格子のはめられた窓からは、行進を号令する勢いのある声と行進曲が聞こえてくる。
この『ウォーデン・タワーズ』には、メンシス高台の治安維持を預かる450名の都市警護団員が所属している。
彼らの働きにより、この街域の治安は他に比べても幾分か良好だ。
下層の『ファイアーライト』でこそ違法な薬物の販売や「燃えるリング」と呼ばれるストリートファイトの賭け試合が行われているが、自分から危険に踏み込むようなことをしなければ安全に楽しむことが出来ると評判だ。
今も聞こえてくる戦闘訓練の掛け声は、当直の時間以外も彼らが自身を磨こうと努力している証だ。
実直で勤勉な若い衛視達は、自らの流した汗がシャーンの平和を維持する礎になると信じて今日も訓練に励んでいるのだ。
「なるほど。これがその男の腕にあったという紋様ですか」
俺が今いるのはその警護団が詰める砦の一角、取調室であろうと思われる一室だ。
机を挟んだ反対側にはハザルと名乗ったノームが腰掛けており、俺達の後ろにはそれぞれ2人の衛視が立っている。
求められたとおり武装解除したものの、警戒されているということだろう。
ハザルは俺が紋様をスケッチした紙をしばらく睨みつけたあとで一人の衛視に渡し、何らかの指示と共にその衛視を部屋の外へと送り出した。
「で、貴方はあの紋様を腕に持った男と追跡劇を繰り広げた結果、『ファイアーライト』で相手を見失った……そういうことでよろしいですな?」
目の前のノームは呪文により蒼い光を宿した目で俺を観察しながら質問を続ける。俺も使用していた《アーケイン・サイト》の呪文だろう。
これとは別に、壁に掛けられた鏡の向こう側から気配が感じられる。おそらくはマジック・ミラーの向こうから《ディサーン・ライズ/嘘発見》などの呪文が使用されているのだろう。
俺が呪文を使用すること以外にも、俺が心術などで操られているのではないかと言う点も警戒しているものと思われる。
「確かに、火事の現場に残されていたオーラは強力な火の呪文によるもの以外に壁の破壊に使われたと思われるものがありました。
それが呪文ではなく、この……いわゆる『特異型ドラゴンマーク』によって引き起こされたのだとすると、これは恐ろしい話ですな」
『特異型ドラゴンマーク』、それは現存する12のドラゴンマーク氏族のいずれにも該当しない変種のドラゴンマークだと言われている。
かつてこの『特異型』によりシャーンは崩壊したことがある。マーク戦争、そう呼ばれる純血12氏族と特異型マークとの戦争が1500年前にあったのだ。
マーク氏族間の結婚により生じた混血マークや突如現れた特異型マークの存在を疎んだ純血マークの氏族達が、彼らとの間に戦争を起こしたのだ。
戦いは一方的で、それらの亜種マークの持ち主は一人また一人と燻り出されては狩られていった。
『ドラゴンマークは血筋によって発現する』というよく知られた話に則り、本人だけではなくその一族全てが殺された。
だが、その虐げられた特異型マークの人々を糾合した人物がいた。彼の名は"大地を揺るがす者"ハラス・タルカナン。
天才的な戦術家であったその男は、その妻と力を合わせて劣勢な戦況を覆し純血マーク氏族らを押し返すと、シャーンを掌握しこの街を特異型の牙城へと変えたのだ。
コーヴェア中の特異型マークの持ち主は、救いを求めてこのシャーンへと集結した。
とはいえ絶対数で劣る特異型達は、戦術レベルの勝利を収めることは出来ても最終的には追い詰められる事になった。
当時のシャーンを舞台とした最後の戦いの夜、タルカナンとその妻である"災いの貴婦人"はその身に秘めた特異型マークの力を一切の手加減無しに解放した。
その結果は恐ろしいもので激しい地震により都市は崩壊し、地の底にある炎の湖から溶岩流が沸きあがって包囲していたカニス氏族、デニス氏族、そして当時のブレランド軍を飲み込んだのだ。
溶岩流を逃れた者もどこからか現れた蟲の大群に貪り食われるか、あるいは恐ろしい疫病にとりつかれて無残な最期を遂げたという。
これによってマーク戦争は終結したが、未曾有の災厄に見舞われたシャーンにはそれから500年以上もの間、誰もが近寄ることは無かった。
