川岸に打ちあがった水死体と、死した者の前でむせび泣く子供。
半月ほど前に起きた大洪水の濁流は、町人たちの善や道徳心をも飲み込み、かっさらい、後に濁り水だけを残したのだろうか。
底の見えない混濁と、砂を食むように実のない感情があるばかりである。
加え昨年から続く不作のせいで食い詰め者や餓死者も多く出ている。打ちこわしの団体があげる絶叫が日に2、3回は聞こえるものもはや日常だ。実際、今朝もどこか遠くのほうで聞こえてきていた。
江戸の治安とか言うものも、もはや風前の灯である。
この世こそ地獄だといえる状態の中、太鼓橋の中央に立つ少女が、一人。
欄干にもたれかかりながら、目下、川の砂利場でむせび泣く子供に視線を落としていた。
子供の横に往生し永劫に押し黙る者は、子供の親だったのだろうか。
もしかすると歳の離れた兄弟かもしれない。あるいは恩師か、食い扶持か――
眉を寄せ合わせ、少女は思考を噛み砕き消化して行く。
視界の中にあるのは、澱んだ褐色の川と打ち上がった水死体と、先刻の子供。
骨ばった手、がりがりにやせ細った体躯。抜け落ちた髪の毛からは、所々頭皮が見えていた。
不気味に腫れ上がった子供の腹は、体が訴える栄養失調の最終警告だろう。絵巻物で見た餓鬼の風貌のそれと酷似している。
やがてあの少女も、自身の目の前にいる物と同じ末路をたどるのだろうか。
ここ数年、よく見かける場面であるから、特に浸る感傷もないのだけれど。むしろそれを見るに慣れ、湧き上がる感情の無い自分に感傷する。
……と言うのもおかしな話か。
「…………」
多くの餓死者は、役所の人間の怠慢のせいで往来に転がり野ざらしにされ、肉を腐らせ、ウジを生み、ハエにたかられるばかりだが、ごく稀にカラスにつつかれる肉を見ることもある。死してカラスの血肉となるのだ。まったくもって報われない。
かといって、役所の人間を叱咤しようとも思わない。奴等も生きるのに、食うのに、必死なのだろう。
そこで都のさびれ方などは尋常ではなかった。
事実、橋の中央でぼんやりと立つこの少女も、盗みで生計を立てている。
父のような威厳と母のような暖かさを持った、師匠と慕った人も、割と呆気なく死んだ。
もとは名のある武家の子が、今はこのザマであるのだから世の中わからないものだ。
時は天明三年。徳川藩老中、田沼意次の政治。
この絶望的な食糧不足は、のちに天明の大飢饉と呼ばれる。
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天明異聞 ホウシのギョウ
―― 法師の業 (上) ――
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「刹那」
橋の下から聞こえてくる嗚咽がだんだんと小さくなっていくのを確認していると、ふいに声が背後から聞こえてきた。
それが誰であるのか。そういうことは十二分に承知している。声や気配で何となくわかるのだ。振り返り様にいつもの言葉を言う。
「――おかえり、真名」
風呂敷を担いだ真名はただいまと短く返すと、先刻まで刹那が覗いていた砂利場に視線を配らせ、
「多いな、最近は」
と、死体に覆い被さるような格好で事切れた子供の死体に眉をしかめさせた。
「見て楽しいか?」
明日はわが身だと、真名の顔に打ち立てられた大きな表示板を一瞥し、苦汁のような唾を嚥下してから
「さっきまでは、生きてたんだ」
砂利場から視線をそらし、刹那は吐くように言う。
「そうか」
真名が関心なさそうに返した。この話題はもうここで終わりだろうか。
「――あ、それ、どうしたんだ?」
真名が担いでいた風呂敷を指差して訊く。
訊かれた真名は風呂敷を肩から下ろして、苦笑いを漏らした。
地面に落ちた時に出た鈍い音から察するに2合ぐらいはあるだろうか。
「ん、ああ、ほら」
言いながら真名が風呂敷の端を離した。はらり、と、四角形に布が広がる。
「…………っ!?」
燐寸の揺らめきにさえ見た物がそこにあった。
何度これを咀嚼する感覚を夢見に繰り返しただろう。風呂敷の中に詰まれていたのは白米だった。
