目を開くと天井の一部、ガラス張りになった部分から曇天が見えた。深く重い雲からは今にも雨粒が降りだしてきそうである。
シャーンの気候は一年を通して高温多湿または高温多雨であり、温暖で乾燥した時期はごく短い期間しかない。
絶えず雨が降っているわけではないが昨日のような晴天は珍しく、雨粒一つ落ちてこない日は三日と続かないと言われている。
雲の上に座す『スカイウェイ』であれば年中晴れ渡っているのだろうが、基本的にこの塔の街は雨の多い街なのだ。
今日の天気は残念ながら雨になるのだろう。そう考えている間にもやがて天窓は降り出した雨により水に覆われていった。
流れる薄い水の膜に覆われた雲空は不気味に脈動しているようにも見え、起き抜けの気分を滅入らせる。
「雨が降ってきたようだな」
ベッドサイドから声がした。
キングサイズのベッドの脇、備え付けられたテーブルセットの椅子にエレミアが腰掛けていた。
湯上りなのか、湿り気を含んだ髪を梳いているところらしい。
昨晩の樫の木亭の設備からもわかるように、エルフは身だしなみに気を使う種族としても有名である。
何百年も使用する自分の肉体を健康に保とうという本能的欲求による部分もあるのだろう。
植物から様々な石鹸を作ったり、他の種族に類例がないほど歯の手入れに注意を払ったりするのはエルフの特徴とも言える。
エレミアが行っている髪を梳くという作業も、彼らにしてみれば日常の儀式といってよいものだ。
大抵のエルフは長い髪のため、その全てに入念な手入れを行うには相当な時間を要するのだが彼らがそれを苦にすることはない。
髪を梳かすブラシの動きは心を落ち着け、静謐の極みへと彼らの精神を導く。
睡眠のかわりに行われる瞑想に並び、これらはエルフにとっては自らの精神的コンディションを整えるために必要な儀式なのだ。
エレミアの姿も、このまま切り取って一枚の絵画にできるようなそんな雰囲気を纏っている。
彼女に挨拶をする為に身を起こそうとして、左半身が押さえつけられていることに気づく。
ようやく気づいた違和感にそちらへと向き直ると、薄いネグリジェのみを羽織ったメイによって俺の左半身はガッチリとホールドされていた。
俺の動きに反応してか、逃がさぬとばかりにメイはその締め付けを強めてくる。
秘術使いにしては力強いとはいえ寝ぼけながらの動作のため、きついというよりは彼女の体の柔らかさが押し付けられるだけなのだが精神衛生上非常によろしくない。
俺はどうやってこの状況から抜け出すかを考えつつも、一方でこんな状況になってしまった昨夜の出来事に想いを馳せるのであった。
ゼンドリック漂流記
3-2.塔の街:シャーン2
そんな朝から三日が経過した。メイに大学を案内してもらい大図書館で調べ物をしたり、エレミアに同行してヴァラナーの外交官に面会したりと充実した時間を過ごしていたと思う。
シャーンに滞在してから四日目の今日は、ヴァラナーへと出発するエレミアを見送ることから始まった。
やってきた時と同じ、ライトニング・レイルの駅を擁するオリエン氏族の巨大な居留地から彼女は《グレーター・テレポート》によって故国へと帰っていった。
向こうで2,3日を過ごした後、またこのシャーンへと戻ってくる予定だ。それまでにこの街での予定を片付けておく必要がある。
その後、同じ街域に設けられた『タヴィックス・マーケット』の野外マーケットを見物した。
ライトニング・レイルでコーヴェア全土から運ばれてきた物産がそのまま陳列されており、また周辺の農家たちも農作物を売りに出している。
五つ国や新興諸王国の衣類や工芸品、その他の産物が所狭しと並べられている状況はその混沌っぷりも相まってストームリーチの中央市場より何倍も盛況に見える。
「ここは相変わらずの活気ですね~」
ぴったりと俺の隣に張り付いているメイはあまり驚いていないようだ。確かストームリーチの市場の様子にも動じていなかったようだし、彼女にしてみればそれほど珍しい光景ではないのかもしれない。
