川神一子の夢は、世界最強に並び立つ事である。
それは、自分自身が世界最強の力を手に入れたいという事を意味してはいない。ただ、姉と慕う武神・川神百代と対等の存在になりたかった。
幼少の頃に知り合った時から既に百代の武才は圧倒的で、理不尽なまでに軽々と強者を蹴散らしていくその姿に、一子は常に畏敬と憧憬の目を向けていた。
やがて里親を亡くし、川神院の養女として彼女の家族となってから、その裏側に潜むモノに気付く。いかなる時でも燦然と輝いてみえた百代の中に巣食っているドス黒い狂気。それは、強者との死闘に餓え、生贄の血を欲する……そんな、凶悪なまでの戦闘衝動だった。
強過ぎる力に、強過ぎる欲求。いつか我欲のままに破壊を繰り返す修羅に堕ちはしないか。祖父の鉄心や師範代のルーを始めとして、川神院の多くの人間が彼女の性質と、その将来を憂いていた。
だから、一子は決意したのだ。心の底から尊敬する、大好きな姉が堕ちてしまわないよう、自分が彼女を戦闘衝動という闇から護る盾になろうと。
百代の戦闘狂としての性質は生れ持ってのもので、その欲求を抑え付ける事は難しいだろう。ならば、彼女の衝動を受け止められる力を手に入れればいい。自分が彼女を満足させ続ける事さえ出来れば、理性と本能の狭間で苦しむ姉の姿を見ずに済むのだ。
そんな一子の決意は目標となり、そのまま“夢”となった。
実際、夢物語と言われても仕方のない話ではある。川神百代という存在の非常識さ、突き抜けた異常性を知る人間からしてみれば、一子の決意など子供の戯言でしかないだろう。蟷螂の斧、どころの話ではない。さながら蟻が太陽に挑むようなものだ。誰もが一子を諌め、窘め、或いは蔑み、嘲笑した。
しかし、一子は諦めなかった。それは決して現実を知らないが故の無謀ではない。自身が百代のような天才ではなく、それどころか秀才にすら届かない、只の凡才である事は良く承知していた。故に埋め難い才能の差を埋めるべく、努力を重ねた。努力で築いた礎の上に努力を積み、努力を重ね、ひたすらに努力を続けた。春夏秋冬昼夜を問わず、日々の鍛錬に常人の数倍の時間を費やし、川神院の師範代をして「無茶」と言わしめるハードな特訓を何百回と繰り返した。
そして、川神の姓を名乗り始めてから十年。一子の夢は未だに姿すら見えない遠くに在る。
確かに力は付いた。もはや十年前のように、百代の後ろに隠れて泣いているだけの臆病者ではない。今の一子が得物の薙刀を振るえば、数十人の武装した大人が相手でも容易く蹴散らせるだろう。それは紛れもなく、かつて一子が百代の勇姿を通じて夢見た“武の高み”に違いなかった。
しかし、敬愛する姉の姿は未だに背中すら見えない。まるで近付いた気などしなかった。宇宙が膨張するのと同様に、川神百代は成長を続けている――そんな祖父の言葉を思い出すと、一子の胸にはどうしても暗い疑念が湧き上がる。努力、努力。百の努力は所詮、百の才能の前では何の役にも立たないのではないだろうか。それは、普段は極力考えないようにして、心の奥底に封じ込めた禁断の疑惑だった。
勇往邁進。より一層がむしゃらに、ひたすら前だけを見て鍛錬を続けている内に忘れ掛けていたその想いは、とある出会いによって再び一子の心に浮上してきていた。
新学年の始まりと同時に突如として現れた二人組、織田信長と森谷蘭。
常にどこか満たされない顔で過ごしていた姉が、表情を輝かせて彼らの事を語る様子を見て、一子は自分でも理解できない感情が胸中を渦巻くのを感じた。それが嫉妬なのか焦燥感なのか疑惑なのか、生来そういったドロドロした感情とは縁遠かった一子には分からない。ただ、自分は姉にこんな顔をさせた事など一度もなかっただろうな、という虚しさだけはハッキリと自覚する事が出来た。
そして、脳裏に蘇るのは今朝方の遭遇。転入以来、常に騒動の中心に居座り、全校生徒の注目を集めている男――織田信長と、一子は正面から対峙した。圧倒的と形容する他ない威圧感と、絶望的なまでの力量差。数分に満たない邂逅の中で、自分のどうしようもない無力さを十分に思い知らされた。
川神百代が認める理由、川神鉄心が案じていた理由、ルー・イーが危険視していた理由。直接的に対峙する事で、一子はそれらを身を以って実感し脅威を感じると同時に、改めて己の矮小さを噛み締める事になった。
「こんなの」が姉の求めるレベルなのだとしたら、今の自分では絶対に届かない。睨まれただけで身体が恐怖に怯え、歯の根が合わなくなるようでは、昔の臆病な自分と何の変わりもないではないか。泣き虫の自分とはお別れしたハズなのに、本物の怪物を前にした途端にこの様だ。
まだ足りない。まだまだ足りない。鍛錬が、経験が足りない。そう、努力が不足しているのだ。才能の壁を乗り越えられないのは、自分が努力を怠っている所為だ。勇往邁進、勇往邁進。努力を続ければ道は開ける筈なのだから。
(ユーオウマイシン、よ)
自己暗示のように何度も心中で唱えて、無意識の内にハンドグリップを握る右手に力を込める。ぎしりぎしり。片時も手放さないトレーニング器具が、普段よりも大きな音を立てて軋んだ。
「ワン子、どうかした?」
聞きなれた幼馴染の声が鼓膜を打って、一子は自分が教室にいる事を思い出した。川神学園2-F、いつの間にやらホームルームは終了し、現在は放課後らしい。生徒達はそれぞれの部活に顔を出すか、或いは帰宅部としての活動を始めようとしている。教室に残っているのは2-Fメンバーの半数ほどだった。
ぐるりと首を回して周囲を見渡してみれば、風間ファミリーの面々はまだ帰宅準備の途中の模様。それを確認してから、たった今声を掛けてきたファミリーの一員、椎名京に向き直る。
「あはは、何だかボーっとしちゃってたみたい」
「ボーっとしながらも鍛錬を欠かさないのは流石ワン子というしかないけど、ちょっと様子がヘンだったよ。なんというか、鬼気迫る感じ。らしくないね」
一子を覗き込む京の顔には心配の色が浮かんでいた。自覚はないしいまいち実感も湧かないが、かれこれ十数年の付き合いの彼女が言うのなら、間違いはないのだろう。そんなに気難しい顔をしていたのだろうか。眉根を寄せながら両手で顔を捏ねくり回していると、京はクスクスと控え目な笑い声を漏らした。
「む、何を笑ってるのよ。人様の顔を見て笑うなんて神経疑っちゃうわね」
「別に。安心しただけ。ククク、所詮ワン子はワン子よのう」
「何だか腹立つわね……アンタ達がアタシをどんな目で見ているのか聞き出してやりたいわ」
「何と言う恐れを知らない戦士。本当に聞きたい?後悔しない?」
「あうぅ、やっぱいい。何だか怖いから聞きたくないです……」
