「戻ってこい、和也」
その後のことは煙のようにぼやけていてよく覚えていないが、尚也の中に戻っていったということは確信している。それなのに、なぜか俺はハッキリと自己を自覚できていた。だが、いるのはどこか夢のような世界である。暗いとも、明るいとも言いがたい光と隔絶された場所。音もなく、温度もない。そんなものは世界のどこにもない。ただ、心の中にだけある。俺はそこを知っている。
忘却界。抑圧された無意識の終着点。俺、藤堂直也の藤堂直也への悪意が生まれた場所と言っていいかもしれない。
ためしに体を動かそうとしてみるが、感覚はなかった。指も、腕も足も、腹も、性器も、すべてがなかった。あるのは意識だけ。俺が俺であるという意識だけ。奇妙なことだ。このまま、永遠にすごすのだろうか。それはさすがに辛い。
そんなふうに悲観していると、声が聞こえてきた。いや、繋がってきたというのが正しい。それはこんな内容だった。
――名前を言えるか。
俺は答えた。
――藤堂和也。
やはりこっちのほうがいい。俺は感覚はなかったが、苦笑いした。
声がまた語りかけてきた。
――生きたいか。
俺はすぐに返した。
――生きたいね。
声は、こう続けた。
――お前はアキに与えられた仮初の命。その直也に戻りそこねた存在だ。
――そうかい。教えてくれてありがとう。それで、お前は誰だ。
――フィレモン
――そうか。お前が、か。で、なんだ?
――お前に向かってもらいたいところがある。いまの私ではそこの人間たちに語りかけることができない。しかし、お前がそこで一生を終えれば、お前の影を目印にして干渉ができる。
――一生、ということは、人生を送れってことか。生活しろと。肉を持って。
――そうだ。人として生きろ。
ひどく、魅力的な言葉だった。だが、同時に一抹とはとてもいえない巨大な不安も俺は感じた。
なにかが、おかしくないだろうか。
――以前、アキに聴いたことがある。お前には従者がいるんじゃなかったのか?
――彼らは人ではない。ゆえに、向かっても私は干渉できない。
――そうか……
不安は消えていない。なにか、大きな見落としがあるような気がする。
――なにを悩む? お前が望んでいたものではないのか?
――それはそうだな。
不安がうそのように消える。
そうだ。俺が俺として、生きていられる。それは、まさに夢のような世界。楽園じゃないか。
――わかった。フィレモン、請ける。その頼みを。
――ありがとう。
フィレモンがそういった瞬間、どこかへ飛ばされた。
気づいたとき、俺は夜空を見上げていた。
月と星が暗い夜の中で眩く輝いていた。
森の中にいるみたいで、枝と葉が風で擦れあって俺の新しい門出を祝うかのように音で包み込んでくれる。
園村の心象世界とは違う、本物の森と本物の夜空。
まず俺は起き上がり、手と足、皮膚、体の隅々を見て回った。感覚はある。おかしいところはない。耳たぶを触れると、そこにはピアス穴がなかった。まさしく藤堂和也、その格好だ。
耳に、川のせせらぎが聞こえてきた。少し遠い。俺は近くまで行こうと走り出した。
何度か石に躓いて転んだが、腹の底から笑いがこみ上げてきて苛立ちもなにもなかった。尚也をどん底に落としかけたときよりもかなりハッピーな状態だった。
俺は、人生をこれから送る。人生をこれから送ることができるのだ。
「……ふ、ふふっ、ハハハハハ!」
笑い声を上げて森を抜けた。いつのまにか行き先が川から別方向に向かっていたが、もうどうでもよかった。硬い地面に足をつけて両手を広げた。
たまらなかった。爆発に似た興奮が体のそこから湧き上がってきていた。俺は、生きている。
大きく笑った。けたたましく、狂ったように笑い転げた。腹筋が痙攣を起こし、痛くさえなった。
しかし、人の喜びに水ではなく、氷を差すやつがいた。
バリンとガラスが砕けるような音とともにその声はした。
「魔法の射手・連弾・氷の17矢!」
「うおおお!」
突然のことだった。あのクソガキを髣髴とさせるやつから攻撃されたのだ。
せっかくの気分がヒートダウンされて台無しだ。
「いきなりなにしやがる!」
「完璧な不意打ちだったのだが、上手く避けたな。次は当てる」
人の質問に一切答えず、そのガキはさらに続けてブフ系の魔法を撃ってきた。理由は不明だが、フラスコやら試験管を同時に投げている。
ペルソナは発動できるようだが、相手への効果のほどは不明。息をせき切らしてというほどのものではないが、降魔して逃走を図った。
せっかくの人生なんだから危ない橋は渡らずに自分の命を最優先したいのが人情。ここは、夜中とはいえ車ぐらいなら通ってもおかしくない広い道路だ。そのうち攻撃が止むだろう。
「そらそら、まだまだいくぞ!」
それなのにクソガキはずいぶんと調子に乗っているようで数秒前まで俺がいた場所に氷を突き刺していった。
そういや、宙に浮いているのはあっちでも悪魔の集団で見慣れているからどうとも思わないが隣にロボットが飛んでいるのはどういうことだ。さすがは平行世界と感心しておくべきところだろうか。
「これでは埒があかんな。茶々丸、いけ」
「了解しました」
クソガキが命じると、なんとロボットがジェット噴射で飛んできた。ここの文明レベルはどれだけ進んでるのだ。
「捕獲します」
