「殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ――」
おぞましい狂気に満ちた呪詛が、蹂躙するように頭蓋の内側を犯し尽くす。
眼前に立つ“それ”を形容するのに、いかなる言葉を選ぶべきなのか、クリスには判らない。
だが――その存在の意味は。かの化生が自身に何をもたらす存在であるのか、クリスは違う所なく理解していた。理屈でもなく、経験でもなく、遺伝子に刻み込まれた生存本能が、過去最大の音量を以って警告を発しているが故に。
不意に、譫言の如き呪詛が途切れた。それは異変の終わりではなく、真なる始まりを告げる合図。
少女の唇が、異様な程の静かさで、どこまでも無情な言葉を紡いだ。
「わたしのために、死んでください」
躊躇いなど何処にも見受けられない、あたかもそうする事こそが自然であるかのような気軽さで、闇色の太刀が振り上げられた。クリスはその現実感の伴わない光景を、茫然と見上げる。あの刃がこれより振り下ろされるであろう対象は、自分。それはつまり――何を、意味する?
死。
答はあまりにも単純明快。そう、疑い様もなく、誤魔化し様もない。死だ。
学生同士の決闘である以上、当然ながら用いられる得物は殺傷性を排したレプリカではあるが――そんな事実は何の慰めにもならない。禍々しい黒の“氣”で余すところなくコーティングを施された刃の切れ味は、まず間違いなく生半可な真剣の其れよりも遥かに鋭利で、無慈悲だった。一度振るわれれば、いとも容易く肉を切り裂き、骨を断ち切り、命を斬り捨てるだろう。そして、その告死の刃を受け止める為の剣は、既にクリスの手元にはない。
「ぁ――」
掠れた声が漏れ出る。身体は動かない。未だに現実感も恐怖心も湧き起こっては来ないが――眼前に在る“死”に呑まれ、あらゆる感覚が麻痺していた。脳天から肉体を断割され、臓器を零しながら血の噴水と化す己の姿を幻視する。その映像は夢幻ではなく、現実として数瞬後に訪れるであろう未来。
其れを証明するかのように、少女の頭上にて黒刃が閃き。
そして――
「お嬢様ッ!!」
紅の守護者が、非情な死の運命を打ち払った。
私とマルギッテが“それ”に気付いたのは、怖気が走るような尋常ならざる狂気が決闘場を覆い尽くした時だった。その発生源は、もう一つの戦場。クリスティアーネ・フリードリヒと森谷蘭が刃を交わしている筈の地点。否応無く肌を粟立たせる殺気が私達の元に届いた瞬間――マルギッテは驚くべき迅速さを以って動き始めていた。眼前の敵手である私にはもはや目もくれず、守るべき少女の下へと全速力で疾駆する。死の飛び交う戦場で培った直感が彼女に教えたのかもしれない。もはや一刻の猶予もならない、と。
そしてその選択は、紛れもなく正解だった。マルギッテが数歩を駆けた時点で、殺意の源は――蘭は、刃を振り上げていた。武器を失い、抵抗の術を失ったクリスに向けて、欠片の躊躇もなく。その剣は、決闘に終止符を打つ事を目的にはしていない。ただ只管に眼前の少女の命脈を断ち切る為だけに、今の蘭は動いている。私にはそれが判った。マルギッテも私と同様に、いや、私以上に事態の深刻さを理解していた筈だ。鬼気迫る表情で地を蹴る彼女の姿は、焦燥と、何より喪失への恐怖に満ちていた。
「お嬢様ッ!!」
だからこそ――彼女は間に合ったのだろう。意志は時に、限界を超えて人の潜在能力を引き出す。必死の叫びと共に地を蹴ったマルギッテは、間一髪のタイミングで凶刃の軌跡に割り込む事に成功した。上段から真っ向に振り下ろされた黒の大太刀が、標的を庇う様に立ち塞がった旋棍と衝突し、烈しく火花を散らす。顔の上でクロスさせたトンファーは落雷の如き刃を受け止め、その暴威を押し留めていた。
