誰もが予想していなかったであろう、まさかの結末。
“両者引き分け”。
衝撃的とも言える川神鉄心の決着宣言に、観衆は静まり返った。
が、それも一瞬の事で、静寂はすぐさま爆発的な歓声に取って代わられる。
全校生徒の半分に届きそうな数のギャラリーが織り成す大歓声は、その中心に居る俺達の耳朶を心地よく打った。
「くぁー、引き分けとか、そんなのってアリかよぉ!」
「畜生、俺の上食券が……なんてこったい」
そんな中、歓声に混じってところどころで上がる悲痛な叫び。青空闘技場辺りで良く耳にする種類の悲鳴だった。大方、決闘の結果でトトカルチョでもしていたのだろう。
多少は気の毒だとは思うが、まあ概ね自業自得だ。他人様の苦労に便乗して気楽に儲けようなどと考えた報いを受けるがいい。
「あ、主……」
決闘を無事に乗り切った安堵感から脱力し、益体も無い思考に浸っていた俺の前に、蘭が歩み寄ってきた。
生彩の感じられない顔でふらふらと近付いて来るその姿は、傍目にも危なっかしい。まるで幽鬼であった。
「主に大見得を切った挙句の、此度の結末。面目次第もありません……」
どんよりと陰鬱なオーラを漂わせながら、蘭は搾り出すような声で言葉を紡ぐ。蘭には別に珍しくも無い事だが、どうやら本気で落ち込んでいる様子だ。
やはり、“引き分け”という結果はこいつにとって責められて然るべきものだということか。
「この森谷蘭、いかなる罰であれ甘んじて受け入れる所存です。主が腹を召せと仰せになるならば、今すぐにでも」
何をトチ狂ったのか、どこからともなく抜き身の小刀を取り出す馬鹿従者の姿に、心中にて盛大に溜息をつく。
「蘭」
「……はっ」
「顔を拭け」
「はっ?」
「見苦しい」
つい先ほど英雄に向かってヘッドスライディングを敢行したばかりの蘭の顔面は、見事なまでに砂に塗れていた。
更にはそこに流した汗と悔し涙とが交じり合って、お前はどこの甲子園球児だと言いたくなるような有様となっている。少なくとも年頃の女子が観衆の前で見せるべき顔ではない。
「使え。許す」
ぽかん、としている馬鹿に構わずハンカチを懐から取り出し、無造作に放り投げる。蘭はわたわたと慌しい動きでそれをキャッチし、目を瞬かせた。
「俺の従者を務める以上、衆目に醜態を晒す事は許さん。命も賭けぬ勝負の結末など些事。己が強さは、その姿を以って示せ」
威厳溢れる雰囲気を醸し出しながら静かな口調で言い放つ。
傍目には間違いなく馬鹿馬鹿しく思えるだろうが、こいつにはこれくらい芝居がかった諭し方が丁度良かったりするのだ。
長年主従として付き合っている内に、なんだかんだで俺もこの“主”役がすっかり板についてしまった。実に嘆かわしい事である。
「は……、ははーっ!蘭は愚かでありました……誉れ高き主の従者の肩書きに恥じぬよう!蘭は、蘭は胸を張ります!」
俺の言葉の何処らへんが琴線に触れたのかは知らないし知りたくもないが、蘭は唐突に平伏しながら感極まったように叫び出す。
「苦しゅうない。が、先ずは顔を拭いてからにしろ。恥を掻かせるな。阿呆が」
「ははっ、それでは失礼致します」
俺が渡したハンカチで顔を覆うと、ずびびびびー、と何とも力の抜ける音を立てて鼻を啜る蘭。
特に文句は言うまい。俺としては汚して貰っても一向に構わない。どうせ洗濯は(というか家事全般は)蘭の仕事なのだから。
取り敢えずこいつへのフォローはまあこんなものでいいだろう。全く、変人の従者を持つと主人は苦労させられる。
まあ、今回の決闘に関しては蘭にほぼ任せっきりだった訳だし、少しくらい労わってやっても罰は当たらないか。
「ん?」
ふと背後からの足音を感じて、俺は振り向いた。目に映るは無駄に眩しい金ぴかスーツとメイド服。
先程までの決闘相手、九鬼英雄と忍足あずみの主従のご登場である。
はてさて、どういう用件があるのやら。或いはまたしても喧嘩を売ってくる気かもしれない。
心中では油断無く身構えながら、俺は悠然とした調子で二人に向き直った。
