恭也の問いかけに、即座に返答を返せた者はいなかった。どう説明しろというのかこの状況。
だがさつきが青い顔をしたまま黙っているのを見て、とりあえず忍が分かる範囲で解説しようと動いた。
「さつきちゃんが言うには、私達とさつきちゃんとの間に認識の違いがあったらしくて」
そう前置きして、自分がさつきから聞いた内容を話す忍。
始めは困惑している様子だった恭也も、忍の話が進むにつれ疑惑をすっ飛ばしてなんとも微妙な表情を見せた。
その様子は、語られた内容に複雑に思う心があった様であり、つまりその内容自体はすんなりと受け入れているようであった。
それには今度は忍が困惑した様子を見せる。
「あっさりと受け入れるのね?」
「いや、俺としては今までの不可解だったこと全部に説明が付くから凄く納得できたんだが……」
まぁ、納得することと無条件で全部丸ごと信じることはまた別だ。
そんな言葉を隠して、今度は恭也が忍に視線を向ける。忍はどこまで信じているんだ? と眼が訊いていた。
「さっき、さつきちゃんが自分で自分の腕を斬ったの。それでその傷が治る様を見たわ……」
「ああ、何か血の臭いがすると思ったら」
忍はまたもや頭を抱えたくなった。違うそうじゃない。
と、そこで恭也は再びさつきに視線を戻す。先ほどからとても静かな彼女は真っ青で、顔は上げていても視線は下を向いていてとてもではないが尋常な様子には見えない。
さつきがこの事実にショックを受けているのは分かるのだが、どういった思いでショックを受けているのか分からないためフォローのしようがない。
しかしそのままにしておく訳にもいかないだろう。
「さつきちゃん、大丈夫かい? 顔色が悪いけれど」
「え、そんなに悪いですか? ごめんなさい心配かけちゃって」
意外にも、はっきりとした反応がすぐに返ってきた。
声音では強がっている風には感じられない。しかしその顔色は依然として悪いままである。
「いや、それはいいんだけれど……それじゃあ、いくつか質問いいかい?」
「はい」
「昨日襲われたのは、さつきちゃんが吸血鬼だからって話だったよね? それってどっちの吸血鬼かな?」
「あっ……えっと、向こうは死徒とか夜の一族とか知らない感じだったので……」
「それじゃあ、まだ俺達も当事者のままか……」
と、そこで恭也は(ん?)と疑問を覚えた。
夜の一族のことを知らない、それはいい。だが今の言葉は死徒のことも知らないと言っているように聞こえた。
それが言葉の綾というものでなければ、その襲撃者というのはそのどちらの関係者でもないということになる。
さつきが言うには、彼女が襲われたのは彼女が吸血鬼であるからだという。
そしてその襲撃者が夜の一族の関係者でも、さつきの言うところの吸血鬼である死徒の関係者でもない、となるとである。
さつきが狙われることになったのは、彼女自身が吸血鬼であるとバレる、その者達が吸血鬼の存在を知る出来事が何かしらあったということになる。
(その場合、完全にとばっちりじゃないか……)
事実完全にとばっちりである。しかし残念ながらこの時点で確信を持ってその真実を知る者はさつきただ一人であった。
「よし分かった。それじゃあもうこのまま話に入っちゃおう。
とは言っても、そんなに難しいことじゃないよ。さつきちゃんの仲間で、さつきちゃんより立場が上の人に合わせてくれないかな」
「えと……居ませんよ?」
悩むでもなく、あっさりと返されたその返答に恭也達は困惑した。
あの廃ビルにさつき以外誰もいないのは知っているので、その前にいたところの誰でもいいのだが――と恭也が補足する前に、さつきの言葉が続いた。
「わたしが殺された時も、親を見ることはありませんでしたし……。
その後に1度だけ別の死徒の人と会ったことあるんですけれど、連絡先とか知りませんし」
「えっと、その、親っていうのはお父さんとかお母さんとか――」
「あ、いえ、違います。わたし達死徒の中で、自分を殺して吸血鬼にした相手のことです」
目の前の少女の口からあっさりと当たり前のように放たれる、異常な言葉。
そんな異様な光景が、逆に少女の言葉にうすら寒いリアリティを与えていた。