「マルさん!」
恐らくは姉貴分に寄せる強固な信頼の念から、クリスの顔が安堵に彩られた。世界に名を轟かせる猟犬の護りは、誰であれ易々と突破できるものではない。故に彼女が駆け付けたからには、もはや危険はない――そのような思考が面に出ており、強張った全身から緊張の色が抜け落ちる様子が見て取れた。
だが。
クリスの目には、自らを護るべく敢然と馳せ参じたマルギッテの背中はこの上なく頼もしい守護騎士のそれとして映ったのだろうが――私の立ち居地からは、彼女の顔が見えていた。苦渋に歪み、強烈に歯を食い縛って堪えている、余裕とは掛け離れた必死の形相。
「ぐ、ぅぅ――!」
その所以は一目瞭然だった。彼女の足元に目を向ければ、そこでは軍靴の踵が地面に深々とめり込み、じりじりと砂を抉り続けている。頭上にて刃を押し留めている両腕は震え、徐々にその高度を下げ始めている。それは、マルギッテ・エーベルバッハの膂力を以ってしても、斬撃の重圧を抑え切れていない証拠だった。先程までの闘いを通じてその膂力の凄まじさを身を以って体感してきただけに、眼前の光景がいかに異常なものであるか良く分かる。
ご主人の口から語られた情報や、私自身が目撃した場面から、森谷蘭という少女が驚異的な潜在能力を有している事は把握していた。理性を代償に“暴走”という形で自身の能力を引き出し、戦力として運用してきた事も。だが現在の彼女はどう見ても、それとは様子が異なっている。普段の暴走時のように全身から膨大な氣を垂れ流しておらず、そして何より眼に湛える狂気の質がまるで違っていた。嵐の如き荒々しさなど欠片も見受けられない、凪いだ海面にも似た平静さ。それでいて刃に込められた殺意はかつてない程に鋭利で、肉体の内側を巡る氣の量は暴走時の比ではない。端的に言えば、今の蘭は自身の潜在能力を引き出した上で、振り回される事無く制御下に置いているのだ。故に氣の運用に常のような無駄がない。凝縮された殺意と氣が絡まり合った結果、どれほどのパワーを生み出すのか――それは、マルギッテの窮状が雄弁に物語っていた。
ましてや現在の彼女は私との決闘で少なからずダメージを被っている状態だ。このまま真正面から怪物級の膂力と針張っていては、いかな彼女でも力尽くで押し切られ、叩き斬られる他に未来はないだろう。そんな想像したくもない事態を未然に防ぐべく、私が動こうとした時だった。
「――らあぁぁぁぁああああッ!!」
獣の雄叫びにも似た気合と共に、マルギッテの纏う闘氣が更に跳ね上がる。恐らくは残された力の総てを振り絞っているのだろう。最大限に強化された彼女の膂力は瞬間的に蘭のそれと拮抗し――凌駕した。乾いた音響と共に黒の太刀が撥ね退けられ、その勢いで蘭の身体は数歩分ほど後ろに押し遣られる。マルギッテは荒い呼吸を吐きながら蘭を睨み据え、背後の護衛対象へと鋭い言葉を投げ掛けた。
「お嬢様っ!今の内に退避を――、っ!?」
しかし、最後まで言葉を紡ぐ時間は与えられなかった。休む暇すらなく眼前に迫る殺意の刃に、マルギッテの顔が強張る。後退させられた数歩の距離を文字通りの一瞬で詰めて、蘭は無言のままに再び太刀を振り翳していた。常軌を逸した瞬速の踏み込みから振るわれるのは、右薙の一閃。尤も、あくまで姿勢から斬撃の種類を判断しただけで、私の眼では太刀筋を目で追う事すら不可能だった。それほどに、迅い。
「くっ!」
だからこそ、苦しげに顔を歪めながらもそれを見事に受け止めて見せたマルギッテの技量は流石だと云えるが――そこが、限界。一撃目を凌ぐ為に余力を使い果たした彼女に、先程と同等以上の剣速を有する蘭の二撃目を抑え切れる道理はなかった。全身を支えていた両足が地面を離れると同時に、マルギッテは斬撃に引っ張られるような形で左方向へと吹き飛ばされる。彼女の身体は数瞬の滞空を経て地面に叩き付けられ、更に砂塵を巻き上げながら十数メートルもの距離を凄まじい速度でバウンドしながら転がって、ようやく止まった。
