その日、日本の領土の海上に突如として国籍不明の巨大な船が現れた。
否、船などではなく建造物ではないのか、なんて意見も出るくらいに、それは異様な意匠をしていた。
クワガタの頭のような、丸い体から二本の角が伸びているようなデザイン。
メタリックに輝く全身は、UFO的な、SF的な存在を思い起こさせる。
当然ながら、そんな船の作成記録はどこの国にもない。
そしてその船は、現れてから半日もしないうちに海上から姿を消した。
船を囲うように巨大な光が立ち上り、それが収まった時、船の姿はどこにもなかった。
船の存在に神秘の臭いを感じ取った者達の気転により、その存在は一般人にはあまり広がらず、その映像を知る者も映画撮影のワンシーン程度の認識に落ち着く。
しかしその存在は、識る者にとっては周知のものとなった。
いずことも知れぬ世界の海上に転移したアースラは、動けるようになった乗組員から大至急システムの復旧のために動き、艦の動力が回復し次第付近の次元空間へ跳躍した。
今アースラは、負傷者の手当て、機器の破損の修復、現状の把握におおわらわである。
とはいえ、乗組員のほぼ全員が安静にしていなければならない状態であるため、後ろ2つの進行は遅々としたもの。
見事なまでの機能停止に追い込まれていた。
闇の書や守護者達は、アースラの乗組員が意識を取り戻した時には既に姿を消していた。
転移先が海の上というある意味で都合のいい位置だったのも、もしかしたら闇の書の管理人格を名乗る女性が制御した結果なのかも知れない。
そんな状況だから、何がどうなってこのような状況になったのか、乗組員全てに周知されるのはまだ先のことであった。
しかしそれでも、グレアム提督とその使い魔達が何かしら関わっているらしいこと、現在監視の元軟禁状態であることはなのはの耳にも届いていた。
なのはは、この世界にたどり着いた時には闇の書から解放されていた。
床に倒れて眠っていたところを、転移の衝撃での気絶から真っ先に目覚めたさつきに見つかって起こされた。
闇の書に取り込まれている間にしっかり魔力の蒐集を受けていたようで、体を動かす分には問題ないが少しの間魔法を使うのは厳禁だった。
さつきも今、アースラにいる。
というか今アースラに居る中でなのはとさつきは貴重な比較的元気である人員のため、2人して負傷した乗員の手当てを手伝っている。
さつきからしたらいきなり身に覚えのない場所に連れ込まれているわ衝撃的な出来事は発生するわに次いでのこの状況であったが、文字通りすぎる乗り掛かった舟であった。
とりあえず管理局の人達であることは分かったため、なのはに間を取り持ってもらって乗り切った。
なのはからの仲介もあり、リンディやクロノなど、アースラの一部の人間には件の世界がさつきの故郷の次元世界である可能性がある程度の情報は伝わっている。
自身の知らぬ間に次元世界移動をしていたなのはも、その時それを知った。
一先ず負傷者の救助とアースラのシステム復旧が急がれたためそのことについてはそれ以上のやり取りは行われなかったが、明日にでも詳しく話を聞かれることだろう。
激動の一日の終わり、なのはとさつきは1つのテーブルに横並びに座っていた。
2人の前には飲み物の入ったコップが置かれており、その部屋の壁は透明な材質で作られていてアースラが浮遊している次元空間を眺められるようになっている。
「ごめんね、さつきちゃん。
こんなことに巻き込んじゃって」
「どっちがどっちに巻き込まれたんだろうね、この場合」
なのはからの謝罪に、さつきが肩をすくめて苦笑する。
その態度に、なのはに対して隔意がある様子は見られない。
さつき自身、自分がなのはを突き放す気にならない理由は分かっていなかった。
騒いだところでどうにもならない、ここでなのはと喧嘩別れしたとして、行けるところもない。
そんな状況になって観念したとかいうことなのかなとか、考えてみたりする。
さつきはまるでSFの世界に迷い込んだような艦内を見回した。
