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No.13860の一覧
[0] 俺と彼女の天下布武 (真剣で私に恋しなさい!+オリ主)[鴉天狗](2011/04/15 22:35)
[1] オープニング[鴉天狗](2011/04/17 01:05)
[2] 一日目の邂逅[鴉天狗](2012/05/06 02:33)
[3] 二日目の決闘、前編[鴉天狗](2011/02/10 17:41)
[4] 二日目の決闘、後編[鴉天狗](2009/11/19 02:43)
[5] 二日目の決闘、そして[鴉天狗](2011/02/10 15:51)
[6] 三日目のS組[鴉天狗](2011/02/10 15:59)
[7] 四日目の騒乱、前編[鴉天狗](2011/04/17 01:17)
[8] 四日目の騒乱、中編[鴉天狗](2012/08/23 22:51)
[9] 四日目の騒乱、後編[鴉天狗](2010/08/10 10:34)
[10] 四・五日目の死線、前編[鴉天狗](2012/05/06 02:42)
[11] 四・五日目の死線、後編[鴉天狗](2013/02/17 20:24)
[12] 五日目の終宴[鴉天狗](2011/02/06 01:47)
[13] 祭りの後の日曜日[鴉天狗](2011/02/07 03:16)
[14] 折れない心、前編[鴉天狗](2011/02/10 15:15)
[15] 折れない心、後編[鴉天狗](2011/02/13 09:49)
[16] SFシンフォニー、前編[鴉天狗](2011/02/17 22:10)
[17] SFシンフォニー、中編[鴉天狗](2011/02/19 06:30)
[18] SFシンフォニー、後編[鴉天狗](2011/03/03 14:00)
[19] 犬猫ラプソディー、前編[鴉天狗](2011/04/06 14:50)
[20] 犬猫ラプソディー、中編[鴉天狗](2012/05/06 02:44)
[21] 犬猫ラプソディー、後編[鴉天狗](2012/05/06 02:48)
[22] 嘘真インタールード[鴉天狗](2011/10/10 23:28)
[23] 忠愛セレナーデ、前編[鴉天狗](2011/04/06 14:48)
[24] 忠愛セレナーデ、中編[鴉天狗](2011/03/30 09:38)
[25] 忠愛セレナーデ、後編[鴉天狗](2011/04/06 15:11)
[26] 殺風コンチェルト、前編[鴉天狗](2011/04/15 17:34)
[27] 殺風コンチェルト、中編[鴉天狗](2011/08/04 10:22)
[28] 殺風コンチェルト、後編[鴉天狗](2012/12/16 13:08)
[29] 覚醒ヒロイズム[鴉天狗](2011/08/13 03:55)
[30] 終戦アルフィーネ[鴉天狗](2011/08/19 08:45)
[31] 夢幻フィナーレ[鴉天狗](2011/08/28 23:23)
[32] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、前編[鴉天狗](2011/08/31 17:39)
[33] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、中編[鴉天狗](2011/09/03 13:40)
[34] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、後編[鴉天狗](2011/09/04 21:22)
[35] 開幕・風雲クリス嬢、前編[鴉天狗](2011/09/18 01:12)
[36] 開幕・風雲クリス嬢、中編[鴉天狗](2011/10/06 19:43)
[37] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Aパート[鴉天狗](2011/10/10 23:17)
[38] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Bパート[鴉天狗](2012/02/09 19:48)
[39] 天使の土曜日、前編[鴉天狗](2011/10/22 23:53)
[40] 天使の土曜日、中編[鴉天狗](2013/11/30 23:55)
[41] 天使の土曜日、後編[鴉天狗](2011/11/26 12:44)
[42] ターニング・ポイント[鴉天狗](2011/12/03 09:56)
[43] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、前編[鴉天狗](2012/01/16 20:45)
[44] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、中編[鴉天狗](2012/02/08 00:53)
[45] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、後編[鴉天狗](2012/02/10 19:28)
[46] 鬼哭の剣、前編[鴉天狗](2012/02/15 01:46)
[47] 鬼哭の剣、後編[鴉天狗](2012/02/26 21:38)
[48] 愚者と魔物と狩人と、前編[鴉天狗](2012/03/04 12:02)
[49] 愚者と魔物と狩人と、中編[鴉天狗](2013/10/20 01:32)
[50] 愚者と魔物と狩人と、後編[鴉天狗](2012/08/19 23:17)
[51] 堀之外合戦、前編[鴉天狗](2012/08/23 23:19)
[52] 堀之外合戦、中編[鴉天狗](2012/08/26 18:10)
[53] 堀之外合戦、後編[鴉天狗](2012/11/13 21:13)
[54] バーニング・ラヴ、前編[鴉天狗](2012/12/16 22:17)
[55] バーニング・ラヴ、後編[鴉天狗](2012/12/16 22:10)
[56] 黒刃のキセキ、前編[鴉天狗](2013/02/17 20:21)
[57] 黒刃のキセキ、中編[鴉天狗](2013/02/22 00:54)
[58] 黒刃のキセキ、後編[鴉天狗](2013/03/04 21:37)
[59] いつか終わる夢、前編[鴉天狗](2013/10/24 00:30)
[60] いつか終わる夢、後編[鴉天狗](2013/10/22 21:13)
[61] 俺と彼女の天下布武、前編[鴉天狗](2013/11/22 13:18)
[62] 俺と彼女の天下布武、中編[鴉天狗](2013/11/02 06:07)
[63] 俺と彼女の天下布武、後編[鴉天狗](2013/11/09 22:51)
[64] アフター・ザ・フェスティバル、前編[鴉天狗](2013/11/23 15:59)
[65] アフター・ザ・フェスティバル、後編[鴉天狗](2013/11/26 00:50)
[66] 川神の空に[鴉天狗](2013/11/30 20:23)
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[13860] 黒刃のキセキ、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:e5436719 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/02/17 20:21
 ――僕は、何のために生まれてきたんだろう。






 

 世に蔓延るは、弱肉強食の摂理。一つのありふれた光景が、そこに在った。

 既に日も暮れ終え、薄闇が街並みを覆う時間となれば、此処周辺に住所を持つ子供達の大半は既に屋外での遊びを切り上げ帰宅の途に就いている頃だ。いかに歓楽街と一定の距離を置いた住宅街とはいっても、やはり護身の術を有さない者が夜間に外出するという行為は少なからず危険を伴う。神奈川県川神市川神区、堀之外町。日本国内有数の歓楽街として知られるこの地は、同時に数多のアウトローが集い幾多の犯罪組織が跋扈する“掃き溜め”でもある。治安は、およそ考え得る限り最悪の部類と言えよう。

 故に、常日頃ならばこの時間帯。市街地の一画に子供達のささやかな遊び場として設置された市立公園というロケーションには、人気が失せているのが自然だったが――現状は、少しばかり日常とのズレが生じている。小さな公園の敷地内には今現在、大小併せて三つの人影があった。大人が二人に、子供が一人。それが親子連れの和やかな団欒風景でない事は、わざわざ覗き込んで様子を窺うまでもなく判っただろう。住宅街の閑静さを無遠慮に破る暴力的な殴打の音響は、眼を瞑っていようと無関係に鼓膜を震わせる。空気を伝播する暴力の粗野な匂いは、否応なく鼻腔を充たす。

私刑リンチ

 年端もいかぬ少年に対し、大の男が二人掛かりで容赦ない暴行を加える行為を言葉にて形容するならば、その一語で事足りるだろう。殴り倒し、腹部に爪先を突き込み、悶え転げる頭を踵で地面に縫い付ける。飽きれば頭を蹴り飛ばし、覚束ない足取りで立ち上がった瞬間を狙って再び殴り倒す。子供が玩具を使って無邪気な遊びに興じるように。延々と――玩具が壊れるまで、遊戯は続く。男達の表情は疑い様も無く、弱者を一方的に甚振る喜悦に酔っていた。罪悪感など欠片も覚えず、己の強者たる事実を愉しんでいた。

「……」
 
 一方、その存在を玩具と貶められて弄ばれる少年は、あらゆる意味で彼らとは対照的だった。少年の表情にはいかなる感情の色も浮かんではいない。苦悶に歪む事も無ければ、恐怖を湛える事も無い。今まさに自分を襲う無慈悲な暴力に対して、僅かな呻き声すら漏らしていなかった。未だ十も超えていないであろう幼い容貌にはあまりにも不似合いな、能面の如き無表情。青褪めた顔色と、暗く濁り淀んだ双眸と相俟って、少年の様相は悪魔じみた異様な雰囲気を醸し出していた。

 そう、それは――街中にて偶々擦れ違った暴力団構成員の胸中に、一瞬にして明確な恐怖の念を植え付けてしまう程の、常軌を逸した禍々しさ。その存在は、他ならぬ恐怖を商売道具として扱う男達にとって、断じて許容できるものではなかっただろう。だからこそ、この現場は成立に到ったのだ。

「けっ、聞いてた通り、薄気味悪ィガキだな。顔色も変えやがらねぇ。こちとらイラついてんだ、さっさと泣き喚いて謝りやがれってんだ、よぉ!」

「おい、きっちり加減はしておけ。やり過ぎて殺しちまったら後の処理が面倒だ。若頭も、流石にそこまでは許可してないんだからな」

「へへ、言われなくても分かってんよぉ。大体だ、そう簡単に殺っちまったら面白くねーだろ?せっかくアニキが都合してくれたサンドバッグなんだ、大切に使わねぇとバチが当たるぜ」

「く、全くだな。こればかりはなかなか代用が効かん。丁重に扱ってやらないと、なぁ」

 尚も暴行の手を休める事無く、男達は楽しげに会話を交わす。足元に這い蹲る少年の心情など斟酌せず、一方通行の暴力がもたらす甘美さに酔い痴れる。例え少年が纏う継ぎ接ぎだらけの衣服の下、血色の悪い肌の至る所が、既に青痣や火傷痕、細かな裂傷で埋め尽くされている事実――少年が日常的な虐待に晒され続けている現実を知ったとしても、男達が止まる事は無かっただろう。彼らの判断基準はあくまで、己の獣欲が充たされるか否か。蹂躙される弱者の事情など、強者には何ら関係のない事なのだから。

「……」

 少年は泣かない。叫ばない。無言で、無表情で、光の失せた瞳に無限の闇だけを映し込んで、土の味と血の味を噛み締める。忘却を拒むかのように、屈辱と憎悪を己が魂魄に刻み込む。決して消える事の無い漆黒の殺意を胸中に育む。悲鳴と苦悶を押し殺した心は、曇りなく迷いなく純粋に、世界の何もかもを呪っていた。

 ―――それが、“織田信長”の、始まりの記憶。







※※※






 俺という人間の幼少時代における家庭環境を語るに際して、欠かせないものが四つほどある。酒と、薬物と、貧困と、暴力だ。これらの内の二つ以上が這入りこんできた時点で、大半の家庭は呆気なく崩壊を始めるものだが――ならば、それら全てが堂々と徒党を組んで蔓延っている家庭が、いかに醜悪で悲劇的な様相を呈してくるか、多少の想像力を備えた人間であれば思い描くのは容易だろう。つまるところ、そんな何とも判り易く劣悪極まりない環境の中で、俺は腐臭に塗れた幼少期を過ごしていた訳だ。

『アンタさえ生れて来なけりゃアタシらは幸せに暮らせたんだ!死ね、ほら、さっさと死んじまえよ悪魔ッ!』

 耳孔から入り込んで脳味噌を掻き回すような、ヒステリックで支離滅裂な喚き声は、今になっても不意に脳内で再生される。物心付いた時、実の母親から投げ掛けられた最初の言葉が“それ”だった。酒に溺れる度、クスリを決めて躁状態になる度、あの女はその罵倒を幾度も幾度も口にした。果たしてそれがどういう意味を持つ言葉であったのか、詳しい事を俺は知らない。本人に問うても返答代わりの打擲が飛んでくるだけだった。俺が言語を解し始めた頃には、既に家庭内に父親の姿は無かったので、恐らくはその辺りの顛末が関係しているのだろうが――まあ、今となっては知る由もない事だ。別段、知りたいとも思わない。重要な事はただ一つ、俺が血を分けた唯一の肉親に蛇蝎の如く忌み嫌われ、殺意とも見紛うような黒々とした憎しみを向けられていたという事実だけだ。

