薄い色素の髪はヘッドギアに包まれ、収まりきらない分は後ろで一括りにされて尻尾のように出ている。
小柄な身体は、男性用戦士用の装備に包まれており、丈が少々合わないのか袖がややだぶついているようだった。
武器は腰に差した短剣一本。
両手に一杯の日用雑貨を抱えている。
昼下がり、辺境都市アーミゼストの人通りの多い大通りを歩く彼の姿は、ちょっと見、新米の少年冒険者の買い出しのようにも見えた。
しかし、見る者が見れば分かる。
彼は『彼』ではなく『彼女』なのだと。
その『少年』は、角を曲がり少し細い通りを歩いていく。
そして彼の後ろ、十数メルト離れた距離を一人の青年が追っていた。
眼鏡を掛けた、線の細い学者風の魔術師の名を、バサンズ・セントという。
彼は確信していた。
絵の具の買い付けの帰りにたまたま見かけたあの『少年』が、バサンズがずっと気にかけていた少女なのだと。
すぐに声をかけようと思ったが、内気な彼にはなかなか勇気のいる事だった。
そこでタイミングを見計らい、彼女を追っていたのだが……。
彼女が角を曲がり、慌ててバサンズはその後を追った。
直後、バサンズは腕を強引に引っ張られたかと思うとそのまま押し倒され、首筋に冷たいモノが押し当てられた。
「あれ? バサンズ君?」
細い路地に彼を押し倒した張本人は、自分を追っていた者が誰か、すぐに分かったらしい。
バサンズは、『彼女』を見上げる。
変装しているが、やはり間違いない。
前のパーティーで一緒だった商人の少女、ノワ・ヘイゼルだった。
「ど、どうも……お久しぶりです、ノワさん。あの、その短剣を引っ込めてくれると嬉しいんですけど……」
「どうして、{尾行/つけ}てたの?」
少年……に変装していたノワは、厳しい目でバサンズを見下ろした。
「あ、いや、それは……」
バサンズは口ごもる。
しかしその沈黙を、ノワは悪い方に取ったようだ。
「バサンズ君も賞金目当てなんだ……ノワ、悲しいなぁ」
バサンズは慌てて否定した。
ノワは今、とある事件に関わり賞金を掛けられているという。
バサンズが自力で集めた情報では、何でもこの都市を管理する冒険者ギルドだけではなく、違法な裏の商売を行っている者にまで喧嘩を売るような事になっており、表を歩けない身になっているらしい。
もちろんそれを狙い、追われた事も多いだろう。
彼女が変装しているのも、それが理由と思われる。
「ち、違います! 僕はそんなつもりで追っていた訳じゃ……」
「じゃあ、どうして?」
「あ、あの……それは、ノワさんが心配で……」
バサンズは正直に話した。
「ホントに?」
ノワは疑わしそうだ。
「ほ、本当です」
「どうやって、それを証明する?」
確かに、それは難しい。
バサンズはかろうじていう事を利く手を動かし宣言した。
「ゴ、ゴドー神に誓います」
「ふーん……」
ノワは、バサンズの上に乗ったまま、緊張を解いた。
といっても、相変わらず短剣はバサンズの首筋に当てられたままだ。
そしてニコッと微笑んだ。
「本当に、ノワを売る気じゃないんだね?」
その途端、バサンズは自分の中で言いようのない感情が昂ぶるのを感じた。
彼女に嫌われる訳にはいかない!
「滅相もない! そんな事、絶対にするはずないじゃないですか! 僕はただ、心配だっただけです! 何だかノワさんの新しいパーティー、妙な事になっているみたいですし……」
バサンズの必死の弁明に、ノワはクスリと笑った。
「んー、バサンズ君、その名前、あまり大声で呼んじゃ駄目だよ。注目されると困るし」
「あ、そ、そうでした……すみません……」
ノワは短剣をバサンズの首筋から離し、彼の上からどいた。
「いいよいいよ。それでバサンズ君は今、どうしてるの? 新しいパーティー組んで、頑張ってるのかな?」
立つよう促され、バサンズはローブの埃を払いながら、身体を起こした。
「あ、いえ、今は少し休んで、自分の研究を進めています。ちょっと郊外の屋敷を借りて……」
地面に落ちた絵の具を拾いながら、バサンズが言う。
その為、キラーン☆ とノワの両目が輝いたのを、彼は見落とした。
「魔術師の研究は危険が多いもんね。そっか、バサンズ君も元気でやってるんだ」
「は、はい」
絵の具を袋に詰め直し、バサンズが立ち上がる。取りこぼしはないようだ。
「それじゃ、ここでいつまでも立ち話も何だし、ノワはここで失礼するね。バサンズ君を巻き込むと悪いし」
微笑みながら言い、ノワは身を翻す。
「あ……」
一歩踏み出すも、バサンズは躊躇してしまう。
ノワの唇の両端がつり上がる。
が。
「うん?」
バサンズに振り返った時には、可憐な笑顔になっていた。
それを見て、バサンズは頬を紅潮させる。
そしてありったけの勇気を振り絞って、誘ってみた。
「よ、よければ、ウチでお茶でも飲んでいきませんか? ちょ、ちょっと離れてますけど、いい所ですよ?」
「え、いいの?」
脈があると見て、バサンズは勢いづいた。
「も、もちろんですよ!」
「そっか、じゃあご馳走になるね。あ……でも、仲間のみんなが心配するかも……」
どうしようかな……というノワの素振りに、バサンズはなりふり構ってはいられなくなった。
「じゃ、じゃあ、仲間の皆さんも呼んでいいですよ?」
ノワの仲間という事はつまり、現在賞金を掛けられている犯罪者一味を家に招き入れるという事になるのだが、今のバサンズには目の前の彼女を家に誘うことしか考えられなくなっていた。
「ホント!? じゃあ早速行こ!」
ただ、ノワが喜ぶのが純粋に、バサンズにとっても嬉しかった。
バサンズはノワの荷物も自分で持ち、二人は小道に出た。
「れ、連絡はいいんですか?」
「あ、うん、大丈夫大丈夫。じゃじゃーん」
ノワは細い左腕の袖を捲り上げた。
そこには、複雑な文様の施された腕輪があった。中央部に透明な宝石が埋め込まれている。
「そ、その指輪……まさか、水晶通信!?」
「うん」
頷き、ノワは仲間に連絡を入れる。
「……あ、クロス君、古い友達と会ったから今からお茶してくるよ。それとみんなも来ていいってさ」
水晶のペンダントから伝わるノワの声に、半吸血鬼クロス・フェリーはニヤリと笑った。
「そうですか。では、現地で合流という事で」
貧民窟の廃屋。
そこが、今の彼らのアジトだった。
まだ日差しも明るい窓枠には漆黒の盗賊、ロン・タルボルトが腰掛け、部屋の隅では巨漢のヴィクターが睡眠モードに入っている。
水晶通信を切り、クロスは彼らに声を掛けた。
「新しいねぐらが見つかったみたいですよ、皆さん」
気まぐれな貴族の別荘だったというバサンズ邸は広く、ノワ達が住むのに何の不便もなかった。
もっとも、屋敷の主は現在留守であり、故に夜も明かりを点ける訳にはいかないのが、やや不満点ではあったが。
何せノワとバサンズは以前同じパーティーを組んでいただけに、鼻の利くどこかの賞金稼ぎが郊外にあるここまで、様子を見に来ないとも限らないのだ。
