「雪蓮、あの男が北郷一刀か?」
撤退する呉軍。うるさく響く馬蹄や喧騒の中で、冥琳が私に声を掛ける。
「ええ、弱っちい男だったけどね。……ま、元々董卓の将だったはずの華雄があそこまで心酔してる以上、ただの『暴君に仕立て上げられた傀儡』でも無いんでしょうけど」
いや、それはいきなり最前線に出てきた時点で、想像のついていた事か。
私の言葉に、冥琳は沈んだ表情のまま言葉を紡ぐ。
「祭殿も張遼を仕留められなかった。思春に至っては、逃げるので精一杯だったという話だ。結局、我が軍が一方的に被害を受けただけの結果に終わってしまったな」
だからあのまま北郷の首を獲るつもりだったのに……とか考えた瞬間、ギロリと睨まれた。……話を逸らそう。
「けど、な〜んで追撃掛けて来なかったのかしら? 関から出たばかりの元気な兵がわんさか居て、こっちはぼろぼろのまんま背中見せてたってのに」
実際、そうまでしてでも撤退せざるを得ないほど、こっちは追い込まれてたって事だ。
無理は承知の強行軍。見事に裏目に出てしまった。あの関に着く前に勝負を決められなかったのが敗因か。
けど、だからこそ解せない。
「わざわざ北郷一刀本人を囮にしてまで釣り上げた私たちを、みすみす逃がした。……ホントに何考えてんのかしらね」
視線で「教えて冥琳♪」と言ってみる。
「もう、どう考えても馬鹿ではないわ。少なくとも有能な将や軍師が味方についている」
これは「もう間違っても侮るな!」という意味を含めた前置きだろう。
そんな事はわかってるつもりなので、せっかちに目で先を促す。
「この先に控えた連合本隊との戦いを想定して戦力を温存した……と考えても、危険を冒してまで敢行した策を無為にするような愚策を取るとも思えない」
前置きが長いなぁ〜。
「何かを企んでいるのは間違いない。ここからは軽率な行動は謹んでね」
「……な〜んだ」
散々引っ張っといて、結局わかんないんじゃん。
という私の感想に異を唱えるように、冥琳は続ける。
「唯一の手掛かりなら、あなたが持っているでしょう?」
……あ。
撤退騒ぎにてんやわんやで、すっかり忘れていた事を今思い出した。
「やれやれ……」
冥琳がジト目で、お返しとばかりに呆れてくる。
「冥琳がいじめるー……」
わざとらしく拗ねて見せながら、“あの時投げ渡された物”を取り出す。
何だろ、ちんまい袋。
中身を確認しようとして………
「あっ!!」
横から冥琳にふんだくられた。落としたらどうするのよ、ここ馬上よ?
「何よ冥琳、これ私宛てよ?」
「いくら何でもそこまで姑息とも思えんが、袋の中に毒針を仕込む、などという可能性も無いとは言い切れん。これは私が確認する」
……確かにビックリするくらい怪しいけど、いくら何でも考えすぎだと思う。
その私の予測に違わず、冥琳はごくごく普通に袋の中身を出さずに確認して……眼を険しくさせた。
手紙じゃなさそうだ。
「……雪蓮、それを“出さずに”見て。決して顔に出さないで」
「はぁ……?」
再び私にそれを返す冥琳。疑り深い冥琳の真似をしろって? しかも顔に出すな?
怪訝な気持ちはあったけど、それ以上に好奇心が勝り、すかさず中身を確認して……
「………なるほどね」
冥琳が、あんな言い方をするわけだ。と納得する。
認識を、決定的に改めよう。本当に、とんでもない食わせ者だ。
「……本物かどうか確認、させなきゃね」
「……そうね」
別に鑑定なんて得意でも何でもないけど、何となく本物のような気がする。
皇帝の証……『玉璽』。
「袁紹、この連合に我ら呉軍が参戦する際の約定。憶えているか?」
「う………」
連合軍の許まで撤退した私たち。そこで真っ先に行なったのは、袁紹への糾弾。
「我が軍への兵糧の提供、及びその運搬を貴公が受け持つ事。忘れたとは言わさんぞ」
諸侯が一同に介する天幕で、私は敵意も丸出しに袁紹を睨む。
「孫策様、一先ずこの場は……」
「退がれ下朗! 私は袁紹と話をしているのだ!」
仲裁に入る顔良(だったと思う)を一顧だにせず、食い下がる。
「にも関わらず、貴公は兵糧を援助するどころか、委託していた我が軍の兵糧すら運搬しなかった! それが敗因となり、我が軍は北郷に惨敗した! 帝のため、民のためと貴公の呼び掛けに応じ、勇敢に戦った我らに、どうしてこのような無様な敗戦を強いる!?」
話を訊くつもりは無い、とばかりに、私は腰の剣に手を掛ける。
『っ!?』
袁紹やその臣下のみならず、諸侯全体に緊張が走る。構わずに剣を抜こうとして………