「何用か。決闘は既に終結を見た筈。異議の申し立てならば川神鉄心の所へ行くがいい」
「違いますよぅ、つれないですね~。恐れ多くも英雄さまから、庶民の貴方にお話があるそうですよ。ありがたく聞いて下さいね☆」
営業用全開のスマイルで爽やかに答えてから、あずみは英雄の後ろに控えるように立つ。
英雄と俺は僅かな距離を挟んで向かい合った。そして、その周囲を不特定多数のギャラリーが見守るように取り巻く。……この注目度の高さは一体全体どういう訳なのだろうか。
「庶民。……いや、織田信長と言ったか?」
「姓名を纏めて呼ぶな。姓のみか、名のみだ。それ以外は許容しない。先刻も言った筈だが。その頭は飾りか」
たとえ相手が九鬼財閥の御曹司だろうが全宇宙の創造主だろうが、そこだけは譲れない。
「フハハハ、名前などと細かい事を気にしていては器が知れるぞ、信長よ」
割と本気の殺気を込めて睨んだのだが、英雄は気にした様子もなく笑う。
肝が据わっているのか単純に無神経なのかは分からないが、何にしても常識外れな奴だ。幾多の修羅場を潜り抜けてきた荒くれ共をも恐慌状態に陥れる俺の威圧を、こうも容易く受け止めてみせる人間などそうはいない。
竜兵やら釈迦堂のオッサンやら、あの辺りの救えない変態どもはまた話が別なのだが――いや、あいつらの事を考えるのは止めておこう。
「それで。話とは」
「なに、我は貴様を好敵手として認定することにしたのでな。名を記憶しておこうと思ったのだ。光栄に思うがいい、フハハハハ!」
「…………」
こいつは何を言っているのだろう。何故そうなる。どうしてそうなった。話の展開が唐突過ぎて付いていけそうもない。
一人で勝手に馬鹿笑いを上げる英雄に、流石の俺も咄嗟に言葉が出てこなかった。
「む、感動のあまり言葉も出ないようだな。殊勝な心掛けである」
「……馬鹿な寝言は寝てから休み休み言え。何の故あって俺が貴様の好敵手にならねばならん」
「簡単な事よ。我は、貴様もまた人の上に立つべき者であると認めたのだ。互いに競い、争うに足る男だとな。であるならば、ライバルと呼ぶのは当然であろう!」
少なくとも九鬼英雄の脳内においては当然の理論であるらしかった。俺にはいささか理解の難しい言葉だったが、周囲を取り巻くギャラリーにとってはそうでもなかったようだ。
「あのプライドの塊みたいな英雄がライバル宣言か。珍しい事があるもんだな、若」
「ふふっ、英雄は相変わらずですね。少し妬けてしまいます」
「熱い、熱いわ……これぞ男の友情って感じよねぇ。ヴィヴァ青春」
「創作意欲が湧いてきました。何かこう、ムラッと」
「こーゆう時は、えーと、アッー?」「ちょ、ユキ、それは色々と危ないからやめなさい!」
個々の内容までは聞き取れないが、概ね好意的な雰囲気のどよめきが上がっている……ような気がする。その割に妙な悪寒を感じるのは何故だろう。
「うむ、そういう訳だ。我が好敵手、信長よ。これはもはや決定事項、取り消しなど効かんぞ」
「…………」
何だか色々と面倒になってきたので、俺は早々に反論を諦めた。こういうタイプの人間にマトモに対応するのは時間と体力と精神力の無駄遣いというものである。
「……下らん。勝手にするがいい」
「フハハハ、言われるまでもないわ!」
そういう訳で突き放すような調子で吐き捨ててみたのだが、今更その程度の抵抗でダメージを受けてくれる筈もなく、英雄は満足気に頷いた。
そして、用件が済んだならさっさと失せろと目線で促す俺を、真正面から見据えてくる。
「我は貴様を超えるためには努力を惜しむつもりは無い。貴様も我の好敵手に相応しくあるために日々の精進を怠るな。今回は叶わなかったが、いずれ必ず改めて雌雄を決する時が来るであろう。その時まで念入りに首を洗っておくといい!」
そう言い残して、英雄は颯爽と踵を返した。
後ろにあずみを引き連れて、ギャラリーが作った人垣の間を悠然と歩き去っていく。
その威風に満ちた後姿は、確かに王を自負するだけのことはあると思わず納得させられるものであった。
「去ったか」