そのまましばらく京と雑談を続けていると、帰宅部の活動準備を終えたらしい風間ファミリーの面々が一子の周りに集まってきた。直江大和と島津岳人と師岡卓也、つまりはファミリーの男衆である。肝心のキャップ・風間翔一は宣言通りに今朝方から武者修行の旅へと出立しており、不在だった。つまるところ、三年生の百代を除けば、現状集まる事の可能なメンバーは全員がここに揃っている訳だ。
「んで、お前ら放課後どうするよ。ちなみに俺様はジムに顔を出そうと思ってる」
「あれ、ガクト。今日ってトレーニングメニューじゃ休みの日だよね」
「そのメニューを組み直しに行こうと思ってよ。ここのところ少し弛んでたから、ガッツリ鍛え直さねぇとな。へへ、今年の夏こそ俺様の究極の肉体美で女を虜にしてやるぜ」
「またそんな事言って。ホントは今朝の事気にしてるんでしょ?」
「いちいち余計なこと言ってんじゃねー。……まあそりゃ、気にすんなって方が無理な話だろうがよ」
今朝の顛末を思い出しているのか、岳人の顔は苦いものとなった。ファミリーの男衆の中では飛び抜けて精強な肉体を持ち、喧嘩などの荒事においては相当な自信があったからこそ、転入生を相手に何も出来なかった自分が腹立たしいのだろう。一子には想像する事しか出来ないが、今回の一件で男としてのプライドは深く傷付けられたハズだ。
「何も出来なかったのは皆一緒だよ。私だって動けはしたけど、あのままじゃ逆立ちしても勝てなかった。……そういう訳で、部活、復帰しようか本気で迷ってる最中」
「な、なんだってー!?」
複雑な表情で迷いを口にした京に、ファミリーの面々は揃って驚きの目を向けた。
彼女は、自身の所属する弓道部では既に幽霊部員と化している。風間ファミリーの外における人間関係を煩わしく思い、極端に厭う、元・苛められっ子の少女。そんな彼女が自発的に部活という外部のコミュニティに参加しようと考えているのだ。それほどまでに例の転入生との遭遇は大きな刺激となったのだろうか。
「私はファミリーのみんなさえいれば他はどうだっていい。だけど、だからこそ、私はあの転入生みたいな脅威からみんなを確実に守れる力が欲しい。正直部活とかは面倒だけど、その為だったら、私は頑張れると思う」
「そうか……京が自分の意思で決めた事なら、俺達は何も言わない。出来る限り応援するだけさ」
「大和、嬉しい。それはつまり結婚を前提にお付き合いしてくれると受け取っても」
「宜しくないんだなこれが。京がファミリーの外にも世間を広げるのは素直に賛成するけど、それとこれとは話が別」
「相変わらずのイケズなんだ。だけどそれでもいい、私は我慢強い女……鳴くまで待とうホトトギス」
もはや2-F名物と化した恒例の遣り取りを眺めながら、一子は再び物思いに沈んでいた。
(そっか。そうだよね)
キャップは真っ先に風の如く修行へと飛び出し、ガクトはトレーニング量を考え直し、京はあれほど苦手としていた部活に向けて自ら動き出そうとしている。彼らは皆が自分なりの方法で自分を磨こうと考えているのだ。織田信長という強大な壁の出現に心を揺さぶられ、己の無力に悩んでいるのは誰もが同じ。
(アタシは一人じゃない、ファミリーのみんなが一緒なんだ)
そう思うだけで、心が軽くなるのを感じた。具体的に問題が解決した訳でもなく、打開策が見えた訳でもない。しかし、子供の頃から共に困難を乗り越えてきたこの仲間達がいれば、先の見えない暗闇も恐れずに進めるような気がした。
「ユーオウマイシンよね、やっぱり」
「いきなりどうしたワン子。これから電波キャラを目指すのは茨の道だぞ」
「隣の2-Sに強力すぎる対抗馬がいるしねぇ」
「まあアレに対抗するにはワン子は色々と足りてないな。具体的には頭とか胸とか」
「うぅ、うっさいわね!ちょっと心の声が漏れちゃっただけじゃない!」
愛すべき幼馴染どもにはまるで容赦というものが無かった。風間ファミリーにおいては基本的にシリアスな空気は長続きしない。それを長所と捉えるか短所と捉えるかは意見の分かれる所だろうが、お気楽な雰囲気を好む一子としては尊重すべき美点と言える。これで自分が事あるごとにイジられさえしなければ文句はないんだけどなぁ、としみじみ思っている時であった。
教室の戸がガラリと無造作に開かれ、そして――其処から氷点下の冷気が流れ込んだ。
「っ!」
その凶悪な“殺気”に対し、真っ先に反応したのは椎名京だった。弓道を主に修めた京は、ファミリー内では二番目に優れた気配探知能力を発揮する。ちなみに一番は言うまでもなく百代である。京は誰よりも早く動き、他の面々を庇うように前に出て、鋭い眼光で闖入者を睨み据えた。
「ふん。ここが件のF組、か。随分と乱雑な事だ。Sの連中と気が合わぬも道理よ」
「主のお気に召されないなら、是非とも蘭にお命じ下さい。私の意地と誇りに賭けて、必ずや塵一つ残さず掃き清めて見せましょう」
視線の先には今朝方以来の二人組、織田信長と森谷蘭の姿。彼らは京の存在など気にも留めていない様子で、腹立たしいほど悠然とした歩調で2-F教室に足を踏み入れた。
別段、彼らはこれといって敵意も害意も見せていない。にも関わらず、空気は痛いほどに張り詰め、逃れられない重圧が瞬く間に教室を支配していく。
相変わらず、無茶苦茶だ。同じ人間だとは到底思えない。背筋を走る怖気に抵抗しながら、京はギリリと歯を食いしばった。
風間ファミリーを含めて、ほぼ全ての生徒がその得体の知れない雰囲気に呑み込まれている。彼らの傍若無人な歩みを止める人間は現れないかに思われた。
「わ、私たちのクラスに、な、なんのご用ですか。用件がないなら、ど、どうかお引取りください。みんな怖がってます……」
しかし、そんな凍り付いた空間の中で尚、動く者がいた。
顔色は真っ青で手足はガクガクと震え、完全に涙目になりながらも、クラスメートを守るべく信長の眼前に立ち塞がる小柄な少女。2-Fクラス委員長の甘粕真与だった。信長は感情の全く篭っていないガラスのような冷たい目を彼女に向けて、口を開く。
「ふん。成程、貴様がこのクラスの委員長。つまりは代表、と言う訳か」
「そ、そうです。お姉さんの言う事を、どうか聞いてください……」
「下らんな。笑うにすら値せん」
必死の懇願に近い真与の言葉を無表情で受け止めて、信長は吐き捨てるように言う。同時に向けられる、冷気に満ちた信長の双眸に、真与はビクリと身体を震わせた。
「F組が俺の障害と成り得るか。推し量る為に足を運んでやったが――もはやその必要も無いと見える。斯様に無力な小娘を代表に据えている連中など、幾ら集まった所で烏合の衆よ。貴様もそう思うだろう?2-F委員長、甘粕真与」
「あ、う、うぅ……」
言葉の一つ一つに重圧を乗せながら、信長は射殺すような視線を真与に向ける。もはや振り絞った勇気も底を尽いたのか、真与は顔色をますます青褪めさせながら俯くだけだった。時が経てば経つほどに教室を覆う空気は冷気を増し、重苦しい静寂が広がる。
