「ひぃィッ!?」
「キャアアアアッ!!」
「あ、うわ、うわあああああああっ」
縦横無尽に響き渡るは、極限の恐怖で彩られた悲鳴と絶叫。瞬く間に阿鼻叫喚が飛び交い、人々が泡を吹きながら次々と地面に倒れ伏していく。特に最前列に近い位置で観戦していた者達の被害は甚大で、その大半が轟々と唸る漆黒の旋風に巻き込まれ、声すらも上げられず一瞬の内に意識を刈り取られていた。一人、また一人。死屍累々の地獄絵図が、現実というキャンバスに容赦なく塗り立てられていく。
そんな悪夢としか思えない光景を呆然と眺めていた大和は、ふと最前列に居る筈の自分が、この状況下で何の被害も受けていない事に気付いた。改めて自身の身体を観察してみれば、全身が包み込まれるようにしてぼんやりと温かく発光している。それは大和の近くで観戦していた面々、風間ファミリーを含む2-Fメンバーも同様だった。
「……姉さんか。ありがとう、助かった」
自分と皆を包んでいるのは、恐らく“氣”による防護壁。武に通じない大和には詳しい原理などは分からないが、これだけの人数を同時に殺意の暴風から護れるとすれば、それはきっと武神と呼ばれる姉貴分以外に居ないだろう。隣に立つ百代に目を向ければ、真剣な表情で両手を前方に突き出し、その掌から力強い生命のオーラを溢れさせている。それらは大和達に向けて吹き付ける黒き風と虚空で衝突し、その暴威を相殺し続けていた。
「なーにこのくらい、お安い御用だ。……と余裕たっぷりに言いたいのは山々なんだが、実を言うとな、結構キツい。いくら私でも、自分ひとりが耐えるならともかく、この怪物規模の殺気から一クラス全員分をカバーし続けるのはちょっとばかり無理がある……!そういう訳だ舎弟、お前は今のうちに2-Fの奴らをさっさと安全圏まで下がらせとけ」
「……了解!皆聞いてくれ、このまま最前列に留まるのは危険だ!姉さんが食い止めてくれてる間に、この黒い風の届かない場所まで下がるんだ!」
目の前に広がる惨状を現実として受け入れられていないのか、一様にポカンとした表情を浮かべて呆然と立ち尽くしている2-Fのクラスメート達に向かって大声を張り上げながら、大和は周囲の様子を窺った。見れば百代と同様に、祖父の鉄心もまた氣による障壁を張り巡らせて周囲の生徒達を護っている。しかし、何せこの決闘の見物に押し掛けた観客の総人数は実に数百人にも上るのだ。いかに武神の名を冠する川神院総代と言えども易々と全員を庇い切れるものではなく、その守護領域から外れた者達がまた一人、倒木の如くグラウンドの砂上に転がる。
「はは、はははっ、ははははははっ!」
そのような状況にあって、百代は紅の双眸を爛々と貪欲に輝かせて、熱に浮かされたような調子で哂っていた。楽しそうに。心の底から、愉しそうに。
「織田の奴、只者じゃあないとは思ってたが――正真正銘の怪物だったか。ここまで滅茶苦茶な殺気、私は見たことも聞いたこともないぞ。なんて禍々しさだ、なんて邪悪さだ、なんて力強さだ!はははっ、本当に。本当に、ワクワクさせてくれるなぁ!キャップとの決闘中じゃなければ今すぐにでも仕合を申し込みたいくらいだぞ!」
「……取り敢えず、あの男が化物だって点には、全力で同意するよ。自分と同じ人間にこんな真似が出来るなんて、俺は思いたくない」
餓えた獣を思わせる百代の哄笑に、カラカラに乾いた喉をどうにか震わせて答えると、大和はこの状況を単独で生み出した魔王、織田信長へと視線を向ける。
しかし――その冷然たる立ち姿が瞳に映る事はない。先程まで決闘の舞台となっていたグラウンドの中心部は、今や完全な暗黒に支配されていた。留まる事無く吹き荒れる黒い“氣”の嵐によって視界が遮られ、一寸先も見通せない闇が広がっている。その深淵の如き有様を見れば、今もなお観客達を襲い、昏倒させ続けている黒い風が、そこから溢れ出た只の余波でしかない事は一目瞭然だった。
「総代っ!流石にコレは生徒同士の決闘の領分を越えていマス!今すぐ止めなけれバ!」
「ふむ。……この惨状を鑑みるに、それも致し方ないかの。見れば無事だった生徒達の避難も既に完了したようじゃ。ルーよ、退避が間に合わずに巻き込まれた生徒の介抱は任せたぞい。ワシはこれより介入し――」
