全身が押し潰されそうになる圧迫感。布製とは思えない強度を誇る竜紋の刻まれたローブと装備が形成する反発の力場がある程度を緩和してくれているものの、指一本動かす隙間すらない。
敵の狙い通り生き埋めにされてしまった俺は大型の瓦礫の落下によるダメージこそ受けなかったものの、崩落した建造物に巻き込まれて身動きが取れない状態に陥っている。
瓦礫の隙間を縫って押し寄せた土砂により呼吸することも出来ず、口を開けば空気ではなく砂を噛むことになるだけだ。このままだと圧死なり窒息死なりは免れないだろう。
ブレスレットから転移の巻物を取り出そうにも、アイテムを出現させるスペースが無ければ無理のようだ。例え巻物を取り出せたとしても読むために広げる隙間もないのでは意味が無いだろうが。
不幸中の幸いか、シャドウによる追撃は行われていない。あの触手を生やした異形の主共々、撤退してくれたようだ。
今の自分が埋れている位置は上側のフロア、正面の入口から真っ直ぐ進んだ突き当たりに近い位置だ。出口までの距離は50メートルといったところか。
俺は意を決すると音声と動作を省略した《ディメンジョン・ステップ》の呪文を行使した。今の俺の実力ではこの呪文で跳躍可能な距離は10メートルほど。
無論出口まで辿り着くことは出来ず、かつて廊下があった部分を占めている瓦礫に重なるように転移することになる。
自分が別の物体と重なることで全身に違和感、続いて体がバラバラになるような痛みが俺を襲う。
アストラル界から無理矢理に顕現しようとした肉体が押し戻され、物質界に回帰出来なかった俺の体は呪文の限界を超えて転送される。
全身の細胞一つ一つがヤスリにかけられているかのような感覚の後、俺の体は開けた空間へと放り出された。予め覚悟していたことでそれらの感覚に耐えることが出来た俺は意識を失わずに済み、体勢を整えて着地すると周囲を見回す。
放り出されたのは突入を行った玄関口の付近だ。建造物一つが崩壊したにも関わらず、野次馬の類は見当たらない。ここを襲撃した連中も裏口方向へ脱出していたのか、この辺りには居ないようだ。
それを把握した俺は僅かに口内に入り込んでいた砂利を吐き出すと、受けていたダメージを回復すべくブレスレットからポーションを取り出して飲み干した。
このゲームの世界の転移魔法では別の物体が占めている箇所へ飛び込んだとしても、"石の中"で即死亡とはならない。僅かなダメージを受けて最寄りの開けた空間へ放り出される仕組みだ。
今回の脱出はそのことを利用した荒業だ。だが正直こんな事は二度と御免被りたい。ダメージ自体は大した事はないとはいえ、体に感じる違和感は相当なものだ。
ポーションを数本飲み干して空き瓶を回収した後、巻物による《ディメンジョン・ドア》で裏口側へ飛んだ俺は《アーケイン・サイト》で周囲の観察を開始した。
細い隧道のような路地には召喚術のオーラが強く残っている。先程建物を破壊した男の横にはもう一人、小柄な黒装束姿が控えていた。状況から判断するに、あの人物が《テレポート》の使い手だと思われる。
体格からしておそらくはハーフリングの秘術使い、技量はメイと同等かやや劣る程度か。それとは別に襲撃に参加していたノールが、気配と足音などから察するに20匹前後。
その全てを《テレポート》で運ぶことは流石にしなかったようで、タルカナン氏族のメンバーを運んだノール達はどうやらこの裏口から撤収していったらしい。
俺の目の前には大勢の集団が重い荷物を運んでいった足跡がクッキリと映っている。これを追っていけば襲撃犯達の本拠に辿り着くことが出来るだろう。だが、メイが攫われた今となってはそんな悠長な事をしている余裕はない。
俺は指に嵌めた"三つの願い"の指輪に意識を向けると、彼女を取り戻すために必要な呪文の再現を願った。
ゼンドリック漂流記
3-6.塔の街:シャーン6
今、俺の目には巨大な空洞の中央に立てられた砦が映っている。逆さピラミッドのような形で建造された要塞が溶岩の湖の上に浮かんでいる。
