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No.11895の一覧
[0] 千雨の方法【ネギま!オリ設定】[a2](2009/12/04 02:39)
[1] 望遠鏡と同窓会 前[a2](2009/09/16 09:10)
[2] 望遠鏡と同窓会 後[a2](2009/09/18 03:04)
[3] デイドリーム・ビリーバー 上[a2](2009/10/01 18:34)
[4] デイドリーム・ビリーバー 下[a2](2009/12/01 17:50)
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[11895] デイドリーム・ビリーバー 上
Name: a2◆b51f56f3 ID:a4353d72 前を表示する / 次を表示する
Date: 2009/10/01 18:34




「……! 火星探査機か!」

 新世界、コロンビア・ヒルズ。通称カホキア。人のいない夜の草原に、テントが二つ並んでいる。その傍に焚き火を囲む三人の少女の姿があった。
 火星探査機という呼称が、いつから旧世界から新世界へと移動する現金の別称になったのか千雨は知らない。ただ、その多くは火星探査の費用という名目で迂遠な経路を巡って新世界にたどり着く。

「そうだ。火星探査機が現金……純金で輸送されることは知ってるな?」
「あ、聞いたことあるー! メガロメセンブリア銀行が一手に引き受けてるって!」
「いや、まあ……厳密に言やメ銀の外部団体なわけだが、北部が南部に比べて資金に恵まれてる原因がそれってわけだ。だが実際にゲートポールを大量の純金が通ってきているって話はない。火星探査機は存在も疑問視されることも多い」
「そのような不確実な情報を頼るつもりか」
「いや、火星探査機は実在する。さて問題だ桜咲。未曾有の経済打撃を受けたがすぐさま回復した半年前、旧世界で何があった?」
「……えと」
「テメエは新聞くらい読め。佐々木」
「マーズ・エクスプレス・オービタとビーグル2かな?」
「そうだ。どっからかの解りやすいくらいの援助と、まったく同じタイミングのどたばたした計画」
「しかし、それだけでは確定した情報とは」
「ま、アンタの言うとおりだ。確証があるわけじゃない。だが状況証拠で十分だ。色々探ってみたが、メ銀にはどっからか資金が注入されたのは確か。その金額はおよそマーズ・エクスプレス・オービタとビーグル2の計画の85%ってわけだ」

 バカレンジャーが一人にその予備軍二人で顔をつき合わせて、何をカッコつけてんだか。千雨は内心で自嘲しつつ、まだ思案を続ける刹那を見た。

「長谷川。しかし、それが実在したとしてそれを襲うというのは我々の方針から外れるのではないか?」
「いや。まだネタはある。よく考えろ桜咲。半年前、新世界が北部を中心に恐慌に襲われたタイミングを」
「……そうか。その時、ゲートポールは使えなかった」
「そういうこった。メ銀はゲートポールを隠匿してやがる。しかも連合の権力中枢に食い込んでるはずの完全なる世界がそれを気づいてないはずがねえ」
「! 見逃している!? いや」
「ま、普通に考えりゃ秘匿されてるゲートポールなんか奴らの目的には関係ない、ってところなんだがな。それでも、協力関係であるって可能性はゼロじゃねえ。ゼロじゃないなら、私たちには十分だ」
「……」
「……」

 もしかしたらそうかもしれないから、襲っておく。
 いいがかりだとか、詭弁だとか千雨自身そう思うが、逃亡し続けるテロ組織白き翼のNo,3として活動に最も必要なものを失うことなく、二番目に必要とされるものを効率的に得る方法がこれだった。
 刹那は、しばらく考え込んでいた。当然だと千雨は思った。白き翼は常識がないが倫理がある。その中にあって刹那はその両方を兼ね備える人間だ。だが合理的な思考も持ち合わせている。
 刹那は顔を上げた。その目には、一々口に出す必要もない決断が浮かんでいる。だが、その目が千雨の背後で止まり、苦笑する。

「フハ」
「あ」

 千雨は嫌そうに振り返った。二つ並んだテントの片方……彼女が我が侭を言って千雨に調達させた彼女専用テントの上に、小柄な吸血鬼が腕を組んで立っている。闇夜に映える姿なのだが、

「フハハハハハハハハ! いいぞ気に入ったぞその計画! まさに『悪』! 我ら白き翼に相応しいではないか!」
「……聞いてたのかよ、エヴァンジェリン」
「悪いのは天幕の横でべらべら喋っていた貴様だ、長谷川」

 千雨は頭を抱えた。ド派手好きの魔法好き。他のメンバーも含め、特にエヴァンジェリンにだけは聞かれたくない作戦だったのだが。
 メ銀の隠匿したゲートポールを強襲する。非常に地味な情報収集がキモとなる作戦だ。作戦自体も、ヒットして撤退。一撃離脱。エヴァの好まない地味なものになるだろうに。

「それに聞いているのは私だけではないぞ」

 テントの横に飛び降りたエヴァンジェリンの背後、エヴァの天幕から夕映が現れる。

「私は賛成できません千雨さん」
「……」
「それを刹那さんと千雨さんの二人だけでするのは、リスクが大きすぎます」
「あれ、ゆえちゃん私は」
「あんたも、リスクの向こうにメリットがあるとかいう考えの持ち主じゃなかったか、綾瀬」
「ですがリスクは軽減できます。時にメリットとデメリットの力関係を逆転させることもありますが」
「どーしろってんだよ」

 苦笑した千雨に夕映はにこりと笑って返した。

「私もお付き合いしますです。千雨さん」
「おいおい。あんたにゃ先生のお守りを頼もうと思ってたんだけどな」
「『お姉ちゃん』は大変だな? 長谷川」
「はっ! 放任主義の『お母様』のせいでな?」
「なっ!?」

 かっ、とエヴァンジェリンの顔が赤くなる。

「誰があのガキの母親だ!」
「……仕方ねえな。じゃあ、計画は組みなおすぜ」
「ちょーっと待つアル!」
「やかましい出てくるなバカイエロー! こら長谷川こっちを見ろ! まだ私の話が終わっていないぞ!」

 もう一つのテントから文字通り跳び出した古菲はくるくると空中で2回転し、まるで戦隊ヒーローのようなポーズを決めながら千雨の目の前に着地した。

「私だけ除け者はよくないアル!」
「だからうるさいといっておろーが!」

 あーあ、と千雨は気分を害したエヴァが殴りかかる古を見て溜息をついた。結局、全員に聞かれてしまったわけだ。頭をかりかりと掻く。
 一つ間違えば大損のリスク。であるからこそクレバーに動ける人間を抽出したつもりだったのだが。
 千雨の背中に、薄い胸が押し付けられる。

「うわっ」
「千雨ちゃん千雨ちゃん。いいじゃんいいじゃん」
「重いっつーの。どけ佐々木!」

 慣れない一時接触に顔が赤くなるのを感じる。千雨はぶんぶんと上半身を揺らしてまき絵を振り落とそうとするが、まき絵は絡みつくようにして離れない。

「ね、千雨ちゃん。皆で一緒にすればいいじゃん!」
「あ?」

 千雨は肩越しに顔を覗き込んでくるまき絵と目を合わせる。何を言っているか解らなかったのだ。にこにこ笑っているまき絵。

「仲間はずれはダメだよー!」
「……ああ。それなら、最初に話したのは先生だ。けどな、あのクソ真面目なガキが飲み込めるような類でもねーしな」
「貴様が説得すればよかろう」
「……あ?」

 エヴァンジェリンが微笑を浮かべながら千雨を見下ろす。

「貴様は白き翼の参謀なのだろう? リーダーをないがしろにするのは参謀がやってはならない最たるものだ。参謀は提案するだけ。いくら有効な方策だとしても参謀がすべきは提案のみ。決断まで担うことは、No,2の私が許さん」
「テメーでもいいだろうが!」
「最後まで責任を持て」
「グ……」

 千雨は、エヴァンジェリンの視線を逃れ、刹那と夕映の助けを求める。二人は文句はないと言わんばかりに笑っており、古とまき絵に最後の望みを繋ぐが、その顔もニコニコと笑っていた。
 はあ、と溜息。いつの間にやら、ネギの説得やら諌め役なんかは千雨の役どころになっていた。首を不機嫌そうに掻いて、千雨は立ち上がってテントに向かう。

「……ったく。知らねーからな! 説得できなくても!」

 エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル。
 長谷川千雨。
 桜咲刹那。
 古菲。
 綾瀬夕映。
 佐々木まき絵。
 そして、ネギ・スプリングフィールド。
 ――白き翼の最盛期の一幕だった。



◆◆◆



「千雨さん、千雨さん?」

 また夢か。掛け値なしの本気で千雨はそう思った。それとも高度な幻術か。そうだったとしたらトンでもない術者が隠れていたものだ。先天的な精神系魔術に対しての抵抗能力を持つ千雨にすらこれほど精巧な幻術をかける魔法使いの話すら千雨は聞いたことはない。
 だがその夢を見たいと、千雨は何度思ったろう。

「あ……」

 酷く懐かしい光景が、千雨の眼前に広がっている。突然視界の奥行きが広がり、その風に煽られ、千雨はよろめくのを堪えるのに精一杯だった。
 小さなネギ・スプリングフィールドの目が、千雨の眼を覗き込んでいた。至近距離。どちらかが動けば唇を触れ合わせることができるほどの近さ。互いの眼鏡が微かに触れ合う。僅かに鼻腔を擽る不潔な汗の臭いは風呂嫌いの――なのに水浴びは嫌いではないネギが常に纏っていたもので、付き合いは長い千雨にとっては不快なものではなかった。野生や男らしさが排されたネギの人格の上で、それを感じさせる唯一のものだ。だが、その臭いを感じたのも久しぶりで、ネギがこんな近くにいるのも久しぶりだった。
 千雨は思わず顔を赤くする。やばい動揺した、と自覚するもどうしようもなく、ネギの前襟を両手でそっと掴んだ。

「え、ちょっ」

 千雨は息が熱くなるのを自覚しながら、困った顔をしたネギの顔をゆっくりと引き寄せ、その高い鼻頭をそっと甘噛みした。千雨の唇が震えて、ネギの鼻も動揺している。
 困ったものだ。この朴念仁は自分からキスをするときも人からされるときも、困った顔をする。懐かしい気持ちになって。千雨は少し苦笑した。
 そのまま千雨は、――待て、待て。これは。

 ドゴッ。

 襟首を思い切り引き寄せて、ネギの頭を、目の前の机に叩きつけた。

「……」
「……」
「……」
「……」

 きっちり32人分の沈黙。広げられた千雨のノートがネギから出たと思しき赤い液体を吸い取っていく。和泉亜子が目を回してぶっ倒れた。隣席の綾瀬夕映が引きつった顔で自分のノートを持ち上げて赤い液体から逃れる。
 千雨は、周囲を見渡した。息を呑み、唇に僅かについたネギの汗を舐め取る。塩の味。
 夢じゃない。幻覚でもない。夢のような、夢と大差のない現実。
(……やべ)

 前の席には神楽坂明日菜と近衛木乃香が並んで座って、血を流すネギをぎりぎりまで目を見開いて凝視している。血の海に沈んだネギは千雨の記憶にある姿より遥かに幼く――最後に見たネギは、加速された空間における過剰な訓練によって千雨との年の差は二つほどまでに縮まっていた――小さく、華奢で。この頃は本当に頼り甲斐がなくて。そのままでいてくれたら、どれだけ悲劇が訪れるのが遅延されただろう。

「死んだ」

 誰かが、呟いた。本当に近しい人の突然の死に直面したかのような、声色から愛嬌が一欠けらも残されていない真に迫る一言だった。きょろきょろと千雨が見回すと、言ったのは双子の吊り眼の方のようだった。顔色は真っ青で、瞳孔が開ききっている。

「え、待てよ。死んではいないだろ」

 慌てて言い訳して、千雨はネギを見下ろした。
 心臓のすぐ横を石槍でぶち抜かれようとも、腕を吹き飛ばされようと、闇の魔法に侵食されてもラカンに全力でぶっ飛ばされても生きていたネギだ。千雨程度に木に塗装しただけの机に叩きつけられたところで。
 千雨は反射的に人差し指と中指を合わせ、ネギの首筋に当てた。

「……」

 こ、ぽ、と断続的な呼吸音が聞こえ、ネギの顔色が青を超えて紫も超えて赤に染まっていく。脈は薄まり、心臓の動きが徐々に遅くなっていく。
 さーっと千雨から血の気が引いた。
 タイミングが最悪だったとしかいえない。ネギ・スプリングフィールドが自らの戦闘能力に疑問を持ったのは修学旅行の後で、自分が魔法使いであるということに対して慎重になったのが二年の学年末試験の後。この瞬間は丁度その間隙。魔力抜きで身を守る術を知らず、魔力に頼りきるべきでもないとネギが思い直した丁度直後だ。
 勿論、千雨はそんな事情は知らない。千雨が知るネギは徹頭徹尾クラスメートを自分の力で守らないといけないと考えている強いネギの姿だった。千雨は、いやクラスメートのほとんどは弱く頼りないネギの姿を知らない。
 だが、その生命活動がどれだけ微弱かを確認した千雨は、口を半開きにしたまま咄嗟にエヴァンジェリン.A.K.マクダウェルを見た。千雨と同じく口は半開きで顔色が真っ青。次いで龍宮真名に目を向ける。息をしろ、動揺するな。私以上に命の危機に慣れているはずのあんたが絶望してたら私はどうすりゃいいっつーんだ。

「……」
「……」
「……」

 千雨は、無言でネギをひっくり返し、首を上げ、気道を確保した。全身が弛緩して重い。呼吸はない。心臓に手を当てると、心臓も止まりそうだった。千雨は真っ青な顔で一度クラスを見回し、誰へでもなく深く頷いた。千雨自身が混乱しているのもあった。だが申し訳ないという気持ちも強かったのだ。
 誰ともしれず、息を呑み唾を飲む。
 千雨は大きく息を吸い込み、
 躊躇いなくネギの唇に顔を振り下ろした。

