<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.13860の一覧
[0] 俺と彼女の天下布武 (真剣で私に恋しなさい!+オリ主)[鴉天狗](2011/04/15 22:35)
[1] オープニング[鴉天狗](2011/04/17 01:05)
[2] 一日目の邂逅[鴉天狗](2012/05/06 02:33)
[3] 二日目の決闘、前編[鴉天狗](2011/02/10 17:41)
[4] 二日目の決闘、後編[鴉天狗](2009/11/19 02:43)
[5] 二日目の決闘、そして[鴉天狗](2011/02/10 15:51)
[6] 三日目のS組[鴉天狗](2011/02/10 15:59)
[7] 四日目の騒乱、前編[鴉天狗](2011/04/17 01:17)
[8] 四日目の騒乱、中編[鴉天狗](2012/08/23 22:51)
[9] 四日目の騒乱、後編[鴉天狗](2010/08/10 10:34)
[10] 四・五日目の死線、前編[鴉天狗](2012/05/06 02:42)
[11] 四・五日目の死線、後編[鴉天狗](2013/02/17 20:24)
[12] 五日目の終宴[鴉天狗](2011/02/06 01:47)
[13] 祭りの後の日曜日[鴉天狗](2011/02/07 03:16)
[14] 折れない心、前編[鴉天狗](2011/02/10 15:15)
[15] 折れない心、後編[鴉天狗](2011/02/13 09:49)
[16] SFシンフォニー、前編[鴉天狗](2011/02/17 22:10)
[17] SFシンフォニー、中編[鴉天狗](2011/02/19 06:30)
[18] SFシンフォニー、後編[鴉天狗](2011/03/03 14:00)
[19] 犬猫ラプソディー、前編[鴉天狗](2011/04/06 14:50)
[20] 犬猫ラプソディー、中編[鴉天狗](2012/05/06 02:44)
[21] 犬猫ラプソディー、後編[鴉天狗](2012/05/06 02:48)
[22] 嘘真インタールード[鴉天狗](2011/10/10 23:28)
[23] 忠愛セレナーデ、前編[鴉天狗](2011/04/06 14:48)
[24] 忠愛セレナーデ、中編[鴉天狗](2011/03/30 09:38)
[25] 忠愛セレナーデ、後編[鴉天狗](2011/04/06 15:11)
[26] 殺風コンチェルト、前編[鴉天狗](2011/04/15 17:34)
[27] 殺風コンチェルト、中編[鴉天狗](2011/08/04 10:22)
[28] 殺風コンチェルト、後編[鴉天狗](2012/12/16 13:08)
[29] 覚醒ヒロイズム[鴉天狗](2011/08/13 03:55)
[30] 終戦アルフィーネ[鴉天狗](2011/08/19 08:45)
[31] 夢幻フィナーレ[鴉天狗](2011/08/28 23:23)
[32] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、前編[鴉天狗](2011/08/31 17:39)
[33] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、中編[鴉天狗](2011/09/03 13:40)
[34] 幕間・私立川神学園第一学年平常運行中、後編[鴉天狗](2011/09/04 21:22)
[35] 開幕・風雲クリス嬢、前編[鴉天狗](2011/09/18 01:12)
[36] 開幕・風雲クリス嬢、中編[鴉天狗](2011/10/06 19:43)
[37] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Aパート[鴉天狗](2011/10/10 23:17)
[38] 開幕・風雲クリス嬢、後編 Bパート[鴉天狗](2012/02/09 19:48)
[39] 天使の土曜日、前編[鴉天狗](2011/10/22 23:53)
[40] 天使の土曜日、中編[鴉天狗](2013/11/30 23:55)
[41] 天使の土曜日、後編[鴉天狗](2011/11/26 12:44)
[42] ターニング・ポイント[鴉天狗](2011/12/03 09:56)
[43] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、前編[鴉天狗](2012/01/16 20:45)
[44] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、中編[鴉天狗](2012/02/08 00:53)
[45] Mr.ブシドー×Ms.キシドー、後編[鴉天狗](2012/02/10 19:28)
[46] 鬼哭の剣、前編[鴉天狗](2012/02/15 01:46)
[47] 鬼哭の剣、後編[鴉天狗](2012/02/26 21:38)
[48] 愚者と魔物と狩人と、前編[鴉天狗](2012/03/04 12:02)
[49] 愚者と魔物と狩人と、中編[鴉天狗](2013/10/20 01:32)
[50] 愚者と魔物と狩人と、後編[鴉天狗](2012/08/19 23:17)
[51] 堀之外合戦、前編[鴉天狗](2012/08/23 23:19)
[52] 堀之外合戦、中編[鴉天狗](2012/08/26 18:10)
[53] 堀之外合戦、後編[鴉天狗](2012/11/13 21:13)
[54] バーニング・ラヴ、前編[鴉天狗](2012/12/16 22:17)
[55] バーニング・ラヴ、後編[鴉天狗](2012/12/16 22:10)
[56] 黒刃のキセキ、前編[鴉天狗](2013/02/17 20:21)
[57] 黒刃のキセキ、中編[鴉天狗](2013/02/22 00:54)
[58] 黒刃のキセキ、後編[鴉天狗](2013/03/04 21:37)
[59] いつか終わる夢、前編[鴉天狗](2013/10/24 00:30)
[60] いつか終わる夢、後編[鴉天狗](2013/10/22 21:13)
[61] 俺と彼女の天下布武、前編[鴉天狗](2013/11/22 13:18)
[62] 俺と彼女の天下布武、中編[鴉天狗](2013/11/02 06:07)
[63] 俺と彼女の天下布武、後編[鴉天狗](2013/11/09 22:51)
[64] アフター・ザ・フェスティバル、前編[鴉天狗](2013/11/23 15:59)
[65] アフター・ザ・フェスティバル、後編[鴉天狗](2013/11/26 00:50)
[66] 川神の空に[鴉天狗](2013/11/30 20:23)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[13860] 愚者と魔物と狩人と、前編
Name: 鴉天狗◆4cd74e5d ID:0552110a 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/03/04 12:02

 川神学園、第二茶道室。

 流石に文武両道を掲げる川神学園だけあって基本的な室内設備は整っているが、茶道部の部員数の関係で現在は使用されておらず、実質上の空き教室と化している。つまりは特に厳重な管理が為されていないため、出入りに鍵の類は不要だ。まあ勿論のこと学内設備の一部である以上、空き教室とはいえ確り施錠はされているのだが――あろうことか2-Sのヒゲ教師こと宇佐美巨人が教室を私物化し、憩いの場として頻繁に利用している事が原因で、扉が開放されている状態は珍しくない。だからこそ俺は、未だ放課後でもない授業時間の最中に、こうして室内への侵入を果たせたのであった。

 床に敷かれた草色の畳に座し、将棋盤と向かい合う。どうにも茶道室というロケーションに対して場違いな感が否めないこの代物は、ほぼ間違いなく巨人のオッサンが持ち込んだ私物なのだろう。だらける事に関しては他の追随を許さないあの中年オヤジは、学園という聖域においてもその怠惰さを自重する気は皆無らしい。自分達の担任がご覧の有様であると云う事態は実に嘆かわしいが、まあ所有物たる将棋盤に罪は無い。ここは是非とも有効活用させて貰うべきだ、などと取り留めの無い思考を巡らせながら、俺は駒を動かした。

 盤の向こうに指し手は居ない。詰将棋だ。最善手を模索し、一手のミスもない完璧な道筋を見出す作業は、思考能力を養う鍛錬の一環となる。そして当然の如く、鍛錬である以上は真剣に取り組まなければ意味が無い。盤上の戦局へとあらゆる集中力を注ぎ込む事が出来ないのなら、最初から畳に転がって寝ていた方がまだ幾らかマシというものだ。

「寝るか……」

 と言う訳で、どうにも先程から集中に欠けている残念な俺はその通りにした。すなわち指先の歩兵を適当に盤上へと投げ出し、同時に床へ向けて身体を投げ出す。そして拒絶するかの如き畳の固い感触に独り顔をしかめ、即座に身を起こす羽目になった。なるほど、茶道室は茶道に励む場であって、断じて昼寝に勤しむ場ではない。幾ら注意力が散漫になっていても不貞寝に逃げる事は許されないようだ。俺は再び将棋盤の前に座り、しかし盤上に視線を向ける事はせず、黙して瞼を閉した。

