レストレス諸島。
ストームリーチのあるスカイフォール半島はゼンドリック大陸から突き出すように北に伸びているが、その半ばほどの位置に寄り添うようにして存在する小さな島の群れだ。特徴はその全てが海面から何百メートルと切り立った絶壁を有しており、島同士は空中に架けられた吊り橋と島内を海底まで掘り進んだトンネルにより連結されているという点だろう。
雨も少なく、水資源の乏しいこの諸島には古くから2つの種族が住んでいた。一つはオーガ・メイジを首領としたオーガ族。そしてもう一つはワイルドマンと呼ばれる自然崇拝者達だ。だが今やその二つの部族は恐るべきマインド・フレイヤー達の支配下にある。そしてその特徴から船ではアクセスすることが出来ず、飛空艇によってしか訪れることの出来ないこの島々はまさに外部から断絶された孤島だ。嵐や雷雲が突如巻き起こり、『変幻地帯』では豪雪と熱波が入り乱れるこの魔境ゼンドリックの空を飛空艇で飛ぼうという物好きは極めて限られるからだ。
だが、空の支配者たるリランダー氏族はその例外の一つだ。"嵐のマーク"を初めとした能力により天候を制御する彼らにとってはどの空も変わりないものだ。むしろそういった荒天でこそ彼らはその能力を発揮する。今も巨大な船体が雲を切り裂きながら空中を滑るように飛翔している。通常の精霊捕縛型の飛空艇とは異なり、船とは呼べない円盤状のその飛行物体は雲を突き破ったその上空に達するとやがてピタリとその動きを止めた。
「目標座標に到着、予定時刻との誤差は無し。周辺に敵影はありません」
その円盤の中央上部に位置するブリッジに、"コラヴァール"──コーヴェアの子を名乗るハーフエルフ達の声が響く。
「各機関異常なし。クルーの配置も完了しています」
一段と高い位置に置かれた椅子に腰かけながら、上がってくる報告を聞いていた船長がこちらに視線を寄越しながらも首肯してきた。俺がそれに対して同じように頷きを返すと、彼女──オーレリア・ド・リランダーは指揮所に響き渡る深い声で宣言した。
「我等が始祖より受け継いだこの空と海を汚し、歪めんとする狂気の軍勢を討つ時が来ました。
これはコルソスで殉じた同胞の無念に報いるものですが、同時に天地に在るべき姿を取り戻すための、我々の世界のための戦いでもあります。
かつて巨人とダカーンの帝国を衰退させた悪夢と狂気がこれ以上この大地に溢れる前に、その芽を摘み取らねばなりません。
今の私達にはそのために必要な力が十分備わっていると私は確信しています──」
オーレリアの声に同調するように、この空中船に満ちる巨大な精霊の気配が脈動しているのを感じる。それは通常の精霊捕縛の技法によるものではない、独特で強大なものだ。単一でありながら複数。基本元素である地水火風の要素を全て兼ね備えた巨大な精霊、それが呪縛ではなく盟約によりこの船に宿っているのだ。
それはノームによりゼンドリックから精霊呪縛の技法がコーヴェアに伝えられるよりも先に、彼等リランダー氏族のハーフエルフ達がエアレナルの精霊船──自我をもたせた大樹を船として育てたもの──を参考に産みだした、世界に三隻限りの戦闘艦。彼らの本拠"ストーム・ホーム"を守護する伝説級の精霊より株分けされたが、その強力さ故にガリファー一世が発した"コースの勅令"によりコーヴェア大陸では運用を制限されている戦略兵器。
「『ストーム・プリンセス』起動! 雲下の者どもに《先覚者》の鉄槌を!」
指揮官たる彼女の号令を受け、乗船している"嵐のマーク"の持ち主たちが一斉にその能力を発動させた。船体中央下部に設けられた儀式場、そこに集った彼らが巨大なシベイ・ドラゴンシャードにその力を注ぎ込んでいる様がブリッジの透明な床越しに見えている。そのパワーは導体として使用されているエベロン・ドラゴンシャードを伝いながら船体外周を巡っていき、船に宿ったエレメンタル──強大化した"テンペスト"へと注ぎ込まれていく。そして彼女は求められたままにその能力を行使した。
足元の雲が、船を起点に白から黒へと塗り変わっていく。人造の即席雷雲が通常の自然現象ではあり得ざる莫大なエネルギーを瞬時に貯めこむと、精霊の導きに従ってそれを一気に吐き出した。秘術の《ライトニング・ボルト》とは比べ物にならない太さの雷光がレストレス諸島の一角へと突き刺さり、炸裂した。それはオーガ氏族の首長であるゴーラ・ファンが住む宮殿を打ち砕く。
高地に生える貴重な樹木をふんだんに使用した優美な建築物は走る雷光によって分解され、さらに吹き荒れる豪風によりまるで落ち葉が舞うように地面から引き剥がされて家屋が舞い上がる。それらを飲み込んだ竜巻はまるで咀嚼するかのようにお互いを衝突させ、小さく粉砕していく。勿論、そこに住む者たちも屋敷同様の運命を辿っている。
そして何より恐ろしいことはこの攻撃が『呪文によるものではない』ということだ。雷雲を産み雷を誘導したのは確かに秘術に近いものだが、落雷や竜巻そのものは自然現象によるものであり、例えオーガ・メイジが強固な呪文抵抗を有していたとしても関係がない。
