四月十二日、月曜日。
転入から約一週間が経過し、堀之外のボロアパートから川神学園への登校にも馴染んできた。それはつまり、通学に要する時間もそろそろ把握が完了したという事であり、そんな訳で俺と蘭の朝は先週と比べて余裕に溢れていた。少しばかり遅めの時間帯にアパートを出立し、悠然たる足取りで歩を進める。
親不孝通りから川神駅、そして仲見世通りを通過してしばらく歩くと、東京都と神奈川県を挟んで悠々と流れる河川――多馬川の姿が視界に広がる。その河川敷沿いの長閑な風景を眺めながら進む事しばし、次に見えてくるのは対岸へ向けて真っ直ぐに伸びた一際大規模な橋―――多馬大橋である。この橋は歩道と車道を兼ね備え、東京と神奈川の都県境としての役割を果たしている。よって川神学園へ向かう為には必然的に、神奈川在住の学生の多くがこの橋を渡る事になるのだが……クラスメイトの葵冬馬から聞いた所によればこの多馬大橋、近所の住民には妙な異名で呼ばれているそうだ。曰く、川神学園の奇人変人が列を成して歩む魔の通学路。即ち「変態の橋」――と。
「ん?」
「むむ。主、何やら橋の上が騒がしいですね」
俺と蘭の歩みがその悪名高き変態の橋に差し掛かったタイミングで、事件は起きた。いや、この表現は正確ではないか。実際のところ、俺達が橋の入口に足を踏み入れた時点で既に事件は起きていたのだ。
多馬大橋の中央付近にて、通学中と思われる川神学園の生徒の群れが何故か足を止め、あたかも歩道を封鎖するかのように人混みを形成している。
彼らはざわめき声を上げながら揃って前方に目を向けており、その視線の先に足止めの原因があるようだ。人垣が邪魔をして俺の位置からはどうにも様子を窺う事は出来ない。
「ふん。押し通るぞ、蘭」
「ははー!御意にございます、信長さま!」
一体全体何が起きたのかは知らないが、通学の邪魔をされるのは気に入らない。
エリートクラス所属の真面目な優等生たる俺に遅刻などという恥を晒させるつもりか低脳どもめ、騒ぐなら騒ぐで場所を考えるべきだなTPOを弁えなければ社会に出てから苦労するぞ全く、などと溜息交じりに思考しながら軽い殺意を発しつつ足を踏み出すと、俺の存在に気付いた生徒達があからさまに怯えつつ道を空けた。中には勢いよく飛び退き過ぎてそのまま多馬川にダイブしている愉快な輩の姿も見受けられたが、ああいう奴は果たして長生きするのだろうか。臆病者ほど長命だと言うが、しかしそこにうっかり属性が追加された場合はその限りでもあるまい――そんな至極どうでもいい事柄に思索を巡らせながら足を進めていると、やがて鬱陶しい人混みを抜けた。
「ぬぬ、何だお前は?この先に行きたいのか?だがしかし、おれの名は“不動”のヤマ!動かざること山の如し!」
「……」
生徒達が徒歩で渋滞を起こしていた理由が嫌と言うほど理解できた。
歩道の中心に陣取って周囲を睥睨している筋骨隆々の巨漢が一人、否、一匹でいいか。無駄にデカい、身長二メートルは余裕で超えているだろう。盛り上がった筋肉のお陰で横幅も半端ない。そして褐色の肌を惜しげもなく剥き出しにしたムキムキの上半身が実に目の毒である。
なるほど、かくも不愉快な物体が道を塞いでいれば思わず足を止めてしまうのも無理はない。こういう類の変質者が頻繁に出没するが故の“変態の橋”なのだろうか。もしそれが事実だとすれば、深く考えるまでもなく嫌過ぎる通学路だった。
「わはは、おれはこの橋が名高き武神・川神百代の通学路だと知っているのだ!奴が来るまで、おれは動かざるごと山の如し!ここを通りたければ――」
「死ぬか?」
「たまには山が動いてもいいよね!」
もういっそ存在そのものが腹立たしかったので割と本気で殺意を込めて睨むと、変態は冷や汗をダラダラ垂らしながら巨体に似合わぬ機敏なサイドステップを披露してみせた。
その体捌き一つとっても、有り余る筋肉が決して見かけ倒しのものではなく、相当な鍛錬を積んだ末に得たものだという客観的な事実を窺わせたが……まあしかし俺にとっては欠片も興味のない事だった。この程度の人材ならば、青空闘技場辺りに行けばそれこそ一山幾らで転がっている。
何はともあれ巨体が塞いでいた歩道が無事に空いたという事で、俺と蘭は悠然と歩みを再開することにした。12ばんどうろ辺りで寝こけている傍迷惑な怪獣を追い払った主人公はまさにこんな気分だっただろう。
「ん?おー、例の転入生二人組じゃないか。狭い日本、そんなに急いでどこへゆく~♪」
そして全体即死魔法を容赦なく連発してくる凶悪極まりない雑魚敵×4にバックアタックを受けた主人公はまさに、こんな気分だったに違いない。
朝っぱらからイキイキと活力に満ちた嬉しそうな声を上げて、俺達の背中を後ろから呼び止めたのは、言わずと知れた世界最強、川神学園3-F所属の武神である。
「川神百代か……面倒な」