恭也と忍は一度自分達の中にあったさつきに関する推論をリセットし、もう一度昨日さつきの語った言葉について考え直してみる。
さつきの言葉が真実かどうかはともかくとして、両方ともさつきが真実と認識している言葉ならそこには一貫性がある筈だ。
まず自分達が何故さつきのことをどこかのグループに所属していると思ったのか。
流石に台詞をそのままは2人とも覚えていなかったが、『新米の"使途"』『親からは独立している』『一人で活動』このあたりの言葉が原因だ。
この"使途"というのはつまりは"死徒"の勘違いだ。そして親は吸血鬼にされた相手、活動は……そのままの意味である。
つまるところ……さつきは今本当に一人、天涯孤独ということになる。
「死徒っていうのは、そんなに居ないものなのかい? ……いや、居たら俺達も存在を知っているか」
「はい、教会の人達も頑張っているみたいですし……実際に会ったことのあるのは、わたし以外に1人だけですね」
「教会? って……ああ、よくあるエクソシストってやつ?」
「あっ、そんな感じです」
「じゃあ、今回の襲撃者っていうのも――」
「いえ、今回のはそれとは違うんです……」
恭也は難しい顔をして唸った。ここで肯定してくれれば、先ほどのさつきの発言と矛盾が見つかりこれは嘘か妄想かだと判断できたのだが。
恭也は一度忍へ目を向け、そして時計を見て時間を確認した。丁度昼前といったところである。
「うん、さつきちゃん、こっちも突然の話で少し混乱してるから、一度色々整理させて欲しいな。
後の話はお昼の後でいいかな?」
恭也の言葉に、さつきは言葉少なに了承して退室した。
そんな様子に若干の不安を覚えるが、そちらのことはノエルに任せておく。
恭也は何も言わずにここまで話を任せてくれていた忍に礼を言い、そして尋ねた。
「さて、忍はどこまで信じてる?」
昼食は朝食と違い皆が合流して大所帯となった。忍、恭也、すずか、さつきの4人に食事は取らないがメイドの2人である。
忍はそんな昼食の時の様子を思い出す。どうやら自分の知らない間に仲良くなっていたというのは本当のようで、すずかは親しげにさつきに接する様子を見せていた。
いいことだと思う反面、さつきに関して不安要素が多い現状色々と心配でもある。
また、どうもさつきの方がすずかに対してどこかよそよそしく見えたのも気になった。
昼食が始まる前も、そしてそれが終わってからも、恭也と忍は様々なことを話し合った。さつきの話から見えてくる、これまでの事件の裏側やどのように話を進めていくか等である。
そんな中、さつき自身のことについて「何らかの人体実験で、身体能力や治癒能力を高められたのではないか」といった忍の推論は、さつきの語った内容が本人の勘違いであればまぁそんな感じだよなぁなんて恭也の同意を得られてしまっていた。
また、『さつきちゃんの言葉が全部真実だった場合の話』で、「俺ってさつきちゃんに血を吸わせちゃったけど吸血鬼になってたりしないよな?」という恭也の言葉に忍が下手な冗談だと眉をしかめるなんて一幕もあったりした。
忍としては、さつきの語った内容をいまいち信じれていないのだ。当たり前ではあるのだが。
だがその一方で、実は恭也はさつきの言葉を凡そ信じていた。
自分の行った殴打の痕が無かった事や、今まで忍の時は感じていなかった吸血の時の痛み等、その他今まで夜の一族と、普通の人間として長い間付き合ってきたから抱いた細々とした違和感。
それら全てが、さつきの語った内容通りだとしたら納得できてしまう。
そして一番大きなものが、やはり彼女を保護した時の惨状。
彼女が夜の一族だったのなら……否、彼女が尋常な生物であったのなら、例え驚異的な治癒能力を持っていたとしてもどうしても無理矢理な解釈が必要になってしまうあの姿。
しかし、彼女が彼女自身の言うようなファンタジーな存在だとしたら……そこまで頭の中を整理して、それも結局無理矢理な解釈の一つじゃないかと恭也は苦笑する。
さて、と忍と恭也は目の前のその少女に向き直る。昼食が終わり、それから更に時間も経って忍と恭也の話し合いも整理がついた今、彼らは再びさつきと対面していた。
「じゃあさつきちゃん、まずちょっと聞かせてもらいたいんだけど、さつきちゃんって昨日俺の血を吸ったよね?