 だが、本当に幼い頃、未だ母の愛情を信じられていた頃の無邪気な俺は、必死に言葉の意味を理解しようと努めていた。考えて考えて考えて、そして幾ら思考を重ねても何ら意味が無い事を悟るに至って、遂に考える事を止めた。性格に欠点があるならば、立ち振舞いに不備があるならば修正すればいい。しかし、存在そのものを根本的に否定されてしまったなら、未だ人生を知らない幼子に果たして何が出来ると言うのだろうか。何も、出来はしない。いかなる努力も無意味で無価値だ。

 致命的なまでに愛情の欠落した母子関係と、著しく貧窮した経済状況――そんな家庭環境を考えれば、児童虐待が発生するのはむしろ自然な成り行きだったと言うべきなのだろう。当時の俺は、毎日のように一方的な暴力に晒されていた。無論、片手の指で数えられる年齢の子供に抵抗の術などある筈もない。泣き叫んで周囲に助けを求めても、堀之外の住人は冷酷な無関心を貫いた。一年が経つ頃には、声も上げず表情も変えず、ただ黙々と痛みに耐えて、日々エスカレートしていく虐待をやり過ごす事に慣れ切った、死んだ魚よりも酷い眼をした幼児が出来上がっていた。希望が更なる絶望の呼び水に過ぎないと悟ってしまえば、最初から全てを諦めていた方が楽だった。

 だが、今にして思えば――その時点では、絶望はまだまだ生温かったのだ。俺にとっての本当の地獄が始まったのは、あの忌まわしき男が俺の前に現れた、その瞬間だったのだから。

『よぉう、お前がノブナガか? まあ仲良くやろうや。何つっても、これからは家族同然の付き合いになるんだからなぁ』

 新田利臣――朝比奈組若頭。裏社会に悪名を轟かせ、堀之外の街において最も恐れられる悪党の一人である男が、織田信長の人生に土足で踏み入ってきたのは、俺が小学校に通い始めた時分だった。

 朝比奈組は、当時、堀之外の街に本拠を構えていたとある暴力団の名称だ。売春の斡旋、違法薬物の取引、銃火器の密輸、闇金融の経営等を主要な活動内容とする。構成員の総数は、末端の人員まで含めれば数千人にも及ぶと言われていた。川神のアンダーグラウンドにおける最有力候補の一角と目されており、活動範囲に比してかなり規模の巨大な組織だった。団としての歴史は比較的若く、発足は戦後間もない二十世紀半ば。三代目組長・朝比奈貴大の下で日々勢力を拡大させていた。少なくとも堀之外周辺域の住人である限り、連中の影響力を意識せず日々の生活を送る事が難しかったのは誰もが同じだが――特に俺にとって、その存在はまさに悪夢の象徴とも言うべきものだった。

 ……。

 当時、俺の母は朝比奈組傘下の風俗店に勤めており、その縁から、トラブル仲介の為に店を訪れた新田に見初められる事になった。二人の間にどのような言葉と感情の遣り取りがあったのか、俺は知らない。知りたいとも思わない。ただ覆せない現実として、母親はヤクザの情婦に成り下がり、やがて新田は俺の起居するアパートにまで足を運ぶようになる。必然として、織田信長と新田利臣は初めて顔を合わせる事になり――その瞬間を以って、俺は無間地獄へと突き落とされた。

『――ああ、良い目だ。腐ったドブよりも断然淀んでやがるぜ。俺は昔っから、そういう目を見るのが堪らなく好きなんだよなぁ。何ていうかな、こいつとは違って自分はちゃんと生きてるんだ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●、って感じがしてよ。きひ、きひひっ』

 他人の不幸こそが最高の“ツマミ”だと公言して憚らない。それが新田という男の性格だった。単にそれだけならばただの露悪趣味で片付く話だが――新田の真に忌むべき性質は、自らの手で不幸をプロデュースする事を欠片も躊躇わない歪んだ熱心さにある。ありとあらゆる手を尽くして他者の心身を徹底的に追い詰め、破滅に至る過程に喜びを見出す。そしてどうやら、俺は初めて出会った瞬間から、奴のお気に入りだった。貧困に喘ぎ、孤独に震え、日常的な虐待に悶え苦しむ程度の不幸では、どうやら新田にはまだまだ物足りなかったらしい。新田は朝比奈組若頭という自らの立場と権限を活用して、織田信長という個人の“指名手配”を実行した。総勢数千に及ぶ組の構成員に向けて、いわゆる“躾”を承認し奨励したのだ。理由も判らないままに周囲に忌み嫌われる生来の性質と相俟って、俺の存在が態の良い暴力の捌け口と成り果てるまでさほどの時間は要さなかった。家庭内における日常的な虐待と、街中での突発的な暴行。終わりの見えない暴虐に絶えず追い立てられ続ける、悪夢の日々へと俺は突き落とされた。僅かな安息すら何処にも見当出せない絶望の中で、未成熟な精神は荒廃していった。――自分の呼吸が続いている事を、苦痛に感じる程に。生命力の強い身体に生れついていなければ、精神よりも先に肉体が限界を迎えていた事だろう。

 家庭と同じくして、学校という環境もまた、俺の心身を救済するものではなかった。クラスメート達は皆一様に俺を恐れ、存在そのものを無視しようと努めていた。今にして思えばそれは、俺の生まれ持った稀有な性質に因るものだったが、未だ自分の才能に対して無自覚だった当時の俺にしてみれば、確たる理由もなく皆に疎まれているとしか受け止め様がなかった。そして身体・頭脳の双方においてなまじ平均以上の能力を生まれ持っていたが為に、自分の方からクラスメートに歩み寄ろうと努力する事もなく、交わる価値の無い低能め、と死んだ魚の眼で他人を見下し、孤高を気取ってプライドを保とうと必死になった。そんな態度が周囲の反感を招かない筈もない。結果、同級生との溝はますます深まり、上級生には生意気な下級生として目を付けられ、数人掛かりのリンチを幾度も受ける羽目に陥った。校内で心を許せる相手など何処にもいなかったし、探そうとすら考えなかった。

――いや、違う。確か一度だけ、希望らしきものを垣間見た事はあったか。

『子供を守るのが大人の役目なんだ。遠慮せずに先生を頼っていいんだぞ、織田』

 若者らしい溌剌とした活力と知性的なユーモア、子供達への思い遣りと相応の厳格さを兼ね備えた、理想的な教師だった。無自覚の内に殺意を振り撒いて、絶えず周囲を威圧し続けていた俺に自ら声を掛けたという一点を見ても、かなり出来た人格の持ち主だったのだろう。

 ……。

 担任教師として指導に当たる内、俺の様子から児童虐待の影を見出した彼は、義憤からか、或いは教育者としての使命感からか、俺に手を差し伸べた。誰に対しても心を堅く閉して決して開かなかった俺も、彼の誠実な人柄に触れる内に、ほんの僅かながら、確かな希望を見出していたように思う。だが――織田信長の身辺を取り巻く問題、己が打倒すべき“敵”の正体を知った途端、彼は背中を向けて逃げ出したのだった。一縷の希望を掴もうと縋るように伸ばした指先は、空しく宙を掴んだ。

 彼の行動を、殊更に責めようとは思わなかった。実際、何の後ろ楯も持たない無力な一教師が義憤に燃えて奮闘したところで、手に負えるような相手ではないのだから。当時の堀之外に於いて、朝比奈組の勢力は絶大なものだった。勝算もなく抗ったところで、実りある一つの人生が無為に潰えるだけの結果に終わっただろう。その現実をまともに理解している以上、たかだか教え子一人の為に己の人生を捨てられる訳がない。リスクとリターンを秤に掛けた結果ならば、それは至極常識的と言える選択だった。

 ただその一件が、俺の人間不信をより強固で、深刻なものへと発展させる決め手となった事は間違いない。何もかもに失望した俺が、己の精神と外界を切り離し、自分の内面へと完全に閉じ篭もるようになるまで、そう多くの時間を必要とはしなかった。誰も信じず、誰とも繋がらず。希望を抱かず、ただ無気力に世の中を拗ねて、可哀相な自分を哀れみながら絶望に浸り続ける。そんな有様に成り果てた人間は、果たして生きていると言えるのだろうか。心臓が鼓動を刻み、呼吸が続いているだけで――精神的には、死人と何も変わらない。俺は、そう思う。

 一体、自分は何の為に生まれてきたのか。

 底無し沼の如き際限のない思索に沈みながら、陰鬱な自問自答を幾度となく繰り返した。いつでも、答は一つだった。

『生れてきた事が既に、間違いだった』

 世界の誰にも愛されず、望まれない人間に、存在価値などある筈が無い――そう結論付けて、それでも自ら命を断つほどの気力を持つ事も出来ず、緩やかに魂が死滅していくような日々を惰性で生き続けていた。或いは、死に続けていた、と言うべきなのかもしれない。

 そして――あいつが俺の人生に現れたのは、そんな時だった。

 頑固一徹で融通が利かず、思い込みが激しく人の意見をまともに聞かない。頭に馬鹿が付くほど正直で、どれほど見え見えの嘘にも簡単に騙される。考えなしの無茶無謀を平気で繰り返し、呆れるほどのバイタリティを発揮して周囲の人間を振り回す。自分勝手で傍迷惑で――しかし疑いなく、誰よりも純粋で真っ直ぐな魂の持ち主。

 あいつとの出遭いは、未だ何一つとして色褪せる事なく、鮮明な映像を伴って脳裡に焼き付いている。

 
 俺の人生が本当の意味で始まりを告げたのは――きっと、あの夜だったのだから。

 










※※※







 運が悪かった。きっとそうなのだろう――と、僕はへばりつく汚泥のような諦観と共に思考した。

 実際、いかに考えを巡らせても、特筆するほどのミスは犯していない。強いて挙げるなら、夜の帳が降りようとしている折、碌でもない輩が活発に動いている時間帯に外出していた事自体が迂闊と云えるのかもしれないが、しかしそうは言っても、間違いなく今回の外出は必要だった。もしも何の成果も上げる事無く帰宅すれば、早くとも翌日の昼頃までの長時間に渡り、空腹に耐え続けなければならないのだから。家に帰ればテーブルには温かい夕食が用意されている――そんな失笑モノの夢想を抱ける程に楽観的ではない。可能な限り手早く“日課”を片付けて帰宅しようと考えた判断に間違いはなかった筈だ。

 よって、住宅街の中央区付近に位置する自宅まであと僅かという地点でたまたま二人組の男と擦れ違った事も、連中が毎度の如く目付きが気に入らないと定番の難癖を付けてきた事も、そして連中がよりにもよってかの朝比奈組に属する輩だった事も、“織田信長”という個人の特徴と名前を知っていた事も、手頃なサンドバッグでストレス解消を図ろうと思い立つ程度には暇と残虐性を持て余していた事も。全ては巡り合わせが悪かったとしか言い様がない。運命ならば、それはもはやどうしようもない事だ。

――いや、そうじゃないな。そもそもの話、僕にどうにかできること●●●●●●●●●●●なんて、何もないのだから。

「けっ、縮こまってんじゃねえぞガキが。男ならビビってねえで立ち向かったらどうよ腰抜け」

 お前がそれを言うのか、馬鹿馬鹿しい。気付いていないとでも思うのか? 擦れ違ったあの時、お前が僕に怯えていた事に。僕みたいな餓鬼を相手に恐怖を感じた自分が許せないからこそ、お前はこうやって憂さを晴らさずにはいられないんだろう。勝手に怯えて、勝手に怒って、自分勝手に八つ当たり。屑の思考回路は、僕には理解できない。