「アルフがいるっていうことは、フェイトちゃんも、この船に?」
「あっ、うん。
フェイトちゃん、昨日もさつきちゃんを助けるために戦ってくれたんだよ」
「……うん、覚えてるよ。
なのはちゃんとフェイトちゃんが、駆け寄って来てくれたことも、朧気には。
ただ、フェイトちゃんがどういう事情であの場にいたのかまでは、知らなくて」
なのはははっとする。
さつきと再会してからこっち、そのことすらも、さつきと共有していなかったことに気付いて。
さつきは、ジュエルシード事件の結末について大部分を知らないままだった。
「そっか……。
フェイトちゃんね、今、リンディさんの下でお世話になってるんだって。
アースラの中で戦闘が起こってた時、何もできなかったこと、ちょっと気にしてた。
……そこら辺のことも、ちゃんと話すね。あの事件がどうなったのかも」
「うーん……、フェイトちゃんの扱いがどうなっているのかだけ分かれば、それでいいかな」
「……さつきちゃんが私達のことをちゃん付けで呼ぶの、小さな子だからだったんだね」
えっ、と、なのはの唐突なつぶやきに、さつきは首をかしげる。
なのはは椅子を回して、さつきに体ごと向き直った。
「でも今は、あの時のお話の続き、したいんだ」
「……わたしのことを、もっと知りたいって話?」
返ってきたさつきの言葉に、なのはは申し訳なさそうな顔をする。
「さつきちゃんに、まずは謝らないといけないことがあるの」
「……?」
「私もね、闇の書の中に閉じ込められたんだ」
「らしいね、大丈夫だった?」
なのはは頷きで返す。
「その時に、闇の書さんがね、さつきちゃんの過去を見せてくれたの。
記憶の中に入ったみたいに。
……だから私、さつきちゃんのこと、色々知っちゃったの。ごめんね」
2人の間に、沈黙が降りる。
なのはは、罪悪感から。
そしてさつきは、予想だにしていなかった展開に。
だって、そんなのを見たというのなら、今なのはがこのような態度で自分に接してくれている現状が分からない。
「それは……なにを、どこまで?」
しばしの沈黙を挟んで、さつきはまずそれを尋ねた。
「さつきちゃんが学校に行っていた頃から、死徒になって、ゼルレッチさんの魔法で私の世界に来るまで。
……見たよ。さつきちゃんが人を、襲ってしまったところも」
なのはの知らない筈の単語まで出てきて、その発言が本当のことだと悟るさつき。
しかし、さつきは困惑する。
申し訳なさそうな顔をしているなのはの目には、さつきを批判するような色も、哀れみの色も見えなかったから。
「それ、は……酷い光景を見せちゃって、ごめんなさい?」
なのはは黙って首を横に振った。
それ以上の返答のないなのはに、さつきは続ける話題に窮する。
「大したストーリーじゃなかったでしょ?
フェイトちゃんみたいにずっと辛い思いをしてきた訳でも、特別な存在だったせいで苦しんでた訳でもなくて。
ただ単に変な事件に巻き込まれて、死徒になっちゃって、そのせいで命を狙われたから逃げてきたってだけなんだから」
明るい口調で、あっけらかんとさつきが語る。
恐らく本人は気付かないままに、早口で語られたそれを聞いて、なのはは思う。
ああ、本当に、最初に口頭で聞かなくて良かった。
言葉だけだと、こんなに簡単に説明が付いてしまう。嘘も過小表現もしていない、でも違う。
「……なのは、ちゃん?」
なのはは椅子から立ち上がると、そっと、ゆっくりとさつきを包み込むように抱きついた。
何てこともないことのように感じてしまう。あれだけの内容も、出来事だけを言葉にするとこんなにも簡単になってしまう。
報告書で、人は実感出来ない。感動できない。歴史の教科書で、歴史上の人物の所業に感情移入する人物など、まずいない。
語りで人が感動することもあるが、あれは語り手がそういう語り方をしているからだ。登場人物に感情移入しやすいように、色々と工夫して語っているからだ。
もしさつきが、自分の体験したことを一つ一つ丁寧に語ったとしても、なのははそれを実感として捉えることなど出来なかっただろう。