呪文や擬似呪文能力ではない超常能力。それも通常の《ライトニング・ボルト》を幾重にも束ねたよりもなお強力なそれが、感知不可能な遥か上空より放たれたのだ。宮殿にはオーガのウォー・マスターを始めとした戦力が常駐していたはずだが、このような攻撃を受けては無事ではいられないだろう。
雷雲の発生から着弾までに有した時間は僅か数秒。そして既にその攻撃は既に数十秒も継続している。宮殿を蹂躙した雷光は今や複数に分裂し、諸島間をつないでいる架け橋を尽く粉砕していた。宮殿以外の拠点──鉱山や島内を巡るトンネルに潜んでいる勢力がいたとしても、それらを繋ぐ経路を破壊されては合流することも出来ない。
勿論瞬間移動による移動は可能だがバグベアの近衛部隊は先日の襲撃で大部分が損耗しているし、そもそも彼らの主要戦力であるオーガは人間などに比べると大型の生物であり、術者に対する負担が大きいため一度に大人数を転移させることが出来ない。勿論《フライ》などにより空中を移動することは可能だが、巨大なテンペストが気候を制御している状況で飛び出そうものならあっという間に竜巻に飲み込まれてしまうだろう。つまり彼等は分断を強いられており、拠点防衛側が本来有するはずの大戦力を有効に活用できない状態なのだ。
勿論、マインド・フレイヤー達がヴォイド・マインドを通してその超能力を行使すれば劣勢を覆すことは可能だ。ウォーフォージド・タイタンには俺が知る限り飛行能力はないし、これほど高空に存在する敵を攻撃する手段はないかもしれない。だがそれを抜きにしてもマインド・フレイヤー達は一騎当千を超える怪物なのだ。単身でこの船を攻撃し、制圧することも出来るだろう──この場に俺たちがいなければ。
「第一次から第二次までの目標の破壊を確認。地上側からの反応ありません」
「"嵐のマーク"を使用したクルーを交代させなさい。引き続き第三次以降の作戦目標に対する攻撃を続行します。
生き残りが直近まで転移してくるかもしれません、油断せずに警戒態勢を維持」
一方でシベイから下級までの様々なドラゴンマーク持ちを大量に投入しての攻撃はリランダー氏族の人的リソースを大きく消耗させていた。攻撃の間じゅう特定のマークの能力を発現させ続けるというのは術者にとってかなりの負担なのだ。それが同時に10人ほど、さらに交代制で攻撃を継続させるとなるとこの船に乗船している30人近い"マーク持ち"をフルに回転させてもこの攻撃は数分程度しか続けることは出来ないという。
秘術に換算すれば最高位の第九階梯を超える、準エピック級とでもいうべき効果を儀式によって産み出しているのだ。世界は異なるがレッド・ウィザードやハサランの円陣魔法をドラゴンマークで行っていると考えるのが近いだろうか。高レベル術者が貴重なこのエベロンにおいて、均一な擬似呪文能力を大勢有するドラゴンマーク氏族独特の技法だと言えるだろう。
破格の火力の代償として、もしこの船が沈むようなことがあればこの先リランダー氏族は人員の回復に百年を要する損害を受けることになる。エルフに比べれば出生率の高いハーフエルフといえども氏族の中でドラゴンマークを有する存在は一握りなのだ。まさに秘蔵の戦力を投入しているということであり、リランダー氏族がこの作戦にかけている熱意がそれだけのものだということが判る。
オーレリアが語った同胞の仇討ちやエベロンを侵略する異界の来訪者の殲滅という大義以外にも、実戦経験の蓄積や彼らの生命線である海と空の安全を回復するためなど様々な目的があるにしても些か過剰ではある。だが今は心強い同盟者だ。
そして妨害の入らぬまま、その苛烈な攻撃は終わりを迎えた。時間的には余力があるはずだが、当初予定していた目標への攻撃が完了したのだ。そしてこれからが俺たちの出番となる。
「では、我々の出番ですね。何かあれば念話にてご連絡を」
「承知いたしましたわ、ご武運を。ソヴリンの導きがあなた達にありますことを」
オーレリアに一礼し挨拶を交わすと俺とメイはブリッジを出る。超巨大サイズの精霊に包み込まれているこの船の内部には瞬間移動で転移することは出来ず、直接乗り込まれる危険性が低いために奇襲を受ける心配はない。巨大なエレメンタルは肉体的にも精神的にも非常に高いタフさを有しており、マインド・フレイヤーといえども一瞬で無力化することは出来ないだろう。そして戦場で会い見えれば一瞬で連中を無力化する自信が俺にはある。むしろ出てきてくれればその頭数を減らせるという点でありがたい話だ。打って出るのはそのための誘いでもある。
船体外周の弧を描く通路を進んだ先には外へと通じるハッチがあり、そこには既に戦闘準備を整えた他の仲間たちが待機していた。眼下では儀式魔法によって雷を発生させていた雲がその色を失いながら霧散していくのが見える。深い海の青が広がる中で、その浸食から耐えるように茶と緑が織り交ざった島々が点在している。元はこれらの島々も大陸の一部だったのだ。