「…………」
そして、自身が排除したマルギッテの方には目もくれず、蘭は狂気に爛々と光る目をクリスへと向ける。二人の間を隔てる障害はもはや存在しない。彼方へと弾き飛ばされたマルギッテは既によろめきながら立ち上がっていたが、しかし間に合わない。再び二人の間に立ち塞がるには距離が離れ過ぎていた。このまま蘭の凶行を阻む者が現れなければ、川神学園第一グラウンドの中央にて真昼の惨劇が幕を開けかねない状況だった。
という訳で――ここは、私の出番だろう。蘭がクリスとの距離を詰めてしまう前に、私は速やかに彼女達の間に割って入った。
「ストップ、そこまでだよランッ!」
そう、これ以上は駄目だ。殺人と云う粗暴な行為に対して私が少なからず忌避感を抱いているのは確かだが、時と場合によっては制止する気もなかった。必要とあらば、躊躇い無く自らの手でそれを実行する心構えすらある。しかし、今はその時でも場合でもなければ必要でもない。むしろ行為に及ぶタイミングとしては、凡そ考え得る限り最悪の部類だ。何せこの場には、日本の国家権力などよりも遥かに恐ろしい者達が居合わせているのだから。本来ならば一度でも“殺しに掛かった”時点でアウトと判断すべきだが――“彼ら”が実力行使に出ていない今ならばまだ、総合的な被害は最小限に食い止められる。「主を侮辱された」「決闘の空気に中てられて頭に血が昇った」――そうした言い訳で、辛うじて体裁を取り繕う事は可能だ。幸いにして未だ死者は不在で、誰も怪我すら負ってはいない。この時点で私が蘭を抑えられさえすれば、後は私とご主人の手でいかようにでも事態を収束させられる筈だ。
一瞬だけ視線を蘭から逸らし、決闘場を囲むギャラリーを素早く観察する。案の定、彼らは蘭が見せた突然の変貌とその凶行を前に、蜂の巣を突いたかの如く騒然となっていた。そして、不安と恐怖と好奇心の入り混じった目をこちらへ向ける群衆の中に混在する、強烈な闘氣。アレを行使させてはいけない。その行為は――間違いなく、災禍を呼び寄せるだろう。現状確認を終えると同時に、私は思考を纏めた。この場において私が何を為すべきなのか、目標の設定も完了した。ならば此処からは、最善の未来を手中に収める為に精一杯足掻くだけだ。
私は唾を呑み、緊張でカラカラに乾いた喉を潤してから、可能な限り軽い調子を心掛けて声を上げる。
「いや、ランがイライラするのはホント良く分かるけどさ。今回はちょっとはっちゃけ過ぎだね。あんまり私を脅かさないで欲しいだけどなぁ。心臓に悪いよ全く」
「…………」
最初に私の制止の言葉が掛けられてから、蘭は身動きを止めていた。数歩分の距離にて立ち止まり、刃を片手に提げながら、じっと私を見詰めている。何を考えているのかは判らない。彼女の瞳はやはり空虚で、寒気が走るほど人間味に欠けている。その姿は、従者仲間として、家族として、日常を共に過ごしている私ですらも……いや、普段の彼女の温和さと感情の豊かさを知る私だからこそ、その変貌は拭い難い恐怖を心に植え付けるものだった。大丈夫だ、今の蘭の瞳からは、少なくともあの凶悪な“殺意”は消失している――思わず怯みそうになる心を叱咤し、震えそうになる体を抑え付けて、私は言葉を続けた。
