微生物の呼吸すらも感じることができない程の静寂。
風すらも動くことを許されない。
ヒステリックに叫んで指示を出していたトスカン、
先程まで雄叫びを上げていた20人の兵士、
そしてルイディナ達も同様だ。
全員が、彫像のように固まって微動だにしない。
今、世界の全ては、絶対的な沈黙の支配下に置かれている。
当然である。
時が止められたのだから――
「さて、ホントどうしようかなあ……?」
そんな世界で、一人だけ動いている人間がいた。
時を止めた男であるイル・ベルリオーネである。
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・[タイム・ストップ【時間停止】] LV9スペル
10メートルの球体状空間内の、時の流れを停止させる呪文である。
使い手は空間内を自由に行動できる。
使い手が球体の外にでると、呪文の効果はその時点で終了する。
この呪文には触媒も動作も必要なく、詠唱だけで発動する。
デミゴット(半神)以上の存在には効果がない。
また、効果範囲外から見ると、球体内が一瞬輝くように見えるだけである。
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イルは腕を組み、うろうろしながら悩んでいた。
トスカン達をどのように対処するかである。
(容易に殺すことは可能だが)さすがに殺すという選択肢はない。
だが、何もしないという選択もない。
それでは、彼らは反省しないだろう。
ソランジュや、今回の件でルイディナ達もだが、またチョッカイを出してくる可能性がある。
イルの理想としては、[ソランジュ達に手を出す気が起きない程度に反省してもらう]である。
だが、それが存外難しい。
彼らを懲らしめる手段が無いのではない。
ちょっとしたことで、相手を過剰に殺戮してしまいそうだからである。
今回、魔術師系の大呪文である[タイム・ストップ【時間停止】]を使用したのは、
考える時間が欲しかったからである。
「まいったなあ……」
モサモサのあご髭を撫でながら、イルは自身の戦力を改めて考え直してみる。
[錬金術アイテム]はどうだろうか――?
[アルケミス・ファイヤー]じゃ木っ端微塵だ。
[アルケミス・フロスト]は氷の彫像ができてしまう。
[サンダーストーン]にいたっては論外だ。
自身で作成した所有の[錬金術アイテム]を考えて、イルは溜息をついてしまう。
半端無く高いレベルのイルが作成したアイテムは、全ての効果が強すぎるのだ。
これはモンスター達に使用して確認済みである。
では、[所有しているアイテム]から考える――
が、すぐに諦めた。
生活消耗品などを除くと、現在所有しているアイテムは全てマジックアイテムである。
ちょっとしたアイテムでも、マジックアイテムの特殊効果で低レベルの生物は死に至る。
では、魔術師の本業である呪文では――
攻撃系は全て微妙だ。
直撃したら、間違いなく死亡だからだ。
仮に使用するとしたら、呪文を放つ方角をあさっての方角に向けなければならない。
呪文の効果範囲ギリギリの端あたりで――
「いやいや――」
イルはかぶりを振る。
武器による攻撃と違って、[D&D]の呪文攻撃には手加減なんてなかった。
呪文は[1]か[0]、[YES]か[NO]、[有り]か[無し]かのどちらかだ。
ルール上なかった行為が、特訓も無しに今の自分に行えるとも思えない。
「イル・ベルリオーネのコンセプトを誤ったかな……」
イルは思わずぼやいてしまう。
[精神操作系]の呪文は殆ど所有していなかったからだ。
これはイルが、攻撃に特化した魔術師をロールプレイしていたためである。
TRPG初心者だった[乃愛]と[妙子]がいるのに、精神系の駆け引きをメインとするのはどうかと思ったからだ。
ゲームを楽しく簡単に遊ぶためのプレイヤーとしての判断だった。
([乃愛]と[妙子]がゲームに慣れた頃からは、そういった遊び方は[勇希]が担当してくれた)
ちなみに[終演の鐘(ベル)]の由来にもなった、[死]に直結する魔法は殆ど持っている。
[終演の鐘(ベル)]とは、相手の人生の終幕を告げる鐘なのだ。
「となると、これぐらいしか手はないか――」
ひとまず、イルは固まっている兵士達に向かっていった。
その中で、一人だけ魔術師然とした姿の男がいた。
ソランジュが鞭打ちを受けた時にもいた時にもいた男である。
イルは、その男の手に握られているスタッフを見て頷く。
「よかった。ただのスタッフだ。
これ使えば、オーバーキルしないですむかな?」
確認すると、イルは[バッグ・オブ・ホールディング]から小瓶を取り出した。
小瓶には漢字で「油」と書かれていた。
イルはスタッフを握っている男の手に、小瓶から「油」をかけた。
男の手がヌルヌルになったことを確認して、イルはスタッフを引っこ抜く。
時間を止めると、相手が所有しているものを奪うのも一苦労である。
そしてイルは呪文の詠唱を開始した。
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055 ケア・パラベルへ06_芽生え
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そして時計の針は動き始める。
「あ、あれ?
