7月29日 AM09:20
カリカリカリカリ
…ペラ……ペラ
そんな音だけが聞こえる物静かな場所。外の暑さを微塵も感じさせない涼やかな空気に包まれたその場所に、俺は居た。
ここのところ、ティオレさん主催のコンサート・美沙斗さんの襲撃・テロ組織『龍』の襲撃・アンノウン襲来・フィアッセさんとの暫しの別れなど、それはもう今迄に無い程忙しかったので、忘れがちなのだが…俺も既に高校三年生。
大学に進まず就職、又はフリーター志望なら焦ることもないのだろうが、生憎と俺の場合は進学志望の受験生なのだ。
結局何が言いたいのかといえば……バイトもない今日みたいな日には少しでも時間を見つけては勉強しておかないといけない、と言うことである。
そんな訳で、俺は今…本格的な受験勉強に入る前に夏休みの課題を全て終わらせる為、海鳴市立図書館に来ていた。
第38話「衝撃」
7月29日 PM12:45―海鳴市立図書館―
「ふ~、まぁこんなものかな。」
此処に来てからずっとやっていた数学の課題をやっとこさ終わらせ、俺はぐ~っと伸びをした。
時間を確認するために腕時計を見ると、既に昼を回っている。
うわ、道理で腹が減ってる筈だよ。じゃあどうしたもんかなぁ……今からどこかに食べに行くか、それとも昼飯抜くか…うーむ。
「あぅぅ、さっぱり分からない。」
「難しすぎだよー、この課題。」
俺が、昼飯をどうしようかと迷っていると、近くの机でそんな会話が聞こえた。
「ん?」
その声の方向に眼を向けると、机に教科書とワークを広げた那美ちゃんと、その隣には同じく教科書などを机に広げて勉強している俺が見たことない女の子が居た。
頭を抱えて、「うぁぁぁ、分からないぃぃぃ!」「ここがこうで、これが………あぅ、凄い変な答えにっ!」等と言っている。
目の前に置かれたワークは、やはり夏休みの課題だろう。まぁ、見た限りでは余り捗ってはいないようだが……
少し気になったので那美ちゃんたちのところに行ってみる事にする。昼飯は…ま、一食くらい抜いても大丈夫だろ。
「こんにちは、那美ちゃん。」
「はぇ?」
後ろから、那美ちゃんの肩をトントンと叩いて挨拶する。俺の方を向いた那美ちゃんは、一瞬呆然とした後………
「せ、せせせせせ先輩!?」
俺の予想以上に驚いてくれた。うん、少しだけそういうリアクション期待して態々後ろから声をかけたのは否めないけど…そこまで予想外だっただろうか、俺が図書館にいるというのは。……だとしたら少しショックだ。
「いや、俺も近くで勉強しててさ。那美ちゃんの声が聞こえたからちょっと様子見に。」
「あ、すいません。騒がしかったですか?」
「いや?気付いたのついさっきだし、勉強してる時は声なんて聞こえなかったよ?」
まぁ、集中してて気付かなかったという可能性もあるけど……
「そうですか、良かったぁ。」
「ねぇねぇ、那美ちゃん。」
そう言って安堵の息を吐いた那美ちゃんに、隣の子が話しかけた。
「なに?」
「……誰?あの人。」
「え?あぁ、学校の先輩だよ。ほら、前に話したでしょ?」
「えーっと、あぁ!那美ちゃんの好k……もがもが」
隣の子が何か言おうとした刹那、那美ちゃんが動いた。普段のドジっ子っぷりからは考えられないような俊敏な動きでその子の口を塞いだ。すげぇ、一瞬見えなかったぞ。
「あ、あはははは。何言ってるのかなぁ?舞ちゃんったら。」
「もが…もが…」
空笑いしながら、依然として口を抑え続けている那美ちゃん。一方、口を抑えられている子はジタバタと暴れている。鼻は塞がれていないので窒息することはないが、それでも大分苦しそうだ。
「むー!むー!」
「あのー、那美ちゃん?そろそろその子離してあげたら?」
「え?あ、ゴ…ゴメン!舞ちゃん。」
俺の言葉で漸くその子がピンチなのを察したのか、口から手を離す那美ちゃん。でもって、やっとこさ開放された子はゼーハーと荒く息を吐きながら恨みがましい目で那美ちゃんを睨んだ。よほど苦しかったのか、少し涙目だ。