見ることはないだろうと絶望したものであり、見ることを羨望していたものである。
歓喜と興奮が湧き上がって、すきっ腹に飲み込んだ生唾が流れ込む。ぐう。情けない音を立てて腹がなった。いや、それはどうでもいい。今は
「どうしたんだこれ!?」
「今日下町の方で騒動があったからな。適当に盗んできてやった」
ふふん、と得意げに笑う真名。凄い凄い、適当に手を叩き、
「あ」
思い出した。表情を作ってから短い声をあげる。
「?」
頭に疑問符を浮かべる真名を手招きして、ごそごそと懐を探る。
探り当てた巾着袋の中に入った10匁ほどの銀を手に、
「これ、本所道役の人間からすってやった。適当に」
にやり。
「ま、上々だな」
にやり。
「――……天下の往来でニヤニヤと。不気味でござるよ」
ふいに気配もなく、何の前触れもなく、真名の背後から人影が1つ出てくる。
真名よりも少しばかり低い背丈の人影は、切れ目の長い目で刹那たちを一瞥した後あきれ気味でそう言う。
当の刹那たちと言えば「うお」だとか「ぇあ」だとか、あまり意味のない言葉を漏らした後、
先刻注意された笑顔(とも呼べないような下卑たものであるが)をはっつけて
「「おかえり、楓」」
口頭そろえて言う。
「……相、只今戻った」
返された返事は、やはりあきれ気味だったのだが、いやはや。
「――仕事、終わったのか?」
いつもの忍装束を着た楓を指さして、真名が聞いた。
存外おかしな話であるが、楓の普段着はその忍装束で、仕事に行く時にだけ、楓と呼ばれた少女は、尼だとか、町人だとか、旅芸人だとか。
所謂『普通の服』を着る。楓いわく、そういうものらしい。何がそう言うものなのかよくわからないが。
「あい、軽い仕事でござった」
軽くうなずく。
先刻の刹那のように、懐から小判10両ほど取り出し、刹那らが浮かべる笑顔と同種のものを浮かべる。
"軽い仕事"で、果たして、小判が10両も出るのかはよくわからないが。
「お疲れさま」
一礼して、刹那は歩きだした。その後を追うような形で真名と楓が橋を渡る。
「クーは?」
何か足りないものがあるような顔をしていた楓が、気がついたように二人の背中に問う。
「「家で留守番」」
振り返ることなく答えた二人に、楓は明るい苦笑をして見せた。
ぎしぎしと橋があげる悲鳴が、川のせせらぎにかき消されていく。
世がどのようになろうが、空と言う者は傲慢な程自適である。
西のそれは、相も変わらぬ赤みを見せていた。
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桜咲刹那
龍宮真名
長瀬楓
古菲
彼女たちの関係を一言で表すには、言葉は驚くほど無力だ。
ただし、彼女たちには、似通った点がいくつかある。
帰る場所のない孤児であるということ。川原で行く宛てもなく彷徨っていたら、4人のうちの誰かに見つけられたこと。
現に刹那は真名に、楓と菲は刹那に、空腹と疲労で打っ倒れていた所を拾われたのがきっかけであった。
もっとも、真名が刹那を助けた動機は至極不純で、刹那が持っていた小刀を盗ろうとしたそこへ、気を失っていた刹那が起き開口一番
「あなたが助けてくれたんですか?」
真名も流石に
「お前の持っている刀を盗ろうとしていた所だ」
とも言えず、
「ああ」
と答えたのが始めらしい。
人を呪わば穴二つ、因果応報という奴。真名いわくこの事は時効らしいが。
閑話休題。
川原近くのあばら屋を寝座として共同生活している四人にとって、共にいる存在は『仲間』であり『同族』であり、『家族』であるのだ。
言葉が表す尺度よりもその絆はあまりにも深いのだが。
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「おっかえりアルーッ!」
玄関にある布の帳を潜ろうとした瞬間。
その言葉とともに、先陣を切って暖簾を潜った楓の腰の辺りに何かが飛び掛ってきた。
いや、本人にしてみれば『抱きついた』位の心持ちなのだろうが、速さ、タイミング、重量の三拍子がキチンと揃ったそれは『殺傷能力』を確実に含んでいた。現に、飛び掛られた腰は『めきり』と嫌な音を立てて――
