スカイフォール半島の空には珍しく、雲ひとつ見当たらない夜空。俺たちは行きと同じように幻馬に跨り、帰還のために移動していた。空の中央には天の川のかわりに黄金の道──"シベイの天輪"が走っている。今は薄ぼんやりとした金の光の集合に見えるが、冬至に近づくにつれてその光は細さと鋭さを増していくのだという。
その向こう側には12個の月が浮かんでいる。今見えているのは4つほどだが、あるものは満月であり、あるものは三日月、またあるものは遠すぎて星のようにしか見えない。今最も大きく見えているのは"ドラヴァゴの月"だ。晩春を司るこの暦の名ともなっている月は"調教のマーク"と縁深いと考えられており、この一ヶ月は家畜の多産を祈って各地でヴァダリス氏族の催しが開かれているらしい。
そんな月達の、さらに遥か向こうに星々が見える。天輪や月の隙間を埋めるように様々な色彩の光が放たれ、この大地を照らしている。そのうちいくつかは伝説のドラゴンの名を冠した星座を構成しており、その11の星座はアルゴネッセンのドラゴン達に神として崇められているそうだ。
こうして見えるそれらの星々は、ルーが言うには始原の竜シベイがこの世界に開けた"穴"らしい。その穴はこことは異なる世界へとつながっており、彼女たちもかつてその穴を通ってこの大地に降り立ったのだと。
そして同じようにこのエベロンに降り立った存在の中には、邪悪なモノも当然含まれていた。異世界で権勢を振るう悪の神々の化身"アヴァター"は自らの部下を率い、その本能に従って血みどろの争いを繰り広げた。これが黎明の世界、"フィーンドの時代"──今から1千万年も昔のことだ。既に人間やエルフといった人型生物もその当時存在してはいたが、彼らはまるで神のような者達が戦う中で巻き込まれぬように逃れ、生き延びるための道を見つけることに精一杯だったという。
だが上帝達の戦いは終わらない。写し身に過ぎない彼らはたとえ一時滅ぼされたとしても何度でも実体を取り戻し、蘇るからだ。コーヴェア大陸だけではなくゼンドリックまでもがラークシャサやナイト・ハグが闊歩する暗黒の世界となり、無限の悪の円環はやがて世界を覆い尽くすかのように思われた。
その闘争の時代に変化が訪れたのは今より150万年ほど前のことだ。フィーンド達の支配から逃れてアルゴネッセン大陸に引き篭っていたドラゴン達の元へ、光り輝く蛇──"コアトル"が現れた。シベイとエベロンの子である彼らは手を取り合ってフィーンドと戦い、やがてコアトルがその身を白銀の炎に転じ、星の光届かぬカイバーの奥深くへ上帝達を封じたことで"フィーンドの時代"は終わりを告げた。
悪神だけではなく、彼らと敵対する善や中立の神もまたこの世界には注意を払っていたのだ。シベイの欠片から生まれたコアトルはその身に始祖竜と同質の力を宿していた。それによりコアトルはその身を媒介にそれら異界の神の化身を降ろし、デーモンロード達と戦い、最終的には彼らを封じたのだ。ルー達はその暁の戦争のおりにコアトルの要請に応じて異世界より渡ってきた善の神の化身を奉ずる一族なのだという。
つまり彼女たちはこの物質界"エベロン"の存在ではない。だが俺とは異なり彼女たちはこの世界に留まることを選択している。帰還の手段が手の届かないものであるということとは別に、この地にこそ彼女たちの使命があるのだから。
翻って俺はどうか。この数多輝く星の中から目的となる"穴"を特定し、そこにたどり着くための手段を創りだすことが出来るだろうか。巨人文明の残した天文台には心当たりがある。だがあれは主にこの物質界に近い位置にある外方次元界──月──に焦点を当てたものではなかったか。竜の大陸アルゴネッセンには星の研究を行う施設はあるのか? コーヴェアにあるスターピークス・アカデミーはどの程度の研究を行っているのか?