「ちょっ、ちょっとお待ちになって! わたくしはあなたにきちんと兵糧を送ろうと考えていましてよ? ただ、その……そう、伝達の者が独断で行なった事でして……即刻その者の首を刎ねますから。そっ、そうだ! 今すぐ食糧をたくさん用意して差し上げますわ! 腹ペコの兵隊さん達に、たんと……」
長々と言い訳めいた言葉を並べる袁紹の言葉を切るように、私はギンッ! と派手に音を立てて、剣を鞘に納める。
そのまま、何も言わずに天幕を去った。
後の細かい手続きは、冥琳がやってくれるだろう。
「少し、演出過剰だったかな」
「あれくらいで丁度いいわよ。どうせ、もう我々は白い目で見られているだろうから」
鑑定の結果、玉璽は本物だという事がわかった。
そして、私たちが着く頃には、既に連合に広まっていた噂。
孫策は北郷から玉璽を受け取り、それと引き換えに撤退した。という噂だ。
「これは、軍略というより政略に近い手かも知れんな。我々は北郷一刀という餌に釣られた魚だと思っていたが……どうやらその我々が、連合という魚を釣るための餌にされていたらしい」
私たちが快勝しているように見せて、袁紹の嫉妬を煽り、さらに玉璽まで渡して諸侯連合の連携を崩す。
それが、冥琳の結論づけた北郷一刀の策の内容だった。
「私たちに追撃しなかったのも……」
「おそらく、同士討ちが起こった時の効率を上げるためね」
えげつない事この上ない。一番敵に回したくない種類の人間だ。
歩くうちに、自陣の天幕に着いたから、ようやく腰を下ろす。
「……さて、と。どうしようかな」
北郷の策は実質成功。連合の連携は既にぼろぼろだ。
しかも、単なる流言飛語ではない以上、ここに玉璽がある限り、これからも疑念は決して晴れない。
四方八方から逃げ道を塞ぐ、本当に良く出来た手だ。
「どのみち、もうこの連合の許では戦えないでしょう。いっそ、北郷の手に乗ってやるのもいいかも知れないわね」
冥琳の“わかっている”言葉に、私は満足そうに頷く。
だから、あそこまで険悪に袁紹に突っ掛かったのだ。
「だが、もちろん掌の上で踊ってやる必要など無いでしょう?」
「さっすが冥琳♪ 何か考えてくれてたんだ」
嬉しくて飛び付こうとした私の顔を、冥琳が片手で押さえる。むぅ……相変わらずお堅いんだから。
「はしゃがないの。これでも妥協策だし、北郷に意趣返しは出来ないんだから」
冥琳の遠回しな言い草が、やっぱり頼もしくて仕方なかった。
それから数日。特に進軍もしないまま、連合軍は動きを完全に止めていた。
その、総大将たる袁紹陣営。
「キーーッ! ムカつきますわーーっ!!」
孫策に対して、幾度となく暗殺を試み、そして失敗している袁紹が金切り声を上げる。
「姫ぇ……いくら玉璽が欲しいからって、暗殺はどうかと思うんだけど」
「猪々子ぇ……? あなたは! このわたくしが! そんな小さな理由で孫策さんを始末しようとしているとお思いになって!?」
「姫! 声が大きいですってばー!」
その行為を嗜める文醜に、また袁紹は喚き、その大声を顔良が注意する。
三人同時に自分の口を押さえてハッとする、そんな珍妙な光景が数秒続いた後、再び袁紹が口を開いた。
「おほんっ、とにかく、わたくしはあくまでも、あ・く・ま・で・も! 北郷さんを退治した後、皇帝陛下の持つべき玉璽をお返しし。か・つ! 逆臣である孫策さんに天誅を下そうと思っているだけですわ」
「大体、それにしたって噂が本当かどうかわかんなひゃはぁ〜〜!?」
「このっ! また生意気な口をきくのはこの口ですのっ!?」
再びケチをつけた文醜の口を、袁紹が左右に引っ張る。
「はぁ………」
そんな手の掛かる子供を二人も抱える顔良は、歳に似合わない類の溜め息を零す。
そんな天幕に、
「袁紹様! 顔良将軍! 文醜将軍!」
一人の伝令が駆け込んだ。
「今取り込み中ですの! 後になさい!」
「しっ、しかし……」
「何かあったんですか?」
話も聞かずに追い返そうとする袁紹をさらりと無視して、話を訊く顔良。
伝令の兵は、袁紹の顔と顔良の顔を交互に見比べた後、決断したように口を開く。
「はっ、先の戦いで敗走した孫策軍が、自軍の被害を理由に撤退の準備を始めております。こちらの返事を待っていないように見受けられました!」
その報告を聞くや否や、袁紹はパッと文醜の口を放した。
「あ〜……、痛かったぁ〜〜。ひどいですよ麗羽さまぁ、何かって言うとあたいのほっぺた引っ張……」
「……なさい」
文句を言おうとする文醜の言葉に被せるように、腹の底から絞りだすように袁紹は呟く。
「文醜さん! 今すぐ兵士を纏めて、逃げる孫策さんの軍に攻撃をお掛けなさい!」
袁紹がそんな叫びを上げる頃、既に孫策軍は自国に向けての帰還を開始していた。
(あとがき)
またも難産。一刀視点がやっぱり一番書きやすいって事ですかね。