"炎の中の影"ベル・シャラー。それは現在のコーヴェア大陸でもっとも有名な上帝だろう。何しろ近代──七百年ほど前にこのオーヴァーロードはその縛めから解き放たれる直前まで行ったのだから。
人間であれば三十世代以上が経過しているであろう昔話と思うかもしれないが、この世界ではエルフであれば当時の若者がまだ存命なくらいである。解き放たれそうになっただけで一地方を覆った災厄についてはまだ人々の記憶には新しく、現実味があるからこそ、それに抗する銀炎教会への支持も篤いのだ。
しかし、この上帝について知られていることは少ない。世界設定本で語られているのは、彼が武器とするのは秘かに与える啓示と闇のなかの囁きだとされている。ベル・シャラーは彼自身が閉じ込められている牢獄を逆利用し、シルヴァー・フレイムがつくる檻の隙間から触手を伸ばして敬虔な者たちの心に働きかけているのだ。シルヴァー・フレイムの信徒のなかには、ベル・シャラーを積極的に崇拝するほど感化を受けてしまう者もいる。高位の枢機卿にすらその影響は及んでいるのだ。
だが、これらはこの上帝が銀炎に捕われた状態で振るっているか細い力でしかない。"炎の中の影"という異名そのものが、このオーヴァーロードが今置かれている状況を示したものでしかない。果たして、コアトルに敗れ封印されるまでにこの上帝がどのような力を振るって上古の世界を席巻していたのか、それについては何も語られていないのだ。
確かに小さな手掛かりはいくつも存在している。ベル・シャラーの影響がおよぶ範囲にいる人々の肌は青白くなり、その影は暗がりでさえ濃く鮮明になるとともにそれ自身の意志に基づいて動いているように見える。こうした影は影の主に不利益をもたらそうとし、もし影の主が秘密の計画を温めていればベル・シャラーに知らせる。そして彼の影響下に置かれ、それに支配されてしまった人々は身勝手で冷酷になり、一致団結してベル・シャラーに対抗するどころか互いを攻撃するようになる。そしてこの上帝はありとあらゆる不和や裏切りから力を得ることが出来、最終戦争という巨大な争いによって著しく強大化した──これがプレイヤー知識として知っている情報だ。
そしてそれらの情報を基に、これまで自分が体験してきた情報を組み合わせることでこの上帝の輪郭が浮かび上がってくる。死者の記憶を再構築し、自分の力とする。それはつまり裏切りや戦争によってドルラーに魂を送り込み、そこから零れる記憶を我が物としているのだと考えられる。人々を争わせるのは手段に過ぎない。死後の魂がドルラーに送り込まれ、そこで記憶を落とし魂が次の生へと向かうというこのエベロンという世界の輪廻に寄生する大魔──それがベル・シャラーという存在の本質だろう。
それがどのような敵となって自分の前に立ち塞がるのか──それについての答えはない。こういったこと上帝達は占術に対する耐性を持っているため呪文による情報の収集はできず、また自分の知る範囲では"解き放たれたベル・シャラー"などというものが公式でデータ化されていないためゲームの知識も当てにならないからだ。
本来であればこういった強大な敵には事前に情報を収集し、弱点を見極め、有効な戦術を組み立ててから戦うものだろう。だがこの上帝は自らの存在を秘匿したままストームリーチをドルラーの底に落とす事でその準備期間を与えなかった。そのためこちらは出たとこ勝負するしかないという有様だ。
そういった意味では戦略的にはすでに敗北している。なにせ相手は数百万年を超えて存在し、世界の隅々に謀略の糸を巡らせるような奴なのだ。定命の存在など生まれた時点でその糸に絡め取られているようなものとも言え、張り合えるようなものではない。
だが、だからといって全てが相手の思惑通りに進むわけではない。それは"ベル・シャラー"自体が七百前に敗北を喫していることからも明らかだ。
かつて青い闇に包まれた丘に踏み入れたティラ・ミロンはどんな思いでこの上帝に立ち向かったのだろうか──そんなガラにもない事を考えながら、俺は次元の越境を乗り越えた。そこはドルラーの底にして中心部。あらゆる魂が記憶を濾されて次の輪廻へと向かう生の終着地にして出発点だ。
ゼンドリック漂流記
7-8. ドルラー ザ・レルム・オヴ・デス 6th Night
暗黒の空間に夥しい数の光点が浮かんでいる。それはまるで夜空に輝く星々のようだ。ただその密度は地球で見た天の川よりもなお濃密だ。それらはゆっくりと立体的な渦を巻くように揺蕩っている──まるで一つの銀河系を眺めているようだ。
そしてその中央には、銀河系のブラックホールに相当する黒い球体が浮かんでいる。しかし実際にはその球体自体を視認することは出来ない。ただその背後にあるはずの輝きが球形に塞がれていることから、おそらくそこにそういった存在があるのだろうと判断しているに過ぎない。
ゆっくりと回転する小さな輝きたちは、やがてその渦の中心へと沈み込んでいくようだ。まるで鼓動のように脈打ちながら揺蕩う光点の群れ。宇宙の星々の動くさまを取り扱った動画を見ているように思えるかもしれないが、俺は一瞬たりとも気を緩める事は出来なかった。それはこの空間が強烈な悪の気配に包まれているからに他ならない──そしてその中心は、例の黒い球体だ。
──よもや定命の存在が生きたままここまで辿り着こうとは
それは音ではなく思考として伝わってくる。その思考に触れただけで魂が肉体から引き剥がされそうな力が空間自体に満ちるのを感じる。おそらく、この思考の主は特に力を振るったわけではない。単にその知覚範囲に入り込み、認識されただけでこうなるのだ。それは例えば年経たドラゴンが周囲に畏怖を振りまくがごとく、生者を殺害する。この世界において最も死に触れていると言える存在、それがこの上帝の一柱"ベル・シャラー"だ。
眼前で虚空がヒトガタを取る。無論それは視認できるものではなく、周囲を漂う光点から察しての事だ。サイズは人間並み。勿論これはベル・シャラーの本体などではなく、単にコミュニケーション用の端末として創り出したであろうことは容易に想像がつく。
──ここまで辿り着くことが出来たのであれば、より容易にここから離れることも出来たであろう。瞬きの合間に過ぎぬ生とはいえ自らそれを縮める代価に何を望む?
