解に苦しむ」
「その程度、ですか。ふふっ、本当にあなたは面白い人ですね。俄然、興味が湧いてきましたよ」
悪寒がしたので反射的に殺気を飛ばす。効果はいまひとつのようだ。
こっち見んな。頼むから嘗め回すような目でこっち見んな。
「おお、ノブナガだー。ちゃお~」
「よ、おはようさん。朝っぱらから若に言い寄られるとは災難だったな……同情するぜ」
そうこうしている内に騒がしい連中の登場である。何処からともなく現れた榊原小雪と井上準が、俺を囲むようにして適当な机に腰掛けた。
初日に声を掛けられて以来、どうにもこの陣形がデフォルトとなりつつある気がする。こいつらはなぜ当然のように俺の周囲に集まってくるのだろうか。
しかも追い払おうと殺気を放ってもまるで動じてくれないので、結果として黙認している風に振舞うしか選択肢がない。どうしたものやら。
「なあ、信長よ。お前の従者はなぜにあんな嬉しそうなんだ?朝の挨拶がそんなにハッピーなイベントだったとは知らなかったぜ」
蘭の姿を目で追いながら、準が呆れているのか感心しているのか良く分からない口調で言う。
つられて見れば、我が従者は満面の笑顔で教室中を駆け回っては、無駄に元気な大声で一人一人に挨拶している。
「もー、ジュンはデリカシーがないよねー。そういう事を聞いちゃいけないんだ。ランはねー、おはようを言う友達もいないかわいそうな子だったんだよ」
「デリカシーがないのはどっちでしょうね!全く、何とか言ってやってくれよ、若」
「ユキ、そういう事は思っても口に出してはいけませんよ」
やんわりと叱っているように見えるが、実際はどこか面白がっている表情の冬馬。今更だが、やはりこいつは割と性格が悪い。
「まあ。小雪の言葉、特に的外れでもないが」
言いながら小雪に目を向けると、満足気な笑顔を浮かべていた。名字で呼ばれなくなったのが嬉しかったのだろう。
織田信長のキャラを考慮すれば、あまり馴れ馴れしく接するのは好ましくないのだが、名字で呼ぶ度にいちいち訂正されるのが面倒だったので仕方なく折れた訳だ。
「ん?どういうことだよ」
首を傾げる準に、俺は説明を重ねる。
「あの莫迦従者に友達が居ない、と言う事だ。少なくとも、学校という環境においては皆無だろうな」
「……それはまた何とも、意外だな。確かに変わってるとは思うけどな、礼儀正しく明るくて、おまけに結構な美人ときたもんだ。友達の一人や二人くらい、簡単に作れそうに見えるぜ」
本気で理解できない、と言わんばかりの表情をしている準に、俺は頭が痛くなってきた。
大体は準の言う通りだろう。蘭は本来なら友達作りに苦労するような人間ではない。
あくまで、俺と―――織田信長という人間と、一緒に居なければの話だが。
冬馬に小雪に準、それに英雄やあずみのように、俺を恐れずにいられる人間は数少ない。それは別にこれまでの環境が特殊だったという訳ではなく、むしろこのS組の方こそが例外なのだ。どうにも当の本人達にはその自覚がないらしいが。
馬鹿馬鹿しいほど幸せそうにS組の生徒達と挨拶を交わす蘭の姿を見ていると、何とも複雑な気分に襲われる。
もしかしたらあいつは、俺と出逢わなかった方が幸せだったのかもしれない、と。
「ノブナガー、それ、違うと思うよ?」
何の前触れもなく、心臓を鷲掴みにされたような気分だった。絶句しそうになりながら、俺は声の主に視線を向ける。
ウサギを連想させる小雪の紅い瞳が、俺をじっと覗き込んでいた。何もかもを見透かされているような気分にさせられる、落ち着かない目だ。
「ランはね、そこそこボクに似てるから。なんとなく分かるんだよー」
いや、まさか。本当に見透かされているのか?