高さ200メートルはある広大な空間に浮かぶこの要塞は、一辺が100メートルほどの逆三角錐であり非常に緩やかな速度で自転している。外壁には大量のガーゴイルが蝙蝠のようにぶら下がっており、要塞を黒く染め上げている。
これはかつて『クローズド・サークル』と呼ばれたこの土地の秘術結社が建造したものだ。シャーンの黎明期に存在した3つの結社の内、この『クローズド・サークル』だけは現存していない。
彼らはデルキールの伝承に関心を抱き、地下竜教団と強い結び付きを形成するだけに及ばず、デルキールの肉細工師の技法をも模倣し始めたのだ。
おぞましい人体実験を繰り返しまさに狂気に身を委ねた彼らは、最終的に残る二つの結社『ウレオン密教団』と『星明りと影のギルド』を敵に回した全面戦争に敗北し、滅ぼされた。
それから既に数世紀が経過し、滅んだはずの組織の砦には今は地下竜教団が舞い戻ってきていた。
《ウィッシュ》から発動した《ディサーン・ロケーション/位置同定》によりメイの連れ去られた位置をこの要塞に特定した俺は、さらに《グレーター・テレポート》による転移と《ファインド・ザ・パス/経路発見》によりこの炎の地底湖へと到達していた。
"三つの願い"全てを叶えた指輪からは魔力を秘めていたルビーが全て失われ、今は魔法の力を持たないリングに成り果てた。
力を失ったそれをブレスレットに収納し、能力値上昇効果を持つ指輪と交換する。《ディサーン・ロケーション》の呪文の発動には10分が必要だったこともあり、メイが運び込まれてから同じだけの時間が既に経過していることになる。
この地底の煉獄にどこからか吹き込む風が、砦の中を通過する度に中の住人の悲鳴を含んでこの地下空洞を満たしている。この要塞の内側で行われている狂気の実験はいかほどのものなのだろうか。
もはや猶予は無い。俺はブーツの飛行能力を再び起動すると、炎の地底湖の沿岸部から飛び立った。
地下深くへと踏み込んでいるこの階層は、シャーンを覆っているシラニアの顕現地帯からも外れた魔窟のようだ。ブーツから付与される飛行能力は自前で呪文を詠唱した際と同程度だ。
壁面に埋め込まれたカイバー・ドラゴンシャードが有する『束縛』の効果によるものか、要塞内部への直接転移は行えない。それ故の正面突破だ。
空を駆け近づく俺を発見したのか、外壁部分にコウモリのようにぶら下がっていたガーゴイルがその翼を広げ、キイキイという鳴き声を発しながらこちらへと殺到してくる。
ガーゴイルが飛び立ったことでピラミッドの壁面に埋められた大量のカイバー・ドラゴンシャードの破片がマグマの放つ光を照り返して不気味に輝いた。
残虐な精神構造を有する魔物は久々の獲物で興奮しているのか、数えるのも億劫になる物量でこちらに迫ってくる。
あれだけの数に押し寄せられたらその質量だけで巨獣すら押しつぶされるだろう。しかも彼らは鋭い爪と牙で武装しているのだ。多少の数が減らされたところで、その過剰な数の暴力はあっという間に侵入者を肉片まで解体するだろう。
その全てが地上に解き放たれれば、シャーン自体が一夜にして灰燼に帰すかもしれない大軍団だ。
だが俺にしてみれば有象無象の群れに過ぎない。むしろ固まって飛び込んでくるだけいい的である。俺が呪文を発動させると、指先から輝く豆粒ほどの大きさの球体が飛び出す。
その球体は黒い雲と化したガーゴイルの群れの中へと一直線に飛んでいき、俺の指定していた目標地点に到達するや低音の響きと共に高熱の炎を撒き散らして炸裂した。
ある意味最も有名な呪文であろう《ファイアーボール/火球》の呪文だ。この呪文によって生み出された火炎は全くと言っていいほど圧力を生じさせずに拡散し、だがその範囲内の存在を完膚なきまでに焼き尽くした。
こんな土地に巣食う連中だから火に対する抵抗を持っているかもしれないと考えてはいたが、どうやら効果は十分なようだ。
5メートルを超える爆発半径にいたガーゴイル達は、僅かに焼け残った肉片をまき散らして溶岩の湖へと落下して行く。D&Dにおけるガーゴイルは人造のモンスターではなく石のように見える生物であり、血と肉で出来ているのだ。