俺のスタッフが……
……って、ジジイ、なんでお前がいつの間に持ってやがる???」
トスカンのお抱えである魔術師から、突如、怒声があがる。
魔術師である自分の命とも言えるスタッフが、それもつい先程まで握っていたものが無いのだ。
しかも、気がつかない間に、目前の老人が所有しているではないか。
声を張り上げるのも無理はない。
「はあ?
ジジイだから杖ぐらい持ってるだろ。
お前こそ耄碌したんじゃねえの?」
だが魔術師の言い分に、周囲の仲間の兵士達から嘲笑が巻き起こった。
兵士達には、老人がタダの杖を持っている姿にしか見えない。
「い、いや、そ、そんな、ば、馬鹿なこと……!?」
魔術師の男はわけがわからなかった。
が、何か酷く、嫌な予感がしてならなかった。
「お前等、いいかげんにしないか!
とっとと、僕に対して無礼を働いたそこのじじいを殺してしまえ!
48番以外の女達は好きにしていい!」
笑っている兵士達と狼狽する魔術師に対して、トスカンより命令が下された。
さすがにトスカンに雇われている兵士達である。
主の言葉には逆らわない。
ざわめきは沈黙となり、ぎらついた目でイル達を睨み付ける。
「させない、イルマさん――!」
兵士達の様子に、ルイディナは慌ててイルの前に出ようとするが――
「へ? い、イルマさん……?」
ルイディナに対して、背を向けたまま手を横に伸ばす。
前に行かせないためだった。
「大丈夫だ。
ルイディナ、何も心配することはない。
私に任せるといい」
ルイディナからは、イルの表情は見えなかった。
だが、その背中がとてつもなく大きく見えた。
それはまるで、ずっと小さい子供の頃に見上げていた父親のように――
「は、はい……」
ルイディナは顔を真っ赤にして、構えていたレイピアを降ろしてしまった。
なんだか、もう、全身に力が入らない。
腰も砕けそうである。
「行け――!」
トスカンの言葉に、3人の兵士がイルに対して突進してくる。
「イルマさん!」
「イ、イルマさん……!」
「じっちゃん!」
「イルマさん!!」
ルイディナ、ファナ、ソランジュ、ガストンから悲鳴に近い声が上がる、
その瞬間だった。
スタッフを構えていたイルの姿が消える。
「なっ――!?」
3人の兵士達の声。
その刹那、イルは隙を逃さない。
いつの間にか、イルは3人の懐に潜り込んでいた。
「遅い」
イルはスタッフを振るう。
1人の兵士は、スタッフで足払いをされて倒された後に、スタッフで鳩尾を突かれた。
1人の兵士は、剣を持つ右腕の肘を的確に打ち据えられた。
1人の兵士は、喉仏をスタッフで軽く叩かれた。
瞬く間に3人は無力となった。
胃液をはき、右肘を破壊され、咳き込んでしまった。
全く相手にならない。
「な、なんだって……!?
ぼ、僕の兵士がこんなに簡単に!?」
トスカンは困惑しきりである。
当然だ。
ただの老人と思われた人物に、屈強なデュクドレー家の兵士が叩き伏せられたのだから――
「ちょ、イルマさん!?」
「すごい、すごい……!」
「す、すげ、じっちゃん!?!?」
「おいおい、マジかよ……」
驚いたのはルイディナ達も同様である。
イルの動きに開いた口がふさがらない。
「にゃー(さすが、わたしのイルです!)」
今、冷静に、事の成り行きを見守れているのはクロコぐらいだろう。
「ぽふぽふ」と肉球で拍手を送っている。
「簡単ではないんだけどな。
むしろ難しいぐらいだ。
手加減がね――」
ぼやきの言葉を残して、イルは再び姿を消した。
○
「ば、馬鹿な、馬鹿な……!?」
トスカンには現実に起こったこととは思えなかった。
悪夢である。
なぜなら、自分達の兵士達が瞬く間にやられてしまったのだから。
いまだ意識があるのはトスカンと、
スタッフを奪われて戦闘に参加できなかった魔術師の2人しか残されていない有様である。
「ジジイ、お前はなんなんだよ……!