「そこまでにしとけ、信長。テメェは弱ぇ相手を苛めて喜ぶようなクソ野郎じゃなかった筈だろうが」
そんな息詰まる状況を打ち払うように声を上げたのは、学年一の不良学生、源忠勝。ワン子にとっては風間ファミリーの面々よりも付き合いの長い幼馴染でもある。腕っ節が強く頭が切れて手先が器用で、その割に性格は不器用で周囲から誤解され易いという素敵な個性の持ち主だ。
忠勝は特に臆した様子もなく、普段どおりの仏頂面のままで信長の眼前まで歩み出ると、「お前は下がってろ」とぶっきらぼうな動作で真与を庇った。
「またしてもお前が出張るか、忠勝。くく、どうやらクラスメートが余程大事と見えるな」
「勘違いすんじゃねぇ。俺は自分の学園生活を邪魔されたくないだけだ。別にこのクラスの連中の為にやってる訳じゃねぇ」
「くく。まあ良い、そういう事にしておいてやるとしよう」
弧を描くような邪悪な笑みを浮かべる信長は、気の所為かどこか愉快そうに見えた。信長と忠勝、二人はどういった関係なのだろう、と京は改めて疑問に思う。
口も目付きも態度も悪く、代行人というやや暴力的な職を持つ忠勝に、友達と呼べる存在は殆どいない。彼の口から友人の話題が出た事もない。そもそも彼らが知り合いだという事実を京が知ったのはつい今朝のことだった。
しかし、もしも二人が自分の想像以上に親しい関係だとしたら、この状況も穏便に解決出来るかもしれない――そんな期待を込めて、京は対峙する二人に視線を向ける。
「それで、ウチのクラスに何の用だ?風間達が売った喧嘩ならもうカタが付いた筈だ。俺はわざわざ頭まで下げたんだ、忘れたとは言わせねぇぞ」
「ふん。生憎と取るに足らん有象無象を逐一記憶に留める趣味は無いのでな。その一件にしたところで、今しがた思い出したわ」
「って事はつまり、それ以外の何かがあるって訳か」
「無論。2-Sの不死川心。心当たりがあるだろう?」
風間ファミリーを、特にワン子を見遣りながら放たれた信長の言葉に、ざわめきと動揺が広がる。
(成程。そういうこと)
まだまだ記憶に新しい出来事、2-Sの不死川心がワン子目当てに絡みに来たのはつい先程だった。毎度の如く下らない因縁を付けてきた彼女をファミリー総出で追い払う、そこまでは普段と同様の流れだが、今回は2-Sにイレギュラーと成り得る要素が存在した事で、事態はこれまでと異なる展開を見せようとしている。
「救い様の無い莫迦ではあるが、奴とてSの一員には違いない。故に。貴様らが不死川心を侮辱すれば、それはそのままS組の侮辱に。引いては俺に対する侮辱に繋がる。――些か、忍び難き事態よ。そうは思わぬか?蘭」
「ははっ!主のご威光を穢すものは、例え僅かな芽であろうとも躊躇わず摘み取るべきかと存じます」
奴に大義名分を与えるな。忠勝が何度も繰り返していた言葉を、京は改めて思い出す。大和も確か、「自分からケンカを売るような事はしないように」とワン子に対して口を酸っぱくして言っていた。つまり信長は見る物全て誰彼構わず叩き潰すのではなく、あくまで自分の行動に筋を通し、ある程度の正当性を持たせた上で動くタイプなのだろう。
思った以上に厄介な相手だ、と京は彼に対する認識を新たにした。無法な暴力にはそれを上回る理不尽な暴力――百代というワイルドカードをぶつければ済むが、この相手にはそういった対処が難しい。あくまで理に則って動く相手を問答無用で叩き潰す事は、学園側が承知しないだろう。
思考を巡らせる京を余所に、信長と忠勝の対話は続いている。
「S組の連中がどんなふざけた真似をしようが文句を言う事すら許さねぇ。もし俺達の誰かが反抗すれば、テメェと蘭が直々に動いて叩き潰す。――そう言いてぇのか?」
「さて、最初はそのつもりでいたがな。考えを改めた所だ。先も言った通り、俺がこの組に足を運んだのは、2-Fが俺の障害足り得る存在か否か、己が目で見定める為よ。そして、俺の所感によると――貴様らは悉く、取るに足らん。俺の歩みを妨げる障害物には程遠い。興醒め、だ」
本心からの言葉なのだろう。氷のような声音からは確かに失望の念が感じられた。完全に醒め切った、まさしく無関心そのものの目で教室を見渡す信長に、誰もが押し黙る。風間ファミリーとてそれは例外ではない。
信長の言葉を認めるのは屈辱以外の何事でもなかったが、しかしここで下手に激昂して口答えすれば、せっかく自ら立ち去りかけている脅威を自ら呼び戻す羽目になる。少なくとも京はそういった冷静な判断の上で沈黙を選んでいるし、他の面々もそれは同じだろう。
織田信長という男がいかに度外れた怪物であるか身を以って味わった以上、敵対を避けようと考えるのは至極常識的な判断だった。それを臆病だの卑怯だのと非難するのは馬鹿げている。ここは間違いなく沈黙を選ぶのが賢い選択だ。
「ちょっとちょっとアンタ!」
だから、そんな場違いに威勢のいい声が真横から上がった時、京は特に驚くでもなく、ただ「ああやっぱり」と呆れ混じりに思うだけだった。“賢い選択”なんて上等な理屈、このお馬鹿な幼馴染には通用しない。
「さっきから黙って聞いてれば好き放題言ってくれちゃって、本当失礼しちゃうわ!」
メラメラと両目に闘志を燃やしながら、ワン子は真っ直ぐに信長を見据える。先程まで抱えていた怯えも迷いも吹っ切れたような、力強く輝く目だった。ひたすら前だけを見て、夢と希望を追い求めるその姿こそが、多くの人間を惹き付けて止まない川神一子の魅力だ。
「ふん。随分と活きの良い雑魚も居たものだな。身の程を知れ、と言った筈だが?またしても醜態を晒したいか、川神一子」
「っ!?」
強烈な殺気の嵐が吹き荒れて、叩きつけるような激しさを伴いながらワン子を襲う。
それは余波に巻き込まれただけの京ですら心臓が凍り付くような恐怖に襲われる、無茶苦茶な殺意の奔流だった。果たして直撃を受けたワン子はどうなっているのか――固まった身体を無理矢理に動かして幼馴染の姿を視界に収めた京は、思わず息を呑んだ。
ワン子は笑っていた。全身から冷や汗を流し、歯をガチガチと打ち鳴らしながら、それでも不敵な笑みを崩さないまま真っ直ぐに信長を見つめている。
「残、念だったわね……アタシは、もう、泣き虫は卒業したんだから。二度と、泣いたりなんてしないわ!」
「……成程」
苦しげに言葉を紡ぐワン子の姿に何を思ったのか、信長は不意に殺気を緩めた。そして、拘束から解放されて荒い息を吐いているワン子に向かって、淡々と言葉を投げ掛ける。
「興が乗った。問おう。お前を支えるものは何だ、川神一子。足掻き続けても超えられぬ壁を前に膝を屈せず、前へと進む意志。其れを支えるものとは?」
