四月八日。目覚まし時計のけたたましいアラーム音にせっつかれ、午前六時十分、ほぼ日の出と同時に起床。
天井に向かって背伸びをしつつ、ベッドの横にあるテーブルの上に目を遣れば、そこには焼き上がったばかりのトースト及び目玉焼きが温かい湯気を立てている。
俺の起床時間を完全に計算し尽くして、冷めないようギリギリの時間に朝食を用意する―――もはや匠の技とも言えるその完璧なまでの気配りは、間違っても完璧とは呼んでやれない我が従者、森谷蘭によるものだ。
あいつは毎朝、鍛練のために俺の一時間以上前には活動を開始する。
せっかく起きている以上、主の朝食を用意するのは従者として当然の務めです、とは蘭の台詞である。なんともまあ涙ぐましいまでの忠誠心だ。
「御馳走様、だ」
そんな忠誠心の結晶を低脂肪牛乳でさっさと胃袋に流し込んで、手早く運動着に着替えると、俺は部屋の外へと足を踏み出した。
老朽化が激しいアパートのギシギシ軋む階段を慎重に降りて、中庭へ。
「お早う御座います、主!主の臣下として恥じぬ己となるべく、蘭は本日も鍛練に励んでおります!」
「良い心掛けだ。励め」
「ははーっ!有難き幸せにございます!」
尻尾の代わりに鍛練用の木刀をぶんぶんと振って喜びを表現する蘭。朝っぱらからテンションの高い従者である。
俺とその忠実なる従者、森谷蘭は、堀之外の片隅にひっそりと佇むボロアパートに居を構えている。
いかに主従であるとはいえ年頃の男女が一つ屋根の下で暮らすのは色々と問題があるので、流石に部屋は別だ。
基本的な常識やら何やらに欠ける蘭は相部屋を希望していたし、そうした方が経済的に助かるのもまた事実なのだが、部屋の面積の関係上ベッドが二つ以上は入らない現実を考慮すれば、それは却下せざるを得なかった。
あくまで俺は健全な男子高校生なのである。到底理性なんて曖昧で惰弱極まりないものを信頼できる年齢ではない。
結局のところ、蘭が俺の隣の部屋に陣取ることでひとまず話は落ち着いたのだが。
それ以降、朝食の用意を含め、掃除洗濯等の家事も蘭が一手に担っている。
ここまでされると俺としても罪悪感を覚えたり覚えなかったりするのだが、まあ本人が喜んでやっているのだ。黙って世話を焼かれるのが主たる俺の役割だろう、と開き直ってみる。
俺の住居に関しては、まあそんな感じだ。貧しいながらも、不幸ではない。少なくとも昔の俺には、とても考えられない状況だった。
「さて。時間が惜しい。始めねば」
一心不乱に木刀の素振りを続ける蘭の横で、俺は適当に身体を動かし始める。
見ての通り、俺がこうして中庭に降りてきたのは、早朝より鍛練に励む勤勉な従者に檄を飛ばすため―――では勿論なく、俺自身の鍛練のためである。
織田信長の最大の武器はあくまで、見せ掛けの威風と紛い物の殺気による威圧だが、しかし身体を鍛えておいて損をする事はない。
さすがに片手間程度の鍛錬で蘭のような人外レベルまで成長するのは不可能としても、ある程度の身体能力は必要だろう。
何せ世界は広いのだ。俺の遭遇する“敵”が、口先と威圧だけで屈伏してくれる相手ばかりとは限らない。
そういう訳で、一日一時間のトレーニングは俺の日課に組み込まれているのだ。
そんな自分の心掛けに感謝する瞬間が刻一刻と近付いている事を知る由もなく、俺はいつもと同様に軽く汗を流す程度の鍛練を続けるのであった。
「それでは主、参りましょう。転入早々遅刻などしては、信長様の名に傷が付いてしまいます」
「承知している。往くぞ、蘭」
「ははーっ!私めはどこまでもお供致します!」
午後七時三十分、蘭に二人分の鞄を持たせて登校開始。
俺達の住む堀之外から川神学園まではやや距離があるが、徒歩通学が不可能なほどではない。時間に余裕がある限り、俺も蘭も自転車は使わないつもりでいた。
