四月二十四日、金曜日。
月日の流れは驚く程に早いもので、気付けば川神学園への転入から既に半月以上が経っていた。転入以来、波乱に次ぐ波乱の連続で満足に息つく暇すら無かった為か、時間の推移をまるで意識出来なかったが――半月か。改めて考えると、信じ難いものがある。何せ、本当に数多くのイベントが発生したのだ。数ヶ月分の事件を詰め込んだと言っても過言ではない、あまりに密度の濃い日々。多くの出逢いがあり、多くの闘争があり、そして何より、多くの“変化”があった。予期していた事から予期していなかった事も含めて、多岐に渡る様々な変化が。私立川神学園への転入は、計り知れない変革を俺の生活にもたらしている。
僅か半月で、これだ。ならば――これから先の長い学園生活は、俺の周囲と俺自身に如何なる影響を与えるのだろうか。期待と不安が入り混じった心地が胸中に滲み渡る。人間は誰しも心の奥底で停滞を望み、将来の未知を恐れるもので、それは俺とて例外ではない。しかし、覇道とは常に変革を貫いた先にこそ切り拓かれるのだ。であるならば、織田信長には迷いも躊躇いも不要。只ひたすらに、己の信じた道を歩むのみ。
――さて、今日は果たして何が起きるのやら。
青空を仰ぎながら思考を巡らせていた俺を、聞き慣れた声が現実に引き戻した。
「主。本日も朝の鍛錬、お疲れ様で御座います!絶えず戦に備え己を磨く心構え、蘭は感服致しましたっ!」
朝っぱらから寝惚けた叫び声を張り上げながら足元に平伏している珍妙な生物は、森谷蘭。この奇態を前にしては正直あまり認めたくないのだが、こやつはかれこれ十年ほど織田信長の従者を務めている、最古参の側近である。性格の方が何ともアレな事さえ考慮しなければ、家事万能・文武両道・容姿端麗と三拍子揃った優秀な家臣で、俺の剣として、或いは手足として、私生活・戦場を問わず、縦横無尽の活躍を演じてきた。能力の高さだけではなく、織田信長への忠義心の厚さに掛けて右に出る者はいないだろう。俺の懐刀という役割を任せられる一の臣はこいつ以外には有り得ない。そして何よりも重要なポイントとして――和菓子作りが上手い。蘭の作る和菓子は、美味い。揚げ物練り物打ち物蒸し物流し物、何でも御座れで、そのクオリティときたら老舗の銘菓にすら匹敵し、更に――
「信長様、汗をそのままにしておかれては御身体に障ります。どうか蘭にお任せ下さい」
蘭の言葉を受けて、際限なく膨らむ甘美な和菓子イメージを渋々ながら打ち切り、俺は鷹揚に頷いた。
「うむ。良きに計らえ」
「ははーっ!それでは失礼致します」
蘭はスポーツタオルを手に携え、いそいそと俺の身体を拭き始める。既に五月も近いこの季節、気温は決して低くはない。朝方とは言え運動をこなせば汗が流れるのは道理である。無駄に洗濯物を増やして蘭の負担を大きくする必要は無いし、アパートの住人は織田主従のみなので誰に気兼ねする必要も無い。故に俺は初めから半裸の状態で鍛錬に臨んでいた。
「……」
上半身を満遍なく走る醜い傷跡を気にも留めず、甲斐甲斐しく汗を拭っていた蘭だったが、タオルが胸板に差し掛かった辺りで唐突に手を止めた。見れば、何やら惚けたような表情でぼんやりと俺の体を見つめている。
「如何した、蘭」
相手が家族同然に付き合いの長い従者とはいえ、流石に食い入るような目で裸身を凝視されるのは些か気恥ずかしい。そういった意図を込めて問い掛けると、蘭はハッと我に返ったように目を見開くと、途端に顔を真っ赤に染めて、ブツブツと何事かを呟きながら先程までの三倍以上の速度でタオルを動かし始めた。もはや乾布摩擦の域を通り越している、というかこれは、発火しかねないレベルで熱い――!?
「違います違います、蘭は然様に不潔な事は断じてっ!主の御身体に対して然様に不埒な……ああなんと畏れ多いことをっ」
「蘭、もう良い。控えろ……っ」
悲鳴を上げなかったのは我ながら賞賛に値すると思う。何とか威厳を取り繕ったまま蘭の暴挙を止める事に成功すると、俺は心中で盛大に安堵の溜息を吐いた。危ない、もう少しで先人宜しく炎へと消えるところだった。汗を拭いていて焼死などと、笑止という他無い。
「う、うぅ、申し訳御座いません信長様……蘭は雑念に惑わされ、主の御身体をお拭きするという大命を果たすこと適いませんでした。かくなる上は不肖森谷蘭、割腹してお詫び致す所存で御座いますっ」
またしても平伏して妄言を垂れ流している従者一号を前にして、俺は頭痛を堪えながら溜息を吐いた。
俺の周囲で生じた“変化”の一つ目は、これである。かつて繰り広げた2-Fとの闘いを通じて、蘭は妙な方向へと変化を遂げていた。やたらと異性を意識するようになった、と言うか何というか。まず間違いなく原因は風間ファミリーの一員、椎名京との接触なのだろうが……一体全体何を吹き込まれたのやら。あの日以降も時折二人で話している姿が見受けられたが、その度に蘭の症状(?)は悪化しているような気がする。元々が相当にハイレベルな変人なのだから、これ以上に奇天烈な行動パターンを増やすのは勘弁して欲しいものだ。
地面に頭を擦り付けんばかりの蘭を口先八丁の適当な言葉で手早く立ち直らせると、俺は携帯電話で現在時刻を確認した。
「……時間、か」
「ええ、七時で御座いますね。ねねさんは……はぁ、やはりまだ寝台の上の様です」
「ふん。あの救えぬ莫迦には、相応の仕置きが必要か」
「うぅ、申し訳御座いません。私の力が及ばぬばかりに、主を煩わせる事に」
そんな遣り取りを交わしながら目指すのは、ボロアパートの二階に位置する一室である。老朽化が激しく、一歩を踏み出すごとにギシギシと不吉な音を響かせる階段を、戦々恐々たる心持ちで昇る。俺達以外の居住者が何故か軒並み立ち退いてしまった事で、部屋は全て既に選り取り見取りの状況だ。にも関わらず俺達が自室を一階に移さないのは、引越しが面倒だとか、防災対策だとか、アパートが戦場となった際に高所の利を得る為だとか、まあそれらを含めた様々な理由があるのだが……しかしそれらを考慮した上でも、やはり部屋は一階に移すべきだ、この危険極まりない階段を毎日のように何往復もしなければならない現状は早急に改善されるべきだ――と思い続けて早くも数年が経つ今年の春。
「ねねさん、入りますよー」
今日もまた無事に二階へと辿り着き、最奥の部屋に足を踏み入れると、まず耳に入るのは喧しいアラーム音である。それも一つや二つではない。少なく見積もって五個は設置されている目覚まし時計と、枕元の携帯電話が一斉に起床ベルを鳴り響かせ、何とも耳障りなハーモニーを室内に反響させている。これ程の音の暴力に襲われれば、正常な人間ならば一瞬の内に目を覚ます事は間違いない。
つまるところ、部屋を埋め尽くす騒音に気付いた様子すらなくベッドの上にて呑気な寝顔を晒し、あまつさえ安らかな寝息を立てている猫っぽい生物は、正常からはおよそかけ離れた人間であるという事だ。
「ねねさん、ねねさん!朝ですよ、七時半ですよーっ」
手で両耳を抑えながら何やら叫んでいるが、生憎とアラーム音の嵐に邪魔されてほとんど聴こえなかった。むっ、と蘭は眉間に皺を寄せて、足の踏み場も危ういレベルでモノの散乱した部屋を横切り、キビキビした動きで一つ一つ目覚まし時計のスイッチを切っていく。そうしてようやく本来の静けさを取り戻した部屋にて、蘭はベッドに歩み寄り、横たわる小柄な身体をゆっさゆっさと揺さぶった。
「早く起きて準備しないと間に合いませんよ!従者として主と一緒に通学する為にも、ちゃんと起きるって決めたじゃないですか、ねねさん!」
