徐行する電車の窓に映ったのは、午後の陽射しに柔らかに包まれて人影まばらなホームに立っている女の子。
……あのコが、グーマーね……。
開閉ドアにもたれながら、カジムはそう、確信した。
なぜなら約束の場所に立ち、聞かされていたとおりの服装をしていたから。
……いよいよだ……。
カジムは緊張で身を固めながらも、腹の底からせり上がって来る興奮と恐怖をどうしても抑えきれない。それは偉大な使命を背負わされた年若い女の子にとって、無理からぬ事ではあった。
隣に立っている風変わりなエマネエが、一体何を考えているかはさっぱり分からない。むしろ今は、理解不能な彼の存在を意識の外に置く事で、カジムはやっと平静さに近づこうとしていた。
最後にグラリと揺れてドアが開いた時、カジムは、震えの止まらない足を未知の世界に差し出す。ホームにあふれる午後の陽射しはあくまで穏やかに、他の惑星からのこの二人の男女……エマネエとカジムを黄金色に飲み込んだ。
「初めまして」
たった一人で迎えてくれたグーマーに、カジムは女の子らしい愛らしさでそう挨拶した。
しかしカジムの隣の、黒帽子に、サングラス、白いマスクに、かかとまである黒い大きなコートに身を包んでいるエマネエは、一言も発しない。
「あ……エマネエって言うのよ」
カジムはいかにも明るい調子で、その黒ずくめの相棒を、グーマーに紹介した。
「二人ともよろしくね。宇宙船の旅はどうだった?」
グーマーは、エマネエが返事をしない事を知りながらも気さくに笑いかけたあと、一歩カジムに歩み寄った。
そして突然グーマーは真剣な表情になる。
「歓迎します。……とても」
グーマーはカジムの手を握った。強い握り方だった。熱のこもった眼差しだった。
カジムはその気迫に少したじたじとなる。
グーマーはエマネエの手をとって同じ事を言った。しかし、カジムが見たところ、エマネエの反応は星間旅行中にカジムに見せたものと同じく、固くて冷たい。
カジムに託された仕事の大きさに比して、グーマー一人しか迎えの者が居ないというのは考えようによっては奇妙な事だった。しかし、盛大に迎えられてもたぶん戸惑うだけだろう。何せ、その託された仕事の正体とやらが当のカジムにも分からないのだから。
グーマーは二人を導いた。
それから三人は改札を出てタクシーに乗り込み、グーマーが説明を始める。
「……エマネエは私の家に来てもらうわ。家族は私と母の二人。母は明るくて派手好きな人なの。何の気兼ねもいらないから安心して。カジムの行く家は私の家から自転車で十分位の所。御夫婦と、息子さんがいらっしゃるわ」
カジムは今から始まる運命をボンヤリ思った。
家の人たちが、自分やエマネエをどんなふうに受け入れてくれるのか心配じゃないといえば嘘になる。
そして見知らぬ自分との遭遇……、記憶をたどる旅が不安じゃないと言えば嘘だった。
タクシーの運転手と何度もミラーの中で目が合う。カジムとエマネエを気にしているようだ。しかし運転手はカジムと目が合うと、大急ぎで目をそらすのだった。カジムはそれを気にしない事に決め窓の外に視線を移す。道は曲がりくねったゆるやかな坂道が続き、マンションやビルが多く、街の整備は不十分な印象だった。
やがてタクシーはチョコレート色のマンションの前に着いた。
「着きましたよー」
エレベーターに乗って五階。まずはエマネエのお世話になるグーマーのお宅。
「ただいまー」
すると奥から、顔中が口だらけとも思える笑顔の女性が飛び出ていた。
「カジムと。エマネエ。……こちらが、うちのお母さん」
グーマーの華やかな母・ポータルは目をまん丸に開けて、カジムとエマネエをしばらく交互に見ていた。
「ようこそ!」
そう言うと、ポータルはカジムに飛びついてきて、きつくきつく抱きしめる。そして次にエマネエに同じことをした。
「興奮で夕べは眠れなかったのよー」
エマネエの体をようやく離すと、ポータルがそう言った。
「さあ! 上がって上がって上がって!」
カジムちエマネエは廊下をつたってリビングにとおされる。そこのテーブルには何皿も料理が用意されていた。
「お母さん、言ったじゃない。カジムはすぐ行かなきゃいけないんだよ。向こうの家の人だって待ってるんだからア」
「あら、そうだったっけー? せっかくつくったのにイ」
「まったく人の話し聞いてないんだからア」と言いながら、グーマーは一皿の中から何かをつまんで口に入れた。
そしてエマネエをポータルのもとに置いてきたあと、カジムとグーマーの二人は待たせておいたタクシーに再び乗り込み、今度は当のカジムがお世話になる家へ行った。
玄関に出てきた家族は圧巻だった。
とろけるような笑顔をつくるご主人と、存在感満点の奥さん。
そして……。
カジムは、もう一人の人物に、目を奪われずにはいられなかった。
女の子……?