その声には焦りなどなく、ただただに平坦な意志のみが感じられた。定命とは比べ物にならない規模の存在からすれば俺達人類の個体の一人など、砂漠の砂粒一つのようなものなのだろう。
「勘違いするなよ、俺が来たんじゃない。お前が俺の縄張りに足を突っ込んできたんだ。わざわざ退治されに来るとは、七百年火炙りが続いた程度で根を上げたのか? 長生きだけが取り柄の上帝様とやらは」
その物言いに対して黒い輪郭は軽く全身を震わせるに留まった。失笑というやつか、特に思念に怒りという感情は見られない。だが俺の言葉は上帝の好奇心を刺激するには十分だったのだろう、その意識が強く俺へと向かうのを感じた。
退治とは。我こそがお前達人類の守護者にして羊飼い、導きと閃きを与える無二の存在ぞ。未だ自ら立つ事も成し得ぬ未熟な種が、随分と大きく出たものだ
「知らないな、お前が人類の守護者だって? よくもまあそんな考えが浮かぶもんだ」
竜は我らに敵対し、巨人とエルフはその生が長い。ホブゴブリン共には華やかさがなく、ゴブリンは生が短いためか刹那的に過ぎる。対してお前達ニンゲンは良いな。多様性に富み、お互いで争う事に躊躇せず、世代の交代も早い。繁殖力も高く少々目減りしてもすぐに増える。まさに我が理想を体現したかのような存在よ
ベル・シャラーが語ったのはこのエベロンの地上を謳歌した文明を支えた種族達だ。かつてドラゴンに魔法を授けたのがこの上帝だとも言われており、彼からすればドラゴンとコアトルに封じられたことは飼い犬に手を噛まれたような思いなのかもしれない。
そして人類の守護者を自認しているというのも嘘ではないのだろう。彼にとってのお気に入りの作物、それがエベロンに住まう人類という種族なのだ。放っておけば他の上帝に刈り取られてしまう種として、確かに手を回して守ったこともあるのかもしれない。知的生命体の記憶という彼にとっての娯楽を兼ね備えた食事の供給源として、人類を好んでいるのだろう。彼が人類への干渉を行うのは作物の刈り取りや味付け、あるいは品種改良のようなものなのだろう。
不和の種を撒き散らし、諍いを生む──それも彼なりの調理法ということか。そして人類はその期待に応え、戦争を通じて発展してきた。そして最後には最終戦争を引き起こし、その死者が養分となる事でこのオーヴァーロードをここまで肥え太らせてしまったのだ。
「じゃあその人類に噛み付かれた気分はどうだ?」
そう言いながら牽制として放った俺の呪文攻撃に対し、ベル・シャラーは回避すらするそぶりを見せなかった。直撃した力場の翼はウォーフォージド・タイタンを一撃でスクラップにする程度の破壊力は有している。だがそれは黒い体の表面を軽く削いだだけに終わる。手応えは確かにあった。だがそれは大海原からバケツで水を汲み上げた程度のことなのか、オーヴァーロードはいささかも変わらぬ様子で俺の眼前にあり続けている。
確かにニンゲンとは思えぬ術の強度よ。だがその術はあと何度使えるのか──十回か、それとも百回か? それで我を倒せると思うのであればやってみせるがいい。この死の領域において我が活力が尽きることはない。永遠の無聊の慰みに、その舞踏を見届けてやろう
その思念が伝わってくると同時に、さきほどの呪文で刮いだ黒体の欠片が蠢いた。それはあっという間に膨れ上がり、蛇のような細長い形態をとるとこちらへと迫り寄って来る。あるいは朽ちた巨木と見まがえたかもしれないそれは、よく見ると短い前腕を備えていた。全身をのたうつようにしながら、その前腕で空中を掴んでこちらへとその巨体を加速させて来る──その先端には長く開いた咢がありそこに生えた数多の牙が煌めいていた。リノームと呼ばれる堕ちた龍種、死者と悪食の王だ。
ただの爬虫類ではなく龍種を冠するだけの高い知性に裏打ちされた残虐性を持つそのケダモノがこちらへと迫る。その巨大な口から発せられる冒涜の声はもしも音声が届いていればあらゆる定命の存在から命を奪う効果があっただろう。しかしその音よりもなお早く、俺の掌打がせまる龍種の下顎を跳ね上げた。残された体躯が勢いそのままにこちらへと押し寄せてくるが、迫るを幸いと射程内に入った蛇体に次々と打撃を打ち込んではね上げていく。そうやって全身へと浸透された衝撃がリノームの体内で暴れ回り、その波が全身で調和を見せるとその瞬間にリノームの全身が分解されたかのように崩れて消える。
