「たっだいま~、空前絶後に眉目秀麗なラブリー女子高生・明智ねねのお帰りだよ!」
「喧しい。そしてここは俺の部屋だ。ネコはネコの棲家へ帰れ」
「あー疲れたぁ。今日も今日とて刻苦勉励、私の生真面目さに溢れた働きっぷりは魯子敬も認めるレベルだと思うね。いやホント」
茜色の夕日が窓越しに射し込む黄昏時。俺の至極常識的な対応を気にも留めず、ズカズカと無遠慮に上がりこんで来た無礼者が約一名。学生鞄をぽいっと床に放り投げるや否や、無駄に身軽な跳躍で人様のベッドにダイブをかましてくれやがった小柄な少女の正体は、驚くべき事にそして嘆くべき事に、我が第二の直臣である。こいつは自分の立場というものを自覚すべきだと改めて思う。
「あれ?ランが見当たらないね。隣の部屋に居なかったからこっちだと思ってたんだけど」
ゴロゴロとだらしなくベッドの上を転がっていたねねが首だけをこちらに向けて、怪訝な顔を作った。
「俺だけ先に帰ったのさ。少し訳アリで蘭の奴は別行動中だ。帰るまではもうしばらく掛かると思うぞ」
「むぅ、いつもながら間の悪いセンパイだね全く。頑張った自分へのご褒美を兼ねて、この私がわざわざ寄り道してまで差し入れを買ってきてあげたってのにさ」
「差し入れ?」
「ふふん。これを見ればご主人も私をぞんざいには扱えなくなると断言しておくよ」
ぶつくさ言いながら学生鞄をもそもそと漁り、ねねが取り出しましたるは薄茶色の紙袋。
開封すれば瞬く間に甘い香りと温かい湯気が立ち昇り、狭い部屋を充たした。
「じゃじゃーん、仲見世通りの和菓子店で買ってきたタイヤキさんだよん。賢明な私はリサーチ済みなのさ、ご主人って和菓子が好物なんだよね。能臣の名に恥じない私の働きに感謝し、存分に褒めちぎってくれてもいいんだよ?」
「……」
鯛焼き入りの袋を片手に、ねねは偉そうに胸を張りながら何やら言っている。
まったく、この従者と来たら……。
俺はその中身がどれだけ詰まっているか怪しい頭を目掛けて無言で手を伸ばし、その柔らかい猫毛をわしゃりと撫でた。
「にゃっ!?」
「大儀であったぞネコ!くく、くくく、お前を見込んだ俺の目はやはり正しかった様だな!」
テンション上がってきた。ほかほかと芳しい湯気を上げる鯛焼きを早速手に取り、三百六十度から焼き加減を確かめる。
うむ、やはり。袋に刷られているであろうマークをわざわざ確認するまでもなく、この見事な職人技は見間違え様もない。仲見世通りの片隅にて数十年、只ひたすらに鯛焼きを売り続けてきたと噂される寡黙な老店主の作であった。俺が寂しい財布をますます軽くしてまで鯛焼きを欲した時、数ある店舗の中から一軒を厳選するとなれば、彼の老人の営む屋台以外に有り得ない。
そも、俺とあの店の出逢いは喩え様も無く運命的で――と、回想に浸るのは後にしよう。開封後、下手に時間を置けば、折角の鯛焼きが温度を失ってしまう。電子レンジで再加熱後に食すなど以っての外、職人魂に対する限りない冒涜である。万が一にでもそんな事になれば、俺は自分が絶対に許せない。
という訳で抑えきれない期待と共に鯛焼きの香ばしい生地を口に運ぼうとして、ふと横を見遣れば、何やらねねがぼんやりした顔で自分の髪をぺたぺたと触っていた。
全く何をやっているのやら、焼き色も香ばしい鯛焼きを目の前についつい恍惚とする気持ちは我が事の如く理解できるが、しかしそうしている内に冷めてしまっては元も子もなかろうに。
「どうしたネコ、遠慮なく食べるといいぞ。心配せずともこの幸福を独り占めするほど俺は貪欲じゃないさ。素晴らしき美味は須らく皆で分かち合うべきなのだよ明智君」
「あ、うん、そりゃまあ勿論頂きますけども。……う~ん。何だかなぁ」
何やら納得いかないような顔で鯛焼きに手を伸ばし、頭から勢いよく齧り付く。程好く焼き上がった生地がカリッと心地良い音を立てて、ねねの口元が綻んだ。
「あ……おいしい」
本物の美味は自然と人を笑顔にすると云う。心の底からふわりと浮かんできたようなねねの笑顔を見れば、俺としてもこれ以上は耐えられない。取る物も取り敢えず、俺は彼女に続いて鯛焼きを口に運んだ。
堅過ぎず柔らか過ぎず、適度に芯の通った理想的な歯応え。香ばしい生地を一息に噛み締めれば、忽ち中から溢れ出すは未だ熱を失わぬこし餡である。芳醇な香りと上品な甘みが口内一杯に広がった。
嗚呼、至福。
「うむ――素晴らしい。文句の付け様もないな。蘭の奴に食べさせてやれないのが残念だ」
「確かにね。どこで何をやってるのか知らないけど、ランも勿体無いコトをしたよ。むぐむぐ」
「美味也」
「うまー」
たっぷり一ダースあった鯛焼きは、気付けば十分ほどの時間の内にその姿を消していた。かくも俺達を魅了し虜にするとは、実に恐ろしき魔力である。夕食を控えて膨らんだ腹を手で押さえながら、俺は和菓子の素晴らしさと脅威を改めて実感していた。
「さて、望外の和菓子を食せて休憩も取れた事だ。疾く作業を再開するとしよう」
「ん?そーいやご主人、何やってんのさ」
机に向かって広げたノートの中身を、ねねは背後から俺の肩に首をちょこんと乗せるようにして覗き込んだ。
「あ、勉強か。何だか意外だなぁ、ご主人もちゃんと学生っぽいコトしてるんだね」
「失敬な奴め……言っておくがな、俺以上に真面目な優等生なんぞ全国を探しても中々見つかるまいよ」
取り敢えず、勉学に対する姿勢だけは。授業態度だとかその辺りの細かい事は考慮すまい。
「高校に通えるのはどう足掻いたって今の内だけなんだ。やるべき事はやらないとな」
少しでも“夢”に近付く為には如何なる進路を選ぶべきなのか……今はまだ慎重に見定めている最中だが、何にしても学力を磨ける内に磨いておいて損をする事はないだろう。
それに、わざわざ将来的な話を持ち出すまでもなく、S組に籍を置き続けるためには来るべき定期試験にて好成績を収めねばならないのだ。学年総合順位が五十位以内――それがエリートクラス・S組の在籍条件の一つである。成績が落ち込めば問答無用で“S落ち”。万が一にでもそんな醜態を晒さないためには、日々の予習復習を欠かすべきではない。