周囲に悟られない程度に、ふぅ、と小さく息を吐く。九鬼英雄に忍足あずみ、あたかも台風の如く騒がしい主従だった。
英雄の去り際の台詞からして、これにて永久にお別れという訳にはいかないのだろうが、ひとまず解放されたのは事実だ。一息つきたくもなる。
「御疲れ様でございました、信長様。本日は手製の和菓子を持参しておりますので、よろしければご賞味下さい」
「ん、然様か。ならば疾く教室に戻るとしよう」
「ははーっ」
蘭の手作り和菓子は俺の大好物の一つである。特に今日の決闘という一大イベントで疲労した頭脳には、あの水羊羹のまろやかな甘みがさぞかし染み渡る事だろう。
こうなっては居ても立ってもいられない。一刻も早く教室に帰還し、今日という波乱の一日を無事に乗り切った喜びを和菓子の甘さと共に噛み締めなければ。
そんな思いに駆り立てられるようにして足を踏み出せば、英雄達の時よりも更に大仰にギャラリーが割れ、必要以上に広い道を作った。
気の所為でなければ、織田信長という男に対する彼らの視線には、恐怖心のみならず畏敬の念のようなものを感じる。
先程の決闘を通じて俺への評価に何かしらの変動が起きたのかもしれない。その辺りは流石に経過を見てみなければ判別が付かないが、悪い方向への変化でなければ歓迎するとしよう。
まあ。そんな事は後でいくらでも考えればいい。
今の俺にとって最も重要な案件は、一刻一秒でも早く教室に辿り着き、蘭の机に保管されているであろう和菓子を味わうことである。邪魔をする者が現れるなら、己が全力を以って排除して見せよう。
募る想いに身を任せ、今まさに教室へ向かう足を速めようとした、その時であった。
「ちょーっと待ったぁー」
妙に間延びした緊張感の無い声に、俺がピタリと足を止め、観客達がどよめき、背後で蘭が息を呑む。
この場に居る全員の視線は、俺の前方、まるで進路を塞ぐ様に仁王立ちしている人影に向けられていた。
美しい闇色の髪を長く伸ばした、抜群のプロポーションを有する文句なしの美少女。
だらしなくにやけた口元とは裏腹に、猛禽類の如く鋭い目で真っ直ぐにこちらを見据えている、その少女は、この川神学園――否、川神市における最大の有名人であった。
「川神、百代……!」
蘭は表情を引き攣らせながら、誰一人として知らぬ者の居ない少女の名を呟いた。
「おー、転校生のカワイコちゃんも私を知ってるんだな。いやー有名人は辛いなー困っちゃうなー。よしよし、是非とも後で私といちゃいちゃしよう」
「………っ」
普段の蘭なら大なり小なりツッコミを入れて然るべきところだが、今は何一つとして言い返せていない。
完全に相手の、川神百代の圧倒的な存在感に呑まれている証拠だった。
何をされた訳でもない。ただそこに立っているだけで、にやにやと笑っているだけで、押し潰されそうな重圧を周囲に振り撒いている。
これが、川神院の産み落とした世界最強の闘士か。こうして実物を目の前で拝むのは初めての経験だが、なるほど。
正真正銘、怪物だ。
「蘭。下がれ」
「……はっ」
落ち着け。俺まで呑まれてはいけない。いや、呑まれている事を悟られてはいけない。
一度でも動揺を悟られてしまえば、織田信長の虚像に亀裂が入ってしまう。他の全てを犠牲にしてでも、それだけは絶対に回避しなければならない事態だ。
「そんなに怖がらないで欲しいんだけどなー。お姉さんの繊細なハートが傷付いちゃうぞ」
「そうも剣呑な眼をしておきながら、良く言えたものだ。鏡を見る事を推奨しよう」
決して言葉にも表情にも動揺を浮かばせないよう細心の注意を払いながら、俺は織田信長の仮面を被った。
この川神学園への転入を決めた時点で、川神百代と言う怪物と向き合う覚悟も準備も済ませた。それを今更になって怯え竦んでどうするというのだ。
現在の事態は、来るべき時が来るべき時に来たに過ぎない。
「或いは、真に気付いていないのか。貴様の眼は、飢えた獣のソレだとな」
「おおっと、いきなりご挨拶だなぁ、転校生」
感情の読み取り辛い薄ら笑いを浮かべながら、川神百代が俺に声を投げかける。