ひょっとしたらまずはルー達の部族に伝わる伝承を求めて、彼女たちの故郷に向かうべきかもしれない。"黄昏の森"ラマニアがエベロンに接近するまでにはまだ1年近い時間があるが、世界には一部の次元界と接触を続けている特異点──顕現地帯が存在する。例えばシャーンは"紺碧の空"シラニアの顕現地帯であり、その次元界の特異な性質が物質界に影響をあたえることで塔を空に浮かべるような技術が可能になっているのだ。
そういった顕現地帯を利用することで、この物質世界"エベロン"から離れ隣接する次元界へと訪れることが出来る。異界の旅路は勿論、かなりのリスクを伴う。それはこのゼンドリックを旅すること以上に危険だろう。だが、それだけにこの物質界に留まっていては得られる成果を期待できることも確かだ。危険と期待、その双方が乗せられた天秤を揺らしながら俺は思索を続ける──。
終わりの見えないその思考は、突然の外部からの干渉で中断させられることとなった。肩を捕まれ揺さぶられる感覚。思わず姿勢を崩して手綱を手放しそうになるが、鍛えられた平衡感覚は反射的に体のバランスを取り戻す。
「トーリ、大丈夫か? ずいぶんと考え事に集中していたようだが、もうじき目的の砦に到着だぞ」
俺を揺さぶったのはエレミアだった。高空を高速で駆けている幻馬でこんな間近まで並走させるとは見事な手綱さばきだ。そしてそんな彼女の接近に気付かなかったとはどうやら俺は随分考え事に没頭していたようだ。だがその事に対する反省はどうやら後回しだ。目的地が迫っている。
彼女の指差す方向を見やると、漆黒の闇の絨毯にように見える密林の中に仄かに薄明かりを放っている場所がある。秘術技師達が創りだした人工の"熱なき光"が闇を切り取っているのだ。ストームリーチとレッドウィローの遺跡の丁度中間点に位置するストームクリーヴ・アウトポスト。ゼンドリック大陸における人類文明圏の最前線だ。
コーヴェア大陸から見て、ゼンドリック大陸から突き出した小さな半島のおよそ四分の一を進んだところに築かれたこの砦だが、今まで幾度も巨人族に奪われ奪い返しという激しい闘争の歴史を繰り返している。大陸全体の面積で言えば5%にも満たない北の僻地が、人類がこの200年で確保したこの大陸での勢力圏なのだ。
勿論ファルコーのように氏族の後援を受けた命知らずたちはその先の未開地域へと積極的に探索を行なっているし、この防衛線の先にも"ラスト・チャンス"と呼ばれる人口50名にも満たない共同体などが存在している。だがこの境界線の前後では、付きまとう危険性は大きく跳ね上がる。それは砦に詰めているデニス氏族の守り手たちが敵対的な巨人などが警戒網をすり抜けるのを監視してくれているからだ。
俺たちはこれからその砦に立ち寄ることになっている。ファルコーがストームリーチに置き去りにしていた遺跡発掘の本隊が、そろそろこの辺りに到着しているのではないかという話があったためだ。
「そうだな、それじゃそろそろ地上に降りるか。空からいきなり飛び込んだら敵襲だと勘違いされるかもしれないしな」
そう言って皆を振り返り、腕から先を使って降下のサインを送る。その合図を受けて皆の幻馬も徐々に高度を下げ、地表近くまで降り立った。ファルコーも危なげなく手綱を捌いて追従してきている。彼は自分の体ほどに大きな容器を背中に括りつけ器用に空飛ぶ幻馬に跨っているのだが、そんな状態にも関わらず全くの平静だ。やはり日頃から危険地帯での探索を繰り返しているだけあって様々な経験を積んでいるのだろう。そんな彼は砦近くの見張り櫓が見える距離まで来た所で俺の方へと馬を寄せてきた。
「トーリ、いきなり近づくよりも合図を送ってからのほうがいいだろう。私が利用している時に使っている符丁のようなものがあるから投光式のランタンを一つ貸してくれないか?