「おいコラ待てジジイ、なに寝惚けた事言ってるんだ。勝負はまだ終わってないだろーが」
尚も規格外の殺意を振り撒き続ける信長を止めるべく、その老体に静かな闘氣を滾らせつつあった鉄心の前に、百代が目を鋭く光らせながら立ち塞がった。
「じゃがの、モモ。風間はあの途方も無い殺意が織り成す“嵐”のまさに中心部に居るのじゃぞ。ワシやお前ならばともかく、満足に武術を修めておらぬ者にはとても耐えられる重圧ではなかろう。場合によっては命すらも危ういかもしれん」
首を左右に振る自身の祖父・鉄心の重々しい言葉を、百代は鼻で笑い飛ばす。
「はっ、勝手に決め付けるなよジジイ。そんなもっともらしいご高説は聞きたくないな。生憎とキャップの事は私たちの方がよーく知ってるんだ。風間ファミリーのリーダーは、そう簡単に負けはしない。お前らも、そう思うだろ?」
「ああ……全くその通りだ姉さん」
頷きを返して、大和は鉄心と正面から向き合った。百年の時を生きたと噂されるこの老人に小細工や嘘偽りは通じないだろう。故に、普段通りの詭弁はここでは不要だ。ひたすらに真摯な視線を真っ直ぐに送りながら、大和は真心から舌を動かし、言葉を紡ぐ。
「学長。俺も含めて、2-Fの皆はキャップを信じています。ですからどうか俺達に、あいつの戦いを最後まで見届けるチャンスを下さい!」
「アタシからもお願いするわジィちゃん、いや、お願いします学長!アタシ達のキャップは、ゼッタイこんな所で終わる男じゃないんだから!」
大和と一子が深々と頭を下げると、風間ファミリーの面々、そして2-Fクラスの面々が次々と二人に続いた。孤高の一匹狼、忠勝ですらもそれは例外ではない。手に負えない問題児揃いの2-Fが、今や気持ちを一つにして自分達の代表の戦いを見守ろうとしている。その光景を前に、鉄心は豊かに蓄えた髭を扱きながら、眦を下げた。
「やれやれ……仕方がないのぅ。まあ幸いにして倒れた者達も、殺気に中てられて意識を失っただけで、特に実害は無い様じゃ。もっとも、これから暫くは悪夢に魘される事になるじゃろうが……力の及ばなかったワシの不始末という事にしておこうかの。宜しい――川神学園学長の名の下に、決闘の続行を許可する!心ゆくまで、存分に仕合うとええじゃろう」
「総代!ですが、これハあまりにモ……!」
納得し切れない表情で食い下がるルー先生(現川神院師範代)に、鉄心は厳粛な語調で言葉を重ねる。
「確かに教育者としては生徒の安全を最優先し、止めるのが正しい在り方なのじゃろうな。じゃがルーよ、男と男の誇りを賭けた決闘に第三者が横槍を入れるのは無粋、そうは思わんかの?ワシ自身、一個の武人としてこの勝負の行く末を見届けてみたいのも事実。それにじゃ、ワシが無理に介入しようとすればどうせお前が黙っとらんのじゃろ、モモ」
「ははは、なんだ良く分かってるじゃないかジジイ。何なら止めてくれてもいいんだぞ?今この場で本気のジジイと闘えるなら、それはそれで私としては大歓迎だからなぁ」
「ふぉっふぉっ、齢二十にも満たぬ小娘が言いよるわ。そろそろワシ自らその鼻っ柱を叩き折るのも悪くないかもしれんの」
世界の頂点に立つ二人の武神が織り成す圧倒的な闘気に、周囲の空気が俄かに震撼する。が、それも僅かな時間で、次の瞬間には両者ともに普段通りの自然体に戻っていた。今は果たして何を優先すべき時なのか、祖父も孫も考える事は同じだったのだろう。
「……キャップ」
大和は巻き起こる死の嵐の中心部へと視線を向ける。相変わらず深淵の闇が黒々と立ち塞がり、そこに居る筈のリーダーの姿は見えない。グラウンドを埋め尽くす漆黒は、こうして安全圏から遠巻きに眺めているだけで、奈落の底に引き込まれるようなおぞましい感覚を大和に浴びせ掛けてくる。
あの絶望の渦を生み出す中心核に独り取り残されたキャップは、本当に無事でいられるのか?いくら信長の殺意を前に屈さない力を手に入れたとしても――あの規格外の暴虐を容赦なく叩き付けられて、膝を折らずにいられるのだろうか?