「んむぅ。すぴー」
パジャマの襟首を掴み、猛烈な勢いで頭をシェイクするという荒業と併行した必死の呼び掛けも、残念ながら深き闇に沈んだ意識を呼び醒ますには到らない。やはりこの生物には常識というものが通用しないらしい。ならば、ここは元川神院師範代すらもが判を押した生粋の“非常識”の出番であろう。
「時間が惜しい。下がれ、蘭」
「ははーっ!不甲斐ない臣に代えて、どうかねねさんの魂を現世に呼び戻してあげて下さい」
蘭に続いてベッドの傍に立ち、掛け布団を抱き締めて幸せそうな寝顔を晒している馬鹿を見下ろす。少しばかり手荒い手段になるが、まあ自業自得である。何せ今朝にて三日連続で言を違えている事になるのだから、この程度のペナルティは甘んじて受けるべきだろう。
という訳で、いざ意識を集中。精神を統一し、己の内より“氣”を引き出す。途端に溢れ出す殺気を暴発させないように手綱を取りながら、それらを眼前の一点に凝縮させ――鋭利な殺意の槍と成して、狙い定めた対象のみを無慈悲に貫く。
「ぎにゃっ!?」
尻尾を踏んづけられた猫以外の何者でもない悲鳴を上げながら、ターゲットは一瞬にして覚醒すると同時に跳ね起き、そのまま飛び上がった。比喩表現などではなく、文字通り天井近くまで浮き上がる豪快な跳躍である。ボスン、と再び布団に落下すると、カッと猫目を見開いて警戒心も露に周囲の様子を窺う。その段階に到って、ようやく目の前に立つ俺と蘭の存在に気付いたらしい。
「あ、あれ、ご主人、ラン?……ああそうか夢か、アレは夢だったんだ……良かったぁ」
安心したように深い溜息を吐きながら、ぐったりと背中を壁に預ける。見れば、青褪めた顔にはびっしりと冷や汗が浮かんでいた。
「いやさ、私、夢を見てたんだ。ブリにハマチにタイにサンマにサバに……兎に角沢山のお魚さん達に囲まれた海中遊泳のステキな夢さ。そしたら、そしたら、何故かいきなりホオジロザメが現れて、でも私、実はカナヅチで泳げないから逃げられなくて――目の前にあのギラギラした歯がパックリと――うぅうぅ、死ぬかと思った……いやホント、もう駄目だと思ったよ真剣で」
成程、俺の殺気によって“死のイメージ”が夢に割り込んだ結果と言う事か。お前カナヅチだったのかよ、っていうか泳げない癖に海中遊泳の夢って意味分からねぇ、と突っ込んでやりたいのは山々だが、まあなかなか面白い実験データが取れたので良しとしよう。リアクションもそれなりに面白かったし。
「あはは、災難でしたね。ですけどねねさん、おめでとうございます!今日はちゃんと時間通りに起きられましたよ!」
「え?あ、おお、七時!午前七時じゃないか!くふ、ふふふ、そうか私はやり遂げちゃったんだね。アキレスの如き唯一の弱点を克服した私に敵は無い。嗚呼、遂に、遂に私の天下がやってくるんだね!うふふ、あはは、あーはっはっはっは!」
寝起きとは思えないハイテンションっぷりを存分に発揮して現在哄笑中のコレが、“変化”の二つ目である。織田信長が第二の直臣、明智音子。長らく空席となっていた二人目の従者にこいつが納まったのは、実を言うとつい最近の話である。家庭の事情と素行不良が原因で行き場所を失ったねねを俺が拾ったのが切っ掛けとなって、色々な経緯を経て本格的に我がボロアパートに棲み付くようになった。性格はまあ、見ての通り――怠惰で能天気、自信家でプライドが高く、自分勝手で我侭で、そして極め付きには類を見ないレベルの嘘吐きという、何と言うか割とどうしようもない輩である。能力の優秀さに疑うべき所はないのだが、やはり性格のアレさがネックだ。……俺の手足は何故そんな連中ばかりなのだろう。“頭”の俺は至極まともな常識人だと言うのに、まったく何とも理不尽な話である。
「いやぁ、勿論あんな酷い悪夢は二度とゴメンだけど、目覚まし効果は抜群だったね。昨夜は布団に入ったの確か深夜二時半くらいだったのに、まさかの起床成功だなんて。驚き桃の木って奴だよ」
「……」
「……」
成程、どうやらこの馬鹿はそもそも時間通りに起きる意思など皆無のようだ。俺と蘭が揃って冷たい視線を投げ掛けると、ねねは慌てた様子で取り繕いを始めた。
「ああいや、別に遊び呆けていて寝るのが遅くなった訳じゃないんだよ?か、勘違いしないでよね、小説の続きが気になってついつい最後まで読んじゃったり、暇潰しのつもりで始めたゲームについつい熱中しちゃったり、今回は取り敢えずそういうのじゃないんだから!」
「今回、か……」
「あはははやだなぁご主人、今のはいわゆる言葉の綾って奴だよウン。偉大なるご主人はまさか揚げ足取りなんてみみっちい真似はしないよね?いやーさすが心が広い。よっ闊達自在にして寛仁大度の聖人君子!えっと、うん、それじゃ釈明させて貰うけどさ、私がお肌の天敵たる夜更かしなんて暴挙を仕出かしたのは、ずばりメールが原因だよ」
「メール、ですか?」
きょとん、と首を傾げている蘭に対して、ねねは心底疲れたような表情で枕元の携帯電話を指差しながら、「そ、メール」と返した。
「メールがね……終わらないんだよ。向こうさんテンション上がっちゃってるのか、何回返信してもメールが一向に途切れない。文面からして凄く楽しそうだからさっさと打ち切るのも何だか気が引けちゃってさ、延々と付き合ってたら深夜になっちゃった。だからこれは不可抗力というかアレだよ、熱心な残業の結果ってヤツさ。私は与えられた仕事と役割を果たそうとしただけだもんね」
「ふん。成程な」
という事はつまり、メールのお相手は件の“黛由紀江”なのだろう。剣聖・黛十一段の息女――彼女への対処については昨日、既にねねから中間報告を受けている。指令を下したのがつい一昨日である事を考えると、驚くべき仕事の早さと言えるだろう。見込んだ俺の目は確かだったようだな、と我が従者の優秀さに感心すると同時に、しかしその手段について少しばかり懸念が生じていた。
「文通を交わすという事は。剣聖の娘と“友達”になった、と言う報告は事実の様だな」
「――うん、勿論さ。私がご主人に嘘を吐くなんてコトがあると思うのかな?」
「ふん。それは、俺がお前に嘘を吐く事と同様に、有り得ぬ事だな」
「……あはは、良くお分かりだね。ご主人には敵わないなぁ、ホント」
似合いもしない儚げな表情で、ねねは小さく笑った。
それはつまり、そういう事なのか。
全く、相変わらず馬鹿な奴だ。小賢しい嘘吐きの癖に、妙な所で正直さを捨て切れていない。やはりこいつと俺は違うのだな、と改めて実感する。人を騙すという行為に対して、もはや欠片も罪悪感を覚えられなくなってしまった俺とは違って――ねねには、人として持ち合わせるべき良心が未だに残されている。偽りの友情を演じる事に後ろめたさを感じていなければ、間違ってもこの様な寂しそうな顔は出来ないのだから。
それでもこいつはきっと、俺が何も言わなければ自分一人で抱え込むつもりだったのだろう。痛む心を押し隠して、何食わぬ顔を装って猫被りを続けていたのだろう。全ては、俺の為に。
――無理しやがって、馬鹿め。
やれやれである。ベッドの上へと腕を伸ばし、起きたばかりで寝癖の自己主張が激しいネコっ毛を、乱暴に掻き回す。
「あ……っ、ご、ご主人……?」
「詰まらぬ思慮に時間を割く暇は無い。出立の支度を急ぐがいい――学園への道程、今日こそは俺に付き従うのだろう?ネコ」
素っ気無く言い捨てて、俺はさっさとねねの部屋から外に出た。その後から続いて、蘭が慌てた様子で飛び出してくる。
「……うーむ」