うまく事が運べば私達が本営に到着する頃には温かい食事と上等なベッドが準備されているかもしれないぞ。何しろここの司令官には日頃からたっぷりと鼻薬を効かせているし、私の発掘隊がここで下ろしていく酒や嗜好品の類は末端の衛士たちにも人気が高いからな」
どうやら彼は探索の際に部隊を率いてこの砦を通過するたびに司令官への付け届けを行なっていたらしく、知己というに十分な関係を築けているらしい。またその際に細かな嗜好品などを衛士たちにも配っていて、末端まで彼のことは知れ渡っているんだとか。確かにこのような最前線まで物資を運ぶのはそれなりのコストがかかるため、武装物資や生活必需品以外の供給は不足しがちなのだろう。彼はそこをうまく利用して上手に立ち回っているようだ。
ファルコーは馬から降りてランタンに火をつけると、見張り櫓に向けて何度か光を明滅させた。おそらくはモールス信号のようになんらかの意味を持たせた記号なのだろう。だが、いつまで経ってもそれに対する反応が返ってくることはなかった。
「……おかしいな。夜更けとはいえ交代の見張りはいるはずだが、まったく反応がないというのは考えにくい。あそこの砦に限って見張り番が眠りこけているなんてことはないはずだが──」
ファルコーは首を傾げながら不審げにそう呟いた。どうやらきな臭い展開になってきたようだ。再び彼が騎乗するのを待って、警戒態勢を取りながら全員で櫓へと向かう。密林を切り開いて走る踏み固められた道の向こうに"コンテニュアル・ライト"で照らされた建築物が浮かび上がっている。道を塞ぐように大きな門を構えた壁が立っており、その上には見張り櫓が設けられているのだが……こうして近づいてみても、櫓に人影は見つけられない。
幻馬の手綱をとって櫓の方へと空から接近するが、この櫓が無人なのは間違いないようだった。だが室内の様子などから判断するに、ここが放棄されてから長い時間は経過していないことが見て取れる。階下の待機室などを調べてきたラピスが言うには、少なくとも一日以内には人が居たようだが争った痕跡はなく、おそらく何らかの事情があってこの拠点から全員が移動したのだろうということだ。
その報告を裏付けるように、視界の隅に赤い炎が踊った。櫓が塞いでいた道の先、砦が構えられている山の稜線が燃え上がっている。そして変化はそれだけでは終わらなかった。先ほどまでは満天の星空だった頭上が分厚い雲に覆われ始めたのだ。どこか緑がかった不気味な色合いをしたその雲はこの砦近辺を含む山岳地帯を覆うようにあっという間に広がった。そして山肌を覆っていたゼンドリック特有の肥沃な緑が瞬く間にその色合いを失っていく。
自然の力に溢れていた山々は灰色の汚泥に覆われ、枯死した木が立ち並ぶ死の領域へと変貌した。足元を覆っていた草木はまるで灰のように生気を失い、谷底に走っていた川の流れは蒸発し変わって地の底から溶岩が溢れ出した。風は清涼さを失い硫黄の匂いを含み始め、突如の環境の変化に驚きを隠せない。交易路や砦などは環境の変化に影響されぬよう、"変幻地帯"からは離れているものだが……。
「強力な死霊術が自然の諸力をねじ曲げている──」
ルーが遥か彼方を見つめて呟いた。その視線の先には時折赤い光が炸裂するように輝いている。おそらくは強力な魔術を用いた戦闘が行われているのだ。この砦に駐屯していたデニス氏族の衛士達が侵略者の軍勢と戦っているのだろう。この環境の変化も敵の軍勢と何か関わりがあるのかもしれない。
「巨人どもだ! あのウスノロ達の軍勢が攻めてきたに違いない!」
ファルコーはそう言うと幻馬を飛び立たせようとしたが、俺は咄嗟に反応すると彼の襟首を掴んでハーフリングが飛び出すのを防いだ。幸い俺が彼の近くに居たから反応が間に合ったものの、危ないところだった。護衛対象が戦争の真っ只中に突っ込んでいくなんて考えたくもない事態だ、このハーフリングには自分の立場というものを自覚して貰う必要がある。
「待つんだファルコー、どこに行くつもりだ? 貴方の護衛を任されている立場としては、勝手な行動をさせる訳にはいかない」
だが平静を保って話しかけた俺に対し、ファルコーはがなりたてるように叫んだ。
「あの赤い炎には見覚えがある、かつて巨人共がストームリーチに攻め寄せたときに街を焼いた"メイジファイアー・キャノン"だ!