ただ、その点さえ除けば、調理や風呂焚きはクロスの魔法で何とかなるし、すこぶる快適である。
が。
「納得いかないー!」
昼下がりの薄暗い屋敷の中で、ノワ・ヘイゼルは不機嫌であった。
深いソファに身を沈め、手足をばたつかせる。
「あらら、どないしはったんですかノワはん。えろお不機嫌な顔して」
奇妙な方言で応えたのは、丸い黒眼鏡を掛けた糸目の青年だ。
ゆったりとした狐色の上下を羽織り、傍らには大きなリュックと丸い笠が置かれている。
ノワが取引している旅の商人で、名前をキムリック・ウェルズという。
家主であるバサンズの許可を得て、ノワと商談中であった。
そのキムリックに、ノワはぶーたれる。
「ちゃんとバサンズ君には効いたー。ノワのスマイル」
そして再び手足をばたつかせた。
「なのに、何でアイツには効かないのよー」
そのアイツ、にキムリックは心当たりがあった。
「あー、言うてはった神官はんですな」
「そ! ムカつくの!」
ぷんすか、とノワは頬を膨らませる。
「ノワはんの微笑みは、ほら」
キムリックは自分のリュックを漁り、心当たりの巻物を取り出した。
広げると、そこにはどこかノワに似た、微笑を浮かべる一人の女性が描かれていた。
「こちらの商業神イツミはんにそっくりですから、男の人と仲良うなれる効果があるんは、前にも話した通りどす。素の顔でも充分ですけど、イツミはんの絵や偶像は皆、笑顔どすからなぁ」
以前、ノワが{墜落殿/フォーリウム}で手に入れたという触れたモノの性別を変えてしまう不思議な像、『牛と女神像』もこれに当たる。
神に似たモノ、似せたモノには、それなりの神性が宿るのだ。
キムリックが聞いた話では、ノワは自分の笑顔にどこか不思議な魅力がある事に、子供の頃からうすうすと感じていたという。
彼女が微笑むと、男達は皆喜んで、自分を助けてくれるのだ。
もっとも、それにも個人差があったり、時間を置きすぎると駄目なようだが……とにかくシルバのように、あそこまで徹底的に無力化されたのは、初めてらしい。
となると……と、キムリックの考察は続く。
「せやから考えられるんは、より上位の存在。例えば三女神の加護とか、その辺受けとるちゅー可能性が考えられますな。前に、討伐軍におったっちゅー事は……さいですなあ。何か、どこぞの補給部隊には、生き神様がおられるとか聞いた事ありますし、その辺かもしれませんなぁ」
「むうぅ、シルバ君のくせに生意気ーっ!」
ノワは手近にあったクッションを、天井高く放り投げた。バサンズの私物である。
ちなみに別の考察も、キムリックにはあった。
「もしくは、実はそのシルバはんが、女の子やとか」
「え」
何故か、ノワは固まった。
「冗談どす」
「あ、あはは……ノ、ノワ、すごくビックリしたかも」
「まあまあ、とにかくそんなケースはごく稀やないですか。吸血鬼やライカンスロープとすら仲良うなれるノワはんやねんから、もっと大局的にモノを見なあきまへん」
「その、シルバ君に、ノワの財産、ほとんど没収されたんだよう!」
だからこそ、憎らしいのだという。
「それは大問題どすなぁ」
同情の目を向けるキムリック。
とはいえ、所詮は他人の金であるのだが。
しかし、商売の取り引き上、もっとノワ達には儲けてもらわないと困るのだ。
「うん! あのお金がないと、ノワ達の目標に届かないもん」
……いや、もっとも現在は、キムリック側でもちょっとしたトラブルがあり、すぐに資金を用意されても困る事情があるのだが。
それを教える義理は、彼にはなかった。
「そうですね。より強い装備を整えて第五層を突破すれば、莫大な賞金が手に入ります。しかも、これまでの僕達の行動も、免罪されますし」
クッションを手に、いつの間にかノワの座るソファの背後には、半吸血鬼であるクロス・フェリーが控えていた。
「それもこれも、シルバ君がぶち壊しーっ!」
ぎゃいのぎゃいのと、ノワは騒々しい。
「ほらほらノワさん、豆茶でも飲んで、落ち着いて下さい」
にこやかなクロスに促され、牛乳を多めに注がれた豆乳茶のカップを両手で包むノワ。
涙目で、ぬるめの豆乳茶をすする。
「うー、『龍卵』の購入資金がまた遠ざかっちゃうし……」
「さいですなぁ」
「キムさん、なんか目が泳いでない?」
黒眼鏡を掛けているのに、どうして分かるのだろう。
この辺が、ノワの油断ならない所だ。
「あはは、気のせいどすよ。時にこの屋敷の主はんは、今いずこへ?」
バサンズは、キムリックにノワとの面談の許可を与えると、そのまま旅支度をしてどこかに出かけてしまったのだ。
「あ、うん。ロン君とエトビ村に偵察に行ってもらってるの」
「はぁ。パーティーに組み込むんどすか」
確か、魔術師という話だったが、わざわざ賞金首になっているパーティーに入りたがるとは物好きな、とキムリックは思う。
甘いものを飲み、少しずつノワの機嫌も戻ってきたようだ。
「というか、採用試験かな。ノワ達お尋ね者だしね。一緒に賞金首になる覚悟がないと駄目だし、このままだと運が良くても牢獄入りでしょ? それでもいいっていうから、ちょっとシルバ君達を、見に行ってもらってるんだよ」
「細かいところでは、日用品の買い出しも、ノワさん一人では大変でしたしね」
ねー、とノワとクロスは頷き合った。
しかし、とキムリックは心配になる。
「……偵察に行くと見せかけて、そのシルバはん達に売られる可能性とか、考えてまへんのですか?」
「だから、念のためロン君が一緒なんだよ」
「なるほど」
裏切ったら、バッサリという訳か。
もちろんキムリックの心配は、彼自身にも言える疑いではある。もっとも、商人が取引相手を売るなどあってはならない。
少なくともまだ、ノワ達とは有効な関係を結んでいる以上、キムリックが彼女達を裏切る事はないのだ。
「まあ、心配ないとは思いますけどね……彼、ノワさんにぞっこんみたいですし」
クロスは銀縁眼鏡を指でくい、と直しながら、皮肉っぽく笑った。
その時、調理場の方からエプロン姿の巨漢が現れた。
「のわさま、ごはん、できました」
「わーい。ヴィクターのご飯おいしいから好きー☆」
ノワはソファから飛び降りて、遅い昼食に食堂へと向かおうとする。
キムリックも立ち上がり、ノワの背に声を掛けた。
「適度に運動した方がええですよ、ノワはん。スタイルが変わると、ノワはんの女神の力は落ちてまいますから」
「はいはーい」
「のどかそうな、いい所ですね」
「ああ」
バサンズ・セントとロン・タルボルトを乗せた馬車がエトビ村に到着したのは、日も傾きオレンジ色に染まりつつある頃だった。
フードを目深に被った魔法使いのような格好をしたロンが、バサンズに囁く。
「仕事は分かっているな」
抑揚のないその声に、バサンズは自然、緊張してしまう。
「え、ええ。シルバさん達のパーティーの偵察、ですよね」