「…………」
直江大和は、現実主義者だ。真に現代社会を回しているモノの正体が、美しい義理と人情などではなく、薄汚い金と策謀である事を知っている。血の滲むような努力と根性は、生まれ持った才能と地位の前に容易く敗れ去る事を知っている。誰もが憧れるテレビの中のヒーローは、所詮は何処かの誰かが作り上げた虚像でしかない事を――知っている。
だから、勇者が魔王に必ず勝てるのは、御伽話の中でのみ通用するお約束なのだと。そんな夢も希望もない現実を、大和は知っている。
だが。
だが、それでも。
直江大和にとって、風間翔一は。
「―――姉さん。お願いがあるんだけど、いいかな」
「ん。言ってみろ、弟」
「俺が風間ファミリーの軍師として献策する、この戦で最後の“策”。その成就には、姉さんの協力が必要不可欠なんだ。力を貸してくれ、姉さん」
死んだ。
何の誤魔化しも嘘偽りもなく――風間翔一は、心の底からそのように錯覚した。
否、それが錯覚なのかどうかすらも、もはや判らない。己の周囲を埋め尽くすのは一片の光すらも差し込まない闇、闇、闇。圧倒的な大質量で押し潰すかのような、果てしのない暗黒に充ちたこの空間が、伝え聞く死後の世界であったとしても何も不思議はない。
暗い。冥い。どこまでも昏く、どこまでも冷たい。
夜の雪山で猛吹雪に見舞われたような、そんな絶望的な気分だった。身体が、凍り付いたように動かない。指先を動かそうと頭で命令を送っても、ピクリとも反応しない。翔一の肉体は今や末端神経の一本に至るまで身動きを拒絶し、あたかも死体の如く硬直している。
それどころか――全身の感覚そのものが、消失している。自分が五体満足なのか、両手の指は数えて十本在るのか。本当に生きているのか、判断の術が無い。
息が、出来ない。喘ぐようにして肺に取り込もうと試みる空気は刃の様に冷たく鋭く、そして酸素という元素が欠片も含まれていなかった。瞬く間に欠乏した酸素を求めて脳は必死に命令を送るが、無慈悲にも身体機能は働きを拒絶する。そこで初めて、翔一は自分がそもそも“呼吸”を行っていなかった事実に気付いた。当然だ、肺が自らの仕事を放棄しているのだから、息なんて吸い込める筈がない。
意識が、朦朧としていく。徐々に形を無くし、明確な意味を失っていく思考の中で、走馬灯の如く蘇る言葉があった。
『死を恐れ、厭うは矮小なる生者の性。樹は恐れず、風は厭わぬ。己が氣を大自然と一体と為せば、自ずと俗世の軛より解き放たれるは必定よ』
そうだ――内気功。
魔王の発する凍てつく波動に対抗する為に、とある仙人の指導の下、三日間の過酷な修行を経てどうにか開花に至った、自身の新たな可能性。己の存在を自然の内に溶け込ませ、常に自分自身の在り方を保ち続ける。そんな、魔王の暴威に敢然と立ち向かう為の稀有なる技能を、風間翔一は手に入れたではないか。
ようやく差し込んだ一筋の希望の光は――しかし、巨大過ぎる絶望の前には儚く無力だった。
全身に氣を巡らせようとして、気付く。
何もない。
翔一の周辺には、己を溶け込ませるべき対象が、自然が、此処には何一つとして存在しない。
総てが――死んでいた。絶えず世界を渡り歩く自由気侭な“風”ですら、暗黒の空間ではその息吹を止めている。嵐の如く自身の周囲に吹き荒ぶのは、正しくは風ではない。世界そのものへの殺意に充ち溢れ、漆黒と共に災厄を撒き散らすそれは、万物に等しく終焉を運ぶ死神の吐息だ。
死。死。死。死。
死神に、包囲されている。逃げ場はない。その処刑鎌から逃れる術は――ない。
希望の光が何処にも存在しない事実を悟った瞬間、ぴしり、と乾いた音を立てて、強固な意志に罅が入る。あまりにも膨大な絶望が生み出す圧力に包まれて、覚悟と決意の鎧がぎしりぎしりと悲鳴にも似た軋みを上げている。やがて小さな亀裂が走り、その隙間から、深淵の絶望が流れ込む。
這入り込んだそれらは洪水の如き勢力で翔一を侵食し、その精神を、肉体を蹂躙した。
立ち向かう事など最初から無謀だったのだと思い知らせるかのような、凶悪無比な殺意が心身を蝕む。
意思が失われる。
意志が喪われる。
風間翔一を繋ぎ止めていた想いが、途切れる。
―――ああ、カッコ悪ぃな……。
結局、勇者は魔王には勝てなかった。自分は、ヒーローにはなれなかった。
全身から急激に力が抜けていく。自慢の両脚は自らの体重を支える事すら出来ず、翔一はがくりと膝を付いた。
闇に呑み込まれる。周囲を埋め尽くす無限の暗闇に、意識が溶けてゆく。
風間翔一が、消える。
その瞬間、
――――声が、聴こえた。
「姉さん。アレから四十人を同時に庇うのが厳しいとして、その約八分の一。五人か六人くらいなら、どう?」
その一言で、舎弟の言わんとしている“策”の全てを理解したのだろう。大和の問い掛けに対する百代の返答は、思わず見惚れてしまう程に綺麗な、素敵に不敵な笑みだった。
「ふふ、私を誰だと思ってるんだヤマトぉ。私は川神百代だぞ?それくらい余裕だ余裕、何も心配はいらん。おねーさんに任せろ」