無論敵の集団は今の一撃で壊滅するような数ではない。次々と魔力を秘めた球体が俺の指先から射出され、炎を撒き散らしては黒い雲のような敵集団を削ぎ落として行く。
連続爆破により開いた敵軍の間隙を突き破り、一気に上昇して敵の要塞へと肉薄する。無論敵も追いかけてくるが、反転、上昇したことにより密集度合いを増したガーゴイル達はいい的に過ぎない。
俺のそれぞれの指から次々と零れ落ちるように落下していく球体が敵集団の中央で爆発し、追手達はその火炎に巻かれてあっという間にその数を減らしていく。
俺が目的地である要塞の外縁部に取り付いた時には、もはや俺を追ってこようとするガーゴイルの姿はなかった。大火力の呪文を盛大に使用したために枯渇寸前まで消耗した精神力を、取り出したエリクサーを飲むことで奮い立たせる。
逆さピラミッドの上層部、最も広い三角形で構成された屋上部分へと降り立つと爆発音を聞きつけて迎撃に出てきた異形の姿が見えた。
猫背姿だが頭部はなく、胴体に位置する部分が肥大化して醜い歪んだ顔はその胸部に表情を現している。上下に並んだ二つの口からはこちらを罵る声が別々に紡がれている様だ。
彼らはドルグリム。デルキールがコーヴェアを侵略していた際に戯れで生み出された下級の戦士で、二体のゴブリンを上下に並べ、一体に押しつぶすようにして作られている。
足こそ二本だが腕は四本生えており、左右それぞれに凶悪な刃を備えたグレートアックスを構えている。二つの脳を有するが故に精神作用系の呪文にも抵抗力を有しており、厳しい軍隊のような環境で育てられた彼らは優秀なウォリアーとなる。
デルキール達はこのように侵略したコーヴェアの生物の肉体をキャンバスとして様々なモンスターを作り出した。俗に『異形』と呼ばれるクリーチャー種別は、このゾリアットの支配者達が作り出した芸術作品なのだ。
こちらに気付いたドルグリムがその両手の斧を振り上げて突進してくるが、雑魚に構っている暇などありはしない。威力強化・高速化された《スコーチング・レイ》が俺の眼前から伸び、哀れな門番達を焼き尽くす。
無論敵は1体だけではなく、次々とドルグリムが武器を構えて現れる。だがその全ては俺の視界に入るやいなや蒸発していく。彼らが存在した証は、今となっては遺品としてその場に落ちる斧しかない。
墓碑替わりに屋上に突き立てられ、あるいは階段に刺さった斧を踏み越えて俺は進む。逆さピラミッドの中央部は直径25メートルほどの円形の穴が深く穿たれていて、その壁面には螺旋階段が設けられている。
暗闇の中、至る所に埋め込まれたカイバー・ドラゴンシャードが妖しく輝いており、まるで闇夜に数多の瞳で見つめられているような気分にさせてくれる。
俺は《フェザー・フォーリング》が付与されたアイテムの効果を受け、階段を利用せずにその中央にある空洞部分を真っ直ぐに落下して行く。
周囲を覆う螺旋階段は一定の高さごとに階層を構成するフロアへの出入口を有している。時折そこから異形が飛び出してくるが、そういった連中は全て他の連中同様、炎に焼かれて塵になる運命を辿った。
《ファインド・ザ・パス》は言ってみれば車のナビのような働きをする呪文だ。指定した目的地に対しての最短ルートを適宜指示し、仕掛けられている罠を突破する方法すらも伝えてくれる。
落とし穴があれば警告し、合言葉が必要な罠やドアはそのコマンド・ワードを教えてくれる。地形や罠によらない障害物──門番などのクリーチャーについての情報は教えてくれないが、今の俺にはそれで十分だ。
本来であれば侵入者の精神を侵し、狂気を掻き立て、死に至らしめる数々の《シンボル》の罠は脳裏に浮かぶコマンド・ワードを唱えることで無力化される。それらは全て『狂気の御子らの御代は来れり』。全く、嫌になる合言葉だ。
響く悲鳴と助けを求める声を無視して落下を続け、螺旋階段の終着駅へと辿り着いた。外から見た感じだと今いる場所は丁度ピラミッドの中枢部分のはずだ。どうやらこの真下が目的の場所のようだが、ナビは横方向の移動でこの階層を突破していくことを求めている。
だがここまで来ればもはや誘導の必要はない。建造物の破壊は連中の専売特許ではない。俺はブレスレットから一対のメイスを取り出した。