コーヴェアを制したガリファー一世により瓦礫の上に都市が再建されてなお、地下の暗闇には"災いの貴婦人"の呪いが残っていると信じられていた。
こうした特異型マークの支配者達による伝説は多くの迷信とともに語り継がれていたが、いま現在となっては『特異型マーク』に対する偏見は薄れている。
殆どの特異型マークの発現者たちは、ちょっとした手品程度の力しか持ち合わせていないためだ。
だが、純血マークの上級マークに相当する特異型マークの持ち主が居たとしてもおかしくはない。
俺の知る情報では《分解》を再現する特異型マークは無かったはずだが、純血型の"シベイ"と呼ばれる強力なマークに相当するものが特異型にあることも当然考えられる。
とはいえ、断定することも出来ない。言葉を慎重に選ぶ必要があるだろう。
「実際には高位の秘術呪文使いだったかもしれないが、どちらにせよ壁を触れるだけで破壊したパワーは本物だ。あの手に掴まれたらと思うとぞっとするね。
何にせよ、俺がその男を追ったときには壁の穴を除けば店の様子に異常はなかったから、俺の視線の届かないところにまだ仲間が潜んでいたんじゃないかと思う。
そっちも特異型マークなのかはわからないがね」
無実を簡単に証明する手段はある。俺であれば遺体が残っていないサイラスであっても蘇生することが可能だ(本人が同意すれば、だが)。
とはいえ、そんなことが出来ると目の前の男に知られることは万が一にもあってはならないことだ。
ラピスに使用した《トゥルー・リザレクション》は最高位の蘇生呪文。このコーヴェアで使用可能な人間はシルヴァー・フレイム教会の長である"炎の護り手"以外にはいないだろう。
目の前のノームはともかく、この部隊の隊長はドリーミング・ダークの超能力者によって洗脳されたエージェントなのだ。将来敵対する可能性が高い連中に手の内が知られることは避けたい。
街中でのチェイス程度であれば問題ないが、チートについては知られないように立ち回る必要がある。
「先ほどの二つ以外に召喚術の残留オーラも確認されています。
おそらくこれは下手人たちが《テレポート》の呪文で脱出した際のものでしょう。
高位の呪文使いの関与する犯罪であれば、まさに我々の管轄です。
構造物に対する攻撃は、このシャーンでは重大な犯罪行為。加えて殺人ともなれば、間違いなく極刑でしょうね」
このハザルはブラックンド・ブックの中でも捜査主任の役職についていたはずだ。
その科学捜査(?)は呪文の残留オーラなどを細かく分析し、使用された呪文などから犯人を追うというものだ。
確かこの組織はシャーンに存在する高位術者の動静を監視しているとかいう話がある。
それが真実であるならば、既に彼らにはある程度犯人の目星がついているのかもしれない。
「失礼します。ハザル主任、先ほどの件ですが……」
ノックと共に、先程外へ出て行った衛視が取調室へと戻ってきた。彼がハザルに何やら耳打ちして去ると、このノームの男は改めてこちらに向き直って口を開いた。
「今しがた、貴方の仰っていた事の裏が粗方取れました。
確かにホテルには商会からの書状がありますし、ノールの空賊らにちょっかいを掛けられたという痕跡も発見しました。
目撃者もいて、トーリ殿がハイエナ連中を衝突の際に下層へ落下させてしまったことは正当防衛だと認められるでしょう。
貴方のような正義感の強い方が現場に居合わせてくれたことは、我々にとっては幸運でした。
シャーン市民を代表して礼を言わせていただきますよ」
どうやら疑いは晴れたようだ。下手をすれば強引に濡れ衣を被せられる事も想定していたが、そこまでの仕込みは無かったようだ。
取調べ自体も公正なもので、ハザルの態度は常に紳士的だった。これから考えるに、今回の事件に俺が関わったことは相手にとっても想定外だったのかもしれない。
少しでも政治力のある連中が相手だとしたら、他人に罪を被せる絶好の機会を逃すような事はしないだろう。
ハザルの差し出してきた手を握り返し、俺は椅子から立ち上がった。
「それじゃあそろそろお暇しても構わないかな?