爺臭いと言われるかもしれないが、事実として朝の散歩は健康維持に貢献してくれるのだ。
のんびりと周囲を睥睨し、通行人(主に学生)を脅かしながら歩いて行けば、やがて川神学園の正門が姿を現す。
――――さて、ここからが本番だ。気合を入れていくとしよう。
身に纏う威圧感のレベルを校内用のものに切り替えてから、俺は門の内側へと足を踏み入れた。
昨日のスケジュールは始業式とホームルームのみだったので、川神学園にて授業を受けるのは今日が初めてとなる。
そして、ここで驚くべき発見が一つ。
何と2-Sクラスでは授業中、誰一人、何一つとして私語をしないのだ。居眠りをしている生徒も皆無で、全員が真剣な様子で教師の話に耳を傾け、黙々とノートを取っている。
新学期が始まったばかりのこの期間、気が緩んでもおかしくはなさそうなものだが……その辺りは流石に特進組と言ったところか。素直に感心した。
ちなみに授業内容自体は俺にとってはさほど難しいものではなく、真面目に取り組んでさえいれば問題なくついていけそうなレベルだった。
意外に思われるかもしれないが、俺も蘭も勉強にはそれなりに自信がある。もっとも、そうでもなければ初めからS組の編入試験をパスできる筈もないのだが。
今まで堀之外の底辺私立校で一年を過ごし、まともな授業とは欠片も縁のなかった俺と蘭。
そんな俺達がいきなりエリート集団の特進組に混じってやっていけるのかと不安に思う事もあったが、この分だと案外どうにかなりそうだ。
底辺校における学年一位という微妙過ぎる地位に甘んじず、独学で勉強を続けていた甲斐があったというものである。
そうこうしている内に時間は過ぎて、四限の終了を知らせるチャイムが鳴り響く。それは校内全ての人間に等しく憩いをもたらす時間、即ち昼休みの到来を意味していた。
早速、弁当(蘭が朝一で用意した)を鞄から取り出そうとしていた俺に、ふらふらと近寄ってくる人影が一つ。
「やー」
「……またお前か。何の用だ、榊原」
「榊原じゃなくてー、ユキだよーん。名字で呼ばないでって言ったのに、ひどいんだ~」
予想通りというか何というか、榊原小雪であった。俺に声を掛けるような物好きな人間は限られているので、特定は容易である。
ちなみに昨日は学校案内でそれなりに行動を共にしたこの少女だが、未だにまるで性格が掴めなかった。
今こうして言葉を交わしてみても、何を考えているのか判然としない。
彼女について理解できる事があるとすれば、電波ゆんゆんな不思議ちゃんであると言う事と、マシュマロが大好物であると言う二点のみだ。
もっとも、前者については初対面の時点で直感的に分かっていたことなので、彼女との接触で俺が得た具体的な知識など、実質的には好物くらいのものだろう。
「おー。この弁当からはものっそいおいしそうな匂いがするよ~」
小雪は机の上に広げられた俺の弁当箱を、じろじろと覗き込みながら言った。
「よーし、食べちゃえ。ひょいぱく」
「ああああ!?」
可愛らしいタコさんウィンナーを小雪がおもむろに摘み上げ、口に放り込んだ瞬間、悲鳴のような声が上がった。
勿論言うまでもないが、俺が発したものではない。発生源は後ろの席に陣取る我が従者、森谷蘭である。
「わ、私が主の為に丹精込めて作ったお弁当になんて事を!そのタコさんウィンナーにどれほどの気持ちが込められているか、貴女に想像が」
「こっちもおいしそ~。ひょいぱく」
「ああっ!主の健康を祈りながら握った梅干しおにぎりがぁっ!お、おのれ榊原小雪、これ以上の狼藉は見過ごせませんよ!」
がたん、と音を立てて椅子から立ち上がり、ぷんすか怒りながら小雪に詰め寄る蘭。
蘭は基本的に温和で礼儀正しく、人当たりも良い常識的な人間なのだが、少しでも俺の事が絡むと頭が瞬間沸騰するから困りものだ。