「ひ、酷い目にあったよ。」
「確かにやりすぎたけど…自業自得でしょ?」
「う、まぁ…そうかな。」
俺には何の事か分からないが、余程那美ちゃんにとって言われたくない事だったのだろう。まだ若干怒っているようだ。
「なぁ、那美ちゃん。こっちの子は?」
取り敢えず空気を変えるために気になっていたことを聞く。幸いな事に、那美ちゃんは直ぐにこっちを向いて質問に答えてくれた。
「あ、はい。えっと…この子は……」
「あぁ、いいよ那美ちゃん。自己紹介くらい自分でやるから。」
「そう?」
「ボクは我那覇 舞。那美と同じさざなみ寮に住んでます。ちなみに、学校は私立聖祥学園です。」
「へ~、聖祥学園って言えば有名なお嬢様学校じゃないか。」
『私立聖祥学園』と言えば、通学している娘の3割が車で通学。その為の駐車スペースや学生寮もあるという、超ブルジョア高校なのだ。スクールバスもあって、残り7割の生徒の殆どが毎朝これで通学している。制服は、余り見ることのないセーラーブレザーとグリーンのスカート。余談だが、なのはちゃん達が通っている『聖祥大学附属小学校』は、ここの系列校に当たる。
ちなみに、何故俺がここまでこの学園の事を知っているかと言うと、ここの生徒たちが翠屋の常連だからである。
「ははは、その分勉強が難しくて大変です。今も、那美ちゃんと一緒に夏休みの課題をしてたんですけど…分からないところが多くて。」
「私もです。」
「あぁ、さっきの声はそれか。」
大方の予想は付いてたが、見事にどんぴしゃだったらしい。
「んー、ちょっとゴメン。む、数学か。」
2人に断って、ワーク2つを手に取る。ザッと見たところ、那美ちゃんの方も我那覇さんの方もどちらも一応解けそうだ。
「ん、どっちも解けそうだし…教えようか?」
「え?ほ、ホントですか!?」
「お願いします!もう全然分からなくて途方に暮れてたところで……」
「ん、了解。取り敢えずヒント出して、それでも分からなかったら俺が答え教えるって方向性でいい?」
「「はい!」」
そんな2人の元気な返事を聞いて、俺は那美ちゃんと我那覇さんに数学を教え始めた。
7月29日 PM17:15―Gトレーラー―
「……凍死?」
「はい、先日見つかった変死体と同様…つい先ほど発見された死体にも、何かにさされたような痕があり、死因はいずれも凍死だそうです。」
Gトレーラー内部で、リスティとセルフィはアンノウンが関係していると思われる死体について話し合っていた。
「今の季節に凍死……か。まず有り得ないな。」
「えぇ、死んだ2人に血縁関係があることから考えても…アンノウンの仕業と考えて間違いないでしょう。」
「だな。」
「ただ、血縁関係者はこの2人だけらしくて…次に誰が襲われるのかは全く検討が付いていません。」
「そうか……。」
「……ところで、2人とも今の話ちゃんと聞いてた?」
リスティとの話が一段落したところで、セルフィは会話に参加していなかった2人の方を見た。
「ん?」
「はい?」
その視線の先には、折りたたみ式の机を広げて夏休みの課題に取り組む2人の男の姿が。
言わずもがな、高町恭也と赤星勇吾である。
「と言うか、何でGトレーラーで宿題なんてしてるの?あなた達は……」
態々折り畳み式の机なんてものまで用意して勉強している2人に、呆れを含んだ視線を向けるセルフィ。と言っても、恭也の場合は殆ど勇吾の答えを写しているだけのような状態だが。
「いや、だって何時アンノウンが来るか分からないから早めに終わらせておけってリスティさんが……」
「事実だろう?」
「まぁ、言ってる事は間違いじゃないけど……でも、せめてアンノウンに関係する報告してる時はちゃんと聞いててね?」
「あ、いや…話自体はちゃんと聞いてましたよ?」
「ホント?」