自室に戻り、クローゼットから取り出した川神学園の制服に袖を通しながら、俺は今しがたの自分の行動に対して首を捻る。やはり、妙だ。どうにもねねの奴にはついつい対応が甘くなってしまう。あんな風にベタベタした馴れ合いは俺の望む所ではないハズなのだが、何とも良く分からないものだ。本当に、何故だろうか。
「あ、あの、主。主は――」
「ん?」
「僭越ながら主は、その……。……いえ、何でもありません。蘭は身嗜みを整えて参ります……」
蘭は何やら思い詰めた様な強張った表情で言い捨てると、俺に追求する暇を与えず、隣に位置する自分の部屋へと引っ込んでしまった。その場に数秒ほど立ち尽くし、蘭の言い掛けた言葉の脳内補完を試みる。が、どうにも上手くいかなかった。
ここ最近、こういう事が多い。現在に到るまでの十年間、俺には蘭の考えている事ならば大抵の事はお見通しだったと言うのに、近頃は分からない。新たな直臣の参入を認めた件と云い、蘭が一体どのような思惑の下で行動しているのか、まるで予測が付かないパターンが増えてきている。その事実に、戸惑いと違和感を覚えずにはいられなかった。
「――違和感?阿呆か」
クローゼットに備え付けられた姿見に映った自分自身に、吐き捨てる。
それでいい。それが、当然なのだ。全ての思考と行動を読み通せるなど、人として有り得ざるべき状態だろう。故に現状は間違っても異常事態などではない――長らく異常で在り続けたモノが、ようやく正常に戻ろうとしているのだ。二度と根治する事は無いと信じていた歪みが、在るべき形へと回帰しようとしている。森谷蘭は――かつて喪失した“自己”を、取り戻し掛けている。
で、あるならば。それなら、もしかすると。
俺はまた、“あいつ”に、
「如何なさいましたか、信長さま?はっ、まさか御気分が優れないのですか!?大変です、こ、これは天下を遍く震撼させる一大事です!」
血相を変えて玄関から駆け寄ってくる蘭の騒々しい声で、はっ、と現実に引き戻される。一体どれほどの時間、鏡の前で立ち尽くしていたのか……気付けば先程まで寝巻き姿だったねねも、既に出立の準備を終えた様子で、戸口からひょっこりと顔を覗かせている。本棚の上の置き時計に目を遣れば、何と出立予定時刻を一分ほど超過していた。どうやら夢想に溺れている時間は無さそうだ。俺は全身に力を込めて、際限なく湧き上がる女々しい感傷を無理矢理に頭から振り払う。
「大事無い。多少、物思いが過ぎた」
「然様で御座いましたか。流石は信長様、常に天下国家の計を巡らせる深慮遠謀、蘭如きには欠片も推察すること能いません」
「ふん、当然よ。……無遅刻記録をここで途切れさせるは些か惜しい。往くぞ」
「本当にね、もしご主人の所為でこの私が遅刻するなんて事になったらどう責任を――やめて睨まないで何故にアタマにホオジロザメの歯並びガッ!?」
「ああっ、ねねさんの顔色がディープブルーにっ!」
常と変わらず喧しい従者二人組を引き連れて階段を降り、アパートの玄関口へ。
忘れ物の類が無いか改めて全員で互いの姿をチェックしてから、午前七時四十分、出立。
――さて、今日も騒がしい一日になりそうだ。
織田一家の住むボロアパートは堀之外の一画に位置しており、川神学園とはそれなりに距離がある。故に、通学の際には必然的に幾つかのロケーションを通過する事になる訳で、今現在俺達が歩いている多馬川河川敷もまた、その一つである。個人的には都会の騒がしさから離れた長閑な雰囲気が気に入っている場所なのだが、しかしそのような所にも鬱陶しい喧騒を持ち込む無粋な輩が居るようだ。
俺の前には今現在、実に数十人もの人だかりが出来ていた。制服を見るに間違いなく、全員が川神学園の生徒達である。朝っぱらから賑やかに集まって何を見物しているのか、と彼らの視線を追えば、そこには見知った立ち姿が在った。川神学園の制服を着た一人の少女が、川岸にてガラの悪い男達に取り囲まれている。その数、十三人。成程、これはいわゆる集団リンチ、という奴だろう。男達が揃いも揃ってバットやメリケンサック等の物騒な得物で武装している点からして、傍目にもバイオレンスな雰囲気が溢れている。
「くくっ」
確かにこれはなかなか面白い見世物になりそうだ、どうせなら最前列で見物するとしようか。そんな意図を以って人だかりに向けて悠然と足を踏み出すと、俺の存在に気付いたギャラリー達が瞬時に目を見開いて息を呑み、冷や汗を垂らしながら一斉に道を開けた。そう、それでいい。人々が胸に抱く織田信長への畏怖の念を、総身を以って体感できるこの瞬間は、何度経験してもやはり堪らないものがある。込み上げる愉快さに任せて口元を歪めながら人垣の間を悠々と歩く。そしてギャラリーの最前列に立ち、現在進行中のイベントへと見物の目を向けた。
「クス……女だからって手出さないとか思うなよ」
「俺達は“原点回帰”の“本格派”だからよ。誰だろうとソッコー“ぶちのめす”」
「くっくっく、お、お前は通学路で多くの生徒が見てる中、は、敗北していくのだ」
絶妙に頭の悪そうな連中が絶妙に頭の悪い言葉を女子生徒に投げ掛けている。何とも頭の痛くなるような光景である。他ならぬ女子生徒も俺と同感だったのか、そんな彼らに対して怒るでも呆れるでもなく、ひたすらに面倒そうな気だるい表情で口を開いた。
「あのな、お前ら。私が誰なのか、本当に分かってるのか?」
「分かってんよ。川神百代だべ?俺達の地元、“ちば”まで情報入ってきてるぜぇ!」
「クチャクチャ。だからアイサツに来たワケだよ」
「う、噂ってのは大抵オヒレついてっからさ」
「七浜のチーム、“九尾の犬”を一人で潰したとかさぁ、生意気なガキをボールに見立ててダンクしたとか。いちいち嘘くさいんだよ」
不良どもの意見に同意するのは癪だが、しかし尤もである。女子生徒――川神百代にまつわる数々のエピソードはあまりにも非常識且つ荒唐無稽なものが多く、大抵が笑える程に現実離れしている。あの釈迦堂刑部を師に仰いだ俺ですらも最初は信じていなかったのだから、所詮は武の世界に関わりを持たない一般人である不良連中が噂を疑うのは無理もない話だ。だから、今こそ俺は彼らにこの至言を贈ろう。
事実は小説よりも奇なり。
「お、いいなこの石。特別に教えてやろう、私の最近のマイブームは丁度これくらいのサイズの物体で遊ぶ事なんだ。よっ、と」
百代はすぐ傍に転がっていたサッカーボール大の石を片手で持ち上げた。その行動の不可解さは、忍耐力の欠如した不良どもの怒りを煽るには十分だったらしい。
「ハァ?この女、なに意味ワカンネーこと言っちゃってんの?」
「つーか俺達ムシしてんじゃねーぞコラ。ビビってんじゃねーっての」
「ははは、まあ落ち着け。文句を言うのはコレを見てからでも遅くないぞ?」
百代は中指と人差し指の二本だけで巨大な石を挟み込むと、周囲を囲む男達に見せ付けるようにして宙へと持ち上げた。
「――私はな、こうやって遊ぶのが大好きなんだよ」
怖気の走るような薄ら笑いを浮かべた百代の言葉と同時に、ピシリ、と掲げられた石に罅が入り、それは瞬く間に蜘蛛の巣の如く全体を走って、そして――爆散。木っ端微塵に砕け散り、石の破片が周囲にパラパラと降り注ぐ。そんな、一般常識では凡そ有り得ない光景に、不良どもは絶句していた。
「な、な、なぁっ……!?」
「あー楽しいなぁ。何というかこう、モノを徹底的に破壊する感覚が堪らない。だがまだまだ遊び足りないぞ――うぅむ、どこかに手頃な遊び道具はないものか」
キョロキョロと周辺を見渡した後、百代はギラつく目で男達に視線を移して、そして口元を大きく歪ませて笑う。