あの邪悪な赤い光が煌くたびにこの砦を守ろうと戦っている衛士の命が散らされているんだ、それを黙って見ている訳にはいかない!」
この小さな体のどこにそれだけの闘争心を秘めていたのか、手を離せば今にもあの戦場に突っ込んでいきそうな勢いだ。だがせっかく達成間近だった依頼をこんなところでこの男に暴走されてフイにするわけにはいかない。不意に得た帰還手段に関する情報に集中していたが今の俺たちはこの男の護衛中なのだ。だが何故か巨人たちに異常な敵愾心を見せるこのハーフリングに大人しく街に帰れといっても聞き届けてくれそうにない。
「ちょっと前に言ったことを忘れたのか、ファルコー。それは貴方の仕事じゃないだろう?
巨人族の相手は俺たちがする。だが、面識もない俺達がいきなり突っ込んでも却って邪魔することになりかねない。貴方には俺たちとデニス氏族の橋渡しをお願いしたい」
手を離しつつ語った俺の言葉にファルコーはその小さな瞳を目一杯広げると、我が意を得たりとばかりに頷きを返した。
「任せておけ! ここに詰めている衛士であればほとんどの連中とは一緒に酒を酌み交わしたことがあるし、私のことを知らない奴はいないはずだ。
だから頼む、一人でも多く彼らを助けてやってくれ!」
ファルコーは心の底からそう願っているようだった。搾り出された声には力が籠っていたが、それよりもさらに重い心が乗せられていた。俺たちは勿論その気持ちに応えるべく、再び幻馬を天へと駆け上がらせるのだった。
ゼンドリック漂流記
5-6.ストームクリーヴ・アウトポスト1
駆けつけた戦場では、眼下に悪夢のような光景が広がっていた。人間であれば力持ちの前衛が両手を使ってようやく振り回せるであろうサイズの斧を、まるで細剣を振るが如く両手にそれぞれ構えたミノタウロスの狂戦士がデニス氏族の衛士を蹂躙している。
隊列を整えて後退していた衛士の集団に向かって地響きと共に突進してきた巨体の戦士はその角を犠牲者へと突き立てる。薄布のごとく鎧を突き破ったそれは背中から腹へと突き抜けた。その感触に満足いったのか、哀れな犠牲者を突き立てたまま牛頭のモンスターは頭を振り上げて雄叫びを挙げた。
頭上に持ち上げられた死体は胴体に開いた穴から盛大に血を振りまき、それをシャワーのように頭から浴びるミノタウロスはその凶相を歪め口の周りの返り血を大きな舌で舐めとった。血と臓物が振りまく匂いが狂戦士をさらに興奮へと誘う。
彼らが斧を振るうとまるで枯れ草のように衛士の肉体が切り裂かれた。バケツからぶちまけたような勢いで血が飛び散り、こぼれ落ちた臓物と肉片は踏み躙られて地面の染みと化す。味方を逃すために殿を買って出た衛士が決死の覚悟で立ち塞がるも、吹き荒れる暴力という強風の中では綿毛ほどの重さもない。鎧や盾の有無など関係なく、立ち塞がる全てを狂戦士は破砕していく。
ミノタウロスの数は2体。だがそれは人間からなる中隊を粉砕するのに十分な戦力だった。口から涎を溢れさせながら暴れ狂うその姿は狂犬病に罹患した獣のようだ。彼らは中装で身を包んだ衛士達よりも遥かに早く動きまわる。分厚い金属製の鎧を身に着けているにも関わらず、その重さを毛程も感じさせないのはその巨体を支えて余りある鍛えられた筋肉の為せる業か。そしてその怪力から生み出される破壊力は人間を木の葉のように吹き散らすのだ。
「持ちこたえろ! もうすぐセントラルブリッジが見えるはずだ、あそこを渡れば本隊と合流できる!」