ぎゃーぎゃーと喧しく言い争う二人(蘭が振り回されているだけだが)の様子を完全に他人事として見物しながら弁当を食していると、見知った顔が近付いてきた。
「あー、どうもユキが迷惑掛けてるみたいだな。悪気はねぇと思うから許してやってくれ」
「ふん。俺はそもそも怒ってなどいない。莫迦な従者が勝手に暴走しているだけの話」
「そう言ってくれると気が楽になるね、マジで。やれやれ、ちっとばっかし自由過ぎるんだよな、ユキは」
そう言うと、井上準はいかにも苦労人と呼ぶに相応しい表情で溜息を吐いた。
実態がまるで掴めそうにもない小雪とは違って、準の方は割と分かり易い性格をしていると思う。
面倒見が良く細かい気配りができる常識人で、2-Sにおけるポジションとしては貴重なツッコミ役。
必然的に奇人変人連中に全力で振り回される事になる、実に気の毒な立場である。
「しかし。榊原小雪ほどではなくとも、お前も度し難い奴だな。わざわざ自分から俺に近寄ってくるとは。お前は俺を警戒していただろう」
「あー、まあな。俺としてはあんたの事は正直おっかねぇと思うが、余計な真似をしてくる相手以外にまでわざわざ危害を加えたりはしない――俺の見た感じ、あんたはそういうタイプの人間だと思うんだよな。見当違いなこと言ってたらスマンね」
「……」
何も言わず何も表情に出さなかったが、内心で俺はかなり感心していた。
たった一日の付き合いで、本当に良く見ている。
無表情と殺気に惑わされ、何年掛けても俺の実態を掴めず右往左往する人間など掃いて捨てるほど居ると言うのに、この男はどうだろう。
昼行燈然とした普段の態度には似つかわしくない慧眼。一見しては判らない“何か”を隠し持っているような、そんな気がした。
「ふん。見当違いとは言わん。が、的外れではあるな。俺は向こうから仕掛けて来ようが来まいが関係なく、視界に入った障害物は悉く排除せねば気が済まん。そんな人間だ」
「あー。そういや自己紹介の時に言ってたな、そんなこと」
「お前が真実、葵冬馬と榊原小雪を守護したいと願うなら。精々、俺にとっての障害とならんよう振舞う事だな。井上準」
「……御忠告、感謝するぜ。肝に銘じておく」
シリアスな表情を見せたのは一瞬。準は肩を竦めて、飄々と言葉を返した。
これだけ釘を差しておけば、少なくとも準本人は俺に妙な真似を仕掛けようなどとは考えないだろう。あわよくば、他の好戦的な連中が俺に対して行動を起こそうとした際、そのストッパーになってくれれば御の字である。
「ところで。葵冬馬は如何した?見当たらないが」
「若なら今頃、英雄の奴と一緒に2-Fに行ってる筈だな。野暮用でね」
「英雄?」
「九鬼英雄。うちのクラスに金ぴかのスーツを着てるやけに偉そうな奴、いるだろ?あいつだよ」
「ああ。アレが九鬼財閥の御曹司とやらか」
九鬼英雄。
従者たる蘭を筆頭に、俺も結構な数の変人と接してきた自信があるが、あそこまで突き抜けたレベルの変人には未だかつてお目に掛かった事はない。
没個性が推奨される現代日本において、あのような人材が存在している事に奇跡を感じる程だ。
叶うならば金輪際お近付きにはなりたくないものである。天然記念物とは遠巻きに鑑賞するものであって、決して触れ合うべき存在ではないのだ。
しばらく準と適当に会話を交わしながら弁当を消化していた俺だが、ガラリと戸が乱暴に開けられる音に、注意を教室の入り口に向ける。
「あーあ……ったく、やれやれだ。一子殿一子殿と、英雄さまもあんな色気の無い小娘のどこがいいのか」
えらく不機嫌そうに毒づきながら教室に入ってきたのは、メイド服を着込んだ目付きの悪い女。
俺の記憶が正しければ、先程話題に上がった九鬼英雄の従者の筈だ。
自己紹介の際に俺が出した殺気にほとんど動じなかったどころか、逆に威圧を返してきたので印象に残っている。名前は確か、忍足あずみ、だったか。