「っぷすー……うおおおおおおお! っぷすー……生き返れえええええええええ!」
「何してんのよ千雨ちゃんー! ちょ、保険委員保健室連れて来てよー!」
「あかんわー。保健室は連れてけーへん……」
「ていうか亜子!? あこー! 目を覚ましてー!」
「あわわわわわわわわっわネギせんせーがキス……それどころじゃないー」
「ええい代わりなさい千雨さん! ネギ先生に! ネギ先生の唇は私のものですわー!」
「あらあら、落ち着いてあやか」ゴッ。
「ちづ姉がいいんちょの鼻の右下に指を突き立てたーっ!?」
「ほほう……千鶴も手練アルが、千雨の判断も大したものアル」
「では拙者が保険室を連れて来るでござる」
「楓ちん、マジでできそうだからアレだよね」
「スクー……! いや、遺影かなー」パシャパシャ。
「っぷすー……起きろ先生っ! っぷすー……私を殺人犯にしてんじゃねー! っぷすー……っていうか何だよこの展開はーっ!」

 混濁。混迷。爆発。


「いやー、死ぬかと思っちゃいました」

 と、教壇の前で平然と言い放ったのはネギ・スプリングフィールドの九歳の姿である。平然と笑ってはいるが、Vゾーンは赤く濡れ、顔は真っ青で目は虚ろだ。鼻には丸めたティッシュが詰め込んであるが、まだ血が滴っている。一旦目を覚ました亜子はそれを見てまた気絶し、今は大河内アキラの膝の上だった。

「ちょっと千雨ちゃん、ちゃんと謝りなさいよ」
「うるせーな……解ってるよ」
「いや、女性にあんなに顔を近づけた僕の配慮が足りませんでした。気にしないでください長谷川さん」
「ぐ……」

 完璧に千雨が悪いことを庇われると、反発とプライドが重なり合うように苛々する。その雰囲気を感じ取ったか雪広あやかが立ち上がりかけるが、千雨の顔を見るやしおしおとその意気は萎れていったようだった。千雨の顔には、必死さの証か、ネギの血が大量に飛び散っている。初代スクリームレベルの大惨事だった。
 あやかは、小さく溜息をついた。

「とにかく、千雨さんに顔を洗いに行って頂いたらいかがでしょう、ネギ先生」
「あ、そーですね。でももうHRも終わりですので、いいんちょさん。号令をお願いします。あと和泉さんを保健室に」
「引き受けましたわ。では起立」

 反射的に――しかしそれは懐かしい反射で、千雨は立ち上がり、小さく頭を下げた。もう何事もなかったようにクラスがざわめく。それはこのクラスだけでなく麻帆良全体がそうなのだが、このクラスはやはりその最たる存在だろう。
 千雨は、それが昔は大嫌いだったことを思い出す。
 ネギが心配した明日菜と木乃香に挟まれ、立ったまま介抱されている。その光景を背後に、千雨は教室を出た。

「いやー、凄かったねちうっち」

 後ろからハルナに掴まる。千雨は瞬時にハルナを睨みつけた。が、振り払おうとはしない。

「別にわざとやったわけじゃねーよ」
「そりゃあねー? うふふふ。キスするために机に叩きつけるなんてそれどんなヤンデレって感じだもんねー」
「キスって、お前。あとヤンデレとかわかんねーよ」嘘だが。
「ありゃ?」

 不適に笑っていたハルナが、不思議そうに首を傾げる。

「ラブ臭が」
「するか!」
「じゃなくて、長谷川さんこんなに喋れる人だったっけ?」
「……」

 千雨は、ハルナを無言で振り払ってトイレへ向かった。
 放課後に入った直後だからか、まだひと気はない。いたらいたで、血だらけの千雨に慄かれただろうから手間が省けた、と思う。そういえば、トイレの場所を忘れていなかったな。
 千雨は洗面台の蛇口を思い切り捻った。手を洗面台の底に押し付ける。冷たい渦巻く水流。久々の感触も思い出す。比較すると、幾分柔らかかった気もする。千雨は、顔を上げて鏡を見た。

「はっ――」

 大して変わっていない。自分の三年も、大して意味はない。少しだけ幼い顔立ち。散々悪いといわれた目つきも、やはりこの頃からのものだ。体は少しは子供っぽいだろう。いや、体への配慮を忘れかけた三年後の方がバランスは取れていなかったかもしれない。
 耳に、喧騒が残っている。
 やばい、と思う間もなく、顔がニヤけた。咄嗟に顔を押さえつけ、水滴を顔に飛び散らせながら眼鏡を外し、体を反らして洗面台に背を預ける。

(すげー、すげーよ葉加瀬。やっぱ天才だなあんた)

 3-A。3-Aだ。ネギ・スプリングフィールドと神楽坂明日菜と近衛木乃香が一緒の空間にいるなんて、決して有り得なかった状況だ。ニヤニヤきめえな私は、と思いながらも千雨は声を出して笑った。

「ははははっ」

 三年後のネギが望んだものが、千雨の、四葉の、葉加瀬の渇望したものがまるでそんな価値は存在しないかのように平然と目の前に存在している。
 正直に言って、それは千雨にとって、三年後手元に残っていたもののどんなものよりも、あの世界だから救われたものより、そして三年後の世界で千雨が大切だったどんなものよりも尊かった。
 成程、超鈴音。お前の気持ちがわかった気がするよ。
 これに比べれば、矜持もプライドもどうでもいい。どれだけ他の不幸な人間に恨まれたところで構うものか。新たに得るものなんて、失ったものを取り戻すことに比べれば取るに足らない。
 だって、笑ってるのだ。
 笑顔を失ったように生きている奴らが、ここでは笑っている。
 ――それは、その人本人ではないのだけど。やはり本人だ。だって同じように考える。同じように笑う。その本人は他ならぬ千雨が全て消し去ったが、それを知るのは千雨だけなのだ。いや、千雨ではない千雨だ。
 ならいいじゃないか。千雨が辛いだけ。たったそれだけの代償で彼女達は、彼女達に似た彼女たちは笑ってくれるのだ。
 千雨は、決めた。
 どんなに辛かろうと、どれだけ長い戦いになろうとも。何度繰り返す羽目になっても。
 あれを、失わない。

 決めたんだから。
 だからか、だけどか。
 千雨は鏡をまた見た。平凡な眼鏡の少女。その顔を手で覆う。

「そんなに、恨みがましそうに見るなよ」



◆◆◆



 それは春の桜のような。
 夏の陽炎のような。
 秋の落ち葉のような。
 冬の雪のような。
 まるで流れ星のように儚げなものだった。



千雨の方法
一章 デイドリーム・ビリーバー 上



「千雨さんはのび太くんの出るアレで、欲しい道具ってなんですか?」

 こいつは、何を言っているのだろうか。何の脈絡もない唐突な葉加瀬を横目で見ながら、千雨はティーカップを傾けた。チャムの配慮でブランデーが足らされている。邪道かもしれないが、そんなん個人の趣味だろ、と千雨は思っている。千雨は、内部の思案を億尾にも出さず平然と応えた。

「独裁スイッチ」
「……」
「……」

 千雨とその傍らのチャム、それに葉加瀬がそれぞれ視線を交わす。葉加瀬は微妙な表情をしている。千雨は溜息をつき、聞き返した。

「あんたは?」
「もしもボックスですね」
「……」
「……」
 千雨も微妙な表情で、二人は顔を突き合わせる。葉加瀬がチャムを見上げた。

「……」
「……」
「私はドラえもんです」
「もー! 千雨さんたら、チャムに気を使わせて!」
「待てオイ! 問答無用で主従関係にヒビ入れんなよ! チャム! 私はあんたのこと道具なんて思ってねーからな! そっちも思う必要はねーんだぞ!?」
「お気遣いありがとうございます、マスター」
「さて本題ですが」
「何がしたいんだよ! つーか問題の時点で悪意が透けて見えてんだよ!」

 しれっと無視した葉加瀬は板についた白衣姿。千雨には視線を向けることすらなくカシオペアに接続したノートパソコン二基と睨めっこしている。大して千雨は8歳ほどの姿に変わっていた。エヴァの幻術薬がまだ千雨の手元にはいくつか残っている。18歳になってしまった千雨は変装するのにも、5歳では足りない。

「カシオペアの動作魔力は、千雨さんの体から引きずり出すとして」
「つーか、それ大丈夫なのかよ。あのネギ先生でも一週間飛ぶのにぶっ倒れたんだぞ」
「もちろん無理です。丸三年と半年ほど……ネギ先生が赴任する頃に戻るとして、今の三倍に出力を上げた呪紋刻印つきの千雨さんがえーと、741人必要ですね」
「はっ。そんな所だろうよ。で? 呪紋刻印の出力を2223倍にでもするか? 爪の一枚くらいは届くかもしれねーな」
「いいところ行ってますね。そこから発想を転換してもらいます。送還する絶対量の大幅な削減。つまり、情報だけをタイムスリップさせます」

 情報をタイムスリップ。その意味を察して千雨は顔を歪めた。

「待てよ、それって」
「はい。移動するのは頭の中身だけです」
「受け皿はどうするんだよ。肉体と違って情報なんてそこにあればいいって話しでもないだろ」
「勿論、私とかそこらへんの魔法生物でもいいですけど、ぶっちゃけストレスとアイデンティティーの崩壊であんまり保たないでしょうね」
「前置きはいい」
「三年前の千雨さんの脳内に書き込まれた情報を、今の千雨さんの情報で上書きします」
「三年前の私に死ね、ってことか」
「そういうことになりますねー」

 平然とした口調。これが偽悪的ならまだ救いはあったろうが、葉加瀬聡美はこれが素なのだから恐れ入る。怒りも恐れもどこかに置き去りにして、千雨は呆れた目で葉加瀬の後姿を見つめた。

「私的には、今の千雨さんが生き残ってくれる方が嬉しいんで」
「そっくりそのまま返してくれようか。私だけが残るっていう私の感情はどこ行くんだよ」
「そのために、チャムをつけます。七部衆もです。
 人間の脳の容量はどれくらいかご存知ですか?」
「確か、80テラだとか聞いたことあるな」
「そこまではないんですが、私たちくらいの年齢だと割と空いてるんで、そこに七部衆とチャムのデータを入れておきます。それをまとめて電子化して、機械処理的に記憶を上書きします。あっちについたら脳を直接操作して取り出してください。大丈夫ですよ、圧縮しておきますから、多分容量オーバーにはなりません。あと上書きとか書き込みとか脳組織が大分ダメージ受けますけど、逆に精一杯無理するだけ時間はかかりません」
「解った。テメーは私を人間だと思ってねえと思ってたが、人間を機械扱いしてるのが本当だろ」

 つまり、手順としてはこういうことだ。
 まず、千雨の脳にチャムの精神・経験のデータと、七部衆のデータを書き込む。
 次に千雨の脳を情報化し、取りだす。
 千雨の呪紋刻印を使って、カシオペアを起動。
 千雨の情報を三年前の千雨に直接上書きする。
 千雨は、そこからチャムと七部衆のデータをどこかに落とす。
 葉加瀬は千雨に振り返り、唇を尖らせた。

「もー。これでも他に方法はないか必死に考えたんですよ。もっと評価してくれてもいいじゃないですか。チャムのデータの解凍は魔力的な手続きですし、危険性もほとんどないんですよ。ちょっと頭の中にストレスがかかって痛いと思いますけど」
 極常識的な反論を千雨は飲み込んだ。
「……つーかよ葉加瀬。これだとこっちに私、残ることにならないか? 呪紋刻印の起動はしなきゃなんないだろ?」
「大丈夫ですよ。外科手術したら呪紋刻印は私が外部から起動できるようにできますから。脳のデータ化以降はもう眠ったまま、起きたら三年前の世界です」
「待て待て。データ化したら脳みそが消えるわけじゃねーだろ」
「それも大丈夫です。情報化でタイムスリップにかかる魔力を大幅削減したといってもやっぱり莫大ですから、呪紋刻印の出力を上げて、千雨さんは骨の一本も残りません」
「大丈夫じゃねーだろがそれは?! 私死ぬんじゃねーか!」
「いやー、哲学は疎いものでしてー。肉体と精神の死とコピーがどこかに生きているなら生きてるほうを優先してもいいんじゃないかなーって」
「軽すぎだろテメー! でけーなリスク!」
「まあ、リスクが大きいのは承知でしょう。それに」
 葉加瀬は振り返って、皮肉気な笑みを浮かべた。
「千雨さんに似た誰かが、私に似た誰かを守るってのも皮肉が利いてて、千雨さんも踏ん切りがつくでしょう?」
「ああ……まあ、そうだな。……けどそれは私の台詞であんたが言ったらダメだろ」
「千雨さんが結局歴史を変えられなかったらこっちで私はたった一人千雨さんをこの手で殺したって後悔を抱えて生きていかなきゃいけないんですから、いいじゃないですか」
「……」

 いや、自分のために死ねって言ってるぞ。しかも二人。それでお前は結局生きてるんじゃねえかよ。
 という罵倒をなんとか飲み込んで、代わりに息を吐き出す。

「いやー、リスク大嫌いだった千雨さんもリスクを飲み込めるようになりましたねー。流石は二代目千の刃」
「その名で呼ぶんじゃねえ!」
「まあまあ、落ち着いてください」
「人の神経逆撫でしといて何言ってんだ……まあいい。それで、三年前に飛べるとしよう。それから私はどうしたらいい」
「ご随意にどうぞ……って言ったら流石に丸投げすぎですね」
「つーかそれは私を殺そうとしてるとしか思えねーよ」
「まあ、私が私であれるのはカシオペアを使う直前までで、それからは千雨さんが変えた未来の私なんですから、私的には結果を待つだけなので。多分認識できないですけど」
「他人事みたいに言ってんじゃねー。方針くらいは出せ。あんたのことだ、最低ラインくらいは計算してんだろ」
「結果論から言えば、まず未来から来たということは隠し切ってください」
「……まあな、元から言うつもりはねえよ」

 それが超一派以外だったら馬鹿にされるだけだろうし、超一派だったらマークされる。共に未来を変えようとする同士、方向性として敵対するのは間違いない。いや、千雨の方針としては積極的な敵対こそが「現在」を変化させる第一条件だった。