俺って吸血鬼になったりするのかい?」
「あっ、いえ、血を吸った相手を吸血鬼にするためには、自分の血を送りこまなければいけませんから。それはないです」
懸念材料が1つ消えたことで、恭也は安心する。
「そっか、それじゃあまず襲って来る奴らがどんな奴なのか、それから襲われることになった経緯を教えてくれないかな」
「それなんですけど、忍さん達って『魔導師』って知っていますか」
恭也の質問に、さつきもまた質問で返した。
忍達が色々と相談をしていたのなら、さつきの方にもこれから聞かれるであろうことを整理する時間があったのである。
さつきの方の準備は万全であった。むしろ、確信を持って双方の現状を把握している分さつきの方が方針がしっかり定まっていた。
「いや、知らないかな。忍は?」
「すずかがやってるゲームで、そういう職業を聞いたことはあるけど……。あの物語、何回最後があるのかしら」
それは言ってはいけない。
恭也達の言葉を聞いたさつきは頷く。そして告げた。
「そうですか。なら、これ以上この件で忍さんや恭也さんにご迷惑はかけられません。
元々、お二人には関係のないはずのことだったんですし、吸血鬼として夜の一族の方々狙われるということも、多分ないと思いますし」
さつきの言葉に、恭也達は眉をしかめる。
色々と考え、質疑応答に臨んでいた事態に対して、お前達はもう部外者だから関わるなと言われたようなものだ。
それに何より小さな子供にそのようなことを勝手に判断されるというのはえてして愉快なものではない。
「それってつまり、これ以上は関わらないで欲しいっていうことかい」
「だって、本当は関係ないことだったのに、巻き込んだ感じになっちゃいましたし……。
本当に危ないんですよ?」
恭也達からすれば、だったら尚更な言葉であった。
彼らにとってのさつきは、まだ小さな女の子なのである。いや、これがもし相手がしっかりした大人であってもただで手を引いたり出来ない人種が彼らなのであった。
「どうして関係ないって、そう思ったのかな」
なるべく威圧している感じにならないように、恭也は言葉を重ねていく。
「わたしが狙われるようになった理由が、わたしが自分で吸血鬼だと名乗ったからなんです。
そして昨日、彼女は吸血鬼の見つけ方が分かっていないといった様子を見せていましたから」
「それでも、結局のところ夜の一族は世間一般でいうところの吸血鬼の一族なんだ。それが知られてしまったら月村家も狙われることになると思うけど」
「でもそれって、今までと何も変わりませんよね」
どういう……と聞こうとして、恭也は思い留まった。確かにそうだ。
月村の一族が夜の一族であることを隠しているのは、一般人にそれがバレてしまった場合身の破滅となりかねないからだ。
そして今のところそれは起こっていない。つまり今まで通りの対応を続けることができれば、月村家が狙われることはない筈だと、さつきは言っているのだ。
だがそれにしたって穴はある。
隠す相手が吸血鬼を御伽噺の存在だと信じている一般人と、実在すると知っている者達であるという違い。
そしてその者達が、精力的に吸血鬼を探しているようだという状況などである。
「……………」
さてどうするか。恭也は考え込んだ。
事情を聞き出す方法は、あるにはある。
そういった穴以外にも、こじつけでも何でもいい。子供相手に延々と反論を投げ続ければ、子供側は折れるしかなくなるのだ。
だがこれは心情的に行動に移しづらいということ以外にも大きな欠点がある。子供は、そういう大人の行動の意図に対してとても敏感だ。
一度それをやってしまうと、子供からの評価は「自分とまともに話をする気がない人」で固定されてしまう。今後の話に大きな影響を及ぼすことになるだろう。
……実は、今はそれよりも優先度の高い話もあるのだ。
一方、そんな風に悩む忍達と対峙するさつきはといえば、実はそこまで話を隠す気はなかった。
結局のところ、夜の一族に今回の件は関係ないのである。
そんな完全なとばっちりで巻き込んでしまうのを申し訳なく思っただけで、それでも知りたいというのであればそのまま正直に話せばいいというのがさつきの結論であった。
これまでお世話になった説明責任というものもある。
今までの流れはただ、この件に貴方達は何の関係もないし積極的に解決しなきゃいけない問題でもない筈なんですよーということを忍と恭也に伝えただけであった。
……で、あったのだが。
実際にここまで話を進めてみると、さつきは気付いた。ここまでの流れ、客観的に見て何やら自分が話の内容を隠したがっているように見えてもおかしくないことに。
そしてそんな流れの後にいざ詳しい事情を話すことになった時、「実は魔導師とは異世界から来た魔法使いで~」などと言い出したらごまかそうとしているようにしか聞こえないのが明白であることに。
もしさつきの意図がしっかりと伝わっていて真実を隠したがっていると思われていなくても、いざ内容を話したらその突拍子のなさから(つまりあの前振りって)と変に邪推されてしまうのが当然の流れなのではないのかと。
相手が死徒であると思っていたから、元々そういう超常の存在を知る者達と思っていたから、その部分に目を向けることを忘れていた。
いつの間にか、さつきはもう後には引けない状態になっていた。誰だ準備万端とか言ったやつ。
「……わかった。さつきちゃんの考えではそのことに俺たちが関わることも巻き込まれることもない筈だと思っていることは分かった」
そんな風にさつきが冷や汗を流していると、恭也の方は考えが纏まったらしい。
恭也のその返答に、さつきはひとまず自分が最低限伝えたいことだけはしっかり受け止めてもらえたようだとほっとする。
しかし続く恭也の言葉にさつきは更に胃が痛くなった。
「でもさつきちゃんは、俺達のことを全て知っているわけではないはずだ。俺達にはさつきちゃんに訊きたいことが、まだたくさんある。
それを全部聞いてから、もう一度判断してくれないかな。もしかしたら俺達にも伝えておかなきゃと思うことが出てくるかも知れない」
(ごめんなさい、多分無理です!)