「ちなみにここで豆知識、私は三年生でお前は二年生だったりするんだ。ちょっと先輩に対する口の利き方がなってないんじゃないかなー。そんな生意気な後輩には誰かが縦社会の厳しさを教えてやらないとダメだよなぁ。だからさ」
甘ったるい猫撫で声が、ここまで人間の恐怖を煽る物なのだと俺は学習した。
にぃぃ、と彼女の口元が弧を描いて、背筋が凍るような笑みを形作る。
「戦おう。今すぐここで私が満足するまで存分に。戦おう」
俺に向かって嬉々とした調子で語り掛ける彼女の声は、これ以上ないほど陽気に弾んでいる。
仮にこの声音で語られる内容がデートのお誘いであれば、俺はどれだけ救われた事だろう。
そんな益体も無い考えで現実逃避をしたくなる程度に、状況は切羽詰っていた。
川神百代。
その戦闘能力はまさしく驚異的の一言であり、他の追随をまるで許さない。現時点において実力で彼女を抑え込めるのは、祖父である川神鉄心のみと言われている。
そんな次元が一つも二つも違うような存在を相手に、正面から戦いを挑めばどうなるか。
その答えはかつて彼女に挑んで散っていった無数の闘士達が身を以って証明してくれていた。
しかしだからといって、いつもの如く小細工を弄したところで通用するようには思えない。ネズミ用の罠をライオン相手に仕掛けるようなものだろう。
つまり。俺に残された選択肢は最初から一つしかない。
いかにして川神百代との“戦闘”を回避するか、だ。
「さっきの決闘な、ゾクゾクしたよ。こんな感覚は久しぶりだ……私とジジイくらいしか気付いてなかっただろうが、最後のアレ、超圧縮した殺気で相手の動きを封じたやつ。あんな芸当、私にも出来ないぞ。そういうのが得意な師範代の釈迦堂さんでも、あそこまでの殺気は出せやしなかったハズなんだ。ははは、何だろうな、本当にワクワクが止まらないんだ。なあ、もっとあるんだろ?勿体ぶらずにお姉さんに見せてみろって、なぁ」
眼を爛々と光らせて、舌なめずりせんばかりの表情で俺に語り掛ける百代。
どう考えてもこの流れはマズいな。穏便に解決できる道筋がまるで見えてこない。
「決闘の直後で疲労している。故に全力で戦えない……と言ったら。如何する?」
「あのな、そんな訳あるか。さっき、お前ほとんど何もしてないだろうが。後ろのカワイコちゃんに任せっきりで」
やや呆れた顔で一蹴されてしまった。ですよねー、と言わざるを得ない。いや、口に出しては言わないが。
さてどうしたものか、と心中にて思案しつつ、俺はさりげなく百代から視線を外し、その背後のギャラリーからある人物を探していた。
人間型最終破壊兵器百代に対する唯一のストッパー、川神鉄心。あの怪物爺さんの動向次第で、俺の取るべき対応もまた変わってくる。
数秒後、発見。少し離れた地点のギャラリーの最前列からこちらを観察している。どうやらまだ様子を見る心積もりらしい。
例え戦闘が始まってしまったとしても、都合よく助け舟を出してくれるかどうかは微妙な所か。偶然の要素に頼るのは俺の主義に反するので、ここはやはり、自分の力で戦闘を回避するのがベストな選択肢らしい。
幸いにして、幾つか対策案が無いわけでもない。最適の対応を選ぶ為にも、まずは会話を通じて可能な限り川神百代の性格を分析せねば。
「川神百代」
「お?なんだ、転校生」
「貴様は俺との闘いを望んでいるようだが。俺は違う。両者の合意が無ければ、決闘は成立しない。故に、俺が貴様と拳を交わす必要もない」
「んー、なんだ、私と戦うのが嫌なのか?ははーん、さては怖気づいたな、転校生?男なのに女の子との勝負から逃げちゃうんだー、へー、ふーん」
なんという分かり易い挑発。こんなものに引っ掛かるのはガキか、頭の足りないDQNくらい……だと笑い飛ばせればいいのだが。
正直を言えば、俺にとってこの手の挑発は致命的だ。織田信長が織田信長である以上、決して“逃げ”は許されない。例えそれが見え透いた挑発だとしても、相手が天下無双と名高い川神百代だとしても、乗らなければ臆病者の謗りは避けられないだろう。