「それに、だ。残念ながら俺には武才が無いからな。必然、智で勝負するしかないのさ。伸び代が僅かでも残っているなら、活かす為の努力を惜しんだりはしない」
そう、成長の余地があるならば。
“智”は鍛えられるが、俺の“武”は既に打ち止めだ。幾ら血反吐を吐き散らしながら鍛えたとしても、これ以上実力が伸びる事は有り得ない。その点に関しては天下に名高き川神院、その元・師範代という世界最高峰の武人によるお墨付きだった。
思い返すだけで身体が拒絶反応を起こしそうな地獄の修行時代、あの慈悲も容赦も欠片も無いオッサンにはそれこそ極限まで絞られたので、「あームダムダ、お前さんの才能じゃどう足掻いてもこの先には往けねぇよ」という投げ遣りな通告は嘘偽りない事実なのだろう。人格面については一切信用出来ないが、武の師匠としての優秀さだけは確かな信用に値する。釈迦堂刑部とはそういう男だ。
「へぇ、ご主人ってば見掛けによらず努力家なんだね。まあ野望のスケールを考えればサボタージュしてる場合じゃないか」
ねねは俺の肩に頭を乗っけたまま、机の上に積んである参考書をパラパラと捲りながら感心したように言う。
と言うかこいつは何時までこの体勢を続ける気なのだろうか。小柄な小娘とは言えど人間一匹、流石にそろそろ肩が重くなってきたのだが。
「そういう事だ。という訳でネコ、お前と遊んでいる暇は俺には無い。己が巣へ早々に引っ込むがいい」
「精忠無二をこの世に体現した存在と言っても過言じゃない私に対して、その扱いはちょっと酷いんじゃないかな。私はご主人が頑張ってる横で遊び呆けてられるような薄情な臣下じゃないつもりだよ。幸いにして教科書類はここにあるし、私も一緒に勉学に励むとするよ。くぅぅ、我ながら素晴らしく美しき忠義哉、感動で思わず泣けてくるよ」
異議を申し立てる間もない。ねねは一方的に捲し立てながら、自前の学生鞄からノートと教科書及び筆記用具類を取り出し手際よく机に並べる。正直な所ただでさえ狭苦しい机上のスペースがますます圧迫されて迷惑極まりなかったが、擦り寄るようにして俺の隣に陣取ったねねの妙に満足気な澄まし顔に、まあ別に構うまいと思い直した。寛容さを養わなければ統率者としての器は得られない。
という訳で、主従並んでの勉強会が唐突に幕を上げる。普段は無意味に騒がしいねねも集中する時は集中するタイプらしく、一度机に向かえば借りてきた猫のように大人しくなった。真剣な顔で口を噤み、ピンと背筋を張った正座で粛々とノートに向かう姿を見る限り、なるほど確かに良家の出身だと納得させられる。日常的にこの勤勉さの一割でも発揮してくれれば俺としては嬉しいのだが、まあ所詮は叶わぬ望みなのだろう。
さて、従者の生態観察はこの辺りにしておくべきか。明日の大将戦に備えて策を見直しておきたいし、状況次第ではあるが手回しも必要だ。時間は幾らあっても足りはしない。自分で設定した本日のノルマを早々にこなすべく、俺は参考書を開いた。
それから暫くの間、カリカリとペンが紙面を滑る音だけが部屋に響く。再び静寂が破られたのは、一時間以上が経ってからだった。
「ねぇご主人」
集中力が限界を迎えたのか、ぐでん、と背中側のベッドに向かって仰向けに頭を投げ出しながら、ねねは気だるげな調子の声を上げた。
「どうした、もう腹が減ったのか?至高の和菓子をあれほど食しておきながら足りぬと申すか、卑しい従者め」
「まあそろそろ新たなお魚さん成分を胃袋に補充したいのは否定しないけど。考えてみればこうしてご主人と二人っきりで話せる機会って言うのも珍しいからさ、折角だし今しか出来ない質問をしておこうと思ってね」
「確かに蘭と別行動、ってのはなかなかレアなシチュエーションではあるな。で、何だ?」
「これ、ずぅっと気になってたんだけどさ」
ねねはぐいっと一気に頭を起こして、横合いから俺の顔を覗き込む。
焦げ茶色の瞳に映る自身の顔を目視できる至近距離で、ねねが探るような眼で問い掛けた。
「ご主人とランって――どういう関係なの?」
…………。
………………。
「……俺と蘭の関係、ね。それは、」
数瞬の間に用意した返答を口に出すよりも先に、その上から被せるようにしてねねが言葉を続けた。
「ちなみに分かってるとは思うけど、主従だとか家族だとか幼馴染だとか、そういうワザとらしく在り来たりな答えはここじゃ求めちゃいないからね。ご主人も別に鈍感な朴念仁って訳でもないだろうから、私が何を聞きたいのかは誤解しないでしょ?」
「……まあ、少なくとも人並みには聡いつもりだからな。質問の意図は正しく理解しているさ」
いつかは必ず訊かれるだろうとは思っていた。ねねの性格を考えれば、むしろ今の今までその質問が飛び出してこなかった事が不自然な位だろう。
織田信長と森谷蘭の関係。
問われると事前に察知していたからと言って、それに対して明確な回答を用意できるかと言われれば……また別問題なのだが。
「それじゃあ遠慮なく。ぶっちゃけ、二人って付き合ってるの?」
「……。本当に直球だな……しかもストライクゾーンど真ん中という豪胆さ」
ぶっちゃけ過ぎである。歯に衣着せないというか何というか。相変わらず物怖じしない奴だ、と半ば感心する。
「基本は変化球で攻めるのが柔能制剛をモットーとする私のやり方だけど、こればっかりはストレートじゃないと誤魔化されそうだしね。それで、どうなのさ」
ずずいっ、とちみっこい身体を寄せながら興味津々な表情で回答を迫る従者第二号。
これは適当にはぐらかした所で諦めてくれそうにないな、と観念して、俺は溜息混じりに口を開いた。
「お前がどんな答えを期待しているのかは知らないが、俺に言えるのは一つだけだ。そのような事実はございません」
「ふーん。ま、分かってたけどね~」
「くっくっく。そうかそうか」
この小娘、真剣で一回シメてやらねばならんようだ。
俺の怒りが有頂天に達する兆候を感じ取ったのか、ねねは慌てた調子で取り繕いを始めた。
「いやいや他意は無いんだよ、そこのところを誤解して貰っちゃ困るねウン。意志伝達の不備は不幸な行き違いを生みかねないから釈明の時間は必須事項だと私は心から思うんだよウン。えっと、何ていうかほら、キミ達二人は恋人同士ってイメージからは縁遠い感じだし?少なくとも私の目の届く所じゃ武士武士した遣り取りばっかりしてるよね。ホントもう時代錯誤も甚だしいって言うか戦国時代でやれって言うか――ああいや言葉の綾でしたごめんなさい怖いから睨むのミニストップ!殺意の波動はノーサンクス!」