さつきを狙う人物達については後回しということになったところで、さてまずは、と恭也が切り出す。
「4月の半ばの夜のことなんだけど、この家に誰かが入り込んだんだ」
「はいわたしです」
絶対に来ると思っていたさつきの返答は早かった。
間髪入れずに認めたさつきに忍達が目をパチクリさせている間に、さつきは弁明を始めた。
「ごめんなさい、意図的じゃなかったんです。
教会の人たちに追われている時にある人たちに助けていただいて、その時に転移魔術で逃がしてもらったんです。
ただ、何か手違いでもあったのか、その時に出てきたのがこのお屋敷の上空だったんです」
さつきの言葉を聞いた恭也達がものすごく困ったように顔を歪めた。「転移魔術……」というどこか疲れたような呟きも聞こえる。
さつきはその反応で思った。死徒の件でまさかと思っていたが、もしや魔術もか。
「えっと……こっちも家の敷地内にいきなり入り込まれちゃってる訳だから、その時のことはしっかりと確認しておきたいんだ。
だから、その証拠とか……さつきちゃんをここまで送ってくれたって人達のいるところを教えてもらえないかな?」
さつきは恭也の前半の言葉に大きく頷き、後半の言葉に横に首を振った。
証明になるようなものなんてないし、伽藍の堂の場所も分からない。
さつきもこの世界の橙子や伽藍の堂の面々に会いに行きたいのは山々なのだが、観布子市が地図になかったのだから仕方ない。
平行世界にしてはちょっと違う部分が多くないだろうか。しかし地名ぐらいならちょっとした住民アンケートの有無とか結果とかで変わることも珍しくないしこんなものなのだろうか。
あの頃のさつきは、自分がいる場所がおおよそ何という地名の近くであるのかは把握していてもわざわざ毎回地図でその場所を調べるなんてことはしていない。
だから地名で探して出てこなかったらお手上げなのである。大体の地域から景色で探そうにも当時は寝こけていたり必死に逃げていたりでそんなのまともに覚えている訳がなかった。
だからさつきはあらかじめ用意していた嘘でその場を切り抜ける。
「一つの場所を拠点にしている人たちではないので、今どこにいるかは分かりません。
わたしが出会えたのも完全に偶然でしたし」
「……その人たちっていうのも、吸血鬼――死徒なの?」
その疑問は、忍から発せられた。
さつきはそれに首を横に振って、そういえばゼルレッチが死徒であったことを思い出した。
「あ、えっと……死徒の人も1人いましたけど、そういう集団ではない筈です。
あの人達は…………………………何者なんだろう」
一体伽藍の堂とはどういった集まりだったのか、さつきは説明しようとしてもの凄く困った。そういえばそこら辺のこと詳しいことは何も知らない。それを知る術も最早ない。
暫く悩んだ末に頭を抱えたさつきが発した言葉に、恭也達はしかし、落胆と危機感を煽られながらも安堵を覚えていた。
危機感は、得体の知れない相手がこの家を狙ってさつきを送り込んできた可能性に対して。
安堵は、さつきが本当にその人物らの詳しいことを知らない様子から、彼女が計画的にここに送り込まれた訳ではない可能性が高まったことに対して。
「多分、魔術師としてとても腕のいい人なんだとは思います。
わたしの体を太陽の下に出ても大丈夫にしてくれたのも、その人ですし」
そんな彼らの危機感を、続く言葉で無意識のうちに煽ったさつきであった。
月村家への進入の件は、何か目的があってのことではなかったということを恭也が再び確認し、忍直々に許しを得てお流れとなった。
とにかく謝らなければならないと思っていた内容が終わり、ほっしたさつきの前に、今度は数多くの資料が差し出される。
とはいえ書かれている文字はそんなに多くない。大体何が起こったのか分かりやすい見出しと写真でできている。
突然出てきたそれらに疑問を抱くよりも先に、さつきは嫌な予感を覚えた。
それらをぱっと見ただけで、その中のいくつかにさつきはもの凄く身に覚えがあったりしたのだ。
「君がこの家に侵入した日前後から起こった、奇妙な事件をまとめたものだ。
夜の一族に関係しているものだと思って調べていたんだけど、心当たりのあるものはないかな」
そう言われるや、さつきは資料を手に取り3つに分けだした。
1つは完全に知らないもの、1つはジュエルシード事件のもの、そしてもう1つが……
「これが、わたしが犯人のものです」
服屋の壁壊し強盗事件、ATM破壊事件、(巨木出現の時の地震はジュエルシードのせいであるから別にしておいて)、
集団昏倒事件、そして一月前の道路と民家の塀が破壊されていた事件の4つである。