俺の思考と表情はほぼ完全に独立している。よって、思考内容が顔に出た、という事は考えられない。にも関わらず、“織田信長”の仮面で頑強に覆い隠した俺の内面に、この少女は僅かでも踏み込んだと言うのか。
いや、そんな事は考えるまでもない。理屈ではなく直感が、それを事実だと告げている。
初対面の時から、曲者かもしれないと思ってはいたが。まさか、その予感がこんな形で的中するとは。世の中本当に分からない。
「……ふん。無様な」
俺は当惑と動揺とを無理矢理に抑え込み、今度は一切の油断を排除して仮面を被り直した。
ここまでだ。これ以上、織田信長の内面に踏み入られる事など、あってはならない。
「ホントは、ノブナガもわかってるでしょ?」
そんな俺の警戒心を知ってか知らずか、ちょこん、と可愛らしく小首を傾げながら小雪が言う。
何を、とは問い返さない。小雪が俺に伝えようとしているであろう事は、余すことなく伝わった。
そして、ソレに対して俺の返すべき言葉は、唯一つだ。少なくとも今は、それだけでいい。
「ああ。否定は、しない」
俺のその回答にどういう感想を抱いたのか、全く以って想像もつかないが、小雪はにまーっと天真爛漫な笑顔を浮かべた。
「うん、だったらいいんじゃないかな。ねー、トーマとジュンもそう思うよね?」
「よね?ってそんな可愛らしく言われても困るぜ、ユキ。俺は完全に置いてきぼりだよ。なあ、若は理解できたか?」
「いいえ、残念ながら。見事に二人だけの世界を作っていましたからね。妬けてしまうくらいでした」
どっちに妬いたのかとは訊くまい。にこやかな笑顔で「勿論、両方です」と返されるのが目に見えている。わざわざ自分から進んで鳥肌を立てる必要もないだろう。
「下らん話だ。お前達が気に掛ける意味は無い」
「そう言われると嫌でも気になっちまうんだけどな……ちょ、睨むなって、冗談抜きでコエーんだよそれ!分かった分かった」
それなりに本気を出して殺気を飛ばしてやると、準はスキンヘッドに冷や汗を浮かべながら引き下がった。一方の冬馬だが、最初から望みがないと判断していたのか、特に詮索してこようとはしなかった。賢明な判断である。
ある程度の馴れ馴れしさは許容するとしても、超えてはならない一線は確かに存在する。是非ともそこだけは見誤らないで欲しいものだ。
「まあ、ユキが不思議なのは今に始まったことではないですし、置いておきましょう。今は、信長と森谷さんがS組の皆に認められた事を喜ぶべき時かと」
「おー、おめでとー。お祝いにましゅまろをあげる」
「正直俺はお前らが羨ましいよ。俺なんて未だに“葵くんのおまけのハゲ”扱いなんだぜ?」
準があまり笑えない自虐ネタを披露したタイミングで、妙に勢い良く教室のドアが開け放たれる。
その騒々しさの時点で何となく予想がついていたが、次いで教室に姿を見せたのは金色スーツのクラス委員長及び、お付きの猟犬メイドであった。
「フハハハハ、皆の者おはよう!九鬼英雄である!さあ庶民共、我に挨拶する権利をくれてやったぞ!」
「おはようございます、英雄。ふふっ、今日も元気そうで何よりです」
「おお、我が友トーマ。それに横にいるのは、我が好敵手、信長ではないか。どうした、遠慮なく我に挨拶するがいいぞ」
「ふん。妄言は程々にしておくべきだな」
元々が賑やかな三人組に英雄とあずみのイロモノ主従が加わり、更には「あの女狐から主をお守りせねば!」などと妙な決意を叫びながら蘭がダッシュで戻ってきたことで、俺の周囲には手の付けられない混沌空間が完成しつつあった。
もはや俺にはどうしようもない、と諦め掛けた瞬間、黒板上のスピーカーからチャイムが鳴り響き、数秒遅れて担任の宇佐美巨人が教室に姿を見せる。
巨人は実にだるそうに教卓の前に立つと、相変わらず覇気の感じられない調子で声を上げた。
「はいはい、チャイム鳴ってるの聞こえてるだろーが。お前らさっさと席に着けー。……って葵に井上に榊原、お前らの席そこじゃないだろ」
三人は現在、窓際に位置する俺と蘭の隣の席を陣取っていた。無論、巨人の指摘する通り、昨日までは別人の席であったことは言うまでもない。