背が高く体格のいい、美しい女の子に見える。が。よくよく見ると男性のようだ。
そう。
グーマーは、この家には一人息子がいると言っていた……。
そして三人とも満面の笑顔。笑顔で、最大限の歓迎の意を示している。
「じゃ、私はこれで失礼します」グーマーは三人にペコリと頭を下げ、早々に帰って行った。
「さ、さ。上がって」奥さんのワミと、ご主人のリアチと、息子のシジが笑顔でカジムを促す。
玄関をあがり、真っ直ぐにのびている長い廊下を進む。左右にいくつか部屋があって、その突き当たりがリビングだった。
リビングのソファにご主人のリアチと息子のシジが座った。
「こちらにいらっしゃい」
しかし奥さんのワミがカジムを笑顔で手招きする。
「はい」
リビングを素通りして、その先に伸びている廊下を歩きだす。
廊下の右側の壁は全面のガラスが続いていて、リビングからも見ることが出来る中庭的な空間をうつしていた。
中庭的な空間は、ここが最上階のために上は吹き抜けの青空が広がっている。
歩いていた廊下突き当たりを右に曲がると、さらに廊下は続いている。その新しい廊下の壁も右側全面、ガラスが続いていた。
リビング、廊下、曲がってさらに続く廊下、これら三つが、コの字を描いて中庭を囲んでいた。
左手に二つの部屋が並び、やっと行き止まりになっている。
「ここがあなたの部屋よ」
示された手前の方の部屋は中庭を挟んで、リビングの真正面にちょうど位置していた。カジムは部屋に足を踏み入れる。
「じゃあ、荷物を置いたら、リビングに来てちょうだいね」背中でワミがそう言った。
「はい……」
振り返るともうワミの姿はなかった。カジムはこじんまりとした部屋を見渡した。
真正面にカーテン付きの窓があって、すりガラスがボンヤリとした日差しを通している。荷物と上着をベッドの上に置き、窓に歩み寄る。窓を開けて外を見てみると、さっきの雑然とした街並みが見下ろせた。
その中でもひときわ目をひくものが、街の中に忽然と存在する巨大な空間だ。
広場のように見える。
空はカジムの心のように憂鬱で重たく、どんよりとした灰色の雲で覆われていた。
翌朝、カジムは早くにワミに起こされた。
「起きて。そして急いで頂戴」覚醒しきらない頭のまま、わけも分からずに仕方なく私服に着替える。ふと見ると、窓の外はまだ真っ暗だ。身支度を整え急いでリビングに行き、その五分後にはカジムとワミ、そしてリアチとシジは夜明け前の街を歩き出していた。
彼らだけじゃない。
夜明け前の街は、道を急ぐ人でごった返していて車道にまではみ出ている。とても奇妙な光景に見えた。
「どこに行くんですか?」カジムはワミにたずねた。
「街の中央に広場があるの。出てくる太陽をそこで拝むのよ。こんなことはしなかったかしら? カジムが前に居た星では?」と、ワミが明るく聞いてきた。
「……おぼえて……いません」カジムは砂を噛む思いで答える。「あ……ごめんね」ワミはあわてて謝罪した。
カジムは前に居た星での記憶が無い。
女性添乗員に付き添われて、何かの理由で、エマネエと共にこの星に送り込まれ、ここの人たちにお世話になることになったのだ。
おぼえているのは、宇宙船での女性添乗員の言葉。
「幻覚の惑星で、エマネエが一人前になる事を監視して下さい。それがあなたの仕事です」
……あれは一体どういう意味なんだろう?