「ほらほら、冷静に状況を俯瞰してみなよ、ラン。一人は武器を吹っ飛ばされて戦闘続行は不可能だし、もう一人だって私のお手柄で手負いなんだ。今の猟犬さんなら、二人掛かりで叩けば封殺できる。要するに、この闘いはもう勝利を掴んだも同然なのさ。わざわざ追い討ち掛けて反則負けなんてオチは誰も望んじゃいないよ。そんな勿体無いお化けが出そうな真似されちゃ、明智音子一世一代の頑張りの意味だって跡形もなく消し飛んじゃうじゃないか。私的にそれはちょぉーっと我慢ならないね」
「…………」
どうにか取り繕った饒舌さで語り掛ける私の声に対して、蘭はあくまでも無反応だった。視線は何処ともつかぬ虚空を彷徨っており、青褪めた顔に生気が宿る事はない。私の声が明確な意味を成して耳に届いているのかどうか、それすらも外観からは判別出来なかった。このまま動かずにいてくれるなら助かるのだが、手に携えた刃を鞘に収める気配もない以上、間違っても安心など出来る筈もない。
……。
……やはり蘭の意識に働き掛けるには、その忠誠心に訴え掛けるのが一番か。
私は頭の中で即座に意に沿った文言を組み立て、言葉を紡ぎ出すべく唇舌を動かした。
「大体さ、ランがあのお嬢様を真っ二つにする事なんて、“ご主人は望んじゃいない”よ。むしろ大迷惑を被るだけなんじゃないかな?学園にいられなくなっちゃうし、ドイツ軍の皆さんから徹底的に追われる羽目になっちゃうし。まさしく百害あって一利ナシって奴さ。ランの気は晴れるかもしれないけど、さすがにメリットとデメリットで天秤が吊り合わないってば。ランが本当に“ご主人の忠臣”だって言うならさ、私情に囚われずにちゃんと広い視野で物事を――」
「――――い」
僅かに。至近距離で注視していた私でなければ気付かない程に小さく、蘭の唇が動いた。反射的に口を閉ざし、息を呑みながら言葉の続きを待つ。
そして――直後、蘭の瞳に宿った色を正面から直視した瞬間、私は悟った。
「やめてください」
自分の失敗を。
森谷蘭という少女が抱える闇の、底知れない深さを。
「――主を語らないでください、知ったような口を利かないでくださいッ!主は、主を、信長さまを、誰よりも私が主のことを知っているんです。私が、私が私が私だけが!私だけが信長さまの、主と一緒に!いつまでもお傍に、私が、ああああイヤ、嫌、嫌イヤ嫌です、そんなのは、そんなのは――盗らないで、これ以上奪わないで奪わないで奪わないで主を奪わないで、ダメ、駄目、殺さなきゃ、嗚呼、殺さなきゃ殺さなきゃ、だって――殺さなきゃダメなんですから私は殺さなきゃ、奪われる前に、奪わなきゃ。だから、だからだからだからッ!」
一瞬にして、銀の刀身が黒に染め上げられた。汚濁の黒。狂気と殺意と憎悪と悲哀と――恐怖の色が入り混じった、光射さぬ深淵の色彩。
『蘭の奴は、魔物を飼っている。この世の誰にも祓えない、最悪のバケモノだ』
かつてご主人が漏らした言葉の意味を、私は正しく理解出来ていなかったのかもしれない。体験の伴わない知識からは、真の危機感は生じ得ない故に。ならば、この結末は、私への報いなのか。
躊躇いもなく、慈悲もなく。只、禍々しい殺意が黒刃を象って、天へと翳された。
「――“敵”はみんな、殺さなきゃ」
降り掛かる死の運命から、私が自力で逃れる術は無い。回避も防御も、間に合わない。私の言葉では、蘭の魔物を律する事は出来ない。無力感が精神を支配し、意志を挫く。
――ごめん、ご主人。私は、パーフェクトな従者にはなれなかったみたいだ。
諦観と絶望を込めて心中で呟いた瞬間、
蘭は、踏み潰された。
いつか噂に聞いた事があった。曰く、武神・川神鉄心の誇る奥義の内実は、“神を降ろす”ものだ、と。
それだけを抜き出して聞けば、何を馬鹿なと笑い飛ばすのが正常な人間の反応だろう。だが、その形容は端的ながらもこれ以上なく的確に特徴を捉えていると云える。
今になって、俺はその事実を納得の念と共に受け入れていた。
「顕現の参――“毘沙門天”ッ!!」