正直に言って俺としてはこのまま無視して平和な学園へ向かいたいというのが切実な本音だが、しかしここで下手に挑戦的な態度を取って、喧嘩を売っている(文字通りの意味で)と認識されるのは勘弁願いたいところだ。
先週の遣り取りにて、今は戦わない、との約束をどうにか取り付けはしたものの、彼女のとんでもない気まぐれさと傍若無人っぷりを良く知っている俺にしてみれば、残念ながらそんな口約束などまるで信用に値しない。
さてどうしたものか、と対応に悩みながらもとりあえず振り返ってみると、自重しないバディを堂々と突き出しながら歩道の中央に仁王立ちしている百代の姿があった。どいつもこいつも道の中央に居座って人様の邪魔をして楽しいのだろうか。
彼女の背後のギャラリーからは「キャー!モモせんぱーい」「今日も凛々しくてステキー」などと、主に女子の後輩たちから黄色い歓声が湧いている。どうやら彼女にはファンクラブ的なものが存在しているらしい。
日本人に生まれた以上はもうちょっと遠慮して謙虚に生きるべきではなかろうか、と次代を担う若者たちの行く末を憂慮していたところ、そんな俺の想いを踏みにじるかの如く、一度は黙らせた筋肉の変態が身の程知らずにも再び自己主張を始めた。
「わははは、この時を待っていたぞ武神・川神百代よ!」
「あーなんだ、私待ちだったのか?こんな場所で誰かと待ち合わせをした覚えはないんだがな。わざとやってるんだか知らないが、お前、さっきから通行のジャマになってるぞ」
「わっははは、承知の上よぉ!おれの名は武田四天王が一人、“不動”のヤマ!動かざること山の如し!川神百代よ、無事に学園へと辿り付きたければこのおれを倒していくがいい!いかに武神と言えど、まさか山を動かす事など出来まいがな!わっはははは」
この変態の脳内では俺の殺気にビビって素直に道を空けた過去(約十五秒前)は既に無かったことになっているようだった。恐らく頭蓋に詰まった脳味噌まで筋肉で出来ているのだろう、心底から哀れむべき事だ。
百代も同意見なのか、どこか生温い目で変態を見守りながら、気だるげな調子で口を開いた。
「んん、よーするに挑戦者か。まあそれ自体は歓迎なんだが、ルールは守って貰わないと困るな。私に挑戦するための手段だとしても、周囲の無関係な奴らに迷惑をかけるのはNGだ」
「周りの有象無象など知った事ではないわ。おれはただ、武神と呼ばれた貴様を倒し、己の最強を証明できればそれでよいのだ!」
「そうかそうか、それじゃー遠慮はいらないな。お前がそーいう態度なら、私も変に迷わずにやれるってもんだ」
「さあさあ来るがいい川神百代、動かざること山の―――ごとしっ!?」
瞬間、空気を切り裂いて閃光が走る。果たして蹴ったのか殴ったのか、それすらも目視できない神速の一撃。それで全てが片付いた。世紀末の断末魔っぽい声を上げると同時に決め台詞を言い切るという無駄に器用な真似をこなしながら、変態は束の間の空中遊泳の旅に出る。そして、十数秒という常識では有り得ない滞空時間を経てからやっと自由落下を始め、巨体に見合った巨大な水柱と着水音を立てて多馬川に沈んでいった。
一瞬遅れて、「キャー!」という甲高い悲鳴がギャラリーのあちこちから上がる。「モモ先輩カッコイー!」「良く分からないけど無敵っぷりに痺れる憧れるゥー!」等々。勿論、水面に仰向けに浮かんだまま下流へと流され始めた変態を心配している訳ではなく、あくまで百代へと向けられる浮ついた黄色い悲鳴であった。当然といえば当然の話だが、あまりの人気の差に少しばかり可哀相にすら思えてくる。
「なんだ、山の如しなんて言うから期待してたのに、軽い軽い。タンポポの綿毛レベルだ。富士山は絶対にもっと重かったぞ」
そして、まるで何事も無かったかのようにその場に佇みながら、百代は実につまらなさそうな口調でぼやいた。
俺が言葉の意味を取り違えていなければ、この先輩は日本最高峰を誇る霊山を動かした経験をお持ちらしい。つまるところ彼女にとって山とは動かざるものではないと言う事か。いやはや、もはや本格的に人間と認めるべきではなさそうなレベルの持ち主である。仮に俺がレベル5だとすれば百代は軽くレベル53万はありそうだ。いや、むしろ無量大数とかその辺りの領域か。
まあ、と言っても、問題は―――
「やはり私を満足させられる強者なんてそう何人もいるワケがない、か……。あー不完全燃焼だ欲求不満だ、どっかに私と遊んでくれる心優しい後輩はいないかなー」
例え俺の実際のレベルが「たったの5か、ゴミめ」と言われる程度のものだったとしても、“織田信長”のレベルは川神百代のソレと釣り合っていなければならない。対等、或いは対等以上に渡り合える敵として存在しなければならないのだ。
言うまでもなく、凄まじく骨の折れる仕事ではあるが――将来的なビジョンを見据えれば、苦労するだけの価値は十二分にあるだろう。「学生時代、世界最強の武神と張り合った」という“事実”が残れば、俺の夢に多大な貢献をしてくれるのは間違いない。
