夏侯の名を持つ、とは言っても……親戚関係があるだけで、特別親しかったわけではない。
第一、曹操様は才ある者を愛する御方。惇将軍や淵将軍がお側に在るのも、血縁などではなく、個人の資質だ。
そのくらいの事はわかるようになった、と誇らしく思えた時の事は、今思い出しても滑稽極まりない。
結局自分は、未だに一部隊長に過ぎないのだから。
私にとっては、思い上がりも甚だしい、身の程知らずな夢。
曹操様にとっては、何の感慨も無い、兵士の歓呼程度の表明だったろう。
この名が無ければ、私に関心すら持って頂けなかったに違いない。
『母様が造らせた物だけどね。使う者もいないから預けてあげる』
あの時も、単なる気紛れだったのはわかっていた。
『せいぜい精進して、その剣に見合う将にでもなりなさい。私の近衛になりたいのならね』
それでも、嬉しくてたまらなかった。
自分の限界を知りながら、それでも修練に修練を重ねた。
元々、高嶺の花。時折お姿をお見かけ出来れば、それで満足だった。曹操様は、同性愛者であるようだったし。
だが、そんなある日……見てしまった。
官軍に随伴してきた、無礼千万な男。噂になっていた、『天の御遣い』。
初めて見た時は、別に何とも思わなかった。曹操様が、そんな胡散臭い風評に興味を向けるはずがない……そんな確信があった。
……なのに、見てしまった。
わざわざ北郷一刀一人を呼び出して、二人きりになろうとする……曹操様を。
私から見ても、武に優れてる男にも……智謀に長ける男にも見えなかった。たかだか義勇軍の大将。
その後、私は北郷一刀の活躍を耳にすれば歯噛みし、反・北郷連合が組まれればほくそ笑んだ。
……自分でも、驚いていた。自分の中に、これほどまでに身の程知らずな感情があった事に。
そう……私ははっきりと、北郷一刀に嫉妬していた。
星、霞、恋たち猛将が前線で奮闘し、その優勢から、一気に突き崩せるかと思った……が、それはあくまで一局面に過ぎなかった。
「(稟……)」
俺たちの軍に横撃を掛けてきていた伏兵を、稟が迎撃に向かったはず、なのに……
「伝令! 右翼の一角が崩されました! 指揮が乱れています!」
「……わかった」
全然止めれてないらしい。易々と本隊が横撃を食らっている。
せっかく前線が優勢なのに、これじゃ攻めきれない。
「旗は『公孫』。……伯珪か」
となると、敵本隊のあの旗は、また虚兵という事になる。
遠く見据えてもはっきりわかる。怒涛の勢いで突撃を掛けてくる白馬の群れ。
突破力が違いすぎる。稟の指揮じゃ防ぎきれなかったか。
……しまった。目立たないから甘くみてた。
でも、星たちも手一杯のはずだし……。
と、無い知恵絞って対応策を練る俺の耳を……
「御遣い様!!」
焦りに焦った兵の声が打つ。反射的に、体が警戒体制に入る。咄嗟に振り向き、思うより先に体が動いた。
「痛っってぇ!?」
咄嗟に庇った腕に、俺を狙った矢が刺さる。バランスを崩して落馬しそうになって、慌てて手をついて“着地”した。
ああ、馬鹿した! 今の下手に動かなかったら肩当てに当たってたのに。
「北郷一刀! 覚悟!!」
俺が腕の苦痛に悶えている間に、一人の将らしき男が槍を構えて走ってくる。
方向や様子からして、多分、こいつが俺を射った奴。
割って入った俺の兵士を刺し殺して、猛然と俺に向かってくる。
もっと下がっとけば良かった。なんて後悔してる場合じゃない。
馬に乗ってないのが、救いか。
「死ねぇ!!」
「誰が!!」
向かってくる、そいつの槍の間合いに入るより、五歩分くらい遠い所まで来た所で、俺は持っていた剣を思い切り投げつけた。
「うあっ!!」
それに怯んだそいつに向かって、体当たりするようにして掴み倒す。
その拍子に槍が零れた。………よし、こいつ、孫策とかに比べたら全然弱い。
「くそっ! 離れろ!」
「誰が放すか!」
上から首を絞めるような体制の俺を、男が不完全な体制で何度も殴って押しのけようとする。
今の俺は丸腰。この状態を保とうと、その痛みを歯を食い縛って堪えながら、必死に男を地面に押し付ける。そんな泥臭いやり取りの中で……一つの物が目に映った。
同時に、俺は無我夢中で行動する。
男の首の辺りを掴んでいた手を思い切り引き寄せ、男の顔面に頭突きをかます。
そのまま、男が怯んだのを気配だけで確認して、“それ”……男の腰の剣に手を掛ける。
「このっ!!」
「ぐっ……!?」
男の腹を思い切り踏みつけ、そのまま上体を起こす勢いで剣を鞘から引き抜く。
「ッ!? ………ま、待」
「はあぁっ!!」