最後列で衛士たちを励まそうと声を上げる壮年の男性が迫るミノタウロスに向けて腰に下げていた革袋を投げつけた。半牛半人のモンスターの外皮に命中したそれは、衝撃で結わえられていた口を緩め内容物を吐き出す。白い液体は大気に接触するや否や膨張すると同時に粘度を増し、対象の肉体に絡みついて動きを束縛する。錬金術師が創り上げた粘着弾──通称"足止め袋"だ。
「今だ、全員振り返らずに進め! コマンダー・アグリマーに作戦の失敗を伝えるんだ!」
そう言ってその男は一人振り返り、片手に剣を構えた。粘着弾に足止めされたミノタウロスの後ろから、同じように斧を構えたもう一頭の牛頭の怪物が姿を表す。その身の丈は3メートルを越え、だらし無く開かれた顎は人間の頭を丸囓りするのにちょうどよさそうな大きさだ。男が大げさにレイピアを振り回すと、狂乱状態にあるミノタウロスは簡単に意識を誘導され目の前に獲物に釘付けになった。
掠めただけで死を呼び込む大斧の斬撃を男は紙一重で回避すると、身の軽さを活かして周囲に転がっている石壁に見を隠した。古代巨人族文明の時代から残り続ける巨大な黒曜石はさぞ頼り甲斐がある防壁に見えたことだろう。だが、直後にその考えが甘いことを知ることになる。ミノタウロスがもう一方の手に持った大斧を力任せに振り回し、硬質の物同士が激突する甲高い音を発したかと思うとその分厚い壁をも一撃で両断せしめたのだ。そして男の不幸はそれで終わりではなかった。先ほど粘着弾を打ち込んだミノタウロスがまとわりついていた接着剤を振りほどき、自由の身になったのだ。
「糞が、俺の給料二ヶ月分だぞ! インチキ錬金術師め、粗悪品を掴ませやがったな。ドルラーから祟ってやる!」
石壁が切り裂かれたことで最早彼の身を守る物は無い。先ほどの力任せの攻撃を回避されたことで評価を改めたのか、ミノタウロス達は持ち手を確かめるように斧を構えなおして男を両側から挟みこむように間合いを詰めた。狂乱状態にあるといっても戦闘の巧緻を失っているわけではない。呪文を使用するなどの繊細な精神集中が行えないだけで、敵を打ち倒すためにむしろ意識は研ぎ澄まされているのだ。そして振りをコンパクトに抑えた斧による斬撃が繰り出される。抑えたといってもそれは人間の五体を切り裂くには余りある威力だ。刃先が大動脈を掠めれば伝わる衝撃だけで心臓に破滅的なショックを与えるだろう──だがそんな未来が訪れることはなかった。
「──吹き飛べ」
天高く幻馬の上から状況を視認した俺が咄嗟に発動した《ディメンジョン・ドア》は200メートル以上の距離を一瞬でゼロにする。今まさに男に対して襲いかからんとしていたミノタウロス達の隣に移動すると連中の姿勢を足払いで崩し、さらに相手の体の支点を中心に払いをかけることで彼らが攻撃に費やそうとしていた運動エネルギーを転化させる。それにより二体のミノタウロスは自分が振るった斧の勢いをその身に返されて縦方向にぐるりと回転した。彼らからしてみれば突然天地が逆さまになったように見えるだろう。同時に叩きこんだ”朦朧化打撃”により、さらに大きく口を開けた間抜けな表情が俺の視界にも逆向きに映っている。そして勿論俺の攻撃はこれで終わりではない。かつてエルフの魔剣士に打ち込んだ連撃が、今度は手加減抜きで炸裂する。
打ち込まれた拳はミノタウロスの体を覆っていた板金を撃ちぬいて外皮を貫き、骨を砕き、内臓を破裂させる。さらに拳に巻きつけた魔法布からは彼らの種族である"人怪"に対して破壊的な効果を発揮するエネルギーが送り込まれた。左右の敵それぞれに三発ずつ、しっかりと全てが急所へと叩きこまれたことで彼らの体の回転速度はさらに加速され、再び地面へと落下した時には彼らは体中の穴という穴から大量の血を吹き出して絶命していた。気配から察してはいたがやはり同じ種族とはいえゼアドほどの戦士ではなかったようだ。彼であれば例え死ぬほどの攻撃を受けたとしても、その激情が尽きるまでは戦いを止めるような事はなかっただろう。