しかし、具体的にはどうしたものか。露骨にこちらに向けてチラチラと目配せを送ってくる百代にどう対処すべきか、俺は無表情のまま本気で頭を悩ませていた。
「なんだ無視か、織田は相変わらずつれないな。そんなに無愛想だとモテないぞ。……そうだな、じゃあ後ろのカワイコちゃんはどうだ?」
「は、はい!?わわ私ですか!?」
「そうだお前だ、名前は確か……蘭って言うんだよな?ふふふ、私の弟は調べ物が得意なんだ。よってもうすでに転入生情報はバッチリゲット済みなのさ」
「う、うぅう……」
自分がターゲティングされたのが意外だったのか、蘭はテンパった様子であたふたと慌てまくっていた。先週にグラウンドで会話を交わして以来、蘭の奴はどうも百代に対して結構な苦手意識を抱いているらしい。
先日の一件の後、「何をどうしたところで私が勝てる未来図が浮かびませんでした」としょんぼりしながら語っていたので、その辺りに苦手意識の一因があるのだろう。どう足掻いても勝てない相手。武を誇りとする人種にはやり辛いものがあるか。
もっとも俺としてはそんな事よりも、百代が蘭を見つめる際のじっとりねっとり舐めるような熱視線こそが、最大の理由だとは思うのだが。
「ふふふ、さすがに織田ほどではないかもしれないが、お前も相当な腕だろ?あの決闘を見てれば大体の力量は分かる、ウチの院にもお前ほどの使い手は数人といないだろうな」
「あ、お、お褒め頂きありがとうございます。でも私はそんな」
「それに何よりだ……可愛い。ふふっ、可愛いなあ、今すぐお持ち帰りしたいくらいだ。なあ織田、お前の従者、私にくれないか?それはもうじっくり念入りに大事にするぞ」
「ひぃっ」
実際、今もまさにギラギラした邪な目で蘭の身体を上から下まで眺め回している。対する蘭は全力で怯えてぷるぷる震えながら素早く俺の背後に回り込み、涙目で制服の裾を掴んできた。
こいつは全く、従者の分際で主君を盾にして隠れようとは……何とも嘆かわしい事だ。
従者である以前に人間、苦手な相手の一人や二人は居るのが当然かもしれないが、よりによってその対象が織田信長最大の仮想敵でなくてもいいだろうに。
「あ、主ぃ……」
見捨てられた子犬のような目で俺を見上げる蘭。こんな所でこんな時に何をやっているんだ俺は、と何とも馬鹿馬鹿しい気分に襲われながら、俺は冷めた目を百代に向けた。
「川神百代。お前の非生産的な嗜好に、俺の従者を巻き込むな」
「別にいいだろ、生産性なんて問題じゃない。私と釣り合う男がいないのが悪いんだ。間違ってるのは私じゃない、世界の方だ!」
「如何でも良い。勝手にするが良かろう。俺に関与しない限り、お前の悪趣味な嗜好など元より興味の外よ。……蘭、往くぞ」
「は、ははー!ええ参りましょう主、すぐ参りましょう」
いつになく早口な蘭の言葉に従う訳でもないが、実際のところ、今はこんな所で無駄に時間を潰している場合ではない。今日は出立が遅かったので、それほど時間的な余裕がある訳ではないのだ。
さすがに一回や二回の遅刻でどうこうなるという事でもないだろうが、それも積み重なれば評価に響いてくるだろう。
塵も積もれば山となる。動かざること山の如し。一度付いたケチは拭う事が出来ないのだ。間に合う状況ならば可能な限りの努力を以って間に合わせるべきである。
俺は腕時計で現在時刻を確認しながら、ここから川神学園までの道程を脳内に思い浮かべる。そんな俺に、百代は性懲りも無く声を掛けてきた。
「なぁ、織田。本当にちょっとでいいからさ、手合わせしないか?先週、お前に会ってからずっと胸がモヤモヤしてるんだよ。鍛錬していても遊んでいても布団に入っても、気付けばお前が頭に浮かんでくるんだ……あ、言っておくが恋とかじゃないぞ。おねーさんが美人だからってヘンな勘違いはしないように」
「ふん。何やら寝言が聞こえるが、未だ目が覚めていないのか?」
最後の補足の言葉でギャラリーのあちこちから安堵の溜息が聞こえてきた。
俺のすぐ真後ろからも周囲と同じような音が聞こえたような気がしないでもないが、まあ取りあえずそこは幻聴と言う事にしておこう。下手に触れると色々と面倒だ。
「まー照れるな拗ねるな。私にここまで想われるなんて幸せ者だぞーお前は、よっ憎いね色男。だからさぁ、少しくらいは私の気持ちに応えてくれてもいいんじゃないか?胸が切なくて苦しくてはち切れそうで狂ってしまいそうだ。これは確かに、“恋とかじゃない”かもしれない――もはや、愛、と言えるかもしれないな?」
百代が妙に艶めかしい表情で馬鹿げた言葉を言い終えた途端、キャアアアア、と喧しい悲鳴が爆発的な勢いで周囲を埋め尽くす。
さて先程までのものが黄色い悲鳴だとするなら、この悲鳴は果たしてどう表現すべきだろうか。嫉妬と憎悪で彩られた……ドス黒い悲鳴?いまいちしっくりこないがまぁどうでもいいか。