さつきが体を小さくして差し出したその内容に恭也は目を細めた。その隣に忍が寄ったので、恭也は渡されたのがどれかを見せる。
忍はそれがどの事件なのか把握すると目を見開いて資料とさつきに交互に視線を彷徨わせ、そして恭也の目を見つめる。
恭也は頷くと、ひとまずは前の2つを手に取った。
「この2つは……うちに入った日と、その次の日か。なるほど」
さつきがここに飛ばされたのは事故だというのは先ほど聞いたばかりである。何のために、というのは彼らにも容易に想像がついた。
「1つ聞くけど、これ、どうやったの?」
「えっと、押したり、叩いたりして」
さつきが交えたジェスチャーを加味すると、素手でやったと言いたいらしかった。
素手で押したり叩いたりして起こせるような破壊痕ではないのだが、押して壊したとなると忍達が感じていた洋服店の破片の違和感も説明が付いてしまうのが彼女達にとっては頭が痛い。
「……そうか。
……泥棒、だね」
さつきは小さくしていた体を更に縮こまらせた。
「……はい、泥棒です」
「………」
「………」
恭也は手に持っていた資料を机の上に置くと、残る2つのうち1つを手に取った。
「それで、こっちだけど」
「えっ、……はい」
恭也がそれ以上何も言わずに次へ移ったことにさつきは疑問の声を上げて、そして恭也が指し示す記事を確認する。
集団昏倒事件、中身は詳しく見てないが、ジュエルシードによる事件で時の庭園からさつきが戻って来た時のことだと分かる。
あの時のさつきは受けたダメージを癒すために見境がなかった。誰でもいいから血が飲みたいという気持ちだったのと、結構な数の人を襲ったのは覚えている。
次の日落ち着いてから少し調べてみたら、案の定多数の行方不明者がどうのとニュースになっていた。
やっちゃった……と、さつきは"橙子への"気まずさから、ニュースになっていることが判明した時点で詳しく調べることを避けていたためどんな風に広まっているのかは知らないのだが……。
その内容が纏めてあるであろう資料を眺めて、恭也が神妙な顔をする。
何か大事な話が始まると予感させるその態度に、さつきは思わず緊張を覚える。
恭也がさつきの眼を見つめ、少し言い辛そうに、躊躇いがちに、しかし最後にははっきりと尋ねた。
「さつきちゃんは……人を、殺したことがあるかい?」
「―――」
ああ、と、さつきは納得した。
さつきの緊張が、解けていく。ほっとして、ではなく、それ以上の感情の動きによって押し流されてしまった。
それはそうだろう、彼らにとって、それはとても大切なことだろう。
人を殺したことがあるか、人を殺すということをどう思っている存在であるのか。
それによって、対応は全然変わってくるだろう。
彼ら――人間にとって、それはとても大切なことだろう。
そしてさつきは、この瞬間までそのことに思い至っていなかった。
納得して、さつきはふふ、と笑う。
もう、それについての回答は既に暗に告げているというのに。吸血鬼がどういう存在なのか、既に説明してあるというのに。
これは、優しい、ということなのかな。わたしの口からしっかりと明言されないと認められないみたい。
さつきは笑って、告げた。
「だって、そういう化け物ですよ、わたし」
「でもこの時、さつきちゃん誰も殺してないよね」
「え」
「え?」
そう言えば、その手の資料はあの時の事件の筈なのだから、そこに人死にが書かれているのならわざわざそんなこと尋ねる必要はないのでは……。
「……ここに書かれている人達以外に、被害者がいるのか?」
「ちょっと、読ませてください」
呆気にとられたさつきは、再び厳しい顔つきとなって発せられた恭也の問いに思わず資料へ手を差し出す。
恭也から資料を手渡されたさつきはそれに目を通す。
資料の内容は、さつきが事を起こしたその翌日の明け方前に路上で昏倒している集団が発見されたというもの。
全員が外傷を負っていて、少なくない流血もあったらしいが確かに死者が出たという記述は見当たらなかった。
さつきに心当たりがあるかどうかを訊くのを目的に纏めてあるのであろうそれに細かい情報はなく、あっさりと纏められてはいるが、それでも人死にに関することを省略してあることはないだろう。
(なんで……)
資料を受け取って、困惑したまま黙ってしまったさつきを見て、恭也がノエルに尋ねる。
「ノエル、この資料の詳しいのって」
「はい、こちらです」
すぐさま出てきた3人分の資料を、それぞれに手渡した。
さつきはそちらにも目を通し、恭也達もその内容を確かめる。
そうして、恭也達は納得の声を上げた。