「それに、未来から来るという状況だけでその目的は知れたもんだ。超の目的みたいに大掛かりなモンじゃない。私が目指すのはもっと地味で、長い活動だ。隠匿しきってみせるしかねーだろ」
「3-Aのメンバーを舐めないでください。三年前の千雨さんはただの中学生ですが、当時から既にクラスに一流はごろごろいました。ごく僅かな情報でも悟られる可能性があります」
「いや、それは流石にねーだろ。活動の幅も狭まるし、もっとフレキシブルに」
「特に、超さんです。人づての情報を統合して、当たりをつけてくる可能性があります。……というか、私の考えられる限り超さんにバレるのは一種しかたないことですね」
「待て待て。やる前からそれはどうなんだ」
「そのレベルの慎重さが必要ということです。超さんほど慎重な人もいません。あの人は、最後の最後まで全て計算上で事を済ませたのだと思います。或いは、私たちへの感情移入の具合すら計算の内だったかも知れません。自分以外に未来から来た人間がいる、ということも当然想定しているでしょう」
「……」

 それは、千雨の目指す姿そのものだった。
 千雨にはたった一つの未来図を引き、それだけに邁進することはできない。その周囲に張り巡らされたもしもの世界を一つ一つ計算し、リスクを調整しながら大枠を乗り越えていく。それが千雨にできる精一杯のことだ。望んだ最大限の成果が出ないことは当たり前。予定外の事態を出来る限り対応できるように整えておく凡人の所業。その努力の量からすれば、たった一つに進むことのできる人間はまさに天才だと言える。
 千雨は天才に遠く、超もそうだろうと千雨は考えている。だからこそ、最大限の努力をするその姿こそが千雨の目指すものだ。
 いかん、と千雨は頭を振った。どうも超の話を聞くと、天才と凡人の差に執着しがちになる。

「加えて、心配事が一つ」
「なんだよ」
「未来を変えるために来た、とばれた時、その手法を求めた人間が殺到し、周囲は敵だらけになり、千雨さんは孤立します」
「賛同を求める気なんて更々ねーな。昔のお前にも否定されるかと思うと複雑ではあるがな」
「そこで」
「いらねーよ」
「はい?」

 既に葉加瀬からは言い訳を貰っている。葉加瀬が自分のためではなく、ネギのためでなく、葉加瀬のためという悪役を担ってくれなかったら、千雨は過去に行くことはできなかっただろう。未来のためでなく、何かのためでもなくクラスメートのためという名分があるから。
 それだけで頑張れる。
 強がりでなくそう思う。

「十分だろ」
「そうですか」

 一度、葉加瀬は目を伏せた。

「想像以上に辛いと思いますよ。誰も理解してくれないのは」
「チャムがいるだろ」
「そうですね。ではあとは……ネギ先生への対応は、当然千雨さんに任せるとしまして」
「……まあ、いいけどな」
 葉加瀬よりはネギのことに詳しい自信がある。
「最初の方針として――」



◆◆◆



(目立たない。目立たず、そのまま誘導し、できるなら言動すら変えず、未来を読めるようにし、肝心なところを締める)

 初期鋭敏性。僅かな影響が、どうなるか解らない。よかれと思ってしたことが返ってくることが考えられる。そして、一度変わった過去はもう不可変。

(ってヤベー。いきなりやっちまった)

 少なくとも、麻帆良にいた頃千雨がネギを流血させたようなことはなかった。
 まあ、過ぎたことは仕方ない。それに、この程度のことは日常に紛れてしまうだろう。麻帆良にはそういう力があるのを、千雨は知っていた。

(できるなら、新世界に行く話になった時点で魔法に気づいている数を減らす。可能なら、新世界に行く話自体を潰す。……だがこれは無理だな。紅き翼との接触を封殺しなきゃならねー)

 この頃のネギの行動基準は父、ナギ・スプリングフィールドにあるはずだ。そこからエヴァに、京都の近衛詠春に繋がり、麻帆良祭のアルビレオ・イマとの戦いに至る。アルビレオと邂逅すれば、新世界に行くことになるのはいかな知識がある千雨にとて止められないだろう。
 だから、新世界に赴いて、その時点からの全体の動きを統制する。それを第一目標とする。それまでにネギの信頼を得て、片腕となり、そして。

(超。お前を、ネギ先生に倒させるわけにはいかない)

 どんな手を使ってでも、あの破綻の発端となった超とネギの戦いだけは防いで見せる。超の計画をネギに止めさせることだけは出来ない。ネギにエゴを許させる。ネギだけに原因があるわけではないが、それはネギを救うための最低条件だ。いや、ネギも救われていなければ世界が辛いと言った葉加瀬のための。
 そのために、極秘裏に全てを進めてみせる。超を御し、或いはこの手で殺すための戦力を整え、奴に自分をそういう存在だと認識させる前に全てを終わらせて見せる。
 だから。

「どうもすいませんでした、先生」

 どう見てもおざなりな謝罪にもネギは笑顔だった。代わりに目を吊り上げたのが明日菜だ。

「ちょっと千雨ちゃん!」
「まーまー、アスナ。ネギくんがこうゆーとるんやから」
「いえいえ、僕は大丈夫です。千雨さん。こちらこそ配慮が足りませんでした。すいません」
「……ええ、まあ。……じゃあ、帰っていいですか」

 顔がニヤケそうになるのを自制し、千雨は必死に素っ気無く言った。
 不満そうな明日菜の顔を目に焼き付けながら、千雨は教室を出ようとした。その時、ネギが千雨を呼び止める。

「千雨さん」
「……なんですか」
「気をつけて帰ってください」
「はい」

 千雨は、今度こそ教室を出た。まだ残る教室のざわめき。騒いでいるのは運動部四人とチア、それに双子だろうか。さよのことは、あえて考えないようにした。

 校舎の外に出る。すぐ、遠くに世界樹が見えた。春先の甘い風は、学園都市中を駆け巡って様々な匂いが交じり合っている。千雨は思い切り息を吸い込んだ。懐かしい麻帆良の風。まるでネギの風のような麻帆良の風。視界が色鮮やかに見える。
 桜の季節だ。千雨は真っ直ぐ桜通りへと向かった。洒落た石畳。遠くから響く麻帆良の無茶な喧騒。星を愛おしいと思わない千雨がそんな些細なもの全てに感動しているのは、それが儚いものなのだと気づいたからだ。あの夏休み。空港にほんの気紛れに近いもので向かったあの日以来の麻帆良学園都市だ。千雨にとってはファンタジーであったが、リアルな日々の思い出。その頃はまだ世界は笑いに包まれていた。3-Aでただ一人仏頂面だった千雨が言うのだ、一人残さずが笑っていた。だがそれを千雨とネギは永遠に失った。永遠とは連続的に進行していく時間のことであるとすれば、千雨とてそれを取り戻すことは不可能となった。いくらやり直そうとも、あの頃の笑い声を取り戻すのは無理だ。何よりも、千雨が時間を逆行したことで千雨にとって大切だったものも、大切になっただろうものも全て失った。もし取り戻したと錯覚するほど近い結果が出たとしても、それはただの近似でそのものでは決して有り得ない。
 千雨は桜通りのベンチに腰を下ろし、口元を一文字に結んで桜の並木を見上げた。

 真の善人とは、一つの小さな罪で永遠に幸福を失う者である。
 千雨は悪人に近い。満足させる自尊心も貫くようなプライドも持たない、外道。だがそれでも自分が一生幸せになれないことは解っていた。誰かを不幸にした人間はそれを胸に一生抱き、自らが幸せを感じた瞬間に不幸にしたことを思い出し、永遠に幸福を感じることがない――無論、人は忘れる。だがそれこそが人間の倫理の最終形だと千雨は考えている。そういう人間は、自分が幸福を失うことを恐れるからこそ他人に不幸を押し付けることがない。
 千雨の罪はとてつもなく大きい。過去に来る、ということは今を消すことに他ならない。三年後の世界で幸せを掴んでいた人間が、夢見ていた子供が、千雨に消された。罪は善意によって帳消しにされることはないが、もしこの世界で千雨が奇跡を行使し世界の人々が一人残らずかつての世界より幸福であったとしても、既に千雨は罪を犯している。
 14歳の千雨は、少なくとも千雨が殺した。
 だが、14歳の千雨が突然見舞われた不幸を以ってしても、千雨の気持ちは拭えない。

(あーーーー)

 幸せ。信じられないほどの、突然手元に転がり込んできた幸福。それが失われた瞬間全てが破綻するほどの大きさのもの。
 それが千雨の手の中にある。
 少しでも、長く。自分がここにいる理由すら忘却してしまいそうな高揚する心に、身を任せて眼を閉じてしまいたい。
 いつまでも、この夢の中に。

(待て待て。それじゃあ、何のために来たんだか)

 頭を振ると、脳髄に僅かな偏頭痛を感じた。これが葉加瀬の言ったチャムのデータを脳髄に直接書き込んだ代償だろうか。思ったより痛みが軽くて千雨は安心した。呪紋刻印を使用するときよりは遥かにマシだ。
 千雨は合わない焦点をなんとか現実に合わせようと頭を振った。
 ネギへの態度をかつてを思い出しながらのものに変えるのは、きっとストレスが溜まるだろう。だが千雨が極端に態度を変えることに引っかかる人間がいるのなら、そうせざるをえない。ネギへ、かつて3-Aとなった初期の頃の態度を思い出しながら接触するべきだ。既におぼろげな記憶。だがネギに特別な興味を抱くようになったのは麻帆良祭、アルビレオ・イマとの戦いを経てからだという記憶があった。それを頼りに、かつてを踏襲するように繋がりを排する。だが少しずつ前倒ししていく。焦らず、徐々に信頼関係を構築していく必要がある。
 ネギへのことだけじゃない。超に対抗する戦力を整えること。情報収集環境の整備。まず活動資金の調達からやることは山ほどあった。いくら時間があると言っても――。

「…………ん? 待てよオイ」

 思わず思案を口に出しながら、千雨は半目になって口元を吊り上げた。
 何かが、おかしい。いや何かがとかそういうレベルじゃない。
『ネギ先生が赴任するより前に』
 そう葉加瀬は言ったはずだ。手っ取り早い資金調達方法から始まり、前段階の準備。ネギとエヴァンジェリンの争いから修学旅行の段取り。葉加瀬から与えられた行動の指標は年始から指定されていた。いつまでに如何に秘匿しながら準備を進めておくかのタイムテーブル。
 例えば、有馬記念を1-2-8で全財産注ぎ込め。もしくは東京ダービーで――。いや、そんなことはどうでもよく。
 明らかに、ネギ先生がいた。しかも3-Aだった。三年生だ。

(おいおいおい。これはどういうことだよ葉加瀬)

 何せ桜が咲いている。いくら麻帆良といっても正月に桜が咲くわけはない。むしろそういうのを積極的に否定するのこそが麻帆良の風潮ともいえる。

(これは、もしかして浸ってる場合じゃねえな)

 予定がずれたなら、それにあわせた新たな予定を組む必要がある。
 随分と桜を見上げながらぼけっとしていたらしい。千雨はすっかり夜も更けた空を見上げながら立ち上がった。余裕は少しも許されないようだ。まず情報を集めるために部屋に帰ろうとベンチから重い腰を上げた。
 春なりに風は涼しいが、薄着の制服のままでも辛いほどではない。満開の桜ながら散る花びらは多く、浸っている場合ではないと一瞬前に考えたにもかかわらず千雨は眼を細めた。頬に、小さな花びらが当たる。
 千雨は、ライトアップされた桜並木を見上げた。


「25番。長谷川千雨」
「……よお。散歩か? 夜桜にはちょっと早いと思うんだがな」


 葉加瀬の意向か。超のものか。奇跡的な確率を潜り抜けた偶然か。それとも千雨に覆しきれないなにかなのか。
 闇の福音。人形遣い。悪しき音信。童姿の闇の魔王。
 光を飲み込み闇を祓い善意を殺し正義を殺し大儀を殺しあらゆる夢を噛み殺しそれをただ悪意によってのみ行う最高にして最悪最低最強の吸血鬼。
 そして数年後には白き翼の副将。呼ばれる時は唯一つ、「魔王」
 エヴァンジェリン・アタナシア・キティ・マクダウェルが、千雨を見下ろしていた。

 千雨は、凍りついた。どういうことか。いつもなら光のように把握するはずの観察力まともに働かないことに困惑する。

「ふん……察しの悪い女だ。まあ、いい」
「昔っから鈍感でね。それで、一度も喋ったことのない奴に、そんな高いトコから何の用だよ」

 それでも軽口を返し、エヴァンジェリンから視線を外すことなく、千雨は退路を探し、更に懐かしい携帯電話をちらと確認した。
 四月八日――。
 迂闊だった。何も考えてなかった。しかし、これはいくらなんでも私のせいだけじゃないんじゃねーか?
 三年の桜の季節。その頃にエヴァンジェリンさんがクラスメートを襲い始めるから気をつけてください。
(おいおいおい。私も迂闊と言われりゃそーだが、あんた程じゃねーな、葉加瀬)

「私も別に貴様を狙おうとは考えていなかったのだがな。先ほどはヒヤリとさせられた。そうだな、これは八つ当たりだよ。あのボーヤは私以外に殺されてはならないのだとようやく気づかされたのだからな」
「何言ってんのかさっぱりだな。ネギ先生のドタマを机に叩きつけたことの話か?」
「貴様のような奴には想像もできんだろう。気にするな」

 やばい――千雨は、歯噛みした。
 この時代で千雨が守るべきルール。それを破れば千雨の目的が頓挫するほどの極基本的なルールである、自分が未来から来たことを悟られてはならないということ。言葉にすればたった一言だが、それは凄まじい数の条件が派生している。一々文章に書き表すことができないほどだ。
 例えば、長谷川千雨が突然変化しないこと。
 交友関係、行動、発言。その全てを可能な限り三年前の自分のことを思い出しながら踏襲すること。
 だが基本的な行動方針の中にはこんなモノがある。エヴァンジェリンに血を吸われないこと。まず第一目標の代替である大停電その日の絡繰茶々丸の一つ前のボディーの入手が為せなくなるからだ。大停電の日、エヴァンジェリンは血を吸って使徒としたクラスメートを操り、ネギにぶつけている。
 だから、この時、千雨は歯噛みするしかなかった。
 千雨が持つ唯一の力である呪紋刻印を使用することなく、この場を切り抜ける必要があるのだ。いや、使えないのは呪紋刻印だけではない。三年の間に蓄えられた経験の一つ一つも使うことはできない。中学三年になったばかりのただのネットアイドルだけでこの状況を脱する。
 いや、そもそも今となっては呪紋刻印は気軽に使えはしない。たった三回。大事に使わなければ。
 つまりこの場を脱するのは無理だし、もし奇跡的であろうともそれができたらエヴァンジェリンは千雨に目をつけるだろう。奇跡的にここを脱し、記憶操作を自ら受けに行く。方法はそれしかないように思えた。
 だが、それだけの奇跡を望み、それに邁進し、得てしまえるのは天才だけだ。