俺は、群集にどんな風に思われようが別に構わない。その心中に“恐怖”と“畏敬”の感情が確りと根を張っているなら、それ以外の一切は些事に過ぎない。
周囲の反応に対して俺は感情も表情も何一つとして動かさず、百代に言葉を返す。
「ふん。成程な。得心した――やはりお前は釈迦堂刑部の弟子だ」
「なっ、お前、釈迦堂さんを知ってるのか!?ちょっと待て、それはどういう」
「蘭。往くぞ」
「ちょ、お前ら」
さすがに消息不明のかつての師の情報は気に掛かるのか、百代は驚きも露に食いついてきた。
しかし今の俺はこれ以上の語る言葉を持たない。
それは高度な戦略的判断に基づく情報の出し惜しみ……などでは全然なく、単純にホームルームの開始時間が迫っているのでゆっくり語っている暇がない――という、ただそれだけの話である。シンプルだが切実な理由だ。
俺は何やらボケーっとしていた蘭を急かし、何か聞きたそうに食って掛かってくる百代をスルーして、今度こそ振り返らずに“変態の橋”を後にした。
無事ホームルームに間に合った俺達は、一時間目の数学、二時間目の国語、三時間目の英語を特に波乱もなく乗り切り、現在は昼休み間近の四時間目。
先週を含めて都合三度目となる歴史の授業を受けている真っ最中なのだが。
「ほほ、マロはまだまだ語り足りぬでおじゃるが、仁明天皇の時代についてはこんなところよ、の。さて次は文徳天皇の代について教えるでおじゃる」
この歴史教師、平安時代しか教える気がないだろうか。最初の授業の半分で平安時代まで教科書のページが進んだ時にはさすがに唖然とさせられたが、まあ川神鉄心の見込んだ教師だ、何か考えがあるのだろう――とひとまず様子を窺っていた。しかし、それ以降の授業内容はひたすら平安時代に関する講義である。しかも異常に進みが遅い。どう見ても話が脇道に逸れ過ぎていた。結果、明らかに受験に必要のない雑学レベルの知識ばかりが増えていく。
それでも最初はきっちりノートを取っていたのだが、次第に真面目に聞く気も失せていった。S組の面々もそれは同じらしく、優等生揃いの彼らですらも一様にうんざりした顔を並べている。小雪に至っては既に完全に授業を放り出して、抽象画と思しき何かをノートに書き殴っていた。冬馬は真面目に取り組んでいる振りをしつつ、その実何かしらの内職に励んでいる。熱心に授業を受けているのは、歴史教師(綾野小路家出身)に並ぶ日本三大名家、不死川家のご令嬢くらいのものである。
白粉を顔面に塗りたくった時代錯誤な外見やら、もはやギャグにしか思えないエセ公家言葉やら、教師として有り得ないキャラの濃さは……まあとりあえず置いておくとしても、授業内容に問題があるのは頂けない。教育者としての務めは果たして欲しいものだ、こちらは苦しい家計から学費を捻り出しているのだから――そんな俺の内心に気付いた訳でもないだろうが、歴史教師は一旦平安語りを止めて、おもむろに俺を指名した。
「織田。麻呂の話を聞いておったかの?」
「ああ」
「では確認を取るでおじゃる、仁明天皇は和風諡号を奉贈された最後の天皇でおじゃるが、その号はなんじゃ?言うてみや!」
「日本根子天璽豊聡慧尊」
「ぬ、正解でおじゃる……確かに聞いておったようじゃの」
折角正解してやったと言うのに、歴史教師の顔は不本意そうだった。
どうにも俺は嫌われているらしく、この平安貴族気取りの馬鹿は事あるごとに俺をやり込めようと面倒な質問を吹っ掛けてくる。後ろの席に陣取る我が従者のさりげないサポートが無ければ、どこかで失態を晒していたかもしれない。
「俺からも、質問がある」
「なんじゃ?」
「いつまで平安時代の授業を続ける気なのか、だ」
「ほほ、愚問よの。平安時代こそが至高の文化。麻呂のカリキュラムは平安時代が九、その他の次代は一の割合でおじゃる。そのように覚悟しとく、の」
駄目だこいつ、早く何とかしないと。口元に扇を当てて笑う歴史教師に絶対零度の視線を送りながら、俺は脳内で計算を巡らせていた。こちらにしてみれば笑って済ませられる問題ではない。俺と蘭は高い学費を払ってまで学校に遊びに来ている訳ではないのだ。俺の不機嫌な内心に応じて殺気が漏れ出たのか、歴史教師は教壇の上でやや顔を引き攣らせながら俺を睨んだ。
「何じゃその目は、麻呂に文句でもあるのかえ?ほ、やはり俗な庶人の出には平安の世の典雅な素晴らしさは分からぬでおじゃるか」
歴史教師はあからさまに相手を見下したような高慢さを覗かせながら、俺に向けて言葉を続ける。
「どうせそちは戦国時代のような野蛮な時代が好みであろ?何せそちの名は尾張の大うつけと同じ、織田のぶ――――ひぃぃっ!?」
最後まで言い切れず、歴史教師は教壇の上で白目を剥いてひっくり返った。ドサリ、と勢い良く床に倒れこんで、そのままピクリとも動かなくなる。
「……」
シーン、と耳に痛い沈黙が2-Sに広がった。しまった、ただでさえイラついていた上、心構えの無い内にNGワードに触れられてついリミッターが振り切れてしまった。