今晩はディナーの後にカヴァラッシュでコンサートを楽しむことになっていてね。
連れとの待ち合わせ時間が迫ってるんだ」
もうじき時刻は六点鐘が鳴る頃だろう。一度ホテルに戻って汗を流したいし、あまり余裕のある時間ではない。
「それは一大事ですな。では、出口まで送らせましょう。
カーヴ、お客様がお帰りだ。所持品が返却されるのを確認し、出口まで送って差し上げろ」
ハザルが俺の後ろに立っていた衛視に声を掛けると、そのカーヴという男が俺を先導して歩き始めた。
切れ長の瞳がどこかエルフを思わせる容貌だ。ハーフとはいわずとも、先祖に血が混ざっているのだろう。
その優男の後ろを歩き、やがて門を出て中庭へと到着した。頭上に射した影に空を見上げると、二体のヒポグリフが空を舞っているのが見える。
そのいずれもが兵士を乗せている。シャーン警護団のエリート部隊、『金翼隊』だ。
馬と鷲の合成獣とでも形容すべきこの魔獣を駆る彼らは、偵察任務や空中犯罪に対処することを任務にしている。
その機動力はシャーンでも有数で、特に直線での加速力は都市を包む顕現地帯の魔力を取り込んだ飛行呪文すら上回る。
そんな彼らの勇姿を見上げていると、やがて建物から女召使が先だって預けた荷物を運んできた。
貴重な品は全てゴンドラに揺られている間にブレスレットの中に収納しているため、受け取る品はハッタリ用の長剣と背負い袋だけだ。
だが、腰のベルトに鞘を固定し背負い袋を背負ったところで女召使は白い皮袋を差し出してきた。
言わずとも知れた、物取りから回収したザックだ。
「それは俺のじゃないな。押収品として預けたつもりだったんだが」
「ハザル主任からの申し付けでございます。お持ちください」
一旦受け取りを拒否するもあっさりと否定され、差し出される皮袋。
中身が商会のものであれば返却すべきだし、そうでないなら物盗りを追う手がかりになるかもしれない品だ。
俺に渡すということは何らかの意図があるものだと思われるが……。
「解った。それじゃ持って帰るよ」
受け取りながらもこの品の処理に思考を巡らせる。
俺にこれを渡すことで何を狙っているのか?
駐屯地を出たところで捕まえた飛行ゴンドラに揺られながら、俺は今後の行動に頭を悩ませるのだった。
ゼンドリック漂流記
3-3.塔の街:シャーン3
約束の時間にはなんとか間に合い、噴水前でメイと落ち合った俺は再び飛行ゴンドラに乗ると《スカイウェイ》へと向かった。
今度の船頭はまだ年若い女性で、身に纏った簡素な白い胴衣が似合う美人だった。左胸に刺繍されている白鳥の紋章は組合のマークだろうか?