「あー、あれか? 無口な生徒の秘めた担任教師への想いとかいうやつか? それは悪かったな。別に狙って殺しかけたわけじゃねーし、あんなガキへの人工呼吸をキスだとか思わないから気にすんなよ」
「違うわボケ! 誰があんなガキに懸想するか! そんなのは世界中探しても雪広あやかと宮崎のどかくらいのものだ!」

 いや、意外といる。そんな場合でないと解っていても千雨は明後日を見上げた。結論から言えば、29人。逃亡中もこつこつ数を増やし超鈴音と四葉五月を除いた全員と仮契約した男のことを思い出す。少なくともその三分の一程度はマジだった。

「……長谷川千雨。貴様、そういう奴だったのか。二年は近くにいたはずだったがな」

 どこか呆れたような、感嘆したようなエヴァ。
 げ。
 この時代の千雨がどんな奴だったか、再現できていないのだろう。そういえば、とハルナにも言われたことを思い出す。ようやく基本的な問題に千雨は気づいた。高校三年にもなる散々天王山を潜り抜けてきた女に、ただの厭世的な中学三年生の少女の真似なんてできるはずがない。それが例え昔の自分だとしても。千雨は慌てて口をつぐんだ。
 待てよ、それってすげえ本末転倒じゃねえか。
 初期値鋭敏性。当然だが、その誤差が大きければ大きいほど予測される未来に誤差は生じる。

「なんだか、ジャック・ラカンを髣髴とさせる奴だな……」
「どっ!?」

 どこがだよっ! と怒鳴りつけるのを必死で自制し、千雨は盛大に引きつらせた顔を隠すため俯かせた。頭脳と肉体。理論と感覚。女と男。非戦闘員と戦闘員。ツッコミとボケ。あのチート筋肉と千雨に共通点はほとんどないはずなのに、白き翼の長谷川千雨といえば紅き翼のジャック・ラカンの直弟子とか、生まれ変わりだとか言われてきたのだ。噂が先行して、白き翼を眺め回して筋肉だらけの女を捜そうとしたハンターもいたくらいだった。

 エヴァは千雨を訝しげに見下ろしたが、やれやれと頭を振って、やけにゆっくりと飛び降りた。柔らかな風に撒かれ、マントが揺られる。美しい少女。千雨はオタクなりに未完成の美しさにそれなりの見識があったが、常々エヴァンジェリンは現実にも関わらずその追求された到達地点の一つだと思っていた。
 ああ、綺麗だな。と極自然な心の動きで思う。闇と桜を背負った小さな吸血鬼がただ飛び降りると言うだけで、一瞬未来の全てを忘れてしまうほどにそれは切り抜かれた絵画のような美しさがあった。
 重さを忘れたように、エヴァは千雨のすぐ近くに着地した。

「悪いが――おい」

 それはそれ、これはこれ。千雨は必死の形相でエヴァの着地と同時に走り出していた。
 千雨は何のためでもなく葉加瀬のために過去に行くと決めてから、それは他の理由ででよりもずっと千雨の心にかかるリスクは小さかったものだが、それでも枷をかけた。
 自分のためだったら、或いはネギのためなら、手を抜いたかもしれない。それほどまでに千雨は自分を軽視していたし、ネギを自分に限りなく近い存在だと思っていた。
 だがそれが葉加瀬聡美のためだったら、千雨に怠慢はほんの一欠けらほども許されない。それは数少ない友人への不義理であり、千雨の目的に逆行するものであり、絶対に許されるものではない。また千雨自身にとってもそれはモチベーションを維持する第一の理由にもなった。
 だからこの時千雨は、これを失敗した時どうやって不利益を補填しようか考えながらも、全力を注いでエヴァンジェリンから逃亡することを選択した。

(下策だけどなあ!)

 やれやれと呆れたエヴァンジェリンが空を這い、気も魔力も使えないただの中学生を追う。
 魔法――戦いの歌か、気を使えない限り、人間は魔法使いに足の速さで敵わない。それはオリンピックの出場選手ですら敵わない。そして魔法使いの中でもその単純な出力は魔法量に左右される。魔法力の量は努力で増やすことは出来るが、伸び量はごく一部の特権階級から見れば些細なものだ。平均的な魔法使いが魔力を増やすことに半生を費やしたとしても、天才と称される魔法使いには遠く及ばない。それだからこそ、魔力に恵まれた子供はただ天才と呼ばれる。
 エヴァンジェリンは弱点を除いてしまえばありとあらゆる面で人間を遥かに上回る吸血鬼。しかもその最高峰に位置する。例えこの瞬間はその力の大半が封じられていたとしても、その技量は卓越しており、またその来歴から強大な魔法使いに欠如しがちである少ない魔力の効率的な運用にも高い見識を持つ。
 だから、その時のエヴァンジェリンの速度は、凄まじいものだった。

 五歩。飛び込もうと思った横の藪にも届かない内に、千雨の後ろ襟が掴まれた。経験があるといってもそれは誇るほどのものでもない。千雨は演技も忘れて尚、咄嗟に振り返った。
 積んだ。
 嫌味なくらい冷静な千雨の一部分が、このミスを取り戻す方法を計算し始める。どうやってチャムのボディを手に入れるか。葉加瀬を引き込むか。
 だが、まだ積んでいなかった。積んですらいなかった。

「あ、が?」

 エヴァンジェリンは、千雨の首筋には目も向けず、口の中に四本指を突き入れ、千雨の頬肉を鷲づかみにした。きゅっと頬肉が摘まれ、痛みが脂肪に緩和される。
 呆然として千雨はエヴァンジェリンを見下ろした。無表情……いや、つまらない仕事でも押し付けられたか、心底のどうでもよさそうな表情。見慣れていたためか、僅かな愉悦を発見する。
 血を吸うんじゃないのか?

「心配するな」

 頭から、地面に叩きつけられた。泰然とした、慈悲に溢れる聖女のような微笑のまま、エヴァンジェリンは千雨を後頭部から地面に叩きつけた。眼鏡がツルから折れ、どこかに飛んでいく。
 意識を何の躊躇いもなく一瞬手放しかける。千雨には今、自分が何をされたのか理解できなかった。視界が真っ赤になり、石畳に擦り付けられるように叩きつけられたからか、後頭部の髪の毛が血と共に石畳にこびり付く。どういう技法か、頭蓋骨をそのまま衝撃波が貫き、脳髄を直撃したような痛みの響き方だった。

「後で、綺麗に治してやる」
「ひ、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああっ!」

 衝撃から遅れて、ようやく目の奥から血が噴出したような痛みが千雨を襲った。背骨が軋むほどに背を反らせ、僅かな冷静とも言えるような部分が気道を全開にする。しかし口の中にエヴァンジェリンの爪が突きたてられ、ホースから漏れ出た血が気道にぶち当たった。
 なんだ? なんだ? なんだ?
 なんだ、これは?
 目尻が千切れるかと思うほど千雨は目を見開き、渾身の力で口腔に侵入しているエヴァの手を子供のように掴んだ。街灯は遥か上。陰になってエヴァンジェリンの顔は見えない。だが真っ赤に染まっている千雨の視界は人を人と認識するような能力も残っていなかった。
 ゆっくりと、エヴァは千雨の頭を持ち上げた。もがき体をうねらせる千雨にはどうしようもない程の強靭で完璧な力。千雨は、絶望の眼差しで子供のように首を振った。

「傷は癒す。記憶も消す。だから、悪いが」
 ほんの僅かにも悪びれず、笑いながらエヴァは言う。
「少々躾けが必要なんだよ、長谷川千雨。刷り込ませて貰う。この類の精神魔法は得意でないし、魔眼は永続的ではないのでな、原始的な方法になるが」
 またエヴァは千雨の後頭部を石畳に叩きつけた。血痕が石に広がる。
「は、がっ!」
「ネギ・スプリングフィールドに手を出すな」
「え、ひ、や」
「ああ、別に同意を求めてるわけじゃない。貴様の意見も、意向もいらないんだよ。それを貴様が明日まで維持することはないのだからな。だから唯一つ。ネギ・スプリングフィールドに対し一切の害意を持つな、ということだけを自分の中枢に刷り込め」
「あ」

 朦朧とする意識の中で、エヴァの金髪の色とその声だけが情報として千雨の中に流れ込んでくる。更にもう一度叩きつけられれば、既に痛みは感じなくなって、眠気にも似た曖昧さが目の前を漂い、胸の中に吐き気を溜め込んでいるだけになった。
 だが、エヴァンジェリンはそれでも躊躇いの気配すら見せなかった。

「思い出すのだぞ? この痛みを、ネギ・スプリングフィールドのことを思うたびに。安心しろ。この私が思い出せるようにアシストしてやるのだからな?」
「がっ! ……がっ! ……がっ、……がっ、……が――…………」
「む? 脆いな。もう寝たか。ジジイに連絡を」

 千雨が反応を返さなくなった――最後にもう一度後頭部を叩きつけ、26回。エヴァンジェリンは千雨の開ききった瞳孔を確認してから、ようやく口腔から指を抜いた。指先には唾液よりも血の方が多い。それを拭うこともなくマントを弄る。

「これ、どこ押すんだ? 茶々丸を連れてくればよかったか」

 取り出した携帯電話をカチャカチャと弄繰り回す。

「くそ。さっぱり解らん。これだからハイテクは」

 エヴァンジェリンは苛立ち紛れに呆れたように、
「面倒な……まったく。あのボーヤはこんな奴にどこで恨みを買ったのやら――」
 あの一瞬、こいつの眼には、隠し切れようもない憎しみが宿った――と。


(――……?)

 そのエヴァンジェリンのぼやくような言葉が、隔絶された千雨の意識の中にするりと入り込んできた。
 憎しみ。……憎しみ。曖昧な千雨の意識がエヴァンジェリンの言葉だけを優先して処理し、停止仕掛けた脳に届ける。脳に届いた情報はそれに反射的な評価を下し、それを否定した。
 先ほど、千雨はネギを物理的に傷つけた。
 だがそれは断じて私怨から生じた行動ではない。それは照れ隠しであり、憐憫であり、哀れみでしかない。そこに憎しみが発生することはありえない。

 そのことを、エヴァが勘違いしていることがどうしようもなく腹が立った。それだけだったが、それだけで千雨は体の機能を無視してまで眼を醒ました。
(誰が誰をって言った?)
 誰が、誰を憎んでいるって? 長谷川千雨が、ネギ・スプリングフィールドを?
 そんなことは有り得ない。有り得ないし、許されない。許してはならない。 逆であれば、まだ許されたろう。千雨はネギに対して負い目がある。何も出来なかったという罪がある。そのことでネギが千雨を責めたとして、千雨はなんの反論も出来ない。
 だが、千雨がネギに恨みを持つなど、ありえない。許せない。許してはならない。そんなことを言う人間を、それがもしかつての仲間とよく似た相手だとしても、許す気はない。
(ふざ、けるな)

 一矢報ようと体を動かそうとするが、脳へのダメージは深刻だ。気管に入った血の塊を吐き出す力もない。エヴァを殴り飛ばしたい。魔法をぶち込みたい。呪紋刻印すら使ってでもその言葉を訂正させなければいけない。なのにそれが出来ないことに千雨は臍を噛む。

(許せない。許せねえ。許せるかよ)
 頭が揺れる。思考はとりとめなく、一秒前のことが脳に残らない。チアノーゼが起こっているのを自覚する。なのに千雨の中に危機感は致命的なまでに欠如していた。エヴァへの無垢な信頼か、それとも?
 暮れた空が目に。桜の香りが鼻に。柔らかな風を全身に感じ、千雨は。

「こらー!」
「チッ!」

 蹴り飛ばされる感覚と、ネギの声を聞きながら、ついに意識を途切れさせた。



 カチリカチリと現実が現実にピントを合わせる。痛みと、余裕のない危機感がダイヤルを無理やり逆に回していく。歪は視界の端に残った。

「あの吸血鬼、忘れてるんじゃねーだろうな」

 やっとの思いで喉から引きずり出した声は、酷く掠れていた。
 何時間気を失っていたのか、或いはホンの僅かだったのか。星が昇った夜空の下、藪に蹴りこまれたままの格好で千雨は目を覚ました。眼鏡はどこかに行ってしまっているし、髪はほどけて血が固めてしまっている。中からも外も激しく痛み、その痛みだけで千雨の顔は歪んだ。

(いてー)

 それでも動く気力を持てたのは、偏に千雨が痛みに耐性を持っていたからに他ならない。激痛を伴う呪紋刻印の使い手だ。痛みを我慢して動き回るのは慣れている。
 だが、それでもどうも致命的な怪我だった。血の量は多すぎで、しかも頭からだ。目の奥だってぐらぐらする。優秀な治療術者がいなければフェータルな怪我だろう。少なくとも表の世界であれば、死ぬか半年はかかる。死ぬ。死ぬのだ。圧倒的な情報優位を得ている千雨でも、弱ければ簡単に死ぬ。

「はっ」

 鼻で笑う。
 間抜けな話だが、死にかけるまで千雨は自分が夢の中の住民だとでも思っていたらしい。
 もう会えないはずの人間。見れなかったはずの風景。そして千雨の体が、千雨のものでなく別の千雨のものだという現実感の薄さ。夢のような世界が目の前にあって、それに手が届く。
 千雨なんて魔法使い一人の気まぐれで簡単に殺されてしまえるのに。
 懐かしいラカンの強さ表を思い返す。ラカンは12000。ネギは800。綾瀬夕映だったら200。魔法学校を出れば100。新世界の民間人は2で、千雨は1だった。そして、今の千雨はその頃の千雨に他ならない。魔法騎士綾瀬夕映に200人がかりでやっと対抗できる程度の存在。
 ぼろぼろになって、漸く千雨は二つのことに気づいた。
 これは夢じゃないこと。
 それから千雨は、今、なんの力もないただの中学生でしかないこと。
 そう。
 千雨は、死ねない。少なくともまだ死ねない。長谷川千雨が死んだ程度の誤差で、未来は変わらない。変わったところで、それは千雨の望む未来にはならない。
 なら悪になる。
 未来を、私が好きに弄ぶ。
 千雨は歯を食い縛って這いずるように藪の中を進み始めた。草が口に入る惨めさを、千雨は笑って飲み込んだ。
 超のように華麗に余裕綽々で未来を変えるなんて、千雨は出来ないし、趣味にも合わない。ある日から千雨が好きなのは、泥を啜って靴を嘗める余裕などない溝鼠のようなヒーローだった。