「げっ。英雄はまだ2-Fに残ってんのか。まずい、という事は……」
「……あ?何見てんだハゲ。あたいは今、猛烈に虫の居所が悪いんだ。もしかすると、何か食ったら収まるかも知れねぇなー。って訳だ、タマすり潰されたくなかったらさっさと焼きそばパン買ってこいや」
「あぁー、はいはい行くよ行きますよ……。で、あのー、代金は」
「ツケとけハゲ」
ドスの効いた低い声に、猛獣の如くギラついた目。明らかに素人ではなかった。準の腰がこれでもかと言う程に引けているのもまあ無理はない。
天下の九鬼財閥御曹司付きのメイドともなれば、やはり特殊訓練でも受けた精鋭にしか務まらないものなのだろうか。
そんな呑気な思考を行いながら問題のメイドを観察していると、唐突にその視線が俺を捉えた。猛烈に嫌な予感がしたが、時既に遅し。
俺が何かしら行動を起こすよりも先に、忍足あずみは窓際に位置する俺の席まで一直線に歩み寄っていた。
「おい、てめぇ。――てめぇだよ、転入生。聞こえてんのなら返事しろボケ」
「……。食事の邪魔だ、用件があるなら手早く済ませるがいい。時間を無駄に使わせるな」
流石に机の正面に立たれてしまっては無視する訳にもいかず、渋々ながら俺は口を開いた。
普通に考えれば喧嘩を売られているとしか思えないであろう俺の態度に、案の定あずみは怒りのあまりか頬を引き攣らせる。
座っている俺を見下ろすように睨み据える彼女の目には、紛れもなく本物の殺気が込められていた。
幼い頃から幾多もの修羅場を潜り続けてきた俺だからこそ、分かる。
これは一線を踏み越えた輩の気配。――殺人者の眼だ。
それも、恐らくは一人二人どころではないだろう。今に至るまでどれほどの地獄を潜ってきたのか、想像も出来ない。そんなレベルの存在であった。
「……ふん」
だがしかし。織田信長の威信を守る為には、ここで退く訳にはいかないのだ。
ほぼ初対面であるはずの彼女が何故いきなり敵意剥き出しで突っ掛かって来るのかは知らないが、事情の詮索など所詮は二の次である。
挨拶には挨拶を。殺意には殺意を返すのが、礼儀というものだろう。
俺もまた彼女に視線を向けると、練り上げた殺気を容赦なく叩きつける。視線が交錯し、殺気と殺気が衝突し、俺達の周囲の温度が急速に下がっていく。
俺達のすぐ傍で巻き込まれた準は、あずみとはまた違った意味で頬を引き攣らせていた。
いつの間にか、水を打ったように教室中が静まり返っており、生徒達は固唾を飲みながら状況を見守っている。
「…………」
そんな中、蘭が静かに席を立ち、無言のままに俺とあずみとの間に割り込む―――その寸前に、俺は蘭にアイコンタクトを送った。
手出し無用、という意味である。蘭は僅かに眉をひそめて、いつもの如く俺の三歩後ろに控える。
「何用か、と訊いている。用が無いなら早々に失せろ」
「用事ならあるさ。てめえみたいな化物は、さっさと2-Sから失せろっつってんだ」
「論外だ。故に却下する。さて、用は済んだ筈。疾く去ね、血の匂いで飯が不味くなる。不快だ」
「血の匂いだ?はっ!てめえが言えたセリフかっての。どういうつもりでここに入ってきたのかは知らねぇが……もし英雄さまに指一本でも触れやがったら、原型なんざ残らなくなるまで、あたいが徹底的に潰す。そいつをアタマに叩き込んどけ」
「ふん。潰すだと?誰が、誰を?己を弁えぬ発言は自らの首を締めるぞ」
うわなんなんですかこのメイドマジおっかねぇんですけど、と内心にて盛大に冷や汗を掻きながら、俺は堂々と余裕に満ちた台詞を吐いてみせた。
自身の発言に則るならば、今現在自らの首を絞めているのは間違いなく俺の方だろう。
この忍足あずみというメイドが只者でない事は分かる。が、重要な問題はそこではない。