勇吾に疑いの眼差しを向けるセルフィ。無理もない、会話をしていたリスティとセルフィを一瞥もせずに、黙々と問題を解いていた人物の言葉をどうして信じる事ができようか。
「えぇ、また新しいアンノウンが出たんですよね。」
「あれ、ホントに聞いてたのね。」
「だから言ったじゃないですか。……まぁ、こっちは聞いてないでしょうけど。」
視線の先には淡々と答えを写す恭也の姿。
「おい、少しはこっちの話に耳を傾けろ。と言うか、写してばかりじゃなくて少しは自分で考えろ。」
「む、しかし分らないところは写していいと言う話だった筈だぞ。約束を違う気か?」
勇吾の言葉に、憮然と言い返す恭也。
「いや、確かに写して良いとは言ったけど…それはお前がどうしても分らない問題だけだ。」
「ふ、む…………」
勇吾の言葉に、少しばかり考える素振りを見せる恭也。そして……
「全部分らないから写してるんだが。」
……等とのたまった。
「お前……考えるのが面倒臭いだけだろ。」
「…そうとも言うな。」
「はぁ…もうそれでいいからセルフィさんの話を聞け。」
「…分かった。」
あまりにやる気のない一言に、思わず投げやりになる勇吾。
「ほら、話を戻すぞー。」
「あ、はい。」
リスティが声を掛け、漸く本筋に話を戻す。
「じゃあ…さっきまでの話の続きからするぞー。えー、種のないスイカというのはどうなんだ。という話だったな。」
訂正。全く本筋に戻っていなかった。寧ろこれでもかと言う程に脇道へ逸れまくっている。本筋のほの字も見えない。
「な・ん・の・は・な・し・を、してるんですかぁぁぁぁ!!!」
バンッバンッ
と机を叩いて怒りを露にするセルフィ。流石に堪忍袋の緒が切れた模様。
「じょ、冗談だ冗談。そんなに怒るな。」
「はぁ、はぁ。誰のせいだと……!」
「じゃ、今度こそ話を戻して…アイスの……」
「リ~ス~ティ~?」
「いや、天丼は基本だろう。」
しれっと答えるリスティ。それを聞いてセルフィは―――
(リスティに真面目さを求めても無駄。リスティに真面目さを求めても無駄。リスティに真面目さを求めても……)
―――必死に自己暗示で怒りを鎮めようとした。
案外、彼女の敵はアンノウンではなく…ストレスなのかも知れなかった。
「じゃ、今度こそ…ごほんっ。まぁ、これはアンノウンと言うか、AGITΩに関する事なんだけどね。」
「AGITΩに……?」
「あぁ、上層部の方でAGITΩを捕獲しようという動きがあったんだ。」
「えぇ?!」
「なっ!?」
「ちょっ、マジですか?」
衝撃的な事実に、動揺するリスティ以外の3人。
「まぁ、一応説得して撤回させたんだけどね。全く、何考えてるんだか…上の奴らは。」
「そもそも、何でそんな話に?」
勇吾がリスティに聞く。何度かAGITΩに助けられている身として、聞かずにはいられなった。
「ん?あぁ、何でも…私たちは後手に回りすぎてる……らしい。」
「しかしリスティさん。それは仕方のないことじゃ?」
そう聞いたのは恭也だ。実際、被害者に血縁関係があると発見した事だけでも、捜査や護衛はやりやすくなったのだ。それ以上は望むべくもない。
「そう思うだろ?だけど、上の方はそれが不満らしいんだよ。誰を狙うか分らない以上、最低一人はアンノウンに殺される。それからじゃないと私たちは動けない。何せ誰が狙われるか分らないんだからな。」
「けど…それは普通の事件にしたって同じでしょう?事件が発生する前に対処するなんて…それこそ、犯罪予告でもしてこない限り……」
セルフィがそう言う。実際、警察が事件を未然に防ぐ…なんてものは稀である。数日前のコンサートの時のように、予告があればその限りではないが…そんなケースは本当に稀少だ。普通は事件が起こってから、犯人の捜査や真相の究明を行うのである。
「正義の味方じゃあるまいし、未然に防ぐなんて出来っこないんだよ。ま、AGITΩがあいつらの存在を感じ取って現れてるのは事実だからな。警察としては正体不明の存在に遅れを取るわけにはいかないんじゃないか?」
