力なく倒れ伏すシャマルとヴィータ。
シャマルの手から離れた本から、光が溢れ、その傍らに2人の人影が現れる。
その姿をハッキリと認めたなのはは、喜びの声を上げた。
「フェイトちゃん! さつきちゃん!」
「なのは!」
なのはの呼びかけに、フェイトも応える。
フェイトはなのはの元へ飛んで駆け寄ろうとして、胸の奥を襲う苦しみに倒れこみそうになった。
魔力を引き出そうとすると、その苦しみが強くなる。
夢の中では、だるい程度で済んでいたのだということを、フェイトは理解した。
「……ぁ」
たたらを踏んだフェイトの耳に、微かな声が聞こえる。
ハッと、振り向く。
「ぁぁ……」
何の意味も宿していない、ただ肺の中から出る空気が喉を震わせただけの、微かな声。
フェイトの傍らで両膝をついて座り込み、胸元を掻き抱いて俯くさつきから零れた、音。
「さつき……」
フェイトは知っている。
あの本の中の世界が、どのような夢を見させてくれるのか。
その甘美な夢から唐突に覚まされたら、自分だって平静を保てないだろう。
さつきに対してかける言葉が見つからず、その場で皆がこちらに駆け付けてくれるのを待つフェイト。
その目に、不可思議な光景が映った。
さつきの周囲が、不自然に歪んだように見えた。
「……?」
体の不調から、目が霞んだのかとフェイトが思ったのも一瞬。
「!?」
空間が、歪み、広がった。
「っ!?」
「!?」
一瞬で広がった空間の歪みは、さつきとフェイトだけでなく、傍らで倒れるシャマルとヴィータも、
駆け付けようとしていたクロノ達も、後方に居た武装局員達も、その場にいた全員を飲み込んだ。
思わず目をつぶらなかった者達は、その光景を目にする。
世界が、塗りつぶされる瞬間を。
「え……」
「何、が……」
フェイトが困惑の声を上げ、ユーノが周囲を見回す。
いつの間にか、歪みに巻き込まれた人物達はさつきを除いてある程度の一つ処に集められていた。
しかし、彼らの驚愕は、その現象よりも驚くべき事象によってもたらされたもの。
世界が、様変わりしていた。
景色が、ではない。まるで別の場所に移動させられたかのように、何もかもが違っていた。
そこは、美しい庭園だった。
緑に溢れ、花は咲き乱れ、空は蒼く、離れた場所にある立派な噴水からは綺麗な水が溢れている。
その噴水を挟んだ反対側に、膝を付き俯くさつきの姿が遠目に見えた。
そんな庭園の美しさが、ただの見せかけだとその場にいる全員が気付くのに、時間はかからなかった。
だって、こんなに豊かな、緑と花に溢れた、素晴らしい景色なのに。
なんて、空虚。
「嘘……」
なのはが、呆然と零す。
それは、世界を侵食する異能。
本来は世界の端末である精霊にのみ許された、世界を異なる法則で書き換える超常の業。
なのは達の使う、世界をその世界のままに切り分ける結界とは違う。
異なる法則――術者自身の持つ幻想、すなわち心象風景で、世界を上書きする結界。
名を、固有結界。
死徒が扱うことは、特に力を得たごく一部の者にしかできない筈のそれが、さつきの持つ力の大本だった。
なのは達にそんな知識は無くとも、自分達の居る空間が、さつきの作り出した世界だということは伝わっていた。
だって、否応にも伝えてくるから。
大気が、大地が、空が、世界が、彼女の心の空虚さを。
「これ……さつきちゃん……?」
「っ、エイミィ、何が起こった! エイミィ!