「そうだ。お前は以前、シルバ・ロックールと同じパーティーにいた。偶然を装って接近するのは難しくないだろう」
ロンに、バサンズは頷き返した。
「研究疲れをリフレッシュする為に、この温泉郷にやってきた、と……そういう話にしておきます」
「そこは任せる。名前は覚えているか」
「はい。リーダーは司祭であるシルバ・ロックール。副リーダーがサムライのキキョウ・ナツメ。他に戦士で登録しているヒイロとタイラン・ハーヴェスタ。魔法使いのカナリー・ホルスティン。そして盗賊のリフ・モース。この六人です。冒険者ギルドで確認してます」
バサンズの強みは、ノワ達のようにお尋ね者になっていないという点だ。
冒険者ギルドにも自由に出入り出来るし、他のパーティーの事を調べるのも、難しい事ではなかった。
「道具は」
「ここに、ちゃんと」
ロンの問いに、バサンズは自分の鞄を叩いた。中には旅支度と一緒に、絵画道具が入っている。
ノワ達は、シルバ達のパーティーをよく知らない。
絵心のあるバサンズは、シルバ達の実力と一緒に姿を描き写すのも仕事に含まれていた。
「よし。動け」
軽くバサンズの背中を叩き、不意にロンの姿が消失した。
「……消えた!?」
(姿を隠しただけだ)
「……!?」
声はすれども姿は見えず。
隠行というスキルの一つだ。
さすが、第四層や第五層の探索もする賞金稼ぎ達と渡り合っているだけの事はある。
修羅場を乗り越えてきたロンの身体能力は、以前とは比べものにならないほど、高いモノになっている。
(……妙な事をしたらどうなるかは、分かっているはずだ)
「は、はい……!」
もちろん、バサンズはノワを裏切るつもりはない。
それでもやはり、緊張はしてしまう。
バサンズが選んだのは、この村で比較的大きな宿で『月見荘』という。
さて、宿に荷物を置いたらシルバさんを探さなければなりませんね、と思っていたら。
「シルバ・ロックール!! この宿帳はどういう事か、どういう事か説明しろ!」
ロビーに、そんな大きな声が響いた。
振り返るとそこには、学者風の巨漢に追い回されているかつての仲間、司祭・シルバ・ロックールの姿があった。
思わず、眼鏡がずり落ちそうになるバサンズだった。
「だ、だったら、説明させて下さいよ!?」
ロビーを横切りながら、シルバは背後に迫る壮年の巨漢に言う。
だが相手の男は、聞く耳を持ってないようだった。
「問答無用!」
手からどういう術か、緑色の光の柱が放たれる。
「言ってる事が無茶苦茶です! リ、リフ、迎撃しろ!」
必死のステップで、砲撃を回避しながら、シルバは胸元に抱える白い仔猫に声を掛けた。
「にぃ」
仔猫がシルバの肩に乗り、男の砲撃を同色の攻撃で迎撃する。
だが、それは壮年の男を更に逆上させているようだった。
「こ、小僧、貴様ぁ……!」
宿の受付係が身を乗り出して、シルバに言う。
「あ、シルバさん、今日も元気ですね。施設を壊さないようにして下さいよ」
「ご、ご迷惑おかけしてます……! あと、そういう話は後ろの人に……!」
言って、シルバは宿の左手に消えていった。
その後を、激怒する壮年の男も追っていく。
「…………」
しばらくバサンズは呆然としていたが、ハッと我に返った。
「……身体能力は、以前より格段に上がってるな」
やや混乱しながらも、バサンズはシルバの分析を行う。
祝福系の術がどの程度増えたかは分からないが、シルバもまた以前とは違う。
しっかり力を付けたようだ。
「それにしても、あの猫は一体……」
シルバの使い魔だろうか。
壮年の男も気になるが、アレは冒険者ではなさそうだった。
シルバはバサンズには気付かなかったようだし、もう少し遠目に観察するべきかと迷う。
だが、彼は首を振った。
「いや、今がチャンスか。せっかくだし、ここで接点を作っておこう……」
再び、左手から駆け戻ってきたシルバと、大柄な壮年の男との間に、バサンズは割り込んだ。
彼の目の前に、恐ろしいプレッシャーを放つ大男がそびえ立つ。
正直怖いが、これもノワのパーティーに入る為だ。多少の勇気なら、無理矢理にでも絞り出せる。
「ど、どこのどなたか存じませんが、宿で騒ぐのはマナー違反ですよ?」
声を足を震わせながら、バサンズは言った。
「何者だ、小僧」
眼鏡を掛け、顎髭を蓄えた男だ。
恐ろしく威厳があった。
「こ、この宿の宿泊客です。正確にはこれから、客になる予定の人間ですが」
「バサンズ?」
後ろからシルバの声が掛かる。
そのお陰か、巨漢の視線がバサンズからシルバに逸れた。
正直、助かったと思うバサンズだった。
「や、やあ、お久しぶりです、シルバさん。偶然ですね」
「あ、ああ。そっちも休養?」
「ええ、まあそんな所です。そちらの方は……あれ?」
バサンズが思い返してみると、大男は何だかどこかで見たような顔だった。
「フィリオ・モース。学習院の客員講師だ。精霊関連の授業を受け持っている。魔法使いのようだが、見ない顔だな」
そうだ、とバサンズは思い出した。
学習院で、一度受講した事があったのだ。
モース霊山という有名な山と同じ名前で、珍しいなと思った記憶がある。
おそらくフィリオというのは、その山に住む霊獣の長・剣牙虎フィリオから名付けられたのだろう。
「あ、ぼ、僕は基本的には自宅で研究してますから……学習院は、最近はちょっと休み気味で……」
「そうか。小僧、知り合いか」
フィリオに振られ、シルバは頷いた。
「え、ええ、まあ以前のパーティーの仲間なんですけど」
「シルバ殿ー、大丈夫か?」
声と共に、シルバの背後から、着物を着た黒髪の剣士が現れた。
バサンズは、シルバのパーティー構成を思い出す。
狐獣人のキキョウ・ナツメだ。
これで二人目、順調だなとバサンズは思った。
「ああ、キキョウ。心配ない。今のところは無事だ」
「にぃ」
白い仔猫が、シルバの頭に乗っかる。
キキョウは厳しい視線を、フィリオに向けた。
「フィリオ殿も無茶をなさるな。シルバ殿に何かあれば、貴方であっても容赦はせぬぞ」
「面白い。我に勝つつもりか」
フィリオはにぃ、と牙を剥く。
知性の中に底知れない獰猛さを見出し、バサンズは身震いする。
しかし、キキョウが怯む様子はなかった。
「勝ち目がなくても戦わねばならぬ時があるのです」
「……ふん。心配せずとも、この辺りの泉はよい水だ。多少やり過ぎるぐらいに痛めつけた所で、回復はそれほど難しくはない」
「いや、その前にやり過ぎないようにしてもらいたいのだ!」
フィリオとキキョウがやり合う一方、シルバはポリポリと頭を掻いた。
「しかしまあ……何だ。同窓会か何かか?」
「え?」
「いや、たまたま近くの村にイスやロッシェもいるらしいんだよ」
シルバの予想外の言葉に、バサンズは慌てた。
「な、何でですか? 何故、彼らがここに!?」