やがて十五分も歩かないうちに、大きな広場に出た。広場は、カジムの部屋から見えるあの広場にちがいない。
広場に入ると、人込みの中にエマネエの姿がチラリと見えた。相変わらずの黒ずくめと白マスクとサングラス姿で、見るからに人を寄せつけない。
カジムはエマネエが苦手だった。宇宙船の中でもエマネエは一言も言葉を発さなかった。
今では別々に生活している事をうれしく思う。
……エマネエを一人前にするって、どういう意味だろう? だいたい一人前っていうのはどういう状態? 私は、記憶の無い自分自身のことで精一杯だというのに……。そして、見知らぬ人々に囲まれる不安で頭が一杯だというのに……。
広場を外側から取り囲んでいる等間隔のライトは夜明け目前の広場をくまなく照らしていたが、この地域に住む人ほぼ全員が到着した時点で消灯された。
全員が色付き始めた東を向いて沈黙している。広場の東の端に、階段付きの台がポツンと置かれていた。
そしてその階段を一歩一歩昇っている人物が居た……ワミだ。
さっきまで傍らに居たはずのワミだった。
ワミは台に立ち、全員に背中を向けて東の空にのぞんでいる。まるで人々の代表のようだった。
神聖な空気が流れた。
やがて太陽がその輝きの光の筋を救いのない闇の上空まで伸ばしはじめた時、人々は感動に包まれた。
声を挙げる人も居た。
黙って黙祷している人もいる。
泣いている人もいる。
手を合わせている人もいる。
(太陽信仰……)
カジムの胸にそんな言葉が蘇る。この状況は、何か自分が知っている感じだった。
(ピラミッド……)
そんな言葉が胸に浮かび、四角錐の雄姿が脳裏に浮かび上がる。
過去の記憶がうずいている。不安定に気持ちが揺れ始めた。気を確かに持とうと、目を強く閉じてそれに耐えてみる。
どれ位経っただろう。閉じたまぶたの暗闇の向こうに滲む光り。目をあけてみる。
……太陽は無事、上がりきっていた。
その時。
……この『幻覚の惑星』に住む星の人たちは太陽を信仰しているんだ……、そう思った。
そしてきっと、きっと……カジムの元居た星の人たちも……。
急に熱い思いがこみ上げてくる。
腹の底に眠る何かの記憶が、興奮となって突き上げてくる。
感動にも似た記憶の断片を共有したくてカジムは思わずエマネエの姿を追った。
「エマネエ! エマネエ!」
……同郷のエマネエなら知っているはずだ。ならば、この感動を共有できるに違いない……!