「しかし、よく納得させられましたね。AGITΩの正体は私たちですら全く分かっていないのに……どうやったんですか?」
「簡単さ、脅したんだよ。」
その言葉を聞いた瞬間、リスティ以外の3人の顔は同時に驚愕へと染まった。
「ま、まさか…そこまでやるなんて。」
「俺たちの弱みも握られてるんだろうか。」
「い、命知らずな……」
口々にそう言ってリスティから一歩分遠ざかる。
「君らがボクの事をどう思っているのかよーく分かった。言っとくけど、脅したって言ってもそういう意味じゃないからな?」
「「「違うの?((んですか?))」」」
口を揃えてそう返され、流石に口元を引き攣らせるリスティ。
「違う!ボクはこう言ったんだ。『下手に攻撃してAGITΩに敵だと判断されるのは拙い。そんな事になったらG2とG3は破壊されてアンノウンに対抗できる唯一の装備を失うことになる』ってね。」
「ありそうな話で怖いわね。」
「だろう?そう言ったら、すぐさま案を撤回したよ。」
「まぁ確かに、そうなったら本末転倒ですからね。」
実際は余程の事が無い限りそんな事は有り得ないのだが、AGITΩの正体を知らない彼女たちからしたら無理もない反応である。
その頃…そんな風に自分のことが話題に上がっている事など、毛ほども知らないAGITΩこと凌は―――――
7月29日 PM17:38―海鳴私立図書館―
「ふおぉぉ、おわった~。」
「ま、まさか今日一日で数学どころか英語まで終わらせられるなんて……」
あれから今まで、ずっと2人に教えていたのだが…色々驚かされた。
何せ2人とも理解力が非常に高い。1を教えれば10…という程では流石に無いが、1を教えたら4くらいは理解してくれるので教えるのが大変楽だった。
しかも、自分で解ける問題は粗方解いてあったので、2教科の課題を終わらせる事が出来た。
俺も質問が無い時は自分の勉強に時間を割く事が出来たり、人に教えることで自分がどの程度理解できているのかの確認にもなったし、有意義な時間だった。
「さて、じゃあ帰るか?」
「あ、はい。」
2人と一緒に図書館を出る。
そう言えば、2人はこの後どうするんだろうか。
「2人はこの後…何か予定とかあるの?」
「いえ、ボクは特に……那美ちゃんは?」
「あ、私はこの後少し用事があります。」
と、なると…どうしようか。我那覇さんを寮まで送り届けるか…そのまま帰るか。
そんな風に俺が悩んでいると、那美ちゃんから意外な提案が。
「あの、先輩…もし御迷惑でないのなら、舞ちゃんをさざなみ寮まで送ってあげて欲しいんですけど……」
「ボク!?何言ってるの?那美ちゃん。」
「でも…今からだと相当待たないと寮まで行くバス来ないよ?」
「嘘!?うゎ、ホントだ。」
那美ちゃんの言葉に、慌てて携帯を取り出して時間を確認する我那覇さん。そして時間を確認するや否や、がっくりと肩を落として項垂れた。
「俺なら別にいいよ?この後は特に予定も無いし。」
「うぅ、それならお言葉に甘えさせて貰います。」
「了解。じゃあすぐそこにバイク停めてあるから着いて来て。」
「はーい。」
図書館の入り口から十数歩程歩いた所に停めてあったバイクの元まで行き、予備のヘルメットを取り出して我那覇さんに渡す。
我那覇さんがヘルメットをちゃんとかぶったのを確認した後で、後ろへ乗せる。
「それじゃあ那美ちゃん、また今度!」
「先に帰ってるねー、那美ちゃん。」
バイクを発進させ、那美ちゃんに別れの挨拶をしてから…バイクをさざなみ寮へと走らせた。
7月29日 PM17:55―海鳴市 八束神社―
凌と舞の乗るバイクを見送った那美は、そこから少しばかり歩いて八束神社へと来ていた。
これからの用事に、久遠の力が必要かも知れないからである。