「や、向こうは向こうで、何か依頼を受けてたらしいぜ。あ、そうだ、せっかくだし呼んでみようか? バサンズも、久しぶりだろ? それに向こうは戦士二人だけみたいだし、もしバサンズがまだ、どこともパーティー組んでないんなら……」
バサンズは慌てて首を振った。
「あ、い、いや、僕はその! 今はまだ自分の研究に専念してまして! 当分はまだ、一人でやっていきたいと思ってるんです!」
というか、そんな提案は大きなお世話だった。
何せバサンズが今ここにいるのは、新しいパーティーに入る為のテストでもあるのだから。
「それに、少々会い辛いですし」
大荒れに近い雰囲気で、『プラチナ・クロス』は解散したのだ。
これは紛れもない本音だった。
「そうかー……そういや俺、解散の原因とか深く聞いてなかったもんな」
シルバは無神経だったかな、と少しションボリしたようだ。
「お、お気遣いなく。シルバさんはここ、長いんですか?」
「そういえば、結構長く逗留してるなぁ……まあ、ちょっと色々面倒ごとが増えたけど、そろそろ、街に戻るつもりだよ。墜落殿探索も再開しないとな」
「そ、そうですか……」
これはノワさんに知らせないといけないな、とバサンズは記憶に留めた。
そんな事はつゆ知らず、シルバは軽く笑っていた。
「ここは色んな温泉が多くていいぞ。まあ、ゆっくりしていくといいや。別に俺のモノじゃないけどな」
「あ、あはは……」
一方、宿の梁に潜んでいたロンはそれどころではなかった。
「……あの男、出来る!」
フィリオ・モースという男がキキョウとやり合いながら、不意にこちらに目を合わせてきたのだ。
ロンの中にある獣の血が、圧倒的上位の存在を本能的に感じ、全身からダラダラと冷や汗が溢れ出す。
だが、フィリオはニヤリと笑うとすぐに目を逸らし、キキョウとのやりとりに戻った。どういうつもりか、お尋ね者である自分にも興味がないらしく、放置してくれるらしい。
正直助かったと思い、ロンは胸を撫で下ろした。
それにしたも何者だ、あの男。
妙に身体が暖かい。
「ここは……」
バサンズは目を覚ました。
ズキズキする頭を振り、目を開くとそこにはバスタオル一枚を身体に巻いた、長身の美女がいた。
「気がつきました?」
「うわっ……!?」
足が滑り、バサンズは再び後頭部を頭にぶつけた。
「~~~~~!?」
自分が気絶した原因はこれか、と納得した。
しかし、まだどういう状況か分からない。
「あらあら、大丈夫? 岩場なんだから気をつけないと、駄目ですよ?」
そういう女性は栗色の髪の間から、二本の角が出ている。
鬼族の女性だ。
周囲は岩だらけ、というか洞窟で、比較的広いホールのようになっている。
そして足下は湯。
湯気の向こうには、他にも何人か人がいるようだ。シルエットからしてみんな女性。
だが、眼鏡がないのが不幸なのか幸いなのか、皆の姿はバサンズには、ぼんやりとしか分からなかった。
「こ、こ、ここは一体……」
「洞窟温泉よ。憶えてない?」
「あ……」
その単語で思い出した。
荷物を部屋に置き、シルバの他の仲間を調べる為、彼の後を尾行したのだ。
そうしたら、そのままこの温泉に入ってしまったので、バサンズも追った。
だがいつの間にかはぐれ、気がついたらこの広間に辿り着いたのだ。
裸の女性ばかりで驚いた拍子に足を滑らせ、さっきのように頭をぶつけて、気絶した……。
「うあ……」
記憶が甦ると同時に、バサンズの鼻から血が流れた。
慌てて鼻の下を押さえる。
鬼の女性は特に非難もせず、バサンズの首筋をトントンと叩いた。
「あらあら。上向いて、鼻を押さえといて」
「は、はぁ……すみません」
優しい人だなと思う、バサンズだった。
亜人種なんて、あのクロスのように得体が知れない連中ばかりだと思っていたが、少し価値観が変わりそうだ。
「この時間は、女の子が多いから気をつけた方がいいですよ。でないと、うっかり足を滑らせて気絶して、そのまま溺れ死にそうになりますから」
「す、すみません……」
まさしくそうなりかけたバサンズは、ひたすら恐縮するしかない。
そして当面の目的を思い出した。
「でも、ここにシルバさんも入っていきましたよね? ……ご存じですか?」
「ああ、はい、存じてますよ。恩人ですから。それに女の子が多いと言っても、男がゼロって訳じゃないですしね。ギルドマスターもさっき、お見かけしましたし」
「ギ……」
サラッと大物の名前が出て、バサンズは仰天した。
「あら、そんなに不思議? 今、この村に滞在しているのは、知っているでしょう?」
「そ、そうですけど……」
基本的に小市民なバサンズである。
都市を治める最高権力者、なんてもしも出会ったらどう接していいか分からない。
混乱するバサンズに、鬼の女性は微笑んだ。
「どうものぼせちゃってるみたいですね。これは、外に出た方がいいかしら」
言うと、ひょいとバサンズの身体を肩に担ぎ上げた。
「うわっ……」
そのまま湯船の中をザブザブと渡り始める。
「はいはい、失礼しますねー」
にこやかに言う彼女と、担がれる細身の成年に、女性達はかしましい笑い声を上げる。
「や、あ、あの一人で歩けますから!」
真っ赤になりながらバサンズは足をばたつかせた。
しかし、鬼の膂力は尋常ではない。一向に腕がほどける様子はなかった。
「気にしない気にしない」
「僕が気にするんですよ!」
「役得だと思って」
「どちらかといえば、屈辱ですよ!?」
……洞窟か出た時にはもう、バサンズはグッタリしていた。
スオウと名乗る鬼の女性は、洞窟脇にある売店で、茶色い液体の入った瓶を二本購入した。
「やー、風呂上がりにはやっぱり豆茶牛乳ですねー。はい、バサンズ君の分」
「ど、どうも」
スオウは腰に手を当てると、そのまま一気に豆茶牛乳を飲み干した。
そして、チビチビと同じモノを飲むバサンズを見下ろした。
「これから、夜のトレーニングだけど装備は持ってきてます?」
危うく、瓶を落っことしそうになったバサンズだった。
「ちょっと待って下さい!? 付き合うの確定ですか!?」
「裸を見せ合った仲じゃないですか」
「誤解が生じる言い方です。僕は見せたくて見せた訳じゃないですし」
それに今のように眼鏡をつけていた訳でもないので、ハッキリとも見れなかったし。
「まあ、ほら君あれでしょ。どう見ても戦士の身体つきじゃないし、魔法使いですよね?」
「はぁ、まあそうですけど……」
「うん、最近戦士系の人ばかり相手してたから、ちょうどいいですね。カナリーさんは忙しいみたいですし」
「はぁ……」
何だか、自分の話を聞かず、ものすごい勢いで自分のペースに巻き込もうとしてないかこの人……。
と思ったが、ふとバサンズは気がついた。
最近戦士系の人ばかり相手してたから……という事は。
「もしかして、他にもトレーニングする人、いるんですか?」
「あら、二人きりの方がよかったですか」
「誰もそんな事は言ってません!」