早くも帰り始める大群の人ごみの中を、泳ぐ様にかき分けながら懸命に進む。
「エマネエ!」
ようやく捕まえて、エマネエの肩に、後ろから手をかけた。
「ねえ、エマネエはおぼえてる? 私たちの星も太陽信仰だったよね? さっきのシーン、何か感じなかった? 感じたよね?」
反応しないエマネエにじれて、興奮したカジムは肩に置いた手に力をこめ、エマネエをグイとこちらに振り向かせた。
振り向いた無表情なエマネエ……。
まなこはサングラスで遮断されている。
黒い帽子、大きな白いマスク、かかとまである黒いコート。全てがものものしく、そして他者を拒否していた。
カジムは凍りついた。
自然に手が離れてしまった。
するとエマネエの近くにいたグーマーとポータルが、カジムを慰めるような精一杯の笑顔を送る。
「朝日、綺麗だったよね」
うなずく事もできないカジムを残してグーマーとポータルとエマネエが立ち去った。
……話しかけるんじゃなかった。エマネエに話しかけるんじゃなかった……。
エマネエの振り向いた顔は、ぞっとするほどの無表情だった。
否、顔だけではない。全身が無表情なのだ。カジムの興奮を一気に冷ますほど、冷たくて固いエマネエ。一緒に暮らしているグーマーとポータルが気の毒だ。何故、よりにもよってあんな変なヤツが唯一の同郷なのだ。
前の星で、私たちにどういう事情があったんだ……。
夜中。
頭が割れそうに痛かった。
自室のベッドだった。
カジムは頭を抱えたまま、ベッドの上をのたうち回る。
何かに導かれるように、頭を抱えたまま部屋を出て、廊下をつたい、玄関を飛び出し、エレベーター、そしてマンションの外へ……。
低いビル群の上には、きらびやかな星が輝いていた。その星たちが位置するはるか下で、カジムは割れるような頭を両手で抱えながら、フラフラと深夜の町を歩いていた。
夜風が冷たかった。足が自分のものじゃないみたいに、まるで勝手に動いていく。
いつしか広場近くに来ていた。
そして突然目が射抜かれる。
目を細めて必死に広場の中を見てみると、いつもは大人数を収容するその広場をほぼいっぱい埋めるかのように、巨大宇宙船が停まっていた。
……頭の痛みが、消えた。
カジムは手で目をかばいながら、一歩一歩宇宙船に向かってゆっくりと広場を歩く。
宇宙船の発光がとまった。
目をかばう必要がなくなったカジムが見たものは、こちらにやって来る人影だった。宇宙船から誰か出てきたのだ。
「手荒なまねをしてごめんなさいね。もう頭、痛くないでしょ?」
目前で立ち止まったその人はそう言った。思ったとおり、この星に来るまで同乗した女性添乗員だ。
「エマネエの様子はどう?」
「……会っていません」
「この『幻覚の惑星』で、妖精の人たちの中で生活するエマネエを監視するのが貴方の仕事だと言ったのに?」
「……はい」
女性添乗員はため息をついた。「遊びじゃないのよ」
カジムは黙った。
「星の未来がかかっているの」
「あの……」
カジムは口を開いた。「もう少し詳しく説明してもらえないでしょうか。エマネエと私に課されているものは何なのですか。それに何故、私は記憶が無いのでしょう。私の故郷の星はどんな所なのでしょうか。なぜ私は今ここに住んでいるのでしょう……。全て分からないんです」
「質問するのは貴方ではありません。私の方です」冷たい顔の添乗員が、冷たい表情で言った。
「つべこべ言わずに、エマネエを監視する事。エマネエを一人前になるのを見とどける事。
あなたの星の未来がかかっています」
「起きて! そして急いで頂戴」
次の瞬間、ワミの声で突然目が覚めた。
いつの間にか、ベッドの中だ。
たった今、広場で女性添乗員と話していた感覚が生々しい。
しかし目の前にあるのは女性添乗員の顔ではなくワミの顔。
どういうことだ? 今のは夢だったのか? それとも、女性添乗員に会ったあとに、ここに帰って眠っていたというのか?
「さ! 広場に行くわよ、着替えて」
そしてワミが部屋を去ったあとカジムは着替えてワミたち家族と共に、まだ暗い夜空の下、少なくともカジムの意識にとっては、今夜、二度目のその道を歩き始めていた。