先程那美が言った用事とは…彼女の仕事である退魔家業の事である。その仕事内容は、主にこの世に留まる霊の供養、乃至は除霊。
姉と違って戦いはからっきしである那美は、基本的に退魔よりも鎮魂の方が得意だ。ただ、それ故に霊が説得に応じずに襲い掛かってきた場合は抵抗が難しい。その為、護衛の意味もあって久遠を連れて除霊に赴くことが多い。霊的な攻撃術が苦手な那美にとっては、霊に通用する電撃を放つことの出来る久遠は良きパートナーなのだ。
「くぅん!」
「わっ。」
地面から跳躍し、そのまま那美の肩…そして頭へと飛び乗った久遠。
突然増した頭の重量に少しばかり驚きつつ、那美は久遠を連れて除霊の現場に向かう。
◆
「ここが……」
「…くぅ。」
それから数十分掛けて那美と久遠がやってきたのは、5階建ての廃ビルだった。
もう何年も経っている為か随分と荒れ果てている。
警察の協力で、ここに巣食う霊の正体は今から10年前に死んだ、このビルのオーナーであろう事が分かっていた。
感じる霊の力も然程強くなく、単純な供養で済むだろうと予想できた。
「……くぅん」
「うん、そうだね…入ろうか。」
久遠を頭から降ろし、一緒にビルの中へと入っていく。
数年来誰も入っておらず、従って電気も通っていない廃ビルの中は暗かった。今は夏であるため、この時間でも少しばかり明るいが…これが冬であれば真っ暗だった事だろう。
今はまだ大丈夫だが、除霊が終わって帰る頃には恐らくライトが必要不可欠になるだろう。予め夜に来るつもりだった為、那美の背負っているリュックの中には昼間の勉強の際に使用した教科書や課題のワークの他に、寮の管理人『槙原 耕介』から借りたゴツいライトなども入っている。
霊の気配を感じる4階を目指しながら、チラリと久遠の方を見る。
そして、ふと思った。
もし、凌が自分がこんな仕事をしていると知ったらどう思うだろうか、と。
(やっぱり驚くのかな。それとも、気味悪がるのかな。でも、久遠の事はあっさりと受け入れてたし……受け入れてくれる、かな。)
自分でも驚くほど楽観的な希望。でも、それでも先輩なら……と思ってしまうのは、自分が彼に恋焦がれているからだろうか、と少しばかり苦笑する。
そこまで考えたところで、那美は緩んだ気を引き締め直した。階段を慎重に登り、気合を入れる。
(行くよ、那美。)
自分自身に心の中でそう言って、4階へ続く階段を上りきる。
相手は霊。死んで尚無念を残して現世へと留まった哀しい存在。緩んだ顔で相手をしていいものではない。
精神を集中し、霊の相手をする状態を作る。
………霊は、ほんの数歩の距離にいた。
「グゥウウ………!」
久遠が唸って威嚇する。
その久遠を背に、那美は霊に向かって叫ぶ。
「倉持さん!ここのオーナーの倉持さんですよね!?」
「……………」
反応は返ってこなかった。無言で、ただ那美たちへ少しずつ迫ってくるだけであった。
目の前の霊は、やや活性状態にあった。しかし、ただの人に見えるほどには強い存在ではなかった。
だが、微妙だった。
霊の姿は『人型』であるだけで、細かい部分の形……つまり、『自らがこういう存在である』とその姿を決めるための自意識は、既に消え失せてしまっているようだった。
つまり、それは細かい事を思考するような意識が残っていない可能性を意味する。
那美は祈るような気持ちで言葉を続けた。
「倉持さん……もう、ここは貴方のものではないんです。貴方がここを買った時と同じように、他の人が此処の権利を買ったんです。」
「……………出テイケ。」
長い沈黙を破って放たれた一言は、完全に那美の言葉を無視したものだった。
「確かに詐欺同然でしたけど!でも、もうご遺族の方はこの件を究明して、ちゃんと和解金を受け取ってます!だから……」
「出テイケ。ココハ、ワシノ、モノダ」
聞く耳を持たないとはこの事だ。