人混みは多いものの、シャーン都市警護団がしっかりと治安を維持しており秩序と規律は保たれているようだ。
それでもスリはうろちょろとしており、時折メイに近づいてくる不審な連中には軽く"威圧"をして追い払ったりすることになった。
そんな市場で気に入った工芸品を買いながら見物をして午前中を過ごし、ランチを終えた後に俺たちはホテルへと戻ってきた。
「トーリ様。メッセージをお預かりしております」
フロントでキーを受け取る際、一通の封筒が差し出された。シヴィス氏族によるメッセージではなく、オリエン氏族の宅配サービスによって送られたもののようで封筒にはオリエン氏族の印章が用いられている。
差出人の名前は『トワイライト商会』。ホテルマンにチップを渡し、部屋に戻ると俺は早速封筒を確認した。
オリエン氏族の印章が秘術印で刻まれている以外にも防御術が付与されているが、おそらくは中身を保護するものだろう。害はなさそうだ。
テーブルに備えられていたペーパーナイフで封を切ると中には短文の書かれた質素な便箋が1枚入っていた。
『注文の品が入荷いたしました。ご来店をお待ちしております /サイラス』
俺が店を訪れてからまだ四日目だというのに、もうある程度の数が揃ったようだ。
「どんなお手紙だったんです?」
キッチンでお茶を入れていたメイがソファーの隣に腰を下ろしながら尋ねてきた。
マーザに教えてもらったというだけあって、彼女の入れるお茶はなかなかのものだ。
「魔法の品を探してくれるようにお願いしていたんだけど、その品物が入荷したってお知らせだね」
特に時間の指定はされていないので、すぐにでも向かうことにしよう。
「連絡も受けたことだし、午後はまずはその店に引き取りに行ってくるよ。
用が済んだらまた大学の図書館で調べ物かな」
部外者であっても、1日につき金貨1枚を支払えば大学図書館を利用した調べ物が可能だ。
魔法の指輪に込められた《ウィッシュ》の呪文による帰還が難しいことは、同じ《ウィッシュ》呪文から発動した占術呪文にて調査済みだ。
贅沢な使い方ではあるが、おそらく利用できるサービスの中では最も精度の高い占術であろうから金で解決できるのであれば投資は惜しむべきではない。
明確な否定ではなかったものの、似た世界ということでD20モダンやD20クトゥルフの世界なんかに飛ばされてしまっては却って危険性が増してしまう。
自分でこの世界の次元界に関する知識を集めて研究し、確りとした手順で呪文を発動する必要があるのだ。
どうやらD&Dの標準世界観と異なり、このエベロンでは主物質界が外部からの次元間移動に対して閉鎖されているようなのだ。
召喚呪文などによるものを除き、別の次元界へ移動するのであれば原則として顕現地帯を経由するしかない。
神格の存在しないエベロンで、デーモンやデヴィルといった別次元界の諸勢力に主物質界が蹂躙されていないのはこういった原因によるようだ。
とはいえ、デーモンとデヴィルの主たる王達はドラゴンとの戦争でカイバーの奥底へと封じられているし、過去にはダル・クォールの侵略で巨人文明が、ゾリアットの侵略でホブゴブリン文明が衰退している。
特にコーヴェア大陸ではホブゴブリンを中心としたドルイドの集団『門を護る者』が、かつての侵略で繋がってしまった別次元界とのゲートの封印を監視している。
いずれ次元界に関する深い知識を得るためには、彼らの拠点であるシャドウ・マーチに行く必要があるかもしれない。
だが今はまずモルグレイヴ大学の大図書館だ。ズィラーゴのコランベルグ図書館には及ばないし、蔵書もゼンドリック関連にやや偏っているものの自分の知識のみで研究するよりは確実に効率が良い。
とりあえず今はじっくりと研究する時間を確保するために、懸念事項であるシャードの収集を済ませておくべきだろう。