「……」

 静かだ。駒が盤を叩く素朴な音色が止むと、俄かに室内は厳粛な静寂に包まれた。誰の声音も聞こえない。遠くグラウンドから伝わる喧騒だけが、言葉としての意味を為さない雑音として微かに響くだけだ。現在は授業時間の真っ最中であるため、校舎内で賑やかに談笑する生徒達の姿は見受けられない。そしてこの第二茶道室は授業に使用する各教室とは少し離れているので、教鞭を振るう先生方の有難い声も届かない。本当に、静かだ。同じ敷地内に千を超える人間が存在しているなどとは到底思えない程に。此処には俺しかいない。俺の思考を煩わせるものは何一つとして存在しない。

――成程、これは確かに穴場だ。巨人のオッサン、目敏さを無駄に活かしてやがる。

 ちなみにこの場所についての情報は、我が第二の従者、明智ねね個人の有する情報網から拾ったものだ。あの猫っぽい生物の怠惰さも相当なレベルなので、存分にだらけられるスポットを日頃から模索していたのだろう。サボるために全力を尽くすという奇天烈な生態系についてはいずれ力尽くでも修正しなければなるまいが、まあ今回に関してはその弛んだ性根が役立ったので良しとしよう。うむ、俺という男は実に寛大な主君だ。我ながら自身の器の大きさには感嘆せざるを得ない。

 鬱陶しい騒音に煩わされないで済むのも得難い利点だが、何より雰囲気がいい。草色の畳、鮮やかな花の描かれた掛け軸、折り畳まれた屏風、障子窓越しに射し込む柔らかな陽光。空き教室のままに放置しておくには贅沢過ぎる風雅さだ。物品の性質として“洋”よりも“和”を好む俺にとって、この室内は何とも安らげる空間だった。是非とも茶を点てて、上品な甘さの和菓子を堪能したくなる。仲見世通りの喧騒に包まれながら気侭に食べ歩くのも悪くはないが、やはり和の静寂の中に心身を落ち着けながら、礼と共に食すのが最上だろう。それが、あいつお手製の和菓子ならばもはや言う事は――


『信長さま、信長さま!今回は自信作です、森谷蘭一世一代の大傑作ですっ!是非ともご賞味ください!』


「……全く。結局、行き着く先は一緒なのか。笑う他ないな、これは」

 織田信長ともあろう者が、己が望み通りに思考を逸らす事さえ侭ならないとは。何とも、滑稽な程に、無様だ。何も笑えはしないと言うのに、昏い嗤いが自然と込み上げる。些細な現実逃避すらも満足に実行不可能と成り果てる位に、俺は参っているらしい。思考は一向に纏まらず、心は乱れたまま収まらない。独りになれば少しは落ち着けるかと思ったのだが、認識が甘かったか。

 自嘲的な気分に浸りながら、携帯の時刻表示を見遣る。現在時刻は、一時二十分。

 つまり、三十分だ。森谷蘭の変貌の瞬間から、未だその程度の時間しか経過していない。僅か四半刻という取るに足らない時間が過ぎ去っただけで――俺を取り巻く世界は、こんなにも変わってしまった。否、変わったのは世界ではなく、認識の方か。まあどちらでもいい。人は所詮、己が主観で物事を判断する生き物だ。

「さて。どうしたものか」

 勿論、空き教室に引き篭もって懊悩しながら唸っているだけでは何も解決はしない。現実の問題を解決出来るのは、具体性を伴った行動のみだ。将棋盤に向き合って無為に時間を費やすよりも先に、最低限の対応は行っている。ただ、そちらにしても向こうからの報告があるまでは事態が進行しないので、結果として現在の俺には実行に移せる有意義な行動が存在しない。本当に、どうしたものか。

「……ん?」

 不意に、静寂を破る異音が耳を打つ。室外に伸びる廊下を反響し、障子を突き抜けて教室へと飛び込んできたのは、誰かの足音だった。それだけの情報では正体を特定するには至らないが、或いはこの教室を目指しているのかもしれない。時間帯を考えれば、可能性は十分にある。

 徐々に近付いてくる気配に備えて、俺は咄嗟に崩していた姿勢を正した。相手が何者であれ、俺は冷酷非情の暴君たる織田信長。無作法に胡坐を掻いてだらけているというアレな場面を目撃されようものなら、腐心して築き上げた威厳に傷が付きかねない。全てを知る人間からみみっちい気配りだと笑い飛ばされそうだが、しかしこうした地道なイメージ作りは人心掌握の観点から見ても意外と重要な意味を持つものだ。そう、別に見栄を張っている訳ではない。

 作法に則った完璧な正座の姿勢を整え終え、改めて畳の固さ加減を自身の両膝にて体感し、せめて座布団を敷いておくべきだったな、と膝へのダメージを憂慮し始めたタイミングで、入口の障子戸が引かれる。戸口から姿を見せたのは、良く見知った顔だった。来訪者の鋭い目がこちらへと向けられ、ぶっきらぼうな声音が口から放たれる。

「邪魔するぞ」

「邪魔するなら、帰れ」

「はっ、生憎と下らねぇボケを聞く気分じゃねぇな」

「全く以って同感だ。ま、これは性分だから諦めてくれ。どんな時だろうと無駄口を叩いてないとやってられないのさ、俺って人間は」

「ああ――それだけ無駄口が叩けるなら、まだ大丈夫だな。思ったよか余裕そうで何よりだ」

 無愛想な口調に確かな安堵の念を滲ませながら、源忠勝は後手に障子戸を閉めた。上履きを脱いで畳に上がると、将棋盤を挟んで俺と向かい合う位置へ乱暴に胡坐を掻く。礼儀作法など知った事かと言わんばかりの豪快な態度である。ここまで突き抜ければいっそ男らしいと褒めるべきなのかもしれない。これは是非とも見習うべきだ。という事で俺は早速、パーフェクトな正座を崩した。心なしか呆れ顔の忠勝はこの際スルーである。

「しかし、良く俺の居場所が分かったな。ここを利用するのは今回が初めての筈なんだが。ふむ、これはやはり離れていても二人を結ぶ友情パゥワーのお陰に違いない」

「んな訳あるかボケ!鳥肌が立つぜ気色悪い。てめぇは目立つんだよ。これだけ気配が濃けりゃ誰でも探せるだろ」

 まあ特に意識して気配を絶っていた訳でもなし、慣れていれば判別は容易か。納得して頷いていると、視線を感じた。忠勝は気難しげな顔で、探るように俺を窺いながら口を開く。

「……今日は、例の面倒な喋り方はしねぇんだな」

「あー、気分じゃない。なんて理由で済ましていい問題でもないのは誰よりも俺が承知してるが、やはり気分じゃないんだ。この状況でお前に対してまで仮面を被らなきゃならないなんざ、気が滅入って仕方がない」

 例え周囲一帯に人の気配が無かったとしても、絶対の安全が保証されている訳ではない。壁に耳あり障子に目あり――危険を完全に排除したければ、常に演技を続けるべきである事は分かっている。だが、今は。今だけは、完璧を追及する効率主義とは無縁で在りたかった。無言の内に俺の心境を汲み取ってくれたのだろう、忠勝はそれ以上何も言わなかった。

「……で、だ。この茶道室が精神と時の部屋っぽい何かじゃない限り、今はまだ授業時間中の筈なんだがな。ここは清く正しい学生が訪れるべき場所ではないぞ、タツよ」

「そりゃ嫌味のつもりかよ。はっ、どうせ俺は不良扱いされてんだ、今更授業サボったくらいで評判落ちたりはしねぇ。というか2-Fの連中にしてみりゃ、サボりなんざいちいち騒ぐほどのモンじゃねぇよ。これで担任が梅センセーじゃなけりゃ、あいつら好き放題やってそうだ」

「ふむ?そうなのか。それは大いなるカルチャーギャップだな。くく、そんな調子じゃ2-Sの連中と馬が合わないのも当然か。何せあいつら、遅刻者が授業中に教室の扉を開けようものなら一斉に白い目を向けやがるからな……。繊細な俺は恐ろしくて無断欠席なんかとてもとても」

「現在進行形でサボってやがる野郎がよく言えたもんだぜ。分かり切ってた事だが、やっぱてめぇの性格は到底、エリートとは程遠いな」

「おやおや、酷いなタツ。それは言い掛かりと云うものだ。俺は学長の呼び出しに応じて泣く泣く授業を抜け出した訳で、別に無断でサボってる訳じゃあない。俺としてもこの状況は不本意でならないのだよ。ああそうとも、綾野小路先生の素晴らしき日本史の授業を受けられないのは実に残念でならないね」