炎松とダークウッドというこの世界独特の素材で作られた船体の舳先には白鳥型の船首像が取り付けられており、広げた翼が艫に到るまでの舷側一杯に書き込まれている。
彼女の案内で天上街へと踏み入れた俺たちは『セレスチャル・ヴィスタ』で景色と食事を楽しみ、その後はメンシスへと降りてコーヴェア最高峰と呼ばれるオペラを楽しんだ。
大陸中から客が集まるという値千金のまさにプラチナ・チケットはメイがマーザの伝手で手に入れたと言う品物だ。
女優歴500年を超えるというエルフの歌姫はガリファー王国最後の王、ジャロットの愛人だったという噂もある伝説の域の人物。
一度見れば忘れられない美貌に、豊かに流れる髪は室内に差し込んだ月光のよう。エメラルドの双眸は例え客席と舞台が離れていてもこちらを惹きつける不思議な魅力を放っている。
纏った薄手のガウンは、彼女の完璧な造形に釣り合う衣服などこの世界に存在しないと言わんばかりに光の具合によって色調や姿を変える。
彼女の名はティアーシャ・ド・フィアラン。演劇界の生ける伝説。
ティアーシャにまつわる逸話には氏族が育んだ虚構もあるのだろう。だが、彼女の実力は紛れもなく本物だ。
ひとたび口を開けばその声は歌のように響き、聞くものを妙なる調べで夢見心地にさせずにはおかない。
今宵カヴァラッシュ・コンサートホールに集った聴衆は皆彼女の虜となったのだ。
幕が降りても観客は皆その余韻に身を浸し、ホールは完璧な静寂に包まれていた。
だが、その中の一人が金縛りから解けたかのように立ち上がって拍手を始めるとその動きはあっという間に観客中に伝染した。
まさに万雷とでもいうような拍手がホールを満たす。
「……本当に凄かったですね~」
メイもご満悦のようだ。
かつてとあるエルフの踊り手がその舞踏でフィーンドと契約した強大な巨人の王を盲にした、と伝えられているが今回の舞台はそれに優るとも劣らないだろう。
チートに身を固めた俺にも真似出来ない、専門家の真髄を見せてもらった。
エルフが一つの職能にその身を捧げれば人間とは比較にならないほどの研鑽を積むことが出来る。その集大成がマーザやティアーシャなのだろう。
メイの手を引いて立ち上がらせると、まだ体の芯に残っている感動に体を温められながらコンサートホールを後にした。
このホールは大学地区にあり、目の前にはモルグレイヴ大学の特徴的なドームとそれを取り囲む五つの塔が目に映っている。
数多くの飛行ゴンドラが客を乗せて飛び去っていく。魔法の松明の冷たい灯りに照らされたそれらの小舟が宙に舞うこの光景もシャーン特有のものだろう。
俺たちもゴンドラを使っても良かったが、今しばらく余韻に浸っていたかったためホテルまで徒歩で移動することにした。
隣の街区までであればそれほどの時間も掛からない。夜の大学構内をメイと腕を組んで歩く。高層地区を吹き抜ける風が肌に心地よい。
それぞれが五つ国の名を冠した塔のうち、ブレランドの名を冠した塔の屋上にあるコモンズ広場に辿り着いたが騒がしい昼間と比べてさっぱり人気がない。
遠目に見えるウレオン大聖堂からは灯りが漏れているが、それ以外は月明かりが周囲を照らすだけだ。
週末の夜ともなれば学生たちは下の階層に出かけるなりしているのだろう。公園には噴水の立てる水音だけが響いている。
だが俺の鋭敏な感覚は、公園に立ち並ぶ木立の中に何者かが潜んでいるのを感知した。
左右の木立に一人ずつ、気配を殺しているのがわかる。メイはまだ気づいていないようだ。
「(無関係な連中なら放っておくんだが……)」
昼間の出来事に関係した連中だろうか。いっそ敵だとわかっていれば今の時点で先手をとってしまうのが楽なんだが、街中で派手な呪文は使いたくない。
対応に悩みながらも歩みを進め、キャンパスの中心であるラレス記念堂へと続く橋を渡り始めたところで後方の連中に動きがあった。
足音を消しながら背後へと回り込む二人組。退路を断つようなその動きを気にしながら前方へ視線を向けると、そちらにはひとつの影が立ち塞がっていた。
目深に被ったフードからは顔を見ることは出来ないが、その体格から相当鍛えられた男性だと思われる。
袖から覗く手の甲は醜く爛れており、風が運んでくる彼の周りの空気は甘く腐食している。