そういうロボットから舌打ちして俺は逃げる。ふざけんじゃない。何でこんなところに来てまで戦わにゃならんのだ。
だが、そのロボットは速かった。俺の眼前に軽々回りこみ、拳を振るってくる。風を切る音がすごいな、まったく。
「もらった!」
声にわずかに遅れて、魔法が飛んできた。俺は、目の前の高性能なロボットに気を取られてクソガキを失念していた。あちら側の法則が通用するかどうかは、リハーサル無しのぶっつけ本番。とにかくやってみるしかない。
「ペルソナ、チェンジ」
降ろしているペルソナを変えた直後、氷の槍が俺に襲い掛かった。
しかし、なにも起こらなかった。俺は身体の確認をし、傷の有無を確かめた。無傷である。どうやら、ペルソナの特性はこちら側でも通じるようだ。
「直撃したはずなのだが……」
「ああ、した」
俺は無傷で空から降りてきたガキに言ってやった。
「ならば、どうしてダメージがないのか気になるが、それは後で調べることにするか」
「後で―――だあ!?」
会話でロボットのことを忘れていた。
俺は背後から羽交い絞めにされてしまった。このロボットの力は尋常じゃない。ペルソナをつけているから骨を折られるようなことはないが、痛みは緩和されない。ギチギチと両肩の骨が悲鳴を上げている。
「とりあえず連行させてもらうぞ、ぼーや」
坊やか、まるで上から見下ろしているみたいじゃないかこのクソガキ。アキに口調は似ていないが、どうしても交際範囲が狭かったせいなのかあれに見えて仕方がない。
そのせいでか、負けたくないという感情がフツフツと沸きだってきた。
ガキがニヤリと口元を上げた。
「そんなに睨んでも、いまの貴様はどうしようもないだろ? んん?」
やけに尖った犬歯を覗かせ、ガキは俺の鼻を人差し指でなでた。俺はその余裕綽々な、美麗な顔に唾を吐いてやった。
瞬間、平手打ちが飛んできた。避けられるわけもなかった。
ガキは自身のマントで俺の唾をぬぐった。
「たいした度胸だ。この闇の福音に唾を吐くとはな。少々、ほんの少々だが、気に入ったぞ」
「それはどうも。ならとっとと開放してほしいんだが」
「だめだ。この私に無礼な働きをしたのだ。後悔しながら苦痛に喘げ。茶々丸、やってしまえ」
「了解しました」
後ろのロボット、茶々丸というのがガキの言葉の後に力を強めてきた。徐々に痛みが強まり、骨の悲鳴も大きくなってきた。このままでは骨折するだろう。
だが、大人しくしている馬鹿じゃない。
「チェンジ、青龍。食らいなクソガキ」
「……何をする気だ!」
もう遅い。
後悔しながら苦痛に喘げ。
「ジオダイン!」
俺とロボット、そしてクソガキの三人を局地的雷雨が襲った。
死ぬほど効いた。俺自身に。しかし、まだかろうじて意識が残っている。
俺はロボットの腕を解き、地面にぶっ倒れているクソガキを拾い上げると、ギロリと睨み上げてきた。こいつもなかなか強い。
「き、さま……いまのはなんだ。あんな、魔法、知らない」
「教えてやる義理はないだろ。なにせいきなり殺されかけたんだからな」
「こ、この……」
言葉を続ける事ができずに、クソガキは気絶した。
さて、これからどうするか。
こんな口ぶりをしている俺も実は結構なダメージがある。全身には痺れがあり、背中から踵に向かっては泣きたくなる痛みが走っている。おそらく、やけどだろう。薬局にいけば宝玉でも売っているかもしれないが、現在無一文だ。どうにもできない。
そうやって数分、俺が悩んでいると横手からしわがれた声が聞こえてきた。
「見つけましたぞ、和也様」
振り向いたら、鼻が長く伸びている頭の禿げ上がったとても人間とは思えないやつがいた。悪魔ってわけじゃなさそうだが、どうして俺の名前を知っているのか。俺はそのことについて尋ねた。
「私はフィレモン様の使いでイゴールと申します。とりあえず、その少女を放してどうぞおかけになってください」
どこにと、そんな返答をする暇もなく、一瞬で俺がいたところは青一面の大きな部屋になっていた。
部屋にはイゴールと名乗った男のほかに目隠しをしてピアノを弾く男と、歌っている女がいる。その二人の奏でる音楽はこの俺の心を落ち着かせて、さっきまでのこのガキに対しての憤りなんかも静ませてくれた。
「紅茶でよろしいでしょうか」
「あ、ああ」
戸惑いはあったがまずはガキとロボットをソファに上げておいてから俺も座り、出された紅茶を頂いた。美味いもんなんだな。初めて飲むものが嫌悪ではなく喜びの感情を引きずり出してくれるのはありがたい。
「藤堂様、これを」
イゴールは宝玉を三個、懐から出してきた。早速自分に使った。宝玉が光を放出し、痺れと背中の痛みを取り去ってくれた。クソガキにも使うと、目に見える外傷はないから分かりにくいが顔色から治癒されていくことがわかった。続けてロボットにも使用すると先ほどと同じく光を放出する。
「効いてんのか?」
「問題ありません。これほど精巧に作られた人形はもはや人と違いはさほどありませんので」
「そういうもんか。おい、もう起きてんだろうがクソガキ」
俺が金の頭をぺしぺし叩くと、クソガキはむくりと体を起こした。
「……誰がクソガキか、私はエヴァンジェリンだ。茶々丸、大丈夫か」
「はい。損傷は修復されました」
ロボットのほうも大丈夫なようだった。二人は起き上がって部屋を観察したあと俺のほうに顔を向けてきた。
さて、これからどうなることやら。