なんとも面倒な話だが、しかしこれが俺の選んだ生き方なのだ。今更女々しく愚痴は言うまい。
「俺が貴様から逃げる。怖気づいたから。ふん。面白い発想があるものだな」
「お、違うのか?だったら―――」
「川神百代。俺は現在、最高に苛立っている。貴様の無粋な足止めによって、俺は。かれこれ九分と三十六秒もの間、和菓子を食する瞬間の到来を遅らせている」
「は?」
「理解出来ぬなら噛み砕いて言ってやろう。俺にとって、貴様との勝負には和菓子を犠牲にする程の価値などないと。そういう事だ」
「…………」
さすがに言葉を失ったのか、百代は何とも形容しがたい表情で沈黙した。
さて、この場面でどういう反応をするか。百代の人格を推し量るいい機会だ。
「……もし」
「ん?」
「もし戦ってくれたら、おねーさんとしては仲見世通りの甘味処で色々とおごってあげるのも吝かじゃないんだけどなー。正直言って出費は痛いが、それもお前と戦うためなら安いものだと割り切ってみせるぞ。私はお前との勝負にそれだけの価値を感じてるんだ。なぁ、それでも、ダメか……?」
「ふん……」
能面の如き無表情を貫き通している裏側で、俺は吐血しそうな勢いで葛藤していた。
やばい。
色々と反則だ。反則過ぎる。そんな風に上目遣いで弱弱しくお願いされて陥落しない男がどれだけいると言うのだろう。
しかも仲見世通りの甘味処と言えば、万年金欠の俺と蘭では手を出すことすら難しい高級店ばかりではないか……っ!
どうしてこうもピンポイントに俺の弱点を突いてくるのだ。まさかそれすらも作戦なのか。一目で俺の弱点を見切ったというのか。だとすれば恐るべき怪物だ、川神百代。さすがに世界最強の名声を欲しいままにするだけの事は―――っと違う違う。思考が脱線し過ぎだ。落ち着け。
そう、例えどんな理由があろうと、俺は川神百代と戦ってはいけない。
それは、揺らぐ事の無い絶対条件だ。
幸いにしてと言うべきか、既にゴールに至るまでの道筋は見えた。
事前に仕入れておいた情報と、こうして直に確認した彼女の人となりを併せて考えれば、俺の取るべき対応は確定したと言っていい。
たとえそれが、どれほど気が進まない方法だったとしても、俺はやり遂げねばならない。
生憎と現実は和菓子ほど甘くはないものだ。
「そうか。それ程までに、俺との死合いを望むか。其処まで言われては、俺も応えぬ訳にはいかない、か」
「お。やっと分かってくれたか!こんな美少女にここまで想われて幸せ者だぞお前は。さあさあ、始めよう戦おう。ああ、待ちくたびれた―――」
「ならば断言しておこう」
百代の浮かれた言葉に被せるようにして、俺はどこまでも冷たく言い放つ。
「俺は、貴様のような半端者と死合うつもりなど、毛頭ないと」
その言葉を告げ終えた瞬間から数秒間、時が止まった。少なくとも俺はそのように体感していた。
群集のざわめきすらもピタリと止まり、痛いほどの沈黙がグラウンドを支配する。
「半端者……?なあ。それは、もしかしてさ、私に向かって言っているのか?」
その異様な沈黙を破ったのは、やはり百代だった。
怒りを無理やり押し殺したような低い声音で、俺に問い掛けている。全身からはドス黒く禍々しい気が溢れ出し、その双眸から放たれる本物の容赦ない殺気が鋭利な刃となって俺に突き刺さる。
“人間”を怖いと本気で思ったのは、久々の体験だった。
以前に似たような怪物と対峙した経験が無ければ、こうも完璧に外面を取り繕うことは不可能だっただろう。
今だけはあんたに感謝してやってもいい、釈迦堂のオッサン。あんたのお陰で耐えられるし、川神百代という怪物を少しは理解できそうだ。
震え出しそうになる脚を抑え、浮かびそうになる冷や汗を抑え、引けそうになる腰を抑えて、俺は真正面から悠々と百代の怒気を受け止めてみせた。
「なあ、私はそんなに気が長い方じゃないし、善人でもないんだ……私に話をする意思が残ってる内に答えてみろよ。私の何が半端なのか」
ここで退いては全てが台無しになる。今こそが踏ん張りどころなのだ。