「ああ、Sはマロの授業か。なら仕方ねぇな、ありゃ時間をドブに捨ててるようなモンだ。教室に戻りたくない気分が良く分かるぜ」

「だろ?」

 ……。

 何とも、他愛もない会話だ。

 それは何の変哲もない、少し不真面目な学生同士が交わす有り触れた会話だった。学校という場にて交わされる事に何の違和感もない、中身の欠けた軽い言葉の応酬。無価値で下らないが故に掛け替えのない、日常の象徴。

 だと云うのに――

 それが酷く、気持ち悪い。

 あらゆる言の葉は不気味な程に浮き上がり、看過し得ない強烈な違和感を心に植え付けてくる。

 やはり、世界は変わったのだ。既に日常は非日常へと切り替わった。だからこそ俺達は、こんなにも。

「なぁ、タツ。奇妙なものだと思わないか?」

「……」

「あれから、三十分。たったの三十分だ。蘭の奴が“ああ”なってから、まだそれだけの時間しか経ってない。だってのに――川神学園は平穏そのものだ。何事も無かったかのように授業が再開されて、誰も彼もが平然と机に向かっている。退屈な授業が早く終わればいいと思いながら、ぼんやりと何も考えずにノートを取っている。そういう奴らが大半なんだ。これは中々、笑える話じゃないか」

 確かに、実質的な被害は出なかった。マルギッテ・エーベルバッハの奮闘と川神鉄心の介入によって、結果的に誰かが怪我を負う事すらなく、至って平穏の内に事態は収束した。少なくとも学園の大部分の人間は、“収束した”と、そのように解釈し認識しているのだろう。校舎内にて常と変わらず繰り広げられる日常風景こそが、それを事実として証明している。

 他人事なのだ。森谷蘭の尋常ならざる変貌にしても、“織田信長”の撒き散らす殺意にしても――具体的な形で害が伴わない限り、生徒達は真の意味での恐怖を覚えない。あらゆる災厄は己の身にだけは絶対に降り掛からないと、そんな根拠のない錯覚を抱いて日々を過ごすのが、所謂“普通の”日本人の常なのだから。

 彼らの胸には危機感など欠片もない。嵐の如き感情の渦が今まさに俺の心中を掻き乱している事など、想像すらしていない。授業が終わったら友人との話の種にして盛り上がってやろう――今回の事変に対するギャラリーの反応は、まあその程度のものだろう。まるで、噛み合わない。ちぐはぐだ。間に横たわる温度差が酷過ぎて、あたかも傍に居ながらにして地球の反対側に居るかのような気分だった。そんな拭い難い違和感と居心地の悪さの両者から逃れたかったと云うのも、俺がこうして人の寄り付かない第二茶道室に留まっている理由の一つだった。

「……確かに、言いたい事は分かる。俺も、似たような事を思ったからな。あのまま普段通りに呑気な面で授業に顔出すくらいなら、ここでてめぇの下らねぇボケでも聞かされてる方がまだマシだ」

 顔を顰めながら吐き捨てるように言って、だけどな、と忠勝は言葉を続けた。

「それは仕方ねぇ事だろうが。現状、事情を知ってるのは俺とお前だけだからな。他の奴らにしてみれば、蘭の奴の行動の意味なんざ理解できる筈もねぇ。どうも“一部の連中”は気配だけでコトのヤバさを嗅ぎ取ってる様だが……そいつらはまあ例外だろ。少なくとも普通の奴らにとっては、蘭のアレは自分の日常を崩すほどの大それたイベントじゃなかった。ただ単に、それだけの話だ」

「……だな」

 そう、それだけ。全く以って何から何まで忠勝の言う通り、それだけの話に過ぎない。

 織田信長と森谷蘭の因縁を知る人間は、あまりにも数少ない。現場に居合わせた当事者となれば尚更だ。俺と忠勝と、そして居なくなった筈の“蘭”だけが、それを記憶している人間だった。他には――あの宇佐美巨人も多少は関わってこそいるが、事の核心にまで踏み込んではいない。だからこそ、俺達以外の誰にも理解出来ないのだ。俺が些細な思考すらも侭ならない程に心を揺さぶられている、その理由を。

『シン、ちゃん?』

 あいつが。蘭が、俺を。織田信長を、あの渾名で呼ぶ事が、何を意味しているのか。それすらも、皆は把握していないのだ。である以上、俺と彼らの認識に少なからぬ齟齬が生じるのは当然。噛み合わない食い違いは在るべき必然でしかない。俺は軽く首を振って、脳髄に纏わりつく不快感を払った。

「いついかなる場合であれ、人の目に映る世界ってのは個々の主観に左右される。そんな事は百も承知だが、こうも露骨に見せ付けられると流石に嫌になるって話だ。……ま、ただの愚痴だな。これも含めて、例の無駄口の一環だよ。付き合わせて悪いとは思うが、生憎とこのクソッタレな気分を共有できる相手がお前しかいないんだ。そこはほら、タツ持ち前のオカン級の寛大さで勘弁してくれると助かる」

「誰がオカンだボケ。ったく、てめぇといい直江といい、俺を何だと思ってやがるんだか」

 憮然とした表情で毒づいてみせる忠勝だが、俺の詰まらない愚痴に対しては文句を口にする事はなかった。やはり、川神学園の誰よりも付き合いの長い忠勝には分かっているのだろう。現在の俺が、いかに追い詰められているのか。どれほどの葛藤と懊悩が思考を圧迫しているのか、察している筈だ。

 何せ、幼馴染なのだから。あいつとの記憶を共有する、たった一人の幼馴染。

「――いや。今では、二人・・、だったか」

「……」

「なあタツ。例えば、お前があいつの立場だったとして。お前は、この状況で何を思う?」

「……さあな。到底、俺には想像出来ねぇ。正直に言えば、想像したくもねぇな。ただ、あいつの顔を見れば――大体の所は分かる。嫌でも分かっちまう」

 遣る瀬無さに顔を歪めながら、忠勝は苦々しげに吐き捨てた。その脳裏には恐らく、俺と同じ映像が浮かんでいるのだろう。

 グラウンドにて俺の呼び掛けに応えた蘭が、直後に見せた表情。

 それは――“絶望”、だった。

 狂気から醒め、同時に長年の眠りから目覚めた蘭は、果たして何を想ったのだろうか。十年と云う途方もない歳月と、眼前に横たわる現実と。双方の重みを同時に背負える程、蘭は強い人間ではない。あいつにそんな強さが在ったなら、そもそもにして俺達の歪んだ主従関係は生じ得なかった。その弱さが故に、俺はあのように異常な形でしか蘭を繋ぎ止められなかったのだ。

 楔から解き放たれた蘭は、何を想い何を望むのだろう。己の信じていた世界が虚構に満ちている事を悟ってしまった時、あいつは何を願うのか。それはもはや、余人の推測の及ぶ所ではない。そして本人に直接問い掛ける機会すら、俺には与えられなかった。只の一言を投げ掛ける暇すら与えず――あいつは。

 ……。

 森谷蘭の姿は、既に学園の何処にもない。マルギッテ・エーベルバッハ及びクリスティアーネ・フリードリヒのコンビを相手に繰り広げた熾烈な決闘の果てに、蘭は姿を消した。数百に及ぶ観衆の目に囲まれた中、忽然と。前触れもなく巻き起こった砂嵐に視界を遮られている内に、何処かへと消え失せていた。具体的な手段は判らない。幾ら意表を衝いたとしても、あの場に居合わせていた川神院の怪物達の眼からかくも容易く逃れ得る方法など、所詮は並以下の武人に過ぎない俺の推察の及ぶ域ではなかった。マルギッテという世界有数のパワーファイターを力尽くでぶっ飛ばした・・・・・・剣撃といい、どう考えてもあの時の蘭の立ち回りは、これまでの闘いの中で発揮してきたスペックを超越している。

 俺の知らない、森谷蘭。“未知”は――いつだって、最大の恐怖だ。

「ああ畜生、何とも情けない話だな。指を差して存分に笑ってくれていい。俺はな、タツ。俺は、今のあいつと向き合うのが、怖いのさ」

「お前……」

「理屈じゃあない。頭の中じゃ、ご立派な正解はもうとっくの昔に導き出されてるんだ。それこそこの命題に関しては、ガキの頃から何百回も何千回も何万回も、延々とシミュレーションを繰り返してきたんだからな。だが、それでも……俺はあいつに、どの面下げて合えば良いのか。どんな言葉を選んで語るべきなのか。いざこうなってみると、何が正解なのかなんてちっとも判りはしない。お笑いだよ。俺の覚悟なんざ、所詮は机上の空論に過ぎなかったってワケだ」