可愛そうだと思うかも知れない。苦しかったんじゃないかと推察するかも知れない。しかしそこ止まりだ。ああ、そういうことがあったんだという『情報』でしか、なのははそれを認識できなかっただろう。
だがなのはは、本当の意味で知ったのだ。さつきの過去と、さつきの心を。
変わってしまった自分が怖くて、変わっていく心が怖くて、そんな現実を認めるのが怖くて、ひとりぼっちが寂しくて。
自分と"おんなじ"がいない。それが、どれだけ寂しかったか。過去、その寂しさから志貴を自分側に引きずり込もうとしたさつきだったが、その寂しさが消えた訳では断じてない。
さつきは、真の意味で一人ぼっちだった。自分以外の周りの者達が皆、意識的に自分とは対等に思えない生物。それが孤独でない訳がなかった。
さつきに肩を貸す形で、なのははさつきの背中と頭に手を回す。
「ずっと、辛かったんだよね」
肌越しに、さつきの困惑がなのはに伝わる。
しかしさつきは、なのはを振り払うことはしなかった。
さつきの心が生み出したあの世界は、さつき自身が何かを得ることなんて何も考えていなかった。
奪うのではなく、ただ枯渇させる。それが果たされても、自身が満たされることなんてないのに。
ただただ、失くして欲しい。自分と同じところまで堕ちて欲しい。それが弓塚さつきの心象の本質。
……そうなったとして、そこに自分の居場所が生まれることなんて、無いと分かっているのに。
自分自身が満たされることを、心の底で諦めきってしまっているなんて。なのははそんなの許せなかった。
おんなじにはなれないけれど、それでも居場所はちゃんとあるんだってことを、伝えたかった。
「私が失くすことで、同じになってあげることはできないけれど。
私は、さつきちゃんと分け合うことで、おんなじを共有したいって、思ってた」
体を固くしながらなのはに抱きしめられていたさつきの体が、微かに震える。
それを感じ取ったなのはは、抱きしめる腕に更に力を込めた。
そして再び、今度はしっかりと、その言葉をさつきに届ける。
「嬉しいも、悲しいも、分け合って。
私は、さつきちゃんと、友達になりたいんだ」
「……知ってるんでしょ? なのはちゃん。
わたし、そのうち完全な死徒に戻っちゃうんだよ」
「それまでに、何か方法を探そう。
皆協力してくれる。お兄ちゃんや忍さん、アリサちゃんやすずかちゃん、ユーノ君もフェイトちゃんも、リンディさんやクロノ君だってきっと。
……それにね、さつきちゃん。
さつきちゃんが、さつきちゃんじゃなくなるわけじゃないんでしょ?
吸血鬼とか死徒とか、人間とか、そういうのじゃなくて。
なのはは、弓塚さつきっていう女の子と友達になりたいんだって、そう思ったんだよ」
さつきの手がなのはの背中に伸びる。が、その腕はなのはに触ることなく逆戻りすると、さつき自身を抱きしめるように回された。
自身の体を力いっぱい抱きしめ、体を震わせるさつきを、なのはは優しく抱きしめる。
なのはの肩の上で、さつきは、静かに涙を流していた。
その後のことになる。
なのはとさつきは共にフェイトの治療室に赴き、再び互いに再会を喜んだ。
状況が素直に喜べるものではなかったことに切なさを抱きながらも、確かな絆を確認したなのはとフェイト。
そんな2人を離れて見ていたさつきに、2人は手を差し出す。
その手を、さつきは受け入れることができた。
もしかしたら、今までも見失っていただけかも知れないけれど。
見ないようにしていただけなのかも知れないけれど。
自分が居ていい場所は、確かにそこにあるのだと。
日が変わって、その翌日の朝。
リンディから呼び出されたなのはは指定された部屋へ向かった。
その途中、アルフを連れたフェイトやユーノとも出会い、同じ要件だと察して一緒に目的地を目指す。
目的の部屋の前では、さつきを案内して連れてきたクロノとエイミィとも合流する。
エイミィの場を和ませるトークの犠牲になっていたクロノは、なのは達の姿を見てホッと息をついていた。