「……なーんだ、あるじゃないか。ひーふーみー、私のマイブームにピッタリなサイズがこんなに沢山!なぁ、お前らの柔らかそうな頭蓋を圧し砕くと、どんな感触がするんだろうな?楽しみだ、ああ実に楽しみだ。ふふ、ははははっ!」
不良達の頭部を眺め回しながら哄笑する百代の全身からは、黒々とした禍々しい氣が立ち昇っている。その立ち姿はまさしく絶対的な捕食者のソレで、狂気的な凶悪さとおぞましさに満ちていた。間違っても目の前に立ちたくないと思うのは万人に共通した意見だった様で、不良達は顔色を真っ青に染め上げて後ずさった。
「な、なんだよコイツ、やべーよ!」
「こここんなバケモンの相手してられっか!お、オレは抜けるぜ!」
「ああっ、木更津君!?津田沼君も――ちょっと待って、置いてかないでくれーっ」
その様、まさに蜘蛛の子を散らすが如し。威勢の良い啖呵を切ったのも今は昔、十数人の不良グループは迷わず背中を向けて、全速力で一目散に逃げ去っていった。勿論、川神百代が“その気”ならば敵前逃亡など絶対に許されはしないだろうが、どうやら追い討ちを掛けるつもりは無いようで、百代はその場に悠然と佇んだまま、猛烈なスピードで遠ざかる男達の姿を見送っていた。溢れ出る武神の気迫はもはや露と消え失せ、元の気だるげな表情に戻っている。
「……ハァ。アホくさ。なんでこの私がわざわざこんな面倒な真似をしないといけないんだ、まったく。それもこれもお前の所為だぞ。おい聞いてるのか、信長!」
気配探知の技術においても世界最高峰を誇る武神は、当然の如くこちらの存在に気付いていたらしく、ギャラリーの最前列に立つ俺の方へズカズカと歩み寄りながら声を上げた。
「ふん、俺の知る所ではない。お前が自らの意思で望んだ事だろう、川神百代」
「おいおい、フルネームは他人行儀だからヤメロってずっと言ってるだろ。私の事は尊敬と愛情を込めてモモ先輩と呼べ」
「寝言は寝て言え。他人行儀も何も、他人だ」
「他人?いやいやそれはないだろ信長ぁ、私達は将来を約束した男女の仲じゃないか」
「誤解を招く言い方は止めろ阿呆め」
ニヤニヤ笑っている百代の悪意ある発言のお陰で、主に百代ファンで構成されたギャラリーが俺に向けてドス黒い怨嗟の視線を送ってきていた。どうやら百代への愛は織田信長への恐怖をも上回るらしい。何とも理不尽な話ではあるが、しかしこればかりは俺の殺気を以ってしてもどうしようもない気がする。
「とまあ冗談はさておき。お前は後輩なんだから、偉大な先輩に少しくらい敬意を示すべきだと私は思うワケだ」
「年功序列は唾棄すべき思想、俺は然様に言った筈だがな。ましてや僅か一年の差異如き、まるで取るに足らん」
「むぅ。あーなんだこのナマイキな生物は。もう精神修練とか良いから襲っちゃおうかなー」
「お前の辞書に忍耐の二文字は無いのか?」
「冗談だよ冗談。さっきのヤンキー連中だって、軽く脅しただけで実際に手出しはしなかっただろ?私はちゃーんと我慢してるさ」
陽気に言いながらこちらを見つめる百代の双眸に、以前のような獣じみた欲望の色は見受けられない。絶えず全身から溢れ出していた強烈な戦闘衝動も、出逢った当初に比べると格段に抑えられている。普通に会話を交わしている分には身の危険を感じる事もほとんど無くなっていた。今では血で血を洗う闘争を繰り広げるべき敵同士ではなく、横暴で傍若無人な先輩と生意気で反抗的な後輩――という、以前ならば信じられないほどに平穏無事な関係性に落ち着いている。この人間関係の劇的な変遷が、“変化”の三つ目と言えよう。
「しかし、考えてみればこれで私の禁欲生活も記念すべき一週間目に突入か。うぅむ、こうも闘いと縁が無いのは、やはりどうにも落ち着かないぞ」
むぅ、と口元をへの字に曲げて唸っている先輩は、風間翔一との決闘を終えた後の対談を経て、どうやら自身のサガを抑え込む決意をしたらしい。あの日以降、百代は闘争への並々ならぬ執着を断ち切るべく、“まずは戦闘行為そのものから遠ざかるように”と祖父の鉄心から厳しく言い付けられているそうで、先程の不良達の一件のように闘いを回避する方向に努力を続けている。あの連中が以前の百代に絡んでいたなら、まず間違いなく戦闘衝動の捌け口にされていた事だろう。ちょっとした恐怖体験を味わう程度で済んだのは実に僥倖と言える。
「あー何だか欲求不満でムラムラしてきたな。……おーっと、おねーさんが美少女だからってエロいこと連想してるんじゃないぞ男の子」
「春の陽気に冒されたか。哀れな」
「まあそう照れるなよ青少年。将来的にこのセクシーダイナマイトバディとくんずほぐれつ出来るかもしれないなんて、全世界の男が血涙を流して羨む幸運だぞ。お前はもっと嬉しそうな顔をするべきだ」
殊更に身体を見せ付けるように胸を張りながら、百代は何ともオッサン臭いニヤリ笑いを浮かべている。これまではいつ戦闘を吹っ掛けられるかと神経を張り詰めながら接していたのであまり意識する機会が無かったが、こうして改めてそのボディラインを眺めてみると、何と言うか……色々と反則だった。少女の無垢さと大人の色気を併せ持つ顔の造形。桁外れのバストサイズ。長身で均整の取れたプロポーション、すらりと伸びた肢体。何から何まで完璧過ぎて非の打ち処が無い。神の与え賜うた美とはこういうものか。世界最強なのは武力だけではない、と言い張っても、必ずしも身の程知らずの傲慢とは呼べない。成程、川神学園の頂点に君臨する美女と呼ばれている事も納得である。これで中身が猛獣を子犬扱いする傍若無人な最強生物でさえなければ、学園中どころか市中の男共が放っておかなかっただろうに。などと感嘆しながら無表情で鑑賞を続けていると、ゴホンゴホン、と露骨にわざとらしい咳払いの音が背後から響いた。
「あ、主。もう行きましょう、すぐ行きましょう。これでは早々に出立した意味が――」
早口に捲し立てながらくいくいと制服の裾を引っ張る従者一号。百代はその姿を見た途端、面白い玩具を見つけたと言わんばかりの顔になった。
「うーん、何ともいじらしいじゃないか……カワユイなぁ。よーし、こんな愛想の欠片もないトーヘンボクは放っといて私と火遊びしようじゃないか。それがいい、そうに決まったぞ。ほーら!」
「わひゃぁっ!?」
百代はおもむろに蘭へと歩み寄ると、抵抗を許さない鮮やかな手際でその身体を勢い良く抱き上げた。左腕を背中に、右腕を膝裏に回して相手の体重を支える……まあいわゆるお姫様抱っこの体勢である。周囲の百代ファン(主に女子生徒)が揃って羨ましそうな顔を並べているのが何とも不気味だった。被害者たる蘭は数秒ほど目を白黒させていたが、事態を把握すると、ジタバタと身体を捩って拘束から逃れようともがき始める。
「お、下ろしてください!じょ、女性同士だなんて興味ありませんからっ!うぅうぅ、どうかお助け下さい主ぃぃ」
なんと驚くべき事に、主君に助けを求める従者がここにいた。まあ相手が相手なので仕方がない話だし、救出してやりたいのは山々なのだが、取り敢えず無力な俺にはどうしようもない。世界最強の暴君の手から囚われの女を助け出すのは途方も無い困難を伴うのだ。――というかぶっちゃけ無理である。
早々に従者救出を諦めて傍観モードに入った俺を余所に、蘭は腕の中から逃れようとますます盛大に暴れ出し、百代は頭上にクエスチョンマークを浮かべながら首を傾げていた。
「あれ?こうしてやると娘っ子は喜ぶハズなんだが、おかしいな。抱き方を間違えたかな?」
「おーろーしーてーくーだーさーいーっ!朝方から通学路でこんな、不潔ですーっ!」