だがかつての巨人文明崩壊の折、ゼンドリック大陸はその半分が砕け散ったといわれている。その残滓の一つがこの海に突き立つ島たちだ。そして4万年の時を越え、再びこの島は異界からの侵略に晒されている。この島に存在する"黄昏の工廠/トワイライト・フォージ"が再び稼働し、マインド・フレイヤーの手によって機械兵団がこのエベロンに撒き散らされようとしているのだ。
リランダー氏族の過剰な攻撃を受けてなお一切の反応を示さない彼らだが、籠城を決め込んでいるのであればそれは何か企みがあってのことだろう。高い知性と戦闘力に加え、精神汚染による組織力を有する相手を放置しておくわけにはいかない。一度は罠にかけることで相手の数を削ることは出来たが同じ手は二度と通用しないだろう。攻守を入れ替え主導権を握ったからには、後は相手の先手を取り続け一気に押し潰すのみだ。
「ようやく僕たちの出番かい、待ちくたびれたよ──しかしあの有様じゃ、大した獲物は残っていないんじゃないか?」
ラピスの視力には島の惨状がよく見えているのだろう。あらゆる構造物が瓦礫と化し、クレーターが穿たれた地表。そこに生存者がいたとしても彼女を満足させるほどの獲物は残っていないように見える。だがこのレストレス諸島はその地下に鉱山を抱えており、島々を繋ぐトンネルも海底に広がっている。さらに宮殿は深い構造をしており、そこに住んでいた精鋭たちも全滅しているとは限らない。
本来、手っ取り早く敵を葬るのであれば島そのものを吹き飛ばしてしまえばよい。特に何百メートルと海から突き立っている特異な島であるこれらは、その半ばに強力な呪文を叩き込んでやればそのうち島そのものを"へし折る"ことだって可能だろう。
だがリランダー氏族はどうやらこの島々を自らの拠点として活用することを狙っているようで、戦闘の方針からそういった手段は排除されている。潜水艇を活用していることで地下港を有していることは確実で、さらに飛空艇の拠点として手を入れれば確かに彼らの拠点としては相応しい地になるのかもしれない。だがそれはすべてこの地に巣食う狂気の使徒達を滅ぼしてからのことだ。
「まあここまでお膳立てを調えてもらった分の働きはしようじゃないか。
それにまだマインド・フレイヤー達は何体も残っているんだ。油断して不意を突かれることがないようにしてくれよ」
超高レベル帯の戦闘においては、先手を取るかどうかで勝敗の8割が決するといっても過言ではない。奇襲を受ければ瞬く間に劣勢に追い込まれ、そのまま押し切られてしまうことが十分にあり得る。この飛空艇から外に出れば、そこではいつマインド・フレイヤーがテレポート・アウトしてきてもおかしくないのだ。
一瞬たりとも気を緩めることは出来ない。反射神経を向上させる《ナーヴスキッター/神経加速》の呪文準備を意識しつつ、俺はレストレス諸島の上空へと躍り出るのだった。
ゼンドリック漂流記
6-8.ブリング・ミー・ザ・ヘッド・オヴ・ゴーラ・ファン!
ゴーラ・ファンの宮殿の生き残りたちは、どうやらクエストの裏口──取水用の井戸から島の地下へと逃れていたようだ。秘術の力によって海底のさらに深くから真水を汲み上げている不可思議な装置によって水が張られたそれは小さめのプールほどの大きさがあり、オーガ達が通り抜けるにも十分な広さがあったのだ。水中を進み出た先は本来であれば警備のために放たれたウーズで満たされていたはずだが、今は乾ききらない足跡が残るだけの無人の坑道だ。
「足跡から判断できる数は15,6といったところか。飛行呪文で浮遊したまま逃げている奴もいるかもしれないが、そう大した数ではないだろう」
オーガ達の痕跡を調べていたエレミアはかなり高い精度で状況を分析している。レンジャーとしての訓練を積んでいる彼女にとって、こういった追跡はお手の物だといえよう。勿論、同様の技術を有している俺も同じ結論に至っている。D&Dのルールブックに記載されている有名な技能判定の難易度として『1週間前、1体のゴブリンが固い岩を踏んでいったのを追跡する、しかも昨日は雪が降った』というのがあるが、今の俺は呪文の補助を受ければそんな困難な判定すら片手間で達成してしまうほどだ。大型の、しかも大勢のオーガの後を追うこと程度は相手が空中を飛んでいようが地面を潜っていようが問題ない。
一方で注意すべきマインド・フレイヤー達だが、あの脳喰らい達の痕跡はまったく見受けられない。彼らの使用するサイオニック能力は使用時に独特の附随現象が発生するし、もしも歩いていたならオーガ達とは体格も足の形も全く異なるために一目瞭然なのだがそういったものが一切見受けられないのだ。勿論高位の超能力者はサイオニック発動の際の附随現象を抑えることが出来るが、その強力なパワーの痕跡はその残照が長期間残るものなのだ。
だが少なくともゴーラ・ファンの宮殿やこの地下坑道にはそれがない。彼らの根拠地であるはずのこのレストレス諸島にその気配が存在しないこと、それが俺に警告を呼び掛けている。だがそんな俺の不安を笑い飛ばすようにラピスが口を開く。
「辛気臭い顔をするもんじゃないよ。あんなタコ頭が何を考えているかなんて判るほうがおかしいって思わないか?