「それじゃあ、また七点鐘の頃に待ち合わせしましょうか。
リランダー氏族の予報士によれば夜は晴れるそうですし、コモンズ広場の噴水前で待ち合わせしましょう~」
"嵐のマーク"を有するリランダー氏族はハーフエルフのドラゴンマーク氏族であり、そのマークの力を活用した雨乞いギルドと風工ギルドを運営している。
前者は天候を操作することで農業などに強い影響を与え、またメイが先程言ったように気象予報士のような仕事を受け持っている。
後者は船を用いた運輸業が中心だったが近年飛空艇の開発により、従来高かった影響力をさらに高めているコーヴェア大陸でも屈指の勢力である。
とはいえ、既にオリエン氏族の《瞬間移動》による移動サービスを利用できるだけの経済状況にある俺たちには、あまり縁のない氏族とも言える。
「ああ、それじゃまた後で。メイも研究頑張ってな」
軽い抱擁を交わした後にメイはこの《メンシス高台上層》の中央にあるモルグレイヴ大学へと向かっていった。
俺の目的地である『トワイライト商会』は同じ街域の中層だ。購入した飛行橇で飛んでいくこともできるが、まだ慣れない街の雰囲気を肌で味わいたくて俺は徒歩と昇降機を用いてサイラスが待つ店へと向かった。
昼間とはいえ、塔の内部で外の光の差し込まない区域は常に薄暗がりに包まれている。トワイライト商会の位置する区画もその一つだ。
大通りからは離れた区画にあるこの店の入り口は、一見壁に開いた穴にしか見えない。
先日来た際には門衛をしていた二体のウォーフォージドの姿は今は無い。
一瞬店が休みなのかと考えたが、メッセージをわざわざ送ってきたところからしてそれはないだろうと判断して暗がりへと足を進めた。
薄暗い階段は先日訪れた際と同じで、曲りくねりながら上へと続いている。以前一度訪れていなければ、これが店へと続く通路だとはとても思えないだろう。
相変わらず狭くてデコボコした足場に苦慮しながら、数分かけて階段を踏破して店内へと到着した。
敷き詰められた絨毯は相変わらず趣味の悪い色をしていたが、そこに足を踏み入れた際に俺は違和感を感じた。
「(絨毯が水気を含んでいる……前回来た時と異なる斑模様、それにこの臭いは血臭……!)」
靴底を通じた触覚が脳に届くと同時に、視覚と嗅覚がそれぞれに別の情報を運んできた。
それらの情報の意味を噛み砕くまでもなく、第六感が告げる危機感が俺の体を翻らせた!
カウンターの影に潜んでいた存在がこちらに向かって腕を突き出してくるのを、体を入れ替えるようにして回避する。
すれ違いざまに視界に映ったその男の手の甲には、禍々しい赤黒い輝きが不吉な模様を描いていた。
鉄の棒を押し付けて落書きをしたようなその輝きは、肘を超えて肩の近くまでも伸びているのが薄手の黒装束越しに見える。
その不気味な輝きを纏った男の手のひらは、捉えるべき俺の姿を見失い店の壁を叩く。
だが恐るべき事に、ただ触れただけに見えたその手のひらから緑色の光が微かに瞬いたかと思うとその直後には壁が刳り貫かれたかのように消滅していた!
「《ディスインテグレイト/分解》だと!?」
2メートルを超える分厚さの外壁が恐るべき呪文により分解され、街を照らす魔法の光が部屋に差し込んでくる。
俺の視界の片隅に、サイラスと思われる骸がカウンターの向こう側に転がっているのが映った。
命を失ったことによりチェンジリングとしての姿を晒したその肉体は、首から上が失われていた。足元を濡らす血はその断面から流れ出たものなのだろう。
そちらに気を取られた一瞬を見逃さず、男はたった今刳り貫いた壁の穴へと足を踏み出して行く。
やや小柄な成人男性に見えるが、先程不可思議な攻撃を放った左腕だけがシオマネキのように肥大化している異様なシルエットだ。
右手には白いザックを持っており、その膨らみ加減からしてこの店を狙った物盗りなのではないかと考える。
追うべきか、留まるべきか?