死に物狂いで、抜いた剣を、本来の持ち主の胸に突き立てる。
手元が狂って胸当てに当たってしまったはずの剣は、しかし驚くほどすんなりと突き刺さり……肉を刺す嫌な感触を手に伝えた。
「う゛あ……! あ、あぁ……」
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
ズブリと剣を引き抜き。荒々しく肩で息をする。
極度の興奮から醒めて、今さらのように気付く。こいつ、結構若い。
「う、うう、うぅ〜〜〜………!!」
苦しげに呻く男は、急所から外れていたのか、まだ息がある。
でも……決して助かる傷じゃない。
「………………………名前は?」
長い沈黙の後、俺は短く男に訊いた。もう、こいつには苦痛しか待っていない。
「………………夏侯、恩」
尋常な痛みではないだろう。それでも夏侯恩は、自らの名前を毅然と告げた。
全てを悟った上で、無様には死なないと言わんばかりに表情を強張らせる。
「………忘れない」
もう、これ以上俺が掛けてやれる言葉は無い。俺は奪った剣を、夏侯恩の首筋に当てる。
「この、剣………」
喋るどころか、生きているだけで苦しくて仕方ないはずなのに、夏侯恩は必死に声を絞りだす。
「………捨てないでくれ。粗末に、しないでくれ……」
たどたどしい言葉、何を思って夏侯恩がその言葉を口にしたのかはわからない。
「わかった」
それでも、聞き入れた。
「………やれ」
もはや残す言葉は無い。そんな風に目を閉じた夏侯恩の首筋に当てた剣を………俺は、一気に引いた。
「………………」
俺は、僅かに、感傷にも似た気分に囚われる。
それでも、今はそれどころじゃないと、すぐに気持ちを切り替える。
夏侯恩の最後の言葉を思い出して、腰から鞘を引き抜く。
鞘には、『青紅』とある。
「(……華琳、様)」
夏侯恩が今際の際に呟いた真名は、誰の耳にも届かなかった。
「槍隊前へ! 三人一組で馬から突き落としてやれ!」
横撃に公孫賛軍の屈強な騎馬隊を用いてきたのは、厄介だ。
自分の無力に腹が立つ。
一刀殿が行軍を急いでいたのは事実。だが、こんな隠れる場所の少ない地形で、最低限の索敵もしなかったのは、私の落ち度。
一足先に早馬を出して探る事だって、出来たのではないか?
そして何より、陣形を組む暇も無いこういう戦況で……私の力はあまりにも無力だ。
雛里なら、もっと上手くやっただろうか?
私がシ水関に残り、雛里がこの場にいれば……。
「(……いや、今はとにかく、この白馬隊を何とかする事だけを)」
前も後ろも、右も左も、自軍か敵軍の兵士ばかり、そんな乱戦の中で、私は巻き上がる砂煙の遠方に、“それ”を見つけた。
「いつもいつも………世話をかけるわね」
「それは言わない約束だぜ。おとっつぁん」
当然、会話など出来る距離ではない。
それでも二人は、まるで相手が目の前にいるかのように“独り言”を言う。
「おとっつぁん、とか言ってるわね。きっと」
一斉に放たれた矢の雨が、弧を描いて白馬の群れに降り注ぐ。
「風はこれでも一流なのです。伊達に北郷軍の財布の紐を任されているわけではないのですよー」
靡く旗は、『程』。
王都から出撃してきた北郷軍の加勢三万。
この戦いの大局が決定的となった瞬間だった。
「ではでは皆さん、懲らしめてやりましょー」
「風………何かあったら籠城戦って話だったのに……」
それなのに、こっちの援軍に駆け付けてくれるなんて……何て空気の読める子だ。
「(おかげで、前方に集中出来る)」
伯珪の方は、もう稟と風に任せて大丈夫だろう。
星たちが気になるし、一気に勝負を掛ける意味でも、俺は最前線に馬を走らせる。
恋もいるから大丈夫だとは思うけど、愛紗や鈴々だっているんだ。
………それに、
「一刀さんっ!!」
「ッ………!?」
俺の思考を遮って、聞き覚えのある声が、必死な響きを滲ませて俺を呼んだ。
その頬に涙を伝わせて、それでも後ろに兵を率いて、俺を睨む。
いや、睨んでいるわけじゃない。気持ちのやり場が見つからない、そんな不安定な眼。
「………桃香」
この戦いの中心である俺の前に、この戦いに最も心を痛めている少女が、立ちはだかった。
(あとがき)
前回は少々弱音を漏らしてしまい、お恥ずかしい限りです。
今回は視点変更が頻繁だったので一応。
夏侯恩→一刀→稟→神視点の稟、風→一刀、となります。
夏侯恩は名前だけで、立場とか性格とかバリバリのオリジナルですね。恋姫にも出てませんし、演義とも掛け離れてます。
あと、青紅の剣ですが、漢字が出ないし、この先ずっとカタカナでも締まらないので、『紅』でいきます。