それこそ川神鉄心のような人外でもない限り、「個人」を相手にするのはそう難しい話ではないのだ。
この場合、真に厄介なものは、彼女の背後に存在するであろう九鬼財閥の勢力である。
「組織」を相手取るとなれば、個人を相手取る場合に比べて、必要となる手間の大きさは凡そ数十倍にも膨れ上がる。
今回の場合、九鬼財閥の組織としての規模の圧倒的な巨大さを考えると、数千倍が妥当なところか。
何にせよ、まともに敵対するのは無謀もいいところである。
だがしかし、目の前のメイドさんはやけに好戦的というかなんというか、どこからどう見ても俺を敵として認識している訳だ。
彼女の性格と織田信長という男のキャラクターを考慮すれば、ここから両者の間に友好的な雰囲気を作り出すのは不可能だろう。
となれば、行き着く先は血で血を洗う闘争。
さて……果たして俺はどうしたものやら。俺の辞書に後退の二文字は無い。だが、無謀の二文字も同様だ。
考えろ、考えろ、考えろ。現時点における、俺にとっての最善の選択とは、何だ?
「フハハハハ、英雄の帰還なり!庶民共よ、拍手で迎えろ!」
そんな俺の思考をジェンガの如く派手にぶち壊すハイテンションな叫び声。
「お帰りなさいませっ!英雄様☆」
ぱちぱちぱち、とやけに虚しく鳴り響く一人分の拍手。いつの間にやらメイドさんのキャラが五百四十度ほど方向転換しているのは俺の気の所為だろうか。
「……奴が」
「ああ。あいつが九鬼英雄だ」
色々と強烈なインパクトのあまり思わず呟いた俺に、準がどことなく遠い目で相槌を打った。
一瞬にしてクラス中の視線を一身に集めたその男は、室内に充満した薄ら寒い空気など気に留める様子もなく、堂々と教室に足を踏み入れた。
悪趣味過ぎてもはや指摘する気さえもどこかへ失せる金色スーツを制服代わりに着用しているこの男が、九鬼財閥の御曹司か。
「……ふん」
なるほど。成程成程。
こういうタイプの人間ならば、或いは「あの手段」が使えるかもしれない。
どうしても賭けの要素が強くなってしまう上、安全性にも欠ける為、可能な限りは用いたくなかった手段なのだが、事ここに至っては仕方があるまい。川神学園を舐めて掛かったツケだと思う事にしよう。
「おや……。何やら様子がおかしいですよ、英雄。私達が居ない間に何事かあったようですね」
九鬼英雄の後から続いて教室に戻ってきた葵冬馬は怪訝な表情を作る。
教室をざっと見渡して、窓際の席にて向かい合う俺とあずみの姿を確認すると、「ああ、なるほど」と何やら納得したように頷いた。何故そこで納得するのか、一体何をどんな風に納得したのかが気になる。
「む?どうしたのだ、あずみ。何事か揉めているようだが。部下が抱える問題を解決してやるのも王たる者の務め、遠慮などせず我に話してみるがいい!」
「さすがは英雄さま!王者の鑑でございますねっ☆でも、大丈夫です。問題は何も――――」
「そう。問題は何もない。従者の躾も満足に出来んような主君の器など知れている。であれば、語るだけ無駄と言うものだろう」
朗らかに答え掛けていたあずみの表情が、そのままの形で凍り付く。
それでも、主の前ではよほど分厚い猫を被っているのか、あくまでにこやかな笑顔は崩さなかった。目は全く笑っていなかったが。
さて。ここからが正念場だ。
俺に真正面から喧嘩を売られた形となった九鬼英雄は、意外にも怒る素振りは見せず、ただ興味深そうな顔で俺を凝視した。
「む、昨日どこぞから転入してきた庶民……確か名は、織田信長だったか?」
「俺の姓名を続けて呼ぶな。それ以外であれば許容しよう」
割と威圧感を込めて睨みつけたにも関わらず、英雄はまるで動じた様子もない。単なる馬鹿なのか、或いは器が大きいのか。何とも判断し辛いところだ。
「フハハ、この我を前にしてその気迫、やはり面白い!庶民にしては上出来よ、褒めて遣わす」