いつの間にか俺の杖持ってるし、
素早いなんてもんじゃない。
あれは瞬間移動だ!?」
お抱えの魔術師は腰を抜かして、もう泣き出しそうな勢いである。
悪い予感は当たってしまったのだ。
トスカンと魔術師の男の言葉に、イルはモサモサの髭を撫でながら告げる。
「では順を追って説明しようか。
君のスタッフは時間を止めて拝借させてもらったんだ。
[タイム・ストップ【時間停止】] だね。
君達をコテンパンにできたのは、[テンサーズ・トランスフォーメーション【魔術師テンサーの肉体強化】]。
これも、時間を止めている間に詠唱しておいた。
攻撃力では遠く及ばないけど、命中判定は[キース・オルセン]と互角の勝負ができるぐらいだ。
攻撃を外すということは、今の君ら相手には無いよ。
あとは瞬間移動か。
これは大したことないんだ。このマント[ケープ・オブ・ザ・マウンテン(山師のケープ)]のおかげだね。
普通は攻撃された時に使うんだけど、こっちから攻撃するのに使用したんだ」
イルの説明を聞いて、魔術師は顎が外れんばかりに口を開けてしまった。
そして、下腹部が熱くなり、彼のローブにシミが広がる。
オシッコを漏らしてしまったのだ。
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・[テンサーズ・トランスフォーメーション【魔術師テンサーの肉体強化】] LV6スペル
この呪文をかけると、使い手の身体は英雄体型に変化する。
使い手のHP(ヒットポイント)は倍増され、AC(防御力)も向上する。
また、使い手は同レベルのファイターのごとく命中判定を行うことができる。
使用可能武器はダガーかスタッフのみではあるが、
ダガーでの攻撃は手数が2倍となり、スタッフの場合には命中判定とダメージにボーナスが付く。
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◇[ケープ・オブ・ザ・マウンテン(山師のケープ)]
特性
この絹の深緑でできたマントを着れば、危害を避けて通ることができる。
パワー
・[即応]、[対応]
使用者は戦闘中に5マスの瞬間移動をして、敵対者に対して戦術的優位を得る。
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「ば、ば、ばかな!?
タイム・ストップに魔術師テンサーの呪文だと!?
あ、ありえねえ!?
う、嘘をつくな!
そ、そんなの、で、伝説上の呪文じゃねえか……!?」
腰を抜かした魔術師は、手の力を使って必死に後ずさりをしている。
そんな姿を見て、イルは溜息をついた。
「私も、今の自分が普通とは思わないよ。
けど、まあ。
日本人からみたら、君達のソランジュに対する行動の方が普通じゃないんだけどな」
言い終えると、イルは姿を消した。
[ケープ・オブ・ザ・マウンテン(山師のケープ)]のパワーである。
そして現れたのは、呆然としているトスカンの元である。
「ヒッ――!」
突如現れたイルに、トスカンはガタガタと震えることしか出来なかった。
トスカンには先程のイルの説明は、完全に理解できたわけではない。
だが、今の自分が窮地に立っていることぐらい理解はできる。
そんなトスカンに対して、イルは告げる。
「ソランジュと、ルイディナ達には二度と手を出さないでくれるかな?
今回と同じような事をしたら――」
イルは言葉を止める。
トスカンは口の中に溜まったつばを「ゴクリ」と飲み込んだ。
「し、したら……?」
震える声で、トスカンはイルの先の言葉を促した。
それを聞いたイルは、何も言わずに、手にしていたスタッフをやり投げのように放り投げた。
[テンサーズ・トランスフォーメーション]の効果もあり、スタッフは恐ろしい勢いで空高く上昇していった。
「定比例
倍数比例
混成
増加
消滅
質量は保存されず――[エンラージ【大型化】] 」
イルは瞬時に詠唱を完成させる。
と、投げられたスタッフは空中で膨張した。
そして6メートルもの長大なサイズとなり、「ズドン」と音を立てて地面に突き刺さった。
「まあ、素敵なことになるだろうね」
イルの言葉に、トスカンは首が取れんばかりの勢いで縦に振った。
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・[エンラージ【大型化】] LV1スペル
この呪文は、クリーチャーや物体を瞬時に大型化する呪文である。
対象は一体のクリーチャーや、一つの物体である。
対象物は使い手のレベル当り10%まで重量、高さ、幅の各々について巨大化/成長する。
逆呪文の[リデュース【小型化】]は、[エンラージ【大型化】]の効果を打ち消すか、
対象を小型化することができる。
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○
「いやったあ~♪」