「菲……楓のぎっくり腰、再発するぞ」
真名の声が響いた。
楓に飛び掛っ……否、抱きついた『何か』は、途端回した手を解き、楓の背後に回って、その腰をさすり始める。変わり身の早い奴である。
「いっ、いい子にしてたで、ござるか?」
腰をさすり、さすられながら、楓が背後にいた菲に訊いた。
「も、勿論アルよ!」
どこか含みのあるいい方に首を傾げた楓だったが、再び襲ってきた腰の痛みがその思考を綺麗に吹っ飛ばしてくれたのだろうか、のあ゛っなどとのたまいながら、草鞋を脱いで、床のゴザに倒れこむ。
「……逝ったな、こりゃ」
「……お大事に」
「私の所為アルかー!? 私の所為アルねー!! 楓ェェエェェエ!!」
――叫びながら、楓の腰に泣き縋りに行こうと、再度『抱きつく』菲。
決まったな、と。誰の声だか定かではないが。
「ウヌァァァああ゛ァ゛あ゛アア゛あ゛嗚゛呼あぁ゛!!」
人とは思えない断末魔を叫んだのは、さて、誰だったか。
/
真名が盗って来た白米は、今日の夕食一食で全て消える事になった。
元々健啖家の集まりであるが、ろくな物を最近口にしていなかったのもある。白米を見た瞬間に「全部食う」と菲言い出したのが最初で、それに全員が賛同した。即決だった。
しっかり味わえだとか、よく噛めだとか、真名がぶつくさ言うのも忘れて食った。
終始無言の食卓であったし、飯の友もおかずも何もない質素なものだったが、今まで食べた中で一番美味い米だったに違いない。
「ああ、そういえばな」
食事が終わり、満腹感からくるいいまどろみの中で横になっていた真名が気づいたように言った。
「また色町に新しい娘が売られてきたって噂があった」
その言葉に、夢うつつの状態だった菲が微かな反応を示した。のっそりと起き上がって来て、
「聞いたアルー、また『静菜』に売られたらしいアルよー」
『静菜』と言うのは江戸の町でも1.2を争う規模の遊郭であり、こんな時代でも、大繁盛らしい。
――その大きさもさることながら、遊郭『静菜』が有名になっているのは、また違う理由があって――
「まだ年幅のいかない子供でも売買していると言う話でござるしなぁ……剣呑剣呑」
楓が補足する。
それが『静菜』の売りであり、不動の人気と多くの常連を抱えている理由だ。こんな乱れた世であるからなせる業。
「で、今回も子供の行列が色町のほうに……って、菲、何故それをお前が知ってる」
「うあ」
墓穴。菲が肩を揺らす。
「……さてはお前また長屋の方で遊んで来ただろ。家で留守番してろって言ったのに」
「だ、だだ、だ大丈夫アルよー。頭巾被って遊んだネ!」
菲がその場に正座してから、真名の顔色を伺う。
「そういう問題じゃあ、ない」
声の中に静かな力を含ませ真名が独言するように言った。
目にあるのは悲しげな色ばかりだった怒りのない声と表情。それが菲の顔色を一段と曇らせる。
こう言うご時世、何があるかわからないから――ため息交じりに真名が付言した。
遊ばせたいのは、山々だ。しかし、この時代。
この治安の悪さでは肌の色と髪の色が違う外来の子供が外をほっつき歩いて、何をされるかわからないから。
ただ純粋に。身を案じての事で。
菲がだんだんと小さくなっていく。勘のいい子だ、自分がどういう立場なのかと言うことは、重々承知しているのだろう。
「まあまあ、真名。フェイも反省してるし、それ位で」
苦笑い気味の楓が真名を制止して、辛抱するでござるよ。と菲を諭す。
黙って頷く菲を満足気に見た後、刹那の方に向き直り、顔から笑いを引かせ、それこそ剣呑な顔つきになり。
「ところで、刹那殿、お主の出身。京都でござったな」
「はい、そうですが。何か?」
楓が名前の後に『殿』をつけるのは何か重大な事を言う時のみだ。それを汲み取り、刹那はその佇まいを直す。
ただ、今回はその質問に含まれる楓の意図がつかめないのか、若干眉をしかめさせながらではあるが。
「いや、どうやら今回の娘の仕入先が京都だと」
剣呑なその顔つきを、少しだけ曇らせてから楓はさらに言葉を紡ぐ。