「間一髪だったな。時間を稼いでくれた錬金術師の作品には感謝したほうがいい。あれは人間相手ならともかく、大型の連中相手に使うものじゃない」
背中越しに生き残りの男に声をかける。彼は突然現れた俺の事に戸惑っているのか、一呼吸ほどの間は片手に握った剣の矛先に悩んでいるようだった。だが周囲に転がることになったミノタウロスの骸を見て判断を決めたのか、その剣先を下げて言葉を返してきた。
「助けてくれたのか? ありがとう、助けを寄越してくれたソヴリン・ホストの神々に感謝だ! 勿論あんたにもだぜ、ヒーロー。ストームリーチの酒場で会うことがあったらとっておきの一杯を奢らせてくれ」
ふう、と男は息を吐いた。そちらを見ていなくとも彼の体に張り詰めていた緊張感が抜けていくのが判る。だが俺はそんな様子の男を嗜める。
「礼を言うのはまだちょっと早い。連中の増援がすぐそこまで来ている、走れるか? だったらセントラルブリッジとやらに直ぐに向かうんだ」
強化された俺の視覚には、雲越しの微かな月明かりにうっすらと輪郭を浮かばせた敵増援の姿が見えている。ここでこのまま待っていれば間もなく接敵するだろう。今はまだ相手にも気付かれていないようだが、時間の問題だ。
「あ、ああ。あんたのお陰で傷一つ無いさ。それじゃ俺は行くが、あんたはどうするんだ?」
男の問いかけに俺は背中越しに手を振って応える。
「俺はもう少しここで足の早い連中を削っておく──そういえばあんたの部隊が最後尾なのか? まだこの先に逃げ遅れている部隊は残ってるのか?」
肝心のことを確認するのを忘れていた。もし生き残りがいれば救えるかもしれない。
「──ああ、俺が最後だ。ここから先には誰一人として生き残っちゃいない。皆あの巨人共に食われちまったよ」
しかし男からの返答は非情なものだった。比喩的な表現なのかもしれないが、それにしても先ほどまでは己の生存を喜んでいた表情を一気に曇らせてしまったことで、どれだけ凄惨な出来事があったのかは想像に難くない。
「そうか……判った。それじゃ、また後でな」
そうやって最低限の確認事項を交わした後、走り去った男と入れ替わるように敵の増援が現れた。闇夜の大地に溶けこむような黒い毛皮に身を包んだ獣が、四足特有のスピードでこちらの方向へと向かってくる。その後ろには先程のミノタウロスに並ぶほどの巨体のトロルの姿も見える。どうやら嗅覚に優れた連中を追跡部隊として編成しているようだ。
そうなると先ほどのミノタウロスは遊軍だったのだろう。それに補足されたあの部隊は運が悪かったのか、それともそれだけ多くの数が遊軍として散会しているのか。そんなことを考えながら今度は武器を取り出す。2本のシミターが虚空から出現し、俺の掌に収まる。その刀身は強力な魔法の炎に覆われており、闇夜を赤い光で照らし出した。この夜の帳の中では随分と目立っていることだろう。それを視界に収めてか、獣達が一直線にこちらへと向かってきた。
四本足とはいえ500キロを超える自重を支える足はいずれも太く、彼らが地面を踏みしめるたびに鈍い音が周囲に響いている。狼の巨大種が邪悪な性向に転じたこの"ウォーグ"という魔獣は個体によっては共通語を話すほどの知性を有し、時折他の悪性の種族に乗騎などとして仕えることもあるという。おそらく今は巨人たちの走狗として働いているのだろう。その赤い瞳がお互いの距離が縮まるにつれ、どんどんと大きくなっていく。勿論彼らは炎を恐れるようなことはなく、猛然とこちらへ襲いかかってきた。