「俺を見下すな。不愉快だ。己のみが人の上に立つ存在ではないと、知れ」
「なるほど、そう言えばお前は我と同じく、従者を抱える身であったな。もっとも、我と貴様とでは主君としての格に些か差が有り過ぎるであろう。フハハハ、多少は骨があるとは言えど所詮は庶民、選ばれし者である我と競おうなどとは笑止千万!」
よし来た。俺は内心にてガッツポーズを決める。俺はまさしくこの言葉、この展開を待っていたのだ。
九鬼英雄が俺の推察通りの人間だとすれば、此処まで来て風向きが変わる事はあるまい。
俺は口元に冷笑を貼り付けて、嘲るような目を英雄に向けながら言った。
「ふん。ならば。試してみるか?」
「ぬ?」
「口先では何とでも言える。結果と実力が伴わねば、言ノ葉は虚しく宙を舞うのみ。認めさせたければ、証明して見せるがいい」
「分からん奴だ。我がわざわざ証明するまでもなく、そんな事は――――」
「ほう。成程、九鬼の御曹司は敵前逃亡が得意、か。大言壮語の末がその様では、先程の過剰な謙遜の理由も良く解る。確かに俺とお前とでは、“主君としての格に些か差が有り過ぎる”ようだ。くくく」
小馬鹿にするように笑いながら言い終えた瞬間、英雄の傍に控えるあずみから凄まじいまでの殺気を感知した。
正直、冗談抜きで肝が冷えたが、まさかいきなり手は出して来ないだろうと自分に言い聞かせて全力で無視する。
今現在、俺が集中すべき対象はあくまで九鬼英雄である。
どれほど危険な実力者であろうと、部下であるあずみは所詮、英雄の命令のままに動く手足に過ぎない。命令を下す頭を押さえてしまえば、自由には動けなくなる。
さて、どう出る九鬼英雄。
庶民風情にここまで挑発されて、王者を自負する程に驕っているお前のプライドは耐えられるのか?
―――――否、そんな筈はない。
「うぬぬ……、こうまで言われては、我としても黙って引き下がる訳にはいかんな」
「その言葉。挑戦を受ける、と解釈するが」
「当然であろう。庶民共に我の王者たる証を改めて示し、そして一子殿に我の勇姿をご覧になって頂く機会でもある!まさしく一石二鳥ではないか、フハハハハ!」
自分が敗北する事など欠片も考えてはいないのだろう。愉快げに哄笑する英雄の表情に、不安の影というものはまるで見られない。
その底抜けな能天気さに呆れると同時に、少しだけ羨ましいと感じる自分がいる。
この男は、面倒な芝居も億劫な策略も陰鬱な計算もなく、己の心の命ずるがままに生きているのだろう。
それは或いは生まれ落ちた環境の差。それは或いは、生まれ持った才能の差。
地面を這い蹲って必死に生きている人間にとっては、直視に耐えない星光のような男。
だからこそ俺は、全ての打算を抜きにしても、ただこの男には負けたくないと、そう思った。
「まず。参加者はお互いの主従、各二名。それには文句はないな」
「うむ。主従の格差を示す為なのだから、当然そうでなくては始まるまい」
「……確かに。承りました」
「私が英雄さまをお守りするのは当然ですっ☆」
今まで口を挟まず、静かに事の成り行きを見守るようにしていた従者の二人が、それぞれ口を開く。
蘭は普段の浮付いた調子が掻き消えた、凛とした口調で。あずみは猫を被りまくった不自然に可愛らしい口調で、己の意思を示した。
それを確認してから、俺は再びルール説明を続ける。
・得物としては、レプリカ武器の使用を許可。
・それぞれの主が相手側の従者から一撃でも攻撃を受けた時点で、その組の敗北と見做す。
・第一グラウンドをバトルフィールドとして利用し、外に出た時点で失格と見做す。
「……以上。即興で考えたルールだが、不満及び疑問点はあるか」
「うむ、我はそれで構わんぞ。どのような条件であろうとも、我が勝利の栄光を手にする運命は初めから定められているのだからな!そうであろう、あずみ!」