「ってこら、ちょ、“氣”まで使って暴れるな!分かった分かった、離してやるから!」
流石は我が一の臣、俺が手を貸すまでもなく見事に自力の脱出を果たしていた。無事に解放された蘭は涙目で俺の背中の後ろへと駆け込んで、ビクビクしながら制服の裾を摘んだ。どうやら問答無用に最強生物な先輩に対して、本格的に苦手意識を持ってしまった模様である。一方、獲物に逃げられた百代はと言えば、実にやるせなさそうな顔で溜息を吐いていた。
「ただでさえ禁欲中で悶々としてるのに、可愛い女の子漁りで発散する事も満足に出来ないとは、ハード過ぎる試練だ……何だか耐え切れる自信が無くなってきたぞ。ああ、可愛い女子成分が足りない!上玉、上玉はいないかっ」
何だか以前とは違う方向に危ない人と化している百代からそっと目を逸らして、周囲の様子を窺う。従者たる蘭の危機一髪で思い出したが、先ほどから第二の従者の姿が見当たらない。何処に消えたのやら、と目で姿を探すこと数秒、後方十数メートルのギャラリーの中にて発見。ニヤニヤと腹立たしい笑みを貼り付けてこちらを見ていた。その顔面にグーパンを叩き込んでやりたいという衝動を覚えると同時に、見慣れない姿がねねの隣に立っている事実に気付く。誰だ、と訝ったのは一瞬、手に携えた棒状の布袋を見た時点で正体は特定できた。いかに川神学園が特殊な人材のバーゲンセール状態と言えど、流石に“国”から帯刀許可を得ている女子高生など一人しか居ない。成程、彼女が黛の。剣聖の娘、か。
「ん、何を見てるんだ信長?……おおっ、結構な上玉が二匹も!マーヴェラスッ!」
ターゲットロックオン。喜びの咆哮と共に、百代の姿がブレる。次の瞬間には、獲物の目の前に立っていた。恐らくは目にも留まらぬ超高速で移動したのだろうが、俺にはテレポーテーションにしか思えなかった。真っ先に被害に遭ったのは、愚かにも自分は安全圏に居ると信じ込んでいた我が従者第二号である。「ぎにゃー!?」と本日二度目の悲鳴を上げて、小柄な身体が抱き上げられた。
「ふはははは、軽い軽いぞ!グラマラスなバディーもいいが、こういうミニマムキュートなのも新鮮で楽しいなぁ。……マズイな、発言に気を付けよう。我ながらちょっとハゲに似てたぞ今の」
「勝手に自省するのは結構だけど、取り敢えず公衆の面前で高い高~いするのはやめくれないかなセンパイ!ああもうどうしてこっちに矛先が向くかなぁ……、ヘルプ、ヘルプミーまゆっち!」
「あわわわわ、私は今、人生で初めて友達に助けを求められています!ままま松風、この果てしなく未知のシチュエーションに私はどう対処すれば!?」
『慌てんな落ち着けまゆっち~、こういう時はアレだ、ホラ深呼吸で気を静めるんだ』
「し、深呼吸ですね!了解しました。すーはー……すーはー……ああ、朝の空気は爽やかで美味しいですね松風」
「うがー!何を呑気にゆっくりしちゃってるのさ!キミ絶対助ける気ないでしょ!」
『いやいやまゆっちは心優しいから友達を見捨てたりはしねーって。か、勘違いしないでよね、別にどう考えても相手が悪いから諦めて時間稼ぎでやり過ごそうなんて思ってないんだから!』
「ツンデレっぽく言えば何でも許されると思ってるその甘ったれた性根を修正してやりたいね!後で覚えてなよ、まゆっちぃぃぃっ」
ねね達が身を呈して百代の注意を引き付けてくれている間に、俺は早々に通学を再開する事にした。これは蘭が服の裾をくいくいと引っ張って訴えかけてくるからであって、別に賑やかで楽しそうなので邪魔をするのは悪いだろうと気を遣った訳ではない。勘違いするなよ、ネコ――などと内心で呟いてみたりしながら、俺は躊躇い無く従者第二号を切り捨てて歩き始めた。
という訳で朝一番から無駄に騒がしい川岸を離れ、通学路へと復帰して河川敷を歩く事しばし、次に到着するロケーションは――多馬大橋。神奈川県と東京都の県境としての役割を果たしている大規模な架橋で、通称は“変態の橋”である。その何とも不名誉なネーミングの由来については、一度でも実際に橋を通過してみれば嫌でも理解出来ることだろう。
「おお、織田か。お早うなのじゃ。高貴なる此方に朝の挨拶を返せる幸福を存分に噛み締めるが良いぞ」
橋に足を踏み入れて数歩進めば、早速、変態一名様とエンカウントした。何の行事も祝い事もない筈の平日に、どういう訳か高級感溢れる鮮やかな和服姿で登校している黒髪団子の女子生徒――その名は不死川心。日本三大名家が一つ、不死川家の御令嬢だ。学園指定の制服の存在に堂々たる喧嘩を売った上での通学が許されている背景には、“彼女の実家が学園に多額の寄付金を提供している”という裏事情が存在している。それを知った時、俺は世に蔓延る全てのブルジョワジーは悉く滅び去ればいいと改めて思ったものだ。しかし、そんな風に個性を全身で主張している不死川心も、実を言うと学園の生徒の中では割と変態レベルは低い方である。コレを見て“まぁまだマシか”という認識を覚えてしまう辺り、川神学園の尋常ならざる魔窟っぷりが良く分かろうというものだった。
「相変わらず不景気な仏頂面をしておるのう。こうして此方の可憐なる麗姿を拝んでおる以上、笑顔の一つも見せるのが道理であろうに」
冗談や自虐の類ではなく、こいつの場合は心底より本気で言っているから侮れない。発言の内容自体は先程の百代とほぼ同じなのだが、アレはあくまで百代が口にするから様になっているのであって――俺は心の全身を改めて眺める。自画自賛するだけの事はあり、不死川心は疑いなく美少女に分類されるべき容姿の持ち主ではあるのだが、なにぶん今回は比較対象が悪い。あの理想の女性像と云うべき肉体を目に焼き付けた直後では、色々と物足りなく感じてしまうのが現実である。主に胸とか――という偽らざる感想を込めて、俺は無言のまま鼻で笑い飛ばす事で心への返答とする。
「うぬぬ、何だか知らぬが許し難い侮辱を受けた気がしてならんぞ……。おい織田、正直に言うのじゃ。お前、何か不躾な事を考えたであろう」
「ふん、下らんな。然様な被害妄想は、己に対する自信の欠如を証明しているに過ぎん。俺はお前の身体に対し、何も思う所なぞ無い」
「……むう、どうも信が置けぬが……まあ良いわ。此方の気品溢れる魅力は万人が認める所よ。ほほほ、お前が認めようが認めまいが事実は変わらぬのじゃ」
心は自信満々に薄い胸を張りながら言い放つ。その根拠の無いポジティブシンキングがいっそ羨ましく思えてきた今日この頃である。
そんな感じで毎日の人生が楽しそうなお嬢様は、俺こと織田信長の友人(?)というポジションだ。ここで疑問符を付けなければならないのは個人的には些か心苦しいのだが、しかし問題が俺自身ではなく周囲の認識にある以上はどうしようもない。と云うのも、周囲の人間は俺と彼女の関係を普通の友人同士だとは捉えていないだろう。恐らくは誰もが“そこ”から一歩踏み込んだ、より深く濃密な関係を勘繰っている――そう、それは例えば。
「おー、ノブナガと金魚のフンだー。やあやあ、おっは~」
腰巾着。虎の威を借る狐。コバンザメ。エトセトラエトセトラ、多種多様な表現が存在するが、まあ結局のところ、つまりはそういう事だった。主に俺が他クラスの生徒に脅しを掛ける際、その背後で威張り散らしている場面が良く見られるため、然様な認識を受ける羽目になっているらしい。加えて、かつての決闘において公衆の面前にて散々に打ち負かした事で、織田信長>不死川心の力関係が生徒達の間に広く浸透していたことも原因の一つだろう。