明らかに不穏な気配を発しているその男を見て、メイも警戒感を露にして足を止めた。背後の連中は距離を詰めてくる様子はない。
「こんなに良い夜だってのに……気分を害するような無粋はやめて欲しいんだが」
コンサートホールを出た頃の高揚感はこの男の登場で一気に萎えてしまった。
だが相手はそんなことにはお構いなしとばかりに口を開く。
「何、ちょっとした野暮用さ。この街の新参者に、観光案内でもしてやろうかと思ってな。
大人しくついてくるのであれば、痛い目に合わなくて済むようにしてやるぞ?」
音を発するために男のひび割れた唇が開き、その間からは半ば腐ったような歯が覗いた。
不気味な雰囲気を纏ったその男は、話し終えるとこちらに向かって歩み寄ってきた。
咄嗟にメイを庇うように前に出て、男の前に立つ。
「フン、あんたのそのナリじゃとてもガイドが務まるとは思えないな。
後ろのお仲間を連れてとっとと穴ぐらに帰りな!」
口に出すことでメイに後方の警戒を促し、俺は目前の男に集中する。見たところ、刃物などの危険物を身につけているようには見えない。
秘術呪文に使用する物質要素が仕舞われたポーチなどを身につけている様子もない。だが、それでもなお男の放つ威圧感は俺に警戒させるに十分だった。
俺が柄に手を掛けた剣の射程距離に入る直前、それまでのゆっくりとした歩みから突然加速した動きで男が急接近してきた。
どうやらこの男は俺と同じモンクとしての訓練を積んでいるようだ。一気に剣の間合いのさらに内側まで踏み込んできた。
素手での格闘に特化したモンクという職業は一回の攻撃の鋭さこそ武器を用いた戦士に劣るものの、その四肢だけではなく体全体を武器として用いることで連続攻撃を行うことを可能にしている。
拳による打突を避ければその腕は軌道を変えて肘が迫ってくる。一歩後退してそれを避けると相手は更に踏み込んで肩から体当たりを行い、横に回って背後を取れば回転肘が迫ってくる。
途切れなく襲ってくる攻撃は、例えば術者であるメイでは接近されれば手も足も出ないだろう。
だが俺からしてみれば、出来の悪い扇風機に過ぎない。相手の気配から、次に放たれる攻撃は全て予測できた。
自分が体をどのように動かせばいいのか、またそれによって相手が次にどのように動くのかが手に取るように判る。
相手の攻撃は俺の纏うローブにすら触れることは出来ず、虚しく空を切るのみだ。
「(さて、どう対応したものか……)」
この連中の狙いは俺と思うが目的がわからない。昼間の事情は粗方ハザルに話してあるし、いまさら口封じでもないだろう。
ともあれ、相手は平和裏に交渉しようという態度ではない。ならば適度に無力化して話を聞く必要があるだろう。
だが俺が攻勢に出ようとした瞬間、次の攻撃の準備に引かれた男の拳の中に突如金属質の輝きが現れたのが見えた。
おそらく外套のポケットにでも潜ませていた投擲用のダガーを"早抜き"により取り出したのだろう。
あまりにスムーズに攻撃の一連の流れに溶け込むようにして行われたその動きは、俺ですら一瞬自分の目を疑うほどだった。だが驚いている場合ではない。
俺は終始メイを背に庇う様な位置で男と対峙している。俺が回避できないように、直線状に並んだ二人を狙うつもりだろう。
この至近距離での戦闘中では、放たれてから打ち落とすよりは腕そのものを払い、射線をずらした方がいい。
そう判断すると相手の手首に手刀を放ち、腕を払いのけた。弾かれたダガーは橋の欄干を飛び越え、虚空へと消えていく。
続いて反対の手で拳を作り、がら空きになった胴体に攻撃を叩き込もうとしている時に俺の視界に赤い輝きが飛び込んできた。
男の腹部を中心に、奇怪な模様が首筋まで這い上がっていくのがローブ越しにも確認できる。
同時に触れている男の手から、腐食のオーラが俺の体内へと流し込まれる。咄嗟に腕を放し後ろへ下がるが、どうやら遅かったようだ。
触れた対象の生命力を削る《ポイズン/毒》の呪文が、男の特異型ドラゴンマークのパワーにより発動し俺へと牙をむいた。
「少しは腕に覚えがあるようだが、いささか経験が足りないようだな。下たる竜からの賜り物を得た我が手に触れるとは愚かな男よ。
体内に流し込まれた毒に苦しみながら、我らに歯向かった愚行を悔いるがいい!