やけにコンビニエンスな許しの乞い方である。誠に残念ながら反省の色は見受けられない。
やれやれだ。心の広さには自信のある俺だが、この莫迦従者の自重しない傍若無人さにはもはや嘆息する他なかった。
「全く、従者の癖に主君が地味に気にしてる事に触れるとは何事だ。それこそ俺が真に戦国大名ならば無礼討ちは免れない所だぞ」
「一応気にしてたんだ……あ、いや何でもないですハイ。うーん、そうかやっぱり付き合ってないのかぁ。でも、二人ってもう十年単位で一緒に暮らしてるんでしょ?それで何もないって言うのは不自然な気がするんだよね。逆に距離が近過ぎて異性として意識出来ないとか、そういう感じなのかな?」
「そう解釈して頂いて結構。お前には言ったが、俺にとって直臣ってのは家族同然の存在なんだよ。当然ながら蘭の奴もその枠に入る訳だ」
「ふーん。家族、家族かぁ。まあそうだよね、家族の関係に色恋沙汰は持ち込めないよね」
何事か考え込むようにしばらく目を伏せた後、「だけどさ」とねねは続けた。
「仮にご主人の本音がそうだとしても、ランの方は違うと思うんだ。出逢って四日かそこらの私ですら分かるような事に、ずっと一緒に過ごしてきたご主人が気付いてないハズがないだろうけど――ランはきっと、ご主人の事を“ただの家族”だとは思ってないよ」
――蘭にとっての俺、か。
幼馴染で主君で共犯者で同志で家族で、そして、
『えへへ、シンちゃんはやっぱり優しいですね!』
……女々しいな、俺も。未だに思い出を未練たらしく引き摺っているとは、情けない。
咄嗟に歪みそうになる表情を抑えて、努めて冷静な態度でねねを見遣る。
「そうかもな」
「そうかもな……、って。それだけなの?」
特に何の感情も込めずに放った返事に、ねねは眉を顰めた。機嫌を悪くしたのか不審を感じているのか、いまいち判別出来ない反応だ。或いは両方なのかもしれない。
まあ俺にしてみればどちらでも良い事だった。何にせよ、この件に関しては普段の如く饒舌に語る気分にはなれそうもない。
「“それだけ”さ。どう足掻いてもそれだけだ。軽々しく言葉に出来るもんじゃないんでね。無駄口を叩けない以上、俺に言える事なんぞ殆どゼロに等しい訳で」
「……分かったよ。何か話し辛い事情が関わってるなら、詮索はしない。親しき仲にも礼儀は必要だと思うし」
ねねは神妙な顔で引き下がる姿勢を見せた。ここで無遠慮に踏み込んでくるようなら考え直さねばならない所だったが、やはり距離の取り方を心得ている、か。
親しさと馴れ馴れしさを履き違えないだけの賢明さを保有するこの小娘ならば、或いは。
淡い期待を胸に、俺は静かに口を開く。
「いや。そうだな――思えばこれも、丁度良い機会かもしれない。この先、あいつの内面に関わる事でお前の力を借りる可能性は十分に考えられる。だからお前には、早い内に事情を把握しておいて欲しいと言うのが本音だ」
「……事情って?」
恐る恐る、と言った調子で囁くように問い掛けるねねに、俺は暗い笑みを向けた。
「森谷蘭が織田信長に忠節を尽くす理由さ。その切っ掛けとなった忌々しい事件の顛末も含めて――お前には、全てを話しておこう」
「こうやってちゃんとお話するのは初めてですね。改めまして、私、森谷蘭と言います。よろしくお願いします、椎名さん!」
「…………」
「えっと、あの」
「……何か用?」
「う、うぅ。ご、ごめんなさい。私なんかにいきなり声を掛けられても、迷惑なだけですよね……」
「……別に」
心の底から申し訳なさそうな調子で頭を下げてくる少女に対して、椎名京は素っ気無く呟いた。そんなお世辞にも愛想の良いとは言えない態度をどう受け取ったのか、少女はますます萎縮して小さくなっている。その情けない様子に複雑な視線を向けて、京は僅かに目を伏せた。
別に。そう、別に怒っている訳ではない。ただ、戸惑っているのだ。
何と言っても椎名京は元・苛められっ子である。対人スキルやらコミュニケーション能力に関連するパラメータは、お世辞にも高いとは言えない。
容赦ない毒舌と自重しないボケという個性を披露できるのは、気心の知れた幼馴染集団、風間ファミリーの輪の中でこそだ。一度外界に放り出されてしまえば、挨拶の一つも満足に出来ない無愛想な人間に逆戻りしてしまう。京が自身の所属する弓道部に馴染めずほとんど幽霊部員と化している事や、ファミリーの面子以外のクラスメートから孤立している事には、主にその辺りに原因があった。
現在もまた同じ。人懐っこい子犬を連想させる無邪気さで接してくる彼女の態度に、どう対応していいか分からないだけだった。
ただまあ、じわじわと涙目になりつつある少女の姿を見る限り、このまま対応を変えなければ少なからず面倒な事になるのは明白である。仕方が無い。京は小さく溜息を吐いて、重い口を開いた。
「……急に声を掛けられたのは驚いたけど、怒ってない。迷惑でもない。そんな風に謝られても、困る」
「う、うぅ。ごめんなさい」
「…………ハァ」
苦手なタイプだ、と京は思わず溜息を漏らした。これが本当に“あの男”の懐刀と言われる存在なのだろうか、と内心疑わずにはいられない。
森谷蘭。2-S所属の転入生にして、織田信長の直臣。“手足”の一本にして筆頭。
京のイメージしていた彼女は、主君の命に忠実に従い、淡々と敵を殲滅する事のみに興味を見出す“道具”――鋭利で冷徹な、即ち抜き身の刃の如き人格の持ち主だった。実際、弓道場にて決闘に臨むまで、彼女は意図的にそういった雰囲気を見る者に感じさせるように振舞っていたように思う。
「あの、私、椎名さんとお話がしたくて。帰り道で偶々見かけたので、こうやって……あの、やっぱりご迷惑でしたか?」
だがしかし。実態はコレである。少しばかり想像の斜め上を行き過ぎていた。
決闘中の凛とした振舞いが見る影も無く崩れ去った少女のおどおどした姿に、何だか頭が痛くなってくるような気分の京である。