それはまさに、神の似姿だった。清浄なる蒼の闘氣によって織り成されるは、十二天の一尊。雄々しき威容に見惚れる暇すらなく、全ては始まり、終わっていた。天を衝くかの如き巨体にて現世に顕現した軍神の御足が、振り翳した凶刃ごと、その担い手を叩き潰した。あたかも赦されざる罪人へと裁きの鉄槌を下すかのように。大地を震撼させる途轍もない衝撃と、俄かに巻き上がる砂塵の量が、その一撃に内包された威力の凄まじさを物語っていた。
「……」
爆発的に膨れ上がった川神鉄心の氣が毘沙門天の似姿を形作り、その力を以って地を穿つ。その間に経過した時間は、比喩表現でも何でもなく、文字通りの“一瞬”だった。武人としては凡俗の域を出ない俺の目には、あらゆる動作が全くの同時に行われたようにしか映らない。一連の動作にしても、眼前に在る結果から遡って過程を想像しただけの事だ。かつて武の頂に立った男の業の全てを、俺如きが窺い知れる道理はない。ましてや――其れを制止し、阻害する事など、幾ら望んでも不可能だった。
だが、それでも。
例え不可能だと判っていても、俺は、止めなければならなかった。
誰もが不幸へと転がり堕ちるであろう“この事態”だけは、何としても避けなければならなかったと云うのに。
「おおお、何したのか分かんねーけどすっげぇ!さすがは川神院のトップだぜ。何にせよ、これでもう安心だな」
「やれやれね。いきなり斬り掛かるんだもん、びっくりして心臓止まるかと思ったわ」
「なぁ、あれ絶対殺る気満々だったよな……?やっぱヤベェ奴だったのかよ。学長が止めなきゃどうなってたのやら」
眼前で繰り広げられた一連の騒動に対し、ギャラリーの反応はあくまで呑気なものだった。周囲を取り巻く彼らの大半は、刺激的なショーを間近で見物出来た、と云った程度の認識しか抱いていないのだろう。興奮と好奇の色に染まった生徒達の声音が好き勝手に飛び交い、グラウンドを喧騒で充たしていく。もはや危険をもたらす存在は取り除かれたのだから、何も心配する事はない――そんな安堵感に裏打ちされた陽気さが急速に広まりつつあった。彼らの意識の中においては、事態は既に収束していた。
それが絶対的な誤りである事実に気付いている人間が、少なくとも三人、この場には居る。
一人は、俺。もう一人は、ねね。そして最後の一人は――川神鉄心だ。
かの老翁は奥義を放ち終えた直後から今に至るまで、一瞬たりとも峻烈な闘氣を収めてはいなかった。鋭い眼差しは依然として奥義の着弾地点へと向けられ、視界を遮るように舞い上がった砂塵の奥を見据えている。果たして彼が何を感じ取ったのかは判らない。が、間違いなく言える事があるとすれば……その警戒は、紛れもない正解だと云う事だ。
何故ならば、未だ。何も、何一つとして終わってなどいないのだから。
――学園に居る全ての人間がそれを思い知らされる事になったのは、次の瞬間だった。
「嗚呼嗚呼ああああアアアアアアアアアアアアアぁぁぁァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああ亜アアアアアアアあぁぁあぁあアアアアアアアアアアアアアアアああぁぁァアアアアぁアアアアアアアアアア嗚呼アアアアアアアアあああああああアアアアアアアアアアアアア嗚呼嗚呼嗚呼ああああアアアアアアアアァァァアアアアアア嗚呼アアアアぁアアアアあアアアアアアアアアあああああアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああアアアアアアアアアああアアアアアアアアアあアアアアアアアアアああああアアアアアアアアアあアアアアアアアアアああああああああぁあああああああああああああああぁああ嗚呼アアアアアアアアアッ―――!!」