 かなりの時間をかけて寮について、ようやく壁づたいに立ち上がれた。入り口はまだ明かりがついていたが、ひと気はなかった。食事時だろうか。なんにせよ、好都合だ。今すぐにでも倒れてしまいそうにふらつく意識を堪えさせ、千雨は記憶に古い自分の部屋に向かった。同室のピエロは、普段部屋にいつかなかったことを覚えていた。
 靴を脱ぎ捨てたまま、壁に手をつく。勢いあまって、頭から半身を使って体を支える。

「あ、マズ」

 壁にベットリと血混じりの血が張り付いた。制服の袖で擦ってみるも、汚れは広がるだけだ。茶に混じった赤。妙に色鮮やかな赤色だと思った。

(あー……ま、いいだろ。知るか)

 ぼんやりとした頭が、思考放棄を選択する。そのまま千雨は壁に土と血痕を残しながら明かりのついた廊下を進んだ。
 途中、千雨の部屋まであと少しというところで、並ぶ扉の一つが開いて、柿崎美砂が出てきた。

「あ、長谷川。もうご飯食ってるってひぎゃあああああああっ!?」
 思わず耳を塞ぐ金切声。千雨は顔をしかめた。
「うるせーよ。何だ、ルームメートでも死んでたか」
「いやあんただから! 死にそうなのあんただから!」
 慌てて駆け寄り、柿崎は千雨に手を貸そうとして、ボロボロすぎてどこに貸せばいいのか解らないように手を迷わせた。体を見下ろすと体を庇い、散々石畳に叩きつけた腕にも裂傷が走っている。どこでぶつけたのか足もそこら中が青くなっている。

「え? なに? 何があったの? とにかく、私の部屋でいいから休みなさいよ」
「結構だ。自分の部屋の方が休めるんでな」
「あ……ご、ごめん。でも女部屋だし、誰かいた方が」
「レイプされたわけじゃねー」

 大きなお世話過ぎる。
 疑問を深める柿崎。

「なに? 車にでも轢かれた?」
「いや、ちょっと金髪のムスコンに襲われた。痴情の縺れだ」
「状況が斜め上すぎる!」
「ついでだ。わりーが」
「救急車! 呼ばなきゃ!」
「ああ。だが、呼ぶのはみんなの飯が終わってからだ」
「え? ってちょっと長谷川!」

 あれ。と思うほどスムーズに、千雨の意識は途切れていく。体が前のめりに倒れるのを、柿崎が慌てて抱き寄せ、その重さにつんのめる、

「いいか、全員こっちに戻ってきてから呼べ……よ……」

 全ては千雨の自覚が足らなかったのが原因だ。今、目の前にあるのは全て現実と呼ばれている幻想で、現実を前にして一瞬たりとも気を抜くことは許されないという小学生のころから知っていた原則を忘れた千雨が悪い。
 だが、それでも。
 憎しみ。長谷川千雨がネギ・スプリングフィールドを憎んでいると言ったあの言葉だけは許すことはできない。修正しなければ。修正しなければ千雨はどうなる。それは、それだけは駄目だ。計画を変更してでも許せない。
 覚えとけ、魔王。
 絶対に、私は忘れねー。忘れても思い出してやる――。

 クラスメート達が集まってくる喧騒と、柿崎美砂の自分を支える感触を感じながら、また千雨の意識は途切れた。



◆◆◆



 千雨に躾を施し、茶々丸と共に千雨への躾が吸血行為に見えたらしいネギを泣かし、アスナに追い払われ、自宅で紅茶を一杯楽しみ、その時ようやくエヴァは千雨のことを思い出した。慌ててログハウスを飛び出したのは千雨をさんざん痛め付けて二時間は経った頃だ。すっかり日は沈み、茶々丸の腕に抱えられながら、エヴァはそれでも闇の中に吸血鬼の目を凝らした。

「死んでないだろうな」

 女子供を殺さないというのは虐殺の対象にしなかったことで、女兵士や少年兵は割りとさくっとやっているエヴァだが、千雨は殺すほどではないと思っている。千雨の目にネギへの尋常でない、直接行動に繋がりかねない憎しみを発見したとしても。それを関東魔法協会会長、近衛に報告したところ即時「躾」の命令が下ったので、エヴァの封印をとくキーパーソンであるところのネギを殺しかけてくれた恨みもあり、うれうれと千雨を石畳に叩きつけまくったとしても。それでも決して殺す気だったわけではない。
 若干やりすぎたのも、放置したのもわざとではないのだ。だから、恨むな長谷川。心にもないことを思うという器用なことして、エヴァは無感情に茶々丸に熱源を探らせた。
 上空からの赤外線探知。それが見つからないことに深々と頷くと、死体を回収するために茶々丸に着地を命じる。
 桜通り。夜桜が所々ライトアップされている。だが時間が時間だ。ひと気はない。

「マスター。血痕を発見しました」
「うむ」

 エヴァは魔法で痕跡を消去すると、千雨を蹴り飛ばした方向を見た。吸血ならともかく、ネギに関東魔法協会からの躾を知られるわけにはいかなかったのだ。ネギにとって、魔法とは全肯定すべきものであり、そこになにかしかの疑問を挟むことは許されない。
 ネギ・スプリングフィールドの全ては決定されている。あれほどの血筋と魔力の持ち主は最早世界レベルの宝だ。彼はその心根を曲げることは許されず、ただ高潔で最強の魔法使いとなることを本人は知らされず強いられている。エヴァ自身賛同したことはないが、エヴァ側の利害もあり、エヴァがネギの護衛だということは公然となっている。
 長谷川千雨はそんな中突然現れた要注意人物だった。突然、帰り際の暴行。どこで恨みを買ったか、しかしネギにそういうことをして許されるのはネギ以上の重要人物である数人くらいのものだ。そこで、即断され、エヴァが直々に躾に動いた。極限状態での刷り込み。それは裏の人間でありながら、限りなく表に近い手だった。
 ちなみに躾の手法は単なるエヴァの趣味である。この吸血鬼、マジでドSなのだった。

「マスター、長谷川さんが見当たりませんが」
「ん? なんだ、野性動物にでも食われたか」
「マスター」
「冗談だ」

 エヴァは茂みにわけいって、鼻を鳴らした。吸血鬼の嗅覚は人とは比べ物にならない。狼に変身すれば更にだ。エヴァは点々と続く血の臭いを察し、ニヤリと笑った。

「ほう。やるじゃないか、長谷川千雨。見直したぞ」
「マスター。長谷川さんは……」
「あの状態で逃げたらしい。まあ遠くへは行けまい。さっさとジジイの所に届けて帰るぞ」
「はい」

 茶々丸を従えて、エヴァは血痕を追い歩き出した。茂みの中。人が這いずった後が続いている。

(ほう。やるな)

 素人の子供があれほどの怪我を得てまだここまで動く執念はなんだろうか。エヴァはそれをネギへの恨みへと即座に繋げた。どんな、どれほどのかは解らずとも、エヴァはその負の感情に対しても一定の評価を与える。悪は悪なりに、負から得たものを差別しないという取り柄と誇りがあった。
 そこから五分も経たない場所で、エヴァは立ち止まった。

「マスター」
「なんだ」
「まずいのでは」
「……知らん」

 3-Aの生徒たちが過ごす学生寮の前に、回転灯をぶんぶん回す車が止まっていた。その周囲を血だらけの柿崎美砂を中心として、3-Aメンバーのほとんどが取り巻いている。そのアーチの中を担架に乗せられた長谷川千雨が通っていった。



「なにしちょるんじゃこのうっかり吸血鬼がああああああっ!」
「うおっ!?」
 血管を浮き出させ、思いっきり激昂した近衛近右衛門の口から入れ歯がカシュッと飛び出して、慌ててエヴァンジェリンは仰け反った。しかし外れたはずの上顎にも歯は残っている。エヴァはジト目で近衛を睨み付けた。

「おい、ジジイ」
「いやワシの仕込みとかどうでもええんじゃ! 何てことしてくれるの!? もしかして君アホなの?!」
「誰がアホだ!」
「アホじゃよー! なんでこんなことするんじゃよー。メルディアナと西との問題になるじゃよー」
「やかましい。知るか」
「お、落ち着いてください学園長」

 長谷川千雨は救急車で学園の手のかかった病院に運ばれ、記憶処置が施された。怪我もある程度の外傷を残して、致命的な部分は癒されているはずだ。それらの手続きが終わって、エヴァンジェリンと寮監の瀬流彦が学園長室に呼び出されたのはもう夜明けに近い頃だ。生徒たちの動揺を鎮めるために奔走した瀬流彦は目が充血し、エヴァンジェリンはつまらなそうに欠伸している。また、当然ではあるがネギは呼び出されていない。彼は千雨の体内から記憶操作の魔力が完全になくなった頃に事件を知り、精々千雨を見舞うくらいのことしかできないだろう。

「き、記憶消去すればいいじゃないですか。ちょっと大規模になりますけど、なんでしたら今から僕が」
「バカモン! そんなことができるんじゃったら怒鳴ったりせんわい! あのクラスを普通のクラスと同じにするでない!」
「へあ?」
「貴様は莫迦か。貴様ごときの魔法が近衛木乃香に効くか。それに神楽坂明日菜にも。超やぼーやも弾くだろうしな」
「ですけど、せめて一部だけでも」
「小さなコミュニティで情報の齟齬を起こすことのリスクを魔法学校で習わなかったか莫迦。やるなら段階的な情報操作しかないな」
「いやオヌシが莫迦とか言うでないわ! 誰のせいだと思っとるんじゃ! 横着せんで契約でも束縛でも使えばよかったじゃろ!?」

 3-Aは、エヴァですら完璧に把握してはいないが、学園都市の切り札であり生命線でもある。他のクラスを意識操作するのは容易かったが、3-Aは特殊。魔法が効かないもの、学園内の誰より魔力が高いもの。学園と方向を違えるものなど入り混じり、それをエヴァンジェリンの権威が辛うじてクラスとしての形を保たせている。
 千雨がしたのは、その生命線を直撃するようなことだった。狙ってしたのか、そうではないのかを考えるのは後回しでいい、とエヴァは思った。

「い、いやしかし……調査したところ唯一接触した柿崎さんも長谷川さんから「金髪のムスコン」に襲われたとしか聞いていないようですし、長谷川さんの記憶さえ封じられればさした問題には」
「おい瀬流彦。ムスコンとはなんだ?」
「さあ……生徒の間で流行ってる言葉でしょうか」
「バカモン! 桜通りの吸血鬼はただ通り魔的に生徒を襲っていただけだから見逃しておったのじゃ! 長谷川嬢への教育と吸血鬼が絡められてしもうては本格的に問題が外部に漏れるぢゃろうが!」
「は、はあ」

 よく解ってもいない表情で瀬流彦は曖昧に頷き、エヴァを見た。呆れ返ったような表情でエヴァはそっぽを向いている。

「つまり3-Aの記憶を操作することはできず、クラスの中でそれが周知になった以上、もう外部に漏れるのが止められないということですか」
「……そういうことじゃ。朝倉和美嬢は新聞部所属。明日には号外が学園中に出回るじゃろう。重要人物が集められた3-Aで被害が出たと外部に知られたら外交問題じゃ」
「ハン……この程度の情報操作もできんのが貴様の器なんだよジジイ」
「だからなんで一から十まで自分のせいなのにオヌシ偉そうなの!? コノちゃんびっくりじゃよ!」
 コノちゃん。エヴァンジェリンは呆れを通り越して嫌悪で近衛を睨んだ。「キャラ整えろジジイ」
「ん……んんっ。とにかく、エヴァよ。もう桜通りの吸血鬼は廃業してもらうぞい。こうなったからにはエヴァに責任を」
「あ? ああ。無理だ。今日ぼーやを苛めたからな」
「タイミング悪い! なんとか和解せい!」
 今度は下顎から入れ歯が飛んだ。二重仕込であるが、エヴァはちらりともそちらを見なかった。代わりに、やれやれと嘲笑する。
「本当にタイミングの悪いぼーやだよ。奴が来なければ長谷川千雨の処理もつつがなく終えただろうにな。ハハ、どうもぼーやは私が血を吸ってると思って襲い掛かってきたらしい。そのことを追求してやったら泣き出したがな」
「いやそれ以上に酷いことやっとるというかオヌシ実際吸血鬼じゃろうが!」
「私の活動に関しては許可が取ってあるがな?」
「暗黙の了解を許可とは呼ばん」

 エヴァが生徒を襲うことになった手続きは至極複雑だ。エヴァの事情とネギの事情。それを取り巻く各勢力、派閥の思惑が渦巻いて、それを暗黙の了解の一つで済ませるのは偏に近衛とエヴァの学園内での権力がそれだけ強いことへの証左でもある。エヴァは封印されても尚学園内最大の戦力であり、その抑止力が近衛自身である。
 エヴァはもう話すことはないといわんばかりに肩をすくめ、マントを翻した。瀬流彦がそれを恐れたように見送る。近衛は慌てて立ち上がった。

「話はおわっとらん!」
「躾は貴様の命令だ。ぼーやが襲ってきたのはタイミングこそ悪いが、貴様の思惑通り。それ以上私になんの責任がある」
「待たんかっちゅーちょるんじゃ!」

 エヴァは一瞥もせず部屋を出て行った。近衛はその姿が見えなくなるまで体を硬直させ、それから力なく座り込んで頭を抱えた。エヴァンジェリン.A.K.マクダウェル。学園都市最強の切り札にして最大の厄介者でもあった。