「抵抗してくれた方が俺としちゃあ面白いんだがな。意気地もねぇ、反応もねぇじゃ甚振り甲斐もないぜ。あー冷めるわー」

 だったらさっさと消えてくれ。僕はお前らみたいなチンピラを満足させるための道具じゃない。それに、抵抗してくれた方が面白い? くだらない見栄を張るな。お前らはどうせ、他者に対して優位に立ちたいだけなんだろう。裏社会の中ですら上位者に尻尾を巻くしかない負け犬だから、確実に自分よりも弱いと思える相手を見下して安心したいんだろう。自分が社会の底辺を這い蹲るゴミだと認めたくないから、誰かより上等な何者かだと勘違いしてちっぽけなプライドを守りたいから、こんな不毛な真似をしているんだろう。何が面白いだ、お笑い種もいいところ。ほんの僅かでも自分に危害が及ぶと分かったら、今度はみっともなく怒り狂うだけの癖に。

 僕の周りにいるのはそんな連中ばかりだ。世の中は、生きる価値も見当たらないゴミで溢れている。

 ゴミ。ゴミか。

――なら、僕は。ゴミの山に埋もれて腐臭に慣れ親しんだこの僕は、果たして何なのだろうか。

「そういえばお前、知ってるか?この餓鬼の名前」

「あ?知る訳ねぇーだろんなモン」

――ああ、今度はそれか。蹴っても殴っても反応しないなら、言葉で泣かせてみようって? 本当に御苦労な事だ。無抵抗の子供を泣かせる事に躍起になるなんて、この方たちはどこまでご立派な大人なのだろうか。何とも素晴らしい事に、この街にはこいつらと大差ないレベルの大人が腐るほど溢れかえっている。どいつもこいつもワンパターンで同じ様に頭が悪い。だから、僕は連中が次にどんな反応をするのかも予測済みだ。

「――“織田信長”、だ、そうだ」

「ちょ、お前それマジかよっ!?ひゃは、ひゃはははっ、やべぇ、それ反則! ちょっとオモシロ過ぎんだろ! ここ最近に聞いたジョークじゃ一番ウケるんですけど!」

「くく、名前負けもここまで来るといっそ哀れだな。腰抜けには勿体無さ過ぎる名前だ。この体たらくじゃあ親も泣いているだろうさ」

 馬鹿が、何を見当違いな事を。あの女が泣いてたまるものか。アレがこの場に居合わせたところで、せいぜい笑い転げて涙を流すのが関の山だろう。両親が一体何を考えて出生届の名前欄を埋めたのか、知らないし知りたくもない。ただ間違いなく言えるのは、あの女が僕の名前に対して何一つ責任など負う気が無いという事だけだ。所詮、血が繋がっているだけの他人。僕があいつを母親と思っていないように、あいつは僕を息子だと思っていない。僕が路傍で血反吐を吐いて野垂れ死んだと聞けば、あの売女はきっと諸手を挙げて喜ぶだろう。

 それにしても――織田信長。織田信長、織田信長! ああ全く笑える冗談だとも。最上級の皮肉だ。もしも僕が“こんな風”になると判った上で名付けたのなら、その底知れない悪意にはいっそ感服するしかない。毒の利き過ぎたブラックジョーク。死にそうなくらいに。死んでしまいたいくらいに。

「しっかしこのガキ、本当に何も反応しやがらねぇな。おらおら、さっさと土下座して謝ってみろよ。オニーサンも鬼畜じゃねーからよぉ、誠意込めてゴメンナサイって言えれば許してやんぜ?」

 見え透いた嘘を吐くな、低脳。お前等みたいな連中の考える事は分かっているんだ。何十回も繰り返せば、痛みと共に体に刻み込まれれば、どんな馬鹿でも記憶する。お前達はいつもそうだ。どれだけ泣き叫んでも。地に額を擦り付けて謝っても、心を焼き切りながら哀れみを乞うても、お前達はやめない癖に。ますます調子付いて、自分の優位を確信して、耳障りな笑い声を上げながら僕を痛め付けるだけの癖に。

 だから、僕は泣かない。涙なんてもう流し尽くした。僕は謝らない。心を削ってまで謝るべき理由なんて何処にも見当たらないから。悲鳴なんて間違っても上げてやるものか。いまさらお前達程度の中途半端な暴力で悶えるほど生温い環境で生きてはいない。お前達みたいな浅ましい輩が喜んで喰らいつくような餌など、何一つとしてくれてはやらない。それが、それだけが、僕に残された抵抗の手段だ。理不尽と闘う為の力が無いならば。せめて精神だけでも、屈する事無く、果敢に。それが僕の矜持だ。

「……」

――果敢?矜持?それこそお笑い種だろう。お前はただ、諦めてるだけじゃないか。

 うるさい。

――お前はただ、這い蹲ってやり過ごす事しか出来ないだけだろう。現実を見ろよ。心の中で何を偉そうに吼え立ててみたところで、お前は所詮、惨めったらしい負け犬さ。

 うるさい。うるさいうるさいうるさいっ!

 そんな事は。

 そんな事は―――、分かってる。

「ひゃひゃ。なぁノブナガ君よ。つまらねぇ意地張らずにいい加減、思いっきり泣き喚いてみろよ、なぁ」

「……」

「そーすりゃさぁ。もしかすっと、心優しい正義のヒーローが助けにきてくれるかもしれねえぞぉ?」

 げらげらと品性と知性に欠けた笑い声が頭上から降り掛かる。僕は、思わず心中で失笑した。

――ヒーロー。強きを挫き弱きを助ける正義の味方。

 ああ、そういう概念が存在するという事は知っている。現実には何ら関わりのない虚構として、イメージの中にだけ存在を許された幻想。僕にとっては本当に、ただそれだけのものでしかないが。真に実在すると信用させたいのなら――今に至るまで、僕が助けを求めた時に一度でも駆け付けてみせれば良かったのだ。何度でも何度でも何度でも何度でも、“弱きを助ける”チャンスはあった筈なのだから。

――ヒーローは居ない。正義が勝つなんてのは大嘘だ。いつだって世界は残酷で、人は汚い。

 そう悟ってから、僕は助けを求める事を止めた。ありもしない希望に縋ってみたところで、待っているのは永遠の如く延々と続く絶望だけ。夢を見せるだけ見せて、現実という地獄に突き落とされる人間の気持ちなんて何一つ考慮していない。無責任で、罪深い輩。それがヒーローとやらの実体だ。

 否定したいなら、行動してみせろ。今すぐ此処に現れて、偉そうに掲げる正義とやらを行ってみせろ。

 もしも、お前ヒーローが本当に居るのなら――僕を、助けてみせろよ。

 絶望と諦観に彩られた呪詛を世界へと吐いた、その時だった。


「こらーっ!なにやってるんですかっ!」


 街に降りた薄闇を切り裂いて、不意に響き渡ったのは――

 幼さに不釣合いな凛々しさと鋭さを宿した、白刃の如き声音。


「義をみてせざるは勇なきなり! わたしが通りかかったからには、悪しきしょぎょうはだんじて見過ごしませんよ!」

「……あ?何だ、この餓鬼……」

「はやくその子からはなれなさいっ!」
 
 思いがけず繰り出された場違いな台詞と、前触れも無く現れた闖入者。その存在に戸惑いを隠せない様子で、男達は遠慮容赦の無い暴行を中断した。僕は顔面を庇っていた腕を下ろし、砂埃に汚れた顔を上げる。そして、“その少女”の姿を視界に捉え――大きく目を見開いて、絶句と共に硬直した。

 眩しい。

 第一印象はその一言に尽きた。何が、とは言わず、まさしく、何もかもが。人形と見紛うばかりの白磁の肌も、薄闇に在って尚美しい鴉の濡れ羽色の髪も、真っ直ぐな意志の煌く黒耀の瞳も。彼女を構成するあらゆる要素が、汚泥に塗れた己とは縁遠い“綺麗なもの”で形作られているような。尊く貴く侵し難い神聖なものであるかのような、それは抑えがたい畏怖の感情。

――何だ?僕は、何を考えている?

 電流の如く脳裏を駆け巡った、あたかも雷に打たれたように激烈な衝撃は、その訪れと同様、唐突に過ぎ去った。呆けて数瞬ほど意識を飛ばしていた自分に気付き、目の前の現実へと意識を引き戻す。

 外見や雰囲気から筋者と一目で判る男二人を目の前にして一切の恐れを窺わせず、少女は凛と背筋を張って佇んでいた。顔立ちや背丈から推測するに、年頃は僕とそう変わらない。つまりは小学校の、それも低学年。そんな幼い女子が恐怖ではなく怒りに眼を輝かせ、悪漢に立ち向かう武士の如き堂々たる態度で暴力団員と相対している眼前の光景は、眩暈すら覚える程に非現実的なものだった。少女が小柄な体躯に背負っている無骨な木刀の存在もまた、その感覚に拍車を掛けている。少女の外観が抱えるちぐはぐさは、初見の衝撃が過ぎ去ってしまえば、いっそ滑稽にすら映った。

 そんな僕の感想は、遺憾な事に、頭上の男達のものとさほど食い違う事は無かったらしい。困惑から立ち直った二人組は、今やニヤニヤと下劣な笑みを浮かべて少女を見遣っていた。

「おやおや、これは可愛らしい嬢ちゃんだな。道にでも迷ったのかい?へへ、何ならオニイサン達が送ってあげようかぁ?」

「人の道に迷っているのはあなたたちです!自分のおこないが恥ずかしくないんですか!?」

 一喝が轟き、凛たる音声が薄闇に包まれた公園を伝播する。少女の怒声は、到底幼子のそれとは思えぬ気迫に満ちており、思わず身が竦む程に苛烈だった。爛々と輝く瞳の奥底にある感情は、一片の曇りも見当たらない純粋な正義感と、何処までも清廉さに充ちた義憤。男達は思ってもいなかったであろう反撃に数瞬ほど言葉を失い、そしてすぐに、気圧された自分を誤魔化すようにヘラヘラと余裕の態度を取り繕った。

「あんね?嬢ちゃん、何か勘違いしちゃってるみてーだけどね、コレはちゃーんとした躾なの。手癖が悪いっつー評判のワルガキをわざわざ矯正してやってんのよ。本当は俺らも心が痛くて痛くてたまんねーんだが、少年の将来を思い遣って心を鬼にしてるワケだ。いわゆる愛の鞭ってヤツ。つっても、お嬢ちゃんにはちょーっとムズカシイ話だったかね?」

「……」

「悪い事をしたら叱られる。アタリマエの事っしょ?俺らはね、前途ある少年が二度と盗みなんて非行を働かねーようにっつー願いを込めて――」

「――たとえ、どんな理由があったとしても」

 男が嘯く白々しい言葉を、静かな声音が有無を言わせず断ち切る。

 男達を見据える双眸に刃の鋭さを湛えながら、少女は儚げな外貌に見合わぬ大喝を轟かせた。

「力にて弱者を虐げる者はこころなき邪悪!森谷の剣は義を護る刃、めのまえの悪を許しはしません!!」

「――ッ、このガキ、優しくしてやりゃ調子付きやがって!てめぇも躾けて欲しいってんなら――」

 元より、所詮は上辺だけの余裕と忍耐。気迫に満ちた一喝を受けた男は、乏しい理性をかなぐり捨てて獣の本性を剥き出しにする。今にも少女に掴み掛かろうとしていた男を制止したのは意外な事に、二人組の片割れだった。