「ああ、死人が出なかったのは発見が早かったからか……。
命に別状があった人はいなかったけど、発見が遅くなっていたらどうなっていたか分からない、と」
被害者は20人弱。集団で倒れていたとは言っても場所はまばらで、何人かが傷を負って倒れているのが見つかると共に周辺の捜索が行われてそれだけの人数が見つかった。
では行方不明云々は何だったのかというと、所持品から身元が分からなかった数名が翌日一時的に行方不明者として扱われていたという話だった。
そもそも今のさつきに死者を作る気はなく、また成り立ての頃のように血を吸うのが下手という訳でもないため食事後に残るのは普通に死体である。
死体を隠す判断力なんてあの時持ち合わせていなかったのだから、行方不明者が出たというだけの時点で何かがおかしいと思うべきだったのだ。
そして死体や血だまりなんかがこの他に見つかっていないということは、被害者はこの資料にあるだけで全員である。
(ちがう……)
しかし、さつきの困惑は晴れない。
忍と恭也は、被害者の傷の具合から、実際に死んでいてもおかしくなかったそれらから、さつきが自らが殺人を犯したと勘違いをしたのだとそう判断したようだ。
自身に向けられる厳しい視線とその言葉から、さつきはそれを察した。察して、否定した。
絶対に、何人も殺していると思っていた。
吸血衝動で我を忘れている間のことは、覚えていない訳ではない。
あれは寝ぼけている時や酔っぱらっている時、パニックになっている時と似ている。
細かいことまで覚えていないというよりは、当時の時点で目や感触といった体が伝えてくる情報の大部分を脳が処理していない状態の、あれだ。
いや、今は人間の体を動かしているのだから本当に脳が処理を放棄していたのかも知れないが。
正直そういう人間の脳や吸血鬼となってからの魂がどうとかいう話は専門的すぎてさつきはそこまで詳しくは分からない。知りたければ橙子にでも聴くしかないだろう。
要するに当時のさつきは早く血を飲んで体を癒せれば他のことはどうでもいい精神状態だったと言えばイメージしやすいか。
あの時のさつきは気絶寸前だったので、意識の朦朧具合と合わさって本当に何も見えていなかった。
別に特殊能力みたいなもので精神を操られている訳ではないのだ。内から湧き上がる衝動を抑えきれずに我を忘れるのであって、その間の記憶が飛ぶなんてことはない。その時に目に入っていないだけで。
だから当時の記憶があるかと言われれば、さつきにはあると言えるだろう。
実際に血を飲んでいた覚えはあるし、飲んだ血をとてもおいしく感じたのは覚えている。
人を探すために移動した記憶はある。
そして、血を飲むこと以外どうでもよかった覚えはある。
だから、絶対に殺したと思っていた。
それこそ昨日の夜恭也に行おうとしていたように、その腕で貫いて、切り裂いて、引きちぎって、断面から溢れる血で喉を潤して……。
そういう行為に及んでいたものだと思っていた。
それが、爽快感も何のない、一人一人に噛みついて地道に血を吸うという、まどろっこしい方法を取っていたなんて思っていなかった。
故に、さつきは困惑する。
(何で……)
―― さつきちゃん
(遠野くんのお陰かな)
……ふと浮かんだ少女の顔は、おそらく関係ない。
ともあれ、殺していなかったのならばそれはそれでよいのだ。別に問題がある訳でもない。
切り裂いてバラバラにしていると思っていたから困惑しただけで、その疑問も解消された。
実際に血を吸われた人間が出血多量で死ななかったのに関してならば、納得できる心当りがさつきにはある。
ただ単に、人間のものであるさつきの胃に、それ以上の血が入らなかっただけだ。
それでもこの被害者の数からして、吸血鬼の特性によって、飲んだ血はすぐにとはいかずとも吸収されたのだろう。
だが一度胃が一杯になって吸血を止めて、足元に倒れているのからもう一度飲むかというと、あの時の自分なら手近にいる生きのいい方を選んだろうなぁとさつきは察していた。
その結果が20人弱という被害者の多さだ。
これ以上の被害者はいないだろうと判断した要素の一つに、単純に判明しているだけで十分すぎる数であるというのもあった。
だから、今さつきにとって問題となるのは、こちらに険しい視線を向ける忍と恭也である。
さつきはひとまず、ここに書かれている以上の被害者がいるのかという問いににこやかに応えた。
「多分だけど、これで全員だと思います。うん、全員無事だったんだ」
「……そうか。でもさつきちゃん、君がこれからもこういうことをすることがあるというのなら、俺達は君を放っておく訳にはいかなくなるよ」