何にせよ、それらの表現が当人にとって不愉快極まりない蔑称であることは間違いない。という訳で、出会い頭の開口一番から無遠慮な毒舌を飛ばしてきた白髪の女子生徒に対し、心が憤慨と恥辱に顔を赤くして怒鳴り返すのは当然の帰結であった。
「だ、誰が金魚のフンじゃっ!良いか、何度も言っておるが此方と織田は対等な友人で――」
「あれ~、僕ココロじゃなくてランのこと言ってるんだよー?なのに反応しちゃうってことは、ひょっとして気にしちゃってる?ねぇ気にしちゃってる~?きゃはははっ」
「ぬ、ぐぬぬぬぬ……、おのれ榊原小雪、何とも腹立たしい奴よ!よいか、此方を侮辱すれば織田が黙っておらんぞ。にょほほ、我が友に掛かればお前も口を閉じざるを得まい!」
「これ以上なく見事に金魚のフンっぽいセリフだなオイ……。ほらユキもその辺でやめとけ、朝一番からクラスメートをいびっちゃいけません」
やれやれ、といかにも苦労人っぽい表情を湛えながら両者の間に割って入ったのは、陽光を反射する頭部が強烈に眩しい男子生徒。彼は心へのツッコミとフォローを手馴れた調子でこなした後、俺の方へと向き直った。
「よう、お二人さん。ん~、またお前らだけか。残念無念、やっぱねねちゃんは一緒じゃないんだな……ってあの、蘭さん?なんか目が怖いんですけど」
「いえ、ねねさんの名前の呼び方に少なからぬ邪念を感じたもので。準さんの胸の内に心当たりが無いならお気になさらずとも結構ですよ」
「そうか、だったら大丈夫だ。何故ならば、俺の幼女を愛でる純粋な心に、邪念なんてモノは一ミクロンもないと命を賭けて断言できる!」
通学路にて堂々たる大声でロリコンをカミングアウトする男子高校生がそこにいた。果たしてこの国の将来は大丈夫だろうか、と思わず憂慮せざるを得ない光景である。まあ幸いにして川神学園の醜聞に繋がる事だけはないだろうがな――と、無表情ながら目に殺気を漲らせている蘭を見て一安心。この分だと、警察の世話になる前には潔癖な我が従者が情け容赦なく叩き斬ってくれそうだ。
「ふふ、準はお目当ての人に逢えなくて残念そうですが、その点で言えば私は幸運ですね。意中の人に通学路でたまたま出会えるとは、これはもはや運命と言う他ないでしょう」
「然様か。お前の運命は随分と安い様だな」
通学路と通学時間の双方が被っていては偶然も何もないものだ。そして“意中の人”が一体誰なのかは知りたくもないが、取り敢えず横で犯罪者予備軍と戯れている蘭という事にしておこう。精神衛生は大事である。
「おやおや、酷いですね。私の愛は決して安売りなんてしていませんよ。これは、そうですね……言うなれば信長特価です。お買い得ですよ?」
「不要だ。例え千金を積まれても御免被る」
「相変わらずのツンツン振りだ。いつかデレが来ると信じて辛抱強く耐え忍ぶとしましょうか。ふふ、健気な私の一面を垣間見て、好感度が数倍に跳ね上がったでしょう?」
「零に何を掛けても数字は動かぬと知るがいい」
むしろ俺の中ではマイナス方向へと数倍に跳ね上がっただけである。この笑って済まされない性癖さえなければ理知的な常識人と言えるのだが……まさに一つの欠点が全体を台無しにしている好例だろう。川神学園イケメン四天王の一人に数えられる男の、無駄に整ったルックスに目を遣って、心中で溜息を落とす。
何やら一気に面子が増えて周囲が騒がしくなったが、面倒なので纏めて紹介するとしよう。葵冬馬、両刀遣いなイケメン。井上準、ロリコンなハゲ。榊原小雪、電波なウサギ娘。揃いも揃って変態の名に何ら恥じない強者であった。そして悲しいかな、この三人組はエリートクラスたる2-S所属――つまりは俺のクラスメートである。何処へ行くにも何をするにも常に行動を共にしている事から、2-Sの仲良し幼馴染トリオとして校内では割と有名な三人だった。内面はともかく外面は良く、隙あらば全員が自重しない個性を発揮するため、色々な意味で目立つ連中なのだ。よくもまあこうも濃い面子が集まったものだと常々思う。類は友を呼ぶ、とは正しく真理だろう。
「ええい、今日という今日こそは我慢ならぬ!そこに直れ榊原、不死川の高貴なる威光を思い知らせてくれるのじゃ」
「うわーい、チョウチョだ~。待て待て~」
「無視するでないわー!おのれおのれおのれおのれ、どこまでも此方を馬鹿にしおって、今に見ておれ!」
「だからな森谷、何度も言うが俺にはやましい所なんぞない。これは父性にも等しい穢れ無き保護欲なんだっつーの!そうだ、この今月号の水着特集を見れば森谷にも俺の愛が理解できるハズだ――ウボァッ!?」
「つ、通学路でそんなモノを広げないで下さい!不潔です不潔です!」
「はは、皆さん楽しそうですねぇ、何だか羨ましくなってきました。どうです信長、ここはひとつ、私と一緒にキャッキャウフフしてみませんか?」
「貴様はもう口を開くな莫迦め」
かくして2-Sを代表する変人メンバー(但し俺を除く)が変態の橋に集い、周囲を省みない喧騒を撒き散らしながら登校を再開する。ここに最高級の変人レベルを誇る2-S委員長及びその従者が居合わせていれば戦慄のフルメンバーだったのだが、幸いにして周囲にあの目立つ姿は見当たらなかった。今でも十二分に賑やかだと言うのに、あいつらまで加わっては確実に収拾が付かなくなる。
――四つ目の“変化”を、敢えて挙げるとするならば。それは、俺の周囲を取り巻くこの光景そのものだと云えるだろう。
織田信長はその絶対的強者としての在り方から、絶えず畏怖され、恐怖され、敬遠され、排斥されてきた。他者との関わりを持つ事などほぼ皆無に等しく、常に人の輪から外れた孤高の存在で在り続けてきた。故に、曲がりなりにも集団の一員として周囲に溶け込んでいる現状は、俺にとっては人生で初めての体験だ。転入当初からしてみれば完全に想定外の事態で、勝手の違いに戸惑いを覚える場面も多いが――まあ、これはこれで、悪くない。たった一度の学園生活、最初から最後まで一匹狼を貫くのも味気ない話だ。青春物語など間違っても似合わないし柄ではないが、しかし一生に一度くらいはそういう時期があっても良い。望んでも得られない貴重な経験として、有り難く糧にさせて貰うとしよう。
などと頭の片隅で思考を巡らせながら多馬大橋を渡り終え、歩を進めること数分。目的地たる川神学園の古めかしい木造の校門が姿を見せる。
私立川神学園――川神市の代表的な学校で、総生徒数は千人を越える。土日は休みでアルバイトは自由、中間試験は存在せず期末試験が勝負となる。とまあ、ここまでは世間一般の高校と大差ない。この学園の最大の特徴は、その異色の校風にある。“決闘システム”を初めとした独自の校則と学校行事の数々……武道の総本山・川神院の総代が学長を務めている学園だけあって、生徒達の競争を推進する為のルールやイベントで溢れているのだ。学長曰く、生徒達が互いに競い合い磨き合う、切磋琢磨こそが川神学園の教育方針なのだとか。そういった校風に惹かれた野心の強い競争好きや、武家出身の実力者が多く集まる事もあって、かなり独特な雰囲気を有する校内模様が形成されている。ちなみに俺こと織田信長もまた、厳しい環境の中で己を磨く事を目的に転入を果たした生徒の一人だった。一筋縄ではいかない曲者揃いの学園で過ごす綱渡りの毎日は、余所では得られない様々な経験と成長を俺にもたらしてくれる。日々是修行也――胸に抱えた夢を叶えるため、あらゆる困難を乗り越えて研鑽を積み続ける。それが俺の選んだ生き方で、誰にも曲げられない鋼の意志だ。