バサンズが連れてこられたのは、森に少し入ったところにあった広場だった。
おそらく山妖精が造ったのだろう、何本もの岩灯籠が明かりを放ち、何だか祭の舞台のような雰囲気を保っていた。
そして広場では、十数人の冒険者が剣を振るい、魔法のトレーニングに勤しんでいた。その大半が女性だ。
「こんな時間なのに、ずいぶんいるんですね……」
「こんな時間だから、多いんですけどね。みんな、夜型だから」
「…………」
理由はバサンズも知っている。
彼女達はクロス・フェリーによって吸血鬼にされており、その治療の為にこの郷に滞在しているのだ。
彼女達の治療の為、現在、冒険者ギルドやクロス・フェリーの本家に当たるホルスティン家など、多くの人がこの郷を訪れている。
その事に思いをはせているバサンズ目がけて、巨大な甲冑が『飛んで』きた。
「ひあぁっ!?」
「うわぁっ!?」
「おっと、危ないですよ、タイランさん」
尻餅をついたバサンズの頭上で、スオウがその甲冑を片手で受け止めていた。
全身甲冑で相当な重量があるはずのそれを、特に苦にする様子もなく、スオウは地面に下ろした。
「す、すみません……」
恐縮するタイランのすぐ背後から、新たにもう一人小さい人物が飛んできた。
「わあぁっ!?」
「はい、ヒイロも気をつけて」
こっちははたき落とすスオウだった。
ヒイロと呼ばれた少年は、特に痛みを訴える様子もなく、すっくと立ち上がった。
直後、背後から凛とした怒声が響き渡った。
「二人とも、ボサッとしないで早く戻ってくる!」
「「は、はい」」
直立不動したタイランとヒイロは、駆け足で着物姿の青年の元に戻り、まるで魔法のように再び投げ飛ばされた。
「相変わらず、キキョウさんはすごいですね」
うん、とスオウは頷いた。
眼鏡を直しながら、バサンズは立ち上がった。
タイランとヒイロ。名前は、ノワから聞いている。
あの二人も、シルバの仲間だ。
二人の姿を脳裏に焼き付け……何となく、隣の女性に後ろめたい気持ちを覚えるバサンズだった。
中央にいるキキョウと舞うような組み手を行っているのは、タイラン達だけではない。
赤と青のドレスの女性達も、手刀と蹴りを駆使してキキョウを襲う。
「あの二人は?」
「ヴァーミィさんとセルシアさんですか? カナリーさんの使い魔ですね。彼女達の体術もなかなか侮れません。それはともかく、こちらも稽古を始めましょう」
スオウの武器は、巨大な骨剣だ。
彼女はそれを担ぐと、バサンズから10メルトほど距離を取った。
「と言われても何をすれば言いのか……」
「何でもいいから魔法を撃ってください。私の方は基本受け、もしくは回避します。魔力ポーションは結構用意してあるので、遠慮なくどうぞ」
指差した先には灯籠があり、その脇に棚が用意されていた。
そこには数十本の瓶が用意されていた。
回復ポーションに、魔力ポーションだ。
「な、なんでこんなに大量に……」
金額に換算すると、かなりの額になる。
「戦線復帰希望の娘は結構多いんですよ。ギルドのバックアップで、頂きました。さ、どうぞ」
「は、はい」
とはいえ、勝手の分からないバサンズだ。
とりあえず、加減して風系の魔法、{疾風/フザン}を唱え、杖を空にかざす。
魔力の風が周囲に渦を巻き――それが、スオウの唸りを上げる骨剣の一振りで掻き消された。
「…………」
バサンズの髪やローブも大きく、剣風に煽られた。
呆気にとられるバサンズに、さして力を振るった風もなく、スオウは再び骨剣を肩に担いだ。
「最初から、全力でお願いしますね?」
「……はい」
全力でやらないと、僕の方が死ぬ、とバサンズは思った。
たとえ魔力ポーションがあると言っても、休憩するまでに使える魔法は有限だ。
頭の中で、自分の使える魔法をまとめ、魔力の消費量や威力を計算して、最も効率のいい敵の倒し方を構築していく。
「なかなか、やりますね!」
複数の風の矢を骨剣の腹で器用に受け止め、スオウは逆に衝撃波を放った。
「こう見えても、それなりの階層には進んでましたから!」
それをバサンズの用意した大気の渦が絡め取る。
次の瞬間、衝撃波は数倍の威力になって、スオウに返ってきた。
「バサンズさんは、探索には戻らないんですか!?」
骨剣でそれを叩き潰しながら、スオウは尋ねてくる。
「う……」
バサンズは一瞬答えに詰まった。
頭の中で組み立てていた魔法の用意も、吹っ飛んでしまう。
正に、その為に自分はここにいる事を、不意に思い出してしまったのだ。
「どうしました?」
「い、いえ、その……何でもありません」
「そうですか。私のパーティーは、もう新しいメンバーを補充してしまい、私も別のパーティーを組むか、自分で設立するしか無いんですよね。バサンズさん、空いていません?」
「え?」
スオウの勧誘に、バサンズはポカンとした。
冒険者としての誘いだというのは分かっている。
が、女性から必要とされた経験など、ノワを除くとまず皆無なバサンズだった。
「まあ、魔術師以外にも、聖職者の方や盗賊も必要ですけど」
「あ、や、そ、その……」
自分の中が想像以上に混乱しているのを自覚しながら、かろうじてバサンズは声を振り絞った。
「……考えさせてください」
宿に戻ったのは夜も遅くだった。
魔力はポーションで回復している。
だが、それを抜きにしても、充実したトレーニングだった。
「……疲れた」
そのままベッドに横たわるバサンズ。
短時間でこれほど魔法を唱えた経験など、皆無だった。
しかし、天井からは非情な声が響く。
「寝るなら、仕事を終わらせてからにしろ」
「……ええ」
ロンの言葉に現実に戻ったバサンズは、荷物の中から画材を取りだした。
木炭で、今日出会ったシルバの仲間達を描いていく。その過程で気がついた動きの特徴や、武器も描き加える。
さすが絵で食べているだけあって、上手いモノだった。
一方ロンは天井の梁で身体を休めながら、さっきまでバサンズが付き合っていた夜のトレーニングを思い返していた。
「……血が滾りそうになるな、まったく」
特にキキョウの気合いとスオウの烈気に当てられ、参戦したくなる欲望を抑えこむのに苦労したロンであった。
……夜更けには、バサンズには出来ない仕事が待っている。
バサンズが眠るまで、しばらく休憩だ。
深夜の森を駆け抜け、ロンは開けた場所に出た。
その先にあるのは、小綺麗な村落だ。
村の名前はマルテンス村といい、以前ロン達が訪れた時には、もっとずっと寂れていた。
いや、正直、単なる廃村だったはずだ。
だがこの村は今や、吸血鬼化した女冒険者達の療養地として、冒険者ギルドと吸血貴族であるホルスティン家が協力して再興しようとしている最中にあるらしい。
そしてその資金の出所は、ノワ達の隠していた財産だという。
……やはり、クロスの推測は間違っていたのか?
だが、それにしてはいくら何でも、短期間で家が建ちすぎていやしないか?