「世界最高に頼もしい保証をありがとう。さて、それじゃ……行くぞ、皆」
何処に、とは言わない。そんな事は、敢えて口にする必要などなかった。
「ああ、行ってこい。風間の野郎にはてめぇらが必要だろうよ」
「あれ、ゲンさんは来てくれないの?これまで一緒に戦ってきた仲間なのに」
「はっ、遠慮しとくぜ。こいつはてめぇら風間ファミリーの戦いだ、俺の出る幕じゃねぇ。それに、これ以上てめぇらに肩入れし過ぎると、後でどっかの主人バカに油汚れも真っ青なしつこさで文句を言われる羽目になりそうだからな」
「?」
「オラ、俺なんざに構ってる暇があったらさっさと行ってきやがれ。グズグズしてる間に勇者様が教会送りになっちまっても知らねぇぞ」
クールでニヒルな不良(ツンデレ)こと源忠勝と、そんな遣り取りを交わした後――直江大和、川神百代、椎名京、川神一子、島津岳人、師岡卓也。キャップを除く風間ファミリー総勢六名が、迷いの無い足取りで真っ直ぐに歩を進める。
向かう先には、死と絶望の象徴たる黒の旋風。轟々と唸りを上げ、一向に衰える気配の無い勢力を以て吹き荒れる凶悪な殺気は、嵐の根源に近付いた全ての者へと無差別に降り注ぐ。
しかし、その程度ならば何ら問題はなかった。世界に名高き武の神がこうして先頭に立っている限り、この世のいかなる存在であれ、風間ファミリーに危害を及ぼす事など不可能なのだから。誰一人として、例えそれが魔王であっても、自分達の歩みを妨げられはしない。
やがて辿り着くのは、最も決闘場所に近い位置。絶えることなく殺意の余波が押し寄せる波打ち際。生徒達が挙って避難し、当初の賑わいが見る影もない空白地帯と成り果てた、“最前列”だ。
六人は横一列に並んで、闇を見据える。その先で独り戦っている自分達のリーダーに想いを馳せながら。
―――キャップ。風間翔一。
幼き日から共に育った、天衣無縫という言葉を全身で体現しているような少年は、いつだって自分達のヒーローだった。どんな時でも気付けば皆の輪の中心にいて、型破りな自由奔放さで皆を強烈に引っ張っていた。
キャップの切り開く道を進んでいけば、最後には必ず万事が上手く収まった。クラス対抗の運動会でも、秘密基地を賭けた上級生との縄張り争いでも、県外で繰り広げた波乱万丈の大冒険でも、異常に平均レベルの高い町内カラオケ大会でも、ギャンブルでも料理対決でも球技大会でも決闘でも―――あの時も、あの時も。風間ファミリーのリーダーは、誰もが思い付いても実行しないような常識外れの方法を躊躇いなく選択する決断力と、一度決めた事は何があっても実行に移す行動力、それを見事に成功へと結び付ける豪運を以て、常に自らが望むものをその手に掴み取ってきた。『この男についていけば何とかなるんじゃないか』『この男ならきっと何とかしてくれるんじゃないか』……そんな思いを見る者全てに理屈抜きで抱かせる、その太陽にも似た眩しい生き様を、参謀役として隣に立つ大和はいつも羨望の眼差しで見つめていた。自分もあんな風になりたい。あんな風に生きられたら。直江大和にとっての風間翔一は、少年ならば誰もが憧れるヒーローの象徴と言うべき存在だった。それはTVの中でしか活躍できない作り物などとは違って、皆が生きる現実に信じられないような奇跡を魅せてくれる、自分の前に確かな形を持って存在する正真正銘のヒーロー。
直江大和は現実主義者だ。如何ともし難い巨悪を前に、そんなヒーローですらもが成す術なく敗れ去っていく現実を知っている。
そう、時にヒーローは負けるだろう。膝を折り、力尽きて地に倒れ伏すだろう。
しかし。
それでも―――ヒーローは、絶対に諦めない。何度敗れても不屈の意志で悪に挑み続け、そして最後には必ず、勝利を掴むのだ。
皆の期待と信頼をその身に背負い、仲間達に託された思いをその胸に熱く宿して、彼は再び立ち上がるだろう。
誰かの声援がその心に響く限りは、何度でも。何度でも。
だから、直江大和は。
川神百代は、椎名京は、川神一子は、島津岳人は、師岡卓也は。
進入禁止のラインから前のめりに身を乗り出し、喉も嗄れんばかりの大声で。
立ち塞がる闇の向こうへと届ける為に、想いを込めてその名を呼ぶ。
―――――そして、
声が、聴こえた。
確かに、耳に届いた。
頭に響き、胸に響いた。
それならば――“まだ自分は、生きている”。
「……当たり前じゃねぇか、俺のバッキャロー」
絞り出すような弱々しさではあるが、こうしてちゃんと声も出る。
凍傷にでも掛ったかのように手足の感覚が希薄だが、確かに其処にある。
確かに生きている。死んでなどいない。疑う余地なく、風間翔一は未だに健在だ。
だったら……諦めない。諦められない。諦める事など、出来るハズがない。
そう、昔からそうだった。妥協という名の諦念を端っから笑い飛ばし、現実と言う名の障壁をことごとく飛び越えて、誰よりも自由な精神でこの世界を駆け回ってきた。そんな自分の生き様を、やっと思い出せた。
『任せても良いか、リーダー?』
昨晩、誰よりも信を置くファミリーの軍師が発した問い掛けに、果たして何と答えた?