連中がどこで何を企んでいようと、いずれ目の前に出てきたのを切り刻んでやればいいだけさ」
彼女はそう言って身を翻すと、幾本かのナイフを手で弄びながら坑道の先へと進んでいった。確かに彼女の言うことにも一理ある。『彼方の領域』と呼ばれることもある狂気の領域ゾリアットの住人の思考回路は、俺たちとは大きく乖離している。狂人特有の論理の飛躍などは推し量ることは到底不可能だ。であるのならば今は少しでも早く相手の戦力を削ぎ、追い詰めることを優先すべきということだろう。
「そうだな、考え事は足を止めない程度にしておくよ」
エレミアと先行するラピスの背中にそう返し、メイと並んで坑道を進む。後方の警戒はルーとフィアの双子が行っており、俺たちの役割は隊列の中央で奇襲に対して即応することだ。
海底の、それも取水設備の近くであるためかこの坑道は非常にじめついておりところどころは貯まった水に通路が水没していることもある。岩をくり抜いた構造の表面には苔が張り付いており不安定な足場ではあるが、全員が《フライ》の呪文などにより飛行しているため苦も無く移動していく。
かつては暗闇を照らしていた秘術の照明はところどころが破損し不気味な暗がりを生み出している。《コンテニュアル・フレイム》の効果時間は確かに永続ではあるが、その付与された媒介が破損してしまえば効果は失われる。長い間手入れをされていないことで、媒介となっていた坑道を支える木の支柱が腐り落ちてしまっているのだ。それだけ長い間、この坑道は放置されているということだろう。
ゲームでは地中から蠍に襲われたはずの区画も飛行移動のためか敵襲を受けることなく通過し、俺たちは何の障害にも遭遇せずにオーガ達の痕跡を追う。鍵付きの扉も開け放たれたまま放置されており、ほんの数分前にそこを駆け抜けていったオーガ達の焦りを示しているようだ。勿論これが相手側の誘いかもしれない可能性を念頭に、俺の記憶にある以外の罠や仕掛けがあったとしても対処できるよう知識を総動員して周囲の観察を怠らない。
「この先は随分と広くなっているな。風の通過する音からしてかなり深くまで伸びているようだ」
そう呟くエレミアの声を押しつぶすように、坑道の奥深くからはまるで泣き声のような音が響いていた。"シェリーキング・マイン"とこの鉱山が呼ばれる所以となった風の音だ。細長いトンネルを通り抜ける風のうなりにちなんで名づけられた、その音はまるで苛まれた魂が叫び声をあげているかのようだ。まるで使い捨てるように酷使されたワイルドマンの奴隷たちが、この鉱山で骸となって嘆きの声をあげているかのようだ。
このレストレス諸島の海底鉱山で産出するクリスタルは精神的な音──テレパシーを発する特殊な素材として使用される。武器として加工すれば鞘から引き抜いた際や最初に血を流したとき、あるいは特定の敵を殺害した際に歌を口ずさんだり、戦いの歌を朗唱したり、叫び声を挙げる特異なものとなるのだ。そういったサイオニックの宿った特殊な道具の素材が眠っているがために、過去の『夢の領域』の住人やマインド・フレイヤー達がこの地を選んだと言われても納得できる。
だが今やその資源の大半は奪われ、運び去られてしまったようだ。ゲーム内では至る所でピッケルを振るっていた奴隷たちの姿はなく、壁にはわずかに残された小粒のクリスタルが紫色に輝くだけだ。オーガやオーガ・メイジの奴隷監督官達もその姿を見かけることは一切なく、溶岩が吹き散らす硫黄分が分厚く覆いかぶさった坑道に先を行く逃亡者たちの足跡だけが残されている。
「──ここから先ですが、《アンハロウ/不浄の地》が敷かれているようです。
付与されているのは《ディメンジョナル・アンカー/次元間移動拘束》。おそらくは悪属性でないものにのみ影響を与えるようになっているかと」
メイがその《アーケイン・サイト》を付与されたことで蒼く染まった瞳で敵の罠を看破した。迷いなくここへと移動したオーガ達の狙いは、この場に俺たちを誘い込むことのようだ。一方的に呪文などによる転移を妨害したうえで戦うことが出来ればそれは相当な優位を産む。それは戦場の位置取りに関するもの以外にも、相手は逃げることも増援を招き入れることも自在という意味で二重に厄介だ。