『人を救うのも世界を救うのも、“計算”なんて詰まらないモノではないのだよ、殿』

 かつての従者の口からいつかどこかで語られた言葉が、不意に脳裏を過ぎった。ああ、奴は馬鹿だ。擁護のしようもなく、頭蓋の中身はお花畑の苗床だ。腐った脳味噌はさぞかし良い養分になっている事だろう。しかし――余計なモノを取り払った純粋極まりない馬鹿だからこそ、その主観が捉える世界は真理に近いのかもしれない。

 望みのままに、か。本当に、お前のように生きるにはどうすればいいんだろうな、サギ。

「……成程な。だからてめぇはここにいるってワケだ」

 俺の吐露に何を思ったのか、平坦な口調からは窺い知れない。激昂や非難の色を見せない静かな眼差しで、忠勝はこちらを見詰めていた。

「くく、お察しの通り。今の俺は、引き篭もって震えてるだけの救い難い臆病者だ。今すぐにでも学園を飛び出して蘭を追うべき場面だと云うのに、足が動かない。叶うならばこのまま動かずにいたいとすら願っているのさ。それが暴君・織田信長の驚くべき実態だ。どうだ、軽蔑しただろう?」

「……てめぇは、」

 一瞬、言葉に詰まったように声が途切れる。

 忠勝の表情が示している感情は、怒りと侮蔑――ではなく、純粋な呆れだった。「ったく」という溜息混じりの嘆声と共に、不機嫌なジト目がこちらを向いた。

「どれだけ無駄口が好きなんだ、てめぇは。それとも何だ、口車で俺を怒らせてぇのか?だとしたら残念だったな。生憎と、俺はそこまで馬鹿じゃねぇ」

「……」

「お前が悲劇のヒーロー気取ってウダウダ落ち込むほど殊勝な奴だったら、俺は最初から苦労してねぇんだよボケ。俺の知ってる信長って野郎は、サメみてぇな男だ。いつでも前に進み続けて、貪欲に餌を喰らい続けずにはいられねぇ。この状況でてめぇが“何もしない”なんて事は、どう考えても有り得ねぇだろうが」

 揺るがない確信の込められた言葉だった。信頼、とはまた違う。源忠勝は只単純に、織田信長という人間を知っているだけだ。長年の付き合いの友に対して戦闘能力は誤魔化せても、精神の在り方までは誤魔化す事は出来ない。仮に真実とは異なっていたとしても――他ならぬ忠勝の主観が俺の事をそのような形で認識しているならば、俺は自身の意地と誇りに懸けて、それを裏切る訳にはいかないのだ。だから俺は、“その言葉”こそを聞きたかった。

「くくっ」

 真っ直ぐにこちらを見据える眼差しに、俺は口元を吊り上げて応える。

「流石に俺の事を良く分かってるじゃないか、マイディアフレンド。二人の友情に乾杯だな」

「勘違いしてんじゃねぇ。こっちはてめぇの無茶ばかりやらかす厄介な性格には散々振り回されてんだよ。嫌ってほど思い知らされた、そんだけだ。――で、無駄口はそろそろ十分か?」

「ああ、お陰で良い気晴らしになった。最後までお付き合い頂き感謝の極みだ。……さて、ここからは建設的な話をしようか」

 居住まいを正し、口調を改めながら、俺は忠勝に向き直った。この一件に動揺しているのは何も俺だけではない。忠勝も同様に、湧き上がる焦燥感に精神を削っている最中の筈だ。全身に湛える雰囲気からも、一秒でも早く蘭の捜索に飛び出したいと思っているのが分かる。それでも忠勝は逸る心を抑えて、俺の意見を求めるべく足を止めてくれた。惜しい筈の時間を俺の戯言の相手として費やしてくれた。ならば――その信頼を無駄にする事は出来ない。

「単刀直入に言おう。もう少し待ってくれ、タツ。蘭の所へ向かう前に、確認すべき事項がある」

「……その口振りだと、蘭の行き先にも心当たりがありそうだな。それだけじゃなさそうだが」

「ああ、それだけじゃない。どころか、見渡す限り問題だらけだ。真剣で頭が痛くなる。こんな状況じゃ、俺でなくとも現実逃避したくなるってもんだ」

 仮に俺の懸念が全て正しいとすれば、現状は“厄介”どころの話ではない。危険と危険が手と手を繋いでラインダンスを踊っているような状態だ。無思慮に動けば取り返しの付かない事態を招きかねなかった。一刻を争うかもしれない状況であるからこそ、焦りは禁物。思考と感情を切り離し、あくまでも冷徹に最善手を模索せねばならない。

「今こうしている間にも、事態を正確に把握する為に配下を動かしている。少なくとも連中からの報告が入るまでは、俺もお前も迂闊に動くべきじゃあない。何せ、場合によっては――堀之外が戦場と化す程度に素敵な未来も想定しなきゃならないからな。慎重に行動するに越した事はないだろう」

「戦場、か。二年前を思い出すぜ。ぞっとしねぇ話だ」

「ああ、全く以って碌でもない話だよ。まぁ、それを俺が言うのもアレだがな。くくっ」

「……とにかく、事情は判った。お前が未だに動かねぇ理由も、な」

 瞼を閉し、眉間に皺を寄せて思案に沈むこと数秒。忠勝は静かに目を開くと、おもむろに立ち上がった。

「だったら、ただ座って待つ必要はねぇな。俺は俺で今の内に準備を済ませる。お前の方で状況が判り次第、こっちに連絡を入れてくれりゃいい」

「くく、授業に戻るという選択肢はないのか?流石は学年一の不良生徒、悪の華だな」

「うるせぇぞボケ。ま、どうせ五限は例の“人間学”だ。オヤジの人生講座なんざ、いつでも聴けるんだよ」

 ぶっきらぼうに言うと、そのまま戸口へと向かう。外界との境目たる障子戸に手を掛けた時、不意に忠勝は肩越しに振り返った。研ぎ澄まされた真剣にも似た双眸を以って俺を射抜きながら、強固な意志を滲ませた声音で言葉を紡ぐ。

「信長。俺には、お前のような“力”はねぇ。鶴の一声で動く配下もいなけりゃ、人間辞めた連中に対抗できる武力も持ち合わせてねぇ。正直、助っ人にしても力不足だろうよ。そいつは自覚してる」

「……」

「だがな――それでも。無力だろうが何だろうが、蚊帳の内側で足掻ける分、あの時と較べりゃ上等だ。……俺に出来る事があるなら、遠慮せずに押し付けろ。俺の負担なんざ気にする必要はねぇ。言いたい事は、それだけだ」

「……」

 忠勝の真摯な言葉に込められた、計り知れない想念を噛み締めている間に、茶道室の戸は外側から閉されていた。忠勝の影が一瞬だけ障子に映り、そして消える。足音と気配が遠ざかり、やがて静寂が戻った。

 誰も居ない部屋に独り佇み、小さく吐息を漏らす。

「追求はなし、か。優しいねぇ、タツは。女だったらまず間違いなく惚れてるところだ」

 俺の気持ちを過不足なく汲み取ってくれるという意味では、忠勝は織田信長にとって最大の理解者と言えるのかもしれない。そう――俺は未だに迷っている。辿るべき道筋を見出せずにいる。それが判っているからこそ、忠勝は俺を気遣ったのだろう。

 幸いにして、暫しの猶予は残されている。迷い悩み逡巡する時間は、まだ。

 ならば、考えろ。考えろ考えろ。己の意志すら見定められない人間が、前へ進める筈も無いのだから。



「――ん?」

 不意に周囲を覆う静寂が掻き乱されたのを感じ、俺は目を開いた。

 忠勝が去ってから、どの程度の時間が経ったのか。己の内に篭って際限のない問答に没頭していると、時間の感覚がまるで掴めなくなる。思考中にチャイムが鳴った様な気もするが、いまいち記憶が定かではない。連絡が入る予定の携帯も今は沈黙を保ったままだ。故に、深く沈んでいた俺の意識を現実に引き戻したのは、廊下から響く何者かの足音だった。

「……誰だ?」

 忠勝が戻ってきたのかとも思ったが、それにしては何処となく気配が妙だ。足取りに自信がないと言うか、踏み出す一歩一歩に迷いを感じさせる。そんな緩慢な歩みは案の定、戸口の外側で止まった。障子越しに映るシルエットを見れば、その正体は火を見るよりも明らかだ。