不安と疑問を感じながら、ロンは気配を消しながら暗闇を選んで村に駆け近付く。
そして、建物の裏に回ると、彼の仲間の考えがやはり間違っていなかった事を確信した。
村の裏側には、何もなかった。
正確には、廃村の建物の正面に大きな板を貼り付けた、いわゆる『ハリボテ』なのだ。
ロンは無表情のまま、一人頷いた。
これで任務の一つは終了した。
残るは自分達の財産の無事の確認だが、これが難しい。
一応、クロスからは『隠形の皮膜』を借りては来てはいるモノの、果たして侵入が可能かどうか。
だが、やるしかない……と思っていると、こんな夜遅くにもかかわらず、誰かが歩いてきた。
相手は四人。
その程度の人数なら、ライカンスロープ(獣化病)の罹患者であるロンなら何とかなる。
普段なら難しいかも知れないが、今は月が出ている。
ライカンスロープは、月夜の晩に力が増すからだ。
……脅して情報を聞き出すか、と迷うロンだったが、首を振り夜空を見上げた。
煌めく星と、大きな月。
ライカンスロープに与えられる月の効果は何も、利点だけではない。
興奮しやすくもなるのだ。
……どうやら、自分の血の気が多くなっているらしい。
まずいな、と思い頭を冷やす。
今回の仕事は、絶対に自分の存在を知られてはならない。あの、フィリオとかいう学者風の壮年には驚かされたが、それ以外は完璧だったと自分では思う。
確かに、この村の住人から今情報を聞くのは容易いが、この村を再訪する事になった場合、間違いなくやりづらくなる。
気配を絶ち、耳を澄ませる。
月の輝きは、血の気だけではない。
ライカンスロープとしての感度も高まり、通り掛かる四人の会話も鋭い聴覚は的確に捉えていた。
「ネリー、状況はどうだい」
「はい、万事滞りなく進んでおります。幸い彼女達の活動時間も、我々と同じく夜となってますから、隠蔽工作には打ってつけですし」
「うん、ならいいんだ」
会話しながら歩いているのは、金髪の麗人と銀髪の美青年だ。
ロンは、自分の判断に静かに安堵した。
長い金髪の方は、吸血貴族ホルスティン家の後継者、カナリー・ホルスティン。
付き従う銀髪は、ホルスティン家の血族……宿で調べた名前は、確かネリー・ハイランドといったか。
話しているのは主にこの二人。後ろに控えている赤と青のドレスの美女達は、カナリーの従者だという話だし、無視してもいいだろう。
月夜の夜の吸血鬼二人に、その従者二名。
さすがに、襲うには相手が悪すぎる。
ノンビリと歩くカナリー達から離れないように、ハリボテの建物に隠れてロンは並走する。
「今日の鑑定は?」
「はい。七列目の三段からとなります」
「……ようやく終わりが見えてきたね」
「はい」
カナリーは深く溜め息をついた。
ノワ達の溜めていた財産は相当あり、その中でも魔法アイテムはかなり多かった。
冒険者ギルドの方でも、鑑定士は連れられてきたが、さすがに都市内のように多くの専門家を呼ぶ事は出来ず、先に調査をしていたカナリーは引き続き、鑑定の手伝いをしていたのだ。
うーん、と両腕を大きく上げて、伸びをする。
「お陰でやっと、探索に戻れるよ。こっちの都合で足止めを食らわせて、シルバには申し訳ないと思っていたんだ」
「申し訳ございません。しかしカナリー様は、ホルスティン家の当主名代としてこの場において必要な方です。どうか今しばらくは……」
深く頭を下げるネリーに、カナリーはパタパタと手を振った。
この部下は誠実なのはいいが万事がこの調子なので、時々、うんざりさせられるのだ。
「いいよ。君はやるべき事をやっている。ただ、こっちの仕事をさっさと終わらせたいだけさ。第三層にあった隠し部屋にも、まだ興味があるし」
「しかし、カナリー様もずいぶんと変わられた」
「何が」
「以前屋敷にいた頃には、土臭い探索など冗談じゃないなどとおっしゃられていた記憶がございます」
ヒクッとカナリーの頬が引きつった。
うん、確かに言った覚えがある。その時は間違いなく本音だったし、今でも若干、その思いがないでもない。
が。
「あ、あー……いや、うん、遺跡探索で興った都市でもあるし、歴史を実践で学ぶ貴重なチャンスだった訳で。それにシルバ達と組む前だって、いくつかの仕事はこなしてたよ?」
誤魔化すカナリーに、いつの間にかネリーは何やら巻物を広げていた。
「主に街中での仕事のようですね。遺跡内や洞窟と言った類はほとんど……」
「ちょっ、何で僕のミッションログを君が持っているんだ!?」
「ギルドマスターから、お預かりいたしました」
平然というネリー。
元は魔法使い兼マッパー(地図作製者)だったというギルドマスターの使う古代魔法は非常に単純で、それはつまり自分の記憶にあるモノを、紙とインクさえあれば即座に転写出来るというモノである。
その記憶力も相当で、ギルドに登録している冒険者の記録など、その転写は赤子の手を捻るようなモノなのだろう。
……ネリーの回想は続く。
「ああ、それと確かアーミゼストの学習院を選ばれたのも、単に帝国大学を嫌がっただけだったような」
「見張られてるみたいで嫌なんだよ! とにかくそれは返せ」
カナリーは、白い手を突き出した。
しかしネリーは、巻物をクルクルと巻き上げると、それを懐にしまってしまった。
「当主様の命により、これは死守させて頂きます。本家でも、カナリー様の安否はずいぶんと心配の種になっております故」
「……嘘つけ。あの放蕩親父が」
「例え女好きで博打好きで酒好きな当主様でも、カナリー様の事は案じておりますよ」
どうだか、とカナリーは吐き捨てた。
それからふと、仲間の父親が頭に浮かんだ。
「ま、リフんとこよりはマシだけどさ……」
「……ああ、あれは確かにすごいですね」
うん、と頷き合う二人だった。その後ろで、赤と青の従者まで深く頷いていた。
カナリーは、足を止めるとすぐ近くの家屋に近付いた。
気付かれたか……?
カナリーとの距離は、ハリボテを挟んで半メルトしかない。
ロンは、手の先に気を集中させ、爪を伸ばしていく。
最悪、ここで連中との戦闘となるが……。
うん、とカナリーはハリボテに手をやって、その家を見上げた。
こうして近付いてみると明らかだが、ちょっと遠目にはずいぶんと綺麗な村になったように見えるだろう。
「突貫作業にしては、悪くないね」
「被害者の中にいた草妖精の娘の図面が見事でして。それに皆、冒険者だけあって力仕事は得意と見えます」
「せっかく造ったのに、壊されるのは惜しいね」
「とはいえ元々、それを想定してのモノですからね。最低限の居住は確保されてはいるモノの、本格的に吸血鬼化の療養場所となるには、今回の問題が完全に片付けないと……という事でしたよね?」
ロンは緊張した。
今回の問題――間違いなくクロスの、ひいてはノワ達一向の問題だ。
ここは重要な事だ。
聞き逃してはならない。
「うん。ヴィクターっていう人造人間が最大のネックでねえ……」
言って、カナリーは再び歩き出した。
目的地まであともう少しだ。
「確か長時間の使用には耐えきれず、爆発の恐れがあるという?」
ネリーの問いに、カナリーは頷く。
「そ。この離れた村なら万が一爆発しても、被害はそれほど大きくならない。迷宮内だと厄介だからね。他にいけそうな頑丈な場所なんて、第三層の隠し部屋兼実験施設、ヴィクターの発見された辺りぐらいしかない。ノワ達の財産はまだここの炭坑跡に保管されているから、餌はバッチリだ。時間が経てば経つほど、この村の再興資金として消費される訳だし、ノワ達としては焦る。何とかして取り返そうとする」
この辺りの話は、シルバの考えでもある。
「実際は、まだ全然使われてませんが、と」
ノワ達の被害にあった冒険者への補填はまた別問題だとしても、この村の再興という意味ではノワの財産はほぼ、手つかずだ。
立派な建物を造ったとしても、もしヴィクターが爆発したら費やした金は無駄になってしまう。
