1988.June.oneday
「三十七度六分……」
脇から抜き出した体温計が、無情にも自分が微熱を発していることを示す。
朝、目覚めた時に頭痛と倦怠感を覚え、もしやと思って計ってみれば案の定。
紛う方無く風邪による発熱の症状である。
健康には気を使っていたつもりだが、まさかこんな初夏に拗らせてしまうとは……何たる不覚。
「……完全に風邪だね、これは」
そう言って父───不破 俊哉が困ったように眉をひそめた。
格別、風邪の症状が酷いということはない。常備してある薬を飲んで寝ていれば治る、医者に見せる必要性もない程度のモノだ。
困っている要因は別にある。今日はどうしても、外せない仕事が両親共にあるとの事。
いくら息子が年齢不相応に落ち着いている事を理解していても、風邪で寝込んでいるのを放置して仕事に出かけるのは心苦しいようだ。
「パパ?エイジの調子はどう?」
「七度六分。微熱だね……過剰な心配は必要なさそうだけど……」
母───不破 涼子が俺の部屋にヒョコッと、これまた父と同じく困ったような顔をして現れた。
「……エイジ、本当に看病しなくていいの?お仕事は休むことだってできるんだよ?」
看病をしてくれる、という提案は既に何度か断っている。
気持ちは涙が出そうなぐらいに有り難いのだ。
だが俺とて社会に出て荒波に飲まれたことのある人間。
大事な仕事をキャンセル、または急遽他人に押し付けるということのマズさは理解できているつもりだ。
ここで甘えてなどいられない。
余り使いたくはなかったのだが───。
「大丈夫だよ、今日は薬飲んで大人しくしてるから。父さんも母さんも、お仕事頑張ってね!」
必殺。天使の微笑。親は悶え死んだ。
「~~~~~~ッ!よぉし!パパお仕事ガンバッテ早く終わらせちゃうぞー!!」
「~~~~~~ッ!マ、ママも頑張るからね!ちゃっちゃと終わらせてすぐに返ってくるから!!」
とても愉快な保護者だった。
「……クソ、ダルい」
益々熱が上がってきたような気がする。
あの後、両親が出勤したのを確認し、母が作り置きしてくれた粥を啜り、風邪薬を飲んで寝床に戻ってきた。
後は布団に潜って惰眠を貪り、回復に専念すればいいだけ。だけ、なのだが───。
「……いいかげん、向き合わないとな……」
発熱で茹でった脳みそで思考する。
ここ一年での状況の変化。
少しずつ広がりを見せる、"本来あるべき姿"と"現実"との乖離。
俺はダルい身体に鞭打って、部屋の隅に束ねて置いてある新聞を引っ張り出してそれぞれの一面を再確認していく。
『F-15、F-16制式採用の座を賭け、比較検証トライアルへ』
忘れもしない一年程前。
本来なら有り得るはずもない闖入者が出現し、既知の未来へと続く歴史を粉々に砕いた。
コイツはその時の記事だ。
この出来事から数カ月間は特に何事もなく過ぎ去っていった。
───トライアルの結末までは。
『比較検証トライアル終結。制式採用はF-16』
手に取った別の新聞の一面にはデカデカとそう書かれている。
そう……トライアルにて制式採用を勝ち取ったのはF-16ファイティングファルコンだったのだ。
本来ハイ・ロウミックスのハイを担うF-15に対し、ロウを担うF-16では性能面で劣るのは必然。
だが兵器において重要なのは単純な性能だけではない。
コストパフォーマンス。所謂、費用対効果。ぶっちゃけると金だ。
F-16はその観点から見るとF-15を圧倒していた。
そして代替対象であるF-4ファントムと比較した場合の性能差も十全に確保されている。
最新技術の塊は伊達ではなかった、ということだ。
紙面に載せられた情報を読み取る限り、そこらへんが明暗を分けた……らしい。
何はともあれ、トライアルは正史に反してF-16の勝利で幕を閉じた。
「……って訳にはいかなかったんだよな……」
次の新聞を手に取る。
日付は一週間前。
『国防省、F-15小規模導入』
コイツだ。
結局、国防省はどちらも採用するという暴挙に出やがったのだ。
「……一体、何が、どうなって、こうなったんだか……」
軍の上層は、此度の件についてどういった目論見があったのだろうか。