何を考えているのか、と俺が問い質すよりも先に、冬馬が巨人に答えた。
「ええ、昨日までは確かにそうでした。つい今朝方、席替えを行ったのですよ。クラス委員長の許可は取ってあります。そうですよね、英雄?」
冬馬が目配せしながら問いかけると、英雄は堂々と頷きながら言葉を繋いだ。
「うむ!我が友トーマの頼みとあれば、聞き届けるのは当然であるからな!」
「それに、辻さん、久保さん、佐々さん。三人とも席替えに同意して下さいましたね?」
冬馬達に席を乗っ取られた形となる三人だが、その当人からの確認に迷い無く肯定してみせた。
それだけ葵冬馬という人物に人望があるのか、或いは借りがあるのか。いずれにせよ、学園中で一目置かれる冬馬の能力を垣間見た気分だ。
「と、言う事です。さて、この席替えに何か問題はありますか、宇佐美先生?」
穏やかに微笑みながら問いかける冬馬。面の皮が厚いとはこういう人間のことを指すのだろうな、と俺は密かに感心していた。
「あー、そうきたか……まあそういう事なら好きにしていいぞー。全く、可愛くない教え子がいたもんだ」
疲れたようにぼやく。やる気こそ皆無だが、宇佐美巨人は油断のならない切れ者だ。一連の流れが即興で組み立てられた狂言だと気付いているだろう。
そして、席を奪われた当人達の証言がある以上、それを指摘したところで無意味。なるほど、確かに可愛くないと言われるのも当然か。
「席が替わるよ!やったねトーマ!」
「ま、そういう訳だから。これからよろしくな、お隣さん」
「ふふ。存分に親睦を深めましょう」
それにしても、こいつらは本当に何なのだろう。ここまで予想の上を突っ走られると、もはやいちいち思い悩むのも馬鹿らしくなってきそうだ。
織田信長はあくまで孤高の存在。必要以上に他者と馴れ合う事はせず、己の領分を侵すモノは何であれ容赦なく排斥する。
俺が“夢”を諦めない限りは、そのスタンスを崩すことは絶対に無いだろう。
「ふん……。勝手にするがいい。俺を煩わせるようであれば、排除するだけの話」
しかしまあ、こういうのもたまには悪くないかもしれない。
そんな風に考えてしまう俺は、既にS組の連中に毒されているのだろうか。
ぎゃーぎゃーと朝っぱらから賑やかなS組の喧騒に包まれながら、俺は心中にて小さく苦笑を浮かべていた。
~おまけの???~
「それで、いい加減に調べは上がったのか?最近俺達のシマで調子に乗っている愚かなヨソ者連中のよ」
「ああ、やっと情報が来たよ。調べてた下僕が使えないせいで、随分と時間を食っちまったけどねぇ。“黒い稲妻”ってグループだそうだ」
「ブラックサンダぁ?ぎゃはは、なんだそりゃ駄菓子かよ!面白っ!そいつら最っ高に面白いな、アミ姉ぇ。ネーミングセンスがイカしてるぜ」
「私―、アレけっこう好きだなぁ。値段の割においしくて飽きないよねぇ」
「奴らの名前なんぞどうでもいい……アミ姉、連中は少しは喰い応えがありそうなのか?最近は雑魚の相手ばかりで詰まらん」
「少なくとも活きだけはいいみたいだねぇ。今朝方、連中の一部が例のアパートに殴り込みを掛けたらしいよ。まあ、結果は言うまでも無いだろうさ」
「はァっ!?シンの家にかっ!?なんだそいつら、自殺志願者かよ。それともアミ姉の客みたいなドMの集団か?どっちにしてもウチにゃ理解できねーなー」
「どんな連中だろうが関係ねぇな。俺達の縄張りで好き勝手に暴れやがったんだ……地獄を見せてやらねぇとな?くくくっ」
「けけけ、賛成賛成―。色々と試してみたい技があんだよな。サンドバッグにゃ困らなさそうだぜ」
「フフフ……連中がどんな悲鳴を上げてくれるのか、想像するだけでゾクゾクしてくるねぇ。今から楽しみだよ」
「……」
「……」
「……」
「zzz」
「「「寝るな!」」」
想像以上に多くの方々から応援メッセージを頂いたので、奮起して書いてみました。こんな駄文に感想を下さって感謝です。
事情あって時間があまり取れない為、相変わらず更新は不定期になりそうですが、お付き合い頂ければ幸いです。それでは次回の更新で。