那美はやるせなくなった。確かに霊の力自体は決して強くない。寧ろ弱い部類に入るだろう。だが、その代わりに成仏できるだけの思考能力も失われてしまっている。
破魔しなくてはならない。つまり、殺さなくてはならなくなる。
出来ればそれは避けたい。那美は袂に隠した護身刀『雪月』を意識しつつ、霊へ必死に呼びかける。
「気をしっかり持ってください!こんな、暗くて寂しい場所にずっといても…仕方ないじゃないですか!」
「出テイケ。」
霊は、その一言と共に本格的に活性化した。
存在が一気に強化され、人の目に見える悪意の塊を纏って具現化する。
それは直径数メートルに及ぶ、靄のような瘴気の塊であった。
「………!!」
那美は目を瞑った。…その心に浮かぶのは、懺悔。救ってあげられなかったという後悔だ。
討つしかない。もう、供養だけで救霊出来る段階ではなくなっている。完膚無きまでに手遅れだった。
袂に手を入れ、中から『雪月』を引き抜く。……が。
「出テイケ!!」
「っ!?」
霊力を込めようと『雪月』を握りしめた瞬間、靄が不完全に変形して那美の手目掛けて飛んできた。
手首から先が一瞬にして動かなくなる。霊に乗っ取られたのだ。
そして、霊に乗っ取られ…握力の消えた手から『雪月』が零れ落ちる。
「や……」
手首の違和感が広がっていくのを感じる。少しずつ支配権が侵食されているのだ。
既に肘の下辺りまで無感覚が忍び寄っていた。
離れなければ危ない。
そう感じた那美は、咄嗟に麻痺していない左手に霊力を集中し、右手に絡みつく霊体を叩いて追い払う。
叩かれた霊体が離れるのと同時に、自由が戻ってくる。
慌てて、先程取り落とした『雪月』を拾い上げる。
那美は掌に霊力を籠める事で何とか攻撃力を獲得しているが、それでも霊を倒すにはあまりにも力不足だ。この短刀――神咲に伝わる神刀『雪月』――こそが那美の攻撃の要であり、元来攻撃の苦手な那美が、唯一霊への『殺傷』を可能とするものだった。
だが、那美の動作は霊にとってあまりに遅かった。然程攻撃力のなかった先の一撃は、霊を少しばかり後退させるだけに留まった。その為、再攻撃を仕掛けてくるのも早く…那美が『雪月』を構えた時には、もう襲い掛かって来る直前であった。
が、その時………
「くぅーん!!」
久遠が飛び出した。
那美に迫る霊に、飛び込むようにして間に入る。
『ヌァ……?』
霊の動きが鈍る。
その瞬間、光が炸裂した。
バシュウッ!!
「あああああっ!!」
人の姿で、久遠が転げるように光から飛び出す。
そのまま雷を手に纏い、無造作に霊へと叩きつけた。
バリバリバリバリッ!!
「!?!?」
霊はそれを受けて、堪らず萎縮する。大きく広がっていた靄は、その一撃を以て一抱え程に縮んでしまった。
久遠が那美の方をじっと見る。
那美は、頷いた。
久遠は、今一度霊へと振り向き…雷を投げつけるように放射した。
「あああああああああっっ!!!」
バババババババババッ!!
電光が霊を穿つ。
霊はその一撃に直撃され、千切れ飛ぶようにして消滅した。
部屋に残ったのは優しき退魔師の少女と、雷の残滓を帯びて立っている金髪の少女。
その身から電気を放電し終わった久遠は、大きく息を吐くと那美に笑顔を向ける。
無垢な笑顔だった。
那美は、自分の手際の悪さに憤りを感じずにはいられなかった。いくら退魔が苦手とは言っても、久遠に頼ってばかりでは駄目なのに……と、自分を攻め立てる。
反省し、次に活かすことを考えながら階段を下りて行く。日は既に完全に沈みきり、ビルの中は真っ暗だった。
リュックからライトを取り出し、道を照らしながら慎重に降りる。
階段を全て降りきり、ビルを出る。その時だ。
「………ウゥウウウ!」
久遠が、闇に向かって唸った。普段の久遠からは想像もつかない程に敵意の籠った声だった。
何か居るのか、と疑問に思い…ライトを久遠の視線の先へと向ける。
ライトの光が闇夜を照らす。
シャーーーーー!!