長い、長い絶叫が轟く。
脳髄を犯す様な狂気を載せて、彼方へと響き渡る。
その声音は――何かが、致命的に壊れていた。狂気じみている、などという生易しいものではない。これは既に、狂気“そのもの”だ。ただ聴いているだけで正気を奪われかねない、呪怨に充ちた亡者の悲鳴。そんな破滅的な音響によって、群集の織り成す喧騒は一瞬の内に沈黙に取って代わられた。あらゆる歓談の声は掻き消され、墓場のような冷たい静寂が降りる。皆が恐怖に眼を見開き、おぞましい叫びの発生源へと視線を集める。
グラウンドの中心を覆っていた砂塵は既に消失していた。晴れた視界に否応なく映り込むのは、森谷蘭の姿形を象った“何か”。ソレは、川神鉄心の奥義によって擂鉢上に抉れた地面の中心に佇んでいた。その足元には粉々に砕け散った模造刀の破片が散乱している。手に握っていた得物の壊滅的な様相から判断して、本人もまた確実に奥義の直撃を受けた筈であるにも関わらず――ソレは、平然と立ち上がっている。武の極地に辿り着いた怪物の、至高の一撃に耐え得る存在とは、果たして何であるのか。
……だが。或いは、当然と云うべきなのかもしれない。妄執と狂気に身を委ねた化生に対して、殺意なき攻撃など意味を為さない。仮に四肢の全てを捥いだ所で、息吹と鼓動が永久に停止しない限り、鋭利な犬歯を以って首筋を噛み千切りに来るだろう。アレは、そういう存在だ。精神も肉体も、総ての要素が“殺す”為だけに集約された在り方。森谷の妄執と業が産み落とした呪い子は、産声にも似た咆哮に載せて、狂った殺意を撒き散らす。
大気を振るわせる声音だけではなく、その容姿もまた、今や悪鬼同然だった。命の終焉を否応なく予感させる、死臭に満ちた穢れが総身に絡み付いている。膨れ上がった殺意はもはや肉体と云う器に留め得る規模を超越し、内より溢れ出した漆黒の邪気が汚泥の如く外界を汚染する。肌を粟立てる凶悪な冷気と、絶望的な威圧感。それは――“織田信長”が身に纏う殺気と、何処までも似通っている。
…………。
……否、そうではない。そのような形容は、正確とは云えない。
何故ならば、あのおぞましい化生こそが……俺にとっての“オリジナル”なのだから。
織田信長の殺気は、紛い物だ。武神の目を欺ける程の精巧さにて偽造されたイミテーション。
――すなわち、森谷蘭の。その身に棲まう魔物を模倣した結果として編み出された、模造品に過ぎない。
かつてこの眼と肉体と脳髄に刻み付まれた最凶最悪の“殺気”を再現する事で、俺の威圧術はこの領域まで到達したのだ。
そう。
俺は、コレを知っている。狂気に身を浸すのではなく――狂気そのものと成り果てた森谷蘭の姿を、俺は過去に見知っている。忘れ得ぬ悔恨と共に、脳裏に焼き付けられている。
だからこそ、俺は止めなければならなかった。武力と云う名の暴力による抑圧が、蘭の獣を呼び覚ますトリガーと成り得る事実を誰よりも承知している俺は、いかなる無理を推してでも、川神鉄心の行為を制止しなければならなかった。それを成し得なかった結果が、眼前の悪夢。森谷蘭は“敵”を屠る一振りの凶刃へと変じ、血に飢えた狂乱の咆哮を天地に轟かせている。目には理性も感情もない。只殺気と狂気と鬼気を以って万物を斬り捨てる、地獄の悪鬼が其処に居た。忠実なる従者の変わり果てた姿を、俺は茫然と見詰める。
俺は。蘭は。また、繰り返すのか。
血塗れの因縁と呪縛からは、決して逃れられないとでも言うのか。積み上げてきた努力も、乗り越えてきた苦難も、支え合って生きてきた歳月すらも。何の意味も為さず、俺達の全てが呆気なく無に帰す。あの忌々しい呪いの所為で、断ち切られて終わる。それが、そんなモノが、俺達に用意された結末だと?