くっ、通信が……いや、通信の魔力が……?」
なのはは察する。
目の前に広がる美しい庭園は、さつきがいつも浮かべていた笑顔で、さつきがいつも振舞っていた明るさであると。
そんな、瑞々しく生命力に溢れた景色で作られたベールが、剥がれる。
空が赤く染まる。
緑が黒く崩壊する。
水が蒸発する。
大地がひび割れる。
空気が――渇く。
そして、一同の中で一際魔力の収集を得意としているなのはは、一番に気付いていた。
庭園が崩壊する前――そう、美しい庭園が展開された瞬間から――先程までの激闘で空間に満ちていた魔力素が、消えていた。
そして今、魔法の残り香である魔力素のみならず、大気に残存していた魔力ですらも、全く感じられなくなる。
それは、新たな法則。
質量ある物は引力を持つべし。
時は過去から未来へ進むべし。
それらと同じように、さつきの心象風景によって定められたこの世界の法則。
それは――
――ありとあらゆるもの、渇くべし。
渇いた大気で、眼が渇く。唇が割れる。喉が渇く。呼吸すると、咳込みそうになる。
更に、なのは達は異変に気付く。
怖気がするように、じわじわと、確実に、自分達の中から何かが抜け落ちていく感覚。
それが魔力であると、皆が即座に気付いた。
ただでさえ魔力を集める器官であるリンカーコアに不調を感じていたフェイトは、倒れこみそうになって片膝をついてしまう。
「! フェイトちゃん!」
「大丈夫、ちょっとくらっとしただけ……」
次いで、なのはのスターライトブレイカーによって昏倒していたヴィータとシャマルの様子にも異変が起こる。
彼女らの体から、それぞれの魔力光が弱弱しく立ち上り、その体が透けていく。
「ヴィータちゃん!? シャマルさん!」
「なのは待て! 大丈夫だ」
取り乱しかけたなのはを、クロノが制す。
ヴィータ達の姿はどんどん薄くなるも、彼女達の体内でひときわ光を放っていたコアのような物が彼女達の体を離れ、彼女達の傍らに落ちていた本に吸い込まれた。
透けていた彼女達の体も、それぞれの魔力光となって後を追うように本の中に吸い込まれる。
「! 闇の書……」
クロノがその本を確保するため駆け出してゆく。
そしてヴィータ達のその様子を目にしたフェイトは、はっとしてアルフに目を向けた。
フェイトの想像通り、苦々し気な表情のアルフから、オレンジ色の魔力光が漏れだしていた。
「アルフ、小さくなって!」
「あっ、ああ、フェイト」
アルフはフェイトの言葉に従い、体を子犬程の大きさにまで変化させる。
フェレットになっていたユーノと同じだ。この状態なら魔力消費が少なくて済むし、体を構成する魔力も大幅に少なくできる。
しかし、魔力によって生かされている使い魔にとって、この状況は危機的だった。
よりにもよって使い魔を構成している魔力までもと、フェイトは焦る。
否、危機感は、多かれ少なかれその場にいる全員が抱いていた。
この世界では、何かが消えていく。
それは、変わり果てた景色と、今なお奪われ続けている魔力から殆どの人間が察せていた。
何故、魔力だけなのか。
自覚できていないだけで、他の物も奪われているのか。
枯れ果てた景色からそのような考えに至るのは当然のことで、この世界に長居することに危機感を覚えるのは自然なことだった。
実際には、彼ら自身から失われているのは真に魔力だけである。
知的生命体は、さつきの世界の魔術体系ではその体そのものが上位の結界となる。
それこそ、世界と個を区切る程の。
世界を侵食することは不可能でも、自分の体内に限定してなら固有結界を展開することを可能とする魔術師だって存在する程に。
だから展開された固有結界も、取り込んだ者の肉体に直接干渉することは難しい。
だが。
元より無と定められている魔力なら、別だ。
世界は、無から有を生み出すことを許さない。
そのため、魔力弾は維持しなければ即座に魔力素に分解されるし、さつきの世界の魔術で魔力によって物体を作った場合、それは数刻もせず世界によって壊される。