『おうよ、当然だぜ!キャップたるこの俺に任せろ、誰が相手だろうと絶対に負けねぇ。今の内に祝勝会の準備をして待ってろよお前ら!』
そんな風に胸を張って答えたのではなかったのか。風間ファミリーを束ねるリーダーとして、交わした約束を反故にする事は許されるのか?皆の期待と信頼に応える事無く、悪の親玉に膝を屈するヒーローがどこにいる?
「あいつらが切り拓いた道を、キャップたる俺が無駄にはできねぇ。そうだろ、俺」
こんな所で蹲っていてどうする。膝が震えても構わない、無様でもいい。立たなければ。
どれほど呼吸が苦しくとも、身体が言う事を聞かずとも、己の足で立って歩かなければ――前に進まなければ、決してあの男には届かない。
「そうだ……俺は、諦めねぇ。俺が俺である限り、絶対に諦めてたまるかっ!」
瞳に宿すは決意の炎。心に宿すは覚悟の光。
譲れない意地と、仲間との約束を力に換えて――ヒーローは、再び立ち上がった。
顔を真っ直ぐに上げて、恐れも迷いも消え失せた、どこまでも澄んだ瞳で暗闇を見通す。
「行くぜ。勇往邁進、だ」
そして、己に活を入れるべく、口ずさむのは一遍の詩。
川神魂が余すところなく込められた、翔一の掲げる座右の銘だ。
「光灯る街に背を向け、我が歩むは果て無き荒野」
たちまち己の闘志が胸中に燃え広がってゆく。冷え切った身体の芯に熱が通う心地良い感覚に身を任せながら、前へ。最初の一歩を、踏み出す。
ただそれだけの動作で、全身が激しく軋みを上げた。未だほぼ完全に凍り付いたままの肉体を無理矢理に前方へと引っ張った影響か、高山への登頂直後のような途方もない疲労感が身体を苛む。脚は棒も同然に固くなり、気を抜くと一瞬でバランスを崩して転倒してしまいそうだ。それは不味い。歯を強烈に食い縛って、堪える。もう倒れられない。次に倒れたら、恐らく今度こそは立ち上がれないだろうから。
「――奇跡も無く標も無く、ただ夜が広がるのみ」
全ての希望を覆い隠す暗闇の中、見えもしないゴール地点を追い求めて、迷いの無い足取りで次なる一歩を踏み出す。心肺機能の著しい低下が酸素欠乏症を引き起こしているのか、先程から頭痛が収まらない。僅かに身動きする度に酷い痛みが生じ、脳細胞を貫いた。ガンガンと頭蓋の内側を鎚で叩かれているかの如き壮絶な感覚に、今すぐにでも全てを投げ出して意識を放り捨てたくなる衝動に駆られる。その抑えがたい欲求は、頭痛の規模と比例して絶えず膨らみ続け、翔一の精神を蝕んでいた。心を折り、意思を挫こうという悪意が、蠕動している。
だが、屈しない。その程度では、この歩みは止められない。
「揺ぎない意志を糧として、闇の旅を進んでいく――!」
心身を蝕む全ての悪意を強固な意志の力で捩じ伏せて、また一歩、無明の闇を切り拓く。
勇往邁進。
それは決して諦めず、ひたすらに前だけを見据えて歩み続ける心。
その在り方こそが翔一の信条で、誰もが夢見るヒーローの資格だ。
「俺は!」
困難を物ともせず、いかなる障害をも乗り越えて、ただひたすらに前へ前へと突き進む。
「絶対に!」
痛々しい程に愚直で、果敢。その姿を形容するに相応しい言葉は、愚者か英雄か。
「―――諦めねぇぞっ!!」
烈昂の叫びと共に力強い一歩を踏み出した、その時だった。
不意に吹き抜けた一陣の風が、眼前に渦巻く深淵の闇を払う。
見る見る内に視界は開けて、美しく澄み渡る青空が頭上に広がっていく。
―――そして、今。
瞳の中には、勇者が全霊を賭して打倒すべき、魔王の姿が在った。
自信と余裕を殊更に強調するようなハンドポケットに、己を除く全ての存在を無価値と見下して憚らない、度を超えて冷然たる無表情。決闘の前に対峙した瞬間と比べて何一つ変化の無い傲岸不遜な態度のまま、織田信長は己が巻き起こした嵐の中心部に悠然と佇んでいる。
ボロボロの身体を引き摺りながら、その眼前に辿り着く。
そして翔一は、愉快げな笑みを口元に湛えて、大胆不敵に言い放った。
「よっ。来たぜ、大魔王」
