「………春、蘭」
どういうわけか攻勢を止めて引き上げていく北郷軍を確認してほどなく……私を逃がすために体を張った子たちが戻ってきた。
全員、欠ける事なく。ただ、季衣は前線に残り、そして……春蘭は、秋蘭に抱えられていた。
「……血を流しすぎたのでしょう。すぐに軍医に見せて止血します」
頭部に巻かれた、破いた袖布。そこから流れる夥しい血。あの下の左目がどうなっているのか……簡単に想像出来てしまった。
春蘭の……左目が……
「呂布か! 呂布の仕業か!?」
取り乱し……かけて、自制する。いや、
「ッ…! ……状況を、報告しなさい」
しきれていなかったかも知れない。
「……は。前線は崩壊、私、姉者、流琉、凪、真桜、沙和が負傷。呂布が退いた理由は不明。……我ら魏の将が揃いも揃って、面目次第もありません」
「勝敗は兵家の常よ。それに、私も正直甘く見ていたわ」
半ば誤魔化しのように求めた状況報告は、概ねわかっていた事だった。
わからないのは……何故呂布が退いたのか? あのまま攻めて来られれば、総大将の私が逃げる事さえ出来たかどうか。
「原因まではわかりかねますが、せっかくの好機に攻め込む事以上に重大な異変が起きた、という事だと思われます」
「ですが、我らにとっても好機なのです」
現状を桂花が分析し、音々音が進言のように断じる。それを尻目に、秋蘭は春蘭を抱えて軍医の許へ急ぐ。
当然、既に状況把握には全力で努めているが、その上で、決断が迫られている。
「最大の勝機を手放すほどの事態、我らにとっては千載一遇の勝機にも繋がります」
「ねねは反対なのです。何があったのかは知りませんが、こちらも既に反撃に十分な余力は残っていません。攻め切れず玉砕するのは目に見えているのです」
「でも! ここで退いたらこれまでの全てが無駄になるのよ!? あなただって好機だって言ったじゃない!」
「ねねが言ったのは、追撃を受けずに済む退き時という意味なのです。これ以上の博打には、到底賛同出来ませんな」
「けど、今の北郷軍を見なさいよ! 動揺が軍全体に広がって、統率も何もあったものじゃないわ!」
桂花と音々音で、意見が真っ二つに分かれる。ただ、桂花の意見は少し誇張しすぎだ。私から見て、北郷軍はそこまで隙だらけには見えない。
私の元々の方針を肯定したくて、盲目的になっているのが一目でわかる。
わかって……なおも、私は揺れていた。
「……………」
将のほとんどが負傷。異変があった北郷軍に、私自らが率いた軍で突撃を掛ければ、この劣勢を覆せるかも知れない。
だが、それは音々音の言う通りの博打。しかも今回は曹軍の全滅を賭けた大博打。
そんな思考を巡らせる私の脳裏に……血に濡れて力なく秋蘭にすがる春蘭の姿がよぎる。
自分でも不明瞭なまま、何かを口にしかけて………
「曹操さん!!」
突然掛けられたその声に、遮られた。
「………劉備」
魏軍後曲のこの場所に現れた劉備、関羽、張飛、諸葛亮。
その顔にあるのは、戦いの前に停戦を断行しようとした時の顔と……同じ覚悟。
「北郷が、毒で倒れた……?」
劉備の主張、それは、信じがたい。……否、信じたくない言葉だった。
「毒矢を使ったのは、曹操さんの臣下の夏侯恩さん。北郷軍の異変は、そのためです」
当然、わたしは否定する。
「……劉備、侮辱するのもいい加減になさい。我々が、大義を掲げながら毒などという卑劣な手段を用いたと、そう言いたいの?」
私の確とした否定にも、劉備の表情はまるで揺らがない。
元々、劉備と北郷は義勇軍でいた時からつるんでいた。だから今回の事も、私たちを糾弾するために仕組んだ狂言ではないか? と疑った。
……だが、劉備はともかく、北郷があそこで兵を退く理由は無い。そして、劉備の言う毒が事実なら、辻褄は合ってしまう。
そんな思考の断片を確定づけるように………
「伝令! 前線に出ていた夏侯恩隊長……討ち死にされました。部隊は混乱しております!」
帰ってきた伝令が、状況を伝える。
討ち死に……夏侯恩が?