 学園内で着物を着用しているトチ狂った女子生徒など、俺の知る限り一人しかいない。むしろそれ以上は要らない。

 一向に開く気配のない障子戸を見遣って小さく溜息を落とすと、俺は威厳を込めて声を上げた。

「――入るならば疾く入れ。所用が無ければ早々に去るがいい。其処に居られると、目障りだ」

「め、目障りとはなんじゃ!高貴なる此方に向かってなんと無礼千万な……ええい、入れば良いのであろう、入れば!」

 何故かぷんすかぷんと立腹しながら、足取りも荒く室内に侵入してきたのは、見慣れた顔のクラスメート。

 日本三大名家の高貴なる息女にして川神学園随一の嫌われ者、不死川心であった。














 2-Sとは即ち、選ばれた人間のみが籍を置く事を許されるエリートクラスだ。ただ単純な学力に留まらず、多種多様な分野において優秀さを認められた人間でなければ、S組の一員たる資格はない――それが2-Sに属する生徒達の共通認識であり、故に誰もが自身を磨く事を怠らない。いかに普段はふざけているように見える人間でも、スイッチの切り替え方は常識として例外なく心得ている。故にS組においては、授業中は絶えず張り詰めた雰囲気が教室を充たし、競争意識の生み出す厳粛な空気の中で皆が真剣に勉学に取り組む。ましてや、かの悪名高い隣人たる2-Fの如く、授業中に私語が飛び交う事など絶対に有り得ない。そうした緊張感こそが己の練度を保つ為に必要なものだと2-Sの生徒は認識している。故に彼らにとって“授業に身が入らない”などという状況は論外であり、唾棄すべきものなのだ。

 しかし――

「これらが俗に三大歌集と呼ばれるものでおじゃる。常識ゆえ改めて触れるまでもないが、の。その典雅な成り立ちは――」

 2-Sクラス出席番号26番、不死川心は今現在、授業内容に対して全く集中できていなかった。歴史教師の独特過ぎる声音は右から左に素通りし、気付けば頭の中には何一つとして情報が残っていない。結果、心に出来るのは、黒板に板書された文面を漫然とノートに書き写す事だけだった。これでは日頃から見下している他クラスの連中と何も変わらない、と情けない気分で教室を見渡せば、大体の面々が、多かれ少なかれ心と似たような状態である。元々、綾野小路麻呂の担当する歴史の授業自体が退屈極まりないものとして生徒達に認識されている事実も関係しているが、しかし現在に限って言えば、彼らの集中力を奪っている主な原因は別の所にあった。

 心はシャーペンを机に置いて、斜め前の空席へと視線を向ける。本来ならばそこにあるべき絶大な存在感は、今は不在だ。クラスの誰よりも強烈に教室の空気を締め付けていた男が、居ない。日頃から彼を苦手としていた歴史教師はむしろ嬉しそうな様子で、水を得た魚の如く意気揚々と教鞭を振るっているが、残念ながらそのテンションは生徒達のそれと反比例している。

 そして、教室に生じている空席は一つではない。今の2-Sには、実に三名ものクラスメートが欠けている。

 一人は、森谷蘭。彼女は決闘の最中に凄絶な狂気と殺意を撒き散らし、そのまま学園から姿を消した。砕け散った模造刀だけを残し、忽然と。以後、行方は杳として知れない。恐らく今頃は学園側が対処に動いているのだろうが、その辺りの事情は生徒達には知らされていなかった。

 二人目は、織田信長。第一の従者が出奔した後、彼は他の生徒とは異なり、そのまま午後の授業に出席する事はなかった。深刻な表情の川神鉄心と共に校舎へと向かっていた事から考えると、学長室で何かしらの話し合いに臨む事になったのだろう。それから未だ、教室には戻ってきていない。

 そして最後の一人は、マルギッテ・エーベルバッハだ。今朝から転入生として2-Sに所属する事になった異色の新入り。彼女もまた、件の決闘の後から教室に姿を見せていない。が、特に彼女との関わりがない心にとっては、さほど気に掛けるべき事ではなかった。

 やはり問題は、信長と蘭の主従。
 
 否、更に突き詰めて言えば、心が真に気にしているのは只一人。すなわち、織田信長の事だけである。

 先程から幾度となく心の脳裏に蘇るのは、彼がグラウンドにて見せた様子だった。具体的な差異を述べる事は難しいが――心の目には、あの時の信長は常日頃とは異なる様相を呈しているように思えた。その事がやけに引っ掛かる。何故それほどまでに引っ掛かるのか、という事自体も同時に気になって、碌に思考が働かない。結果として全くと言って良い程に勉強が捗らず、心はこの数十分ほど、落ち着かない気分で机に向き合っていた。

「――ぬ?もうこんな時間とは驚きよの。ほほ、平安の世の素晴らしさを語っておるとつい時間を忘れるでおじゃる」

 よって、スピーカーから授業時間の終了を知らせるチャイムが鳴り響いた時、心が盛大に溜息を吐き出したのも無理からぬ事である。歴史教師が満足気な表情で教室から去ると、心はすぐさま廊下へと飛び出した。

 結局、五限の内に信長が戻ってくる事はなかったが――学長室での用事が既に済んでいるのは判っている。彼の強烈な気配は、授業半ばの時点で別の場所へと移動していた。その特徴的な“氣”を辿れば、現在の居場所を掴む事は難しくない。ましてや、今の信長の気配は、普段以上の濃密さを有しているのだから。廊下の中央で立ち止まりながら数秒ほど逡巡して周囲の顰蹙を買った後、心は足早に歩を進め始めた。



「む。ここか……」

 第二茶道室、と堅苦しく墨書されたプレートを見上げて、心は不審げに眉を顰めて呟いた。色々とお察しな理由で入部こそしなかったものの、高貴なる不死川家の息女に相応しい典雅な部活動として、心は茶道部の存在に着目していた。その関係で、現在はここが空き教室と化している事も把握している。何故そんな場所に居るのか、と訝しみながら、入口の障子戸に手を伸ばし――そこで固まった。

 原因は、茶道室の内側より溢れ出る鬼気である。織田信長が其処に居る何よりの証左は、同時に万人を戦慄させる雰囲気を醸し出していた。あたかも自分がこれから地獄の蓋を開こうとしているかのような感覚に襲われ、心は思わず怯んだ。そもそも冷静に考えてみれば、信長と顔を合わせて自分がどうしたいのか、それすらも分かっていないのだ。やはりここは引き返すべきそうすべき――と心の思考が後ろ向きに全力疾走し始めた時、伏魔殿の主が発した重苦しい声音が空気を震わせた。

「――入るならば疾く入れ。所用が無ければ早々に去るがいい。其処に居られると、目障りだ」

 室内から掛けられた声はどこまでも横柄で、愛想の欠片もない。子供が聞けば一言目で泣き出しそうだ。至って普段通りの調子に、心は少しばかり安堵の念を覚え、同時にそれを遥かに上回る怒りが込み上げてくるのを感じた。人が折角気に掛けてやっていると言うのに、この傍若無人な態度は何事か。湧き起こった腹立たしさによって胸中の躊躇いが一挙に押し流され、心は勢いよく障子戸を引き開けた。

「め、目障りとはなんじゃ!高貴なる此方に向かってなんと無礼千万な……ええい、入れば良いのであろう、入れば!」

 憤然と文句を零しながら、室内へと足を踏み入れる。信長は部屋の奥にて畳に坐し、無言で心を見返していた。その姿勢は、礼儀作法に精通する心の眼から見ても非の打ち処が見当たらない程に洗練されている。室内を充たす静謐と、総身に纏う峻厳な雰囲気は禅修行を積む僧を思わせ、心は自身の精神が怒りの炎ごと萎縮していくのを自覚した。思わず戸口で足を止めた心に向けて、信長が再び口を開く。

「一人で立ち話でもするつもりか?中途半端な振舞いは不死川の家名を貶めるだけだ。近う寄れ、莫迦め」

「む、言われずともそうするのじゃ!此方に命令するでないわ!」

 いちいち心の勘に障る信長の物言いに、怒りの炎は瞬く間に再燃した。ずんずんと大股で傍まで歩み寄ると、将棋盤を挟んだ向かい側に腰を下ろす。眼前の男に対抗するように理想的な正座を整えて、心は正面から信長を睨み付けた。

「……それで。何用だ」

「ふん、それはじゃな――」

 無愛想な問い掛けに胸を張って答えんが為に口を開き、そして心は言葉に詰まった。

 何用か、と問われても、果たして何と答えるべきなのか。元より、明確な形で所用があった訳ではないのだ。かと言って、“理由はないけど顔が見たくなったので何となく”――などという甘ったるい返答が許されるような浮いた関係でもなければ、そんな恥ずかしい台詞を臆面もなく吐けるような性格でもない。