「待て!この小娘……、“森谷”と言ったぞ」

「あァん!?だから何だってんだ。邪魔してんじゃ――」

「落ち着け。頭を冷やして思い出してみろ。いいか、この小娘は、森谷を名乗ったんだ●●●●●●●●●。その意味を良く考えろ」

「……、モリヤってーとまさか、あの森谷●●●●かよ……?いやいや、んなバカな」

「確か、一人娘がいると聞いた。それに、この噛み付き方といい背中の得物といい――いかにもそれらしいと思わないか?」

「……マジかよ。おいおい、面倒くせー事になったな。どうすんだこれ」

 困惑した様子で顔を見合わせている男達を見上げ、僕は内心首を傾げた。少女の言動と立ち振舞いは想像を超えたものだったが、それよりも不可解に映ったのはむしろ男達の反応の方だった。所詮は下っ端の小物とは言え、仮にも一大組織の勢力をバックに有する筋者二人が、僕と同年代の少女を相手取る事に対し、明らかな躊躇の色を見せている。どう考えても異常な光景だった。

――森谷。それが、キーワードか。

 聞いた事は無いが、或いは有力者の家名なのかもしれない。いかに末端の構成員とはいえ、堀之外の裏社会における最大勢力の一つである朝比奈の人間をこうも動揺させる名前。十中八九、相当な力を持っている筈だ。もしかすると正義のヒーロー集団とやらかもしれないな、と皮肉交じりに思考する。人知れずこの世の悪と戦う正義の味方たち。なんとも夢があって素晴らしい話だ。

「相手が相手だ。俺達だけの判断で勝手をやる訳にもいかんだろうな」

「だけどよぉ、クソガキに舐められたままで済ませるってのはねぇだろ。組の面子ってモンが――」

「冷静に考えてみろ。こんな毛も生えていないガキどもを相手に、俺達が無駄なリスクを負う必要があると思うか?」

「……ちっ。胸糞悪ぃ、が、仕方ねぇな。いくらなんでも森谷はヤベェ」

 正体は判らないが、少なくとも朝比奈の連中にとって、少女が口にした名はよほどの脅威であるらしい。二人組の意見が統一されるまでに殆ど時間は要さなかった。とはいえ二人組の片割れ、野卑な粗暴さを全面に漂わせた男はプライドをいたく傷付けられた様子で、屈辱と怒りに燃える目で少女を睨み付ける。

「けっ!せいぜいイカれ野郎の両親に感謝しとくんだな、クソガキが」

「わたし、父上と母上への恩をわすれたことはありませんよ?“考”をないがしろにしては武士しっかくなのです」

 ドスを利かせた男の捨て台詞に対して、少女は毅然たる態度でどこかズレた答を返す。男は苛立たしげに舌打ちを落とし、そして最後のストレス解消とばかりに足元の“玩具”――つまり僕の横腹を蹴り飛ばしてから踵を返した。喉へとせりあがる嘔吐感との必死の格闘に辛うじて勝利を収め、痛みを堪えながら顔を上げた頃には、二人組の背中は公園の外へと消え去っていた。

「……」

「……」

 そして、僕と、正体不明の少女だけが、静寂の戻った公園に残される。沈黙の漂う中、僕はひとまず身体を起こす事にした。じっとこちらを見つめる少女の視線を意図的に無視しながら、座り込んだまま自分の状態を確認する。暴力の余韻は全身を襲う痛みという形で残っているが、特別な処置が必要になるようなダメージは見受けられない。骨折の類は皆無で、どうやら歯も折れてはいない。精々、口内の切り傷が少々と、擦過傷及び打撲痕が数箇所に残る程度。要するに、“いつもの事”だ。最も処置が面倒なのは破れた衣服の修繕だな、と冷めた頭で考え始めたところで、遂に沈黙が破られた。

「あの。えっと、だいじょうぶですか?」

「……別に。僕はこれくらい、慣れてる」

 突き放すように発したつもりの声は、意図に反して酷く嗄れて、弱々しいものだった。そこで僕は、自分が“言葉”を口にしたのが随分と久し振りだった事を思い出した。考えてみれば当然だ。言語というツールを用いて会話を交わすべき相手が、自分の周りには誰一人として居ないのだから。自虐的な考えに浸っている僕に、少女は白い頬を紅潮させながら言い募った。

「でも、こんなにケガしてるじゃないですか!やせがまんはダメですよっ」

「……うるさいな。お前、医者なのか?僕は自己管理が得意なんだよ。僕の事は僕が一番分かるんだ」

――そうだ。結局、僕の事は僕にしか分からない。

 ひんやりと冷たい土の上に座したまま、無気力に少女を見上げた。薄闇に浮かび上がるのは、大和撫子という言葉を全身で体現したかのような、さながら日本人形を思わせる立ち姿。恐らく自分とさして年齢の違わないであろうこの少女は、あたかもヒーローの如く颯爽と現れ、最初から最後まで敢然たる態度を貫いて悪者を追い払ってみせた。それに較べて、僕はどうだ? 痛みを堪え、屈辱に耐え、悲鳴を押し殺して嵐が過ぎ去るのをただ待つ事しか出来なかった、無力な敗北者だ。連中のような社会の寄生虫に対してすら抵抗を許されず、為すがままに蹂躙されるしかない、屑以下の存在だ。

――だから。

「余計な心配に意味は無いし、同情の押し付けは迷惑なだけだ。そんな事は、誰も頼んじゃいない」

 だから――これ以上、僕を、惨めにさせるな。

 汚れ一つ無い清潔な身形。濁り一つ無い清純な双眸。何よりも、臆する事無く理不尽に抗える勇気と、それを単なる無謀で終わらせないだけの力。少女の総てが、住まう世界の違いを実感させる。直視に堪えない程に眩いからこそ、その輝きに触れる度に、自分がいかに取るに足らない存在であるか、逃れ得ない現実を突き付けられる。それは精神を鑢で削り取られるような、恐ろしいまでの苦痛だ。既に慣れ親しんだ肉体への暴力には耐えられても、内から心を焼く痛みに抗う術は無い。

「連中を追い払ってくれた事には感謝する。けど、もう僕には関わらない方がいい。それがお互いの為だ」

 感情を載せずに淡々と言って、僕は立ち上がった。未だ鈍痛の抜けない肉体が軋みと共に悲鳴を上げるが、全て黙殺する。例えどれほどの無茶を重ねる事になっても、この少女の傍に居続ける苦痛よりはマシだ――そんな痛切な感情が身体を鞭打った。

「まってくださいっ!まだお話は、」

「あいにく、話す事なんて何もない。もう一度言うぞ――僕に、関わるな」

 明確な拒絶の意志を言葉に載せ、視線に込めて真正面から叩き付ける。少女は一瞬だけビクリと震え、華奢な体を強張らせて、驚いたように目を見開いた。そんな予想通りの反応に昏い満足感を覚えながら、心中にて自虐的な呟きを漏らす。

――ほら。所詮、こんなものさ。

 これだけだ。身辺から人を遠ざけるには、ただこれだけでいい。他者との縁を断ち切るのは、こんなにも容易い。当然だ――この織田信長という“人間以下の何か”は、最初からそういう風に出来ているのだから。忌まれ、疎まれ、嫌われ、憎まれ、恐れられ、拒絶され、排斥される。それが自然な在り方なのだ。何も不思議は無い。摂理に抗っても仕方が無い。諦める他に、道は無い。

――どうせ。僕は所詮、こんなものだ。

 名も知らぬ異界の少女に背中を向けて、僕は足早に公園の敷地外へと出た。そのまま歩調を緩める事無く、どころかますますペースを上げながら、自宅を目指して街路を突き進む。気付けば早足は駆け足となり、やがて脇目も振らない全力疾走に変じた。何かから逃げ惑うように、灰色の街並みを駆け抜ける。内から鳴り響く鼓動の激しさに追い立てられるように、酸素を求めて喘ぎながら無理矢理に走り続ける。当然の如く数分後に力尽き、息も絶え絶えに路傍へとしゃがみ込むまで、無思慮な疾走は終わらなかった。

「……、……ちくしょう」

 微かな、誰の耳にも届かない程に微かな震え声が、血の滲んだ唇から零れる。何がこうも心を掻き乱すのか、理由は分からない。ただ、何故か、途轍もなく、悔しかった。

 ……。

 ……だが。

 こんな心地の悪さに苛まされるのも、これが最後だ。そもそもが偶然の邂逅、もう二度と顔を合わせる事もないだろう。たとえ再び出遭うことがあったとしても――縁を既に断ち切った以上、関わり合う事は有り得ない。だから、結局は今までと同じ。僕は誰にも影響せず、誰にも影響されない。


――僕の世界には、僕一人が居るだけだ。これまでも、これからも。いつまでも、どこまでも。








※※※




――ところがどっこい、である。昔日の俺が抱いた稚拙な未来予想を痛快なまでの見事さで裏切って、森谷蘭は思いのほか早い段階で再び織田信長の人生に関わってくる事になる。

 俺達が俗に言う“運命的な再会”とやらを果たしたのは、互いの名前も知らないまま夜の公園で別れた、まさにその翌日の事だった。

『ほんじつからこのクラスでおせわになる、森谷蘭ともうします!どうぞよろしくお願いしますっ!』

 見事な達筆で黒板に名前を書き記し、活力の迸るような挨拶の声を張り上げる少女の姿を目の前に、あの瞬間ばかりは俺の頑なな無表情も思わず崩壊していたに違いない。それは見間違えようもなく、つい昨晩に遭遇した謎の少女と同一人物だった。転校生という訳ではなく、“一身上の都合”今まで休学しており、本日から復帰する事になった――といった旨の説明を呆然と聞き流している内に、少女の席はあろうことか俺の隣に決定していたのだった。

『昨日はわたしがちょっとびっくりしてるうちに行っちゃいましたけど、ちゃんとまた会えて良かったです!わたしたち、おなじ学校で、しかもクラスメートだったんですね。またまたびっくりです』

『きちんと学校にかようのは今日がはじめてで、まだともだちもぜんぜんいなくて。というわけで、えと、その、ふつつかものですがよろしくお願いしますっ』

 少女――蘭は、何の屈託もなく、朗らかな調子で俺に話し掛けてきた。恐怖や嫌悪といった負の感情を欠片も窺わせない無邪気な態度に、俺は大いに戸惑ったものだ。同年代の子供達はおろか、大人ですら無差別に怯え竦ませる織田信長にとって、蘭の示した友好的な態度はむしろ異常なものとして映った。その態度がつい昨晩、明確な拒絶を叩きつけたばかりの相手のものとなれば尚更だった。

 まあ、今になって振り返ってみれば、蘭が俺を恐れなかったのは当然の話である。当時の俺は己の才を自覚しておらず、従って現在のような氣のコントロールを習得していない。故に、常に周囲へと殺気を垂れ流している状態であり、それこそが万人に忌避される原因となっていたのだ。しかし、蘭は一般人とは異なり、幼少の頃から内気功を習得し、殺気への物理的な抵抗力を備えていた。故に、未だ磨かれぬ原石に過ぎなかった無意識の威圧程度では、蘭には何の影響も与える事は適わなかった訳だ。

 だがしかし、未熟極まりない昔日の俺にそんな事情が理解できる筈もない。欠片も想定もしていなかった事態を前にひたすら惑うばかりだった。偉そうに孤高を気取ってはいても、所詮は人付き合いの仕方も何一つとして知らず、見下すか疑うか、いずれかの目線でしか相手を捉えることの出来ない、派手に性根のひん曲がったクソガキ――恥を偲んで明言すれば、当時の俺はそんな可愛げの行方不明な子供だったのだ。自分の事ながら、あそこまで屈折した性格の持ち主というものは他に知らない。どうしようもなく自虐的で、コンプレックスの塊である反面、奇妙な程にプライドだけが肥大化している。そんな歪み切った人格を遺憾なく発揮して、ニコニコと元気溌剌に語り掛けてくる蘭に対し、ただひたすらに拒絶的な態度を貫いた。理由は色々とあったように思うが、根本的な要因はおそらく、森谷蘭という少女を一目見たその瞬間から胸に抱いていた、強烈な劣等感だったのだろう。“眩しい”、と、確か俺はそんな風に感じていた筈だ。その眩さに接すれば接するほど、己の惨めさもまた克明に照らし出される事になる。それを俺は何よりも恐れていた。だからこそ、俺は焦燥の内に蘭を遠ざけようと考えたのだ。