「よかったね、ソラちゃん!」
「あ、ああ!」
「冒険者とは聞いていたが、
まさか、イルマさんが魔術師だったとは……」
這々の体で逃げ出していくトスカンを見て、ルイディナ達は大はしゃぎだ。
ルイディナは飛び上がって喜びまくっていた。
ファナとソランジュは抱き合っている。
ガストンは「やれやれ」といった体で、麦わら帽子を脱いで髪の毛をかいていた。
そんな中、イルは照れくさそうにモサモサの髭をなでながら戻ってくる。
そしてソランジュの前に立った。
「もう君は自由だ。
ソランジュ。
これからは、思った事、感じた事、何でも良い。
好きなことをやって欲しいな」
いつもと同じ口調の優しい声だった。
そっとソランジュの頭を「ぽふぽふ」と叩きながら髪を撫でた。
「じっちゃん……!」
ソランジュは顔を真っ赤にして、イルの腰に抱きついた。
そしてソランジュは大声で泣いた。
今までずっと我慢し続けていた少女は、ようやく本来の少女に戻れた。
○
イルの腹部に顔を埋めて泣いているソランジュを、
ルイディナは指を咥えて、ファナは頬をピンクに染めて見守っていた。
「ね~、ファナ」
「なあに、ルーちゃん?」
「たはは、その、なんというか――」
思った事を、すぐに口に出してしまうルイディナにしては珍しい光景だった。
モジモジと何かを言いづらそうにしている。
そんなルイディナに、ファナは小さく微笑んだ。
「うん、わかってるよ」
「へ?」
ファナに「わかってる」と最初に言われて、ルイディナは不思議そうな顔をする。
「ルーちゃんも好きになったんだよね?」
「ファ、ファナ~!?」
ルイディナの顔が「ぽん!」と真っ赤になる。
「一緒に行こ、ルーちゃん。
ソラちゃんに負けちゃうよ!」
ファナはルイディナの手をぎゅっと握る。
ルイディナは一瞬だけ呆気にとられてしまった。
だが、ファナの笑顔を見て、ルイディナは大きく頷いた。
「そうね!
協力してイルマさんをメロメロにしちゃうわよ~!」
「わ、わわ!」
ファナに握り締められた手を、ルイディナは逆に握り替えして引っ張るようにして走り出す。
向かう先は、勿論、イルとソランジュの所だ。
「逃がさないんだからね、イルマさん~♪」
ルイディナとファナは、イルとソランジュの2人に向かって飛びついた――
■■■
漆黒のドレスを纏ったラクリモーサの全身が震える。
息も荒く、頬も紅潮し、心臓が跳ね馬のように鼓動する。
今、間違いなく、ラクリモーサは欲情していた。
ゆっくりと、一歩、一歩、ラクリモーサは歩く。
巨大な水晶柱に向かって。
「お、お嬢様……!」
背後から、イエリチェ、フェーミナ、ミト、ヨツハの声がかかる。
だが、言いかけた言葉を、ラクリモーサは止めた。
「貴方達はそこで待機なさい。
それと、大声を出すのはよしなさい。
失礼ですわよ。
これから[終演の鐘(ベル)]に謁見させていただくのですから――」
「し、失礼いたしました!」
氷のように冷たいラクリモーサの言葉に、4人のダークエルフの少女達は恐縮する。
4人の反応を見たラクリモーサは満足げに頷くと、改めて、水晶柱の前に立った。
「お会いできて嬉しいですわ。
初めまして、イル・ベルリオーネ様……」
ラクリモーサは、水晶柱に向かって完璧な一礼をしてみせる。
否、水晶柱に向かってでは無い。
水晶の中にいる[人]に向かって、だ。
「突然の来訪、申し訳ございません。
そして、ここまでお呼びいただきましてありがとうございます。
代表してお礼を述べさせていただきますわ」
そしてラクリモーサはゆっくりと、水晶に手を触れる。
ヒンヤリとした感触が、火照った身体に心地良かった。
それだけで達してしまいそうな程に――
「アァ……
何て罪作りな殿方なのでしょうか……」
燃えるような朱色の外套に身を包み、
黒鴉の頭が彫りつけられたスタッフを持ち、
水晶の中に立ち尽くす【青年】は何も語らない。
意志の強さを感じさせる瞳が、全てを見通しているかのようにラクリモーサを貫くのみ。
「イル様、早く私をメチャクチャにしてくださいませ」
ラクリモーサは、舌を伸ばして「チロチロ」と水晶を舐め始めた。
★
おじいちゃん編終了です。
「明るく、楽しく、ハーレムでおじいちゃん無双」は達成できたでしょうか?
このコンセプトでは「ハーレム」というのが最大の難関でした。
やっぱりハーレムものって、女性キャラクターに魅力が無いと面白くないと思っています。
必死に、ルイディナ、ファナ、ソランジュは書かせていただきました。
少しでも気に入っていただけると嬉しいのですが……いかがでしたでしょうか?
○
そして、ようやくバラバラになった4人のキャラクター紹介編が終了です。
以前にも全く同じ文章を書いたような気がしますが、正直、ここまで書けるとは思いませんでした!
稚拙な文章ですが、読んでくださった皆様のおかげです。
本当に、本当にありがとうございます!
○
さて、最初に出会うのは誰と誰なのやら?w