だから今は温存しているのだ。
「そ。もっともギルド派遣の警備態勢は厳重だし、既にノワ達の事を嗅ぎつけている賞金稼ぎも、エトビ村の方に泊まり始めてるのが見かけられる。まともにやっても手は出せないだろう。おまけにギルドマスター直々の封印術だ。言っちゃ何だけど、そこいらの冒険者じゃ手は出せないよ。炭坑跡に入れる人間も今じゃ限られているしね」
「はい」
現状、炭坑跡に出入りが出来る鍵を持っているのは、ギルドマスター、ゴドー聖教の司教、ホルスティン家の当主の三名となっている。
ネリーも出入りする時は、今回のようにカナリーに随行するか、他二人の許可を得るかしかない。
「本当なら、都市の方に持って帰って大金庫にでも入れておくのが一番なんだけどね」
「それは仕方ありません。魔法アイテム関係はまだ多く、その辺は迂闊に手出しが出来ませんから」
「……うん、つい先日、それでちょっと愉快な目に遭ったしね。僕じゃないけど。っていうかこの鍵、僕が持ったままでいいのかな」
自分が留守の間は、使者であるネリーに預けるのも筋かなとは思うのだが……。
もっともそうすると、今後の計画にも支障が出て来るので、実際は預ける事は出来ない。
分かってはいたが、ネリーは首を振った。
「当然です。カナリー様はホルスティン家の名代なのですから」
「探索に戻ったら、必要なくなるんだけどなぁ」
「責任者の務めというモノでございます」
「はいはい」
ノワ達の財産は無事。
だが、出入りは厳重な上、冒険者達の待ち伏せがある可能性も高い。
……そしてこれが一番重要な事だが、クロスの見立て通り、シルバのパーティーにはギルドのセキュリティも一部甘い部分がある。
ならばやはり、この村への直接襲撃ではなく、第二の計画となる。
おそらくこれすらも罠の可能性があるが、そこを考えるのは、参謀であるクロスの務めだ。自分はただ、調べ聞いた事を、ノワ達に報告するだけだ。
ロンは気配も音もなく、その場を立ち去った。
「やれやれ」
カナリーは金髪を掻き上げ、来た道を振り返った。
「上手く、仕事が片付けばいいんだけどね」
バサンズ邸地下。
ノワが唯一入らないよう、バサンズから頭を下げられた場所は、扉の鍵がハリガネで開けられていた。
元々は貯蔵庫だったらしいそこは、小さなアトリエに改造されていた。
薄暗い部屋には、何十枚もの絵画。棚に、画材が積まれている。
「こ、これは……」
座り込み、額縁に入れられているそれを見て、ノワは青ざめた。
いつも笑ったような顔のクロス・フェリーも珍しく、厳しい表情で部屋を眺め回していた。
「……ノワさん、ここはまずい。すぐに脱出しましょう」
「う、うん……」
ノワは、フラフラと立ち上がった。
クロスは、バサンズへの言伝をメモしながら、天井に視線をやった。
「そろそろ、ロン君とバサンズさんが戻ってくる時間です。バサンズさんの報告は、ここ以外の場所で。護身用の武器もお忘れなく」
「わ、分かった」
ノワは、コクコクと頷くばかりだ。
一人で大丈夫かとクロスは少し心配になったが、いざという時のノワの胆力は相当に強い。信じる事にした。
「では、ご武運を。行きましょう、ヴィクター。キムリックさんはどうしますか」
クロスは興味深そうに絵を眺めているキムリックに視線をやった。
黒眼鏡の青年は、クロスを見ずヒラヒラと手を振った。
「あ、おかまいなく。ウチはウチで何とかしますよって」
「分かりました。戸締まりはよろしくお願いします」
鍵を開けた青年に言い、クロスはノワと共に地下室を出た。
二時間後。
アーミゼスト大通りに面した、とある喫茶店のオープンテラスで一組の冒険者が向かいあっていた。
昼下がりの通りは、市民であふれかえっている。
学者風の魔術師、バサンズは周囲を落ちつかなげに見渡した。ついさきほど、温泉村から戻ってきたばかりだ。
「あの、ノワさん、大丈夫なんでしょうか? こんな人目の多い場所で……」
一方、ノワは男装の新米冒険者風に変装している。
バサンズに比べて、落ち着いたモノだ。
「大丈夫大丈夫。むしろ、これだけ人が多いと、人一人に気を配る方が難しいって」
「はぁ」
「……というか、バサンズ君の家の周囲にも、何人か偵察がいてね」
「……っ!?」
ノワの言葉に、バサンズは目を剥いた。
「あ、バサンズ君が裏切ったとはノワ思ってないよ。ノワとバサンズ君、同じパーティーだったじゃない。そういう意味だとマークはされて当然だもん」
「そ、そうですね。あ、これ描いてきました」
バサンズが鞄から取り出した巻かれた紙を、ノワは受け取った。
広げると、重ねられた六枚の用紙に一人ずつ、冒険者の姿が描かれていた。
シルバ・ロックールのパーティーのメンバーだ。
仔猫を頭に乗せたシルバ。
訓練中のキキョウ、同じくタイランとヒイロ。
朝食の席だろうか、優雅に香茶を飲んでいるカナリー。
フィッシュサンドをもしゃもしゃ食べているリフ。
「さすがバサンズ君。大したモノだね」
「あ、あはは……数少ない取り柄ですから」
ノワの微笑みに、バサンズはすぐに真っ赤になってしまう。
一方ノワは、絵に再び視線を落とした。
「ああ、やっぱりこの子だったんだ」
朝食を食べている盗賊の絵に、頷く。
「え?」
「リフ君。ノワ達、一度会った事があるんだよ。可愛い子だったから憶えてるの」
そう、以前墜落殿の第一層で、行商人の手伝いをしていた子だ。
印象深い容姿だから、ノワも記憶していたのだ。
「はぁ。お、男の子、ですよね?」
「……そのはずだけどね。あ、こっちの子もかわいー」
ノワが次に手を止めたのは、シルバの絵だった。
「はい?」
正確には、ノワが興味を持ったのはシルバではない。その頭上に乗る白い仔猫だ。
「シルバ君と一緒に描かれてる猫ちゃん! すごく可愛い! この子欲しい!」
「ノ、ノワさん、あまり大きな声はちょっと」
周囲の客が注目する。
そう言いたげなバサンズに、ノワは我に返った。
だが、もうノワはすっかり、仔猫に夢中だ。
「とと、そうだった……むー、いいなぁ欲しいなぁ」
「あの……」
何か言いたげなバサンズに、ノワは本来の目的をようやく思い出した。
ここからはちょっと慎重にならなければならない。
「あ、そうだった。バサンズ君の採用ね」
「はい」
軽い笑みを浮かべたまま、ノワは眉を八の字に下げた。
「ごめん、ちょっと無理」
「え……」
「だってほら」
ノワは、喫茶店の壁に貼られているお尋ね者の張り紙を指差した。
そこには、ノワ達の似顔絵が貼られていた。
クロスやロンは最低限の特徴は捉えているモノのそれほど似ていなかったが、ノワの絵は実によく出来ていた。
ちなみに張り紙の大量印刷はシトラン共和国からの印刷機によるモノで、都市中に張られている。
「賞金首の似顔絵の絵って、バサンズ君、見覚えない?」
「あ……えぇっ!?」
眼鏡を直しながら凝視し、バサンズは腰を浮かせかけた。
「うん、バサンズ君の絵だよね、あれ」
「そ、そうですけど、どうしてこんな所に!? いや、僕はそんなつもりで売った事なんて……」
慌てるバサンズに嘘はない、とノワは思った。
しかしそれとこれとは別だ。
「うん、多分、バサンズ君から絵を買った人がノワだって気付いて、冒険者ギルドに転売したんじゃないかなーって思うんだけどね。ただそれでも、同じ事に気付いたクロス君とヴィクターが疑問を抱いてるの」
ノワの言葉に、ガックリとバサンズは項垂れる。
「……そ、そうですか」
ノワは両手を合わせて、申し訳なさそうに頭を下げた。
「ノワもバサンズ君は無実だって言ったんだけど、やっぱり駄目だって言われちゃって……だから、ごめんねバサンズ君」
「そ、そういう事なら……分かりました。本当に残念ですけど、諦めます」
「それに、やっぱりバサンズ君は巻き込めないよ。わざわざノワ達と一緒に、裏の世界に回る事ないって。ね?」
ふわっと笑ってみせると、バサンズは顔を真っ赤にして頭を下げた。