ほとんど手加減なしの殺気を正面から浴びた歴史教師は、一瞬で気絶してブクブク泡を吹いている。一般人を相手にこのレベルの殺気を放ったのは久々なので、心臓が止まったりしてないか少しばかり心配だ。
「えーい、げしげし(追い討ち)」
「って何やってるんですかこの子は!ほらユキ、気持ちは分かるがそれ一応教師だからな!」
「え、蹴鞠だよ?蹴鞠ってたのしー、平安時代さいこー。ジュンも一緒にやろうよーげしげし」
けたけた無邪気に笑いながら教師の頭を蹴り回している小雪の姿に、奴を怒らせるのは出来る限り控えよう、と俺は戦慄しながら心に刻む。
そうこうしている内にガラリと扉が開いて、女教師がS組の教室に飛び込んできた。
「綾野小路先生、大きな音がしましたが何か――先生!?」
歴史教師とは比べるのも失礼に当たる厳格な雰囲気を持つこの教師、確か名前は小島梅子だったか。
問題児揃いの2-Fをムチ一本でまとめ上げている敏腕教師で、規則違反に対する厳格な態度から“鬼小島”の異名で恐れられている。
「これは小島先生、丁度良いところに。今まさに人を呼ぼうとしていたところです。いやぁ授業中に突然泡を吹いて倒れられたので、こちらも驚いてしまいましたよ」
冬馬が白々しく困ったような顔で白々しく困ったような声を上げると、周囲の生徒達が「ホントにな」「びっくりしたよ」と白々しく同調する。歴史教師の人望が足りないのか、冬馬の人望が高いのか。恐らくは両方だろう。
しかし、そんな彼らの様子に何か嘘くさいものを感じ取ったのか、鬼小島は胡乱げな目を教壇の上に向けた。
「……で、榊原はそこで何をしている?」
小雪は蹴鞠にも飽きたのか、気絶中の歴史教師の傍でウェイウェイと不思議な踊りを披露していた。マイペースにも程がある。
「ユキは葵紋病院の関係者の養子ですから、医療の心得があるんです。先生が倒れたとき、真っ先に駆け寄って診断してくれたんですよ。心優しい子ですからね」
「そうか……助かったぞ榊原。その心は大事にするといい」
「おー?おー」
嘘を吐く際には何割かの真実を含ませるのがセオリーだが、それを見事に実践した冬馬の言葉に、鬼小島はどうやら納得したらしい。意外と単純なのだろうか。
ふむ、この情報は今後役に立つかもしれない。脳内メモに記しておこう。
「あとは校医に任せるといい。さて、誰か綾野小路先生を保健室に運んでくれ、私はF組に戻って授業を続けねばならないのでな。そろそろ昼休みも近いが、チャイムが鳴るまでは騒がず自習しているように。まあお前達の事だから心配は要らないだろうが。九鬼、任せてもいいな?」
「うむ。クラス委員長としての務めを果たす程度、我にとっては造作もないことよ」
特に追求の必要はないと判断したのか、鬼小島は注意事項を述べるだけ述べると、真っ直ぐに背筋を張りながら自分の教室に戻っていった。
何だろう、宇佐美巨人がS組の面々に低く見られている理由の一端を垣間見た気がする。同じ担任教師という立ち位置で、比較対象がアレでは不満も出るだろう。巨人のオッサンも熱意さえあれば有能な部類だと思うのだが。
その後、英雄の指示で歴史教師が運ばれていき、平安の世から解放された2-S生徒は思い思いの自習に励む。教師不在の教室だが、決して私語が飛び交うような事はない。教師の目があろうとなかろうと態度を変えない姿勢は素直に好ましいと思えるものだ。古巣の太師校がアレだったから余計にそう思うのかもしれないが。
「ったく。マロの奴も度胸あるんだかないんだか分からんね、自分から喧嘩売っといて勝手にぶっ倒れてたら世話ないぜ」
スピーカーより流れるチャイムが昼休みの到来を告げる中、俺の右斜め前の席に陣取る準が椅子ごとこちらを向きながら口を開く。
そこに隣の席の冬馬と小雪、そして後ろの席から蘭が加わり、いつもの陣形での雑談が始まった。
「ふふ、まあ、平安時代の貴族が戦国時代の荒武者の気迫に耐えられる道理はないでしょう。ねぇ信長?」
「黙れ。俺の姓名に触れるなと、何度言えば理解できる?死にたいのか?」
「おや、これは失礼しました。保健室のベッドで午後を過ごすのは嫌ですし、ここは大人しく黙っておきましょうか」
「ふん。賢明な判断だ」
「お二人さん、平和なお昼時になんて物騒な会話してんだ。勘弁してくれよ」
駄弁っている男子三人を余所に、蘭と小雪が後ろの席で何やら話している。
「あの、小雪さん、それは?」
「テーレッテレー、紙芝居~。新作がねー、もうちょっとで完成だよーん。いぇいいぇい」
「わぁ~!ユキさんはお話を作られるんですか?凄いです、私絵本とか好きなんですけれど自分で書くほうはさっぱりで……尊敬しちゃいます。宜しければ、完成したら見せて頂いてもいいですか?」
「あー森谷よ、悪いことは言わねぇ。やめといた方がいいぜ、お前が想像してるのとは絶対に違うから」