何度でも何度でも繰り返して言うが―――俺は風間翔一という男を決して甘く見ていた訳ではない。川神百代が自身の上に立つ事を認めるほどのカリスマ性と、一学生の身には分不相応な戦歴の数々。その行動の殆どが予測不可能で、不確定要素の塊。各種の計算を思考の前提に据えた上で行動を起こす俺のようなタイプの人間にとって、まさしく天敵とでも言うべき存在だった。まさか生まれ持った才能という面から見ても天敵だったとは、流石に想定していなかったが……その点を差し引いても、ある意味では最初から風間ファミリーにおける最大の警戒対象であったとすら言える。故に、俺は現在の自分に引き出せる全力を用いて勝負に臨んだ。織田信長を追い詰めてみせた彼に敬意を表し、最大規模の奥義を以て大将戦の決着を飾ろうと考えた。
織田流奥義、殺風。俺の辿り着いた“広域威圧”のハイエンド。奥義などと言うと大層なモノに聞こえるが、種を明かしてしまえば単純極まりない代物で、要は自分自身を中心とした、全方位へ向けた殺気の全力放出だ。最低限の制御は行っているとは言え、それは半ば“氣”の暴走に等しい。溢れ出した殺意の奔流は黒の嵐を巻き起こし、周辺一帯を無差別に蹂躙する。その規模は日常用のそれとは比較にならず、勢力の小さい末端部分ですらも、一般人ならば即座に意識を刈り取られるレベルの殺気に充ちている。
であるならば、中心部近辺を襲う重圧が果たして如何なるものか、想像出来ようものだ。
風間翔一の強靭な精神力と、内気功による肉体的抵抗力を考えれば、まあ一瞬では終わるまいとは思っていた。保って三十秒、或いは奇跡的に一分程度は保つかもしれない――それが俺の偽らざる見解だった。
まさか、数分もの長時間に渡って意識を保ち続けるどころか、あまつさえ動く筈の無い肉体を動かして――“嵐の目”まで辿り着くなどとは、欠片たりとも想定してはいなかった。嵐の起点である俺の周辺数メートルにのみ生じる、唯一無二の安全地帯に踏み込まれるなどとは、夢にも。
有り得ない事だ。しかし、有り得ない筈の事が、覆せぬ現実として。疑いなく、起きている。
「よっ。来たぜ、大魔王」
俺の天敵たる不確定要素の塊が、闘志の炎を双眸に灯して、目の前に立っている。
顔色は幽霊の如く青白く染まり、息は絶え絶えで、全身の筋肉が痙攣しているのが傍目にも判る――そんな半死半生の有様にも関わらず、大切な何かを誇るように胸を張って、ひたすらに真っ直ぐな眼差しで織田信長を見据えている。
その透き通った目を見れば一目瞭然だった。風間翔一の心は、折れてなどいない。肉体の方は見るも無残な程にボロボロだが、彼の意志を支える精神の柱は、揺るぎなく健在だ。
……ならば。
ならば、それはつまり、殺気によって封じられた身体機能を、純然たる己の精神力のみでカバーしてのけたとでも言いたいのか?馬鹿を言え、口で言うほど容易い話ではない。肉体の拒絶反応を無視して踏み出す一歩に、どれ程の苦痛が伴うと思っているのだ。
もしも襲い来る困難の全てを不屈の意志で乗り越えて、想いなどと云う不確かなモノだけを頼りに前へ進む事が出来ると言うなら、それは。
それではまるで―――ヒーローではないか。
戦慄にも似た心地と共に、ポケットの中の指先に抑えられない震えが走るのを自覚した。
「……ふん」
辛うじて能面のような無表情を保ちながら、俺は“殺風”の発動を解除した。轟々と吹き荒れていた恐慌の嵐は、数秒の時を経て跡形もなく消失する。これ以上の維持は“氣”及び精神力の無駄遣いもいい所だ。空白地帯である“嵐の目”に到達された時点で、既にその役割を果たせなくなっているのだから。
周囲を覆っていた暗闇が晴れて、清々しい空の青色と、グラウンドの砂色が一気に視界を埋め尽くす。
そして、俺は口元を吊り上げて、眼前の男を見返した。
「くく、随分と遅かったな。待ち草臥れたぞ、風間翔一」
「ああ、悪ぃな……俺としたことが、もう少しで諦めちまうところだった。今すぐそこまで行くから、ちゃんと、待ってろよ……?」
絞り出すようにして呟くと、フラフラと誰の目にも危うい足取りで歩を進める。既に肉体的にも精神的にも限界を超えているのだろう。もはや意識すらも曖昧な状態で、それでも燃え滾るような瞳だけは力を失わず、俺の姿を捉えて離さない。
何故そこまで闘える。何故そこまで強くなれる。何故―――心を支えられる?