「何度も言うけど。怒ってないし、それほど迷惑じゃない。……そんな風に謝りすぎるのは、相手にしてみれば心が狭いって言われてるみたいで印象良くないよ」
「あ、ご、ごめ……いえ失礼しました!ご教授ありがとうございます、蘭はまた一つ賢くなりました。もう何があっても謝りませんよ!」
「何やら最低な人間を生み出してしまった予感。この罪は墓場まで持っていこう」
織田信長の懐刀は想像以上に愉快な個性の持ち主らしい。そこでふと、京は赤の他人と話しているにも関わらず自分がそれほど緊張していない事実に気付いた。ファミリー外の人間と話す時はどうにも普段の調子が出ないのだが、目の前の少女を相手に緊張するのはこれ以上なく馬鹿馬鹿しい行為のような気がするので、その辺りが理由だろうか。
「えっと。隣、宜しいですか?」
黙って頷くと、蘭はいそいそと隣に腰掛けた。一体何が嬉しいのか、えへへ、と笑う。
正直、やり辛い。
「今日は、風間ファミリーの皆さんは一緒じゃないんですね」
「ちょっと考え事がしたかったから、一足先に下校中。正直、あのまま弓道場にいたら色々と面倒だったし」
ああいう人が多い所は好きではない。それに、2-F担任にして弓道部顧問のウメ先生にはしつこく声を掛けられる上、弓道部員達に向けられる多種多様な視線も鬱陶しかった。賞賛するような目、戸惑うような目、責めるような目。それら全てが入り混じった目。何れも等しく京にとっては無価値で、煩わしいだけだった。
「そっちは」
「え?」
「“主”は?私の中ではいつも一緒にいるイメージだけど」
「あ、信長様には先にお帰り頂いています。私事で主をお待たせする訳にはいきませんから」
「そう」
眼前に横たわる多摩川は、夕日の色を反射して黄昏色に染まっている。京は川面をぼんやりと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「多分」
「?」
「皆、あなたに勝って欲しかったんだろうな、って。そう思う」
決闘の後にギャラリーの間に生じた空気から、京は何となく大衆の意思を感じ取っていた。昔からそういう類の感情を向けられる事には慣れている。望むと望まざるに関わらず、己の心身を護るためには悪意に敏感である事が必要だった。
「良く言われる。私の弓には、“礼”が無いんだって」
昔から弓の天才と呼ばれてきた京は、大した努力などせずとも華々しい成果を挙げる事ができた。皆が口を酸っぱくして説く“武道に対する礼”とやらを殊更に意識せずとも、ただ無心で弓と向き合えば、自然と結果は表れた。誰よりも迅く、誰よりも正確に。凡人が千の努力を積み重ね、心身を厳しく鍛え上げてようやく至る境地に、京は涼しい顔で立っている。その事実は周囲の人間に拭い難い悪感情を植え付けた。妬み、僻み、嫉み。出る杭は打たれるのが世界の法則だ。
――しかし、京にとってはそんな事は、正しくどうでも良かった。
悪意の受け手となる京自身がそれらを無関心に片付けるため、事態はいつまでも改善しない。しかし、それが一体何だと言うのだろうか。風間ファミリーの皆は決して自分をそんな不愉快な目で見たりしないし、ありのままの姿を受け入れてくれる。ならば何の問題もない。外部の連中にどう思われようと、京の知った事ではなかった。
「……しょーもない」
注目されるのが苦手な京が、わざわざ決闘に臨んで勝利したのは、別に“どうでもいい”連中を喜ばせる為ではない。全てはファミリーの力になる為だ。幼馴染の皆が勝利を喜び、祝ってくれた現実に、京はこれ以上なく満足だった。
「――椎名さんは、何の為に弓を取られているのですか?」
だから、おもむろに口を開いた蘭の質問はやけにピンポイントで、京は咄嗟に思考を覗かれたような不快さを感じたのであった。別段痛い所を突かれた訳でもない筈なのに、思わず返答に棘を含んでしまう。
「……質問の意味が分からない」
「椎名さんの弓は、私では及びも付かない程に洗練されています。それほどの“武”を振るうには、やっぱり理由が必要だと思うんです。“心”と言うか、その、ですから、えっと」
わたわたと慌てて言葉を選んでいる蘭の姿に、京は小さく息を吐いた。
織田信長は2-F及び風間ファミリーの敵対者で、即ちその手足である蘭もまた立派な敵だ。本来ならばこうして会話を交わしている状況こそ有り得ないし、ましてや互いの内面に立ち入った話をする必然性などない。精神的に万年鎖国を旨とし、絶えず攘夷令を発している京にとっては尚更である。
「……それを聞いてどうするの?」
「あの、その。椎名さんの弓が本当に素晴らしいものだったので、後学の為にもその秘訣をお伺いしたくて。あ、あの、もちろん無理にとは言いません。敵対している相手に話すようなことでもないでしょうし……」
「……」
しかし。京は、不思議と彼女を拒絶する気になれないでいる自分に気付いた。
後にして思えば、京は確認したかったのだろう。初対面の時から蘭に対して抱いていた違和感。シンパシーとも言うべき感情の正体。
似ているようで似ていない。似ていないようで似ている。
歪な鏡面に映った自分の写し身を見ているような奇妙な感覚――その違和感の正体を掴み、解消する為ならば、ほんの僅かに鎖国を解いてみるのもアリかもしれない。そんな風に思った。
「いいよ、話しても。減るものじゃないし」
「え、わ、本当ですか!?あ、ありがとうございます!」
まだ話してもいないのに深々とお辞儀している蘭に呆れの目を送りながら、京は口を開いた。
「……私が弓を取る理由は、皆のため。それと、愛のため」
「風間ファミリーの皆さんと、えっと……、愛、ですか?」
「愛。英語で言うとラヴ」
「は、はぁ。ラヴですか」
面食らったような表情の蘭から目を離し、再び多馬川の流れに視線を向ける。忽ち川面に浮かび上がるは片時も忘れず心に住まう想い人、直江大和の肖像である。
小学生の時、孤独のまま苛めに耐えていた京を颯爽と救い出してくれた、白馬の王子様。
彼との出逢いが無ければ、京は自分がどうなっていたのか想像も付かない。風間ファミリーの一員に加わる事も出来ず、執拗な苛めから逃れられる事もなく。そんな運命を辿っていれば、自分は今頃、壊れてしまっていたかもしれなかった。それに何より――幼き頃から常にこの胸を満たしている、燃え滾るような想いを知らずに生きていただろう。それは、考えるだけでも恐ろしい話だった。