――認められる、筈がない。
胸の奥から込み上げた想いは、煮え滾るような怒りだった。
心中にて荒れ狂う激情を抑える術は無い。灼熱に染まる思考が、身体を突き動かす。
険しい表情で油断なく様子を窺っている川神鉄心よりも、自失の態で地面に座り込んでいる明智音子よりも、距離を置いて呆然と蘭を見遣るクリスとマルギッテよりも早く。この場に居合わせた何者よりも先んじて、俺は動いた。
殺意の渦巻く決闘場へと踏み込み、冷え切った空気を限界まで肺に取り込んで――
「蘭ッ!!!」
万感の思いを込めて、その名を呼んだ。
グラウンドの隅々まで響き渡る大音声は、木霊する悪魔の絶叫を掻き消し――その根源へと到達する。
途端、胸を掻き乱す狂乱の叫びが、ふつり、と止んだ。青褪めた顔がこちらを向き、殺意の消え失せた双眸が俺を捉える。
そして――“蘭”が、大きく目を見開き。
恐る恐る、囁くように。しかし聴き間違えようのない鮮明さを以って、“俺”の名を、呼んだ。
「――――シン、ちゃん?」
――――それから。俺は此処へ、帰って来た。
『これでついに信長さまも一城のあるじでございますね!蘭は、蘭は感動で心が打ち震えておりますっ!』
織田信長とその従者が、血塗れの闘いの末に辿り着いた安息の地。今にも倒壊しそうなボロアパートの全体像を入口から眺めながら、不意に蘇った当時の情景を懐かしむ。数秒を経てから、俺は門の外側で塀に凭れ掛かって待機していた小柄な少女に視線を向けた。ねねは壁から背を離し、無言のまま俺の方に向き直る。物言いたげな眼でこちらをじっと見詰める視線を黙殺して、俺は言葉少なに問い掛けた。
「進展はあったか?ネコ」
「……ん。さっき例のメイドさんから伝令が来たよ。部隊の召集が完了したから、いつでも展開出来るってさ」
「ふむ。流石に世界に名高き従者部隊、と言った所だな。随分と対応が早い」
それは大いに結構な事だが、しかし状況が状況だ。外部の人間に頼り切る訳にもいかない。俺の方でも可能な限りの根回しは済ませたし、打てるだけの手は既に打ち終えた。ならば、後は一刻一秒でも早く行動へと移らなければならないだろう。“狩人”は、何時までも悠長に待ってくれるほど生温くはない。
足早に歩を進めようとした瞬間、不意に強い抵抗を感じた。手を引っ張られている、と気付いたのは一瞬の後。振り返れば案の定、ねねが後ろから腕を伸ばし、俺の右手を握り締めていた。理由を俺が問い掛けるよりも先に、ねねの唇が動く。
「ねぇご主人。私は何処までだって付いていくよ。例え何があっても、私はご主人から離れない。一緒に地獄に堕ちてあげたっていい」
「……」
「ご主人が望むなら、私はもっともっと強くなって理想の従者になってあげる。だから、だからさ――」
俺は無言でねねの頭に手を載せて、その先に続くであろう言葉を遮った。不安に身を震わせ、今にも泣き出しそうな表情で自身を見上げている少女に、掛けるべき言葉が見つからなかった。今の俺が口を開けば、どう取り繕っても嘘になる。賢い嘘吐きのねねに対して、苦し紛れの虚言が通じる筈もないだろう。然様に愚鈍でないからこそ、彼女はこうして苦悩しているのだから。
優しい嘘で誤魔化せないなら、残酷な現実と向き合う他に道はない。結局、俺は何も言わなかった。黙したまま幾度か頭を撫でてから、そっと握られた手を解く。抵抗は無かった。柔らかな掌の温もりが離れると、俺はそのまま顧みる事無く歩を進めた。