「まさにその通りでございます、英雄さまぁぁぁ!はいところで、一つだけ質問いいですかー?」
いっそ不気味な程、にこやかな表情であずみが手を挙げた。
「主君が相手側の主君に直接、攻撃を仕掛けるのはアリなんでしょうかぁ?」
「無論。但し、決着と認められるのはあくまで何れかの従者が敵方の主に攻撃を命中させた場合のみだ」
「……そーですか、分かりました~☆」
数秒間、抉る様な視線を俺に向けはしたが、結局あずみは大人しく引き下がった。
大方、俺が英雄に危害を加えようとしないか心配しているのだろう。何せ外面だけを切り取って見れば、織田信長という男は途轍もない危険人物なのだ。
しかし、それを英雄に言ってみたところで無駄だろう。何せつい先ほど、主君としての格では比較にならないと豪語したばかりなのだ。
英雄の性格からして、俺との対決を避けようとはするまい。
うむ、善哉善哉。ここまでは、万事が俺の計画通りに進んでいる。上手く嵌り過ぎて逆に不気味な程である。
「皆さん。折角の盛り上がりに水を差してしまうようで申し訳ありませんが、あと少しで授業が始まってしまいますよ」
「なーに、その点は心配無用じゃよ」
冬馬の台詞を受けて、何処からともなく2-S教室の教壇に出現する爺、川神鉄心。
川神院総代にして川神学園の学長を務める、一言で表現すれば怪物のような爺さんである。
否、もはや怪物そのものだろう。この爺さんの存在が核以上の脅威として世界に認識され、諸外国への牽制として働いていると言えば、その突き抜けた異常っぷりを理解して頂けるだろうか。
例えビームを撃とうが瞬間移動をしようが斬魄刀を所持していようが、それが鉄心であれば何ら驚きには値しない。そういう存在である。
「五限は日本史の授業じゃったの?ならば綾小路先生にはワシから話を通しておこう。存分に試合うといいぞい」
「おー。珍しく気が利いてる、そんな学長にはマシュマロをプレゼントだ~、ぱちぱちぱち」
「ほっほ、ぴちぴちの女子に食べさせてもらうマシュマロの味は格別じゃのぉ」
――――さて、これにて役者は揃い、舞台設定は整った。
あとは舞台の開幕を告げる合図を、俺達の手で鳴らすのみ。
都合のいい事に、その為の礼儀作法は昨日の内に冬馬から教わっていた。
「2-S所属、織田信長。学園の掟に従い、“決闘”を申し込む」
「その従者、森谷蘭。私の意は主と共に」
俺と蘭が各々のワッペンを机の上に重ね合わせる。
「2-Sクラス委員長!九鬼英雄!その挑戦、確かに受け取った!」
「その従者、忍足あずみです☆よろしくお願いしますね!」
そして更に二つが重ねられる事で――――決闘の儀は、ここに成立した。
「フハハハハ、それでは我は早速ウォーミングアップに移るとしよう!獅子は兎を狩るにも全力を尽くすものであるからな!」
「さすがでございます、英雄様ぁぁぁっ!私は少し教室で準備がありますから、どうか英雄様はお先に」
「うむ、では我は一足先にグラウンドへ赴くとしよう。フハハハ、楽しみに待っているぞ、庶民共!」
俺と蘭に向かって声を掛けると、英雄は高笑いを上げながら無駄に堂々と教室を去っていく。
その姿が完全に自らの視界から消えたのを確認してから、あずみは被っていた猫を脱ぎ捨てた。
「てめえ。黙って聞いてれば、よくも英雄様に好き勝手言ってくれやがったな……。言っとくが、決闘仕掛けてきたのはそっちなんだ。どんな結果になろうと文句は言わせねえぞ」
「無駄な心配を。完全な勝者の口から文句が出る筈もない」
「その減らず口もすぐに叩けなくしてやるよ。あたいを本気で怒らせたこと、全力で後悔させてやる」
『全校生徒の皆さんにお知らせです。只今より第一グラウンドで決闘が行われます。内容は武器アリの戦闘。見学希望者は第一グラウンドに集合しましょう』