刳り貫かれた外壁部分に俺も踏み入ると、物盗りの男がソアスレッドを起動して宙高く舞い上がっていくのが見える。
僅かな思考の後、俺はこの物盗りを追うために同じように宙へと身を踊らせた。
壁面が消失したのは表通りからでも見えたのか、足元には騒がしい気配があるが構っている暇はない。
ブレスレットに収納していたソアスレッドを足元に召喚し、壁面に設けられたバルコニーから塔の外へと飛び出した男を追って水晶の円盤を翔けさせる。
天気は生憎の雨だが、物盗りの男の乗るソアスレッドの燐光はまだ十分に視界に捉えることが出来ている。
黒い装束に身を包んだその男は、無造作に伸びた髪を宙に翻しながら塔林の合間を飛んでいく。
俺が追っていることは察しているようで時折こちらを撒こうというのか狭い空隙に潜り込んだり塔の密集地帯へ飛び込んだりしているが、そのアンバランスな体格が影響しているのかコーナリングが甘い。
対してこちらは無手で荷物は全てブレスレットの中、"平衡感覚"もチートによりオリンピック級だ。
連絡橋をくぐり、密集している飛行ゴンドラの隙間に飛び込み、塔のバルコニーからバルコニーへと貫通するように進みながらも物盗りを追う。
時には塔の間に吊るされた洗濯物の壁を突っ切りながら、徐々にその距離を詰めていく。
道具の性能は同じでも乗り手の技量の差を活かすことでコーナリングを経る度に距離は縮まり、やがて近距離用の呪文の射程範囲内へと近づくことに成功した。
「(攻撃呪文は非致傷設定にする特技を習得していないからマズイか……。『精神作用』系の心術で味方と誤認させるか?)」
シャーンの街中で攻撃魔法を使用することは勿論禁じられている。それどころか、攻撃魔法を発動することの出来るワンド等を許可無く携帯することすら違法行為だ。
正当防衛であれば傷害事件に対する量刑も認められるが、俺はシャーン市民ではないただの旅行客に過ぎない。
強盗殺人の容疑者相手といえど、街中で危険な呪文を行使することには慎重になった方がいいだろう。
随分と激しく上下移動もしたが、まだここはメンシス高台の中層区なのだ。派手なドンパチは避けるべきだろう。
幸い心術系統は場合によっては詐欺罪には該当するものの、その立証責任は訴えた側にある上にこの状況であれば罪に問われるとも思えない。
ひとまず《チャーム・パーソン/人物魅惑》の呪文を使用してこの追いかけっこを終了させ、その後に無力化して警護団に引き渡せばよいだろう。
だが、この判断に費やした時間が仇となった。
選択した呪文を行使すべく集中に入ったその瞬間、俺目掛けて多数の矢が打ち込まれてきたのだ。
上方から飛んできたその矢の総数は12。回避すべくトリッキーな軌道で螺旋を描く。
矢の飛んできた方角を見やると、同じくソアスレッドを足場に弓を構えたノール──ハイエナの頭部を備えた二足歩行の獣人の姿が見えた。
アーケードゲームのD&Dにおいても頻繁に登場した典型的な悪役種族のひとつである。
6体のノールのうち半数は、上方を占めたまま《連射》によりこちらの進路を阻害するように弓を放ってくる。
残る半数はどうやら接近戦を行うつもりのようだ。彼らは弓からグレートアクスに持ち替え、こちらへと急降下してくる。
「活きのいい獲物だ、殺すなよ!