『アンホーリィ』の力が付与されたことで悪のオーラを放つこの武器には、その邪悪をさらに上回る凶悪なパワーが込められている。両手に構えたそのメイス達を、俺は振りかぶって床に叩きつけると同時にその込められた力を解放した。
《《《《ディスインテグレイト》》》》
武器に込められた物質を分解する凶悪な呪文の重奏が左右それぞれの戦槌から床へと注ぎ込まれた。岩盤は塵に、塵はさらに細かな分子へと分解され、かつて床があった部分にはぽっかりと虚無の空洞が広がった。
足元を支える物質がなくなったことで再び俺の体は重力に引かれて落下を始める。
床を抜けた先は、中央シャフトよりもさらに広い空間だった。なんらかの儀式を行うためなのか中央に向けて徐々に高くなるような傾斜がつけられており、その中央部には台座が設けられている。おそらくは祭壇のようなものだろう。
そしてそこにはローブの上半身部分をはだけられ、仰向けに横たえられているメイの姿があった。普段はその豊かな双丘によって隠されている、胸の中央部のドラゴンマークが青い光を放っているのが俺の視界に飛び込んできた。
彼女の周囲には3体のドルガント──ホブゴブリンを素体として作られた、肩から触手を生やした異形が台座を囲むように立っている。彼らはその擬似視覚の能力で俺の出現に気付いたのか、触手をこちらに向かって伸ばすと威嚇するように叫び声をあげた。
その声に応じて彼らの足元の影が立ち上がったかと思うと、その影はそのままの勢いでこちらへ飛び上がってきた。先程手こずらせてくれたシャドウだ。襲撃時の指揮官よりは格が落ちるのか、その総数は6体。
だが先程奇襲を受けた際とは準備も覚悟も違う。役目を終えたメイスから持ち替えたシミターを彩る炎の煌きが一際激しく輝き、俺はその刀身に秘められた秘術のエネルギーを解放した。
刃から螺旋を描きながら立ち上った炎は俺の頭上で球状となり、あっという間に凝縮すると音もなく炸裂した。焼け付くような熱と輝きを有した光球はさながらこの空間に太陽が現出したかのようだ。
《サンバースト/陽光爆発》と呼ばれる高位呪文の爆発は俺をも巻き込みながら台座の上に寝かされていたメイの直上まで広がった。
こちらに近づいていたシャドウ達はその対極の存在である陽光に包まれて一瞬で蒸発し、その主達も逃げこむべき影を打ち消されてその上半身を焦がされた。
だが流石に鍛えられた精鋭たちだ。並のモンスターなら今の一撃だけで死亡、あるいは生き延びたとしても視界を焼かれて立ちすくむことしか出来ないはずだが連中は違った。
生来目を持たないゆえにその体に生えた繊毛で周囲の状況を知覚するドルガント達は、台座の上に降り立った俺に対してその触手と鍛え上げた四肢で即座に反撃を加えてくる。
だが、遅い。鞭のように勢いをつけて打ち出されようとしていた触手がこちらに向けて加速を始めた瞬間には、既に俺が両手に構えたシミターが3体のドルガントの首を刎ねていた。
切断面では光輝エネルギーが爆発し、さらに刀身から巻き上がった炎が彼らの体を焼き尽くす。魔法の炎は彼らの血肉を糧として燃え続け、細胞の一片すら残さずにこの世から消し去った。
周囲の脅威を焼却した俺は、台座の上から周囲を見回した。この部屋は地下竜教団にとって礼拝堂のような役割を果たしているのだろう、今の場所からは部屋中を見渡すことが出来、その様子を知ることが出来る。
不規則に屹立した柱の表面は様々な表情を浮かべた人型生物の顔で埋められており、ところどころに突き出された腕が"消えずの松明"を保持して周囲を照らしている。
これがはたして彫刻によるものなのか、それとも実際の生物を用いたものなのかは判断出来ない。『狂気の次元界』を統べる王達はいずれも生物の肉体をその芸術表現の発露の場として選ぶ。
信奉者達もそれに傚っているのだろう、理解し難い芸術で覆われたこの場はまさに邪教の神殿と呼ぶに相応しい光景だ。こんな場所に長居は無用、当然の判断を下し横たえられたメイを抱き上げる。
───おや、もう帰るのかね?