「ワシ、一人で全部こなすのじゃろーか」
「い、いや。その、お手伝いできることがあれば」
「……いいもん。ワシ、頑張る」

 素直に気持ち悪いと思う瀬流彦。

「し、しかし……その、長谷川さんを襲った犯人と桜通りの吸血鬼が関連付けられるかもわかりませんし」
「いや関連付けん奴がおったら顔を見てみたいわ」
「それに、3-A内で裏の世界を示唆する事実が流布されたわけでも」
「……もう一つ問題があるんじゃよ。長谷川千雨という生徒なんじゃが」
「はい。洗脳効果も出てるようですし、傷もある程度は癒しましたし」
「じゃが記憶は完璧に消せんかった。当事者が情報の齟齬を起こすのは不味いからのう。医療部は金髪の大柄な女に襲われたという改ざんをしたらしいが、その、彼女には特殊な体質があっての。だからあのクラスに入れたんじゃが」
「長谷川さんがですか?」
「うむ。まあ、実際こんだけ関連した情報が流れておったらなあ」

 仕方のないことだろう、と近衛は頷いた。

「まあ、彼女のことは大した問題ではない。どうとでもなろう。
 大きな問題は関西じゃ。婿殿は事情を察するとは思うがの、木乃香を強行的にでも関西に戻そうとする勢力が勢いづくのは間違いないのう」

 頭の痛いことじゃと呟く。

「大した問題ではないというのは?」
「え、聞いちゃう? ワシの支持率が下がっちゃうからあんまり言いたくないんじゃけど」
「せ、生徒に何する気ですか!?」
「えー。だってワシ、学園長以前に関東魔法協会のトップだしー。今なら双方に傷がつく前に事が済むしー。まだ情報足りないけど」
「た、足りないならあんまり長谷川さんに酷いことのないようにしてくださいね? 彼女、問題あるのかもしれないですけど、まだ中学生ですよ?」
「大丈夫じゃよ。いいとこ問題を起こしてもらって出て行ってもらう程度じゃから。このえもん、意外と優しいんじゃよ」

 マジで気持ち悪いと瀬流彦は思ったが、上司なので口にしなかった。



◆◆◆



 ――さて。
 何か忘れている気がする。いや、どうも自分の記憶に信用が置けない。

(なんだ、この感じ)

 長谷川千雨。14歳? 現在ベッドの上で呼吸器を取り付けられて、瀕死の状態である。いや、案外元気なのか? 体は軽く動いた。自立して呼吸もできる気配がある。頭の奥に響くような痛みはあったが、それは何故か問題ではないと解った。

「千雨ちゃん。覚えてる? 三日前ここに運び込まれたのよ」

 白衣の天使。しかしピンクではなく純白に千雨は拘りを持っていた。カラーリラクゼーションなんて糞食らえだ。ナースコスの際は白に拘りを見せ、一定の評価を受ける千雨だった。だが、ピンクのナース服の看護師は中々の美人だ。素直に千雨は羨望した。
 これはいいコスだ。
 美人は何を着ても似合うとかいう言葉があるが、それは真にあらず。メイドや制服などコスの向こうに幅広い個性を備えるならともかく、コスの世界では嵌りのコスが存在する。吊り眼の千雨がロボ耳をつけた場合、想定されるのはマルチではなくセリオだ。
 ナースというのは難しいコスで、美人前提で生々しさが必要とされる。美人プレイヤーのナースコスよりもプロのナースの方が優遇される。
 いや待て私。すげえどうでもいいこと考えてるぞ。

「桜通りで、襲われて、運ばれたの。解る? 解ったら手を握って」

 桜通り。
 桜通りの吸血鬼。
 遠い記憶。ネギ・スプリングフィールドが腹心にして師と邂逅した事件。
 ああ。
 そうだ。
 あっさり。素直に。
 な
 め
 るな。
 千雨はにやりと笑い、手を握り締めた。
 無理やり手で押し固めた木のパズルに指を差し入れ、ばらばらに壊す感触。ただの刻まれた細かい木片となったそれを、順序良く整列させ、木目に合わせ、ジグソーパズルのように元の姿に戻していく。不恰好なパズルがより不恰好なパズルに戻っていく。
 千雨は躊躇いなく呼吸器を外した。看護師がぎょっとするが、その目にはっきり反応と意識があるのを見て仕方ないという顔をした。

「千雨ちゃん。先生を呼んでくるから」

 小さく頷く。体は動くといってもあまり大きくはない。痛みはないがひきつっている。反比例するように意識ははっきりと冴えていった。真っ白な壁の個室に、ピッピと喧しい心臓音。開かれた窓からは春の風と朝日が入ってきている。
 長谷川千雨18歳。三年前に戻ってきて、最初の朝は病院のベッドで過ごすこととなった。


 頭に打撲。腕に裂傷。足にも打撲。他にいくつか間接に痛み。全治二週間とのことだった。意識が長く戻らなかったのも不思議なくらいで、脳にも目立った損傷はないらしい。
 間違いなくそれを遥かに超える痛めつけられ方だったのだ。魔法的な処置がされているのは間違いない。魔法での治療というのは一種医学会の努力を無下にするような反則技だ。その中でも特に高位な医療と時空の術者だった三年後の近衛木乃香などは多くの権力者達御用達。どんな難病や呪い、怪我をも一瞬で癒してしまうと言われたほどだ。

(さすがにいい術者飼ってやがんな)

 その分医療術者は個人の能力に左右されがちで、数多い治療術者も大半が旧世界の医療技術を学んで才能を補填している現実がある。関東魔法協会の息がかかった病院。それが才能型の医療術者によって運営されているのか努力型の術者によって運営されているのかは専門家でもない千雨には解らない。
 ノック音。何も考えずに千雨は入室を許可した。

「こんにちわ」
「…………葉加瀬、か」

 病室に入ってきた少女は、地味なメガネに久しぶりに見た二股のお下げ。体感時間ではほんの少し前に別れたばかりの葉加瀬聡美だった。
 ピリリ、と千雨の脳が痺れる感覚がした。憎しみを覚えたエヴァンジェリンの顔がぱっと脳髄の表面皮を流れていった。

「災難でしたねー」
「ん……ああ。いや、なんであんたが?」
「お見舞いですよ。や、私だけじゃなくてみんなの分の代表なんですけどー」
「別に、そんなに仲良かった覚えないんだけどな」

 そうか。千雨はばれないように目を細めた。何かを探りにきているのだろう。この時代の葉加瀬がどういう立場にあるのかも千雨は知らない。学園祭では超派についていたのは確かだが――茶々丸さんの稼動時期を考えるとエヴァンジェリンとの繋がりや、超自身との関係。超派の探りか?
 だが学園側からも一定の融資を受けて研究しているはず。学園から頼まれたら葉加瀬は断れないはずだ。
 いや、そもそもとして超派としても学園側としても、探りを入れるのが葉加瀬である必要はあり、ない。

「あはは。千雨さん、そもそも仲良い人いないじゃないですかー」
「ナチュラルに傷つけんなよ!」
「付き合いだけは長い私が代表ってことです。私なんかで許してください」 

 麻帆良小等部出身者として、共にエスカレーターで上ってきた知り合いではある。だが実際そんなことを気にしたことはなかった。天才と凡人。その繋がりは希薄だ。前でも結局千雨が葉加瀬と話すようになったのは単身、新世界を脱した後のことだった。それに、時間の長さだけなら小等部出身の明日菜、雪広、椎名もそうだ。下手な嘘。駆け引きをする気はあまりないのだろうか。
 だが、都合がいいと思った。この邂逅がどんな奇跡で、誰かの思惑だったとしても、千雨にとってこのタイミングで葉加瀬と喋ることは奇跡的なまでの都合のよさだ。
 なぜなら、千雨は「葉加瀬」自身から言われている。千雨の方針について――。



◆◆◆



「まず方針として、私をなんとか仲間、或いは共犯者に引き入れてください」

 千雨は首をかしげた。

「あんたをか? 言っちゃ悪いがもっと手軽で強力な駒があると思うんだが」
「解ってます。ですが私はお得ですよ。チャムのボディを横流しできます。それに超さんへのスパイにも使えます」
「それは、まあ、そうだけどな」
「ついでに眼の保養にも!」
「いやそういうのはいい」
 美人と言わざるを得ない葉加瀬聡美だが、3-Aの中では地味だという残酷な事実があったりする。
「何より、ここに私がいるというアドバンテージがありますよ。私にかかれば三年前の私の懐柔なんて簡単ですからねー」

 なるほど。取り込もうと考えていた桜咲刹那を千雨の記憶だけで脅迫するよりは、本人による葉加瀬の懐柔の方が余程簡単でリスクが少ないだろう。一理ある。千雨は曖昧に頷いた。

「けどな、欲しいっつーか必要とされんのは暴力だ。あんたは」
「田中でよろしければ……いや、まあ。製造ラインは超さんに言われたぶんだけで目一杯ではありますけど」
「そうだろ? なんの裏付けもなしに超に近づくのも拙い。あんたは超の腹心だ。私が接近すればするだけで超にいらない疑念を植えつけることになるだろ」
「……それは」

 不承不承頷いた葉加瀬の様子に、千雨はそっと息を吐いた。その千雨の息を感じたのだろう。葉加瀬は毅然とした目つきで千雨を見下ろす。

「ヘタレ」
「もうちょっと柔らかい表現を模索しろよっ! 包め包め!」
「かなり変わる。少ししか変わらない。どっちにしても変わることに変わりはなくて、それはもう私自身ではありません。私であって私でないとかそんな誤魔化し方で満足して貰えるのならそれでもいいですけど、結局要素が変容した私は私に似た誰かです」
「割りきれってか? は、よく言うぜ。私は、あんたを守りに行くって決めたんだぜ」
「割りきってください。割りきって、私によく似た誰かを守ってください。私によく似た誰かがそれを拒否しても」

 千雨は葉加瀬を睨んだ。葉加瀬自身が千雨のしようとしていることを否定したとき、それがただの名目に過ぎなかったとしても千雨が意思を保ち続けられるかは解らなかった。いや、きっと難しいだろう。その名目を失ってしまえば、千雨の行動のすべては単なるエゴに堕ちる。
 千雨の視線を受け流し、葉加瀬はしれっとした表情のままだった。

「まあ、千雨さんの共犯者を共犯者のままで残しておきたい気持ちも解るつもりですけど」

 千雨の顔が引きつった。
「喧嘩でもしたいのかあんた」
「ほんの軽い冗談です。ですけど変えられる今に自分が関わっていないという不条理も汲んでください」
「そっちこそ割り切れ。あんたは認識できないって、あんた自身の理論だろ」
「だからこそです。私は千雨さんの中に残るだけで、あとは何処を探しても残滓すらないんですから、我が侭の一つくらい聞いてください」

 それは我が侭で済む問題だろうか。千雨は少しだけ悩んだ。結局葉加瀬の問題で千雨は過去に行くという名目なのだから、それは我が侭ではなく本分と言えるのかも知れない。名目と言えど、それを守ることで千雨の心は守られる。

「話を続けます。私を引き込み、それを足掛かりに戦力を整えるのが一番手っ取り早いです。整えるべき力やコネの優先順位は後回しにするとして、私を脅迫するネタですが」
「簡単な懐柔って脅迫かよっ」
「ぶっちゃけ、今ではあの頃の柔軟性が羨ましいとは思いますが、それでもただの中学生です。暴力に脆いのは当然。知識欲や研究費用でも割りとコロっといくでしょうねー」
「……まあ、そうだな」
 暴力以外は今も変わっていない気もしたが、どうも自覚はなさそうなので黙っておく。

「ですけど、やはり超さんとか超包子メンバーへの友情が一番でしたね」
 一瞬だけだが、楽しそうに葉加瀬が笑い、千雨ははっとした。

「まあ、それくらいの弱点があれば千雨さんならどうとでもなるでしょうし、あんまり自分の昔の話なんてしたくありませんけど、当時は人を疑うことのない純真な美少女でした」
「あー、まあな……けどな。これは相当恨まれるだろうな、あんたに」
「それくらいいいじゃないですか。それに適度に飴を与えてくれればその内懐きますよ?」

 意図的な関係も、辛いだろうなと千雨は思う。だがそれは、過去に行って形成する全ての人間関係にも言えることだ。千雨のことなど誰も何も知らないが、千雨は様々なことを知りすぎている。どちらを向いてもある程度の作為が介入することは否めなかった。
 圧倒的な知識優位があって平等な関係を形成できるなんて思えない。

(甘過ぎなんだろーけどな)

 なにより、あわよくば以前の関係を取り戻そうと考えている自分自身が。

「それと、もし私を脅迫もとい懐柔出来なかった場合ですが、チャムのボディを千雨さんでも奪取できるチャンスがあります」
「ほー。大学部のロボット研究会からかよ」
 麻帆良のサークルは常識に則り、中等部より高等部が、高等部より大学部のサークルがあらゆる意味で大規模だ。中等部までしか麻帆良におらず、またサークルや部活にも所属していなかった千雨にとって大学部のサークルはブラックボックスに等しい。

「はい。ご存じですよね。春の大停電」
「ああ。確か先生とエヴァンジェリンがやりあった日だったな」
「ロボット研究会のセキュリティは、若気の至りなんですけど全て無人機で賄われています。停電時は特にほとんどの機能が停止することになります。予備電源はセキュリティになんか回しませんしね」
「全てって訳じゃないだろ?」
「そうですが、精々単調なルートを巡回して熱源探知で警報と通報を行うバッテリーロボット位のものですから」
「なるほどな。そこを突くってわけだ」
「そうなりますね。もちろん、停電中に撤退まで全部こなさなきゃいけないんですけど」

 それは言われるまでもない。そういう類の計画にかけて千雨は葉加瀬を遥かに上回る経験を持つ。

「盗むのは?」
「茶々丸のボディの試作二号機がいいと思います。夏休みまでの茶々丸のスペックにかなり近いです。コンセプトが戦闘を優先していなかったためエヴァンジェリンさんの意向であちらにはなりましたが、二号機もかなりの自信作でした。もちろん、今の私が企画したチャムのボディデータを直接あちらの私に組ませるという方法もありますけど」
「それは未来から来たってバレバレだろ」
「そういうことです。もちろんチャムのAIは当時の茶々丸より一歩先にありますから、そちらを見られることは避けてください」
「整備の時にはばれるだろ。私だけじゃボディの整備には手も足も出ねーし」
「レベル別に今の技術レベルのデータは隠しておきます。まだ確認はしてませんが、AIに直接触れられずとも整備は出来るはずです。開示を迫られてもぎりぎりオーバーテクノロジー部分や私の癖が入ってる場所は避けて見せてください」
「ああ。それなら私でもなんとかなるな」