 しかし、蘭は俺がいくら邪険に扱ったところで、全く堪えた様子もなく、毎日のように俺に話し掛けた。理解に苦しむ行動としか言い様がなかった。他に話す相手がいないという事なら納得も出来るが、現実は違った。夏の向日葵のように明るく朗らかで、それでいて礼儀正しく、誰彼となくクラスメートの世話を焼いて回る蘭は、瞬く間にクラスの中心人物となっていた。そんな姿がますます俺の劣等感を刺激し、より一層蘭への態度を頑なにさせる事になったのだが、当の本人は気に留める様子もなく、至って相変わらずの無邪気さで俺に接し続けた。それは、蘭なりの正義感の表れだったのだろう。蘭の行動基準はいつも、己の“義”に根ざしていた。強きを挫き弱きを助く――おそらくはそれが、蘭にとって最も重要な価値観だった。故に、目の前で苦しんでいる“弱者”を見過ごせない。故に、織田信長という“弱者”を見過ごす事が出来なかった。蘭にしてみれば、理由などそれだけで十分だったに違いない。

 蘭は俺の身辺を取り巻く事情について殆ど知らなかったが、夜の公園で朝比奈の連中と言葉を交わした事で、少なくとも幾つかの断片的な情報を把握していた。例えば、俺が日常的に窃盗を繰り返して糊口をしのいでいる事実を、蘭は知っていたのだ。だからと言ってその事について蘭が俺を殊更に糾弾する事は無かったが、ただ、悲しげに眉を下げて、静かに問い掛けてきた事を良く覚えている。

『ただわたしは、お話を聞きたいんです。わからないから、知りたいんです。あなたはどうして、ひとのものを盗んだりするんですか?……そんなことをしても、みんなが不幸になるだけなのに』

 そして、その問いを、俺は冷笑と共に黙殺した。

――どうせ、お前みたいな“お嬢様”には理解できないさ。

 芯を通した様に真っ直ぐ伸びた背筋と、年齢にそぐわない丁寧な口調。蘭の日頃の立ち振舞いは、確かな気品を感じさせるものだった。クラスメート達の幼稚な有様と見比べればその差は一目瞭然だ。生まれた時から厳格な教育を受け続けていなければ身に付かないであろう物腰。その割に垣間見せる妙にズレた行動や世間知らずな言動から考えて、どこぞの名家の箱入り娘といったところか。家名を聞いただけで朝比奈のゴロツキが引き下がった事を思えば、有力な武家の息女なのかもしれない。何にせよ――貧困の意味を身体で実感するような生活とは無縁なのだろう。だからこそ、そんな台詞●●●●●を口にする事ができるのだ。一晩の飢えを凌ぐため、カラスに混じって外食店の残飯を漁り、人目に怯えながら盗みを働く事の惨めさを知らない人間に、元より理解など適う筈が無い。――と、俺は昏い嫉妬心を胸に抱きながら、そんな風に考えた筈だ。織田信長にとって、森谷蘭の全ては憧憬の対象であると同時に、抑え難い憎悪の対象でもあった。温かく裕福な家庭に生まれ育ち、仲の良いクラスメート達の笑顔に囲まれ、常に活力に溢れて生命の輝きを放つ少女。どうして自分はあんな風になれなかったのか、と独り世の不公平を呪っていた。

『えへへ、蘭おてせいの“さくらもち”です!ついさいきん、母上につくりかたを教わったばかりなんですよ。えんりょはいりませんよ、わたしたち、おともだちなんですから。さぁ、どうぞめしあがれ!』

『……なんのつもりだよ、お前』

 だからこそ、蘭の取った行動は、結果的に俺の神経をこれ以上無く逆撫でする事になった。俺が窃盗を繰り返す背景に家庭の貧窮具合を見たのであろう蘭は、ある日の昼休み、おもむろに一つの可愛らしいプラスチックケースを差し出してきた。なるほど、それは確かに、実にシンプルで判り易い解決法であった。実際問題、腹が膨れさえすれば、リスクを犯して物を盗む必要など無い。この世からは悪行が一つ減り、惨めな少年の荒み切った心も救われて万事解決、皆が幸せで目出度し目出度しと言う訳だ。蘭のそれは疑い様も無く純粋な善意から出た振舞いで、本来ならば咎められるような行為ではない。しかし、少なくとも当時の俺にとっては、蘭の振舞いはどこまでも腹立たしいものであった。

『僕に情けを掛けてどうしようって言うんだ?恩を売ろうって?それとも感謝されたいのか?何にしても、自己満足のために僕を利用するな。虫唾が走るんだよ』

――哀れまれた●●●●●

 それこそが、俺にとって最も耐え難い事実だった。いかなる暴力よりも痛烈に心を引き裂く、残酷な仕打ちとしか受け止められなかった。

『何が、友達だ。初めから対等だとも思っていない癖に、笑わせる』

 織田信長という少年は、誰も彼もを嘲笑い、見下し、拒絶する一方で――その実、誰よりも強く、“友達”というものを欲していた。他者から愛された記憶を一つとして有さないが故に、無意識の中、心で繋がれる誰かを求めていた。だから、自分を恐れようともせず何度となく語り掛けてくる蘭については、邪険に扱いながらも、心の何処かで何かを期待していた。だから、だからこそ、他ならぬ蘭から向けられた善意を“哀れみ”や“施し”と解釈して、激しい怒りと失望を覚えた。仮に自分が己以外の何者かに世界を開くとすれば、それは互いに対等な友であって欲しいと、そう願っていたが故に。酷く独り善がりで、自分勝手で、傍から見れば滑稽でしかない意地だが――俺は、昔の自分を嘲笑う気にはなれない。

 それほどまでに、孤独だったのだ。何もかもを疑って掛からずにはいられなくなる程に、俺は他者に虐げられ続けてきた。裏切られる事を恐れるからこそ、確かな保証が欲しかった。予め己の定めた理想を相手に求めずにはいられなかった。

『僕を出汁にして“正しいこと”をするのは、さぞかし気持ちが良い事だろうな。……お前も朝比奈のゴミ連中と同じだ。上から目線で見下して、好き放題に自分のエゴを押し付ける。冗談じゃない。ふざけるなよ。僕は――僕は、お前達●●●の手前勝手な欲望を満たすための道具じゃないっ!』

 気付けば、込み上げる激情のままに怒鳴り散らしていた。自分の感情を面に出したのは実に数年振りで、あそこまで激発したのは或いは人生で初めてだったかもしれない。同時に発動したであろう“威圧”の影響で、一瞬にして教室中の喧騒が途絶え空気が凍り付いた。クラスメート達の向ける恐怖の視線が突き刺さる中、俺は射殺すように凶猛な視線を蘭へと向けていた。今度こそ、俺は完全な形で蘭を拒絶し、縁を断ち切るつもりだった。

 しかし、蘭は。顔色一つ変えることなく俺の激情を受け止めて、ただ一言、窘めるように言った。

『もう、そんなこわい顔しちゃダメです』

 弟の悪戯を見咎める姉のような表情で、蘭は静かに俺を見返した。その目の中には恐怖も忌避も嫌悪も、憐憫の色も見当たらない。黒曜の瞳の奥底で、純粋無垢な善意だけが眩く煌いていた。

『ほらほら、とってもおいしいですよ?食べずギライは悪い子のはじまり、なのです』

 何事も無かったかのような笑顔で尚も語り掛けてくる蘭に対して、当時の俺が何を思ったか。正直な所を言えば、良く覚えていない。正体の判らない動揺と混乱に見舞われ、無我夢中で教室から飛び出して蘭の眼前から一目散に逃げ去った、その顛末だけは朧げに記憶している。

 何故そんな行動に走ったのかと具体的に問われれば答えに窮するが、強いて明確な理由を探すならば、森谷蘭という少女のどこまでも真っ直ぐな眼差しを目にして、羞恥にも似た居た堪れなさを感じずにはいられなかったのだろう。その結果、俺は午後一杯教室に戻る事が適わず、記念すべき人生初の授業サボタージュを体験する事になった訳だ。

『今日のできはわれながら“さいこうけっさく”と自負しているのです!ほっぺたが落ちるくらいおいしいことうけあいなのです!』

『むむむ、今日もダメですか。……そういえば、おとこのこはみんな意地っぱりではずかしがり屋さんだって母上に教わりました。なるほど、つまりこういうことなんですね。蘭はまたひとつおとなの階段をのぼりました!』

 しかしまあ、クラスメートである以上はそうそういつまでも逃げ回れる筈もない。その後も蘭は毎日のように手作り和菓子を持ち込んで、屈託のない笑顔で俺へと押し付けた。無視しても睨んでも皮肉を投げ掛けても、一向に堪えた様子もなく、恐ろしい程の根気強さを発揮して俺と向き合い続けた。傍目には奇妙奇天烈で、変わり映えのしない光景が昼休みの恒例行事になってきた頃――とある出来事が起きた。

 切っ掛けは些細な偶然。“日課”を終えた後、帰宅の最中に蘭の後ろ姿を見掛けた俺は、ちょっとした好奇心からその後を尾ける事にした。かの忌々しい朝比奈組に対して少なからず影響力を有すると推測される“森谷”とはいかなる家なのか、知識を仕入れておいて損は無いだろう、と思い立ったのだ。毎日毎日手作り和菓子なぞという贅沢品を娘に持たせられるような家庭だ、さぞかし裕福に違いない――あの腐れた我が家と違って。そんな僻みっぽい予測は、しかしほどなくして粉々に砕け散る事になった。

 廃屋――と、それ以外に形容の術が見当たらない、風雨に晒されボロボロに朽ち果てた家屋。住宅街の片隅にひっそりと佇む、一見して無人としか思えない程に荒廃した小さな一軒家が、森谷蘭の住居だった。念のためにと確認した表札には、見事な達筆で間違いなく“森谷”の二文字が記されていた。驚愕と混乱に見舞われたままその場を立ち去り、寝床たる押入れの中で眠れない一晩を過ごし、そして翌日、俺は蘭に家の事を問い質した。蘭は特に動揺したような素振りもなく、むしろ俺の方から話し掛けられた事が嬉しいのか、にこにこと笑顔を浮かべながら語り始めた。曰く、武家たる森谷家の棟梁として食い扶持を稼いでいた父親が、数年前に突如として重い病に倒れた事。生まれつき身体の弱かった母親は夫の看病と家事を両立する事が限界で、到底働きに出られる状態ではない事。それが原因で、現在では日々の三食すら侭ならない程に貧窮した生活を送っている事。一切の悲愴さを窺わせない朗らかな調子で、蘭は自身の逼迫した家庭事情を打ち明けたのだった。

『武士は食わねど高楊枝。それが森谷の家の家訓がひとつ、なのです』

 恥じ入った様子も無く、蘭は澄まし顔で言ったものだ。昔日の俺が外面の印象から蘭を“お嬢様”だと誤解したのは、どうやらその時代錯誤な家訓とやらのお陰だったらしい。つまるところ、俺はそんな実体のないものに対して妬み嫉みを抱き、挙句の果てには見下されただの何だのと勝手に憤慨していた訳だ。馬鹿馬鹿しいほどに滑稽で、愚かしい。毒気を抜かれて思わず黙り込んでいた俺に向けて、蘭は真面目な表情で言った。