恭也は遠まわしな言葉選びなんてせず、初っ端から真っ正直にさつきに対して言葉を投げつけた。
その調子に、さつきもにこやかな笑みを引っ込める。しかし、その口元には意識して弧を描かせて。
「わたしが今後一切人を襲わないなんて約束、できません。
それに、多分一つ勘違いしていると思うので訂正しますけど、わたしが人を殺したことがあるという事実に違いはありませんよ」
「――っ」
恭也が苦々しい顔をする。例え"今回の被害者"に死者が居なかったとしても、"過去の被害者"に既に死者がいると、さつきの言葉の意味を察して。
さつきが今更ここを誤魔化すことに意味はない。
何より、さつきは既に恭也に向かって普通の人間だったら死んでいる攻撃をしたことがあるのだ。
そんな事実があったのに、それでもそれを否定しようとした彼らは、やはり甘いというか、優しいというか。
「……何で、人を襲うんだ」
「血が必要だからです」
「さつきちゃんは、さっき俺達と同じ食事をとっていたよね。
それじゃ駄目なのか?」
そしてその上で、さつきを排除、最低限でも拘束するよりも先に、さつきが人を襲わなくてもいいようにという方向で考えを進めてくれている。
さつきは恭也の言葉、そして忍の反応からそれを感じ取った。どことなく、嬉しかった。
意地悪も入っていた言葉選びは控えて、まずは恭也達をひとまず安心させてあげよう、そんな風に思えるくらいには。
「んー、そこら辺の事情、ちょっと詳しく説明しますね」
そもそも、今のさつきに本来なら吸血は必要ない筈なのだから。
……なんでこんなにも吸血行為に及ぶ羽目になっているのだろう。
さつきは説明する。
今の自分は普通の死徒とは違うということを、再び。
普通の死徒が血を求める理由は、体を動かすエネルギー補給の他に、常に朽ち崩れる肉体をヒトの形に保つのに必要であるためであること。
凄腕の魔術師の手で、今の自分の体は人間のものに極めて近くなっていること。
――つまり、今は肉体の崩壊は殆ど起きていないということ。
「……と、いうことは。さつきちゃんは今、体を動かすエネルギーさえ確保できれば人を襲う必要はない?」
新しい情報を、それも突飛なものを混乱せずに整理するためには、ひとまずその情報を全部信用してしまうのが手っ取り早い。
そうして把握した内容を整理して出てきた結論を、恭也は口にした。さつきはそれに頷く。
「はい。そして、今は人間の体ですので栄養の確保は普通の食事でできます」
「……じゃあ今の君は、人を襲う必要は全くないと……。
でも、君がその……死徒じゃない体を手に入れたのは、この家に現れる前なんだよね?
なら……この人達を襲ったのには、理由なんて……」
恭也が言いかけた言葉を、さつきは首を横に振って遮った。
「体を再生させている力と、体をヒトの形に保っている力って、大元は同じなんですよね。
この日の夜、わたしはとある理由で大怪我を負っていたんです」
「とある……大怪我……」
忍達がいやがおうにも連想するのは、さつきを保護した時のその惨状。
「……昨日、さつきちゃんと会った時、着ている物はボロボロだったのに体は大丈夫だったのって、やっぱり?」
恭也の問いに、さつきは首肯する。
そして、今の話題の中心である事件の記事を指し示した。
「この時にちょっと勢い余って吸いすぎちゃって、その時に蓄えていた力である程度は直っていたみたいですけど。
なので安心して下さい。昨晩は、恭也さん以外に襲った人はいない筈です。
恭也さんが血を吸わせてくれたのは本当に助かりました」
「ああ、それはいいんだけれど。
さつきちゃんの体や服の状態って、胸元を何かが貫通していたように見えたんだけど……。
本当にそんなことがあって、その状態から治ったのか?」
恭也の次の問いには、さつきの顔がげっとばかりに歪んだ。
思わず片手が胸元に行って昨晩服が破けていたあたりをさすっている。
次いで背中にも手を回して首も後ろに向けていた。流石に、吸血鬼だからとか言ってどこぞのホラーばりに首が人としておかしいくらい回るなんてことはなかった。
「……貫通……してたんですか、あれ」
「……心当たりがあるのか、それ」
「刺付きのハンマーみたいなもので、ぶん殴られました」
恭也は椅子にもたれかかって天井を仰いだ。
少しの間そうしていた恭也だったが、次々に出てくるとんでも情報に痛くなってきた頭を冷やすのを終えると気を取り直して再びさつきと対面した。
そしてその間に整理した内容を恭也はさつきに確認する。