アルフ等の使い魔が存在しているだけで魔力を消費するのも、そのためだ。
そしてその逆もしかりであるため、さつきの固有結界も、有に属する水分等を他者の体内から枯渇させる程の影響力はない。
しかし、世界にとって、魔力とは元より”無”であった。
「これが、さつきちゃんの世界……」
なのはが口にする。それに異を唱える者は居ない。
彼女が見つめる先は、彼方でうずくまるさつき。
この立ち位置は、彼女が自身以外の全員を拒絶したが故のものであるように、なのはには思えた。
「この本の中には、幸せな世界があった」
なのはに声をかける者がいた。
なのはが振り返ると、フェイトがクロノに肩を貸してもらってなのはの元まで歩いてきていた。
クロノの手には、例の本が抱えられている。
「フェイトちゃん、大丈夫なの!?」
なのはの言葉に、フェイトは頷きで返す。
そして、伝えるべきことを続ける。
「この本の中では、母さんがいて、アリシアがいて、小さい頃のお世話係もいて、アルフもいた。
皆で、笑い合って、……幸せに暮らしてた」
「……!」
「私は、アリシアに助けられて、自分の意思で出てきたけど……。
多分、さつきは……」
なのはの目に、決意が宿る。
こんな寂しい世界が、さつきの心であるのなら。
やらなければならないことは、恐らく1つだった。
「さつきちゃん!」
飛び出そうとしたなのはの腕を、フェイトの手が掴む。
「……待って、なのは」
「フェイトちゃん……」
「私も、行く」
俯くさつきの目は開かれていても、何も映してはいなかった。
自分の体から力が使われていく感覚はしても、気にも留めない。
もう、どうでもよかった。自分も、周りも。
分かってた。
あれが夢だってことくらい、分かってた。
夢でも、よかったのに。
こんな現実になんて、戻れなくてもよかったのに。
自分の居場所なんて、どうせこの現実にはないのだから。
吸血鬼になったばかりの頃、廃ビルの片隅で過ごした寒い夜、体が震えていたのは寒さのせいだけじゃなくて。
自分はどうなってしまったのか、これからどうなるのか、どうすればいいのか……。
そんな真実なんて知りたくなくて、目を、逸らし続けて。
現実から目を背けて、空想の中に逃げて。
その空想が、現実になってくれたのに。
また、ひとり。
遠野くんへの想いを感じることが、唯一寂しさを紛らわす確かな手段だったのに。
もうそれも、虚しさしか感じない。
なのは達は、飛ぶ。
フェイトはなのはに手を引かれて、なのはのサポートを受けて飛ぶ。
自分達の中に残ったなけなしの魔力で、バリアジャケットを分解して生成した魔力で、飛ぶ。
魔力が尽きてしまう前に、間に合うように。
思い返せば、なのはは、フェイトは、さつきが涙を流す姿を見たことがなかった。
激昂した時も、嬉しそうにした時も、……時の庭園でも。
気に留めていなかったそれも、その理由に気付いてしまえば、見過ごすことなんてできない。
ただ、空虚だっただけ。
涙を流す程の感情が、心を満たすことが、なかった。
そんな悲しいこと、許せなかった。
飛ぶための魔力が足りなくなり、走る。
さつきの姿は目前。
なのはもフェイトもバリアジャケットはもう身に纏っていない。
せめて魔力を身体強化に回そうとするが、その程度の魔力は使用する前に消滅する。
渇いた大地が、空気が、二人の足音を響かせる。
最初にあの娘の眼を見た時、そこに宿る寂しさを、確かに感じていた筈なのに。
触れ合っていくうちに、薄れてしまっていた。お話できるようになっただけで、安心してしまっていた。
あの綺麗な庭園みたいな、笑顔の裏に、気付けなかった。
"分け合うこと"が、したかったことなのに……。
分け合うのは、寂しいを分けて欲しいってだけじゃないの。
嬉しいを、受け取って欲しいから。
どうか怖がらないで。
悲しい夢に惑わないで。
わたしは、さつきちゃんと、
「「友達に、なりたいんだ!」」
なのはとフェイト、二人の手が、胸元を搔き抱くさつきの手を取る。
枯渇した庭園は消えてゆき、世界は元の姿を取り戻していった。