『おなかがへっては戦はできません。わたし、それをよくしっているんです。だから――』

 これを食べて元気になってください。そうしたらきっと、たたかえるようになりますから。

 俺の眼を真正面から覗き込んで、蘭は励ますようにその言葉を紡いだ。それは決して哀れみや同情の込められた言などではなく、むしろ叱咤激励に近い類のものなのだと、その時になって初めて気付いた。身の上の不幸を言い訳にして立ち止まっているんじゃない、と、強烈に背中を叩かれたような心地。

 織田信長はいつでも他者からの哀れみを嫌い、拒絶してきた。全ては自らのちっぽけなプライドを守り通すために。だがその実、誰よりも自分を哀れんでいたのは、自分自身に他ならなかっただろう。自分は結局のところ、自己憐憫に浸る事で眼前の現実から逃げ出していた弱虫に過ぎなかったのだ、とようやく思い至った。それは、堅く心を覆い尽くしていた頑強な殻が、僅かながらとはいえ確かに破れた瞬間であり、俺にとっては大き過ぎるほどに大きな一歩だった。

 俺は改めて……否、おそらくは初めて、森谷蘭という少女に真正面から向き合った。斜に構えることなく、上から見下ろすのでも下から見上げるのでもなく、ただ正面から真っ直ぐにその在り方を見つめた。そうすれば、自ずと理解が及んだ。小難しく考える必要など何一つない――こいつはそういう奴●●●●●なのだと。呆れるほどに善人で、信じられないほどのお人好し。それでいいではないか。肩肘を張っていちいち疑って掛かる事こそ馬鹿馬鹿しい。そんな風に、思えた。

『ふん、仕方ないな。……ただし、言っておくが感謝を求めるなよ。食用に耐え得る味だという保障なんてどこにもない危険物をわざわざ試食してやるんだから、むしろ僕が感謝して欲しいくらいだ』

 そんな憎まれ口を叩きながら、蘭の手から和菓子入りの容器をひったくるように受け取った。輝きを放つような満面の笑みで見守る蘭の視線を強いて意識の外に締め出しつつ、不恰好な形の桜餅を無造作に口に放り込んで、噛み締める。俺が人生の中で初めて食した和菓子は、甘さと塩辛さが混在した奇妙な味だったが――それが果たして蘭の未熟が招いた調理ミスであったかどうかについては、まあ、ノーコメントという事にしておこう。

 何はともあれ、そうした七面倒で迂遠な顛末を経て、織田信長にはようやく一人の友人が出来た訳だ。相変わらずクラスメート達からは遠巻きにされていたが、これまでのように邪険に扱われなくなったのがよほど嬉しかったのか、蘭はますます高い頻度で俺に話し掛けてくるようになった。記憶が正しければ、互いの呼び方が定まったのはこのタイミングだった筈だ。

『いいか、何度も言わせるな。僕は自分の名前が本気で嫌いなんだ。呼ばれるだけで苛々して仕方ない』

『えー、でもでも、もったいないですよ。とっっってもすばらしい名前じゃないですか! ねがってもえられませんよっ!』

『ふん。所詮は他人事だからそんな事が言えるんだよ。お前だって自分の姓名が和泉式部だとか北条政子だったら嫌がる癖に、よくも抜け抜けと』

『わたしはべつにイヤじゃないですけど……。うーん、じゃあ、えーっと。信、しん、シン……そうだ、シンちゃん!これからはシンちゃんってよびますね!』
 
『――シン、か。僕の存在そのものが、罪。くく、なるほど、言い得て妙じゃないか。お前にしては悪くないネーミングセンスだ』

『?? えっと、ちょっとなにいってるかわからないです……』

『ふん、お前には理解出来ないだろうさ。それでいい。お前は僕と違って、光に生きるべき人間なんだろうからな』

『???』

 ……不覚にも最大級に痛々しい記憶を掘り起こしてしまったが、まあその辺は小学生ならばギリギリセーフだと言う事にして。若さ故の過ちを除いて考えても、当時の俺は皮肉屋で底意地の悪い、厭味ったらしいばかりで可愛げない子供だったように思うのだが、蘭は他のクラスメートと過ごす時間よりも俺との時間を優先していた。クラスの中心にいた蘭は、昼食の際は色々なグループを日替わりで巡っていたのだが、まともに会話を交わすようになってからは決まって俺の所に来るようになった。それでも特にクラス内で浮いたり孤立するような事態にならなかったのは、ひとえに人徳の為せる業というものだろう。

 初めて自分以外の誰かと時間を共有する中で、俺は思っていたよりも遥かに饒舌な自分を発見した。これまで行き場を見付けられず、脳内にて堰き止められていた幾千幾万もの言葉が、怒涛の如く一斉に溢れ出してくるような感覚。“会話”という行為そのものが楽しくて仕方がなかった。そして蘭は、そんな俺の話し相手を務めるに申し分のない人間だったと言えよう。同年代の誰よりも聡明で理解力に優れており、また義務教育に加えて両親から独自に教えを受けているという事で、幅広い分野に知識を有していた。共通点として特に歴史を好むという一致もあって、話題の種は尽きる事無く、気の向くままに延々と語り合っているだけで、時間は瞬く間に過ぎ去った。所謂、馬が合ったという奴なのだろう。

 兎にも角にも、俺と蘭が二人で過ごす時間は日を経る毎に長くなっていった。武家の娘である蘭は、基本的に放課後は武術の鍛錬に明け暮れているとの事で、当初は行動を共にするのは校内に居る間に限定されていたが、蘭得意の押しの強い誘いもあって、やがて平日の夜や休日の空いた時間を使って校外でも顔を合わせるようになった。待ち合わせ場所はいつも同じで、俺達が初めて出会った小さな公園。無駄に格好付けたポーズでジャングルジムに背中を預ける俺と、ブランコに腰掛けて楽しげに身体を揺らす蘭……そんなお決まりの構図で、俺達は色々な話をした。最近読んだ小説の話や、学校の宿題や試験に関する年相応の話から、和菓子作りの技術、世界各国の武術、古今東西の合戦に関する薀蓄といったおよそ子供らしくない話題まで。

 流石に十年以上も過去の事となると、話題に挙げた事柄の全てを記憶してはいないが――ただ一つだけ、細部に至るまで明晰に思い起こす事が適う会話があった。出会いから一ヶ月ほどが経った頃に、蘭の口から何気なく零れ出た話題。それはあくまで日常の延長にある、他愛も無い会話だ。故に俺は別段重く受け止めず、特別な感慨を抱くこともなかった。そう――少なくともその時点では、何も。










※※※







「将来の、夢?」

「はい! シンちゃんには何か、夢ってないんですか? おとなになってから就きたい仕事とか、なしとげたい目標とか!」

「……ふん。夢、ね」

 茜色の空の下、蘭はいつものようにブランコに腰掛けて、両足を交互にぶらつかせながら、ワクワクと期待に満ちた表情で返事を待っている。夕日に染め上げられた能天気な横顔をちらりと見遣って、僕は蘭の唐突な問いに対して思いを馳せた。

 夢。将来への希望・願望という意味における“夢”なるものを、僕は生まれてこの方、一度たりとも見た事がない。何故ならば、前途に見出すべき希望など何一つとして存在しなかったからだ。どこまでいっても、僕の人生は絶望の連続でしかない。ずっと、そう思っていた。夢も希望も無く、ただ惰性で延々と続いていくだけの人生こそ、僕という人間以下うまれそこないに用意された運命なのだと、諦めていた。

 しかし――

「?? どうしたんですか、シンちゃん?」

「いや、お前は相変わらず呑気な面をしていると思ってね。悩みが無さそうで何とも羨ましい限りだ」

「むぅ、なんだかぶじょくされている気がしてならないのです」

 ぷくーっとハムスターさながらに頬を膨らませた間抜けな顔に失笑を向けながら、目の前の存在について考える。このどうしようもないお節介焼きのお人好しと出会った事実は、こうして幾度となく共有している時間は、僕にとっての絶望なのだろうか?

 ……それは、違う。違うと断言できる。蘭が傍に居る事には、些かの苦痛も不快も伴わない。とうの昔に慣れ親しんだ暴力も憎悪も、この時間には存在しない。むしろ、僕にとっては信じ難い事に、平穏、安息と呼んで差し支えの無いものが、此処には確かにある。そういうもの●●●●●●を、僕という人間は感じる事が出来る。それは、驚くほどに新鮮な発見だった。

 ならば。もし本当に絶望以外のものが許されるのならば、僕は、“夢”を見てもいいのかもしれない。かつて真剣に考えようと試みた事すら無い、遥か未来に在る希望というものに、思いを巡らせてもいいのかもしれない。朝比奈の連中に、新田という男の鎖に縛られている限り、実現に至る可能性が限りなくゼロに近いのだとしても――戯れに“夢を見る”だけならば、許される筈だ。その程度なら、こんな僕にも。

「イジワルせずにおしえてくださいよぅ。わたし、シンちゃんのこと、もっと知りたいんです。ほらほら、はやくはやく」

「ああもう煩いな。毎度毎度、黙して待つという発想がお前には無いのか? 今考えているんだよ」

 膨らませた頬をそのままに迫る蘭を黙らせてから、思索に沈む。とは言っても、将来のヴィジョンなどそうそう簡単に浮かぶものでもなかった。別段、将来の職に繋げたいと願うほど熱中して取り組んでいる事柄も無い。それに、そもそも。

「……冷静に考えてみれば、僕がまともな職に就けるわけ無いじゃないか。人事担当を怯えさせて、一次面接で落とされるのがオチだ。はっ、お笑いだね」

 何をせずとも自動的に周囲を恐慌に陥らせるというこの呪いじみた性質が、成長に従って消えてくれる保障など何処にもない。というかむしろ、年を経るにつれてますます悪化していくような確信めいた予感があった。やはり僕の未来に待ち受けているのは絶望だけだというのだろうか。死にたくなってきた。

「ええとええと、まだまだしょーらいにぜつぼーするには早いのです!おとなになるころにはきっと、シンちゃんだけの天職が見つかりますから!」

 わたわたと慌てながら拙いフォローに入る蘭。そんなものが慰めに値する訳もなく、僕は鼻を鳴らした。

「天職ねぇ。映画俳優にでもなって悪役ヴィランを演じれば様になるかもしれないな。いっそハリウッドに売り込んでみようか?ふん、素晴らしいね。何とも最高のアイデアじゃないか」

 肩を竦めながら皮肉を飛ばしてやると、蘭は言葉の意味が解らなかったらしく、「びらん?」と小首を傾げている。やれやれだ、僕の小粋なトークに付いて来られないとはまだまだ精進が足りない。仕方がない、ここは僕が色々と教えてやるとしよう、と脳内にて今後のプランを固めながら、僕は言葉を続けた。

「別に僕の事はどうだっていいだろう。お前の方こそ、何か夢でもあるんじゃないのか?」

 そうでもなければわざわざ話題を振ってきたりはしないだろう。そんな僕の予測は正しかったようで、蘭は我が意を得たりとばかりに胸を張って、即座に答えた。

「わたしですか? わたしは――りっぱな“武士”にならなくちゃ」

 それは、奇妙な程の確信に満ちた台詞だった。浮付いた憧れや曖昧な理想などではなく、あたかも決まりきった事実を口にするかのような。鉄芯の如く頑強な決意を窺わせる宣言と共に、真っ直ぐ彼方を見据える蘭の目は、天上に向けて燃え上がる焔にも似た意志の煌きに満ち溢れていた。