一連の行動の方針は、一体何だ。
「……撃震───第一世代機の第一線からの早急な排除……か?」
撃震は悪い機体ではない。十数年に渡り、最前線で戦い続けた紛れも無い名機だ。
とは言ったものの、第二世代戦術機の台頭によって既に旧式。
設計思想から時代遅れとなっているのは明確な事実だ。
それに加え、耐久年数の問題も浮上してくる。
安価、信頼性が高いなどという長所に目を向けず、短所を上げてみると中々に問題が積もっている。
そんな機体に近代改修を加えつつ使い続けたとしても、やはり限度がある。
これに関しては正史にて開発された概念実証機「F-4JX」が全てを物語っているだろう。
XM3の搭載、OBLの実装、アビオニクスの刷新……。
もはや撃震と呼称することすら違和感を覚えるほどの大改修を経て、それでも2,5世代機相当の性能しか発揮出来なかったのだ。
それがこの機体、撃震の限界。だが、第二世代であるF-15やF-16をベースにそういった近代改修を行えばどうか。
特にF-15は現存する戦術機でも群を抜いて拡張性に優れる機体。その上限は計り知れない。
こうやって考えてみると、撃震に見切りをつけた、というのはあながち外れてもいないか?
その結果として、F-15JとF-16Jは共に採用された。
……駄目だな。今ひとつ、自分で納得しきれていない。
これを主軸とするなら、F-16Jだけで事足りる。
第一線にいる撃震はとんでもない数だ。
F-16Jより値が張るF-15Jの採用は軍費を圧迫し、撃震の代替機としてF-16を大量投入するためにはネックとなってしまう。
となると、やはりF-15JとF-16Jを共に採用した理由は───。
「───双方からベクトルの異なる最新技術を抽出・蓄積し、不知火へと注ぎ込む……か?」
そいつを主軸に据えた上で、不知火の開発・配備までの繋ぎとしてF-15JとF-16Jを第一線に配備し、撃震を可能な限り後方に退かせる。
筋としては、こちらのほうが通っているか。
だが、それはそれで新しい将来的な問題が大量に出てくる。
財源、戦術機メーカーとの関係、それによるXFJ計画への影響。
これらによって生じるであろう今後の歴史改変……ダメだ、もうさっぱりだ。全く予測がつかない。
余りにも複雑に絡まりすぎている。俺には到底、想像すら出来ない。
「あぁ……頭が頭痛で痛い……」
日本語が明らかにおかしいが、気にする余力もない。
胡座を崩してフラフラと立ち上がり、布団にダイブ。
このまま瞼を閉じて睡魔に身を委ねたい。
そして目が覚めた時には全てが正史通りになっていればいいのに。
「……駄目だ、俺……頭を切り替えろ」
それじゃ目が覚めた時に更に欝になるだけじゃないか。
とりあえずTSF-TYPE94 不知火 のみに対する影響だけ考えるか。
ご都合主義的に考えてみると───。
正史に置ける技術蓄積は第二世代機一機分だけだった。
だが、この世界ではそれがもう一機増えた。
故に、二機分の技術蓄積のあるこの世界の不知火は、一機分の技術蓄積しかない正史の不知火よりも優れている。
……そんな単純計算もいいところの三段論法が通じる問題か? 否、だ。
丸々一機分が増えたのだ。技術蓄積に掛かる労力も時間も増えるだろう。
そして蓄積した技術とて、全てを不知火に反映出来るかどうかも不明瞭だ。
コンセプトがブレて正史より劣る機体になる可能性だって無いとはいい切れない。
───いや、それ以前に。
元より『この世界』における不知火の開発期間、制式採用の凡その時期すら知り得ていないのが今の俺、だったな。
それが解っていないのに、今回のことをあれこれ考えるのは無茶もいいところか。
ただ確実なのは、『この世界』の不知火のロールアウトは正史より遅れるだろうということだけか。
『この世界』の不知火はあらゆる点に置いて未知数すぎるが、こいつは間違いないはずだ。
本来よりもあれこれを学び、選抜した技術を注ぎ込むというのだから、時間はそれ相応に掛かる。
だから必然的に、不知火の完成が正史より遅れてしまうのも……ちょっと待て。
不知火───?