「そ、そんな事よりじゃな、明智の奴はどうしたのじゃ?姿が見当たらぬが」

「……」

 進退窮まった心が打ち出した渾身の打開策、それは話題転換。自然さは投げ捨てるものと言わんばかりの、芸術的な無理矢理さだった。

 もはや突っ込むのも面倒だと思ったのかは定かではないが、信長は数秒ほど沈黙した後、淡々と返答を口にした。

「奴は奴で動いている。坐して待つのは性に合わぬらしい」

「そ、そうか。あやつは無駄に活動的じゃからの。大体、なんなのじゃあの粗末な衣裳は。家名を蔑ろにするにも程があろう。一度、先輩として名家の心得を説いてやらねばなるまい」

「然様か。勝手にするがいい」

「う、うむ。勝手にするのじゃ。これは高貴なる血を身に宿す者の義務じゃからの」

「……」

「……」

「……それで。何用だ」

 微塵の容赦もない信長の問いに、心は今度こそ心中で頭を抱えた。人間の能力は主に才能と、積み重ねた経験によって決定される。対人能力もまた然りだ。人生の中で周囲とまともなコミュニケーションを取って来なかった弊害が、目に見えて表れていた。ダラダラと盛大に冷や汗を掻きながら言葉を探す心の姿に、流石に哀れみを覚えずにはいられなかったのか、信長は溜息混じりに口を開いた。

「心。お前に用件を伝える心算が無いならば、先ずは俺から問うべき事項が在る」

「お、おお、何でも訊くが良いぞ。此方の智謀を以って、いかな難題にでも華麗なる回答を示してくれよう!にょほほ、由緒正しき不死川の娘たるもの、智勇兼備でなくては務まらぬのじゃ」

 渡りに船とばかりの勢いで助け舟に飛び乗る心を醒めた目で見遣って、信長が淡々と言葉を続ける。

「――マルギッテ・エーベルバッハ。彼奴は未だ、教室に居るか?」

「む、あやつか?いや、決闘の後から教室には戻っておらぬぞ。まったく、初日からサボタージュとは面の皮の厚い新入りじゃ。2-Sの規律を保つ為にも、図に乗らぬ内にお前自ら締めてやった方が良いのではないか?」

「ふん、考えておこう。――然様か。成程、な」

 心の回答から何を見出したのか、信長は将棋盤に目を落とし、何事か沈思している。

 その顔に貼り付いているのは普段同様の無表情で、外面としては何処から見ても常態だ。しかし――不死川心は、其処に見逃せない違和感を覚えた。またか、と己の中に生じた違和を訝しむ。

 決闘場において森谷蘭が出奔した直後。川神鉄心と連れ立って校舎へと向かう信長の、その横顔を目にした際にも、心は今と同じ感覚に襲われたのだ。それを延々と引き摺って、結局はこうして当人の元にまで来てしまった。

 何故だろうか。信長は、変わらない。まるで普段と変わらない筈なのに、何故。


「織田。お前……、迷っておるのか・・・・・・・?」


 確信があった訳ではない。それが正解であるという根拠も、不在だ。何となく、頭の中に浮かび上がった曖昧な思い付きを、気付けば口にしていた。

 そして、半ば無意識の内に自分が口走った内容を一瞬の後に自覚して、心はぎょっと目を見開く。

「あっ、いや、我ながら馬鹿げた事を口にしたのじゃ。ん、んん、ごほん、さっきのは此方の高貴なるジョークゆえ、ゆめゆめ真面目に受け取るでないぞ」

 信長が反応を見せるよりも前に、慌てて己の言を打ち消す。織田信長という人間の矜持の高さを考えれば、侮辱された、と受け取られても何ら不思議はない内容だ。所詮は論理的根拠の存在しない適当な発言などで、無駄に不興を買うのは歓迎出来ない。

 それに実際、冷静に考えてみると、なんと荒唐無稽な推察であろうか。どう考えたとしても、この織田信長という男に“迷い”などという脆弱さが関わる余地はあるまい。いかなる時でも自己に絶対の信を置き、自身の歩む道こそが正解だと断じて憚らない。迷わず、惑わず、躊躇わず。何者に対しても傲岸不遜に己の信念を貫き通すのが、織田信長の在り方。であるならば、自身の直感が正しいと判ずる理由は無い。

「ふん。――心」

「む?」

 故に、次の瞬間。信長が口にした言葉は、何処までも心の意表を衝くものだった。

「お前の目も、存外、節穴ではないらしいな。くくっ……、図々しくも俺の友を名乗るだけの事はある」

「ん、んんん?ど、どういう事なのじゃ。此方には意味が分からんぞ」

「単純な話だ。然様――お前の言は、正しい。俺は迷っている。惑い、逡巡している。紛れもない真実よ。尤も、お前に其れが判るとは、考えていなかったがな」

 どこか愉快さを感じさせる雰囲気を湛えながら、信長は口元を歪めて見せた。一体何を考えているのか――その発言の意味も意図も、心には理解出来ない。と云うよりも、あまりの意外さに、咄嗟に思考が追いつかなかったのだ。

 あらゆる“強さ”だけを掻き集めて形作られたかのような男が、迷いという明確な“弱さ”の要素を内包している。その事実もそうだが、何より心は、信長がそうした弱さの存在を自ら認める事など絶対に有り得ないと思っていた。何せ信長という男は、いかなる形であっても他者からの侮りを決して赦さない、まさにプライドの塊と形容すべき性格の持ち主なのだから。

 しかし――目の前の現実は、心の予想と大きな食い違いを見せている。盛大な混乱に見舞われている心を静かに見遣りながら、信長は続けて口を開いた。

「如何した、何を然様に戸惑う?俺が迷い惑い躊躇い悩むは、然程に意外な事か?」

「……まあ、それは勿論、意外に決まっておるじゃろう。何というか……お前という男は、そんな“無駄”に煩わされて足を止める事はないと思っておったのじゃ。実際、お前が何かに迷っている所なぞ此方は一度とて見た事がないぞ」

 心の知り得る限り、信長は常に清々しいまでの果断即決を実践していた。人の上に立つ人間とはかくあるべきなのだろう、と心はその揺ぎ無い姿勢に対して感嘆の念すら抱いていたのだ。案外、今も虚言でからかわれている真っ最中なのではないか、と疑惑の目を向ける心に、信長は肩を竦めて見せた。

「無駄。無駄、か。ふん、成程。どうやら、俺とお前の認識には大いに相違が在るらしい。――心、お前は何かを誤解している」

「誤解?」

「然様。迷いも、惑いも。躊躇いも、悩みも。それらの概念から逃れられる人間など、此の世には存在しない。仮にそれらと無縁で居られたとしても――其れは“強さ”の証明では有り得ない。無思慮と果断は、無謀と即決は、断じて同義に非ず。真の“強さ”とは常に、“弱さ”を克服した先に在るものだ。故に、俺は何時でも迷っている。絶えず惑いの内に身を置き、己を取り巻く万事に悩んでいる」

 いつになく饒舌に語りながら、信長は己の拳を膝から浮かせ、顔の前で握り締めた。

「迷いの末に導き出した道なればこそ、俺の歩みに迷いは介在し得ない。未来に惑わぬ為に、現在を惑う。其れこそが、万人を従える王者の在るべき姿よ。迷いと惑いを置き去りに未来を語るなど、逃避と何も変わらぬ。其れは、惨めな敗者の在り方だ。――俺は逃げる気は無い。何が在ろうと、逃げ出しはしない」
 
 熱に浮かされたような声音は、自身に言い聞かせるが如き響きを帯びていた。何処かを見据える双眸は爛々と輝き、度を越えて強烈に握り締めた拳の中では、食い込んだ爪が肉を破っている。ぽたりぽたりと音を立てて、紅い血が草色の畳へと滴っていた。

 怖気の走るような鬼気に満ちた、あたかも悪鬼羅刹の如き壮絶な気迫を前にして、心は背筋を震わせる。ひっ、と、意図せずして小さな悲鳴が喉から漏れた。

「っ!」

 心の表情に走る怯えに気付いたのか、信長は僅かに目を見開いた。拳を膝へと下ろし、昂ぶった精神を鎮めるかのように瞼を閉ざす。数秒を経てその目が再び開かれた時、身に纏う鬼気は既に霧散していた。凶悪な気配から解放され、ほっと安堵の吐息をついている心を見詰めながら、信長は静かな口調で仕切り直す。

「……とは云え、だ。何時までも霧中を彷徨い、一向に答を見出せぬならば、迷いとは即ち弱さと同義であろう。故に、お前の認識も一概に只の誤解と言い切れる訳ではない。なればこそ、俺は自身の迷いを面に出さぬ。無闇に“弱み”を晒せば、仮に其れが誤解であろうと、無用な侮りを招く切っ掛けとなる」