期待にキラキラと目を輝かせる蘭に、微妙な表情で準が口を挟んだ。更に冬馬が補足を加える。
「何と言ってもユキの紙芝居は前衛的ですからね。エキセントリック過ぎて森谷さんには少し刺激が強いかもしれません」
誰がどう聞いても紙芝居に対する評価ではなかった。確かに描いている途中の絵を見た限り、メルヘンというよりはメンヘルな雰囲気をひしひしと感じた。
何にせよ俺の常識的な感性では理解不可能な絵柄だったが、そうなると逆に気になってくるのが人間という生き物の悲しい性である。また後で鑑賞させてもらうとしよう。
「それにしても、マロの奴にも困ったもんだぜ。授業はほぼ平安一色、他の時代は宿題でやれと来たもんだ」
「確かに、あまり目上の方を悪く言いたくはありませんが……少し目に余りますね」
「あの男が教師として相応しいとは、まるで思えん。川神鉄心は何を考えている?」
「ほほほ、分かりきった事なのじゃ!綾野小路家は此方の不死川家と並ぶ高貴なる血筋!教鞭を振るう者として、これ以上に相応しい人選はなかろう。ノブリス・オブリージュという奴じゃ」
「きっと学長がマシュマロ好きだからだねー」
「ははは、ユキの発想は相変わらずユニークですねぇ」
「言われてみれば名前がマロで、しかも白い。うーむ、なんだか納得しちまったぜ」
「此方を無視するでないわー!……ひっ、な、なんじゃその目は」
「煩い。耳元で喚くな」
どうにも騒がしかったので睨み付けて黙らせる。空気を読まずに居丈高な調子で俺達の会話に加わってきた黒髪団子頭の少女は、不死川心。本人の申告する通り、御三家の一つ、不死川家が息女である。
平たく言えば先程の歴史教師の同類。さすがにあそこまでエキセントリックな外見ではないものの、常日頃から着物姿で登校しているという時点で、歴史教師と同様“変態の橋”のネーミングに一役買った人物である事は疑いない。
総じてエリート意識の強いS組の中でも取り分け極端な選民思想に染まった、まあ何とも厄介な奴だった。
「ぬ、ぐぬぬ、なぜ此方がお前などに命令されねばならんのじゃ!ふざけるでないわ!」
俺の一挙一動に対して明らかにビビりながらも、心の反抗心はまるで消えていない様子。彼女の何が厄介かと言うと、臆病な癖にプライドだけはとんでもなく高いのだ。どこの馬の骨とも知れない俺がこのS組で大きな顔をしている事実が気に入らないらしく、転入以来いつも敵愾心に満ちた目でこちらを睨んでいる。
と言っても視線を送るだけで、これまで直接声を掛けてくる事はほとんどなかったのだが……どうやら今日は違うらしい。
「俺は喚くな、と言った筈だが。貴様の学習能力は猿並みなのか?」
「なっ!高貴な此方を山猿扱いとは、何様のつもりじゃ!」
「ああ、そもそも前提を誤ったか。猿に人の言葉が通じる筈もない。俺に非があったようだ」
それこそ猿の如く顔を真っ赤にして噛み付いてくる心の姿を予想していたのだが、彼女は俺の挑発に対し、どういう訳か余裕の表情でニヤリと笑った。自身の優位を確信している者に特有の、不愉快な笑みだった。
「フン、此方は知っておるぞ。お前は貧民の生まれだそうじゃな。そのように卑しい者が不死川家の息女たる此方と対等のつもりで口を利こうなどと、片腹痛いわ」
「……」
「父親は薄汚い逃亡犯、母親は新しい男と雲隠れ。やはり下賎な者共はやることなすこと醜いのぅ?ほほほ、お前もさぞかし恥じておるであろうな。此方に今すぐ非礼を詫びれば、この事は黙っておいてやってもよいぞ?」
鬼の首を取ったような調子で得意げに言葉を続ける心に対して、俺は特に怒りを覚えるでもなく、むしろ妙に気分が冷めていくのを感じた。
こうまで知った風な口を利けるという事はつまり、この一週間で俺の出自を調べたという訳か。
なるほど、不死川家のネットワークを用いればその程度の情報収集は容易いだろう。“表向き”の情報ならば一般人でも普通に調べられる。もっとも、裏側まで踏み込んだ時点で無事では済まないだろうが……それはともかく。
「蘭。控えろ」
「……。ははっ」
俺は至極冷静に思考を巡らせながら、既にかなりヤバいレベルで殺気立っている蘭を制止する。放置していれば本気で殺しに掛かりかねない程の鬼気を感じた。
「おい不死川よ、それ以上はやめとけ。さすがに聞き流せねぇぞそれは――」
「準。お前もだ。下がっていろ」
心の罵倒が何かの琴線に触れたのか、静かな怒りを滾らせながら間に割って入ろうとした準は、俺の言葉を受けて戸惑ったように動きを止めた。
そんな彼に向かって、冬馬が珍しく真面目な顔で首を振る。
「ここは私たちの出る幕ではなさそうですよ、ジュン。見守りましょう」
「若……。そうだな、柄にもなくちっと熱くなっちまったぜ。信長、こんな奴でも一応クラスメートなんだ、ちゃんと加減はしてくれよ?」
「ふん。然様な事、俺の関知する所ではないな」
普段通りの軽い調子を取り戻した準に無表情で返し、俺は改めて不死川心と対峙する。