「え?えーっと。アタシはそんな風に小難しい言葉を並べられても分からないけど……一つだけ言える。アタシが立っていられるのは、みんながいてくれるからよ。例え挫けても無理矢理引っ張り起こしてくれる仲間がいるし、どれだけの努力を積み重ねてでも絶対に守りたいと思う家族もいる。その事に気付いたから、アタシはもう泣かないわ」
(ワン子……)
織田信長を前にして京が自身の無力について思い悩んだように、ワン子もまた思う所があったのだろうか。
思えば今日一日、彼女にしては珍しくぼんやりと考え込んでいる時が多かった。その時間を通じて、ワン子はワン子なりの答えを見つけ出したのだろう。
実際問題、彼女の抱える夢の大きさを考えれば、まだまだ答えを出すには性急と言う他ないが、しかし当分の間はその気持ちを忘れないで欲しい、と京は思う。
そう、仲間は頼る為にいるのだ。風間ファミリーの愛すべきペットがひとり戦っているなら、立ち上がらない道理はない。
「あー、ワン子に先を越されるたぁ情けねぇな俺様。だが、今回ばっかりは豆柴にしては良く言ったと褒めてやるぜ」
「同感。まあここまで俺達風間ファミリーを馬鹿にされて黙ってるってのもちょっとね。どうせキャップがこの場にいたら同じことになってただろうし、仕方ないさ」
「確かに怖いけど、逃げちゃダメだよね。あ、僕ちょっと初号機パイロットの気持ちが分かったかも」
大和、ガクト、モロ。戦闘力では女性陣の足元にも及ばない男衆は、それでもまるで臆する事なくワン子の傍に立って、信長と正面から向かい合う。
「こうなると私が動かない訳にもいかない訳でして。エアリーディングは大事」
そして京もまた、躊躇なくそこに加わった。屈辱に耐えてやり過ごせば勝手に去っていく織田信長と言う巨大な嵐に、自ら首を突っ込む。損得勘定で考えれば間違いなく避けるべき行動だが、そんな事はどうでもいい。
いついかなる場合であれ、ただひたすら仲間のために戦うのが椎名京の生きる意味だ。大事な大事な幼馴染達。風間ファミリーは、京の全てだった。
「という訳で、ワン子には貸し一つだよ。ククク、いずれ肉体で支払ってもらいます」
「み、みんなぁ~」
先ほどの宣言は早くも過去のものと化したのか、ワン子は早速泣きそうになっていた。
「ったく……てめぇらは俺の忠告をことごとく無視しやがる。ちっ、だからてめぇは放っとけねぇんだよ、一子」
不機嫌な調子で言う忠勝に、ワン子は心の底から申し訳無さそうな顔で手を合わせた。
「タッちゃん、ゴメン。アタシのこと心配してくれてるのに、勝手な事しちゃって」
「別にお前の心配は……あーくそ、まあいい。こうなったら仕方ねぇ。俺も一応F組の人間だ、手を貸してやるよ。危なっかしくて見てられねぇぜ」
そうして、六人が織田信長と対峙する。
川神一子、椎名京、直江大和、島津岳人、師岡卓也、源忠勝。
一歩も退かない心構えを示す六名を傲然と見渡して、信長は酷薄に口元を歪めた。
「くく。茶番は終わったか?所詮は雑魚が群れた所で大勢が変わる訳でもない……が、俺に歯向かう気骨は確かに備えている。――俺の障害足り得るだけの資格は、ある。で、あるならば、少しばかり話は変わってくるな」
眼前の面々など放っておいてもまるで脅威にならない、と言わんばかりの余裕の態度で、信長は顎に手を当てて何事か思考している。
実際、この男はもはや不意打ちなど何の意味もなさないレベルにいるのだろう。例え上手く隙を突けたとしても、次の瞬間には背後に控える従者が立ち塞がる。手の出し様がなかった。
「だが、ここで仮に俺自らが貴様等を一息に捻り潰した所で、何の余興にもならん。天秤の揺れぬ勝負ほど興醒めなものも無い。……ならば、“手足”を用いるが最適、か」
「“手足”だと?」
忠勝の鋭い疑問の言葉を意に介せず、信長は言葉を続けた。
「ふん、これならば良い余興になりそうだ。ここに宣言しよう――此度の2-Fとの戦、俺は関与しない、とな」
特に誇張するでもなく淡々と吐き出された言葉の内容に、幾度目かの動揺が京達を襲う。
その意味するところを理解した瞬間、ワン子は怒りの声を上げていた。
「ちょ、関与しないってどーいうワケよ!アタシ達を馬鹿にしてんの!?」
「貴様等の実力に対する正当な評価の下に判断したまでだ。俺が関わらないのも、あくまで直接の話。間接的には動かせて貰う」
「?つまり……どういうコトよ」
「貴様はもう少し物事に対する理解力を身に付けるべきだな、川神一子。川神院の師範代は武“のみ”で務まる程、易くはない故。……兎も角、要約すればこういう事だ。俺自身は動かず、あくまで自身の有する駒のみを用いて、貴様等を屈服させる、と」
(おやおやまあまあ)
それは結局のところ、2-Fを馬鹿にしている事には違いないだろうに、と京はその清清しいまでの傲岸不遜っぷりに呆れた。お前達如きを相手に俺が出るまでもない――彼の発言はそう言っているのと実質的に何も変わらない。
なるほど、この他者を徹底的に見下した態度、まさしくあの憎き2-Sクラスの一員に相応しい。そう思えば、普段はクールな京も俄然燃えてくるものがあった。是が非でもその鼻っ柱を叩き折ってやりたくなる。他の面々も同じような気分なのか、表情に闘志が漲っていた。
その中でも最もやる気に満ち溢れたワン子が代表して信長を睨みつけ、口を開く。
「そのヨユーの顔、絶対に崩してやるんだから!それじゃ早速―――」
「生憎と俺は忙しい。明日に回せ」
勢い込んだところを外されて、ワン子は何とも言えない表情で言葉を詰まらせた。
忠勝達も肩透かしを食らったような顔をしている。ラスボス戦の前口上が終わったのに戦闘が始まらなかったような、そんな感じである。
相変わらずの無表情で佇む信長に、どこか力の抜けた声でワン子が噛み付く。
「忙しいって、アンタ帰宅部でしょうが。時間ならいくらでも」
「貴様等がどうなのかは知るところではないが、俺が部に属していない理由は主に二つ。興味が無い、時間が無い。貴様等の如く放課後に暇を持て余す為では、断じてない。足りない脳髄に刻んで覚えておくがいい」
「ぐ、ぐぬぬ……なんてコト、ごもっとも過ぎて何も言い返せない……!」
「あたた。帰宅部に正論は耳が痛いよね」
「あ~、お前ら大変だな、まぁこれを機に反省して日頃の行いを改めろってことだ」
「なんで自分は違うみたいな態度なのさ!まんまガクトのことだから!」
こんな状況でもツッコミを忘れないモロは本当に芸人気質だよね、などと冷静に考えている自分に気付き、京は自分の思考の緊張感の無さに少し呆れた。
風間ファミリー内でシリアスな雰囲気が長続きしないのはいつもの事だが、強大な脅威を目の前にしても平常運行、と云うのは少しばかりマイペース過ぎはしないだろうか。
「いかにして勝敗を決するか、その手段だが」
信長は眼前で繰り広げられる寸劇を完全に無視して、淡々と言葉を続けた。