「あー……阿呆か俺は……本格的に熱で脳みそが馬鹿になってるみたいだな……」
そうだ、そうだったな。
当たり前のように名前を出したのは不味かった。
完全に頭の隅に追いやっていた。
これも現実逃避の一種なのだろうか。
俺は『帝国の新型純国産機』の名前はまだはっきりと知らないのだ。
そうなるであろう、という予想しか出来ていないのだ。
耀光計画自体は発動しているんだろうが、名前はまだだろう。
つまり予定なのだ。
「そして、予定は未定、か。……言い得て妙だな」
予め定まっていたはずの歴史の流れは既に絶たれた。
今はその延長上───ならば、これから刻まれる歴史が未だ定まっていないのは道理だろう。
俺はそいつを、この一年間で嫌というほど思い知らされている。
「ふぅ……で、最後の一枚が、昨日付けのコレか」
『F-16J 和名:彩雲 1988年末、配備開始』
『F-15J 和名:陽炎 1989年 配備開始予定』
見出しには機体の和名と配備開始年数。
F-15は正史通りに陽炎の名を賜り、89年に配備されるようだ。
問題はイレギュラーである、F-16J。
「TSF-TYPE88 彩雲、ね……」
日本帝国軍の戦術機呼称は気象現象に因んでつけられる。
正史の陽炎然り、不知火然り。F-15SEJの和名、月虹だってそうだ。
彩雲───古くより吉兆とされる気象現象の名称だったか。
何とも、質の悪い冗談である。
「……凶兆の間違いだろ」
彩雲の登場により狂い始めた歴史の流れ。
この機体の存在は俺にとって紛れも無い凶兆だった。
しかも、これら全てが俺の転生なんて馬鹿げた事象によるバタフライ効果かもしれないという。
まだ俺は何一つ行動しちゃいないというのに、だ。
だとすると、カオス理論というのは……トンでもなく厄介なモノだったということになる。
「───甘かった、ってことか」
……ああ、白状しよう。
俺はきっと、心のどこかで歴史の修正力とやらに期待していたのだろう。
F-16とF-15のトライアル。まず間違いなく後者が勝ち、前者は採用されず、歴史は再び元のレールの上に戻るのだと。
正史との乖離なぞ一時的なモノで、所詮はすぐに修正されるだろうと。
しかし俺の願望虚しく状況は一変し、そして───。
「そしてまた……正史から遠ざかった」
今、それだけは確かな事実。
歪みは留まるどころか加速した。
この世界は既に本来とは異なるレールの上を走り始めている。
白銀 武が一度目だの二度目だのと言ってる状況にはない。そんな段階は過ぎ去った。
もはや今後何が起きようともおかしくはない。この一年で起きたことは、つまりそういう事を意味する。
例えば1998年の大侵攻。
BETAは人類の調査のために停滞などせず、一気に日本全土が蹂躙されるかもしれない。
例えばAL4の要である00ユニットの開発経路の断絶。
鑑 純夏がBETAに普通に殺されてしまうかもしれない。
それは向こうの白銀 武の来訪が頓挫することにも繋がる。
───更に……俺が最も危惧し、また自己嫌悪に苛まれてしまう状況が、在る。
F-16J 彩雲 、F-15J 陽炎 。それに加え、この二機種から生み出されるであろう『新型純国産機』。
その三種の機体を組み込んだ帝国軍の戦力を持ってすれば、或いは───。
「白銀 武と、鑑 純夏が───夏の大侵攻を生き延びてしまうかもしれない───」
……なんという醜い性根。なんという浅ましい精神。俺は畜生にも劣る屑だ。
オルタネイティヴ4完遂のためとは言え俺は何の罪もない『この世界の白銀 武』に……死んで欲しいと思っている。
そして、同じく何の罪もない少女『鑑 純夏』に、BETAに壊されて欲しいと……そう、思っている。
人類の未来の為にという、最もらしい大義を振りかざして───。
これが屑じゃなくて何だというんだ。
「……クソったれ……」
だが、そうしないと理論完成の為の数式が手に入らない。
00ユニットの最有力候補である鑑 純夏も、当然いない。
それはオルタネイティヴ4の頓挫とイコールで繋がる。
「───だから、何としても譲れない」
白銀 武には無慈悲な死を。
鑑 純夏には絶望と希望を。
これは、絶対不可避の……人類存続の為の大前提である。
それでも、それを覆したくば───。
「……オルタネイティヴ4以上に有用な代替案を確立しないといけない……」
自分で言っておいて、思わず苦笑してしまう。
つまりそれは『不可能』だということだ。
そんな都合のいい機械仕掛けの神めいた切り札は存在しない。
故に、俺は恐れる。この一年で起きてしまった状況の変化を。
そしてそれが引き起こすであろう、オルタネイティヴ4への影響を。
狂った流れの修正はもはや不可能であり、後は流れに身をまかせることしかできない。
何故なら、俺に切れるカードがなくなってしまったからだ。
己が持ち得るアドバンテージの大部分を占めていた未来情報。
それが消失とまではいかずとも、絶対の信頼が置けるモノとは既に呼べなくなっている。
残ったのは前世で培った経験と知識、そしてこの身体。
「……何とも心許ない」
未来を知っていれば何とかなるのではないか?