突如心中に喜悦が湧き上がると同時に、脳裏に声が響いた。自分の五感を通じて入ってくる感覚が、そして感情が直接脳髄に叩き込まれた情報によって上書きされていく。
───ようやく主賓をお迎えできたのだ。今宵の宴はまだ始まったばかりだ。楽しんでくれたまえよ
足の裏から感じていた感覚が薄れていくことで平衡感覚を失い、一瞬バランスを崩しそうになる。この感覚は、感情は俺のものじゃない! 自分を強く意識し、体の芯から指先に到るまでの感覚を丁寧に、だが僅かな間で捉え直す。
抱き抱えたメイの僅かな重みが腕からは感じられ、それが俺に自分の存在を感じさせてくれる。圧倒的な思考の奔流を遮断することに成功した俺は、この思考の主の姿を求めて礼拝堂のテラスを睨みつけた。
「悪いがアンタらとは趣味が合いそうになくてね。パーティーは気の合う連中同士でやっておいてくれ」
俺の視線の先には人間と同じほどの背丈の生物が立っていた。だが似ているのはその背丈以外は腕や足の数くらいのものだ。緑がかった藤色の肌は粘液でてらついており、四本足の蛸のような頭部からは長い触手が垂らされている。
彼の口を覆い隠すその触手は感情の動きに同調してゆらゆらと動いており、閉じられた左眼とは対照的に見開かれている右眼は黒く染まっていながらもその瞳孔が金色に輝いている。
イリシッド、あるいはマインドフレイヤー/精神を砕くもの、だ。ゾリアットの軍勢の司令官を務めることもある悪名の高さでは1,2を争う異形のクリーチャー。
───怯える必要はない。お前は我が手によって新たな存在へと生まれ変わるのだ
服従せよ、と強烈な思念が叩きつけられる。桁違いに勢いを増した思考波が俺の意識を屈服させようとする。どうやら先程までのは奴にしてみれば漫然と思考を垂れ流していただけに過ぎないようだ。
勢いを増して浴びせられた精神衝撃波を受け、物理的に押し込まれたかのように膝をつきそうになる。イリシッドの意識が俺の意識と混濁し、視界すらもが俺のものから奴のものへと切り替わりそうになる。
千切れ飛びそうな思考を掻き集めて再構築し、最低限の要素で呪文を編み上げて《フライ》を自分に付与し飛び去ろうとする。《マインド・ブラスト》の射程距離は20メートルほど。テラスからであれば部屋中に届く射程距離ではあるが、頭上の穴から抜けてしまえばその範囲外に逃れることが出来る。転移の封じられた空間から逃げ出しさえすれば後はどうにでもなる。
───ふむ、それは少々面倒だな
イリシッドのその思考が俺の脳裏に届くや否や、俺の胸元で光が炸裂した。あまりの光量に目が眩み、発動しようとしていた《フライ》の呪文が霧散していく。呪文発動の途中で攻撃を受けたことでバランスを崩し、視界を奪われたこともあり斜面を無様に転がり落ちることになったがなんとか体勢を立て直す。
《ルーセント・ランス/輝く槍》、微かに耳元に届いたのは確かにこの呪文を発動させる"力ある言葉"だった。弾けた光はむしろ俺の体に当たって跳ね返った余録に過ぎず、その呪文の核であるエネルギー構成物は俺の体に浸透しダメージを与えている。
突然俺を襲った痛みと視界の断絶から立ち直るのに要した呪文は数秒。だがその僅かな時間のうちに俺を取り巻く状況は一変していた。
どこに潜んでいたのか、祭壇の周囲に佇む黒装束の集団。だが何よりも問題なのは、その祭壇の上に立つメイの姿だ。
俺に向かって呪文を放ち、盲目となった隙をついて懐から逃れた彼女は今は黒装束達に守られるように佇んでいる。その瞳には生気がなく、彼女がなんらかの心術の影響下にあることを教えている。
《ドミネイト/支配》、対象の精神を操り思うがままに動かす呪文だ。だが彼女からは該当する秘術のオーラは感じられなかった。そこからこれがイリシッドによる《サイオニック・ドミネイト》であろうと推測する。
《サイオニクス》はその名の通り秘術呪文や信仰呪文とは異なる、いわば超能力と呼ばれる系統のパワーだ。"サイオニクス・ハンドブック"で導入された強力な能力である。その代表的な使い手が目の前にいるイリシッドであることは言うまでもないだろう。
「蛸野郎、小細工かましてくれるじゃねぇか……」
サイオニクスに属する能力はその能力にパワーを多量に注ぎこむことで効果を飛躍的に高めることが出来る、俺の扱う呪文系統に近いといえる法則を持っている。周囲の状況から判断するにメイに掛けられた心術の効果は短くて1時間、長ければ1週間以上に達するだろう。