「貴様等に決定権をやろう。ただし、俺からは一つの条件を指定する」
「む、何だか怪しいわね。“実は勝った方が負け!”とかのとんでもない条件だったりしないでしょうね」
「下らん。貴様等を相手に然様に姑息な真似が必要とは思えんな。原則として勝負は一対一の形式にて行う……それだけだ」
(なるほど)
わざわざ一対多を避けようとするという事はつまり、“手足”とやらの個人の能力が信長ほど怪物じみたものではないか、或いは“手足”にそれほどの数が居ないか。二つの可能性が推測として浮かび上がる。
信長の言葉に耳を傾けながら、京は既に敵戦力に関する分析を始めていた。もはや戦いが避けられないならば、事前に少しでも多く相手について情報を集めるべきだ。情報収集は戦の常道。ファミリーの“軍師”、大和を横目で伺えば、予想通り静かに思考を巡らせている様子だった。相変わらずクールで頼りになる大和カッコイイ抱いて――場所を弁えず暴走しそうになる思考を取り敢えず脇に置いて、京は信長に注意を戻す。
「主。そろそろお時間です。僭越ながらお急ぎになられた方が宜しいかと存じます」
「ふん、些か時間を潰し過ぎたか。まあ良い、障害を見定めるという目的は達した。蘭。往くぞ」
「ははっ!」
「さて」
信長は凍てつく眼差しで2-Fの面々を一人ずつ刺し貫きながら、口元を吊り上げた。
「くく。覚えておくがいい、俺は自らの障害を排するに欠片の躊躇もない。慈悲も容赦も期待せん事だ。―――2-F、俺の眼前に膝を屈する用意をゆめゆめ怠るな」
「アンタこそ、首を洗って待ってなさいよ!“手足”とやらを倒したら次はアンタの番よ!」
「それは、楽しみだ」
ワン子の無鉄砲な勇気に溢れた宣言を鼻で笑って、信長は悠然と踵を返す。僅かな恐れも迷いも感じさせない堂々たる背中に、物静かに従者が付き従う。去り際まで他者を寄せ付けない威風に満ちたその姿は、敵ながらある種の畏敬を覚えずにはいられないものだった。
唐突に吹き荒れた嵐はかくして過ぎ去り、放課後の2-F教室には普段通りの平穏が戻る。
「あ”~、疲れた……やっぱ無茶苦茶だわ、アイツ……」
重圧からの解放感を全身で味わうように、皆が大きく吐息を吐いた。結果として特に一戦を交えた訳でもなく、ただ数分間の会話を交わしただけだと言うのに、ファミリーの面々は酷く消耗した様子でぐったりと机に寄り掛かっている。もっとも威勢の良かったワン子ですら、前のめりの体勢で机にへばり付いている有様だ。かく言う京自身、決して無事と言う訳ではない。肉体的なダメージは皆無でも、精神が切実に休息を欲していた。しばらくはまともに動けそうになかった。
「ったく。そんな調子でよくあいつに挑もうなんて考えたモンだ。毎度毎度、無鉄砲過ぎんだよテメェらは」
一人だけそれほど消耗していない様子の忠勝が、呆れた目で風間ファミリーを見渡す。やはり昔馴染みと言うだけあって、あの男が放つ威圧感にも耐性があるのだろうか。何にせよ、彼という頼もしい戦力が味方についてくれたのは素直にありがたい話だった。
「あぅぅ。いつも心配かけてゴメンね、タッちゃん……」
「別に心配してる訳じゃねぇって何回言わせりゃ気が済むんだボケ。危なっかしくて見てられねぇだけだ」
「ククク。人はそれを心配してると言う」
「ツンデレ属性の世話焼き幼馴染、オプションとして家事万能……ゲンさんが男に生まれたのは神の大いなる采配ミスだと言わざるを得ない」
「てめぇら少し黙りやがれボケ!ちっ、テメェら、仮にとはいえ信長を敵に回したんだ。明日からは覚悟しとけ」
「は~い!」
「ったく、本当に分かってんのか?相変わらず緊張感のねぇ……まあいい、取り敢えず対策会議を開くぞ。てめぇらどうせ暇人なんだろうが、文句は言わせねぇ」
そんな訳で、四月十三日・火曜日の風間ファミリーの放課後は、忠勝主催の対織田信長特殊ミーティングで過ぎていく。忠勝が情報を持ち込み、大和がそれを吟味・検討し策を練り、ワン子が空気を読まず脳筋発言を放ってはチョップを食らい涙目になって、モロとガクトは例によってボケツッコミで盛り上がって、そして京はハードカバーを片手にそんな彼らを静かに眺める。
(きっと大丈夫)
幼少の頃から現在に到るまでの十数年、ファミリーが揃えばどんな壁でも乗り越えて来られた。今回の壁は果てが見えない程に巨大だが、京の胸に不安は無い。
京は分厚い歴史小説で口元を隠しながら、そっと微笑んだ。
(うん。みんながいるから、大丈夫)
―――――表/裏―――――
青空闘技場―――川神重工業地帯の一角に位置する廃工場をリングに繰り広げられる、血と罵声が飛び交う無秩序なストリートファイトの会場である。銃器暗器爆発物、目潰し金的不意打ち場外乱闘、基本的には何でもあり。ルール無用の危険地帯だ。言わずもがなアンダーグラウンドの住人達の巣窟だが、ネットを通じて全国と言わず全世界にまでその名は広まり、強者との死闘を求める戦闘狂が集う地として知られている。
表側の住人が下手に踏み込めば火傷では済まない混沌のコロッセウムは、同時に織田信長の拠点の一つでもあった。
「オラッ!ふざけんな!死ね死ね死にやがれボケがっ!」
そんな青空闘技場のエントランスに差し掛かった瞬間、聞きなれた罵声と人体が殴打される破壊音、血飛沫が飛び散る音などが盛大に俺を出迎えた。やれやれ全く来訪早々に不愉快な音を聞かせてくれるものだ、接客精神というものをどう考えているのか知りたい。
まあ、先客の応対に追われている相手に多くを求めるのも酷な話か。その先客がどうしようもなく手のつけられないクレーマーならば尚更である。下手に顔を出して巻き込まれるのは勘弁願いたいので、ここはしばらく様子を伺うとしよう。
「ど、どうかお許し下さい!この通りお詫びさせて頂きますので何とぞ――!」
「あー?おいおいオッサンよぉ、何でもかんでも謝って済めばケーサツはいらねーんだ、よォ!」
「ぐぎゃああああっ!?」
べきり、とまたしても骨がへし折れて、血飛沫が舞う。
被害者の中年男が奏でる苦悶の悲鳴をバックミュージックに、凶器のゴルフクラブをスイングした体勢で佇むのは、悪名高き板垣一家の末娘、天こと板垣天使である。自分の口元に飛んだ血を舐め取ると、ペッと忌々しげに吐き出した。目元が釣り上がり、顔は燃え盛る火炎の如く赤い。端正な顔立ちが悪鬼のそれと化していた。
あの怒り様は尋常ではないな、闘技場で一戦交えた後だろうし、大方興奮剤か何かでも使ったのだろう――と当たりを付けていると、奥からスーツ姿の若い男が一人、姿を見せる。青空闘技場の粗暴な空気には似合わないビジネスマンの如き風貌は、酷くこの場で浮いていた。
「お客様?一体何事でございましょうか」