何、運が良ければ死にはしないだろう」
勝負あったと思ったのか、僅かに後退し勝ち誇るように男は口上を述べた。
今のダガーはこちらに腕を払わせるためのフェイクだったようだ。本命はその腕の接点から呪文による毒を流し込むことだったのだろう。
繰り広げた派手な動きに男が被っていたフードがめくれ、顔が月下に晒されている。顔の肌も手の甲同様爛れており、その凶相は異形と見紛う程だ。
おそらくは体内に宿した特異型ドラゴンマークの副作用だ。火や恐怖、そしてこの毒といった負の魔力源を身に宿すことの危険性がこの男の姿から見て取れる。
「トーリさん!」
メイの声に背を押されるように前方に倒れこむ……フリをして男との距離を詰めると、その油断した顔に握りしめた拳で一撃をお見舞いした。
予期せぬ反撃だったのだろう、鼻頭に攻撃を受けた男は後ろへ吹き飛んだ。
男を殴りつけた手には、月光を照り返して輝く魔法の指輪がはめられている。《プルーフ・アゲインスト・ポイズン》と《グレーター・フォルス・ライフ》の効果を兼ね備えた逸品だ。
毒を無効化し、仮初の生命力を付与するゲーム中のランダム生成品の中では相当に便利な品物だ。それぞれの効果はそれほどの価値がなくとも、装備スロット一つで複数の効果を得られると言う点が素晴らしい。
そしてゲーム中ではありふれたその効果だが、この世界ではそのいずれもが存在しないか希少な能力だ。俺が常に装備を心がけているアイテムの一つである。
まぁ実際にはこの装備がなくとも生来の抵抗力(セービング・スロー)で無効化できたのではないかと思うが。
「随分と自信がある能力だったようだが、俺をどうこうしようってのは思い上がりだったようだな。
毒が通用すると思っているなんて、随分と生温い連中の相手しかしてないんじゃないか?」
"威圧"するようにわざとゆっくり歩みを進める。男は出血している鼻を抑えながら今ようやく立ち上がったところだ。
今の俺の素手打撃の威力は一般的な長剣並である。全力で強打したため普通の人間であれば瀕死になる威力ではあるが、目の前の男は鍛えているだけあってインパクトの瞬間に衝撃を逃がしていた。
見た目の出血こそ派手ではあるが、戦闘に支障はないはずだ。
先ほどの能力からこの男の所属についてはもう見当はついているが、念のために確認を取りたい。
距離を詰める俺に対して、こちらの実力を見誤っていたことに気付いたのか目の前の毒使いは慌ててバックステップを行った。
「成程、思っていた以上に腕は立つようだな。だが、貴様は我々を敵に回すと言うことがどういうことか全く理解していない……」
そう言うと男は歯を食いしばり、再び体に宿したドラゴンマークに力を込めた。先程よりもさらに凶々しく、男の胴体を赤い輝線が走っているのが見える。
再びその身に宿した特異型マークの効果を解き放とうというのだろう。赤黒い輝きが男の体を舐めるように明滅しながらその存在感を増していく。
だが男が力を解き放とうとした瞬間、空から差し込んでいた月明かりが消えた。頭上を見やると、巨大な生物が翼を広げて上空を滑空している。
黒い翼を広げたその生物はラレス記念堂から舞い降りると、俺と男の間に立ち塞がった。
胴体は巨大な黒猫、首から上は美しいエルフの乙女。だが、その顔の大きさをエルフの肉体に合わせればその身長は3メートルを超えるだろう。
闇を彩った長い髪は後ろへと垂れ、背中に広げられたカラスのような漆黒の翼に混ざり合っている。体に僅かに走るオレンジ色の縞模様は彼女が体を揺らす度に波打ち、まるでゆらめく炎のようだ。
「わが寝所の近くにて無作法な振る舞いは許さぬぞ」
女性のスフィンクス──ギュノスフィンクスと呼ばれる、高い知性を持った大型の魔獣だ。生来争いを好まない種ではあるが、いざ戦いとなれば鋭い両前脚の爪と呪文の力で敵を打ち倒す強力なクリーチャーでもある。