先頭を駆ける一体はこちらの間合いに入る直前で急に飛び跳ねるようにして進路を変更し、ぐるりと迂回して俺の後ろへと回り込んだ。そしてその影に隠れていた二体目が距離を詰め、俺の喉笛へと食らいついてくる。当然後ろに回った一体も俺の足首を狙っており、前後だけではなく上下にも攻撃を散らした挟撃の形をとっている。だがこの攻撃はその全てが陽動だ。彼らの本命は2体目の影にさらに隠れている3体目だ。おそらくはこの2体の攻撃に俺が対処した後の隙を狙おうというのだろう。
陽動の二体の攻撃についても注意深く観察すればその四肢にはまだ余力が蓄えられており、俺がいざ反撃に転じたときには素早く身を翻して離脱しようとしていることが見て取れるはずだ。だが俺はあえてその誘いに乗ることにした──ただし、相手の予想を遥かに上回る速度で。
時計回りに体を捻る。右手のシミターが切り落としの軌道を描いて下方へと振り下ろされ、対して左手のシミターは外から内へと横一線に薙ぐように振るわれた。体重の乗らない、肩から先だけで振ったような攻撃であるがそれだけにその初動は不可知で速度は速かった。そして魔法により切れ味を増したシミターにはそれで十分だったのだ。回避する暇を与えずに刃は獣の外皮を断ち割って切り進み、体幹半ばまで埋まった切っ先はそこで込められた魔法のエネルギーを炸裂させる。純粋な善性のエネルギーが炎と同時に暴れまわり、悪に堕ちた生物の肉体を焼き焦がす。
黒の獣はまるで特大の松明のように燃え上がると周囲を照らした。勿論その範囲中には3体目のウォーグが含まれている。俺は左腕の振りに合わせるように体を半回転させると、その獣に対して後ろ回し蹴りを放つ。目論見が外れたことで反応が鈍っていたためか、狙い通りに決まった蹴りは獣の顎を砕いた。そして攻撃を受けたことで横たわり、無防備に晒された腹部目掛けてシミターの追撃を見舞う。瞬く間に燃え尽きた先ほどの松明と入れ替わるように新たな光源が生まれ、遅れてこちらに近づいてきたトロル達に俺の存在を知らせる。
「お前の骨髄でシチューに美味い出汁が出るぞ!」
「脳みそは冷やしてシャーベットだ! 耳や指は生きたまま千切って踊り食いだ!」
夜の闇から現れたトロルの狩人は、いかにもな台詞を巨人語で言い合いながら近寄ってきた。ウォーグたちが瞬く間に屠られたにも関わらず、自分たちの優位をまるで疑っていないようだ。実は知力と呼ばれる学習力、論理的思考力においてトロルはウォーグと同程度でしかない。おそらく今まではその生来の能力に任せた蹂躙戦ばかりで、死線を潜ったことがないのだろう。その脳天気な様子は今の俺にとっては格好の獲物にすぎない。
「──運が悪かったな。せめて苦しまないように逝かせてやるから、俺の糧になってくれ」
そう、この戦場は今や俺の狩場だ。俺が帰還の手段を探るにはもっと力が必要だ。人間社会の間であれば金銭だけで事足りるかもしれないが、この大陸の失われた文明の遺産を探索し、異なる次元へと渡り歩くにはまだまだ実力不足と言える。未開の地や異界には常識の範疇に収まらない化物が住んでいるものだ。そういった連中と渡り合い、目的を達成するにはもっと経験を積む必要がある。
今の俺にとってこの敵の軍勢は丁度よい経験点稼ぎの対象となってくれるだろう。二刀を握る掌に力を込め、俺は近づいてきた巨人たちへとその足を踏み出すのだった。