生きたままカブリついて悲鳴を楽しもうじゃないか!」
「一番最初に傷を負わせたやつが最初の一口だ!」
連中は口々に叫び声をあげながら突っ込んでくる。
まさかまだ昼間といっていい時間、街中でこんな物騒な連中に出くわすとは思わなかった。
全員がソアスレッドに乗っており、余裕のあるその軌道を見るに連中は手馴れた空賊なのだろう。
前方を離れていく物盗りと無関係とは思えないが、こんなあからさまに足止め目的の連中の相手をするつもりは俺にはない。
足場が不安定な条件はどちらも同じ。数の利は相手側にあるようだが、大した訓練も積んでいないこの程度の相手であれば、俺の相手をするにはもう二桁は多く数を揃えるべきだろう。
とはいえ派手な呪文は使えない。ここは早々に連中の数を減らし、あの物盗りを追うことが最優先事項だ。
「一番乗りはこの俺だ!」
勢い良く突っ込んできたノールの振り下ろす斧を僅かにソリの軌道を逸らすことで回避し、交差するその瞬間に《足払い》を掛ける。
無論、ここは大地の上ではなく空中だ。姿勢を崩したノールは、哀れソアスレッドから転がり落下していく。運が悪ければそのまま地表に熱烈な抱擁を受けることになるだろう。
ほぼ体当たりの勢いで襲いかかってくる後続の二体にも、同様に《足払い》の洗礼を浴びせる。
一瞬の間に主人を失った3機のソアスレッドは愚直に直進を続け、やがて進路上の塔の壁面に激突して緑色の火花を散らした。
あっという間の出来事に、上空に留まるノール達も戸惑っているようだ。距離が離れていても動揺している気配が伝わってくる。
ソアスレッドは高価な品だし、落下していった仲間のこともある。この乱入者達は無力化したと思っていいだろう。
そう判断した俺は、今の交戦で生じた遅れを取り戻すべく物盗りの後を追った。
ノールの妨害で失った時間は数秒に過ぎないため、まだあの男の姿は視界に入っている。どうやら下層へと向かっているようだ。
先行するソアスレッドは中層に比べて明らかに太くなった塔を旋回するように下降すると、やがて連絡橋の入り口から塔の内部へと進入していった。
その後を追って突入した俺の目に映るのは、昼間から騒がしい歓楽街『ファイアーライト』の街並みだった。
昼間だというのに通りには肌を大きく露出させた街娼が立ち並び、空気はまるでアルコールに浸したかのようだ。
そこら中に見える居酒屋やカジノからは下卑た笑い声が響いている。
通りを歩く酔っぱらいたちは、頭上を飛び越えていく俺たちの姿を指さして話の種にしているようだ。傍から見ていれば野良レースにでも見えるのかもしれない。
先程の待ち伏せにより稼がれた距離はなんとか詰めた俺だったが、ここに来て状況は悪化した。
下層へ向かえば向かうほど建物の密度は増し、入り組んだ構造となる。そうなれば土地勘のないこちらが圧倒的に不利だ。
次々に現れる障害物を紙一重でやり過ごしながら追跡を続けるものの、一向に距離を詰めることが出来ない。
「(マズイな、このままだと振り切られるか……? だが相手も厳しいはず)」
おそらくは先程のノール達が追撃を防ぐための防波堤の役を担っていたのだろう。
だが実際には連中は薄紙1枚程度の働きしかすることが出来なかった。相手にとっては予想外の展開だと思いたい。
とはいえ、このままでは埒があかないのも事実だ。そろそろこの追いかけっこにも幕を下ろすべきだろう。
街区の中央にあるこの塔の中で一番派手な建築物、カジノ『ラッキー・ナインズ』の屋根に投影された呪文による幻像を突き破り、物盗りの後ろ姿を視界の正面に捉えた。
奴は前方にある建物の影に入り込もうとしているようで、やや勢いを落としながら姿勢制御に意識を傾けているようだ。その距離30メートルほどか。
狙っていたその状況を逃すまいと、俺は《高速化》した呪文を解き放った!