このイリシッドは彼女にこの術をかけた後に祭壇に配置し、俺の隙を突く機会を窺わせていたのだろう。最初メイを取り囲んでいたドルガント達は捨石だったということだ。全く、手の込んだ真似をしてくれる。初めからこの状況に持ち込む予定だったに違いない。
───彼らは私の研究の成果だ。お前たち地上の肉虫達の体に現れる"竜のマーク"、私はそれを増幅する術を編み出したのだ
メイを取り囲む黒装束の数は3人。いずれも体の一部が肥大化しており、そこを中心に全身を覆わんばかりの巨大なドラゴンマークが輝いている。ある者は真正の青、あるものは特異型の赤とその色や形には全く統一性が見当たらない。
だが彼らの体を覆っているオーラはいずれも非常に高位の呪文エネルギーであり、そのマークが見た目だけではなく強力なパワーを有していることを示している。
「ドラゴンマークを剥ぎとるだけじゃなく、成長させて植え付けることができるって訳か。
マーク氏族が知ったら卒倒ものだな」
エベロン小説である『シャーンの群塔』に登場したこの異形、チラスクは特異なカイバー・ドラゴンシャードを使用してドラゴンマークを剥ぎ取る技術を有していた。あの話から2年が経過している。その間に行われれた狂気の実験が奴の技術を向上させたのだろう。
他にもバジリスクの瞳やハーピーの声帯を人間に移植し戦闘に活用させるという悪夢のような事を現実に行っていたはずだ。おそらくは選りすぐりの精鋭であろう目の前の黒装束達も、見た目以上の脅威を秘めていると考えるべきだ。
強靭な素体であればあるほど、強大な竜の力を身に宿すことが出来る。お前という器であれば、今回用意した特別なマークも肉の身に宿せるやも知れぬ
好奇心と喜悦、相混じった感情が流れ込んでくる。どうやらこいつにはマッドサイエンティストの気もあるようだ。ゾリアットとイリシッド、正に最悪の組み合わせだ。まったくこのエベロンのデザイナーはいい趣味をしている。
「悪いがそんな実験に趣味はないな。彼女を連れて帰らせてもらうぞ!」
即座に呪文を編み上げ、メイを中心に《ショックウェーヴ》を開放する。相殺呪文を用意していたらしいメイの《ディスペル・マジック》により術式は解体され、呪文は不発に終わったがその初撃は囮に過ぎない。
《呪文高速化》によりその直後に叩き込まれた二の矢がメイと黒装束をノックダウンする……そのはずであったのだが、メイの傍らに控えていた小柄な黒装束が放った相殺呪文によりそちらの呪文もが解体された。
術者タイプのドラゴンマーク能力者。紋様のパターンから推察するに、嵐のシベイ・マークのようだ。だが彼は見たところハーフリングであり、本来嵐のマークを有するハーフエルフには見えない。
幻術の類でもないようだし、どうやらドラゴンマークの移植はどのような種族に対しても可能のようだ。ますますこの要塞で研究されている技術の危険性が高くなった。
種族の制限にすら因われずドラゴンマークを得ることが出来るとなれば、この技術がコーヴェアに齎す影響はとんでもなく大きな事になるだろう。そして既得権を脅かされるマーク氏族たちがこの技術を放っておくとも思えない。
なにしろ、元となるマークは誰かから剥ぎ取る必要があるのだ。そして剥ぎ取られた対象は小説によれば死亡してしまい、蘇生すら叶わない。自身に競争相手が出来るだけではなく、能力自体が奪われるのだ。おそらく第二のマーク戦争が勃発することになるのではないか。
一瞬の交錯からそんな事にまで俺の思考が飛躍している一方で、他の黒装束達も行動を開始していた。それぞれのドラゴンマークが活性化し、エベロンでは滅多にお目にかかれない高位呪文の効果が発現する。
部屋の中に突如黒雲が出現し、稲光が走り雷鳴が轟いた。その轟音が俺の鼓膜を強烈に振動させ、一時的に聴覚を麻痺させる。同時にテラスへと向かう方向には虹色の壁が出現し、きらびやかな七色の光が俺の網膜を焼いた。
「(《ストーム・オヴ・ヴェンジャンス/天罰の嵐》に《プリズマティック・ウォール/虹色の壁》! どちらも最高位に近い呪文じゃないか!)」
聴覚と視覚を奪われたことで俺の戦闘能力は一気に削られた。感覚を取り戻すため思念でブレスレットを操作して魔法のアイテムを使用しようとするが、勿論敵はこちらのそんな隙を見逃すような甘い連中ではない。