恭しく天に声を掛けながら、男は油断ない目付きで素早く周囲を見渡し、状況を確認している。その蛇のような細い目が、おかしな方向に折れ曲がった身体を血溜りに沈め、苦痛に悲鳴を上げている中年の姿を捉えた。男はその怖気の走る光景を前に、不快なものを見たとでも言いたげに僅かに眉を顰めたが、それ以上の反応は見せなかった。
「あーん?あー、オマエかよ。いやさぁ、このクソボケ野郎がよりによってウチの服にアイス付けやがったワケ。しかもチョコだぜチョコ、茶色いのがベッタリ付いて取れやしねー。あああ腹立つ、折角シンに買って貰った服が台無しじゃねーかよクソが!しかもこのオッサン、ヘーコラ謝るだけで何もしやがらねー。マジふざけんじゃねーぞコラ」
「それは私めの部下が大変な失礼を致しました。到底お許し頂ける事ではありませんが、代表者として改めて謝罪させて頂きます」
「けっ、そこそこ強い奴をボコれてイイ気分だったってのに、コイツの所為でブチ壊しだぜ。うがあああぁぁあ!思い出しただけで腹立つってーの!」
「お客様に粗相をする無能な従業員など、気の晴れるまで殴って頂いて構いません。その愚か者も、骨身に染みるほど反省すれば少しは使い物になるでしょう」
「そーかよ、んじゃー遠慮なくそうさせて貰う、ぜ!」
天は倒れ伏した中年男に歩み寄ると、無防備な顔面に容赦ないサッカーボールキックを叩き込んだ。その一撃で完全に気を失ったのか、男はピクリとも動かなくなった。それでも怒りは収まらないのか、天は何事か怒鳴り散らしながらゲシゲシと蹴り付けている。
そんな様子を、スーツ姿の男は作り物の笑顔で眺めていた。今まさに自分の部下が壊されているにも関わらず、少しも感情が動いた様子はない。相変わらずの冷血っぷりである。
「お客様のお召し物ですが……」
天が暴行を止めて、ある程度は落ち着きを取り戻したと判断してから、男は丁寧な物腰で声を掛ける。
「勿論こちらで賠償させて頂きます。私どもの誠意、どうかお納め下さい」
どこからともなく取り出した高級そうなスーツケースをおもむろに開くと、男は札束を恭しく差し出した。
あの厚みから判断すれば十万、と言ったところか。衣装一着の弁償としても割に合わない金額だが、それは悪名高き板垣一家への対応としては正解だった。実際、普段の天ならブツブツと文句を零しつつも引き下がっただろう。そういう意味では男に落ち度はない。
「ああ?金の問題でもねーんだよ、ウチの気が済まねーつってんだ。ケチなシンの奴にこの服選ばせて買わせるのにウチがどんだけ苦労したと思ってんだ、んな端金で片付けられるワケねーだろーが!」
しかし、今回はどうやら様子が違ったらしい。天がチョコアイスで汚されたと言い張るゴスロリ服(俺にはもはや返り血しか見えない)は、言われてみれば前の誕生日に俺が渋々買ってやったものだ。
確かに俺が天の奴にプレゼントをするなどというイベントは、十年近い付き合いの中でも数えるほどしかなかったが……哀しいかな、所詮は貧乏人の俺が選んだ服。俺の軽い財布にこそ甚大なダメージを与えたとはいえ、世間的に見ればさほど高価なものでも無いのだから、そこまで大事にして貰っても困る。
「しかし、ではどうすればお許し頂けるでしょうか?」
この事態は計算外だったのか、男は営業用スマイルをやや引き攣らせている。そんな彼に向かって、天はクスリの効果で焦点の合わない目をギョロリと向けて、ニタァっと獰猛な笑みを浮かべた。
「うけけ、ウチに聞かれても困っちゃうな~。強いて言うなら、そうだな……身体で支払うってのはどうよ。ウチが満足するまでオマエがサンドバッグになってみるとか、なかなか楽しそーな企画じゃねー?」
「お客様。それは……困ります」
血塗れのゴルフクラブを持ち上げてにじり寄る天に、冷や汗を掻きながら男は少しずつ後ずさった。この危機的状態でも営業用スマイルと丁寧な接客態度を崩さないのは天晴れと言う他ないが、しかし板垣の末妹を相手にそれらが役に立つかと言われれば、残念ながら答えは否である。努力の甲斐なく、男と天の距離は徐々に詰められていく。
そして、いよいよゴルフクラブの射程圏内に入り、部屋の隅に追いやられて完全に逃げ場が無くなったその時、男がついに切り札を切った。
「お客様―――私に手を出せば、織田様が黙ってはおられませんよ」
「あ?シンがどうしたって?」
「お客様はご存知ないかもしれませんが、青空闘技場の経営を取り仕切るこの私、丹羽大蛇(おろち)。織田様のご愛顧を頂いておりまして。織田様に対して様々な所で便宜を取り計らせて頂いている私にお客様が手を上げられたとなれば、然るべき措置を――」
「あーくそ、ゴチャゴチャとうるっせーんだよ、ウチにも分かり易いように喋りやがれ!もう面倒くせー、ブン殴れば分かるだろ。つー訳でやっちゃいますか、ギャハハハ!」
「は?お、お客様?」
織田信長の名前さえ出せばどんな荒くれ者でも顔を青くして引き下がる。それが堀之外の街における常識であり、今回も同様に事が運ぶと疑っていなかったのだろう。余裕の表情でぺらぺらと口上を述べていた男、大蛇は今度こそ営業用スマイルを放棄してうろたえていた。
こいつの失敗は一つ。クスリを決めてハイになった天の理不尽な傍若無人っぷりを甘く見たことである。
などと冷静に分析している間にも、事態は進んでいる。ゴルフクラブを片手に迫る天を前に、どうにか逃げ道を見つけようとあちこちに視線を飛ばす大蛇。ここで貴重な出資者の頭がカチ割られてしまっても困るし、そろそろ助け舟を出してやるとしよう。
「そこまでにしておけ。天」
「お、織田様っ!?あ、確かにお約束の時間でございましたね、いやぁ良くいらして下さいました本当に」
俺がエントランスに足を踏み入れると、営業用とは違う心の底から安堵した笑顔で出迎えを受けた。
俺はこの男がここまで嬉しそうな顔をしている所を初めて見たが、何と言うか、何だろう、不気味極まりなかった。
「ん~、シン?シンかぁ。なあ聞いてくれよ、コイツらがウチの服オシャカにしちまったんだ。せっかくオマエに買って貰ったのにさぁ。許せねー」
クスリでハイになり過ぎて意識が朦朧としているのか、俺に向けて語り掛ける天はやけにぼんやりした調子だった。それでもひとまず俺の制止の言葉は認識できたらしく、半ば振り上げ掛けていたゴルフクラブは既に地面に向いている。そんな彼女の背後で、大蛇が息を吐きながら胸を撫で下ろしていた。まあ気持ちは分かる。この男のロクでもない素行を考えれば同情は出来ないが。
「ふん。所詮は服一着、騒ぎ立てる程の事でもあるまい」
というか、その服で青空闘技場に来ている時点で、オシャカも何もあったものではないだろう。返り血で汚れるのはアリでもチョコで汚されるのはアウトなのだろうか。常識的な感性の持ち主である俺にはいまいち理解できないところだった。