《アンハロウ》という呪文は土地に定着するタイプの呪文で、解呪することが出来ないという点もこちらに不利な点だ。かといってその効果は発動させてから1年も続くために時間切れを待つことは出来ない。いったいいつごろからこの地が《アンハロウ》に覆われているかは定かではないが、このまま放置するという選択肢は取れない以上俺たちは先に進むしかない。
「ふむ、この強度であれば私の加護もそのうち貫かれるか──ルーアイサスならば問題ないのだろうが」
メイの指し示した《アンハロウ》の境界に腕を差し込みながらフィアがそう呟いた。《アンハロウ》自体は不可避でも、そこに付与されている呪文には『呪文抵抗』が有効だ。だがドラウとしてレベル相応の強固な抵抗を有するフィアに干渉するほどということはある程度高位の術者の仕業だ。信仰呪文の使い手といえばイスサランの背後に控えていたマインド・フレイヤーが記憶に新しいが、あのエピック級のクレリックの強烈なオーラはこの結界からは感じられない。
そうなるとオーガ・ミスティック達か。頭の中にゴーラ・ファンに仕える部下たちを思い浮かべ、脅威度から想定される術者レベルを眼前の結界のものと比べ、想定の範囲内であることを確認する。
だが、それで安心とはいかない。この《アンハロウ》は大きな選択肢を俺たちに突き付けた。この中に入れば、ルー以外は瞬間移動で離脱することは出来ない──つまりそれはもしリランダー氏族の『ストーム・プリンセス』がマインド・フレイヤー達に襲撃されたとしても即座に救援に向かうことが不可能になる、ということだ。
さらに二手に分かれたとしても、今度は俺たちが各個撃破される危険性が高まる。幸い坑道は狭く、ウォーフォージド・タイタンが暴れられるような広さはない。だがそれ抜きにしてもエピック級のマインド・フレイヤーとの戦闘になればそのリスクは測り切れない。先日の襲撃で連中を封殺できたのは、あくまでこちらのお膳立てした戦場に敵がまんまと引っかかってくれたからだ。
今回はいわばその逆、相手の用意した戦場に向かうことになる。そう考えてみると、目の前に広がる坑道が巨大な生物の顎のように見えプレッシャーを感じてしまう。一手の誤りが自分と仲間達をあの脳喰らい達の奴隷にしてしまうかもしれない。それは死よりもある意味恐ろしいことだ。
「──準備を整えたら全員で進むぞ。出来るだけ時間をかけたくない、警戒は怠らないが速度を上げる」
だが躊躇はせずに決断を下す。危険なマインド・フレイヤーの待ち伏せがあるかもしれないという状況で戦力を分けるのは愚策だ。それにこちらの分散を促す手がこの先に幾重にも仕掛けられていた場合、その全てで考え込んでいては時間のロスだ。転移を封じられたことを承知の上で、短期決戦に持ち込むことでリスクを減らす。もしも『ストーム・プリンセス』やコルソスが襲撃された場合は、残り少なくなった奥の手を切れば対処可能ということも俺の判断材料の一つだ。
レンジャーの呪文である《レイ・オヴ・ザ・ランド/地勢》を使用して俺の知識と実際の鉱山の構造が大差ないことを確認し、目的地の目星をつける。そうやって得た情報を幻術で立体図として投射。そしてラピスが《ファインド・ザ・パス/経路発見》を使用する。
本来であれば信仰呪文に属するためシャーンでメイを探したときには《ウィッシュ》でエミュレートしたこの呪文だが、占術に長けたラピスは秘術呪文としてこの有用な呪文を発動するという特殊な技術を有しているのだ。
他にも短時間有効な呪文を付与し準備を整えた俺たちはこの鉱山の最奥、ゲームでは1体のマインド・フレイヤーが座していた部屋へと向かって移動を開始した。呪文に導かれ疾風のように坑道を飛翔する俺たちに呼応するように、壁に残されたクリスタルがかすかに響く音を放つ。それは鼓膜を揺らさず、直接心に反響を返す精神波だ。
ひょっとしたらサイオニクスの達人はこのテレパシーのような現象をソナー代わりにこちらの位置を把握しているかもしれない。そんなパワーの存在は俺の知る限りは存在していないが、エピック級ともなれば既存のパワー体系に存在しない効果を持っていても不思議ではないのだ。
坑道を先に進むにつれ、周囲の気温が上昇していき、嘆きの声は強く響く。これが本当に死者の声ということがあり得るだろうか?