「うむ?じゃが、その割にはお前、此方にあっさりと“迷い”を打ち明けたのう」

 しかも心が否定しようとしたタイミングに、わざわざ自分から切り出す形で。周囲に弱みを見せるべきではないと考えているのならば、信長の行動は言動に対し明確な矛盾を抱えている。一体どういう事なのか、と頭を悩ませる心だったが――天啓の如く閃いた答えに、パァッと表情を輝かせた。

「うむうむ、何も言わずともよいぞ。何といっても此方はお前の友じゃからな、胸の内を晒す事に障りを感じぬは当然よ。にょほほ、苦しゅうないのじゃ。もっと此方に思いの丈を曝け出すがよい」

「ふん。勘違いするな阿呆め。お前如きを“敵”として捉え警戒の対象と見做す程、俺は酔狂ではない。取るに足らぬと断じた。只それだけの話だ」

「な、なんじゃと~!?うぬぬ、高貴なる此方と金蘭の契りを結ぶ栄誉を与えようと言うに、お前という男は……!」

「不要だ。金を積まれても拒否する」

「フン、然様に曲がった性根ゆえ、どうせ此方の他には友人などおらんのじゃろう?ホホ、唯一の友誼を失って孤独に苦しむ無様な姿が目に浮かぶようなのじゃ。ほれ、そのような未来を想像するだけで、此方と仲良くしたいと素直に言ってみたくなるであろう」

「お前は未来に孤独死するよりも、此処で俺に殺されておいた方が良いかもしれぬな……」

「ナチュラルに怖い事言うのはやめるのじゃ!というか高貴な此方は孤独死などせぬわ!」

 ウサギは寂しさで死ぬと話に聞くが、人間は衣食住が事足りていれば死ぬ事はない。不死川家の財力が背景に在る限り、基本的に心の生命は安泰である。勿論、心にとっては何の慰めにもならない事実だが。

「ん、ゴホン。それはともかくとして、じゃ。――お前の“迷い”とはやはり、あの従者の事か?」

「……」

 心の問いに対し、信長は無言で応えた。その沈黙は恐らく、肯定を示しているのだろう。まあそうじゃろうな――と心は複雑な気分で納得した。この状況で信長を惑わせるものがあるとすれば、それは突如として不可解な凶行に走ったかの従者の存在に他ならないだろう。

 織田信長の懐刀、森谷蘭。実のところ心は、彼女について多くを知らない。心自身が彼女の事を“信長の付属品”程度にしか認識していなかった上、蘭の方もどこか周囲とは一線を引いている節があった為、結果としてこれまで交流らしい交流がなかったのだ。

 だが、こうしてその存在が表に出てくると、今まで特に気にも留めなかった部分が疑問点として引っ掛かってくる。かつて決闘を申し込むよりも以前に、弱味を握るべく素性を調査した結果として判明した事だが、信長はほぼ間違いなく庶民の出だ。つまり、不死川や九鬼の如く、従者を抱える事が自然であるというような出自ではない。にも関わらず――森谷蘭は織田信長を唯一無二の主君と定め、忠節を尽くしている。彼女がいかに主を慕い、敬愛しているか。例え交流が無くとも、同じ2-Sに属している限り、その忠誠心の厚さを窺い知る機会には事欠かない。

 何故、そこまで。いかなる由縁を以って、彼女の常軌を逸した献身は成り立ったのか。思えば、心は何も知らない。森谷蘭の事だけではなく――信長の事も、殆ど何も知らないままだ。巌の如く畳に坐し、感情を窺わせない眼差しを盤上に注いでいる男を、心は改めて眺めた。

 不死川心は、織田信長を、友人だと思っている。不死川の名が有する力に臆する事も無く、さりとて媚び諂う事も無く。ただ不死川心という個人を認め、正当に評価してくれた、掛け替えのない唯一の友だと。何事に於いても“家柄”というフィルターを通して物事を判断せずにはいられない心が、何の拘りもなくありのままに接する事が出来る相手。そういう意味では間違いなく、他の人間とは一線を画す特別な存在だと言えるだろう。

 だからこそ心は、知りたいと思った。より深く、より広く――至極稀にしか表に出ない信長の内面に、この手で触れてみたい、と。

「……織田。お前が何事かに悩んでおるなら、此方は友として力を貸そう。お前は矜持が高いゆえ、他者に頼る事を良しとせぬのは知っておるが、話を聞く程度であれば問題はなかろう?」

 友誼とは、友情とは、ただ傍に居るだけで深まっていくほど容易なものではない。ましてや信長の如く他人を寄せ付けない男に対しては、自分から積極的に踏み込んでいかなければ距離を縮める事は出来ないだろう。人生で初めての友人の存在を通じて、心は人間関係の築き方に関するノウハウを学習し始めていた。かくして一歩を踏み込んだ心に対し、しかし信長は、嘲るかの如く口元を歪めた。

「――言うに事欠いて、俺の相談相手になろう、とは。随分と大きく出た物だな、心。この俺をして悩ませる程の難題を、お前に解決出来るとでも云う心算か?」

「フン、そんな事は誰も言っておらぬわ。此方は名家に相応しく聡明じゃが、全能の賢者ではない。容易く道を示せるなどと思い上がってはおらんのじゃ。しかし、少なくとも、お前の事情を知らねば此方には何も出来ぬであろうが。助言はおろか、友に対し相応しき激励を飛ばす事も適わぬ。それは、何とも言えず歯痒い」

「……」

「それにアレじゃ、悩みというものは一人で抱え込んでおっても碌な事にはなるまい。高貴なる此方が寛大な心で受け止めてやるゆえ、ここはひとつ存分に吐き出すとよいぞ。にょほほ、此方を友に得た事はまこと幸運であったの、織田よ」

 上から目線で得意気に言うと、心は薄い胸を張って呑気に笑う。

 信長は数秒ほど黙したまま、じっと心の顔を見詰め――そして、ふっ、と口元を緩めた。彼を見慣れている人間でなければ決して気付かない程に微かな変化ではあるが、それは間違いなく、穏やかな微笑であった。残念な事に、悦に浸ってホホホと笑う作業に忙しかった心は見事に見逃していたのだが。

「くく、成程。お前はどうやら――俺が考えていたよりも、面白い人間だった様だな。心」

「な、なんじゃその反応は!また此方を馬鹿にしておるじゃろお前!」

「ふん。さてな」

「うぬぬ……」

 あからさまに小馬鹿にしたような信長の態度に、心は身体をわなわなと震わせて唸り声を上げる。

 何ともまあ、この性格の悪さは如何ともしがたい。信長が外面ほど無感情な男ではないという事については薄々悟ってきていたが、しかし“コレ”よりは醒めた無感情の方が幾らかマシかもしれなかった。少なくとも感情が無ければ、虐めと紙一重の弄りを愉しんだりはするまい。人権を無視するレベルで容赦なく弄りに掛かってくるような有難くない輩は榊原小雪だけで十分だ。やはり友人の選択を誤ったか――と思わずにはいられない心である。そんな憤懣やるかたない内心を汲み取る気は特に無いらしく、信長は至ってマイペースに言葉を続けた。

「さて。お前が何を期待しているのかは俺の知る所ではないが。少なくとも俺は、此処でお前に事情を語る気はない」

「む、何故じゃ。よもや此方を信じられぬとでも言うのか?」

「然様。と、言いたい所ではあるが、然にあらず、だ。そもそもにして、この一件は――他者に語るべきものではない。万が一にも有り得ぬが、仮に俺とお前が管鮑の交わりを結んだ友であったとしても、其れは変わらぬ。是は我が家中の問題だ。易々と事情を語るにはあまりにも障りが多い。解るか、心」

「……つまり結局は、此方には何も教えぬという事ではないか。フン、折角の此方の申し出を無碍にするとは贅沢な男よ」

 もうお前など知らん、と心はそっぽを向いて唇を尖らせる。どのような形であれ、心はこの誇り高い友人に頼って欲しかったのだ。そんな失望感と、高貴な自分がわざわざ歩み寄ってやっているのに、という意識の根幹に根ざしたプライドとが絡まり合って、心の胸中に屈折した感情を生じさせる。

 つまるところ、心は拗ねていた。

 つーん、と明後日の方向に視線を向ける心に何処か生暖かい目線を向けながら、信長は鼻を鳴らす。

「ふん、相変わらず勘違いの甚だしい奴だ。大方、お前は己が俺に助力出来ていないとでも思っているのであろろうが、其れは的外れというものよ。覚えておけ、心。お前が傍に居るだけで、俺は助けられているのだとな」