黄金の瞳がこちらを探るように覗き込んでいる。その存在感は並のクリーチャーなど比較にならない。
「チ、邪魔が入ったか……。
運が良かったな、新参者よ。だがその幸運がいつまでも続くとは思わぬことだ!」
捨て台詞を放つと、男は橋から身を翻して暗闇の中へと落下していった。逃げ出したのであれば追うのも一つの手ではあるが、眼前のクリーチャーは無視できる存在ではない。
前回の不手際もあるし、深追いはせずに目の前の状況を片付けるべきだと判断し、ひとまず会話を試みる。
「騒がせて済まなかったな。妙な連中にちょっかいをかけられて困ってたんだ。助かったよ」
メイが牽制していた連中の姿は既にない。彼らも先ほどの男同様、姿を眩ましたようだ。
「フレイムウィンド!」
俺の背中越しにメイがスフィンクスに呼びかけた。どうやら知己であるらしい。
サプリメントや小説に登場するこのスフィンクスは確かモルグレイヴ大学に住んでいるらしいし、そこの学生であるメイと親交があってもおかしくはない。
「久しいな、秘術の深奥を学ぶ娘よ。そなたが我が故郷である砕かれた大地へと向かって以来か」
メイの姿を見たスフィンクスは僅かにその喉を鳴らすと橋の上へと身を伏せさせた。とはいえ、その巨体からして視線を合わせるには見上げなければならない。
「二ヶ月ぶりですね、お久しぶりです~
そういえばまだ無事に戻った挨拶に伺ってませんでしたね。元気にしてましたか?」
メイの口ぶりはまるで友達に対するそれである。このスフィンクスは大学でゼンドリックの歴史についての講義をしている他、本を出版したりなどもしていると聞く。
彼女の性格であればこの距離感も有り得なくはないか?
「メイ、知り合いか?」
一応確認しておく。サプリメントと小説で登場しているのである程度把握しているとはいえ、紹介してもらった方が自然だろう。
「はい。そこのラレス記念堂に住んでらっしゃるフレイムウィンドさん。
見ての通りのスフィンクスで、ゼンドリックから大学の調査隊に同行してこちらにいらっしゃったんです。
私が旅に出る際にも助言を頂いたんですよ~」
このスフィンクスは非ドラゴンでありながらも"ドラゴンの予言書"を研究する数少ない存在である。
また彼女自身にも制御出来ない予言的知覚を備えており、どんな事を知っていてもおかしくないと登場した書籍には解説されている。
余計なトラブルを抱え込まないために接触は避けていたのだが、こうなってしまっては仕方ないだろう。
「はじめまして、トーリだ」
とりあえず当たり障りのない挨拶を行っておく。
「礼は不要ぞ、上たる竜の申し子よ。
ここは今は我の領域であり、その乱れを正すは我が役目でもある」
彼女が上体を揺らすと、首から下げている3本の鎖が月明かりを反射して輝いた。金、銀、そして黒く輝くアダマンティン。
その首飾りがもたらす光の明滅は、この神秘的なクリーチャーの存在感を高める役割を果たしているようだ。
「メイよ、そなたは南方で良き出会いに恵まれたようだ。
汝の運命の火は混じり合って炎となり、より一層輝きを増すだろう。
だが注意せよ、南方の大地の下にも悪鬼共は眠っている。
再び大地が砕かれることがあれば、彼の者たちは地上へと溢れ出すだろう。
13番目の月が欠ける時、黄昏の門から訪れる者たちに注意せよ」
まるで詠うようにスフィンクスは言葉を紡いだ。語られた言葉のいくつかのフレーズには、ゲームの知識からして思い当たる点がいくつかある。これが彼女の"予言"なのか?
その意図を察しようと彼女の言葉を反芻していると、次にスフィンクスは俺の顔を覗き込みながら言った。
「そしてトーリよ、汝の強き輝きが遙か海の彼方で燃え上がったのは見ていた。
その光によって眼を焼かれた者たちも多いことだろう」
俺のことが知られている!?