「北郷一刀に文字通り一矢報いた後に、剣で首を斬られる……武人らしい最期だったとの事です」
「っ!?」
認めたくない事実を理解して、猛烈な怒りに駆られる。
覇道を行く我らの志を、まさか部隊長を預かる者が理解していなかったなんて……。
もし生きていれば、すぐさまその首を刎ねる所だ。
同時に、自分自身にも怒りが湧く。臣下の責任は、それを扱う王の責任でもある。
「曹操さん」
ぶつける先の見つからない怒りを持て余す私に、狙ったように劉備の言葉が掛けられる。
「……撤退してください。これ以上、曹操さんの誇りを傷つけた戦いを続ける事なんてないでしょう」
開戦前と、同じだ。この娘は無用な血が流れるのを止めたいだけ。
私の誇りをダシにして、未だに戦いを止めようとしている。
気に入らない。けれど………
「……桂花、音々音、軍を退くわよ。これ以上、無様は晒せないわ」
「し、しかし華琳様!」
桂花の言いたい事は、わかる。背中を向けた我が軍に、死兵となった北郷軍が喰らいつく可能性を懸念しているのだろう。
今は、まだ存命らしい、“倒れた”北郷の存在が軍に混乱を来しているが………北郷が死んだ瞬間、奴らは死兵となって我らを襲うだろう。
「ッ……!?」
思考の最中、唐突に胸が痛んだ。その原因は判らず、ただ胸につかえた。
「…………」
とにかく、これ以上戦うという選択肢は無い。
北郷が……死ぬ……前に、撤退するしかない。
「殿は、わたし達が努めます。だから、曹操さんは必ず軍を退いてください」
『戦いを止めるために体を張る』。劉備が言外にそう言っているような気がした。
……直感的に、理解した事がある。
「……礼は言わないわ。その代わり、“それ以外の事”も言わないでおいてあげる」
この娘は、北郷一刀を信じている。状況を理解しすぎていた事も、無関係ではないだろう。
………やはり、何か気に入らない。
「背中を預けるわよ、劉備」
それ以上に、私自身が……気に入らなかった。
「……………」
引き上げていく曹操軍、同様に引き上げる北郷軍、わたし達は、白蓮ちゃんにも事情を説明して……その間に壁のように布陣する。
小さく弱い、壁だけど。
「……一刀さんの、言ってた通りだったね」
毒の事と誇りの事を利用すれば、曹操さんに戦いを止めるよう説得出来る。
一刀さんは、本当に色んな事を見通してる。
後は……一刀さんの無事を祈る。それくらいしか、わたし達には出来ない。
「……まあ、天の御遣いなんて呼ばれる男だからな」
結局、白蓮ちゃんはわたしや曹操さんに巻き込まれたみたいなもの。……ごめんなさい。
「……………」
一刀さんはもちろん、曹操さんだって、弱い民草を苦しめたりする人じゃない。むしろ、自分の生き方に誇りを持てる立派な人。
そんな人たち同士が戦う必要なんて、やっぱりわたしは無いと思う。
わたしは、理想を抱いていながら、結局大した事は出来ていない。
戦いは止められなかった。曹操さんを引き上げさせる説得も、ほとんど一刀さんのおかげだ。
曹操さんは、自分の誇りが穢れるから、戦いを中断させただけ。わたしの言葉が、受け入れてもらえたわけじゃない。
……それでも、戦いの犠牲を減らす事は出来た。撤退してもらう事は出来た。
大きすぎる、そうわかってるわたしの理想に、少しだけ近付けた気がした。
「一刀さん……」
もっと、頑張ろう。わたしの理想を叶えるために、わたしなりの戦いをする。
そのために、自分に出来る事を探すんだ。
「………一刀さん」
連合に参加して、敵対する立場になった、そんなわたしの背中を押してくれた人を想って、わたしはもう一度呟いていた。
「(無様な………)」
天下に上り詰めるため、贄だとわかった上で、北郷一刀を討つ事を選んだ。
どのみち、大陸を一つにまとめる過程で戦う事になるのだから……と。
「(それが………)」
実際に参戦してみれば、連合は瓦解、自軍も完敗。……自分自身の誇りにさえ傷がついた。
逆に、北郷一刀の存在を大きく見せ付けられた。
「(このまま退場なんて、そんな幕切れは認めない)」
自軍の汚点。わかっていながら、否、わかっているからこそ思う。
「(北郷、一刀……)」
それ以上に感じるのは、自分自身の無力感。
こんな惨めな気持ちになるのは、初めてだった。
それでも………
「(歩みを止めるわけにはいかない)」
立ち上がって、今度こそ自身の覇道を誇り、進む。
「我は乱世の奸雄なり! 降り掛かる百難を乗り越えて、必ずや天下に名乗りを上げようぞ!!」
私に付き従う臣下の前で、力強く宣言した。
「……………」
一刀は、眠っている。顔は青ざめたままだ。
軍医に応急措置はとってもらったが、こんな所で満足な治療が出来るわけもない。
行軍も待たず、私は手綱を握る両腕で、抱くように一刀を前に乗せた状態で、単騎で馬を走らせる。
ここからなら、洛陽までそれほど距離は無い。何かあっても、私が必ず守る。
伝令を回した後で心配しているのだろう皆には悪いが、今はとにかく時間が惜しい。
桃香殿は、上手くやってくれた。後は風たちが兵を退いて………一刀を助けるだけだ。
「一刀」
「……………」
呼び掛けても、返事は無い。それに慌てて、呼吸と脈を確認する。
さっきから、何度こんな事を繰り返しているかわからない。
「(なんと、無様な事か)」
取り乱しているのが、自分でもわかる。胸が締め付けられるような心細い感覚が収まらない。
将たる者、何が起こっても毅然と己を律する事が出来なくてどうする。
………わかっていても、どうにも出来ない。
こんなにも、私は弱かっただろうか。
「………ぐすっ………ひっく……うぅ……」
ポロポロと零れる雫と嗚咽が、抑えられない。
こんな所を誰かに見られでもしたら、自殺ものだ。
なのに、それら全てをどうでもいいと感じてしまっている自分がいる。
ただ、一刀を……。
「……………もう、二度と………」
自分で呟いた言葉の不自然さに、星が気付く事はなかった。
その後、執拗な攻城戦を繰り返した袁紹率いる連合軍はシ水関を陥落させるも、その無理な攻城の際に受けた被害は大きく、続く虎牢関を突破する余力は残らなかった。
対称的に、シ水関に拘らずに放棄した北郷軍は小規模な被害しかなく。虎牢関突破を諦めて引き上げる連合軍は、退却に合わせて出撃した華雄隊の追撃による痛打を受ける。
そうして、完全に勝ち目を失った連合は、次々と諸侯が自国に引き上げ、自然消滅となった。
こうして、王都と帝を救うという偽りの大義を掲げた反・北郷連合は、連合の敗北という結末を以て幕を閉じた。
(あとがき)
今回で四幕終了。事後も含めて次幕へと続きます。