「所詮はねーだろ所詮は。ウチと一緒にショッピングしたの忘れたのかよ、服は買えても思い出は買えねーんだぞ。ほら、何だっけ、そう、プライスレスって言うだろ」
「それが無価値、と云う意味ならば同感だな。実益無き物事には価値もまた皆無――だが、然様に下らんものの為に手駒を壊されるのも馬鹿げた話よ。お前が欲するならば、次の機会にでもくれてやろう」
「うおおおマジか!?そんじゃ月末辺りに駅前行こうぜ!いやでもイタ街もアリだな、あ~ワクワクしてきたぜぇ。アイス付けられた時にはマジ最悪だと思ったけど結果オーライってヤツだな、オッサンに感謝感激しちゃう!なあオッサン、って聞こえてねーかヒャハハッ!なあなあシン、ウチは確かに聞いたかんな、約束破るんじゃねーぞ!」
「承知した故、少し黙れ。煩い。俺はこの男と話がある。大人しく控えているがいい」
クスリの所為か異常なハイテンションで喜んでいる天は取りあえず放置して、ついでに間違いなく圧迫されるであろう家計についても頭から締め出して、俺は大蛇に向き直った。
いつ見ても爬虫類の如く狡猾な印象を与える青白い顔。顔立ち自体は若いのだが、油断のならない老獪な雰囲気を醸し出している事から、正確な年齢を読み取るのは難しい。百八十を超える身長にきっちりと着こなしたブラックスーツが映えている。細身な四肢からは鍛錬の跡は感じられないが、にも関わらずどこか相手を身構えさせるような危険な雰囲気を備えていた。
俺はこの丹羽大蛇という男について、語るべき事項をさほど多く持たない。そもそも一切の経歴が不詳で、幾ら探っても全く過去が出てこないのだ。丹羽大蛇、という名前にしてみたところで間違いなく偽名だろう。そういう類の人間は裏社会には掃いて捨てるほど溢れ返っているので、そこは大して気に留める事でもない。現在は青空闘技場のオーナーを務めており、堀之外を取り巻く金の流れに関しては相当に大きな権限を握っている人物だ。
俺がこの男の内面について知っているのは、金の絡む事に関してはとことん有能で、利益と立身の機会に目敏く、慎重で執念深い性格の持ち主という事だけ。そして、それが判っていれば織田信長にとっては充分だった。
「織田様、先ほどは見苦しい所をお見せしてしまい申し訳ございません。お話とは?」
「大した用件でもないがな。此度は顔見せに来ただけよ。俺の新しい従者の、な」
「おや。私、織田様の“直臣”は森谷様お一人かと思っていましたが……そういえばお姿が見えませんね。新しい従者。新たな懐刀、でございますか」
「従者を増やさぬのは、俺の眼に適う人材が嘆かわしい程に見当たらぬが故よ。無能を態々己が傍に置くほど、酔狂ではないのでな」
「なるほど、つまりこれからご紹介されるのは、見事織田様の御眼鏡に適った傑物と言う事でございますか。これはこれは、非常に興味深いですね」
「ふん。奴に対して然様に上等な評価は相応しくないが、な。まあ良い――入れ、ネコ」
「は~いは~い」
仮に戦国時代に同じ事をしようものなら一瞬で首がすっ飛びそうなナメた返事をしながら、のんびりとエントランスに足を踏み入れたのは、言うまでも無く我が従者第二号。明智ねねである。
かの衝撃のお嬢様ルックは学校内だけと決めているのか、ウィッグを外しメガネも外して、理解に苦しむダボダボのロングコートを羽織っている。背筋はぐにゃりと折れ曲がった猫背で、猫目は気怠そうに半ば閉じられていて、まあつまり、お世辞にも立派な従者と胸を張る事は出来そうにもない有様であった。
「やれやれ。出待ちってのは面倒だね、どうにも退屈でいけないよ。……あーもう、ここも血の匂いがするなぁ。どうしてこう暴力的なのかな、裏のヒト達は」
ねねは建物の中に入った途端に血塗れの人体を視界に映し、露骨に嫌な顔をして鼻を摘んだ。アンダーグラウンド初心者のねねは未だに暴力の生み出す光景に慣れないらしい。眉を顰めながらぐるりと周囲を見渡して、そして大きく目を見開いた。
「あー!?板垣天使!!」
「ウチの名前を呼ぶんじゃねーッ!……ってオマエ、あん時の性悪ネコ娘!ここで会ったが百年目だ―――オラァッ!」
間に入って制止する暇も無い。クスリの効能で頭のネジが半分ほど飛んでいる天は、一瞬でキレてゴルフクラブを振りかぶった。唸りを上げて空気を切り裂く殺人スイング。
ねねは咄嗟の事で反応が遅れたのか、慌てた様子でその場から跳躍した。クラブのヘッドはまさしくギリギリのタイミングでねねの爪先を掠め、虚空を撃ち抜く。
「フゥー、危ない危ない。相変わらずのキレる若者、青春を謳歌してるね天使ちゃん」
「名前で呼ぶんじゃねーっつってんのが聞こえねーのかコラ!局所的に血の雨降らせてやろーか、ああ!?」
着地しながら憎まれ口を叩くねねに、間髪入れず二撃・三撃目が襲い掛かる。ねねはそれらを、ピョンピョンと機敏に跳ね回って避けていた。
そんな様子をやや呆れた顔で眺めながら、大蛇が口を開いた。
「彼女が第二の直臣、と言う訳ですか。止めなくても宜しいので?」
「あの莫迦共も本気で殺り合っている訳ではない。所詮は遊びだ。捨て置けば良かろう」
天の奴も昨日の今日で改めて俺に喧嘩を吹っ掛けるほど馬鹿でもないだろう。あれだけ殺意を込めて釘を刺しても効果がないなら、はっきり言って俺にはお手上げだ。
「アレが遊びですか……いやはや、私のようにひ弱な一般人からしてみれば何とも空恐ろしい話です。しかし成程、あの板垣様と渡り合えるとは、流石に織田様の目に留まっただけの事はありますね。名前を伺っても?」
「明智音子」
「明智、ですか。それはまさか」
「先日、俺と板垣が叩き潰した“黒い稲妻”の首領。そして、あの明智家の息女でもある」
「……なるほど」
与えられた情報を整理しているのか、大蛇は真面目な顔で顎に手を当てて何事か考え込んでいる。
常人と比べて頭の回転が速いこの男なら、俺が今回の面会に何を求めているか自分で判断してくれるだろう。言葉を交わす際に面倒な説明の手間が省けるという点では、俺は大蛇を気に入っている。
「織田様。彼女の“顔見せ”はどれ程の範囲で行われましたか?」
「現状では堀之外の内部に留めている。諏訪、神保、土岐、江馬――主立った有力者には声を掛けたが、末端にまで行き届くには暫しの時間を要するだろう」
お陰で今日の夕方は堀之外の各所を回るだけで潰れてしまった。ねね率いる“黒い稲妻”が各所で見境なく暴れ回っていたお陰で、訪問先にて余計なトラブルも起きた。従者の癖に主の手を煩わせるとは、我ながら随分な厄介者を拾ったものだ。
「承知致しました。ひとまずはその程度の処置でも抑えられるでしょうが、三月から四月に掛けて“黒い稲妻”が動いた範囲を考えれば、少しばかり不安が残りますね。私から川神の各所に根回しをしておきましょう」
「一任する。良きに図らうがいい」
