二十都市
第一章「始まり」
2144年。
春にしては比較的寒い午後だった。
ここ、神鋼都市(しんこうとし)はこの時期日の光が強く射し、暖かいのが常である。しかし、この数日は冬を思い出させるように少し肌寒い風が吹いていた。
二酸化炭素による温暖化が急速に進んでいく中で、今日の気温は例年より5℃ほども低い。
それでも誰もこのことは気にはしていなかった。
太陽が西へ沈もうとしている頃。
高い塀に囲まれたある邸宅の一室に、一組の男女が机を挟んで向かい合っていた。
一人は、十六歳になったばかりの優しそうな目をした少年。
もう一人は、まだ幼さの残る十三歳の少女である。
一見兄妹に見えるが、兄妹ではない。さらに言えば恋人でもなかった。いわば教師と生徒の関係であり、簡単に言うと家庭教師とその生徒である。
が、今その二人の間には張りつめた空気が漂っていた。
「………えっと、亜紀ちゃん」
「なに」
亜紀と呼ばれた少女は、そっけない声で応じた。幼いながら顔の造りは綺麗で、瞳には子供らしからぬ強い意志がある。しかしまだ何処か幼さは拭いきれない。
「早くこの問題に取り掛からないと時間内に終わらないんだけど」
「…………………」
少女の視線は明後日の方を向いたままだった。
優しそうな目をした少年は、どうしたものかと溜め息をついた。
「もしかして、今機嫌悪いのかな………」
「違います」
「じゃあ、怒ってるのかな……」
「ふん」
その言葉で、少女は怒っているのだと分かったのだが、いかんせん何に対して怒っているのかが、さっぱり分からない。
今日部屋に入ってからずっと視線を合わせてくれないのだ。
「それじゃあ、何で怒っているのか教えてくれないかな?」
少年の声は、とても優しく相手を包み込むような暖かい声だった。
部屋には二人以外の気配はない。しばらく、無言の時が流れた。
少年と少女、二人が向かい合っているのは、橘家という神鋼都市の宗主の邸宅である。
ここの宗主はわずか一代で荒れ果てていた場所とその周辺を一つに纏め上げ、神鋼都市を作り上げた人物、橘 和真(たちばなかずま)。
三十年前に突如として出てきて、当時様々な力を持っていた6つの勢力を一つずつ吸収し、遂には全部を纏め上げた。
ここ神鋼は、全二十ある都市のなかで最後に宗主が決まったところでもあり、一番纏め上げるのが困難と言われていた所でもある。
さすがに宗主の邸宅だろうか、敷地内にある庭から内装に至るあらゆるものが豪華で煌びやかであった。
近所に飛び交う話では、この邸宅のことを「橘の城」と呼んでいる。確かにこの邸宅、この呼び名にピッタリで誰もが見てもそう言うだろう。
壁一面に設けられている大きな窓から、夕日が差し込んでいた。
少女は明後日を向いていた視線を、少し少年の方に向けた。
「なんで、言ってくれないの」
「え?」
「私はなんでも知ってるの。あの事だって………」
少年は少し目を見張り苦笑して頬を掻いた。
「そうか、知ってたんだ。でも、それは亜紀ちゃんには関係な……」
「関係なくない!!」
「えっ……」
「関係なくなんかないもん」
「でも、あの事は……」
「私は圭ちゃんじゃないと嫌なの!」
そう言って少年の顔を見つめる。
困惑しながら、少年はゆっくりと口を開いた。
「………大丈夫だよ。あの事はすぐにそうなるわけじゃないんだから」
「ほんと?」
少女は、年相応の可愛らしい声で呟いた。
少年はその言葉に頷いて見せた。
「それじゃあ、少し遅くなったけど勉強を始めようか。まず英語から………」
それからしばらくペンを走らす音が響く。
「圭ちゃん。終わったよ」
「早いね。それじゃあ……」
少年は机に広げられた問題集に、赤ペンで採点をしていく。
―――92点
「うん、今日はいい感じだね。でも、ちょっとケアレスミスがあったから、今度はそれを気をつけないとね」
「わかってる。それくらい」
「そうだね。それじゃあ、今日は良い点が取れたから御褒美に」
少年は首にかけてあったネックレスを取り外した。
「特別だからね」
「でも――――」
少女が驚きと戸惑いの表情でネックレスを見つめた。
「あれ? 気に入らなかったかな」
「………ううん。そうじゃないけど」
手の中にあるネックレスをぎゅっと握りしめて、胸元に持ってくる。
「これ、圭ちゃんのお母様の形見じゃなかったの」
「そうだけどね。でも、あげるんじゃなくて貸すだけだから、いつか返してもらうよ」
「それって………」
少女は上目使いに少年の顔をうかがった。
優しそうな目の少年が、笑みを浮かべて自分を見つめている。
少女は父から、少年が実家に戻る事が決まったのだと聞いていた。
なんで自分には言ってくれなかったのか、少女は不思議で、そして悲しかった。
でも、今自分に微笑んでいる少年と手の中にあるネックレスを見て、ちゃんと自分の事を考えてくれているんだと思い、少女は嬉しい気持ちでいっぱいになっていた。
例え、この日が家庭教師の最後の日だとしても―――――
「………圭ちゃん」
「なに?」
「その……絶対だよね」
「うん?」
「また……絶対会えるよね」
口にしてから少女は、言わなければよかったと後悔して、目を伏せた。
だが、少年は優しく笑っただけだった。
「うん、絶対だ」
少年の声は、確信に満ちていた。
「そっか……よかった」
「例え離れていても、僕は絶対に亜紀ちゃんを忘れない。だから、必ずまた会えるよ」
少年は恥ずかしそうに軽く頬を掻いた。
「………うん。私、待ってる……ずっと、待ってるから……」
たまりかねたように、少女の眼から涙が流れた。
少年は慌てたように辺りを見回した。傍から見たら苛めて泣かしたようにしか見えない。
「あ、亜紀ちゃん……」
少年は、少女の傍まで行きそっと体を抱きしめた。
少女は涙に濡れた瞳のまま少年を見つめた。
「約束だからね」
少女の言葉に、少年は黙って頷いた。
これは、少年と少女の5年前の話である。