深く穿たれたこの鉱山は一部から溶岩を噴出させており、それが灯りとなると同時に耐えがたい熱源となって鉱山じゅうを満たし、さらにはそれによる空気の動きがこの音を産んでいるのだと理性では考える。
だが呪文による保護がなければすぐに疲労し、満足に力をふるえない状況に陥るであろう劣悪な環境下で酷使されたワイルドマン達は力尽きるまでピッケルを振るうことを強いられていたのだ。その怨念がクリスタルに焼き付くように残っておりこの音を産んでいたとしても不思議ではない。そう思わせるだけの淀んだ空気でこの場は満たされていた。それはまさしく狂気の領域の爪痕だろう。
そしてそれ以外にも痕跡はあった。水平に伸びる坑道はところどころにオーガの奴隷監督官が使用するものか、大型のクリーチャー用の椅子やテーブルが設えられた休憩所のような区画が設けられていた。その中には木材で周囲を補強するだけでなく、オリエンタルな装飾が施されているものがあったのだ。それはダル・クォール文化の影響がこの地に残っていたことの証左だ。
そんな異次元からの侵略者たちの気配を感じさせる扉を粉砕した俺たちの視界に、ついにオーガととワイルドマンの一団が映る。
「ここまで来るとはな──奴隷どもよ、攻撃だ!」
もっとも奥に控えたオーガ・メイジ──その額から鼻頭までを特徴的なマスクで覆ったゴーラ・ファンそのひと──が指示を下すと、その集団からワイルドマン達がこちらへと向かってくる。そんな彼らを盾にするようにしてオーガ達は前方へと離脱していく。視界を塞ぐフォッグ系の呪文と動線を遮るウォール系の呪文を撒き散らしながら撤退していくその動きに無駄はなく、リランダー氏族の呪文攻撃から生き残った彼らの練度の高さをうかがわせる。
「鞭打ちは嫌だ、逆らうことは出来ん!」
「俺を殺せ、さもなくばお互いに死ぬことになるぞ!」
そして口々に様々な叫びをあげながら、ワイルドマンはこちらへ突進してくる。その手にしているのは粗末な剣や斧。彼らの役割はまさにただの時間稼ぎで、哀れな生贄だ。だがその体毛の下にヴォイド・マインドを示す穿孔があるかを確認することは一瞥では難しく、万が一の危険を考慮すれば手加減することは出来ない。
先頭を駆けるエレミアのヴァラナー・ダブルシミターが颶風を従えて閃き彼らを薙ぎ払い、メイの呪文がエレミアを飛び越えて障害となる呪文を消し飛ばした。だがその後追撃を加えようとする俺たちにラピスの静止の声が響く。
「止まれ、罠だ! 視界を塞いだのはこいつを隠すのも兼ねてのことみたいだね」
《ファインド・ザ・パス》のサポートを受けたラピスは、たとえ視界が塞がれていても道中の脅威を見落とすことはない。呪文で生み出された霧の中に潜んでいたのは、坑道の壁面から飛び出す巨大なカミソリの刃だ。直径5メートルほどはある坑道、その天井からギロチンのように舞い落ちるその死線に不要に踏み込めば人間どころかオーガまでもを二枚におろしてしまいかねない危険なトラップだ。
勇んで追撃していればこの罠で命を刈り取られるという作戦だったのだろう。だが存在が露見している罠などもはや障害にはならない。エレミアは躊躇なくその死地へと踏み込み、剣を振るった。
「ッセイ!」
エレミアの振るう緑がかった刃と舞い降りる巨大な鋼の刃の銀閃が交わって坑道に甲高い音が響いた。彼女はわざと罠を起動して機械式の罠の刃を迎え撃ったのだ。勿論太古より受け継がれた彼女の剣が罠程度に撃ち負けることはなく、本来であれば地面に吸い込まれて再装填されるであろうギロチンは断片と化し散らばった。いちいち罠を解除するよりも手早い無力化の手段だ。
そしてそうするのが判っていたとでもいうように、直後にその横をすり抜けてラピスとフィアが追撃を開始する。俺も彼女たちに続いて《フォッグ・クラウド》の霧を抜ける。俺たちがワイルドマンと罠の処理に費やした僅かな時間の間に、距離を稼いだオーガ達を追い詰めようと先へと急ぐ。水平に続いていた坑道はすこし先で十字路を形成しており、その正面にはこの鉱山のメインシャフトが広がっている。
「攻撃、開始!」
一直線に正面のメインシャフトへと向かおうとする俺たちの左右から、オーガが挟撃を仕掛けてきた。その巨体に相応しい強弓から矢が放たれ、さらにそれを追うように狂戦士の激情を呼び起こし一時的に肉体の限界を超えたオーガたちが突撃を開始する。
だがメインシャフトから吹き上がる悲嘆の声をも掻き消す、竜巻級の暴風が突如発生し彼らの全てを薙ぎ払った。ルーの《コントロール・ウインズ》が、飛来した矢だけでなくオーガ達をも吹き飛ばしたのだ。
それはリランダー氏族達の儀式魔法が生み出した天候の猛威をさらに凝縮し、さらに精緻にしたものだった。それだけの勢いでありながらも俺たちや鉱山の構造物には一切の影響はないという神風。挟撃していたはずのオーガ達は風に吹き飛ばされ思うがままに一か所へと寄せ集められ、そこに俺が攻撃呪文を打ち込むことで一掃された。
ほんの数秒で攻撃を仕掛けた側が跡形もなく消滅するという異常な事態。足止めの役割すら果たせなかったオーガ達には目もくれず、俺たちはメインシャフトへと飛び込んだ。たった一人で縦坑の最奥に辿り着いていたゴーラ・ファンの顔が俺たちを確認し、不敵な笑みを浮かべているのが判る。