そうやって我知らず心の底で甘えていた自分に対する罰か。
悔しいが、効果覿面だ。今の俺の様態がそれを証明している。
腑抜けた心構えで日々を無為に費やし、未知を突き付けられて動揺して……挙句の果てに体調を崩した今に至るのだから。
病は気から、とはよく言ったものだ。
こんな様でBETAに抗おうとしていたのだから滑稽だ。
でも、収穫はあった。このままじゃ駄目だという事を、漸く身を持って痛感した。
強くならないといけない。鍛えなければならない。身体だけではなく、心も。
未知にブチ当たる度にこんな無様を晒していては先が思い遣られる。
「解ってはいるんだけどな……」
だがそれでも、現実的な問題として俺の身体は未だ幼く、密度の高い鍛錬には時期尚早。
心も、今回と同じような状況に直面して場数を踏んでいくしかないだろう。
結局、時が経つのを待つしか無い……今は、そういう生殺しの状態なのだ。
「歯痒い……」
ゆったりと流れる時間が、途轍もなく歯痒い。
俺が生まれて五年。まだ、五年しか経っていない。
歴史に変化が起き始めてから数えれば、たったの一年だけだ。
だが、そんな短い期間で既にこれほどの異変が起きてしまった。
「……BETAの日本上陸まで……あと、十年」
今、自分の口から出た十年という単位すら、もはや完全に信用出来るものではなくなっているのは自覚出来ている。
それも踏まえた上で、これより先、一体この世界にどれだけの変化が訪れるのだろうか。
それすら読み切れずにいる。
もう俺は、変化の波に置き去りにされてしまっているのだ。
そんな自分に打てる手はあるのだろうか……。
「───いや、そもそも」
俺の行動関係なく変化を示しだしたこの世界に……俺の力は必要なのだろうか。
状況の好転は十分に有り得るのでは……?
今回の戦術機のことが状況の好転か悪転かはまだ解らないが、可能性としてはある。
このまま大団円のハッピーエンドに向かって突き進む可能性だってあるのではないか?
そこまで考えて、俺はまたしても自己嫌悪に陥る。
「……あ"ー……ったく、これだから病気は嫌なんだよ」
思考が二転三転し、結局ネガティブに偏る。
何が可能性だ。そんなもの、何の宛にもならない。
ハッピーエンドに突き進む可能性があるなら、バッドエンドに───敗北一直線に突き進むことだってあるだろう。
基本的に性根から腐り気味な俺は、弱気だとどうにも他力本願を望んでしまうらしい。
「寝るか……寝て、とっとと風邪を治そう……」
そして健康な身体になってから、健全な精神の元でもう一度答えを出そう。
今の俺の身体は子供だ。本来なら、腐ってウジウジするには向かない年齢だ。
再来年には小学一年生……その年齢層のガキと言えば馬鹿をやって馬鹿笑いするものだろう。
俺もガキを見習ってそうやって馬鹿を……。
「……うわぁ、今メチャクチャ嫌なこと思い出したぞ……」
そうか……再来年から俺、小学生なのか。
今までと違って、色んな意味で忙しくなりそうだな───。
目先に迫ってきた小学校入学という、また違う意味で俺の心の平穏を乱すだろう状況に思いを馳せながら、俺は眠りについた。