 ハードウェアに関してはまったく疎い千雨だが、電子の女王と呼ばれるだけはあってソフトウェアに関しては専門ではない葉加瀬を上回っている自信があった。3-Aでは絡繰茶々丸と超鈴音以外に劣ることはないだろう。

「あー、ボディを盗むって言うが、それはチャムのAIをインストールしてから逃げるべきだよな。担いでいくわけにもいかねーだろうし。インストールにかかる時間は?」
「チャムのAIも基本的なパッケージはボディにプリインストールされていますから、パッチを当てて記憶人格のコンポーネントを入れるだけになります。千雨さんの七部衆をフル稼働させれば10分かかりませんが、そうでなければ三十分。もし大学部が停電してる状態でボディだけで直接インストールするなら一時間は見込んでください。起動したあとの指標に関してはこちらでチャムに教えておきます。まあ、首尾よく行けば停電が終わるまでに終わるでしょう」
「ボディ側にプロテクトはかかってないのか」
「かかっていますが、エブリタイムのパスとIDがかかっているだけです。暗記してもらえれば結構です」
「但し馬鹿正直にそれを使えば、どこから流出したのか、って話になるな」
「千雨さんならフィッシングでもなんでも盗めるでしょう?」
「時間があればな」

 ハッカーとしての技量にかけてはそれなりの自信を持つ千雨だ。狙ったセキュリティ意識の低い一人のパスを抜く位なら造作もないだろう。それまでに七部衆が呼び出せるようになっていれば心配するだけ無駄だ。麻帆良の電子関係は全て千雨の手の中に落ちることになる。

「あんたを脅迫してボディを提供させたとして、AIが自前な事へはなんと言ったらいい?」
「千雨さんの技量を見せて大学部から盗んだとでも言えばいいでしょう。茶々丸と同じ基礎AIだとしても、ここまで改良されていれば同一だとは思わないでしょうし、心配でしたらスパゲッティにしておきます」
「いや待て。それは私が大変になるだろ!」
「まあ、容量をいたずらに増やして千雨さんの脳に負担をかけるわけにもいきませんし、さっきも言ったでしょう。あの頃の私は純真な疑心を持たない美少女でしたから、適当な嘘でも問題ないです。簡単に確認できるようなのは流石に気づきますけど」
「つっこまねーからな。で、他には何かあるのかよ?」
「千雨さんちょっとエッチ」千雨は思いっきり葉加瀬の額をデコピンした。小さくなってるせいか、葉加瀬は微動だにしない。「停電の後すぐに修学旅行があります。思い返せば修学旅行あたりでネギくんは白き翼の原型を作りました。もし千雨さんがネギくんの信頼を勝ち得ようと考えてるなら修学旅行の時に関係を形成することが一つのターニングポイントになると思います」

 超の計画を邪魔するなら、ネギに関わるのが麻帆良祭からでは遅すぎる。千雨がネギにある種の決定を託される程の信頼関係になったまでの時間は破格なほど短かったが、それは重大な危機を肩を並べて超えた経験があったからだ。
 麻帆良祭までにそこまでの関係になるなら、修学旅行がキモだ。と葉加瀬は言った。

「修学旅行までに、準備は整えておくべき、って事か」
「はい。ネギくんが無視できない、あるいは頼らざるを得ないほどの戦力があることが望ましいです。最低限お金を集めて傭兵でも雇えばいいんじゃないですかね。できれば超さんと契約する前の龍宮さんを捕まえて置くとか。
 まあ、私も修学旅行での顛末はあんまり知らないんですけど」
「おいおい。私もあんま詳しくは知らねーぞ。桜咲の奴、口が重くってな」

 桜咲刹那とネギが仮契約したのがその時のことで、潜在的な関東、関西の小派閥同士の争いだった、ということだけは聞いている。

「それと、これは大事なことですが、記憶の中にあるものを妄信するのは気をつけてください。記憶は変容し、未来も変わります。特に当時の麻帆良、しかも超さんの周囲はかなり敏感な状況にありました。些細な行動で状況が変化します。結局、その場その場で対応することが求められます」
「それは正しくはない表現だな。確かに私にアドバンテージはある。それは結局普通に生きてるより一つ程度情報が多い位のことでしかないが、それはデカいアドバンテージだ」
「問題はそれに引きずられることです。それを念頭に置いておくというだけで、その世界に生きる誰よりも千雨さんは未来を見通せなくなる」
「……まあな」

 だがそれを避けることはできない。千雨はいくら三年前の世界の麻帆良を歩いても、刹那を見れば長くネギの左右を固めた相棒のことを思い出すし、夕映を見れば最後まで一歩先を行かれた白き翼の頭脳のことを思い出す。口先では、理性ではそれが別人だと思っていてもどこかでは間違いなく同一視するだろう。そしてそれを忘れる気はない。この世界を失うのは千雨の紛れもない罪であり、それを全て心に留めておくことだけが千雨に出来ることなのだから。
 葉加瀬が溜息を堪える姿を千雨はじっと見た。益体もない考えではあったが、この世界の葉加瀬は、こうやって千雨への申し訳なさを抱えたままで終わるということが、どうしようもなく勿体なく思えた。
 だから。千雨は笑った。3-Aのように、些細なことが楽しいかのように。

「なあ、葉加瀬」



◆◆◆



 葉加瀬は、3-Aの人間を中学生と侮るなといった。反面、三年前の自分自身を卑下していた。千雨にしてみればいくら中学生と言えども、葉加瀬なんてのは想像の埒外の存在だ。宇宙人の年齢が自分よりいくつか下だったからといって笑う奴はいないだろう。
 葉加瀬の脅迫が第一の行動方針だ。しかしまだ一にも届いてはいない。まず葉加瀬が今、どういう立場でここにいるのか。何を探りに来ているのかを千雨が探らなければならない。気だけ急いたところで――それが正しいことはあるのかもしれないが、失敗することのできない千雨には自分の慣れた、信じる手法を選ぶことしかできない。

(いや、待てよオイ。記憶操作がきちんとかかっているかを探りに来てるんじゃないのか?)

 千雨なら――千雨が自慢とする合理的な常識思考ならば、記憶改ざんをした相手を一々探るような真似は選ばない。藪を突っつくことに他ならない。千雨なら、放っておいて日常の中で探る。部屋に盗聴器を置き、クラスメートを内通させ、徹底的に対象に非日常を意識させない。極普通であると自負する千雨は、自分の考え方が一般的な組織で多く採用されることを良く知っていた。
 態々、探りを入れてくるのは、何を知りたがっているんだ?

「体は大丈夫ですか?」
「不思議なくらい痛みはないな」
「三日も起きなかったのに元気そうで安心しました」
「この分じゃ退院も早いだろ。さっさと外に出たいぜ」

 この三日の遅れが致命的でないことを半ば祈りながら。

「柿崎さんから聞きました。金髪の女性に襲われたんですってね。災難ですねー」
「ああ。今考えたらあれが桜通りの吸血鬼だったのかもな」
「そうなんですか? でも千雨さんみたく襲われたのは千雨さんだけですよ」
「さあな。別件か、私だけ特別扱いか。調べるのは警察だろ。私じゃない」

 まさか。
 千雨の体質は学園側に知られているのか? 初めから。
 ふと手に取ったピースが正解だったように、そうならばこの状況が理解できた。
 じゃあ葉加瀬は千雨に記憶が戻っているかを調べに来た? 確認ではなく、確かな疑念を持って。
 それなら、太刀打ちできない。相手に先手が取られている状況ではどうしようもない。いや、まずはカマをかけるしかないだろう。千雨は知られないように息を呑んだ。

「いや待てよ。金髪の女だったか?」
「そう聞きましたけど」
「……それ、言ったの私か?」
「はい。そう柿崎さんが。柿崎さんのことは覚えてますか?」
「クラスメートの名前を忘れるほどひどい傷じゃないつもりなんだけどな」
「救急車呼んだの、柿崎さんだったんですよ。詳しくは解らないんですけど」
「へえ。それは、ありがたい話だな」

 上手い手ではないが、葉加瀬の経験値の少なさが功を為した。確かに葉加瀬はピクリと反応した。それは、千雨の精神魔法に対する耐性を学園が認識していたということを意味する。
(……マジかよ)
 千雨の体質が学園の知るところだったとしたら、千雨としては複雑だ。長い間その体質には苦しめられた。周囲と自分の認識の乖離に悩まされた。
 学園はその事を知っていたのか。なら何故対応しなかった? 或いは、放逐してくれるだけでその悩みから解放されていたのに。
 しかし、それがあったからこそ3-Aに放り込まれたのだと思うと、やはり複雑だ。

「そういえば、付き合いは長いですけど、千雨さんの眼鏡外した姿、初めて見ましたー」

 となるとここでは記憶が戻っているかを探りに来たと言うことか。千雨なら知らないはず、知っているはずのキーワードを言葉の中に忍ばせ、それに反応するかを見る。キーワードは別にエヴァンジェリンに関係するようなことでなくてもいい。改ざんされた記憶はもう失っている。その中に極自然で、しかも特徴的な言葉を忍ばされれば太刀打ちは出来ない。
 そのキーワードを見つけなければ、面倒なことになるな。
(さて、それは何か)

「……」
「……?」
「……」

 千雨は顔を覆って、ベッドの上に突っ伏した。

「……ち、千雨さん?」
「うるせえ! 大丈夫だなんの問題もない!」

 眼鏡。眼鏡。眼鏡がない。顔が真っ赤になる自覚をする。耳鳴りがする。眼鏡はどこだ。千雨は手探りでベッドサイドを探し、昨夜のことを思い出す。そういえば眼鏡飛んでいった。
 かつてに比べれば遥かに改善したはずだ。余裕がないときだったら気にもしない。だが冷静な時に素顔を見られることには慣れていない。慣れていないどころか、同じテントで何人かと過ごした夜は体を丸めて顔を隠さなければ安心して眠れなかったくらいだ。

(どうしよう。うああああ。どうすんだコレ! 眼鏡――ああ!)

 近くに。手の届くところに眼鏡がある。千雨は突っ伏したまま葉加瀬の方向に手を差し出した。

「葉加瀬」
「は……はい」
「眼鏡寄越せ」
「はい?」

 心底不思議そうな葉加瀬。千雨は当てずっぽうで葉加瀬の顔に手を伸ばした。顎。唇。鼻。ようやく眼鏡に到達する。度の厚そうな洒落っ気ゼロのダサ眼鏡。だが構うものか。千雨は他人の顔が見えないことより他人に素顔を見られる方がよっぽど嫌なのだった。

「え、い、嫌です」

 しっかと葉加瀬が自分の眼鏡の蔓を押さえる。ぐいぐいと千雨はそれを引っ張った。

「いいから。見舞いはこれでいいから」
「いや、フルーツ買ってきましたから」
「いらねえよ! やるよ! むしろ買い足してやるから眼鏡寄越せ!」
「いやですー! 今までの分析結果からすると千雨さん別に視力悪くないですー!」
「悪くねーから眼鏡いるんだよ! 眼鏡っ娘ならそれくらい解れ!」
「解りません! 眼鏡っ娘じゃありません! どんな理屈に生きてるんですか千雨さんー!」
「ならせめて外せ! あんたが見えてないと思い込めばなんとか妥協できる!」

 慌てて葉加瀬が席を立つ。千雨の手は空を切り、千雨は布団を被って顔を隠した。

「……あのー。もしかして、千雨さん。心理学用語のところのペルソナだったりします? 眼鏡」
「…………」
 定義すんな。ユング死ね。
「あー、もう」
 呆れたような葉加瀬の溜息。布団の中に葉加瀬の手が突っ込まれた。カチリと当たる金属の感触。慌しく千雨はそれを自分の眼にかけた。
 顔を布団から出す。視界はぼやけ、珍しい裸眼の葉加瀬の顔すらまともに見えない。

「わ、悪いな。ちょっと借りる」
「いいですよ。研究室か部屋に戻ったらスペアがありますし」
「……やっぱ、違うな」
「はい? それはそうでしょう。千雨さん、視力いいでしょう?」
「まあな」

 葉加瀬聡美が、葉加瀬聡美と違う。あの葉加瀬がもういないという悲しみより、千雨は気が楽になる方が強いのを自覚した。この葉加瀬はもうあの葉加瀬にはならないが、あの葉加瀬よりもずっと辛いことと無縁でいられるようにしてやれる。少なくとも、あの葉加瀬の計算と千雨の努力があれば、そういう結果を捕まえられるはずだ。
 そのために千雨はこの時代にいるのだし、そのためならば全てを投げ出してでもそれを為すべきだ。
 矛盾。
 それに千雨は気づかない振りをした。何より、自分が低俗な人間であると自覚しないために。

「あー」
 仕切りなおし。
「あんたは桜通りの吸血鬼について何か知ってないのか」
「聞いた程度のことでしたら」
「ほお」
「千雨さんこそ昨日のこと、何か覚えてないんですか? 例えば、なんで千雨さんだけこんな重傷にされたのか」

 これか。直球で来られてしまった。開き直って、ある程度のことが露出することは仕方ない。初めから千雨の体質が知られていることを気づいていなかった千雨の落ち度だ。それにそれを知られたところで、未来から来たことまでは悟られないだろう。
 昨日から失敗ばかり。成長してないな私は、と自嘲する。

「ネギ・スプリングフィールドに手を出すな、って言われたな」
「! ……」
「あんたが知ってる情報の中で、桜通りの吸血鬼はウチのクラスの担任教師のストーカーだったりするのかよ?」
「……さあ。私が知ってるのは、聞いた程度のことですから」
「誰にだ?」
「もちろん、この一連の事件を調査している学園側です」

 一問一答。
 事情を知っている千雨にとっては見破り易い話ではあるが、葉加瀬はここに学園側の調査で来ている。しかも、学園側から開示された情報の中でしか口に出せない。
 千雨は苦笑した。葉加瀬。所詮中学生だと侮る要素はない。当然の話でもある。千雨は修羅場の中で三年を生きたが、葉加瀬聡美は産まれて14年も天才だったのだ。

「はは。なあ、葉加瀬」
「笑いどころ、なかったと思いますけど、なんでしょう」
「聡美って呼んでいいか?」
「はい? いや……構いませんけど、どうしました? 正直に言って変ですよ?」