必ず添い遂げると心に決めた想い人の姿を脳裏に浮かべながら、京は歌うように口を開く。
「大和の役に立ちたい。大和に褒めて貰いたい。大和の敵は、一人残さず仕留めたい。そう思うのは、私が大和を心の底から愛しているから。私が弓を取るのは、愛のためだよ」
「じ、情熱的なんですね。そんな風にハッキリと言えちゃうって、凄いと思います」
蘭は照れたように顔を赤くしながら感心していた。京にしてみれば当然の事を当然のように口に出しているだけなので、何も恥ずかしい事はない。それに――相手が相手だ。気後れする理由はどこにもなかった。普段どおりの涼しい表情で、京は淡々と言葉を返した。
「他人事みたいな言い方はおかしい。あなたも同じハズ」
「……え、え?」
何を言っているのか分からない、とばかりのきょとんとした表情である。
何とも白々しい反応だ、と京は思う。誰よりも間近で射場に立つ彼女を見ていたのだ、気付かない道理がない。
彼女が何の為に、誰の為に弓を取り、弦を引き、矢を放っているのか。
精神を磨り減らし、肉体を酷使し、自身を限界にまで追い詰めながら戦っているのか。
他人などの為に人間はあそこまで必死になれやしない――と言うのが京の自論である。他人でも自分でもなく、ただ愛の為であってこそ、人はあらゆる苦難を乗り越えてみせるのだ、と。
故に京は、森谷蘭という少女から自身と同類の空気を感じ取った。そして決闘の最中、彼女が独り呟いた名を聞けば、その想いが誰に向けられているかは明白であった。
「ククク。私のラブセンサーは誤魔化せない。あなたもまた、私と同じ……愛の為に生きてるね」
「なぁぁっ!?」
すぐ隣で素っ頓狂な声を上げる蘭は、先程までとは比較にならないレベルで顔を真っ赤にしている。何ともまあ、分かり易い反応である。単純さに掛けてはウチのワン子とも張り合えるのではないだろうか、などとぼんやり思考する京を余所に、蘭は明らかにテンパった調子の喚き声を上げていた。
「ななななッ!何を仰っておられるのか判りかねます!」
「だったら分かり易く言うまで。あなた、好きな人がいるね。具体的に言うと例の“主”」
「……っ!?」
陸に打ち上げられた魚の如く口をパクパクさせているのは、混乱の余り言葉が浮かばないからだろうか。
見物していて面白いのでしばらく放って置こうかとも思ったが、下手に時間を与えて否定されるのも面倒なので、京は有無を言わせずさっさと畳み掛ける事にした。
「ここでさっきの質問をお返しさせて貰う。あなたが武を振るうのは、何の為?」
「それは勿論、主の為です!あ、で、ですがそれは、従者として当然の忠義の心であって!ラヴではなくロイヤリティと言うかですね!」
顔面から蒸気を噴出さんばかりの有様では説得力がまるで足りなかった。どれだけ致命的な鈍感でも、この様子を見れば彼女の本心など一目瞭然である。
京は幾度目になるか分からない、呆れを多分に含んだ視線を蘭に向けて、その往生際の悪さに小さく溜息した。
「恥ずかしがる理由が分からない。人を愛するのは何も悪い事じゃないのに」
「そ、それはそうかもしれませんが……って違います違います、ラヴ違いますロイヤリティー!」
「へぇ。私には好きな人の名前を言わせておいて、自分はそういう態度取るんだ。それってなんだか、そう……信義にもとるんじゃないかな」
「う、うぅぅうぅ」
あなたが勝手に口にしたんじゃないですか、と言い返されてしまえばそれまでなのだが、蘭は“信義”という言葉の効果か、苦悩の唸り声を上げて真面目に葛藤していた。いかにもそういう類の言葉に弱そうなタイプだ、との京の分析は正しかったらしい。さて、もう一押しか。
「あなたが周囲に知られたくないなら、絶対に口外しないと誓う。口の堅さには自信アリ。シャコ貝レベルを保障する」
「う、ううう。ホントに誓って頂けますか?」
「嘘だったらどんなペナルティでも受けるよ。針千本呑んでもいい」
「―――な、ならば!どうかこの誓紙にご署名を!」
叫びながら学生鞄から取り出したるは、“熊野牛王符”。誓約書として用いられる特殊な神札である。厳しい雰囲気を放つそれを胸の前にてバッと広げてみせながら、蘭は大真面目な顔で京に迫った。
何故そんな時代錯誤な代物を持ち歩いているのかとツッコミたいのは山々だが、迂闊な発言はこの流れに水を差しかねないので我慢する。京は神妙に誓紙を受け取ると、蘭の言葉を口外しない旨に自分の名前を添えて書き記した。
「これでいい?」
「……はっ、確かに。椎名さんの誓約、受け取りました。私も覚悟を決めます!」
決意の光を瞳に宿す。
そして蘭は、すうぅ、と大きく息を吸い込んだ。
「私は―――私、森谷蘭はッ!主、信長様をッ!お慕い申し上げておりますッ!!」
溢れる想いは暑苦しい叫びと化して、夕暮れの河川敷に木霊する。
「…………。…………あ、そうなんだ」
茹蛸を連想させる顔で盛大な宣言を終えた蘭に、京は微妙な表情で頷きを返した。そんな判り切っている事を、あたかも一世一代の大告白をするような気迫で言われても困る。
この分だと本人に想いを告げる時はどんな大騒動が勃発するのか、想像するのも恐ろしい。
「はー、はー、……う、ううう、蘭は、蘭は言ってしまいました」
頬に両手を当てて奥ゆかしく恥らっている蘭に、京は至って平然と言葉を掛ける。
「お疲れ様、と言っておく。この場合はむしろご馳走様、なのかな」
「う、う~、椎名さんは意地悪な人です!」
「これは心外なコトを言う。私なりの祝福なのに。それにしても、普段自分がやってる事とは言え、第三者の視点から客観的に見ると……。………………………」
「ど、どうしてそこで黙り込むんですかぁっ!何か言って下さいよぅっ!」
「冗談だよ。むしろ同士を見つけられて嬉しいかも。堂々と愛を叫べる人間が変人扱いされる現代社会。後悔も反省もしないけど、やっぱり少し肩身は狭かったり」
「椎名さん……これまでお一人で戦って来られたんですね。さぞやお辛かった事でしょう」