「はい。でも、何かあったら言って下さい。力になれる事があったら、お手伝いしますから」
ノワはバサンズとほぼ同時に席を立った。
「うん、ありがと。バサンズ君も元気でね」
「はい」
バサンズが去ったあとも、ノワはその場を去らなかった。
「ノワはんも、悪どすなぁ」
後ろからの声に、振り返る。
そこでは、キムリック・ウェルズがチョコレートパフェをつついていた。
「むぅ? キム君人聞きが悪いよ。巻き込みたくないのは本音だもん」
「さいかもしれまへんけど、似顔絵の件なんかほとんど因縁やあれへんですか。クロスはんはまだ分かりますけど、ヴィクターはんが疑問抱くとかあらしまへんよ。後ろで笑い堪えるんで、必死でしたわ」
「話に説得力を持たせる為に、ちょろっと誇張しただけだよ。さすがにちょっとバサンズ君はねー」
言いながらノワはキムリックの席に回り込み、向い側に座った。
「ま、さいですな。正体知ってまうとしゃあないどすか」
「うん」
地下室のアレを見てしまうと、さすがにノワとしてもこれまでと同じように、バサンズと接し続ける自信がなかった。
「それにしても、よう出来てますなぁこの似顔絵」
いつの間にか、キムリックはバサンズの描いた六枚の似顔絵をテーブルに広げていた。
さすが商人、手が早い。
「ねー。それも美少年美青年ばっかりでうらやましー。シルバ君は大した事ないけど」
「さいどすなぁ。キキョウ・ナツメはんに、カナリー・ホルスティンはんどすか。冒険者ギルドの中でも、ビジュアル面でかなり有名なお二人どす」
「だよねー。これだけ格好いいもんねー。この二人も欲しいなぁ……」
「お」
キムリックが、一枚の絵に動きをとめる。
「どしたの、キムさん」
「や、この仔猫はん……」
キムリックが指差したのは、シルバの似顔絵だった。
正確にはその頭上にいる仔猫である。
「可愛いよね! キムさん、動物の餌とか安く仕入れてたりしない?」
「安いのはあらしまへんけど……」
にやり、と黒眼鏡の商人は笑みを浮かべた。
「少々お高くなる、ええ餌を取り扱ってますよ?」
「えー、高いのー?」
ぶーたれるノワに、キムリックは声を潜めた。
「ここだけの話になりますがね、ノワはん。この子、霊獣どす」
「れーじゅー?」
真面目な顔で、キムリックは頷く。
「はいな。高位の精霊に近い獣でして、この剣牙虎の種はモース霊山産どす」
「高いの?」
「ものごっつ高値どす。以前買われはった錬金術師はんとは、ええ勉強させて頂きました」
「むむぅ……」
ノワは悩む。
ますます欲しくなってきた。
「それより何よりどすな。例の『龍卵』の件、ありまっしゃろ?」
「うん。ちゃんと用意しといてよ?」
突然話が変わった事に、ノワはちょっと驚いた。
「いやいや、ええ、それはもちろんですが、例のブツに必要なんは『質のええ魂』どすえ?」
「あっ」
ノワも気がついたのが分かったらしく、キムリックは眼鏡をくいと直した。
「さいです。この子で代用出来ます。三人分の召喚には充分のはずですわ」
「む、うー、可愛いのになー」
今度は別の意味で悩み始めるノワだった。
彼女の前に、キムリックは袖から出した、小さな袋を出した。
紐を解くと、中から小さな植物の実が三粒転がり出た。
「こちら、マタツアという商品となります。これを使えばこの種の霊獣には覿面どす。効果の方は以前、四匹ほどまとめて成果を上げた折紙付ですわ」
「でも、高いんでしょー?」
「はいな。それにこちらもご用意さして頂いております」
さらにキムリックが自分のリュックから出したのは、一枚のカードだった。
王冠を被り、玉座に座った女性の絵が描かれている。
「むむー」
「商品としては、お二つ合わせても『龍卵』よりはお安うなっとります。ノワはんの手持ちの資金なら、まあギリギリ言う所でしょうか。まあ、お返事はすぐにとは言いまへんよ。じっくり、お仲間とも相談して下さいな」
にっこりと笑うキムリックだった。
ほぼ同時刻。
以前使っていた貧民窟の廃屋で、クロス・フェリーはロン・タルボルトから、エトビ村での偵察の報告を受けていた。
「なるほど、お疲れ様でした」
「寝ていいか」
さして眠くもなさそうに、ロンが尋ねる。
「はい。報告はお任せ下さい。あ、でもそのバサンズさんとスオウさんの件は伏せさせて頂きますね。ご了承下さい」
ボロっちいベッドに向かおうとしたロンは、足を止めた。
「何故だ」
「……ロン君はご存じないですが、ノワさんも僕も彼を仲間に入れるのは、反対なんですよ。彼はヤバイ」
「根拠は」
「彼の家の地下室に少々。とにかくですね、この件を話すとノワさんがまた、悪い癖をもたげてしまいます。ややこしい事になるのは目に見えていますよ」
だからそこの部分は省略する事に、クロスは決めた。
これはノワの為でもある。
一時の迷いで不確定要素を入れると、あとで後悔する羽目になるからだ。
「なるほど。分かった、そこはお前に任せる。俺は強い奴と戦えるなら、それでいい」
今度こそ眠ろうと、ロンはベッドに身体を横たえた。
「ありがとうございます。何だか楽しそうですね」
目を瞑ったまま、ロンはクロスを指差した。
「キキョウ・ナツメ。アレは俺の獲物だ。手を出すな」
「了解しました」
「はぁ……」
溜め息をつきながら、バサンズは自分の屋敷に戻った。
ノワのパーティーに入れなかったのは残念だ。
だからこそ、溜め息が出る。
しかし、思ったよりもダメージが少ない事に、バサンズは安堵と共に自分に違和感を覚えていた。
何故だろうと考えながら荷物を下ろしていると、屋敷の呼び鈴が鳴った。
「……!?」
この家には手伝いの人間などいない。
バサンズは自分で、訪問者を出迎えた。
覗き窓から見えたのは、黒眼鏡の商人だった。
「バサンズはん、いらっしゃいますか?」
「あ、は、はい。貴方は確かノワさんと一緒にいた……」
「はいな。キムリック・ウェルズ。流れの商人をさせてもらっとります」
「はあ」
とりあえず、バサンズは扉を開き、キムリックを中に入れた。
そのまま玄関で話を続ける。
「何でも聞いた話によると、このノワはんの似顔絵、バサンズはんが描きはったらしいどすな」
「え、ええ」
「やあ、ウチえらい感銘受けてまいまして。実に素晴らしい絵どす。よければ、ウチにも一枚譲って頂けまへんかな思いまして。つまり、商いの話に来たんどす」
「そ、そういう事ですか。でしたら、何枚か持ってきますんで、しばらく応接間の方でお待ち頂けますか?」
「はいな。勝手は分かっとりますんで、お気遣いなく」
頭を下げながら、キムリックは応接間に向かう。
それを見送り、バサンズは地下に向かった。
地下室の鍵を開け、魔法で明かりを灯す。
地下のアトリエには、何十枚もの絵画があるが、そのテーマはすべて同じだった。
プラチナ・クロスを解散してからこれまで、絵と言えば彼女しか描いていない。
部屋の絵はすべて、ノワ・ヘイゼルの肖像画だった。
様々な角度から描かれたノワの絵はどれも精巧で、一種の執念すら感じられる。
ただ、とバサンズは思った。
何となく、これまでのような絵を描く事は難しいような気がする。いや、もう描けないだろう。
正直、ノワにはいまだに未練がある。
しかし、執着がなくなりつつあるのだ。
しばらく落ち着いたら、またエトビ村に向かおうと思う。
鬼の戦士スオウに限らず、女性というモノをもっと知りたいと思い始めていた、バサンズだった。
応接間に戻ったバサンズは、数枚の絵をテーブルに並べた。
「何枚か、用意しましたけど……どうでしょう」
キムリックは、ニコニコと絵を眺め回した。
しかし、その下にある糸目は笑っていなかった。
「さいですなぁ。出来れば、笑顔の素敵なんがええどすなぁ。なんぞ、魔力でも秘めてそうな感じのが……」
キムリックの商品に、魅了の効果を持つ不思議な絵画『女神の微笑』が入荷されるのは、それからしばらくしての事になる。