脅威度としてはデュラストランの祭壇に向かう途中で戦った龍達と同程度だろうか。この程度であれば一瞬の足止めの効果はあるだろうが、それ以上にはなり得ない。だがその手ごたえに違和感を感じた俺は、再びベル・シャラーに呪文を放った。次は特に強化など施していない凡庸な火力だ。それは再び上帝の体を僅かに削り、そして再びその削れた黒体は化生となって俺へと襲い掛かって来た。それは先ほどのリノームほどではなく、それなり凶悪な獣という程度であり再びそれを拳撃で霧散させる。拳に残った感触を確かめるように指を開き、閉じる。
──ほう、理解が速い。ここまで辿り着くだけのことはある
その様子を見てのベル・シャラーの関心した思念に、俺は一つの確信を得た。"ベル・シャラーが負った負傷に応じて、肉体の破片からクリーチャーが産み出される"。俺がベル・シャラーに与えたダメージと、その後に生まれたモンスターのヒットポイントがおそらく同一の値であろうと踏んだのだ。
そうやって倒したクリーチャーの生命力がベル・シャラーに還元される様子はない。どうやら無限に戦い続ける必要はなさそうでほっとする。
──さあ、次はどんな攻撃をするのだ? 炎か、冷気か、それとも電撃か? お前の能力を我が前に晒すがいい
「そうか、それじゃあリクエストに応えるとしよう」
火球。冷気。電撃。さらに音波に酸。斬撃に殴打に刺突。アダマンティン、ミスラル、魔法銀は言うに及ばず様々な素材による攻撃を繰り出すが、このオーヴァーロードはその全てを受け切って、そして与えたダメージに等しいクリーチャーを産み出してこちらへと嗾けて来た。それは攻撃一回あたりに一体とは限らず、一撃に対して多数の群れが生まれる事もあれば複数の攻撃を受けた結果の集合として生まれることもありベル・シャラーの任意であるように思われる。生まれたのもモンスターだけでなくどこかの国の戦隊の一団が装備込みで現れたり、ウォーフォージドなどもいればホブゴブリンなどの亜人種、巨人にエルフ、動物やエレメンタルなど大凡知性があると思われる殆ど全てのクリーチャーが現れた。
そしてそれだけのバリエーションと数を産み落とすほどのダメージを受けてなお、この上帝の様子は最初にあったまま変わらない。ダメージは確かに与えているのだ。だがそれがその総量に対してあまりに微小であるため手傷を与えたと認識されない。それだけのヒットポイントをこのオーヴァーロードは保持しているのだ。
(コーヴェア大陸の人口が文明圏だけでおおよそ一千五百万。だが他の大陸、アンダーダークや海の中まで含めればエベロン全体の知的生命体の総数はその十倍で収まるかも怪しい……)
このエベロンで生まれ消えていく生命、その大半はこのドルラーへと流れ着く。その全て、一つ一つからこの上帝が活力を得ているのであれば。この瞬間にもベル・シャラーは回復を続けているという事になる。
日本神話でイザナギは毎日一千人を殺すと宣言したイザナミに対して、毎日一千五百人が産まれるようにしてみせようと告げた。今の俺の立場はそのイザナギの逆となる──今この世界で死んでいっているほぼ全ての生命の数を超えるだけ、このベル・シャラーを傷つけねばならないのだ。
そしてベル・シャラーには時間という貯蓄がある。最終戦争で失われた数多くの命、そしてティラ・ミロンに封じられてからの七百年の間に蓄え続けた生命の数。敵の再生を超えるダメージを与えて、その生命の蓄えを削り切らねばこの上帝は倒せない。
この世界における間違いなく最強の一柱、"炎の中より出たる影"ベル・シャラー。上古の世界を蹂躙し、暗黒の時代を築いた魔物達の王の中の王。その名に相応わしい恐るべき悪鬼は冥府の底にて俺を歓迎するようにその両腕を広げている。
忌々しい翼蛇の呪縛から解き放たれたこの私を、一体何が止められるというのか!
周囲を満たす輝きは天の星ではなく消えゆく魂の最後の煌めき。あらゆる生命を飲み干す暴食の化身の歓喜の思念がその輝きを揺らす。それはまるで小さな蝋燭の炎の消える前の様子のように俺の目には映った。