憂愁を感じさせる呟きが心の琴線に触れたのか、蘭は目をウルウルさせながら京の手を両手でガシッと握った。そのままブンブンと手を上下にシェイクされながら、京は淡々と口を開く。
「だけど、喜ばしいニュースが一つ。愛の戦士は私だけじゃなかった。もう何も恐くない」
「あ、愛の戦士ですか?えっと、私がそうなのかはちょっと分からないですけれど」
「嘘だね。あなたからは同類の匂いがする……ターゲットが寝る前に先んじて布団に潜り込んでおいたり、風呂場にて裸で無音待機して嬉し恥ずかしドッキリ☆ハプニングを演出したり、朝起きる前にやっぱり布団に潜り込んでおいたりしてるハズ。そんなあなたは愛の戦士を名乗ってもいい。私が許すよ」
「わわわわ私はそんな不潔な事はしませんっ!い、色仕掛けだなんて、ふふ、不埒な!し、椎名さん、まさかまさかとは思いますがそんなはしたない事を常日頃からっ!?」
実際はもっと過激な事も色々と実行している京だったが、流石にその内容までは口にしなかった。“この程度”のレベルで泡を食っている蘭が聞けば失神くらいはしかねない。
という訳で余計な事は言わず、京はニヤリと口の端を持ち上げて笑ってみせる。
「イエス。既成事実さえ作れば大勝利。不潔でも不埒でも構わない、そこに愛があるなら問題なし」
「大有りです!男女七歳にして同衾せず、常識ですよ!大体ですね、主の寝床に這入るなどと畏れ多い事を出来る訳が……あ、主の……うぅ」
果たして何を想像したのか、蘭は赤面して黙り込んだ。その様子を眺めて、京は重々しく頷く。
「私も最初はそうだった。……ような気がする。だけど、恥ずかしがってたら前には進めない。全ては愛のため。愛は全てに優先される。何故なら私たちは――愛の戦士だから」
「うぅ、私はどうあっても愛の戦士なんですね……」
あくまでマイペースな京に抵抗は無駄だと諦めたのか、蘭はがっくりと肩を落としている。
「それにしても分からない。人の趣味はそれぞれだけど、どうしてあの“主”にラヴを向けられるのか」
正直な疑問だった。京の目から見て、蘭の“主”、織田信長という男は途轍もない危険人物である。人間らしい感情など一切窺えない冷酷無比な雰囲気と、自分以外のあらゆる者を塵芥の如く見下した傲岸不遜な態度。加えて、触れる者皆切り裂くナイフ――どころの話ではなく、あたかも迂闊に近寄れば無差別に首を刎ね飛ばす処刑鎌の如き凶悪な空気を醸し出している。全身から発するオーラがあまりにも暗黒寄り過ぎて、一般的な恋愛対象として相応しいとは到底思えない。
こうして会話を交わした限りは、蘭はどう考えても善人寄りな感性の持ち主である。悪の帝王を地で行く信長に惹かれる動機など見当も付かなかった。
「何か、理由でもあるの?」
言いながら思い出すのは愛しの彼、直江大和との出逢いである。京が熱烈な恋に落ちた切っ掛けは、大和が身体を張って苛めから助け出してくれた事だが――或いは蘭もまた自分と同じような経緯を辿っているのではないか、そう考えたのだ。
「私が、主を愛する理由……ですか」
京の零した疑問の言葉を受けて。
蘭はやけに緩慢な動作で首を回し、京に向き直った。
「ふふ、簡単な事ですよ。何せ私は、主の。信長様の忠実なる従者ですから」
ニコリ、と朗らかな笑顔を浮かべながら、蘭は正面から京を見つめている。
「……っ!?」
――不意に、ゾクリと背筋が冷えた。
違う。自分を見てなどいない。彼女の視線は眼前の京を通り越して、何処でもない虚空を彷徨っていた。
「私の身も心も全ては主の為に在ります。この身は血肉の一片に至るまで主のもの。この心は喜びも怒りも悲しみも憎しみも、愛も、何一つとして余さず主のもの。だって私は信長様に永久の忠誠を誓った臣下なんですよ?そんな事は当たり前じゃないですか、わざわざ問う必要なんて無いでしょう?おかしなことを訊きますね。おかしな人です。ああ可笑しい。ふふ、ふふふっ」
その双眸に溢れんばかりの狂気の色が浮かんでいる様に映ったのは、彼女の横顔が夕焼けの血色に染められているが故の錯覚か。
曇りのない無邪気な笑顔で小首を傾げながら問い掛ける蘭の姿は、えも言わず空恐ろしい感覚を京に植え付ける。
「……」
得体の知れない化生と対峙しているかのような悪寒。
突如として雰囲気を変貌させた蘭の異様な迫力に呑み込まれ、京は思わず言葉を失っていた。
「そうです、私は従者で、私は……、…………。……あ、あれ?私、何を……?」
不意にぱちくりと瞬きをして、蘭は戸惑ったように呟いた。
瞳に宿るのは困惑と当惑。そこに狂気はない。先程覗かせた異質な雰囲気は、既に霧散している。
「……覚えてないの?」
「えっと、あ、椎名さん……。ごめんなさい!私、何か失礼なことを言ってしまったでしょうか?あの、私、昔から時々こういう事があるんです。自分でも何を考えてるか分からなくなって、意味の分からないことばかり言っちゃって。ですからその、さっきの事はどうかお気になさらないで下さいね!」
驚かせちゃってごめんなさい、と何度も何度も折り目正しく頭を下げる蘭に、嘘を吐いている様子は無い。
(コレって、まさか)
京は驚きに目を見開いた。二重人格。そんな有り触れた言葉が咄嗟に頭を過ぎる。
ジキルとハイド、解離性同一性障害。実例を目にした事は無いが、極端な雰囲気の変貌と局所的な記憶の喪失――京の知識にある症状と見事に当て嵌まっていた。
「…………」
「あ、あの、椎名さん、お気を悪くされましたか?ほ、本当に申し訳ないです、せっかく私なんかのお話に付き合って頂いたのに、こんな見苦しい姿をお見せしてしまって。気味が悪いですよね、こんなの」
寂しげに笑って見せる蘭に、京が感じたのは――苛立ち。
何かを諦めてしまったような彼女の弱々しい表情が、何故か無性に気に入らなかった。
「うぅ、私はやっぱり駄目駄目です……これ以上はご迷惑でしょうし、もう失礼しますね……」
「待って」
哀れみを誘うほどに縮こまり、背中を向けてトボトボと立ち去り掛けた蘭を、京は語気鋭く呼び止めた。
びくっ、と蘭が大袈裟に飛び上がって、恐る恐るといった調子で振り向く。
「何度も言うけど。別に怒ってないし、迷惑でもない。そんな風に勝手に私の気分を決め付けられる方が、よほど迷惑」