そうか、俺はここまで来たのか。少女の高慢な顔を前にして、不意に感慨が湧き上がってきた。
かつて世界の底辺の底辺を這い蹲っていた惨めで哀れな薄汚いガキが、今ではかの日本三大名家が一つ、不死川家の令嬢にいかなる形であれ興味を持たれ、警戒の対象とされる存在にまで成り上がった。
この喜びの深さは他者には決して理解できないだろう。理解されたいとも思わない、その意味は俺だけが知っていればいい。
それに俺自身、こんな所で終わるつもりはなかった。この地点も所詮、遥か遠き“夢”へのチェックポイントに過ぎないのだから。
「ほほほ、言い返せぬか。自分の卑しさを理解したようじゃのぅ。これからは身の丈に合った態度で過ごすがよいぞ」
思考に沈んで黙り込んでいた俺の態度をどう勘違いしたのか、心は勝ち誇った顔で胸を張っている。
この分だと、今になって俺に声を掛けてきたのは、俺の出自に触れる事でアドバンテージを取れると考えたからなのだろう。その滑稽な姿に冷めた目を送りながら、俺は脳内にて打算を巡らせていた。
現時点において、2-Sクラスの面々で表立って俺に敵意を表しているのは、目の前のこの少女だけだ。他の連中の中にも俺を快く思っていない輩はいるだろうが、それを表に出す度胸もプライドも実力もない以上は気に掛ける必要もあるまい。
葵冬馬、九鬼英雄、そして不死川心。この三名が2-Sの中心人物であり、俺は既に内二名から認められている。つまり、ここで不死川心の高過ぎる鼻っ柱を叩き折りさえすれば――俺はS組における立場をより確固たるものと出来るだろう。
しかし、だからと言ってやり過ぎても不味い。不死川家の日本全国に及ぶ勢力、特に政財界に与える影響力は紛れもない本物だ。今はまだ“敵”に回すべき時期ではない。
憎まれず侮られず、か……中々の難題だが、これもまた修行の一環と考えるとしよう。
さて、やりますか。幸いにして方策は用意済みだ。俺は密かに気合を入れてから、悠然とした態度で心を正面から睨んだ。
「対等。俺と貴様が対等か。くく」
「な、何がおかしいのじゃ」
「俺は貧しく腐った家に生を受け、そして己が力のみで此処まで辿り着いた。財力の支えも権力の後ろ盾もなく、純然たる実力でな。それに引き換え、先祖の築いた家柄しか依るものも誇るものも持たない小娘が、俺と対等?くく、お笑い種だな。滑稽極まる、誰が貴様を対等の存在などと言った。元より貴様など――俺の眼中には無い」
あくまで淡々と、無感情に。心底から見下したような視線をお返ししながら言ってやると、心は自分が何を言われたのか咄嗟に理解できなかったのか、ポカンと口を開けて固まった。数秒の後になってから、怒りに顔を赤く染めていく。
「な、んななな……!あ、あろうことか野蛮で粗暴な山猿の分際で!高貴なる血筋の此方を、愚弄しようと言うのか!?」
「事実を事実として述べることを“愚弄”と呼ぶならば、否定する要素はないな」
「な、何じゃと~!おのれおのれおのれおのれおのれ、此方に対する数々の暴言、断じて許せぬ!もはや我慢ならぬわ!」
「ふん。ならば、どうする?」
「決まっておる、お前の下賎な出自を学園中に晒して笑い者にしてくれよう!今更後悔しても遅いのじゃぞ」
「学習能力のみならず、理解力も猿並みか?俺の出自は、自身が何者にも頼らず独力で生き抜き伸し上がった事実の証明。誇りこそすれ、卑下するところなぞ欠片もない。――生まれが貴様の誇りと云うなら、育ちこそが俺の誇りよ」
何の迷いも衒いもなく、堂々と言い放つ。
これは彼女に対する挑発であると同時に、紛れもない俺の本音であった。
勿論、自分の生まれたあのゴミ溜めのような家庭を愛していた訳ではない。惨めな幼少時代を過ごす原因となった生活環境を憎んでいない訳がない。仮に生まれ変われるなら、今度はごくありふれた平凡な家庭で、そこそこ幸せに生きてみたいと願う。
しかし、それでも俺は、自分の出自を否定するつもりはまるでなかった。誇るべきはどう生まれたかではなく、どう育ったか。それだけの話だ。
故に不死川心の驕りに満ちた言葉など、俺の胸には何一つ響きはしない。わざわざ殺意を覚えるような価値すら、見出せない。
「ぬ、ぐぅ……!あくまで此方に頭を下げぬ気か!」
「無論。俺に頭を下げさせたければ、力を以って捻じ伏せてみせるがいい。家柄のみが頼りの貴様には、無理な注文だろうがな」
「~っ!」
「くく、言い返せぬか?ならば、これよりは身の丈にあった態度で過ごすが良かろう」
「ぬ、ぐぬぬぬぬぬっ」
言葉を重ねる度、確実に怒りのボルテージが上昇していくのが手に取るように分かる。己の思う通りの方向に相手を誘導できている確かな手ごたえを感じ、俺は心中にてほくそ笑んだ。
川神学園への転入に際して川神百代に次ぐレベルで警戒していた存在が、何を隠そう目の前の不死川心という少女である。