突然の雰囲気に気圧されたのか、正座しっぱなしだった菲が曲げていた背筋を伸ばした。
「――その中に一人、皇族の子がいると言う話で」
頭の中で、楓の言葉が瞬時に反復された。
静菜、その特徴、京都、皇族。
もしかするともしかするかも知れない。心に抱かいた期待を、直ぐに否定が塗りつぶす。
そんな馬鹿な、と。
あの人。あの方はもう、死んだはずだ――と。
あの夜。忘れもしない、ああ、もう。今考えても、胸くその悪い――あの新月の。
しかし。
自分は見たわけではない、彼女が死ぬ場面を。
自分は触れたわけではない、彼女の死体に。
だから
だから――
「っ―― 刹那!!」
制止する真名の声が、ああ遠くの方で聞こえているなとは思った。
刹那は脇に置いてあった"師匠"の小刀を握り締めると、猛然と立ち上がって。
「刹那殿っ!?」
後ろから楓に羽交い絞めにされる。それでも刹那の足は前へと踏み出されていた。
天命とでも言おうか――生涯感じた事のない使命感にただ、体は突き動かされていた。それを衝動と言うには、重すぎる。
そこには何の論理も思考もなく。思う所考える事はただ、一点。
「刹那っ!!」
刹那の正面に回り込んだ真名が、刹那の頬へ握った拳を大振りを咬ました。
骨と肉のぶつかり合う音が、鈍く響く。あたりに包むのは、これ以上ない程の、静寂。
「冷静にモノを考えろ馬鹿が!!」
それを作った張本人が、それを破り、刹那を叱咤する。強く握った拳には、爪が食い込んでいた。
「今行ってどうなると言うんだ! もし人違いだったら?
冷静さを欠いて、策もなく突っ走るんじゃない!」
真名をきつく睨む刹那に、臆する事無く真名は続ける。鋭い眼光はそのままに。
「掌の大きさを知れ……!」
肩を落として黙りこくった刹那を見た、楓が腕を解いた。菲は正座したまま固まっていた。
「少し、頭を冷やしてくる」
それだけ言うと刹那は戸口へ歩き出した。
眉をしかめて、その姿を見送る真名に、楓がそっとしておくでござるとだけ、言葉を投げる。
菲は正座したまま固まっていた。
/
暗愚な闇に響くのは、川のせせらぎだけだった。
川原の土手に立った家から、数十歩ほど河の方へと歩き出した。適当な所で立ち止まり、空を見上げる。
何処にも月の姿は無い。
「そうか……今日、新月……だったか」
誰にともなく呟き、言葉と共に自然と浮かんだ饒舌し難い表情を隠さずに出す。
新月は一番嫌いな月だ。古傷たちが好機とばかりに暴れまわるから。
月の無い夜は、いい事が無い。
ああ、そうだ。
あの日も――確か、こんな、星だけが爛々と輝く、新月の
「刹那ぁー」
背後の暗闇から声が振ってきた。空を見上げながら、声の主が誰であるかを判別する。消去法の要領で、簡単に検討はついた。
「クー?」
視線は星空に固定させたまま、訊く。じゃりじゃりと小石の摩擦する音が、段々と近づいてくるのが耳と肌で感じられた。
「うん」
控えめな相槌。あの場で固まっていたままの菲か。
「刹那、少し、聞かせて欲しいアル。刹那は、こうなる前、どうしてたカ」
感情の篭らない声。
クーのこのような声を聴くのは、久しぶりだ。
「――久しぶりだなぁ……。この話を、するのは」
止まっていた頭の回転数が、序序に上がっていく。そんな中で、刹那はただこの状態を感受した上で驚いた。
あの日に関する言葉が自身の口から出たという事。月がないせいなのだろうか。
関係無いような気もするが、ともかく。
記憶の糸を、手繰り寄せていく。轟々とした星の輝きだけを持つ空を見上げ、またそれに記憶を押し出されるようにして、刹那は思った。
そう言えば。と
私が彼女とであった日も、
私の帰る場所が無くなった日も、
私の大切な人がいなくなった日も、
丁度こんな。
暗澹とした闇に星の光だけを撒いた新月の夜だったのだ。
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ネギまと江戸時代と言うかなり異色な作品ではありますが
違和感なく書けたらなと思います。
誤字脱字苦情等ありましたら気兼ねなくお願いします。