「ふん……武士、ね。それはまた何とも。平成生まれの女子が掲げる夢とは信じ難いな」

「むむ、そんなことはありませんよ! むかしのように歴史のおもて舞台に立つきかいが減っただけで、武士はまだほろびてはいないのです!」

「ああもう解ったからいちいち怒鳴るな喧しい。現代でも武士の血筋が途絶えてないなんて事は、ここら一帯に住んでる人間なら誰でも知ってるよ」

 この川神という土地には、かの武神・川神鉄心を輩出した川神を筆頭に、遥か戦国の世から存続してきたと言われる武家が数多く集っている。詳しい所までは把握していないが、有名無名を問わず数え上げれば、その総数は相当なものになるだろう。よって、蘭のように幼くして武を嗜んでいる人間は、実のところそこまで奇異というか稀少な存在でもないのだが――こうも明確に“武士”なるものを将来の目標に挙げる少女となれば、中々お目に掛かる機会はない筈だ。というか、そもそも、だ。

「武士になりたいとは言ってもな……。それを口にするには、まず武士という言葉の定義から始める必要があるんじゃないのか」

 言わずもがな、身分としての士族は戦後には完全に廃止されており、そして現代社会に“武士”などと称される職業・立場は僕の知る限り存在しない。いかに武士の家系が存続しているからと言って、正真正銘の武士そのものが二本差しで街を闊歩している訳ではないのだ。強いて挙げるならば、剣聖と讃えられ、国から帯刀を正式に認可された唯一の剣術家、黛大成。個人的にはその存在に“現代の武士”というイメージに合致するものを感じるが……ならば蘭の目標もまた、そういったところにあるのだろうか。

「――君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす」

 僕の疑問に対して返されたのは、あたかも祝詞を唱えるような厳粛な語調。それでいて、そっと胸元で抱き締めるような柔らかさを含んだ声音で、静かに眼を閉したまま言葉を諳んじる。普段の能天気さとは懸け離れた雰囲気に気圧されている内に、蘭はゆっくりと目を開き、凪いだ海面のような穏やかさを湛えた微笑みを僕へと向けた。

「武士で在ること。それを証立てるものは身分や血筋じゃなくて、生き様そのものなんです」

「……生き様」

「わたしはずっと、そんな生き様を父上と母上の背中に見ながら育ってきました。お二人こそ、正真正銘、ほんとうの“武士”だと。そう、わたしは思っています。わたしはいつか、その背中に追いつきたい。武士道を歩みつづけて、その先にいるお二人とならべるようになりたい。それが目標なんです。ずっとずっと見続けてきた、たったひとつの夢なんですっ」

 キラキラと瞳を輝かせながら語る蘭の顔には、一片の翳りも見当たらなかった。穢れの無い純粋な熱意を以って、心底から自身の“夢”を追い求めているのだろう。僕には到底、理解の及ばない姿勢だった。どこか居心地の悪さにも似た感覚を覚えながら、言葉を捻り出す。

「……ふぅん。早い話、親に憧れてるって事か。お前、よほど両親を尊敬してるんだな」

「はいっ! 父上も母上も、とぉーってもりっぱなお方ですから! シンちゃんは、ご両親みたいになりたいって思ったことはないんですか?」

「――……、さあ……、どうだろうな」

 返答を曖昧に濁さずにはいられない、僕にとっては少なからぬ苦々しさを伴う蘭の質問だった。森谷蘭は未だ、織田信長の家庭を取り巻く事情を知らない。家族を置き去りに蒸発した薄情な父親の事も、アルコールとクスリに溺れて虐待を繰り返す母親の事も、家庭に這入りこんで来た嗜虐趣味のケダモノの事も、僕は何一つとして蘭に伝えてはいなかった。わざわざ自分から口にしたくなるような事柄でもなし、それに何より――蘭の性格を考慮すれば、正直に事情を打ち明けた所で事態が好転するとは思えない。むしろ最悪の事態を招く可能性が高かった。だから、これからもきっと、話す事はないだろう。幸いにして蘭は人の言う事を疑おうともしない、根っからのお人好しだ。僕が本気で隠し通そうと努める限りは、そう容易く勘付かれる事は有り得ない筈だった。

「それにしても……武士になりたい、ね。つまりお前はその為に、毎日毎日、飽きもせず武術の鍛錬に時間と労力を費やしている訳だ」

「そのとおりなのです! わたしはまだまだみじゅくですから、鍛錬にさく時間はいくらあってもたりません。こうやってシンちゃんとおしゃべりしているときと、学校でお勉強しているときのほかは、蘭はずっと修行修行のまいにちなのです」

「それはご苦労様だな。だが、考えてもみるといい。片やお前が汗水流して修行を積んでいる間に、クラスの連中は自由気侭に遊び回ってるんだ。……あいつらが羨ましいと思うことはないのか?」

「ありません」

 神速の抜刀術に喩えられそうな即答だった。蘭はじっとこちらを見つめてから、不意に生真面目な表情を崩し、ほにゃりと緩い笑顔を浮かべると、弾むような調子で言葉を続ける。

「父上も母上も、稽古のときはとっても厳しい方たちですし、修行には苦しくて辛いこともたくさんありますけど。それでもわたし、毎日がすごくじゅーじつしてます。夢に向かってすすんでいれば、なんだってがまんできるんです! いつか、シンちゃんにも分かるようになりますよ。ぜったいにかなえたいとおもう夢ができたら、きっと」

「……ふん。生憎、僕はそんな風に暑苦しく熱血してるような人生は御免だな。目の前の現実を顧みずに夢見心地で生きられるほど、お目出度い性格はしてないんでね」

 何事かに対して全身全霊を以って取り組み、必死の姿勢で泥臭い努力を積み重ねる。そんな不撓不屈の活力に満ちた生き方を選ぶ自分の姿が、僕には全く想像できなかった。熱意や気力といった類の、夢を見続ける為に必要不可欠なエネルギー――いわゆる熱量が、僕という人間には絶対的に不足している。その点で、蘭のような種類の人間とは根本的な部分で異なっているのだ。それ故に、僕が蘭の在り方に共感する日は訪れないだろう。

 ……。

 やはり、駄目だ。未来について語るのは気が進まない。長らく絶望だけを映し込んできた僕の瞳には、未だ何も見出せない。

「――ところで。そんな事よりも、だ」

 幸いにして、話題を切り替えるに都合のいい材料は見付けていた。違和感を覚えさせないよう何気ない口調を装って、会話の流れを誘導する。

「さっきのお前の話で、一つ気になった事がある。お前の言う武士の生き様とやらについてだ」

「??」

「『君に忠、親に孝、自らを節すること厳しく、下位の者に仁慈を以てし、敵には憐みをかけ、私欲を忌み、公正を尊び、富貴よりも名誉を以て貴しとなす』。仮にお前が馬鹿正直にこの文言全てを体現するつもりだとしたら、必然として一つの問題が出てくるだろう?」

「問題、ですか?」

「ああ。頭の、『君に忠』、の部分だが……前提として誰かに仕えていなければ、忠義も何もあったものじゃあないだろう? だとすれば、お前が理想の武士で在るためには、仕えるべき“主君”とやらの存在が必要になるんじゃないのか――ふとそう思った訳だ。実際、その辺りはどうするつもりなんだ?」

「もちろん、いつかはわたしもふさわしいひとを主君にえらんで、おつかえすることになります。まだまだ先のことですけど、蘭はそのときにそなえて日々精進しているのです!」

「……ふぅん。主君を選ぶ、か。当然と言えば当然だが、仕えられれば誰でも良いって訳じゃないんだな」

「もちろんです! 忠節を尽くすべき真のあるじにめぐりあってこそ、武士のほんかいをはたせるというもの。これはわたしにとって、だれをお婿さんにするかとおなじくらいにじゅうだいな選択なのです。まさにしかつもんだい、わがじんせいの天王山なのですよシンちゃんっ!」

 語っている内に何やら妙なスイッチが入ってしまったらしい。相変わらず無駄に喧しい奴だ、と冷めた視線を送る僕に気付いた様子もなく、蘭は握り拳を振り回す勢いで言葉を続けた。

「ちなみにこくはくすると、わたしのりそうはずばり、『織田信長公』なのですっ!」

「……おい。それは僕への厭味なのか?皮肉か?喧嘩を売っているのか?」

「む、ちがいますよぅ。シンちゃんじゃあるまいし、わたし、そんなイジワルはしませんっ」

 蘭はいかにも心外そうな調子で言って、いまいち迫力に欠ける半眼でこちらを睨み返してきた。どう考えても色々な意味で心外なのは僕の方だったが、ぐっと反論を抑える。こんな風に意固地になった蘭と言い争うのは時間と労力の無駄でしかないと、僕はこれまでの付き合いの中で存分に思い知らされていた。

「それにしても……僕への嫌がらせじゃなく本気で言っているなら、意外だな。お前みたいな“義”マニアの理想の主君像が、かの自称・第六天魔王とは」

 為政者としても武将としても破格の実績を残し、歴史にその名を刻み込んだ英雄。戦国の乱世にて覇を争った無数の武士達の中において傑出した才覚と実力の持ち主である事は疑いない。が、同時に他の何者よりも強く残虐非道のイメージが付いて回る人物でもある。実際の人物像がどうだったにせよ、かの英雄が生涯の中で苛烈と言う他無い処断を幾度も下し、少なからぬ人間を殺戮した事は歴史が物語っているのだ。こと戦国史という分野においては僕より遥かに造詣が深い蘭ならば、その辺りを把握していない筈が無い。

『たとえ、どんな理由があったとしても――力にて弱者を虐げる者はこころなき邪悪!』

 夜の公園にて、朝比奈の二人組に啖呵を切る蘭の姿を思い出す。眼前の悪事、特に弱者に対する暴虐の類を厳しく見咎める蘭の倫理観を考えれば、魔王とすら呼ばれる奸雄を憧憬の対象とする事には、些かの違和感を覚えずにはいられなかった。

「……“天下”を」

「ん?」

「たしかに信長公は、非情のふるまいがおおく伝えられていますけど。ホントは、ただだれよりもまっすぐに“天下”をみていた方なんじゃないか、って。わたし、そうおもうんです。えっと、えっと、なんていうか、ちょっとうまくいえないんですけど、うーんと」

「……戦乱の世を戦い抜く中で、眼前の進退のみに囚われる事無く、あくまで天下という大局を見据えた上で己が行動の指針を定めていた。だからその所業の善悪は凡人の物差しで容易く測れるものじゃないし、測るべきじゃない――お前が言おうとしてるのはそんなところか?」

「わっ、わっ、す、すごいですシンちゃんっ! まさに一をきいて十をしる、黒田如水さながらですっ」

「ふん、この程度の洞察でいちいちはしゃぐな。世の中に溢れかえってる低脳どもと違って、僕はまともに脳細胞を働かせてるだけだ。少し想像すればお前の単純な頭の中身くらいは分かるんだよ」

「おおー……さすがシンちゃん、太原雪斎もだつぼーまちがいなしの智謀なのです。蘭は、蘭はかんぷくしましたっ」

 尊敬の眼差しを向けるのは一向に構わないが、いちいち引っ掛からずにはいられないその喩えはどうにかならないものか。当人は間違いなく無自覚で言っているのであろう辺りがなおさら腹立たしい。そんな僕の微妙な気分には当然のように気付かないまま、蘭は楽しげに言葉を続けた。

「“真の武士たるもの、眼前の小義のみに囚われることなく、大義の為に刃を振るいなさい”――父上はいつもそうおっしゃっているのです。信長公はきっと、天下統一という大義のために、一生をかけてたたかいつづけた方で……、だれかにおつかえするなら、わたし、そういう人がいいなって」

「……」

「ひとりではかかえきれないくらい大きな夢をもって、いっしょうけんめい毎日を生きている人――そんな人のお役にたって、すぐそばでささえられたら、それはきっとしあわせなことなのですっ!」

「……夢。夢、か」

 だったら――どうしたところで、僕には務まらないな。

 キラキラと顔を輝かせながら語る蘭を見遣りながら、心の中で呟いた。僕には夢なんてものはない。夢を叶えるどころか、見る事すら叶わない。そうだ、最初から判っていた事だ。僕とこいつは、織田信長と森谷蘭は、住んでいる世界が違う。いつかは必ず――異なる道を往く。