「まさかそこまでの腕利きとはな。人間よ、墓碑に刻むべき名を名乗れ!」
ルーが風を自然に戻したために、メインシャフトを上ってくる悲嘆を含んだ風に混ざってゴーラ・ファンの誰何の声が届いた。
「貴様などに名乗る名は持ち合わせていない!」
自らの声を追うようにメインシャフトを降下する。自由落下ではなく飛翔呪文の移動速度を利用した最大速度。だがゴーラ・ファンは臆せずに頭上の俺たちを仰ぎ見、徹底抗戦を宣言した。
「強大なゴーラ・ファンの前に震えおののくがいい! たとえ神ですら抗うことは出来ぬ!」
ゴーラ・ファンの強気な言葉は即座にその効果を発揮した。まさに俺たちが呪文の射程に不遜なオーガ・メイジをおさめた瞬間、全身を覆っていた秘術の、信仰の、さまざまな呪文効果が消失──いや、抑止されていく。落下中に飛翔呪文の効果を失った俺たちにはその勢いのまま地底へと叩き付けられる未来が待っているかのように思えた。それはメインシャフトに開いた側道、そこから俺たちを見つめる巨大な異形の瞳によるものだ。
ビホルダー。D&Dを代表するクリーチャー。巨大な単眼の頭部だけがゆらゆらと空中に浮かび、その頭皮には髪の毛に代わって10本の触手が生えている。さらにその触手の先端には小さな眼球がはまっており、それぞれが異なる疑似呪文能力を有している──だがそれらに優る有名な能力はその中央の巨大な単眼から放たれる《アンティマジック・フィールド》の領域だ。その瞳に捕えられたあらゆる魔法的効果は、同名の呪文の効果範囲に収められたかのように抑止される。
シャーンの地下で遭遇したチラスクは失った眼球に変わりにこのビホルダーの単眼と同じ作用を有する魔眼を移植していたが、本物のビホルダーに遭遇したのは俺にとってはこれが初めてだ。幸いなことに床に激突する直前にビホルダーの視界から離れたことで《フライ》の呪文が再起動し叩き付けられることは避けられた。だが急降下からの自由落下、そこからの急制動で俺たちの動きは停止する。そこに目がけて天井が落ちてきた!
正確には天井と見まごうほどの巨大質量の落下だ。ゴーラ・ファンがその特殊能力で自らの肉体をガス化して空中に溶けるのと時を同じくして、超巨大なブラック・プティングが落下してきたのだ。本来であれば宮殿の取水口近くや地下坑道の一部にいるはずの粘体達、その全てが合体したのだといっても信じられる大質量は大型プールをひっくりかえしたかのような規模だ。メインシャフトの最下層は完全に隙間を無くすほどの粘体に埋め尽くされ、俺たちはその波に飲み込まれた。
通常であれば粘体に纏わりつかれたとしても、《フリーダム・オヴ・ムーブメント》の効果により即座に離脱することが可能だった。だが、今この場にはその能力は無効化されている。ウーズたちが落下してきたその後に、側道にいた先ほどのビホルダーがメインシャフトへと移動するとその中央の瞳で俺達を睨みつけたのだ。
それは離脱のための呪文だけでなく、酸から身を守るための防護の呪文をも抑止している。かつて見たことがないほど巨大化しているこの年経たブラック・プティングを構成する酸が俺たちの肉体を焼き尽くすまで、そう長い時間は掛からないだろう。特に術者であり打たれ弱いメイなどは数十秒で命の危機に陥るだろう。魔法が抑止された状況でこの圧倒的質量に対処し、早急に脱出しなければならない。だが勿論、ゴーラ・ファンも悠長にそれを眺めているだけではない。
「男の頭部は残せ、イスサランへの土産としてくれよう──よく狙えよ!」
ガス化して側道へと逃れたファンが実体化して指示を下すと、暗闇から突如彼の周囲へとロイヤル・ガード達が現れた。ニンジャの能力の一つ、幽遁の術により自らの肉体をエーテル化し坑道の壁を抜けてきたのだろう。黒いマスクで顔の下半分を隠したバグベア達はぬらりと粘性の液体を塗られた手裏剣を手に構えている。身動きの取れないこちらの急所に毒をぶち込もうというのだろう。
こちらの間合いに踏み込まないのは万が一の逆襲に備えてのことか、あるいは粘体の触手に巻き込まれないようにするためか。精神をもたない捕食本能のみのクリーチャーであるこのプティングに狡猾な行動をとらせたところから、おそらくこの粘体は《ウーズ・パペット/粘体操り》の呪文で支配されているのだろう。粘体を念動力で操るマイナーな呪文だ。今はビホルダーのアンティマジック・フィールドに抑止されているため、不用意に近づけばバグベア達もが捕食されるということなのだろう。
だが投擲に移ろうとしたバグベアの背後の坑道の壁から、さらに現れた影が状況を変えた。それはバグベア達とは別の術理により壁を透過する能力を有するラピスだ。彼女は落下の勢いのまま床に透過するとそのまま側面に回り込むとゴーラ・ファンの背後へと回り込んでいたのだ。
「頭部は残せ、か。ならばそうしてやろうじゃないか」
彼女が両腕を振るうとその袖口からスローイング・ナイフが飛び出した。その数は15。それらは彼女の精密な《テレキネシス》の制御によって坑道を飛翔し、バグベアらの延髄へと突き刺さる。そしてそれをトリガーに内部に蓄えられていた呪文が起動。炸裂した《オーブ・オヴ・フォース》はバグベア達の首を弾けさせ、まるで人形遊びのようにロイヤル・ガードの頭部が胴体から切り離され舞い上がった。その死体の林の只中に立ったライカンスロープの少女が笑う。