校内放送がスピーカーから響く中、あずみは抜き身の刃を思わせる両の目で俺を睨み据える。
「いいか。首を洗って待ってろ、クソガキ」
準備があるから、と英雄を先に行かせて教室に留まっていたのは、あくまでその一言を告げるための口実だったらしい。
用は済んだとばかりに背中を向けると、あずみは英雄を追って廊下を駆け去っていく。
「なかなか。侭ならぬものだ」
全く、どうしてこうなるのやら。
嫌われるのも憎まれるのも恐れられるのも慣れ切っているが、ここまで純然とした殺意を向けられるとなれば話は別だ。
そもそもここは治安の良さに定評のある日本国内の教育施設である筈なのだが、そんな場所に殺意やら何やらの血生臭い言葉が登場するのはどういう訳だろうか。全く以て場違いもいい所である。
所構わず殺気を撒き散らしている俺が言うべき台詞ではないと思うかもしれないが、しかし俺の殺気はあくまでも精巧に似せた紛い物。
言ってしまえば模造刀やモデルガンと大差ないものだ。忍足あずみのような、幾多の血を吸ったであろう本物の凶刃と同列に扱われても困る。
……ああ、凶刃と言えば。流石にこれは、フォローしておかなければマズイだろうな。
「蘭」
「如何致しましたか、主」
名を呼ばれると、蘭は落ち着き払った澄まし顔で俺の足元に跪く。
十数年の経験から判断して、我が従者のこういう似合いもしない凛々しい表情は、相当に危険な兆候である。
「頭を冷やせ」
「畏れながら、私は冷静です。主」
俺は黙って視線を蘭の顔から下げ、その手元に移した。
自分では気付いていないようだが、蘭の右手は力の捌け口を求めて自身の机の端を掴んでおり。
―――その五本の指が、木製の机に深々と食い込んでいた。
「蘭」
「如何致しましたか、主」
「あの二人は障害物だ。“敵”とは違う。それを失念するな」
「……ははっ、了解致しました。不肖森谷蘭、未熟の身なれども必ずや主を守護してみせます!」
「承知している。往くぞ、蘭」
「ははーっ!私めはどこまでもお供致します!」
教室の戸口に向かって俺が進めば、蘭は静かに三歩後ろをついてくる。わざわざ振り返って確認するまでもない事だ。
これより臨むは妥協を許さぬ決闘。不安要素は多々あれど、退く事だけは不可能だ。
どうかこの苦難を無事に乗り越えられますように、と信じてもいない神に祈ってみたりしながら、俺は決闘場たる第一グラウンドへと足を進めるのであった。
~おまけの三人組~
「今日は、信長に英雄を友人として紹介しようと思っていたのですが……まさかいきなり決闘になるとは予想外です。どうなることやら」
「あははー、トーマ、心配御無用。雨降って血固まるってことわざがあるよ」
「こえーよ!その諺、間違いなく降ったのは血の雨だろ」
「あーめあーめふーれふーれ♪」
「懐かしいはずの童謡が何だか不吉な歌に聞こえてくるぜ」
「ピッチピッチチャップチャップ、らん・らん・るー♪」
「不意討ちで危ないネタは禁止!」
決闘に至るまでの流れに思いのほか文量を使ってしまったので、戦闘シーンは次回に持ち越しとなってしまいました。自分の文章構成能力の欠如を改めて実感する今日この頃。
※前回の更新分に対し感想を下さった方々、本当にありがとうございます。
そして、誠に申し訳ありませんが今作においては、作者による個々の感想への返信は控えさせて下さい。
私は元々が遅筆な上になかなか時間が取れず、短い時間をやりくりしてどうにか書き上げているのが現状。
この上更に感想に対する返信を考え、文章に起すとなれば、更新速度の低下はどうしても免れないものとなってしまいます。
全ては私の力不足に起因するもので心苦しい限りですが、これは作者が一刻一秒でも早い更新を優先すべきと判断したが故の結論である事をご理解頂ければ幸いです。