俺は真っ直ぐに百代の燃えるような目を見つめ返して、用意された言葉を淡々と紡いだ。
「貴様の眼は、獣の眼だ。飢えを癒す為、ひたすら獲物を捜し求める、血走った狂気の瞳。貴様の本質は、疑いなく……闇」
「それがどうした。私だって分かってるよ、そんな事は。自分の衝動がどういうものかは誰よりも理解してる」
「ならば尚の事度し難い。己が何者か自覚がありながら、光にしがみ付いていると言うのか」
「光……ね」
「家族。友人。恋人。貴様は何も捨てていない。捨てて闇に堕ちる覚悟もない。だからと言って、欲望のままに闘う事を止める意思もない。獣と人のどちらにも成り切れず、闇にも光にも染まり切れず。ただ才能に任せてその境界線上に胡坐を掻いている。そんな半端者と、命を賭けて死合うなど御免蒙る。そこに何の価値がある?俺が言っているのは、そういう事だ」
一息に言い切ると、そこで一旦口を閉ざして、百代の反応を窺う。
「私は……だが……、むぅ……」
俺の指摘に心当たりがあったのか(まあ無くては困るのだが)百代は何かしら葛藤している様子だった。眉間に皺を寄せて、小さく唸っている。
ただ、その身に纏う雰囲気からは、怒気と殺気が薄れているように思えた。それだけ俺の言葉に真剣に耳を傾けてくれているのだろう。
聞く耳持たずに問答無用で攻撃されていたらかなりマズイ状況になっていただろうから、取り敢えずは一安心である。
よし。この調子なら、一気に言葉を重ねて勢いで押し切ってしまうのが上策だろう。
俺は唇を軽く舐めて湿らせてから、再び口を開いた。
「勘違いは望まぬ所。故に言っておこう。俺は貴様を誰よりも高く評価している」
「そんな風には聞こえなかったがな。あれ、私の耳がおかしいのか?あれぇー?」
皮肉が飛ばせるくらいなのだから、怒りは殆ど収まっていると考えてもいいだろう。好都合だ。今ならば、ある程度の理屈が通じる。
「貴様の実力は紛れも無く本物。戦うとなれば、互いに手心を加える余裕など無いだろう」
「ま、私が強いのは当たり前としてだ。お前の方はどうなんだろうなぁ?随分と自信満々だけど、私はお前の実力をぜんっぜん知らないからなー。ほんとーは弱っちかったりするんじゃないのか?」
「下らん事を言うな。貴様が本気でそう思っているなら。わざわざ勝負を挑んだりはしないだろう」
「ま、その通りだけどさあ。あーあ、イジリ甲斐がないなー、うちの舎弟とは大違いだ」
「ふん。それは実に喜ばしい事だ」
何とも肝の冷える遣り取りである。百代にとっては軽い嫌味程度の認識なのだろうが、俺の精神はガリガリと凄まじい勢いで削られているのだ。正直勘弁して欲しい。
「話を戻すが。俺はあくまで、“現在の中途半端な川神百代”に死合う価値を見出せていないだけの話。如何に中途半端な状態であれ、貴様とやり合って無傷で済むとは思えんのでな」
「それはな。当たり前だろ」
「この五体は、いずれ“未来の完成された川神百代”と死合う日の為にも……損なう訳にはいかない。貴様もまた、半端なままで俺と死合って、五体を損なうのは本意ではあるまい」
我ながらとんでもない理屈を並べるものだ、と内心馬鹿馬鹿しく思わずにはいられなかったが、しかし思えばリアルトンデモ人間の川神百代を説得するのだ。これくらいネジのぶっ飛んだ理論でも用いなければ到底納得させられないだろう。
そんな俺の努力の甲斐あってか、ついに百代は降参するように両手を上げて、若干うんざりした様な調子の声を上げた。
「あー、まあお前の言いたいことは大体わかったよ。わかったわかった、はいはい、大人しく諦めるって。……今日のところは」
何やら不穏な言葉が最後に聞こえたのは気のせいだろうか。
「…………」
「だって、明日になったら気が変わってるかもしれないし」
それでは困る。校内にて常に百代の影に怯え続ける生活など論外だ。俺の平穏なる学生生活が完全に崩壊するではないか。
何という事でしょう。俺の魂を込めた説得は無駄に終わってしまったのか。くそっ、川神百代……この悪魔めっ!