話が早くて本当に助かる、と俺は内心で呟いていた。姑息で冷酷で残忍で、正直に言ってまるで信用には値しない人間だが、こうして顎で扱き使う分には便利な人材だ。厄介な毒牙を持っているので、足元を掬われる無様を晒さないよう、取り扱いには常に注意が必要なのが玉に瑕だが。
「織田様のご信頼を裏切るような失態は犯しませんよ、私とて命は大事でございますから」
営業用の胡散臭い笑みを浮かべながらでは説得力に欠けるが、しかし大蛇の言葉は嘘ではないだろう。
実際、この男に関してはかつての争いの際に散々脅かしておいたので、織田信長に対する恐怖心は誰よりも強い筈だった。もっともそうでもなければ危険過ぎて用いる気になれそうもないのだが。
「本日のご用件は以上でございますか?然様でございましたら、是非とも我らが青空闘技場の観戦にお立ち寄り下さい。勿論のこと特等席をご用意致しますので」
「不要よ。有象無象の低度な潰し合いを見物した所で、得るものはなかろう」
「それは残念です。他ならぬ織田様がご覧になっているとあれば、奮い立つ者も多いでしょうに」
「ふん。俺を興行に利用しようとは大した度胸だな、ヘビ」
「いえいえ滅相もございません。―――それでは、次の機会がございましたら、是非ともお越し下さい。青空闘技場の門は常に開いております。選手として、或いは観客として。最高の舞台を御用意させて頂きますので、信長様には今後ともご愛顧願います」
「さて。それは貴様の働き次第である事、覚えておくがいい」
深々と頭を下げる大蛇に言い捨てて、背を向けて歩き出す。
エントランスの入口を塞ぐようにキャッキャウフフとじゃれ合っていた馬鹿二人を睨みつけて止めると、相変わらずテンションが異常な天にちょっとした用件を伝えて、俺とねねは帰路に付いた。
さて、通り魔に襲われたり唐突にトラックが突っ込んで来たり、そういった素敵に不幸なアクシデントに遭遇することもなく、至って平穏無事に拠点たるボロアパートに到着した俺は、蘭の用意していた夕食を食べ終え、ギリギリ備え付けてあるシャワーで一日の汗と疲労を洗い流して――そして現在時刻は就寝間際の午後十一時。
俺は、自室の二つ隣、明智ねねの部屋を訪れていた。
「ネコ。入るぞ」
「んー。ご主人?どうぞ~」
昨日の心の一件と同様の失態を犯さないよう、俺はねねが返事を返すまできっちりと待ってから扉を開いた。素晴らしき学習能力があるからこそ人間は万物の霊長に成り上がる事が出来たのだ。人類の進歩に深い感慨を抱きながら部屋に足を踏み入れる。
「どうしたのご主人、こんな時間に。うわ、もしかしてこれが噂に聞く夜這いって奴?いやでも、考えてみれば夜伽は従者の義務だったりするのかなぁ。いやぁ参ったな、心の準備が全然出来てないのに。さっきシャワーは浴びたから、実は身体の準備は出来ちゃってたりするんだけどね!」
「煩い黙れ」
パジャマ姿でベッドの上にだらしなく寝転がって馬鹿げた妄言を垂れ流す我が従者からは、主に対する敬意というものが欠片も感じられなかった。ついでに慎みやら品性やら、良家の子女を名乗るために必要な要素もまた皆無だ。
一体どういう教育を受ければこんな訳の判らない生物が完成するのだろうか。興味深いところである。
「あ。まだ引越しが完了してないからちょっとばかり散らかってるけど、まあそこは寛大な心で目を瞑って欲しいね」
「……」
ついでに言うならば部屋の内部も惨憺たるものだった。雑誌に漫画に小説にDVDケース、テレビとノートPCの本体及び各種ケーブル、衣服諸々に開封済みの段ボール。それらが複雑に絡まり合い縺れ合い、カオスの集合体と化して狭い床面積を完全に埋め尽くしている。足の踏み場もない、とはまさにこの事だった。夕食後に色々と物を運び込んでいる姿は目撃していたが、一体何をどうすればこんな悲惨な状態になるのか不思議である。これは断じて「ちょっとばかり散らかってる」で片付けられるレベルではない。ここに蘭を呼んでくればすぐさま鬼気迫る表情で大掃除を開始する事だろう。
「ま、ここに棲むのはボクだしね。ホラ、部屋が狭くて困るのはボクだけで迷惑は掛けないんだから、文句はナシの方向でお願いするよ」
俺の絶対零度の視線をどう受け取ったのか、ねねは目を泳がせながら何やら言い訳らしきものを始めた。ちなみに人はそれを言い訳ではなく開き直りと呼ぶ。我が従者ながら、本当に色々と嘆かわしい奴だった。
この魔境の中に座る事が可能なスペースなど有る筈も無く、仕方なく部屋の入口で突っ立ったまま、俺が改めて自分の人物眼に対する拭い難い疑惑と戦っていると、ねねは不意にむっくりと身体を起こす。
そして、静かに口を開いた。
「ねえ、ご主人」
「如何した」
「話があるんだけど」
短い言葉を、二言ほど交わしただけ。
しかし、ただそれだけの遣り取りの間に、ねねが常に垂れ流している気だるげな雰囲気は、既に霧散していた。弛緩した空気は瞬く間に張り詰めたものへと変容していく。
気付けばねねは寝台の上で佇まいを直し、背筋をピンと張って、凛とした雰囲気を身体の芯から放っていた。
そうして、決意を固めたような力強い目を、俺に向ける。
「ご主人が何の用もなく、ランを連れずに一人でボクのところに来るとも思えないから、“そういう事”だと思って覚悟を決めるよ。どうせボクとしてもいつまでも誤魔化して沈黙を続ける訳にはいかないし、ここらが潮時だと思うんだ。……そういうことでしょ?たぶん、ボクが言いたい事をご主人はもう判ってる」
「……」
肯定するでも否定するでもなく、俺はただ無言を返した。
だが、それはねねにとっては何よりも雄弁な答えだったのだろう。今度こそ完全に迷いを振り切ったように、力強く断定するような口調で、言葉を続ける。
「嘘と演技。昔から猫被りを得意とするボクが、本来ならラン以外は誰も立ち入れないハズのご主人の日常に踏み入って共に過ごした。そうでもないと、一生を費やしても絶対に気付けなかったであろう事。果たして言うべきか言わざるべきか、正直言ってかなり迷ってたんだけど……ボクはそんな面倒なもの、いつまでもウジウジと抱えていたくないから、単純明快一刀両断、即ち快刀乱麻を断つ感じで、さっさと吐き出しちゃうとするよ」
そして、明智ねねは、全ての核心に触れる言葉を紡いだ。
「ご主人―――織田信長は。とんでもない大嘘吐きだね」
という訳で、次回はネコのターンです。
ちなみに今回初登場の丹羽さんですが、彼は基本的に裏方なのでネコのように出張ってくる事は無いはず。原作キャラを食うほどの活躍をする予定はないのでご安心下さい。格ゲーをやってる人には一瞬で元ネタが割れてしまう丹羽大蛇さんに関しては、まあそんな感じです。
メインの三人以外のオリキャラはあくまで控え目の方針で行く予定。それでは、次回の更新で。