クラスメートとの平穏な会話に親しむのは良いが、浸り過ぎては堕落に繋がる。厳粛に精神を切り替えていく必要があるだろう。織田信長の心は、常に過酷な戦場に在らねばならない。
「さて」
今日も一丁、気張っていくとしようか。
無表情を保ちながら心中で気合を入れ直して、俺は川神学園の荘厳たる校門を潜った。
俺達がB棟に位置する2-S教室に到着したのは、スピーカーから予鈴の音が鳴り響く直前の八時十分。ホームルームの開始は八時二十分からなので、まだ幾らか時間に余裕があった。何だかんだで努力家の優等生が多い2-Sでは、大抵の生徒がこうした自由時間を活用して予習復習に励んでいる。S組は学園で最も過酷な競争社会、気を抜いて成績を落とせば待ち受けているのは“S落ち”の恐怖である。学年総合成績五十位に設けられたデッドラインを踏み超える事態を避ける為、危険域にいる者は絶えず必死に足掻かなければならないのだ。よって、休憩時間中にクラスメートとの優雅な雑談に興じる事は、己の学力にある程度の自信を有する成績上位者にのみ与えられた特権であると言えよう。そんな訳で、俺と蘭、冬馬と小雪と準の五人は、普段と同じ陣形でダラダラと適度に無意味な会話を交わしていた。
「そういえば、隣の2-Fに転校生が来ると今週頭から噂になっていましたが。信長はその件について何か知っていますか?」
「否。掴んでいるのは、川神市の姉妹都市、リューベックより赴くと云う些細な情報のみよ。有象無象が一匹増えようが、俺には興味が無い故」
「はは、まあ並大抵の人間では信長の興味を惹くのは不可能でしょうね。それにしても、転校生、と言うと今年の初めにあなた達が来た時のことを思い出しますよ。アレは随分と衝撃的な出逢いでした」
「リューベックっつー事はドイツ人だろ。って事はだ、信長の次はヒトラーでも来るのか?はは、大戦が勃発しそうだな……、――げっ、しまった」
「ほう。俺の姓名を揶揄するとは、天晴れな度胸だ。余程、死を望むと見えるな、井上準」
「真剣でスミマセンでしたっ!俺は絶対に死ねない……そう、小さな女の子と一緒に風呂に入るという悲願を達成するまではっ!」
「準さん、カウント壱です。それにですね、独国の独裁者如き、偉大なる主の比類なき威光の前には到底及ぶものではありません!」
「フォローする方向が致命的に間違ってるだろ!というか蘭さん、そのカウントは一体何でしょうか……?途轍もなく不吉な予感しかしないんスけど」
「それは――カウントが規定値に達した時のお楽しみです。フフフ」
「え、なんスかその今までにないイイ笑顔。激しく先行きが不安になってきたんだが……俺、生きて卒業できるよな?」
「くくっ、己がサガを貫いて逝けるならば本望であろう。夢に溺れて死ぬがよい」
「けたけた、お風呂だけにね~。ノブナガに座布団一枚!」
実にならない馬鹿話をしている間にも時間は過ぎて、現在時刻は八時十五分。
始業のチャイムまで五分を残したタイミングで教室の戸が開き、くたびれた雰囲気を全身から発しているヒゲ面の中年男が姿を見せた。その正体は脅威のダブリ二十回を実現させた伝説の学園生――では勿論なく、2-Sの担任教師である。“人間学”という川神学園独特の特殊な授業を担当しているこのオッサンは、俺にとっては転入前からの個人的な知り合いだ。宇佐美巨人という妬ましいほど立派な名前の持ち主だが、しかし基本的に名前で呼ばれる事は稀で、大抵の生徒達にはヒゲだのヒゲ先生だのと呼ばれている。親しみを込めていると取るべきか、単純に舐めていると取るべきかは微妙なラインだ。ちなみに担当している2-Sの場合、残念ながら大半の生徒が後者である。俺の知る限りにおいては疑いなく有能な人間なのだから、覇気とやる気を僅かでも面に出せば評価も変わるだろうに、と常々思う。まあそれが出来ないからこそのヒゲなのだろうが。
「ん?今日は面を出すのが少しばかり早いではないか、ヒゲ。折角の典雅な自由時間に貧乏臭い顔を見たくないゆえ、いっそ遅れて来れば良かったものを」
「あのな。お前さん、あんまり大人ナメてるとその内痛い目見るぞ、いや真剣で。ほら、例の転校生が来るって事で、お隣の2-Fは普段より早めにホームルームを始めるワケだ。そうなると小島先生狙いの俺が一緒に付いて来るのも当たり前。ま、そういうこった」
「ホホホ、相変わらず無駄な足掻きをしておるようじゃの。最初から脈など無いと云うに、哀れなものよ」
「うっせ、オトナの恋愛にガキが知ったような口利くんじゃねーっつの。こういうのは地道な積み重ねが大事なんだよ。一見成果が無いように見えても、めげずにアタックを続けてりゃ嫌でも視界に入るもんだ。いいかお前ら、好きでも嫌いでもいい、まずはどうにか相手に興味を持たせないと何も始まらねぇ。アウトオブ眼中ってのが一番マズイ――この言葉を覚えとけば将来役に立つぜ、真剣で。オジサン保障しちゃう」
何やらオッサンが熱弁しているが、残念ながらクラスの誰もが完全にスルーしていた。しかしそれは、その話の内容が全く興味を惹かない傾聴価値ゼロと云うべき代物だった事だけが原因ではなく――皆の注意力が一斉に、完膚なきまでに別の方向へと吸い寄せられていたからであった。現在、2-Sの全員がとある一点、すなわち教室の窓の外に広がるグラウンドを注視している。勿論、俺も含めて、である。
さすがに“アレ”の存在を無視できるほど、俺の神経は図太くない。
「―――クリスティアーネ・フリードリヒ!ドイツ・リューベックより推参ッ!この寺子屋で今より世話になる!!」
校門に面する第一グラウンドの中央にて、良く透る流暢な日本語で高らかに名乗りを上げているのは、流れるような金髪が美しい、ティーンエイジャーの欧州人と思しき少女であった。本人がわざわざ名乗ってくれている通り、その素性は明らかだ。彼女こそが噂の転校生なのだろう。取り敢えず本当にヒトラーではなかった事には安堵したが、しかし名前などよりもよほど重大な問題が彼女には存在している。具体的には、少女の腰から下の部分。
馬である。
とは言っても無論、ケンタウロスが現実世界に出没した訳ではない。
少女は白の毛並みを陽光に煌かせる駿馬に跨って、グラウンドを堂々と闊歩していた。
「ここが今日から自分の学び舎か。……自分の他に馬登校はいないのだろうか?」
いる訳ねぇだろ、と2-Sの生徒一同が心を一つにした瞬間であった。日本の交通法を如何考えているのか小一時間ほど問い詰めてみたいものだ、と心中で盛大に溜息を吐いていると、校門から新たな登校者が出現する。誰あろう、その正体は未だ教室に姿を見せていなかった2-S委員長、九鬼英雄であった。2-Sはおろか学年に君臨するトップクラスの変人は、今日も今日とて従者のメイドにゴージャスな人力車を曳かせて爆走中である。
「フハハ!転入生が朝から馬で登校とはやるな!」
「おはようございますっ☆」
「それは……ジンリキシャ!さすがはサムライの国だな!」
クリスティアーネと名乗った転校生の少女は嬉しそうに目を輝かせて、英雄が悠然と腰掛けている装飾過多な人力車を注視している。
「うむ。そして我はヒーロー、九鬼英雄である!」
「自分はクリス!馬上にてご免」
「我が名は九鬼英雄、いずれ世界を統べる者だ!この栄光の印、その目に焼き付けるが良いッ!!」
「おお、まるで遠山!」
スーツの背中を飾る紋様を見せ付ける英雄に、少女はますます興奮した様子で目をキラキラさせていた。
そんな少女の姿に、俺は戦慄が身体を走り抜ける感覚を味わった。
莫迦な、この少女――英雄のテンションについていけるばかりか、会話が正確に咬み合っている、だと……?