憂慮していた事態が現実になっていたことで、背筋を氷柱で貫かれたように感じた。
このスフィンクスの超知覚の裏側には妖精界を統べる女王をはじめ、多くの"力あるもの"の影が見え隠れしている。そんな連中の興味を引いているなど、考えたくなかった状況だ。
「……光栄だ、なんてとても言える状態じゃないな。
ストーカーの心配をしなくちゃいけないなんてね」
まったく、うんざりする話だ。だが、続くスフィンクスの言葉は俺の懸念を幾分か和らげてくれた。
「安心するがいい。"白剣"の鞘が汝を包んでおり、今となっては直に眼に捉えねばその炎を見ることは適わぬ。
だがそれ以前に放たれた汝の光はこの"中たる竜"を照らし、いままで影に隠れていたものを僅かな間とはいえ浮かび上がらせた。
そのことは努々忘れるでないぞ。
そして汝の刀身は鋭く、やがて鞘はその役目を終えるだろう。それまでに汝は新たなる鞘を見出さねばならぬ。
強すぎる光は暗がりにいる者たちを招き寄せる。抜き身の刃は汝自身とその周囲を等しく傷つけるだろう」
彼女はそう言うとその四肢で立ち上がり、翼を広げた。
「既に"下たる竜"の顎が汝の踝を包んでいる。
汝がこの地で望みのものを得るためには一度深淵に潜らねばならぬ。その顎に飲み込まれるか、打ち勝つかは汝次第だ。
だが、それを成さぬのもまた汝の選択次第である。
運命とは炎のごときもの、風を受け揺らぐ。強き炎ほど刻々とその姿を変え同じ様相を持つことはない。
汝自身でその炎を御し、自らの成すべきを選ぶがいい」
差し渡し10メートルを超える漆黒の翼がその四肢による跳躍と共に羽ばたくと、彼女の姿は一瞬で視界から消えた。
頭上からは彼女の翼から抜け落ちた何枚かの羽が舞い降りてくる。一方的に喋るだけ喋って、おそらくは寝所であるラレス記念堂の天蓋に戻ったのだろう。
「あらら、久しぶりにもっとお話がしたかったのですけれど。
行ってしまわれましたね~」
少し寂しげなメイの言葉が後ろから聞こえてくる。彼女は"予言"を軽いアドバイス程度に考えているのだろう。
俺もそう出来ればいいのだが、今の彼女の"予言"についてはいくつかの解釈が考えられる。余計に気を回してしまう自分の性分がこんな時は少し恨めしい。
だが、いまここで考え悩む必要はない。先程の連中は去ったとはいえ、夜の街では厄介ごとに遭遇する可能性も高い。寄り道はせずにホテルへ帰るべきだろう。
「……とりあえず、帰ろう。
今日は一日で色んなことがあったし、ホテルの部屋でゆっくりしたいよ」
本来であれば《テレポート》でも使いたいところだが、慣れ親しんだ部屋への転移にも失敗率は存在する。
普段ならあまり気にしない程度だが、このツイてない時にはそんな些細な可能性も考慮した方がいい。
失敗率のない《グレーター・テレポート》のスクロールも用意はあるが、流石に補充の厳しそうな有限のリソースを費やすのは勿体無い。
「そうですね。もう大した距離ではないですけど、またさっきの人達みたいな事があると厄介ですしね~。
でもお馬さんを出すのに10分は掛かりますし、そうなると飛んで帰った方が良さそうですね」
メイが言うお馬さんは《ファントム・スティード/幻の乗馬》あるいは《イセリアル・マウント/エーテルの乗馬》のことだろう。
どちらも彼女の得意とする"召喚術"に属する呪文で、普通の馬の何倍ものスピードで移動可能な半実在の乗騎を召喚する効果を持つ。
その移動速度は非常に魅力的だが、召喚に要する10分という時間がこの場合は問題だ。
「じゃ、そうしようか。メイ、こっちへ」
仕方なく乗騎の召喚を諦めて、飛んで帰ることにする。普通であれば《フライ》の呪文を使うのだが、ここはシャーン。紺碧の空に包まれた街だ。
自前で飛行呪文を使用するより、シャーンの特性を活かしたマジックアイテムによる飛行の方が移動は早い。
俺は初めて出会ったクエストの時のように彼女の体を抱き上げると、ここ数日で随分と乗り慣れたソアスレッドを起動しホテルへと向かったのであった。