「まあでも」
脳内にてケケケと笑うデビル百代を泣きながら罵倒していた俺を、現実に引き戻す声。
「私もお前とは真剣で決着を付けたい気はするな。だから、私も今は我慢してやるさ。ただし―――私が真に“完成”したら、その時こそ私と戦うと約束してくれ。と言うか約束しろ。いいな」
「……ふん。言われるまでも、ない事だ」
内心の動揺を押し殺して鷹揚に頷いて見せると、百代は満足気にニンマリと笑って、絶対だからな、と念を押した。
「よーし、約束も取り付けたし、それじゃ私はそろそろ退散するか。あー、ちなみに私な、後ろのカワイコちゃんにも興味津々だったりするから」
俺の背後に控える蘭に、ねっとりと熱視線を送る。ビクリ、と蘭は蛇睨みにあった蛙の如く硬直した。
「そういう訳でお二人さん、これからもまたよろしくなー。ばっははーい」
そんな蘭を見てニヤリと嫌な笑みを浮かべると、百代は颯爽と手を振りながらギャラリーの中へと去っていった。
「やれやれ、だ」
今の気分を四文字熟語で表現するなら、まさしく台風一過、と言ったところだろう。
ひとまずはこれにて一件落着。どうやら、当面の危機を回避することには成功したらしい。
ただし、こんなものは所詮、その場凌ぎの方便に過ぎない。根本的な解決を行っていない以上、そう遠くない将来にこのツケは払うことになりそうである。
考えるだけで何とも頭の痛くなってくる話だが、まあ、将来の問題は将来の自分が何とかする事だろう。
少なくとも今、気に病んでも仕方のない事だ。
そんな事よりも今は、兎にも角にも無性に和菓子を貪りたい気分である。それ以外の事など、思考する気にもなれない。
「蘭」
「は、ははっ。信長様、何用でございましょうか」
「今日の和菓子の品目は」
「はっ。水羊羹と桜餅を用意しております」
「うむ。主の求める物を良く理解している。褒めて遣わす」
「ははーっ、有難き幸せにございます!」
よーし、今日は胸焼けするまで存分に食そう。うんそうしようそうに決まった。わぁい楽しみだなぁ。
……疲れた。
~おまけの風間ファミリー・放課後にて~
「いやー、軽い暇潰しのつもりで見学に行ったんだけど、色々とスゲーもん見ちまったぜ」
「全くだな。姉さんがキレそうになった時は本気で焦った。あれだけ人がいるところで暴れられたら被害が洒落にならないし」
「もー、お姉さまは関係ない人を巻き込んだりはしないってば!でも、あんなに怒ってるお姉さまは久し振りに見たわ……うぅ、恐かったよぉ」
「よしよーし。ワン子、泣かない泣かない」
「泣いてないわよ!うー、これも全部あの変な転校生のせいよ。今度見かけたらお姉さまの代わりにアタシが成敗してくれるわ!」
「それなんだけどな……ワン子だけじゃない、皆の耳に入れておいた方がいい話がある」
「おお、さすがは我らが軍師、あの美少女転校生の個人情報を早くも入手したか!」
「そんな訳ないでしょ!何だか真面目な話みたいだから邪魔しちゃダメだって、ガクト」
「俺様の小粋なジョークが理解できねぇとは哀れな奴だぜ。で、話ってなんだよ、大和」
「どうも気になったから人脈を使って調べてみた訳だけど……2-Sの例の転入生二人、相当ヤバイ奴らみたいだ。詳しい話はもう少し調べてからにするけど、正直言って触りの部分だけで十二分に危ない感じがする。学校でも可能な限り関わらないようにした方がいいだろうな。特にワン子、間違っても喧嘩売ったりしないように」
「分かってるわよ、もー。人を狂犬みたいに言わないでよ!」
「大丈夫。ワン子はどっちかというと忠犬」
「そ、そう?えへへー、それほどでも」
「犬扱いにも文句を言わない辺りが全力で忠犬だよね……」
GW中に書いておいたものをひっそりと更新してみます。
プロットだけで小説が完成すればいいのにと思う今日この頃。時間が欲しいなぁ。
おまけの風間ファミリーはどの台詞が誰のものかを推測しながら読むと楽しい……可能性が無きにしも非ずかもしれませんね。
ヒント:まゆっちとクリスは時期的にまだファミリーに加入していません