俺はこの世の奇跡を目の当たりにしているのだろうか。俄かには現実として受け入れがたい夢幻の如き光景を前にして、ついつい思考を停止させている間に、少女の姿は白馬と一緒にグラウンドから消えていた。残された蹄の跡を見る限り、そのまま校舎へと入っていったのだろう。
『…………』
2-S教室を奇妙な沈黙が包み込む。色々な意味で想像を絶する転校生の出現に、誰もが衝撃を隠せていなかった。無理もない話である。俺は人生の中で非常識な連中を数多く見てきたが、あそこまで強烈なインパクトを残す登場などそうそうあったものではない。あの少女、まず間違いなく特上の変人だろう。故に、ショックから立ち直った面々が次に思う事は一つだ。
「あー。……俺らのクラスじゃなくて良かったな」
準の漏らした切実な呟きに、またしても心を一つにして頷く2-Sメンバーであった。
その後、どうにもグダグダな雰囲気のまま始まったホームルームにて、俺はひとり思考を巡らせる。
「……ふん。クリスティアーネ・フリードリヒ、か」
遠目に見ただけではいまいち測り切れなかったが、何処か油断のならない雰囲気を宿していたような気がする。そして何より見逃せないポイントとして、彼女の転入先である2-Fは、あの“風間ファミリー”の根城だ。或いはこれからの学園生活の中で、新たな障害として俺の眼前に立ち塞がる可能性も考えられるだろう。……まあ、その時はその時で、織田信長を育む糧となって貰うだけの話だが。あらゆる困難と障害を乗り越えて経験を積む事で、俺の力は研磨されるのだから。
…………。
……後になって振り返ってみれば、随分とまあ呑気な事を考えていたものだ。
神ならぬ身に不透明な未来は見通せない以上、致し方ないとは云え――思えば危機感も心構えも、何もかもが不足していた。過去の自分に警告を送れるものならば、是非ともそうしてやりたいと思う。
ドイツ・リューベックより来襲した転校生、クリスティアーネ・フリードリヒ。
彼女の存在が、只でさえ波乱万丈な織田信長の学園生活に、更なる大波乱を巻き起こす事になるとは――この時の俺には、知る由もなかったのであった。
~おまけの1-S~
「ははーん、見たわ見たわ、私は見たわよ、ネコ」
「藪から棒に何を言い出しちゃってるんだいキミは。春の陽気に脳をやられちゃったのかな?っていうかネコゆーなムサコッス」
「ムサコッスゆーなネコ。――はぁ、もうやめない?このネタで互いを貶し合っても虚しいだけだし。何より不毛だわ」
「まあその点については全面的に同意するとして。話を戻すけど、何を見たって?」
「朝の通学路で、あんたが1-Cの黛由紀江と一緒にいる所を、よ。ふふん、私のプレミアムな目は誤魔化せないわ」
「別に誤魔化そうなんて端から思ってないんだけどね……で、それが何かキミに関係あるのかな?」
「大有りに決まってるわ!黛由紀江には私を保健室送りにしてくれた恨みがあるのよ。あの屈辱は絶対に忘れないわ……。大体、プレミアムな私に危害を加えたって事はつまり、1-Sの敵じゃないの。昨日の今日で何を仲良さげに話しちゃってるわけ?」
「はぁ、キミもやたらと面倒な性格してるよね。危害って言っても、あれは私から見れば正当防衛以外の何物でもないと思うけど。まあそれは別として、私は今、彼女をウチのクラスに勧誘中なんだよ。何せ家柄も能力も申し分ない。このまま程度の低い1-C如きに埋もれさせておくには勿体無い人材だ。将来的には1-Sのホープに成り得る存在なんだから、キミ達も彼女には親しく接してくれないと困るね。みんな分かった?分かったよね?友達の聞分けが悪いと私、悲しくなっちゃうからさ。特に小杉ちゃん、彼女が来たらナンバーツーの地位が危ういからって、間違っても邪険にしちゃダメだよ」
「はん、誰がそんなコト。心配しなくても二度とあんな醜態を晒す気はないわ。いつまでもそんな風に余裕でいられるとは思わないことね――私のプレミアム・プランが本格的に始動すれば、ナンバーワンの座はすぐに私のモノとなる。首を磨いて待っているといいわ!」
「はいはい、三ミリくらいは期待して待っててあげるよ」
「くっ、やっぱプレミアムにイラッと来るわね……高い高~いされて喜んでたお子様の癖に」
「アレが喜んでいた様に見えるって言うならキミの目は節穴以下だね。私の面子に関わる不本意極まりない事態だよ。けど流石に仕方ないでしょ、相手が相手なんだし。あの理不尽の塊みたいなセンパイとマトモに張り合えるのはご主人くらいのものさ。――あ、さっき笑った奴は全員、後で屋上まで来てね。地上三階で好きなだけ“高い高い”を体験させてあげるからさぁ。キミ達がいつまで笑っていられるか見物だよ。ちなみにトップバッターはカニカマで」
「何故ッスか!?自分、ボスを笑うなんて命知らずなマネは死んでもしないッスよ!断固説明を要求するッス!あと自分はカニカマじゃなくて可児鎌――」
「キミの無駄にデカい図体を見てると、何だかあのやりたい放題なセンパイを思い出して苛々するから。ほら、十分な理由でしょ?」
「八つ当たりは良くないってウチのバアちゃんが言ってたッスよ!横暴過ぎるッス~!」
という訳で、新章開始。ようやく正式なクリス登場まで漕ぎ着けました。長かったなぁ。
今回は顔見せがメインなので文量の割に話が進んでいませんが、次回からはもう少しテンポ良く進めたいと思います。
それと、既に気付いた方がいるかもしれませんが、百代の不良撃退のイベントについて。これは実のところ原作ではクリスの転入より数日ほど前の出来事(“人間テトリス”と言えば覚えている人も多いかも)なのですが、その辺りは話作りの都合で少しばかり時間軸を弄らせて頂いています。今回以降もこうしたパターンはちらほら見受けられるかもしれませんが、広い心で見逃して頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。