「え、あ、あの、でも」
「大体、情けないだとか駄目駄目だとか言ってるけど。こっちにしてみればそんなの今更過ぎる。期待されてるとか思う方が間違い」
「う、うぅぅ。ごめんなさい……」
刃で切り付けるような鋭い舌鋒に、蘭は涙目でしょんぼりと肩を落とす。
その哀愁漂う姿に自身の不器用さを再認識しながら、京は自身への呆れと戸惑いが入り混じった溜息を吐いた。
(私は何をやってるのかな、全く)
自分もっと他人に対してはクールでドライで、間違ってもこんなお節介なキャラではなかった筈なのだが、どうにも調子が妙だ。ファミリー以外の人間がどうなろうと知った事ではないし、ましてや目の前の少女は紛れもない敵である。本来ならば京が気に掛ける理由など何処にもない。勝手に立ち去るならば、わざわざ呼び止める必要などなかったのに。
(……我ながら良く分からない、けど。まあ、いいか)
周囲との人付き合いの悪さを改善するように、と大和からは再三に渡って忠告されている訳だし、考えてみれば好都合ではないだろうか。
京が現在のようにファミリーを除く他人に対して興味を抱き、自ら能動的に関わろうとする事など極めて稀だ。理由が分からずとも、この気紛れはチャンスと捉えるべきだろう。十数年を掛けて培ってきた性格がそう簡単に変わる事はないとは思うが、蘭との関わりは何かしらの切っ掛けになるかもしれない。
そんな風に思考を纏めると、京は改めて蘭を眺めた。
試合の際には武人としての凛々しい物腰を見せたと思えば、礼儀正しいのか単純に気が弱いのか判断に困る態度で声を掛けてきて、更には何やらエキセントリックな一面も併せ持っている模様。
色々と強烈過ぎる個性の持ち主だが……間違いなく言えるのは、彼女もまた川神学園に相応しい奇人変人の類であるという事だ。
本来ならばファミリーの敵であるという事実を差し引いても関わり合いを持ちたい相手ではない、と思う所だが。
一途な想いを胸に秘め、誰かの為に武を振るう――そんな彼女の在り方を知っているだけで、そう悪くない関係を築けるような。
そんな気がした。
「もう謝らないんじゃなかったの?有言不実行は感心しない」
「で、でも。私、みっともない姿を」
「……ハァ。忘れたとは言わせないよ。あなたもまた愛の戦士……なら分かるハズ」
「?」
「ラヴの前では全てが些事、多少の挙動不審なんて何でもない」
「え、えええっ、ラヴですかっ!?と言うか私はもう愛の戦士で決定なんですね……」
「あなたは私が初めて出逢った同士、云わばソウルシスター。語るべき事はまだまだある。私の許可を得ずに勝手に逃げるのは禁止行為です」
「そうるしすたぁ?」
「愛の戦士として真に目覚めたばかりのあなたは未熟。よって私にはベテランとして後進を導く義務がある」
「え、え?あの、椎名さん、何だか目が怖いですよ……?」
「あなたには特別に私が編み出した情熱的アプローチの数々を伝授してあげる。ありがたく思うといい」
「え、えっとあの、お気持ちは嬉しいですけど、い、色仕掛けとかはちょっと私は遠慮させて――」
「ぬるいっ!」
「ひぇっ!?」
「ぬるいね、ぬる過ぎる。ヌルヌルだよ。イヤらしい。そんな覚悟で愛を語ろうとは笑止。それじゃ私のソウルシスターは務まらないよ」
「いえですから、そうるしすたぁって一体」
「そういう訳なので、大人しく教えを受けるといい。ククク、逃げられるとは思わないことだね」
「う、うぅ。……何卒、お手柔らかにお願いします……」
黄昏色に染め上げられた多馬川の河川敷にて、邪な恋愛談義に花が咲く。
帰宅の途に就く学生は二人連れの女子高生達が醸し出す異様なオーラに恐れを成して、丁重に見て見ぬ振りを決め込んだと云う。
「――なるほど。なるほどね。それで、ランは“ああ”なってるんだ。何て言うか、壮絶だなぁ」
複雑な調子で感想を口にして、ねねはぐてりとベッドに頭を投げ出した。
俺が思い出したくもない思い出話を淡々と語り終えた、その直後の反応である。
皹が縦横無尽に走った天井を眺めながら、放心したようにぼんやりと呟く。
「しかしまあ、ランもあれで結構ハードな人生送ってるんだねぇ。人を外見で判断しちゃいけないってのは真理だと思うよ、全くさ」
「ま、蘭の場合、大体は見た通りなんだがな。イカれたパーツが大事な部分に混じり込んでるだけだ。それが全体を狂わせている」
「そういうコトかぁ。いや、色々と納得がいったよ。“忠臣”ね……ランらしいよ、ホント」
しみじみと言ったきり、ねねは口を閉ざし、そして目を閉ざして眉間に皺を寄せていたが、暫くしてから勢い良く身体を起こした。
「うん、壊れてるなら修繕が必要だよね。機械だろうと精神だろうと、メンテナンスを欠かしちゃ上手く回らない」
「……」
「わざわざ話してくれたのは、パーフェクトサーヴァントたるこの私を頼ってくれたと判断していいんだよね?だったら任せてよ。この聡明な頭脳をフル稼働させてサポートに回るからさ。それが私を拾ってくれたご主人への恩返しになるなら安いモノだよ、うん」
ねねは俺の顔を横から覗き込んで、少し恥らったように目を泳がせながら言った。
忠誠心なんぞあってないような物だと思っていたが、何とも可愛い事を言ってくれる。
日常的にこの殊勝さの一割でも発揮してくれれば俺としては嬉しいのだが、まぁそれもまた、所詮は叶わぬ望みなのだろう。
「全く、お前は。なぜベストを尽くさないのか」
「うん?」
心から漏れ出た俺の呟きの意味を理解できる筈もなく、ねねは怪訝そうに首を傾げていた。
「何でもないさ。言っても詮の無い事だろうよ。……しかし、蘭の奴はまだ帰らないのか。何処で何をしているのやら」
決闘を終えて弓道場を後にしたのが五時頃で、既にそれから約二時間半が経過している。窓の外では夕日が沈み終え、夜の帳が下りていた。
俺という足手纏いが横に居ない以上、武においては人外の域に達している蘭が自分の身を守るのは容易なので、その点に関しては心配するだけ無駄なのだが。
この場合における唯一にして最大の問題は――織田家の家事の悉くを森谷蘭が担当しているという事実である。
「なぁネコ。腹が減ったとは思わないか?」