「追いかけっこはもう終わりだ!」
呪文により俺の肉体は一瞬この主物質界に隣接するアストラル界へと溶け込み、その直後に物盗りの正面に滲み出るように出現した。
《ディメンジョン・ステップ/次元跳躍》、術者を短距離限定ではあるが瞬間移動させる秘術呪文である。
コーナリングのためにソアスレッドの操作に集中していた男に、突如進路上に出現した俺を回避する術はない。
体格や身のこなしからして男の技量は一般的には優れているものの、エレミアにやや劣るといったところか。俺の敵ではない。
体当たりの勢いで接近した俺は、《突き飛ばし攻撃》により男を弾き飛ばそうと蹴り足に力を込めた。
狙い過たず、俺の足は男の体幹に吸い込まれるように進んでいく。男はザックを抱えた右腕で蹴りを防ごうとしたが、俺の見た目から威力を侮ったのだろう。
チートにより巨人族や恐竜並の筋力を誇る俺の攻撃を、腕一本で防ぐことなど出来はしない。
靴底から伝わる骨を砕く感触、そして庇った腕ごと胴体に足首まで捻じ込む勢いで蹴りが炸裂した。
無論そんな衝撃を受けて体勢を維持出来るわけがない。男はザックを手放し、折れた腕を抱えながら地面へと落下していく。
身につけた装具の『フェザー・フォール』の効果により緩やかに下降する俺の足元に、予め進路を操作しておいたソアスレッドが飛んでくる。
現在の高さは7メートルほどか。一般人であれば即死しかねない高さだし、あの男にとっても痛手だろう。
着地に失敗して足を痛めれば逃げることも出来なくなるはずだ。
そう考え飛行橇の上から落下する男を見ていた俺だが、男の行動は俺の予想を超えていた。
地面に激突すると思われたその瞬間、黒装束を翻すと地面へとその歪な左腕を叩きつけたのだ。
受身のつもりか、と思ったその直後。再び男の左腕を赤黒い燐光が伝うと、男の体を受け止めるはずだった床は跡形もなく消滅した!
落下の勢いそのままに、男は階下へと姿を消した。如何に機動性が優れたソアスレッドであろうとも、自由落下の速度には敵わない。
「逃がしたか!」
ソアスレッドを操作し、床の穴の縁へと近づく。階下はこのフロアと違って、天井の高さは大したことがないようだ。
狭苦しい空間では大勢の人間が歩いているのが見える。幾人かは突然天井の一部が消滅したことに驚いているようだが、そこに黒装束の姿は見えない。
透明化の呪文で姿を消したのならともかく、人混みを盾に逃げられたのであれば不慣れな土地での追跡は不可能だ。
あの異形は特徴的だろうが、聞込みをする対象が酔っ払いばかりでは効果も薄いだろう。
俺は一息ついて男の追跡を諦めると、蹴りの衝撃で彼が取り落としたザックへと近づく。
犯人の確保こそは失敗したが、ザックを確保できたのであれば最低限の目的は達成したと言っていい。
念のため、トラップの類が仕掛けられていないことを調査してからザックの中身を確認する。
だが追跡の結果手にしたこのザックの中には、大して価値もない工芸品の類が少々詰め込まれているだけだった。
相手の狙いにようやく気づいた俺は、《テレポート》の呪文により店の前へと舞い戻る。
その俺の視界には、開いた壁の穴から勢い良く炎を吹き出している外壁が映っていた。
多くの見物人が壁を取り巻く中、警護団が必死の消火活動をしているようだが効果は乏しいようだ。
「・・・・・・やられたな」
おそらくあの黒装束の目的は俺を引き付けておくことだったのだろう。
店内の俺の視線の届かないところにまだ仲間がおり、そいつらが仕事を終えるまでの間の時間稼ぎのためにあの逃走劇を演じたに違いない。
俺はその陽動にまんまと引っかかり、連中の思惑に乗せられてしまったということだ。