「さて、せっかくだからリクエストにはしっかりと応えてやりたいんだが──お前は駄目だね、頭しかないんじゃ後には何も残らないな」
マジックアイテムのブーストにより立て続けに《テレキネシス》が発動され、今度はバグベアの持っていた手裏剣達が宙を舞った。浮遊する巨大な眼球の暴君は空気を震わせる奇怪な音を立てながらその身を捩るようにしてその瞳に飛来する凶器を捕えようとするが、手裏剣達は魔法抑止空間を踊るように避けるとその発生源であるビホルダーへと殺到する。
触手の先についた小さな瞳が放つ《ディスインテグレイト》や《スコーチング・レイ》の呪文攻撃を掻い潜り、手裏剣達はその触手を刈り取った。回転する刃が頭皮に突き刺さり、根元から触手を切断していく。10を数える触手は瞬く間に剥がれ落ち、それでもなお残る手裏剣達が中央の瞳へと叩き込まれた。異形の瞳から力が失われ、俺たちの体が自由を取り戻す。
まさに一瞬の蹂躙だった。思い出したかのようにバグベアの胴体がその切断面から噴水のように血を吹き出し、倒れ伏した。手裏剣を突き立てられたビホルダーは塗りこめられていたのが耐久力を直接削るワイヴァーンの毒だったのか、切断面から体をどんどんと崩していく。力を失い落下してきたそれは、ブラック・プティングの触手に捕食された。
「見事だ、が詰めが甘いな小娘! じわじわと体の末端から溶けていく恐怖を味わうがいい!」
7体のバグベアに2本ずつのナイフが投じられ、最後の1本はゴーラ・ファンへと向けられていた。だがその1本に込められていた呪文は攻撃のものではなく、かのオーガの逃走を防ぐ《ディメンジョナル・アンカー》が封じられたものだったため彼は生き延びていた。いくら急所を狙ったとはいえ、小さな投げナイフ1本が刺さっただけではオーガの首領を無力化するには至らなかったようだ。
ゴーラ・ファンの背後からさらにもう1体のビホルダーが現れたのだ。ゲームではクエストオプションにのみ痕跡を残す、実装されなかった2体目のアイ・タイラント。それが絶妙な距離と間合いでラピスの魔法的加護を無力化し、ゴーラ・ファンはブラック・プティングに彼女も飲み込ませようと指示を飛ばす。
しかしその念動力は行き場を失う。巨大なブラック・プティングは内部からの攻撃により破砕され、水飛沫となって飛び散っていったのだ。結合を失って溶け崩れた大量の液体が地面に転がったバグベアの頭と胴体を押し流していく。低きへと流れたそれは大半が溶岩だまりへと落下すると蒸気となって消える。
「馬鹿な!」
今度こそゴーラ・ファンはその顔を驚愕で歪めた。最大限度を超えて強大化していた粘体が一瞬で破壊されたことが信じられないのだろう。リランダー氏族のテンペストにも勝るとも劣らぬほどの莫大なヒットポイントを有しているはずのブラック・プティングに彼は相当の自信を有していたようだ。だが竜の秘術によって強化された俺の拳は巨人をも超える打撃力を誇る。しかも密着しており回避するなどという考えのない相手であれば最大限に威力を重視した攻撃を打ち込むことが出来る以上、仮に1000点程度のヒットポイントであっても葬るまでは一瞬だ。
そして俺の攻撃はそれで終わりではない。プティングを粉砕した攻撃の流れを止めぬまま、無銘のジャベリンを構えるとそれを投擲した。バーバリアン・レイジで強化された筋力によって目にもとまらぬ速度で打ち出されたそれは、ゴーラ・ファンの顔を掠めて奥へと飛翔。ビホルダーの中心へと突き刺さるとその体を破裂させた。
そして頬から血を流したゴーラ・ファンへと、エレミアとフィアが切りかかる。二人の剣はオーガ・メイジを挟んで鏡写しのような軌道を描き、その四肢を切り飛ばした。オーガ・メイジは火と酸以外による傷口を再生する能力を有してはいるが、それは欠損した部位を補うほどのものではない。たとえば首を落とせば10分ほどで死亡するし、ちぎれた四肢を繋ぎ合わせても使い物になるまでに1分ほどは必要だ。通常の戦闘であれば強みと言える能力なのかもしれない。だが今やその能力はこのオーガ・メイジの苦しみを長引かせるだけの存在に過ぎない。
「さあ、お前の叫び声を聞けば飼い主のタコ共は現れるのかな?
──ああ安心しろよ、お前は頭部だけじゃなく首と肺までは残してやるよ。声を出すには必要だろう?」
達磨になって転がったオーガの首領にナイフを突き立てながらラピスは残酷に告げる。故郷を失った経緯からか、カイバーに連なる存在に対しては冷酷をやや通り越した態度となる彼女だがそれは愉悦のためではない。取れる手段をすべて取らなければ、取り返しのつかない事態となりうる相手であることを充分に認識しているためだ。
シュリーキング・マインと呼ばれた鉱山に再び悲鳴が響く。それはかつてのようにワイルドマンのものではなく、支配者であったオーガのものだ。壁に埋まった小さなクリスタルは分け隔てなくその声を反響させては風に乗せて地上へと送り届けるのだった。