 ……。

 ……まあ。そんな事は所詮、僕には関係のない事だ。遠い未来に蘭が何処の誰に仕えようが、誰を伴侶に選ぼうが、別に、僕の知った事じゃあない。

「ふん、何にせよ、お前みたいな単純馬鹿を従者にしなくちゃならない奴が哀れだな。苦労を背負い込む羽目になるのが判り切ってる。僕なら頼まれたって御免だ」

「むぅ。いつもいつも、どうしてそんなふうにイジワルばっかりいうんですかっ! わたしだって、シンちゃんには頼んだりしませんよーだっ! ……って、えっと、シンちゃん、どうしたんですか?」

「……うるさい、何でもない、お前には関係ないっ」

「む、そんなこわい顔しちゃダメです! まったくもう、シンちゃんはしょうがないですねー。だからみんなにわかってもらえないんですよ? シンちゃんはたしかにイジワルですけど、ホントはすてきなところもいっぱいあるんだって!」

「~っ、余計なお世話だ!」

「あ、シンちゃん、どこへいくんですか!? むむ、これは……かけっこで勝負ということですね! よーし、これも修行のいっかん、ぜんりょくでおあいてしますよ! いざじんじょうにっ!」










※※※





 

 ――ところで。当時の俺達の交友内容が、小学生らしからぬトークに花を咲かせる事ばかりだったかと言うと、実はそうでもない。俺が基本的に運動よりも静かな環境での思索や読書などを好んだ一方、蘭は恐ろしく精力的且つ活動的なタイプの人間だった。その行動力たるや、渋る俺の襟首を引っ掴んで市内を引っ張り回すほどのパワフルさに溢れており、必然として俺もまた蘭に合わせて活発に動き回る羽目になった訳だ。

 ちなみに蘭が学校での勉強や家での鍛錬の合間に街を走り回って、主に何をしていたかと言うと――ざっくり言ってしまえば、成敗すべき“悪”を探していた。持ち前の正義感と使命感を燃やして、鍛錬用の木刀を佩いて治安維持の真似事をするのが蘭の日課だった。公園で朝比奈組の連中からリンチを受けている俺を発見した時も、その日課の途中であったそうだ。とはいえ、無法者の巣窟たる歓楽街への立ち入りは両親から固く禁じられているとの事で、主な活動範囲は住宅街とその近辺に限定されていた。そうなると、都合よく蘭の目に留まるような悪行と言えば、民家の塀に落書きして遊ぶ悪ガキだったり、精々真っ昼間から泥酔したチンピラ同士のストリートファイトだったりと、大抵の場合はほとんど徒労に近い結果に終わっていたが、蘭はいつでも実に充実した表情で活き活きとパトロールに励んでいた。幼くして自分の目標とする在り方を明確に定めていた蘭にとっては、行いの過程全てが有意義なものであり、時間を無為に費やしたと苦に感じる道理など無かったのだろう。他ならぬ俺もまた、何のかんのと文句を垂れ流しつつも、蘭の強引さに振り回される日々を嫌ってはいなかった。そして、俺と蘭がもう一人の幼馴染――タツこと源忠勝と出会ったのも、その市内パトロールの最中の事であった。

『おまえらには関係ねぇだろ。オレのジャマをするんじゃねえ』

 ファーストインプレッションは、まあ割と最悪の部類だった。例によって俺は殺気を垂れ流し状態にしていたし、忠勝は忠勝で初対面の相手には誤解を招き易いタイプの外見と性格の持ち主だ。今でこそ笑い話だが、蘭の強引な仲裁がなければ確実に取っ組み合いの喧嘩になっていた事だろう。

 ……。

 当時、孤児院出身の忠勝は。里親に引き取られて川神に越して来た直後であり、色々な面で余裕がない時期だった。見知らぬ土地、見知らぬ環境で見知らぬ人間と共に新たな生活を送るというだけでも、未成熟な精神は相当なストレスを感じるものだ。更に忠勝の場合、孤児という境遇から生じる様々な負荷が、小さな双肩に伸し掛かっていた。養父……宇佐美巨人との関係も現在とは違ってぎこちないもので、引き取って貰った恩義に報いなければならないという強迫観念が忠勝の心を絶えず圧していた。才能を見込まれて引き取られた以上、何としても期待に応えなければならない――そんな思い込みが忠勝を追い詰め、らしくもない無茶な行動に走らせたのだろう。

 俺と蘭が堀之外の街中にて初めて目撃した源忠勝の姿は、注意深く物陰に身を隠しながら一人の男を尾け回している最中という、何とも不審極まりないものだった。そんないかにも怪しげな行為が蘭に見咎められない筈もなく、詰問という些か非友好的な形で俺達は初接触を果たす事になった訳である。案の定一悶着起きそうになったが、その時点では取り敢えず蘭の押しの強い説得(物理)で平和が保たれた。そうして事情を訊いたところ、忠勝は今と変わらぬ鋭い眼光で尾行対象の男を睨んで、自分に言い聞かせるように言った。

『オレがこの手で捕まえる。そうできゃ意味がねぇ』

 忠勝が追っているのは、この数週間だけで何件ものスリの容疑を掛けられている男との事だった。しかし、よほどの凄腕なのか、いずれのケースも証拠不十分で立件は不可能。泣き寝入りは我慢ならないので何としても証拠を掴んで欲しい、手段は問わない――という旨の依頼が被害者の一人から宇佐美代行センターへと持ち込まれたのだという。無論、いかに巨人のオッサンが駄目な大人の見本と言われても致し方のない人物とはいえ、流石に小学生の養子に犯罪者を追わせるような真似をする訳もない。依頼の内容を耳にした忠勝は、養父や事務所の人員には無断で独自に動いていたのだった。自分一人で依頼を完遂する事が出来れば、代行人としての才能の証明になる。そう考えた末の行動だった……と、これはだいぶ後になってから忠勝の口から聞いた話だ。出会った時点ではただ、スリの現場を押さえるために張り込んでいた、という事情を簡潔に説明されただけだった。そして、街の風紀委員を自称する蘭が持ち前の正義感を発揮するには、それだけの情報で十分だった。

『だったら、わたしが手伝いますっ! シンちゃんだっていますし、おおぶねにのったつもりでいてくださいね!』

『おい僕はまだ何も――』

『シンちゃんはとってもすごいんですよ! 山本勘助や直江兼続にもまけない“ぐんし”なのです。きっとめからうろこがおちるような妙案をだしてくれますっ』

『……いや。そういう問題じゃなくてだな、この件はオレが自分の力で――』

 目を爛々と輝かせて協力を申し出る蘭に対し、忠勝は断固として拒絶の姿勢を貫こうとしたものの、最終的には蘭の頑なさに折れる形で首を縦に振った。そうした顛末を経て、織田信長、森谷蘭、源忠勝による自称特別捜査隊が結成される事になる。お子様三人組の協力による地道な張り込みと尾行の日々は約一週間ほど続き、最後には蘭自らが囮となって男の犯行を誘い、懐に向けて伸びた腕を森谷式柔術で極めて正義の鉄槌を下すというオペレーション・パンドラ(命名及び立案・織田信長)にて決着した。内気功を用いた森谷式アームロックの効果は絶大で、男の張り上げた絶叫の悲痛さたるや、「それ以上いけない」と忠勝が真剣マジで止めに入るレベルだった。何とも懐かしい記憶である。

『ったく、おまえらはやり方がムチャすぎるんだよ。見てるこっちの方がハラハラしやがる。……だがまあ、礼は言っておくぜ。ありがとよ』

 そう、俺が記念すべき忠勝の初デレを目撃したのもあの時だった。それが切っ掛けだったのか否かはさておき、無事に依頼を完遂し、つるむ理由が特に無くなった後も、俺達は何となく三人で集まる事が多くなった。通っている学校こそ違ったが、忠勝は俺達よりも馬の合う同級生というものが見つからなかったらしく、放課後になると結構な頻度で例の公園に顔を出した。天真爛漫な明るさで俺達の間を取り持っていた蘭が鍛錬で不在の時は、必然的に二人きりの空間が出来上がる訳で、そうなると忽ち不穏な空気が漂い始める事も珍しくなかったが、不思議と俺達の関係に決定的な亀裂が走る事は無かった。むしろ小さな諍いを繰り返し、幾度も意見を衝突させる度に、互いの性格と価値観を理解する事で少しずつ距離を近付けていった。ふと気付いた時には、俺達は何の屈託もなく自然に会話を交わせるような関係を築いていた。蘭は俺達の関係性の変化を我が事のように喜んで、にこにこと嬉しそうに笑顔を零していたものだ。時が経ち、季節が移り変わると共に、俺達は数多くの出来事を共有し、絆を深めていった。武力担当の蘭、知略担当の俺、優れた胆力と冷静な判断力でストッパーを務める忠勝。主に蘭が原因となって首を突っ込む羽目になった幾つものトラブルを、俺達は各々の能力を結集する事で突破した。三位一体――そんな形容が相応しいと思える程に、俺達のチームワークは抜群だった。

 森谷蘭と源忠勝。二人の得難い友と出逢った事で、間違いなく俺の人生は劇的な変化を遂げたと云える。無論、現実としては、貧窮した生活も腐敗した家庭も依然として変わる事はなく、空腹は尚も絶えず心身を蝕み、母親による虐待は続いていたが――言い換えれば、それはただ、それだけの事だった。“森谷”の娘である蘭と行動を共にする事で、朝比奈組の構成員に絡まれる機会は確実に減った。自らの心を切り刻んで糧に換えるような窃盗行為も、蘭との出逢いを機に一切を止めた。見知らぬ他人から金品を掠め取る代わりに、多馬川の河川敷で手製の釣竿を垂らし、食用に耐え得る野草を探し歩いて飢えを凌ぐ。そんな過酷なサバイバル生活の中で、蘭が週に一回だけ公園に持参する手作り和菓子は、喩え様もないほどに美味だった。これまでに数多の職人が研鑽の末に完成させた、至高の芸術品とも云うべき和菓子の数々を食し続けてきた俺だが、記憶に残るあの味に勝るものは未だ嘗て存在しない。きっと、これから先も見つかりはしないのだろう。

 ……。

 生きている事が楽しいと、生まれて初めてそう思えた。どれほど飢えに苛まされても、口汚い罵倒を受けても、理不尽な苦痛を押し付けられても、二人の事を思い浮かべるだけであらゆる辛苦に耐える事が出来た。笑顔の蘭と、仏頂面の忠勝。己独りしか居なかった筈の“織田信長の世界”には、いつの間にか二人が住むようになっていた。永遠に絶望が続くと根拠も無く信じ込んでいた人生に、確かな希望が在る事を知った。自分は幸せになれるのだ●●●●●●●●●●●と信じられる、ただそれだけの事が、俺にとっては奇跡にも等しかった。

 だからこそ、俺は。

 親友達と共に過ごす掛け替えのない日常が崩れ去る事を恐れ、いつまでも手放したくないと願い。変化の可能性を拒み、充たされた今をそのままに保とうと、心の何処かで停滞を望んだ。

 その純真な願いこそが、その無垢な望みこそが、己の背負う十字架なのだと悟る事も無く。

 すぐ其処にまで迫っていた、絶望的な悲劇の足音に、最後の最後まで気付く事も無く。


 あの懐かしき日々の中、俺達はまだ――幸せでいられた。

























 こんな小学生が実在したら嫌だなぁと思いながら書き始めた過去話。終了までは2~3話程度を予定しています。あまり冗長に過ぎると真剣で原作何処行った状態になってしまうので、可能な限りコンパクトに、が過去編の第一目標です。前編の時点で一話辺りの字数が過去最多な辺りについては、まあ気にせず逝きましょう。
 A-1、特にあずみルートの完成度が想像以上で色々と妄想が捗る今日この頃。それでは次回の更新で。


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