疑問に対する回答は、思いの他すぐに見つかった。
「ふん」
翔一の肩越しに数十メートル先、俺の視界には彼らの姿がはっきりと映っていた。
「風間ファミリー、か」
誰も居ない筈だった“最前列”にて、見知った顔の六人が声援を張り上げている。
上から目線の叱咤激励だったり、罵声やら皮肉混じりの野次だったり、或いはやけに威勢の良い声援だったり無難且つ平凡な応援だったり、それぞれが好き勝手に叫ぶ内容は無駄にバリエーション豊かで、統一性というものはまるで感じない。しかし――それらの全てに間違いなく共通している事項が、只一つだけ、確かに在った。
……そうか。成程、そういうことか。
「随分と奇特な連中が揃ったものよ。類が友を、呼んだか」
「ははっ……、結構な褒め言葉だな、そりゃ」
屈託なく笑いながら踏み出すのは、最後の一歩。
本来ならば無限にも等しい数メートルの距離を踏破して、遂に彼は辿り着く。
そして―――
「行くぜ、ノブナガッ!!」
風間翔一は、固く握り締めた拳を、一息に振り抜いた。
限界を超えて酷使され、疲労困憊した肉体から繰り出された右ストレートは、悲しい程に鈍い。俺がかつて必死で身に付けた回避技能を用いるまでもなく、目を閉じながらでも軽々と避けられる。例え無力な一般人の子供だったとしても、身を躱す事は容易いだろう。
だが、避けられない。
九鬼英雄と繰り広げた決闘の際、忍足あずみの凍て付いた指先から逃れられなかったのと同様に――俺が俺で在り続ける為には、この拳から逃げる訳にはいかない。
その握り締めた拳に、文字通り心身の全てを振り絞った一撃に、どれほどの魂が込められているか。嫌というほどに理解する事が出来てしまう限り、それは織田信長にとって、紛れもなく不可避の一撃だった。
故に、訪れるべき決着の時の到来もまた、どう足掻いても避けることは出来ない運命。
どうせ逃れられないのならば、わざわざ慌てふためいてやるのも莫迦らしい話だ。
スローモーションが掛かっているかの如く、やけにゆっくりとしたペースで進行する時間の中で、俺は思索を巡らせる。本日のテーマは、果たしてどのような要因が働いた結果としてこの事態は招かれたのか?