その稼いだ時間で連中は仕事を終え、価値ある品を回収した後に店に火を放って逃走したというところだろうか。
倉庫に貯蔵されている秘薬に火がついたのか、時折爆発音を響かせながらも炎はどんどんと勢いを増している。
万が一大爆発でも起これば塔の外壁部分が吹き飛び、大規模な倒壊を招くかもしれない。
外壁を刳り貫いたような店だっただけに、この部分の構造は弱くなっているはずだ。このままでは最悪の事態になりかねない。野次馬をしている連中にも徐々に動揺が広がっていく。
だが、その心配は杞憂に終わった。ウォーフォージドの警護団員が、《レジスト・エナジー》の呪文により火に対する抵抗力を付与されて炎の猛る屋内へと突進して行ったのだ。
警護団の一部門であるブラックンド・ブック──秘術犯罪に対する"対抗魔道師"で構成された部隊が駆けつけたことによる呪文支援だ。
いかなる魔法のアイテムを使用したのか、彼らが突入して数分の後には荒れ狂う炎はすっかりと姿を消した。
煤で汚れたウォーフォージドたちが外壁の穴に姿を現し、消火が完了した旨を伝えると見物客達は拍手と歓声を持って彼らを迎えた。
戦争のために造られた彼らウォーフォージドは、呼吸や睡眠といった生理的な活動を必要としない。その特徴と呪文による防護が、彼らに火中での消火活動を可能にしたのだろう。
ウォーフォージドは戦争が終結した後に人権を与えられ兵役から解放されたのだが、目の前に居る彼らは都市警護団の中に自らの生きる道を見出したのだろう。
「市民の皆さん、ご協力ありがとうございます。
消火は無事終了しましたが、壁が一部脆くなっている恐れがあります。
危険ですので外壁周辺には近づかないようにしてください」
警護団の分隊長と思わしき人物が、集まった野次馬達に呼びかけている。
どうやら騒ぎも一段落したようだし、俺もここを離れたほうが良いだろう。ザックの中身については後日届ければいいか。
そう考えて身を翻そうとしたところで、先ほどウォーフォージド達に呪文の援護を行っていたノームの男性が近づいてきた。
確かブラックンド・ブックの構成員の大半は4レベルの呪文使いだったと記憶しているが、目の前の人物はそれにしては隙のない様子だ。
動きやすそうなローブの上に、肩から腰に掛けてポーションやワンドが収められたベルトを装備している。
「失礼、私めはブラックンド・ブックに所属するハザル・ダリアンと申します。
実は先ほどの火事について市民の方から目撃証言を頂いておりましてね。よろしければ捜査にご協力いただけませんでしょうか?」
言葉自体は柔らかいものの、このノームの瞳には強い警戒感が感じられる。
俺があの黒装束を追って飛び出したことは目撃されていただろうし、重要参考人扱いというところだろうか。
下手をすれば犯人扱いということも考えられる。
視線をやらずとも、周囲の見物客に紛れてこちらを包囲するように展開している連中の気配を感じることが出来る。
どうやら何から何まで、選んだ選択肢が悪い方向へ結び付けられてしまっているようだ。
この場を離脱することは簡単だが、それでは自分に疚しい所があると宣言しているようなものだ。
「勿論、そういうことであれば協力させてもらいますよ。
こちらからもお話に伺おうと思っていたところですし」
できるだけ相手の態度を友好的に保つべく、言葉を選んで対応する。ここから先は一挙手一投足が監視されていると判断したほうがいい。
「ありがとうございます。立ち話もなんですし、少し場所を移しましょうか」
そういってノームは一台の飛行ゴンドラを手配すると、俺に乗り込むように手で指し示した。
ゴンドラが向かうは『ウォーデン・タワーズ』。メンシス高台における都市警護団の本拠であり、彼らブラックンド・ブックの駐屯地でもある。