出迎えはない。そもそもにして、このアパートには久しく俺達以外の住人が居ないのだから当然だ。織田信長の根城に生者の気配は無く、シンと完全に静まり返っている。僅かな寂寞の念を抱きながら門を潜り、敷地内へと足を踏み入れる。門と建物の間に広がる狭い中庭は、織田主従の鍛錬場だ。威圧術のトレーニングに励む俺の隣で、蘭は来る日も来る日も一心不乱に剣を振っていた。全ては己が武を以って主君の身を守護する為に。森谷蘭という少女は、一切の努力を厭わなかった。
『信長さまっ!蘭は必ずや、天下無双の勇名を轟かせ、主に相応しき従者となってご覧に入れます!』
「……」
ほんの少しだけ足を止めてから、俺は中庭を横切った。喧しく軋みを上げる階段を慎重に昇り、俺が目指すのは蘭の部屋。当然のように施錠されていたが、本人から預かっている合鍵を用いて解錠。磨き上げられたドアノブを回し、扉を開く。
蘭の部屋の内装は、几帳面で潔癖症な住人の性格を反映して、完璧なまでに整理整頓が行き届いていた。とは言え部屋の雰囲気は無機質な冷たさとは無縁で、其処かしこに見受けられる家事の痕跡が、生活感に溢れた家庭的な温かさを醸し出している。きっちりと折り畳まれた三人分の洗濯物が視界に入った。
『えへへ、偉大なあるじのお世話をさせて頂けるなんて、蘭は天下一の果報者でございますっ』
「……」
軽く頭を振って幻像を払い、部屋の奥へと向かう。
目的の代物は、ベッドの脇に在った。壁際に設置された刀掛け台の上に鎮座しているのは、鮮やかな朱鞘に収められた一振りの日本刀。持ち主によって入念な手入れが為され、埃一つ積もっていないそれを手に取り、鞘ごと台から持ち上げる。
重い。
外観の華美さからは想像出来ない、両腕に伸し掛かるこの重みこそ、“真剣”の証なのだろう。命を断ち切る、ただその為に造り出された殺しの道具。刀が武士の魂だと云うならば、この重さは当然だ。二尺五寸の刃が肉を断ち、骨を断つ。血を散らせ、命を散らす。其れを確りと受け止めなければ、真剣を手に握る資格はない。
「――蘭」
独り、その名を呟く。返事はない。常に織田信長の三歩後ろに控える忠臣で、いつでも俺の傍から離れなかった人懐っこい幼馴染。人生の半分以上の時間を共に過ごしたパートナーは、何処にも居ない。住人の居ない部屋の冷徹な静けさが、その事実を改めて実感させてくれる。そして何より――いかなる言葉よりも雄弁に、俺の覚悟を後押ししてくれる。
森谷蘭を巡る因果は、もはや俺とあいつの二人だけでは完結し得ない。この川神の地を舞台に、幾多の思惑が動き出そうとしている。皆が各々の信念を動機とし、目的を理由として、意志に従い刃を振るうのだろう。意志と刃が交錯する先に在るものは只一つ。それはもはや留め得ない流れだ。しかし――
「他の、誰でもない。俺だ。俺が、必ず」
胸の高さに刀を掲げ、一息に抜き放った。朱鞘から解き放たれた銀色の刃が、薄暗がりの中で鈍い煌きを放つ。
それは誓約。決然たる意志を以って、胸中に渦巻く惑いを斬り捨てる為の儀式。
「――俺が必ず、始末を付ける」
静かな誓いの言葉を聞き届けるのは、非情の白刃のみ。
鏡の如き刀身の中から、鬼気に満ちた双眸が俺を見返していた。
さあ、血戦を始めよう。
そして――この呪われた因縁に、相応しき決着を。
今回は普段と較べてやけに短いですが、話の区切りを考えての事ですのでご勘弁を。
話の内容的に色々と説明不足な部分は、恐らく次回以降に補足が入るかと思われます。つまり現時点で「ワケが分からないよ」という感想の方は至って正常です。ご安心ください。それでは、次回の更新で。