声のかかった人間は以上のようで、その顔ぶれはエイミィを除けばさつきとのある程度の面識のある面子だ。
一行が部屋の中に入ると、そこは思いっきり和室だった。
SFチックな外壁の中に、畳やら襖やら鹿威しまで設置してあるやたらと気合の入った和室が展開されていた。
目をぱちくりさせて固まったさつきを他所に、他の面々はもう慣れたと言わんばかりに何事もなく部屋に上がっていく。
部屋には艦の長であるリンディが一人正座して待っており、他の面々は思い思いの場所に腰を下ろしたり壁にもたれかかったりしていた。
再起動したさつきが慌てて一行の中に入ると、リンディが前置きもそこそこに話を始める。
話の内容は、管理局員ではないなのはとさつきへの状況説明と、情報提供の協力のお願いだった。
今現在アースラの居る次元空間について、座標が分かっていないこと。
本局とも連絡が付かず、復旧の目途もたっていないこと。
これは恐らく通信の届く範囲外にアースラが居るためで、結局のところこの次元空間がどこなのか分からないことにはにっちもさっちもいかないこと。
そして、乗組員の現状。
闇の書が見つかったということで、休暇を急ぎ返上して乗組員たちの招集は終わっていたため、人数不足の心配はない。
しかし、その殆どが現在魔法を満足に使えない状況で、数日間の間は闇の書に関する何かしらが起こっても対応が難しいこと。
そしてさつきには、闇の書についての説明が。
さつきを襲っていた者達の、この艦を転移させた者達についての説明が行われて。
それらが終わるとリンディは、なのはとさつきに頭を下げた。
このような状況に巻き込んでしまったこと、守れなかったことを謝罪して。
次いで、さつきに情報提供を求めた。
リンディは言う。
闇の書をこのままにしておくわけにはいかないと。
彼ら彼女らの目的ははっきりしていないが、放っておくわけにはいかないと。
そして闇の書の守護者達の目的の鍵は、さつきの記憶にあると思われると。
リンディは闇の書の管理人格が転送魔法を発動させようとしていた時の、さつきとの会話の時に意識を保っていた者達の一人だった。
理解の及ばない内容もあったが、その会話から推論立てると、彼らはさつきの記憶から何らかの情報を得て件の次元世界に跳んだと見て間違いない。
実はさつきが別の次元世界からの漂流者だったということも、この時点で知らなかった者達にも周知された。
そして、自分達が飛ばされた先、闇の書の守護者達の目的地が、さつきの故郷の世界であるらしいことも。
プレシア・テスタロッサが、生存してその世界に漂流している可能性があることも。
とにもかくにも、さつきから1つや2つでも心当たりとなる情報が欲しい状況であることを、皆が把握する。
心当たり以外にも、あの世界そのものの情報もだ。何と言っても、この弓塚さつきの元居た世界なのだから。
事の重大さを理解したさつきも、リンディの要求に頷く。
その上で彼女は、彼女達は、情報提供だけの協力で留まることをよしとしなかった。
「なのは、フェイト。
わたし、あの世界に、護りたい人達がいるかも知れないの」
さつきは、自らの故郷の危機と、新しい友達のために。
「母さんが、居るかも知れない……。
力を、貸して欲しい。なのは、さつき」
フェイトは、姉との約束と、今度こそ手を届かせるために。
「はやてちゃんのことも、ヴィータちゃんのことも。
シグナムさん、シャマルさん、ザフィーラさん、それに闇の書さんだって、放っておけない。助けたい。
私も、協力させてください」
なのはは、取り戻した不屈の心と共に。
闇の書を取り巻く騒動へ、飛び込む決意を固める。
それぞれの関係は、まだまだ始まったばかり。
それでも、始めることはできたから。
だから、きっと大丈夫。
知らないままに折れかけていた不屈の心は、今はすっかり立ち上がって。
でも今度は、助けたい子達が現れて。
これは、彼女達が魔法の世界の残酷な運命に立ち向かうまでのプロローグ。
でも今は、もう一つの始まりの物語の、ひとつの終わり。