俺の研ぎ澄まされた触覚には空気の動く感触が感じられ、2人の黒装束と思われる連中がこちらへと殺到してくるのが判る。だが把握できるのはその程度であり、肝心の攻撃のタイミングについては皆目見当もつかない。
感覚を奪われる直前に得ていた情報に、今握っているシミターが付与してくれる洞察力により色付された触覚の情報を重ね合わせて後は直観に身を委ねる。いずれにせよ今の位置からは動かなければならない。虹の壁から6メートル以上の距離を取らなければ、永遠に視覚を取り戻すことは出来ないのだから。
低くなっている床の部分に並べられた椅子の間に、地面を転がるようなかたちで身を躍らせその場を離れた。
左手にはシルヴァーフレイムの聖印が刻まれたラージ・シールドが握られている。"ロリク・チャンピオン"の銘を持つこの盾はその軽さからは信じられないような強度を誇り、盾で受けたダメージを大幅に吸収する効果を持つ。
気配の先にこの盾を叩きつけることでなんとか敵の攻撃をやり過ごそうとした俺だが、その試みは失敗した。確かに物理的な衝撃は盾がほとんどを吸収してくれたが、特異型ドラゴンマークの放つ強力なパワーはシルヴァーフレイムのレリックを超えてなお俺の身へと影響を与えてくる。
憎しみを核とした強力な呪いが、銀炎の浄化の輝きを乗り越えて俺を蝕もうとする。だが俺は意志の力を振り絞ることでその呪いを弾く。《グレーター・ビストウ・カース/上級呪詛》という呪文と同じ効果だ。呪われたが最後、満足に身動きすることもできずに一方的に蹂躙されてしまうだろう。
身を投げ出した位置が良かったのか、それ以上の攻撃が俺を襲うことはなかった。そしてその稼いだ時間が"ロリク・チャンピオン"に込められた癒しの呪文を発動させる機会を与え、俺の閉ざされていた感覚が開放される。
数瞬が経過しただけだというのに、目に映る光景は大幅に変じていた。黒雲からは酸の雨が降り注ぎ、柱に刻まれていた顔達は肌を焼かれたことで苦痛の雄叫びを挙げている。既に掲げられていた松明は投げ捨てられて消えており、せっかく視界を取り戻したというのに室内は暗闇に覆われている。
唯一黒雲が発する稲光のみが一瞬室内を照らし、その惨状を露にしている。歪められた大自然のエネルギーは荒れ狂い、幾条かの雷がこちらに飛んでくるのを慌ててバックステップしてかわす。
こちらを取り囲もうとする黒装束たちには全く被害がなく、俺にのみ向かって飛来する雷はやはりこの黒雲を召喚したドラゴンマーク能力者の制御下にあるのだろう。いよいよ激しくなる雨足により視界がどんどんと制限されていく。
拳大のひょうが降り注ぎ体を激しく打ち据える中、俺は接近してくる黒装束たちを無視して一気にメイを含めた後衛陣の方へと駆け抜けた。
立て続けに《ショックウェーヴ》の呪文を放つことでメイの行動をその相殺へと専念させ、その傍らに立つハーフリングの術者の精神集中を失わせる狙いで短刀を投げつけながら突進する。牽制のその攻撃は小剣を抜いたハーフリングに容易にたたき落とされるが、それは十分に想定の範囲内だ。
左右を挟み込んで襲いかかってきた黒装束の、ドラゴンマークのパワーが乗せられた拳を回避しながらハーフリングを斬りつける。攻撃の直前に多数の幻を展開して俺を惑わせるつもりだったようだが、生憎と幻術のたぐいは俺には通用しない。
雨の中なお激しい炎を吹き上げるシミターが小男の体を深く抉り、弾けた光がお返しとばかりに眼を焼く。視界を奪われ接近された術者が俺に抵抗できるわけもない。其の次の瞬間には俺が再び両手にそれぞれ構えたシミターにより首と胴を薙がれ、ハーフリングの黒装束は雨で濡れた床へと崩れ落ちた。
術者が倒れたことにより、先程までは1メートルほど先を見通すことも困難だった雨はあっという間にあがり、黒雲は跡形もなく消滅した。
術者の頭数を減らすことが出来れば、あとは力押しである。呪文システムのチートにより通常を遥かに上回るスピードで連打される《ショックウェーヴ》がメイと黒装束を打ちのめし、確実に体力を削っていく。
タルカナン氏族の拠点にいた連中に比べれば遥かに鍛えられた精鋭たちとはいえ、体力は無限ではない。
数多の呪文修正特技により増幅された振動波は頑強な肉体に抵抗されてなお、範囲内にいたメイと黒装束の意識を数発で刈り取るのに十分な威力を有していた。