「いや全くだねご主人。奇遇だなぁ、私も同じことを考えてた所だよ。これぞ別ち難き主従の絆って奴だね!」
「そんなお前に朗報だ。蘭の部屋の冷蔵庫に買い置きの食材が入っている。あとは……分かるな?」
「あははやだなぁご主人。私の出身は明智家のお嬢様なんだよ?包丁なんて危ない光物は握った事もないさ。だけどご主人はあれでしょ、昔から今みたいな極貧生活を送ってきたんでしょ?当然ながら自炊スキルくらい保有してるよね」
「生憎と俺は生まれてこの方、あらゆる意味で台所に立った経験が無い事が自慢でね。お前が従者で主君が俺で。この状況下において誰が夕飯を用意すべきか、賢いお前なら一目瞭然だろう?」
「私が賢く美しいのは否定しないけどさ、世の中には適材適所っていう至言があるんだよ。そこのところをご主人はどう思ってるのかな」
「パーフェクトサーヴァントは決して主君の手を煩わせたりはしない、というのが俺の見解だな。今まさにお前の忠誠が試されているぞネコよ」
「むむむ」
「何がむむむだ」
俺とねねが臨時料理人の座を押し付けあって不毛な争いを繰り広げている間にも時は過ぎ、腹の虫は増長して騒ぎ立てる。
かくなる上は二人揃って記念すべき料理人デビューを果たし、揺るがぬ結束の下、食用に耐え得る夕食を作り上げよう――と悲壮な決意を固めていた時、カンカンカン、と階段を駆け上る足音がドアの外から響いてきた。
この倒壊間近のアパートに棲息している住人は現在、織田一家のみである。
故に、足音の主が俺達にとってのメシアである事は疑いなかった。
「きた!ランきた!メイン料理人きた!」
空腹のあまり自慢の脳細胞が残念なことになっているのか、ねねは何やら有頂天な感じで叫びながら玄関へと突撃を敢行していた。
猛烈な勢いで扉を押し開く。幸いにしてドアの前には未だ辿り着いていなかったらしく、不意打ちのスマッシュで二階から叩き落される事は無かった。
部屋の入り口が開放されてから数秒後、我が従者第一号が息を切らせながら慌しく玄関に走り込んでくる。
「はぁ、はぁ、ふ、不肖、森谷蘭!只今帰還致しましたっ!夕餉のご用意が遅れてしまい、主にはお詫びの申し上げようも無くっ!」
「今はそんな事はどうだっていいじゃないかラン、真にキミがご主人の為を思うなら、頭を下げるより一刻も早く料理に取り掛かるべきだと私は思うんだ。って訳でさぁさぁハリー!ハリーハリー!ハリーハリーハリー!」
「そ、その通りですね。ねねさんには教えられてばかりです。よし、お待たせしてしまった分、今日は気合を入れますよ!献立は何をご所望でしょうか、ある……じ……」
さっそく台所に立って手際よく調理の準備を始めていた蘭だったが、意を伺おうと俺の方を向いた瞬間――硬直した。
何事か、と問い掛ける間もあらばこそ、見る見る内に蘭の頬は赤みを増してゆき、数秒後には完熟トマトの如き有様へと変貌を遂げる。
「う、うぅ、うぅうう。主、蘭は、蘭は――汚されてしまいました……主に合わせる顔がありませんっ!」
色々と聞き捨てならない台詞を残しながら、蘭は両手のステンレス鍋とお玉を放り投げて、脱兎の如き勢いで玄関から飛び出していった。
「…………」
まさか椎名京がそっち系の人間だったとは、調べが足りなかったばかりに俺の従者が毒牙に掛けられるとは不覚、等と多様な思考が脳裏を駆け巡るが、取り敢えず差し当たって言いたい事は一つである。
ねねが俺の気持ちを代弁するように、開きっ放しの玄関に向かって悲痛な表情で叫んだ。
「待って、待ってよ!キミの力が必要なんだ!このままじゃ私の胃袋が空腹でマッハなんだってば!」
夜闇に木霊する、魂の叫びに対しての返答はなく。
「椎名さん、私には無理です~!」という謎の泣き言だけが、ボロアパートに虚しい反響を残したのであった。
~おまけの風間ファミリー~
「~♪」
「何だか上機嫌だね、京。やっぱり決闘で勝てたのは嬉しかった?」
「ん、それもあるけど。比率としてはソウルシスターが見つかったのが大きいかな」
「何よソウルシスターって。魂の姉妹?私とお姉さまみたいに魂で繋がってる関係かしら」
「似て非なるもの。具体的に言うなら、将来的には大和に襲って貰う方法を一緒に考えてくれそうな存在だったり」
「どこが似てるのよ!まったく失礼しちゃうわ。ホラ大和、黙ってないで何かツッコミなさいよ」
「そうだな――皆に話がある。ちょっといいか?」
「ははは、こいつスルーされてやがるぜ、イデッ!?ワン子テメェやりやがったな!」
「うー、いちいちうっさいのよアンタは!ほっときなさい!」
「おーいお前ら、じゃれ合うのは後にしとけー。私の舎弟が何か真面目な話するっぽいぞ」
「その凛々しい表情……もはや永久保存したいレベルだね。それで、どうしたの?大和」
「明日の大将戦について、ずっと策を考えてたんだけど……生憎、最善と思える“策”は一つしか思い浮かばなかった」
「結構じゃないか弟よ。一つでもベストと思える作戦を立てられたなら万々歳だろ」
「確かにそうなんだけど、これがまた色々と極端な策でね。下手をすると策ですらないと言われても仕方が無いようなものだ。だから、まずは皆の意見を聞いてみたい。俺の提示するこの策が――信長に、通用するかどうか」
という訳で、今回は織田家のしょーもない恋愛事情について。
本来の予定では半分ほどの文量でさくっと終わらせる予定の話でしたが、中身の無いダラダラした会話を適当に追加していく内に、気付けば二万字を突破していたという。何とも作者の計画性の無さが露呈するエピソードですね。この反省を次回以降に活かせる人間になりたい。
次回はいよいよセカンドステージ大詰め、大将戦です。対戦カードは……既に皆さんに予測されていそうで怖いですが、意外性を出せたらいいなぁ。
基本的に四月中は非常に多忙なため、更新はやや遅れるかもしれません。気長にお待ち頂けると幸いです。それでは、次回の更新で。
>ムジカさん
修正しました、ご指摘ありがとうございます。どうやら色々と調べながら書いている内に混同してしまった様です。
>kurowokaさん
改めて見直すと確かに文の繋がりが妙ですね。修正しました、ご指摘ありがとうございます。