「――んなっ!?」

 あまりにも唐突に飛び出した衝撃発言に、心は一瞬で怒りを忘れて信長へと視線を戻した。途端、真剣な眼差しに正面から射竦められる。かつてない程に真摯な色を湛えた双眸を目の前にして、心は見る間に顔面へと血液が集まっていくのを自覚した。俄かに心臓の動悸が跳ね上がり、眩暈に襲われる中、心は大慌てで現状を把握しようと努める。二人きりの密室にて紡がれた真情。このシチュエーションはまるで少女漫画とやらで見た――

『あ~、男女間の友情とか信じちゃうタイプね。ま、そんくらいの年にはありがちな勘違いってヤツだな』

「~~っ」

 不意に脳裏に蘇ったのは、2-S担任を務める不良中年の台詞である。

 つい最近まで友達居ない暦イコール年齢を地で行っていた不死川心、当然ながら恋愛経験など皆無だ。そもそもの前提としていかなる感情を恋と呼ぶのか、その辺りの基本的な概念すらも理解していない。好きな相手と一緒に居ると胸がドキドキする、と伝え聞いた時――そういえば信長の傍で過ごしているとそんな感じになったような、成程これが恋というものか、と感慨深さと共に納得していたりもした。尤もその件に関しては、単に信長の発する威圧感を受けて緊張していただけという落ちが付いたのだが。日常的に吊り橋効果を発動させるとは恐ろしい奴よ、と心は戦慄したものだ。

 閑話休題。

 問題は、目の前の現状である。信長の事は、まあ嫌いではない。意地の悪さを除けば、それなりに憎からず思っているのも事実だ。いやいやしかしあまりにも展開が急過ぎる、そういうのはもっと段階を踏んでじゃな、と脳内で暴走する思考に目を回している心へと向けて、信長の真剣な声音が放たれた。

「――然様。頭を悩ませると云う行為には、少なからず疲労を伴う。思考の渦に沈めば、精神の消耗は避けられぬ。故に、お前の存在は実に都合が良い。全く、何とも折り良く訪れてくれたものだ」

「……んん?」

 どうにも怪しくなってきた雲行きに、心は眉を顰めて信長を見遣った。

 そして、遂に気付く。その表情が、サディスティックな悦びで歪んでいる事に。

「くく、くくくっ、お前という人間を虐げるのは、実に愉しい。鬱屈した気分を晴らすには最適の娯楽よ。心配せずともお前は充分に役立っている――流石に俺の友を自称するだけの事はあるな。いや、心の底から感嘆に値するぞ」

「~っ!お、お、お前という奴はぁ~!此方は玩具かっ!というか自称とはなんじゃ自称とはっ!?」

 大真面目な調子で吐き出された色々と最悪な台詞に、心が怒りの咆哮を上げたのは当然の成り行きである。猛然と食って掛かる不死川家令嬢を悠々とあしらう信長の顔はいたく楽しげだったが、怒りと屈辱で目の前を真っ赤に染めている心は気付かない。或いはもう少し心が対人関係の経験を積んでいれば、“照れ隠し”という一つの感情表現の可能性に思い至っていたのかもしれないが、しかしそれは言っても詮のない事であった。

 心が平静を取り戻し、同時に第二茶道室が静穏を取り戻したのは、数分後の事である。

「フン、此方をさんっざん弄んでさぞ満足したであろうな。まったく、お前の事など心配した此方が馬鹿だったのじゃ」

「然様、お前が莫迦だった。それだけの話だ。くく、漸く気付いたか」

「いちいちお前はむかつく奴じゃの!付き合っておられぬわ。此方はもう戻るぞ、そろそろ六限の授業が始まるゆえな」

「ふん、勝手にするがいい。気晴らしも済んだ故、お前なぞにもう用は――」

 畳から腰を上げた心に向けて信長が憎まれ口を叩き掛けた時、不意に異音が生じた。

 信長の懐を発生源として鳴り響いているのは、携帯のバイブレーション。

「……っ!」

 その瞬間、見逃しようもない明確さを以って、空気が変質した。

 信長の纏う雰囲気は一挙に張り詰め、呼吸を妨げる程の鋭利な緊張感が室内に充満する。心が息を呑んで見守る中、信長は氷のような無表情でゆっくりと携帯を取り出し、耳元に運んだ。

「……。……成程、やはり――動いたか」

 淡々と紡がれる言葉には、血が通っていなかった。滾る憎悪を強いて押し殺したかのような、不自然なまでの冷徹さを帯びた重苦しい声音で、信長は電話越しの相手と対話を続ける。心は立ち尽くしたまま、あたかも別世界の出来事を観るような心地でその様子を見詰めていた。

「――否、その必要は無い。但し、備えは怠るな。……然様、可能性としては起こり得る。その場合の指示は、追って下す。引き続き、監視を続けろ」

 冷酷な声で下した指示が、会話の終了を告げる合図であったらしい。

 信長は携帯を畳んで懐に戻すと、そのまま立ち上がった。

「心。教室に戻るのであれば、教師に伝えておけ。俺は所用の為に早退する、とな」

 惑わず、迷わず。心を真っ直ぐに射抜く信長の目からは、既に逡巡は跡形も残さず消え失せていた。其処に宿っているのは、苛烈な激情と強固な信念の色。弱さを乗り越え強さへと至った証が、闇色の瞳に煌いている。自身の見定めた道を誰にも憚らず突き進む、心が見慣れた男の姿がそこにあった。

「お前……」

 結局、心は彼の抱えた事情を知る事は叶わなかった。理由も、目的も何一つとして判らない。だが、彼はきっと誰にも譲れぬ何かを賭けて、己の戦場に赴くのだろう。それだけは、心にもはっきりと解った。ならば――クラスメートとして、朋友として、自身の為すべき事は只一つだ。

「フン、お前が何処で何をしようが知った事ではないが……まあ一応、由緒正しき不死川の息女たる此方が武運を祈っておいてやるのじゃ。くれぐれも、此方の友という高貴な肩書きに恥じる真似だけはしてくれるでないぞ、信長・・

「――くく、莫迦め。下らぬ気遣いは無用だ。俺を誰だと心得ている?」

 傍若無人に嘯くその姿は、まさに傲岸不遜の権化。

 川神学園に属する人間ならば例外なく思い描くであろう、暴君・織田信長の顕現だった。

「記憶しておくがいい、不死川心。俺の往く道に、挫折の二字は無い」

 不敵な返答を最後に残すと、信長はもはや心を一顧だにせず去っていった。

 踏み出した足取りに躊躇いはない。結局、何を思い悩んでいたのかも知らないが、その命題が何であれ、信長の中で答は既に出されたのだろう。

 その行程に果たして自分が貢献したのか否か、実際の所は判らないが――まあこうして友の出立を見送る事が出来たのだから、ここに来た意味は確かに在った。その事にだけは、間違いはない。

「はぁ……」

 第二茶道室に独り残された心は、暫く先程の遣り取りを反芻してから、大きな溜息を落とした。

「全く。進級以来、初めての遅刻じゃの……。織田の奴め、この貸しは高く付くぞ」

 恨めしげな呟きを聞く者はいない。

 見上げたスピーカーより無情に鳴り渡るチャイムの音が、授業開始の合図を告げていた。

















「なぁ、若。本当に、良いのか?」

「……少なくとも、“善く”はないのでしょうね。そしてそれこそが、私の為すべき事だ。そうでしょう、準?」

「正直気が進まない――って言っても、止める気はないんだろ?だったら着いてくまでさ、どこまでもな」

「僕も僕も~!地獄だって、三人で落ちれば楽しいに決まってるもんね?置いてけぼりはイヤだよ~」

「ふふ、ありがとうございます、二人とも。……さて、それでは――“悪”を為すと、しましょうか」




 













 今更ですが、主人公はツンデレです。自覚が無い辺りも含めて割と典型的なタイプで、実を言うとゲンさんをどうこう言える人種ではありません。類友です。
 今回は話の舞台がだらけ部部室という事もあってダラダラした会話に終始しましたが、次回からは話が動く予定です。それでは、次回の更新で。
 
 そういえば、遂に人気投票の結果が出ましたね。毎日欠かさず投票していた身としては結果に対して色々と感想はあったのですが、まさかの橘さんが六位のインパクトに全て持っていかれました。よもやたったあれだけの出番でメインヒロイン以上の票を集めるとは恐るべし。思っていたよりもアニメ効果は大きいのだろうか。ただ正直彼女に関してはアニメとゲームで割と別人な気も(ry   


前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.03020191192627