編入先である2-S所属の、不死川家の息女。故に彼女に関する下調べは入念に行っており、そのパーソナリティはかなり詳細に把握していた。
彼女は比肩する対象が殆どない名家の出身であり、また本人もそれを過剰な程に誇って喧伝して回る事から、ともすればその家柄と高慢な態度だけが印象に残りがちだが――実際に無能な人間かと言えば、それは違う。まるで見当違いと言ってもいい。
ここ川神学園を構成する基幹となる原理は“競争”。そんな場所のエリートクラスに在籍し続けるには、家柄など無関係に純然たる学力が必要とされる。更に、調べでは柔道において全国区の実力を有しており、学園内でも指折りの武力の持ち主であることは疑いない。
不死川心は家柄を抜きにして考えても、十分に有能な人間だ。その事実を学園の誰よりも正確に把握している俺が、それでも彼女を無能と見下した態度を取っているのは、当然ながら挑発のためだった。
彼女は殺気の意味に気付ける程度には聡く、故に“織田信長”には敵わないと心のどこかで認めていたからこそ、これまで俺に直接的な形で喧嘩を売る事を避けていた。負けると分かっている戦いに挑むのは愚者の所業だ。
しかしながら、俺からしてみれば不戦敗ほど厄介なものはない。実際に勝負して白黒はっきりさせなければ、敗者が自分を敗者だと認める事はないだろう。認めないのをいい事にいつまでも反抗的な態度を取り続けるに違いない。
幾ら力があった所で、戦おうとしない相手にはどう足掻いても勝てないのだ。そういう意味で、臆病者ほどやり辛い相手はない。
だからこそ、俺は彼女の逃げ場を封鎖した。思ってもいない言葉で怒りの炎を煽り、俺への恐怖心を焼き尽くすほどの業火へと成長させた。あえて人目が集まる中で挑発を続けることで、膨れ上がったプライドを破裂させるべく刺激した。
さてどうする不死川心、家柄の高貴さに見合う誇り高さを胸に抱えたお前は、この局面で背中を向けて逃げ出せるか?
「良かろう……!高貴なる此方がお前を実力でボロクソに打ち負かせば、此方は全てにおいてお前に勝っている事になるという訳じゃな?」
「……」
ついに捉えた。
待ち望んでいた展開の到来に思わず綻びかける口元を抑えて、俺は冷然とした表情を保ったまま言葉を返す。
「然様。元より不死川家の威光は俺も認める所。認めていないのは――不死川心という個人である故」
「ならば、此方を家柄だけの雑魚と侮ったこと、泣いて後悔するがよいわ!2-S所属、不死川心は学園の掟に則り、お前に決闘を申し込むのじゃ!」
心の決闘宣言は、瞬く間に教室全体に伝播する。この瞬間よりS組の全生徒が彼女の言動の生き証人となった。
そう、喧嘩は売ってくれなければ買う事も出来ない。かくも早くこの機会が訪れるとは、望外の僥倖だ。
「くくっ。同じく2-S所属、織田信長。貴様の挑戦、確かに受け取った」
―――わざわざ与えてくれたチャンスを逃す気はない。せいぜい徹底的に“心”を折らせて貰うぞ、不死川の御息女。
机上に叩きつけるようにして置かれた彼女のワッペンに目を落として、俺は自覚できるほどに邪悪な笑みを浮かべていた。
~おまけの2-S~
「おいおい、真剣で決闘するのかよ……こりゃあ冗談抜きでヤバイんじゃね?不死川の奴」
「まあ決闘となれば学長の介入がありますから、信長も加減はするでしょう。ふふ、クラスメートが心配ですか?」
「あーあ心配だとも。俺は自分のクラスで殺人事件発生なんて真っ平ゴメンだね」
「お墓はやっぱり校門前の桜の木の下がいいかな。あははは、花弁が散る度に思い出しちゃうよーん」
「ユキ、人が不安になってる時に不吉なこと言うのやめてもらえませんかね」
「それにしてもこの状況、英雄の時と随分流れが似ている……。この決闘、英雄はどう思います?」
「結果は見えているな。奴の相手など信長にとっては役不足もいい所であろう。我が好敵手と認めた男よ、庶民如きが敵うハズもあるまい」
「あー、お前的にはむしろ不死川の方が庶民なんだな。御三家を庶民扱いとは、改めて世界の違いを感じるぜ」
「フハハハ、当然よ。大体、庶民共はいつも家柄だの出自だの、下らん思い込みに縛られ過ぎるのだ。親は親、子は子。自明の理であろうに、それしきの事も理解しようとせん。まったく嘆かわしい。……ん?どうした、我が友トーマよ」
「いえ、何でもありませんよ――英雄」
久々に登場のS組の面々。板垣一家も書いていて楽しいですが、やはり自分が一番楽しんで書けるのはS組だと実感しています。しかも今回から本格的に不死川さん家の心ちゃんを書けると言う事で、否が応でもテンション上昇中。かつて心√の呆気なさに肩を落とした自分にとっては、まじこいSでのメインヒロイン昇格はかなり嬉しいニュースでした。この作品の裏テーマはいかに彼女を魅力的に描けるか、だったりするとかしないとか。
これまで感想を頂いた方々に感謝を。返信は出来ませんが、それはもう励みにさせて頂いてます。それでは、次回の更新で。