 これも未来から来たことの証拠にされてしまうのだろうかと思いながらも、千雨は笑うしかない。千雨が葉加瀬――聡美を侮るとしたら、それは葉加瀬の成長していない姿だと思うからだろう。あの葉加瀬よりは少なくとも。
 だから違う人間だと認識しなければ。良く似た別人。まだそれほど別人ではないが、別の固体。ただし完璧な別人だと思ってしまえば千雨の目的にも逆行してしまう。そこらへんは匙加減だ。

「変? 元から私はこういう奴だ。知らなかったか?」
「はあ」

 釈然としない顔で頷く葉加瀬……聡美だが、構うものか。千雨は唇を結んで、隠し切れない笑いを堪えた。この聡美が千雨にとって未知の存在だと言うなら、あちらにとっても千雨は未知だ。なにせ、14歳の長谷川千雨は友達の一人も得ぬまま死んでいったのだから。
 さあ、正念場だ。

「えー、では千雨さん。桜通りの吸血鬼がどんな人相だったか覚えてますか?」
「言えないな」

 聡美は意表を突かれた顔をした。

「言えない、ですか? それは覚えているが、言えないということですか」
「さあな。そうかもしれないな」

 ここでエヴァンジェリンと言うのは上手くない。長谷川千雨なら名指ししないだろうし、それを上手く使えばカードの一枚程度の価値はある。
 千雨は、エヴァンジェリンへの復讐の機会と、葉加瀬聡美の隙、できるなら超鈴音の首を求めている。究極的にはある程度の思惑が透けて見える学園長のことは捨て置いて構わない。だが学園側の使者として来ている以上ある程度の開示は諦めざるを得ない。
 一方葉加瀬聡美が求めているものは超派の意向とは関係のない、学園側の秩序を守るための情報に過ぎないはずだと千雨は考えている。千雨の体質についてはどうも察しているらしい。それから千雨が魔法という存在に気づいているか。それはどれだけの範囲で気づいているか。そしてそれを知った千雨はどういう方向性で動くつもりなのか。決して学園側にとって重要ではない問題を穿り反すために聡美は派遣されている程度の話だ。

「じゃあこっちも聞きたいことがある」
「どうぞ」
「あんたは、私が疑問に思っていることが何かを把握してるか?」

 聡美は眉を顰めた。

「随分と難しい質問をしますね」
「そうかよ」
「ですが答えはいいえです。千雨さんの言ったように、私と千雨さんの仲なんてたかが知れてますから、とても千雨さんの中にある疑問の全てを把握できているとは言えません」
「そりゃそうだ。いや、それ以外にないくらいの答えだ」

 聡美の隙を見つけるにはまず千雨の隙を晒す必要がある。剥き身の剣を構えて始めて多くの戦闘理論は始まる。だが一方で千雨は聡美の隙を探そうとしていると悟られてはならない。

「では私の番ですね」
「別に順番とか決めてねーけどな」
「そうでした。すいません。……あ、こんな時間ですね。そろそろ帰りますけど」

 千雨はぎょっとした。早い。魔法について単刀直入に来るか、エヴァンジェリンか。それしか手が残されない状況で、早すぎる。

「千雨さんは」
「……」
 どんな質問であろうとも、情報を開示し、もう一つ質問をごり押しするしかない。
「誰ですか?」

 思考が止まった。

「……」
「……」
「……は?」
「……」

 ありえないことを聞かれた気がする。
(私が誰かだって?)
 血の気が引いているのは間違いない。平時だったら鼻で笑った質問だったが、この状況においてはどうしようもなく決定的なことを想起させた。
 千雨は、長谷川千雨ではない。
 理屈――葉加瀬の理屈から言えば、間違いなく長谷川千雨は千雨の通り過ぎてきた一地点に過ぎず、千雨のその地点と長谷川千雨のその地点においては同一だったが、しかし二つは同じではない。千雨は、長谷川千雨というドットを通り過ぎ、変容した「長谷川千雨」とは違う存在なのだから。
 何を意図した質問なのか、極基本的な疑問が頭の中からすっぽりと抜け落ちて、千雨は混乱した。

「質問の、意図がわからない」

 それも実質的には何の効果もない。単なる時間の先延ばしにしかならなかった。疑問ですらない。千雨自身がそれになんの期待もしていないのは確かだった。だが、誰一人想定していないほどその効果は大きくなった。
 丁度その時、鈍いバイブ音が狭い病室に響いた。
 聡美は白衣の胸ポケットから携帯電話を取り出した。千雨から背を向け、扉に程近い場所で受話ボタンを押すのを千雨はどこか呆然とした面持ちで見つめていた。

「はい、葉加瀬です。……はい。……はい。……はあ。解りました」

 二三言としか言いようのない簡単さで聡美は電話を切り、千雨に向き直った。

「おめでとうございますー。千雨さん。今、退院許可が出ました。
 どうです? ついでですから、外を少し散歩しませんか?」

 拒否する理由が、どんな合理的な思考を以ってしても見つからなかった。
 千雨は、ほんの小さく頷いた。


 頭が混乱している。
 千雨は、次の質問に備えていたのは「病室に入ってきて、何回嘘をついた?」という物だった。それは前の質問と組み合わせることで、どうしても隙が発見される必殺の質問でもあった。隙は、誰でも解るような嘘を見つけることから始まる。揚げ足を取るとは印象が悪いが、それはそれを取れば圧倒的なアドバンテージに化けることを知られているからこその印象の悪さだった。
 だが、それどころではない。
 体感的にはほんの数時間程度しかこの世界にいない千雨が、どこで疑念を持たせただろうと考えるので精一杯だ。
 勿論、幾つも失敗をした。慎重なはずの千雨にとっては致命的なほどの数。気が抜けていたのもあるだろうが、それは一つ一つが逃亡中の時代であったらフェータルだったのは間違いない。だがそれが聡美にあのような言葉を吐かせたと考えるのは行き過ぎだと思った。
 天才なのは間違いない。天才とは凡人の努力を心底笑うものの事を言う。だが、それだからといって凡人が思考放棄をするのは違う。それに天才と言っても凡人が積み重ねてきた100年を軽視することは出来ないはずだ。
 なら、何故。どうやってあの言葉にたどり着いた?

「いい天気ですね」

 病院から大分離れただろう。頭に包帯を巻いたままの千雨に、聡美は笑いかけた。慈悲に満ちた、未熟者を見るような微笑。その事を本能的に口惜しく思いながら、千雨には何も言えなかった。ほんの少しも情報を与えることが出来ない、と理由付けされたが、それは最低限の頭の回転を持つ人間にありがちな怠惰の理由付けに過ぎず、単に自らの内情を知られることだけが恐かったというのが実情だ。

「千雨さんは魔法って、信じますかー?」

 軽口にしか思えない口調。しかし聡美の瞳は強い意思で鈍い光を帯びている。それは、断じて千雨が思っていたような超鈴音のエゴに依存するだけのものではない。
 「葉加瀬」がそれを言わなかったのは、ただ気恥ずかしかっただけなのだろう。
 それを考えた時、千雨は愕然とした。聡美は今を見据えているのに、千雨は未来の葉加瀬に縋っている。どうしようもなく自分が低俗な人間に思えた。ありえもしない未来に縋って、未来を求める人間ほど滑稽なものはない。それは、長く情報世界という空想に限りなく近い世界に生きてきた千雨にとっては常識以前の法則に近いものだった。

「……」
「話は飛びますけど、人間原理のことを知ってますかー?」
「そりゃ、ある程度は……」
「まあ、哲学の分野ですから私もあまり詳しくはないんですけど、宇宙の形を人間に求める理論のことです。
 常識的に考えれば、そんなことは有り得ないんですよ。惑星の数は無数。その中でたまたま地球で私のような知性が生まれたとしても、それは知覚できるか出来ないかだけの問題であって、断じて他に知性が存在しないという証左にはならない。人間原理なんてのは人間の自信過剰の究極系みたいなものです」

 それを無闇に信じている人間は少ないはずだ。宇宙の形は人間が観測できるためだけにあの形である、などと信じ込むはずはない。何より、人間の大多数は自分が世界に与える影響の小ささを知っている。
 複雑系。歯車が一つ欠けたところで全体はそれを何かで代替し、動き続ける。思想家も政治家も科学者も、働きアリの比率の法則のように誰かがそれを代替し続ける。

「ですが、人間原理は研究すればするほどそれを信じていかざるを得ないようになっていきます。宇宙は、世界は人間が、観測するに足る知性が存在するからこそその形であると信じ込んでしまうんです」
「……カルトだな」
「私もそう思います。進化論的に冷静になれ、って話です。
 ですけど、考えたことはありませんか? 酸素を毒とする生物がいるなら、メタンガスに適合した生物がいてもいいはずだ、と。或いは二酸化炭素で呼吸する生物はいないのか? もちろん、私は生物学の専門ではありません。機械工学、或いは生物工学の専門家と称され、究極的に人の手が関わらず財を生み出すことは可能か、というのを究極目標にする科学者です。生物的に異端の存在は存在を認められない。ですが、異端、究極、極論的なものを想定することによって物理学は進化し続けました。万有引力の法則なんてその典型です。
 なら、生物の分野でもそんなブレイクスルーがあっても異常ではないのではないですか? 例えば、重金属をエネルギーに変えるバクテリアが存在します。考え方によっては人間を食す人間もその範疇に入るかもしれません。生物の適合能力は想像の埒外にあり、ならば何故地球でのみ知性は進化しえたのか?」
「だが、それは自己中心的に過ぎる」

 千雨は、ほとんど惰性的な極基本的な理論で応えた。

「そうですね。人間原理は自己中心の究極論理です。だってこれほどのスケールの理論は中々ありませんよ。宇宙は人間の観測によって成り立っている。マクロ経済や哲学が馬鹿みたいに見えるほどの大きな議論です」
「いい加減にしてくれ。何が言いたいのかはっきりしろよ」
「魔法があれば、全てを解決できると思いませんか?」
「あ?」
「私たちにすら未知のエネルギー要素が一つあれば、人間原理すら全て頷ける。5つの力が6つであれば、それだけで人間原理が真実だと解明できます。事実、魔法とは言われませんでしたがそう主張した人間はいました。世界の整合性がとれないのは、未発見の何かがあるからだと主張した科学者です。私は、それを魔法のことだと捉えました。そして、魔法の存在を認めれば人間原理を解明できると信じています。もちろん、それは私が解明するようなことではないですけど」
「……あんたは私に何を求めてるんだ?」
「もう一つ、人間原理の解明の要因があります」
「タイムマシン」
「察しがいいですね。そうです。世界は人間の観測によって成り立っているという仮説の一番の裏づけが、いつか実現するであろうタイムマシンです。
 宇宙がたった一人の観測者によって左右される。それはまさに人間原理。それも極度の人間原理です。なぜなら、一人の観測者の影響を否定するなら、どんな些細な変化もたった一人の人間が与えてはならないことを意味するからです。タイムマシンは確実に一人の観測者が宇宙というマクロに影響を与え、そしてタイムマシンは既に理論は確立されています。開発されるまでは時間の問題というところまで来ているんです」

 すべてバレている――と千雨の心に恐怖が襲った。バレていなければ、ここでタイムマシンのことを引き合いに出す必然性がない。そうでなければ――そうでなければ、何なのだろうか。
 千雨は聡美のことを知らない。今と未来の乖離を見捨てて聡美ではなく葉加瀬に限りなく近いと想定しても、それは変わらない。また、それに答えを出すことは単なる逃避に思えた。

「問題は、観測者は不変だということです」
「……え?」
「観測……傍観によって世界は変容するが、それを傍観者は認識しているということです」

 千雨のことだと解った。いや、聡美がそれを把握し口に出したかはわからない。

「それは一つ一つの選択の結果ではなく、本質的な傍観。その世界を傍観することによってのみ世界は変容し、エラーを起こし、いつしか夢と大差ない存在へとなります」

 脳が、ほとんどの理解を拒む。それを一つ知ることで自分が低俗だと思ってしまう。理解してしまうことの危険性を、千雨の思考以前のものが何より把握していた。

「千雨さんはどう想いますか?」

 言葉の真意を理解するより前に、聡美の視線を千雨は追ってしまった。
 舞う桜の花びら。河のせせらぎの音。洒落た石畳の向こうに親友と想った絡繰茶々丸の姿と、ネギ・スプリングフィールド、神楽坂明日菜の姿。並び得なかったはずの、だが並んでしまえば誰一人として立ち向かえない姿。その二人と、茶々丸が相対していた。
 契約者執行を受けた明日菜が茶々丸へと向かう。
 その、
 姿を見て、
 千雨は笑いながら、鈍重な体を走らせた。

「は」

 思考は放棄。それが葉加瀬のため、茶々丸のためでないことは千雨自身にも曖昧ながらわかっていた。エゴであり、自分勝手な欲望でしかなく、しかしそれは確実にネギ・スプリングフィールドの意思を継ぐ行動であった。
 明日菜と茶々丸が、互角の攻防を広げる。流石は天才、効率化された魔法使い同士の争いに確実な精度で対抗している。
 詠唱をするネギが駆け寄る千雨に気づいた。だがその意図、事情までは把握していないだろう。それでもネギはハッと何かを察し、

「や、やっぱりダメーッ! 戻れッ!」

 放った精霊たちを呼び戻し、爆発を起こす。
 千雨は二歩たたらを踏んで、前につんのめりながらも足を止めた。呆然と、自らの顔を抑え、聡美の顔を見た。

「千雨さん」

 聡美は無表情だった。
 今、今、千雨は葉加瀬のことを忘れた。忘れて、今、しようとしたことはどうしようもない程の、愉悦。ネギ・スプリングフィールドの邪魔をすることへの愉悦。その薫陶を守ることより、親友を庇うことより、葉加瀬を救うことより。今、千雨は優先した。
 ネギを否定するということへの甘美な誘惑。憎しみ。恨み。エヴァンジェリンの言葉が脳裏に過る。

「笑ってますよ」

 千雨の顔は歪みきっていた。
 意思が、ぐずぐずに崩れていく。



◆◆◆



 それは春の桜のような。
 夏の陽炎のような。
 秋の落ち葉のような。
 冬の雪のような。
 まるで流れ星のように儚げで。

 脆い。


---------
書けば書くほど何が面白いのか解らなくなっていく。
自分で見るのが鬱になるほどごっちゃごちゃ。
次回、主人公フルボッコされます。


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