俺がハーフリングを倒してから僅か20秒ほどの間で、既にこの祭壇の周囲に立っているのは俺だけとなった。
意識を失っているメイを抱き上げつつテラスに視線をやるも、七色に発光する壁は今もなお健在だ。壁は天井まで伸びており、俺が開けた穴をも塞いでいる。どうやらこのまま逃がしてくれるつもりはなさそうだ。
《プリズマティック・ウォール/虹色の壁》というこの呪文には通常の解呪は効かず、七つの色に対応した呪文をぶつけて一つずつ色を解呪する必要がある。無論俺にはその呪文バリエーションがないし、おそらくはメイの手にも余るだろう。
壁の向こう側には既にマインドフレイヤーの気配はない。先程の黒装束達同様、この要塞の中でも瞬間移動が可能ななんらかの手段を有しているのだろう。別の場所で歓迎の準備を整えていると考えていいようだ。
《プリズマティック・ウォール》を展開した術者の姿が見えないが、おそらくそいつは異形の傍にいたのだろう。今俺から見える範囲内にはその姿を確認できないため、とりあえず今のところは思考の片隅へとその存在を追いやっておく。
メイに仕掛けられていた《サイオニック・ドミネイト》を自前の《ディスペル・マジック》で解呪し、念のため《マジックサークル・アゲインスト・イーヴル/対悪防護円》を付与してから治癒呪文で彼女に与えた非致傷ダメージを取り除く。
スクロールから発動した《ヒール/大治癒》による白い輝きが彼女の体を覆い、体を満たした正のエネルギーが状態異常を取り除いていく。
「う……トーリさん、すみません。私のせいで余計な手間をおかけしちゃったみたいで」
術者といえども高レベルの冒険者だけあって、メイは意識を取り戻すと即座に周囲の状況を把握したようだ。はだけたローブをしっかりと着直して立ち上がった。
「いや、連中の目的はどうやら俺だったみたいだし、巻き込んじゃったのはこっちのほうさ。
それにどっちにしろ目的の品を奪ったのはここの連中だったみたいだし、遅かれ早かれ事を構えることにはなっただろうさ」
秘術の行使で消耗した精神力を回復させるエリクサーを渡し、支配されていた間の事を訊ねる。
「最下層にある巨大なカイバー・シャードの結晶と同調させられたのを覚えています。おそらくあれがこの要塞内での転移系呪文の制限を制御しているんだと思います。
後はこの祭壇に連れてこられたことくらいですね」
連中がこの要塞内で突然出たり消えたりするカラクリがそれだということだろう。《ハロウ/清浄の地》のような結界呪文によるものではなく、ドラゴンシャードを媒介にそのような仕組みを作り上げているところが特殊ではあるが効果は似たようなものだろう。
いずれにせよ、こちらだけが瞬間移動を禁じられている状況は不利以外の何物でも無い。出来れば決戦前に処分して条件を五分にしておきたいところだが……。
「たぶんですけど、この要塞を浮かべている術式の制御もその結晶が兼ねていると思います。
ここの最重要区画でしょうし、そこにさっきの蛸さんもいらっしゃるんじゃないでしょうか」
まあ当然の予測だろう。どっちにしろシベイ・ドラゴンシャードを回収するまでは要塞に落下してもらっては困る。メイの転移が封じられていないだけマシだと考え、現状の戦力で手を打つしか無いだろう。
「ここまで目を付けられた以上、後腐れが無いように殲滅するしかないだろうな。メイ、力を貸してくれるか?」
地下竜教団はその全てがほぼ独立した組織であり、横のつながりはないといっていい。そもそもその括りからしてカイバーそのものを信奉するものやそのカイバーに囚われている上古のモンスター達を信奉しているものが一緒にされているせいもあるのだが。
そうだとしても、俺に関する情報が拡散するのは避けたい。あのイリシッド──チラスクはここで倒す必要がある。俺だけではなく、メイのようなドラゴンマークを持つものにとっても奴の存在は脅威となる。
その上ドラゴンマークを付与、成長させるような技術が公になったとすればこのコーヴェアに強い影響力を有するマーク氏族達を中心に大きな乱れが生まれる事になるだろう。そんな災いの芽は摘んでしまうべきだ。
その為にもメイの力は必要だ。
「はい、勿論です。嫌だって言ってもついていきますからね。どこまでもご一緒しますよ、トーリさん」
俺の差し出した手をそっと握り、メイは微笑を浮かべながら答えた。