……などと、本当は考えるまでもないのだが。俺の中で、答えは既に出ているのだから。
川神一子。彼女の勇気ある宣戦布告が、半ば俺に屈服し掛けていた2-Fに殺意を克服させ、戦いへと向かわせた。
椎名京。彼女の怜悧で正確無比な一矢によって射止められた次鋒戦の勝利が、全てを決する大将戦へと希望を繋いだ。
直江大和。彼の観察力と発想力が最善の策を織り成し、更には弁舌を以て織田信長を勝負の場に引き摺り出した。
風間翔一。彼の常識に囚われない風の如き奔放さと破天荒さが俺の計算を上回り、伏せていた切り札を発動させるに至った。
そして――絶望の闇を越えて届けられた、“仲間”の声援が。向けられた揺るがぬ信頼が、ヒーローの足を前へと進ませた。
仮にこれらのピースの一つでも欠けていたら、決して現在という絵図を描くパズルは完成に至らなかっただろう。風間ファミリー総勢七名が揃って居たからこそ、風間翔一は殺意の前に膝を折らないヒーローと成り得た。何の事はない、俺は初めから一人を相手に戦っていたのではなかったのだ。リーダーである風間翔一を相手取る事は、即ち風間ファミリーという群体そのものと対峙する事と同義なのだから。
かつて戦国の雄たる毛利元就が遺した、三本の矢の逸話を思えばいい。
万人の心をへし折る織田信長の殺気も、絆を以て束ねられた七人分の意志が相手となれば、なるほど力及ばぬは道理というもの。
「是非も、なし」
俺が呟きを漏らすと同時に、時の流れが正常に戻る。
次の瞬間――渾身の右ストレートが、俺の胸板に突き刺さった。
それは鈍亀の如き速力からも容易に予想できたように、欠片の威力も有さない無力な拳だったが、同時に何よりも雄弁な拳でもあった。打ち込まれた胸には燃えるような熱が広がり、やがて血肉を徹して心臓にまで伝わる。やれやれだ。こんな一撃を貰ってしまっては、幾ら傲岸不遜がデフォルトの織田信長と言えど、認めない訳にはいかないだろう。
「――見事」
静かながら、心の底から湧き起った一言に対し、ストレートを打ち抜いた態勢のまま、翔一はニヤリと陽気に笑う。
「へっ、やっとお褒めの言葉を頂けたな。なんだなんだ、やっぱここは、有難き幸せに御座りまするぅー!とか言っとけばいいのか?」
「図に乗るな下郎が」
ネコの莫迦と同じような反応をしやがって。人様が地味に気にしている事をどいつもこいつも。
「まあ、それはともかくだ。……このケンカ、“俺達の勝ち”って事で良いんだよな?」
腹立たしいほど澄んだ瞳で、俺の目を覗き込むようにして問い掛けてくる。
……わざわざこういう訊き方をしてくる以上、“気付いて”いるのか?直江大和の入れ知恵、ではないだろう。アレが気付いているとは流石に思えない。だとすれば、風間ファミリーの総意としてではなく、やはりこの男が独自に。しかし何故……まさか例の勘、とやらか?ふむ、なるほど、再認識せざるを得ない。心の底から思う。本当に―――厄介な奴だ。
「ふん。好きに解釈すれば良かろう」
「オーケー、そうさせて貰うぜ。いよっし、いざ祝勝会だぁ……って、ありゃ?」
間の抜けた声を上げたかと思うと、目を白黒させながら、翔一はグラリと身体を傾かせる。もはや自分一人では立ち続ける力すら残されていなかったのか、先程から胸に当てた拳を起点にして俺に体重を預ける事でバランスを保っていたのだが、それさえも限界が来たらしい。
そのまま膝から崩れ落ちると、グラウンドの地面へと前向きに倒れ伏し、そして沈黙。ピクリとも動かなくなっていた。ここに至るまで異様な生命力と精神力を発揮してきた驚異のビックリ人間・風間翔一だが、今度という今度こそはさすがに気力が尽き果てたのだろう。どうやら完全に意識を失っている様子であった。
「――――それまでッ!!」
空気を読んでいたのか、ここに至るまで沈黙を保っていた主審・川神鉄心がようやく決着を宣言する。
誰がどう見ても本来のタイミングからは相当に遅れているのだが、まあ然様に細かい事は気にすまい。その配慮のお陰で、俺も比較的心静かに受け入れられているのだから。
決定的な敗北、を。
そう、俺にしてみれば今回の一件は、これ以上なく明確な形での、敗北だ。
“俺達の勝ち”、か。ああ全くその通りだとも、何一つとして否定する要素はない。2-F及び風間ファミリーの面々を相手取るに当たって、俺は僅かたりとも手を抜いてなどいなかった。
そもそもにして真剣勝負では常に全力全開をモットーとする俺に、手抜きの三文字は絶対に有り得ない。この大将戦にしてみたところで、威圧の才と回避技能という自身の持ち味をフルに活かして、全力で立ち回った上での結果だ。更には本気で放った奥義ですらも真正面から破られてしまった以上、潔く認めなければ男が廃るだろう。
であるならば、致し方ない。
胸中より湧き出ずる苦々しい感情を余すところなく呑み下してみせる事で、織田信長の大器を示すとしよう。
この“勝負”。紛れもなく―――俺の、負けだ。
「勝者――――」
まあ、尤も。
「――――織田、信長!!」
“試合”にまで勝たせてやるほど、俺は生温くはないが、な。
と言う訳で散々引っ張った信長vsキャップ、これにて決着です。
もうキャップが主人公でいいんじゃないかな、と書いてる途中で何度思った事やら。
決着した割に色々とまだ曖昧で引っ掛かる点が残っていますが、その辺りはまた次回。
おそらく次話でvs風間ファミリー編は完結になります。それでは、次回の更新で。