「少し脱線しちゃったけど、俺達がはっきりさせたいのは、さつきちゃんが人を襲うというその理由だ。
それ如何によっては、もしかしたらさつきちゃんよりもさつきちゃんを襲っているって人達の方の味方をしなくちゃならなくなるかもしれない」
再度、忠告とも脅しとも取れる言葉をさつきに向ける恭也。
先程よりも直接的な言葉を使ったのに、さつきの様子に動揺の色は全く表れない。
顔色は悪いが、それは前からだ。
実際に顔を突き合わせている人に直接こんな言葉を投げかけられているのに、まぁそうだよねと言わんばかりである。
「……それで、さつきちゃんは、怪我をしたら人の血を吸うことでそれを治したいだけって考えていいんだよね?」
これにさつきはあっさりと頷いた。事実その通りであるから。
「はい。普通の怪我なら、人の体のうちは普通の人と同じように治りますので、それじゃ治りそうにない怪我をした時ですね」
「怪我をする度じゃなくていいのか。
それならこの月村家で、十分な量の輸血パックを用意できると思う。
それで何とかできないかな?」
「………へっ」
一瞬、その言葉の意図が分からず、さつきは呆けた。
だって、
「わたし、もう人を襲ったことも、殺したこともあるんですよ?」
「それを、襲うことも、殺すこともしなくてよくなる方法があるかも知れないなら、そうしたいからな」
だから、
「どうして、そこまでしてくれるんですか?」
「この問題をどうにかしなければ、俺達はさつきちゃんがもう人を襲えないように何かしらしなければならなくなる。
出来ればそんなことはしたくない。それに比べればこれくらいは、な?」
恭也が忍に目配せをすると、忍もそれに頷いた。
でも、そんなことしたくないって、だって、
「だから、わたしはもう人を――
「それで、この方法で何とかならないかな」
さつきの言葉に被せるように、恭也が言った。
月村家には、いざという時のために廃棄する輸血パックを譲って貰えるルートがある。
医業界で万年不足状態の輸血パックだが、それは輸血パックの寿命が短いからだ。
忍曰く「できれば飲みたくない」らしいが、それを使えば血液の確保は可能なのである。
本来、死徒が輸血パックで生きていけるかと言えば生きていけない。精々が気休めや変わり者の嗜好品程度である。
輸血パックでは十分な生命力を補充できない。力も湧き上がらないだろう。得られるのは遺伝子情報だけ。
しかし、奇しくも今のさつきにとってはそれで十分であった。
「…………8年」
困惑する心を落ち着かせて、出た結論を、さつきは口にした。
当然、いきなりそんな期間を意味する単語を放たれても忍達には伝わらない。
怪訝そうにする二人に、さつきは一つ息を吸い、そして大きく吐きだしてから改めて告げる。
「その方法がとれるのは、後8年だけです。
それが、わたしが人間として生きていられる期限でもあります」
数瞬の後、その言葉の後半が意味するところを理解した2人の顔が強張った。
さつきはその反応を確認して頷く。
「今のわたしは、体を人間に近付けてもらっているだけですから。
いつかは元に戻っちゃいます。それが、予定だと8年後ですね。
死徒に戻ったら、太陽の光を浴びることはできませんし、流水を通ることもできません。
輸血パックだけで凌ぐことも、できなくなります」
そこで、さつきはこの話の原因となった資料を掲げた。
「そして、この時にわたしが血を吸った人達が死ななかったのは、今のわたしが殆ど人間だからです。
8年後からは、わたしが狙った人はもれなく死んじゃいますよ」
まるで挑発でもしているかのような言葉が、さつきから溢れてくる。
否、それは実際に挑発しているのだった。さつき自身も自覚のないままに。
あるいは、もし恭也達が普通の人間であったなら、さつきがこんなに感情的になることはなかっただろう。
死徒じゃなくても、吸血鬼。それだけで、たったそれだけでもう何も考えずに全てを信頼してその身を委ねてしまいたくなってしまう。
そんな感情を、さつきの冷静な部分が止めている。この人達は死徒ではなく、人間の味方だと。
その苦しみが、さつきにこんな言動をとらせていた。
さぁこの真実を知った上で、この人達はどんな結論を出すのかとさつきが身構えていると、
「そうか。じゃあ、その8年間が終わる前に根本的な解決策を見つけないとな」
さつきは今度こそ本気で絶句した。
焦ったように、その発言をした恭也ではなく忍の方にも目をやると、そちらも何やら決心した顔で深く頷いていた。
あとがき
実は月姫リメイクまだ触れてない。
重要なことは前書きページで書かせていただいたのでここではこれだけで!