「チッ、はぁっ!!」
照らされた闇にいたのは、二体の異形。
AGITΩとアンノウン。
人ならざる者同士の熾烈な戦いが、そこでは繰り広げられていた。
那美は、余りに突然な出来事に戸惑い…逃げ出すことも出来ず、呆然とそこに立ち尽くした。
7月29日 PM18:20―自宅―
「ごめんなさい、凌。今から近くのスーパーまで行ってお醤油買ってきてくれないかしら。」
「は?醤油?」
「そうなのよー、仕事帰りにスーパーに寄って来たんだけど…私ったらうっかりして醤油じゃなくて砂糖を買ってきちゃったの。」
我那覇さんをさざなみ寮へと送り、家に帰ってきた俺を出迎えたのは…母のそんな言葉だった。
そして、流石は母さん。何で醤油と砂糖を間違えられるんだ。
「何をどうしたら醤油と砂糖を間違えられるのか追求したいところだけど……まぁそれは置いておいて、他のもので代用できないの?」
「あら、刺身をケチャップやマヨネーズで食べるのならお母さんは別に良いわよ?」
「…………買ってくる。」
「うん、行ってらっしゃーい!」
仕方無しに、俺はもう一度バイクへと跨り…近くのスーパー目指して出発した。
◆
「うわ、もうこんな時間か。」
スーパを出て腕時計を見ると、既に家を出てから約20分が経過していた。
急いで帰ろうと、すぐにバイクに乗ってエンジンを掛ける。
本来ならそのまま帰って夕食の刺身に舌鼓を打ちたいところだったのだが……そこで思わぬ邪魔が入った。
「っ!?」
アンノウンの出現である。
「……マジか。」
さっきとは別の意味で急ぎ、アンノウンのいる場所へ進路を変える。
アンノウンは、結構すぐ近くにいた。
鋏状の針が付いた尾を頭部から伸ばして、獲物を狙っている。
それを見た俺は、周囲を見渡し…アンノウンが狙っていると思われる人を探す。
その人は直ぐに見つかった。何故ならそれは俺が見知った女の子であり、つい先程まで会っていた娘だったからだ。
(那美ちゃん!?)
久遠を連れ、目の前に建っている廃ビルに向かって歩いている。
それを、アンノウンが狙っていた。
瞬間、尾が放たれた。
那美ちゃん目掛けてまっすぐに進むアンノウンの尾。
俺はそれをみすみす見逃す。………訳も無く、バイクを加速させ…那美ちゃんとアンノウンの間、その直線上に割り込んだ。
尚も迫る尾を右手で叩き落す。
たたき落とされ、目標を失った尾は…見る見るうちに短くなり、やがてアンノウンの頭部に収まった。
ギロリ、とこっちに気が付くアンノウン。
俺も負けじとアンノウンを睨み付け、身体を戦う為の姿へと変える。
「変身ッ!!」
ポーズを取り、その言葉を紡ぐことによって…俺の身体はAGITΩのものへと変わっていく。
変身が終わり、AGITΩとなった俺は…アンノウン目掛けて疾走した。
7月29日 PM18:50―Gトレーラー―
「勇吾、恭也!アンノウンが出た!」
今まさに帰ろうとしていた2人は、その言葉で動きを止め…次の瞬間には駆け出していた。
服をインナースーツに着替え、それぞれG2とG3を装着する。
「G2・G3…出動!」
Gトレーラーを発進させ、アンノウンの元へと急行する。
そこで、衝撃的な場面に遭遇する事になろうとは…この時は、誰も想像すらしていなかった。
7月29日 PM19:05―廃ビル付近―
「はっ!」
キシャーーーッ!
AGITΩとアンノウン“スコーピオンロード…レイウルス・アクティア”は、依然として戦い続けていた。
片や斧を片手に持ち、それを振るうアンノウン。
一方のAGITΩは、フレイムフォームとなってフレイムセイバーを手に戦っている。
AGITΩとスコーピオンロードの戦いは拮抗していた。
リーチは短いが小回りの効く斧に対し、リーチは長いが小回りの効きにくい刀。
加えて、スコーピオンロードの持つ斧は…まるでブーメランのように投げても弧を描いて戻ってくるのである。
こちらが優勢になれば、そうやって斧を投げられて仕切り直される。ただ、スコーピオンロードも攻め倦ねいているのか、一向に戦いに決着がつかない。
「ふんっ!」
ギシャーー!
焦れたAGITΩは、一瞬の隙をついてアンノウンを蹴り飛ばし…フレイムセイバーの鍔の装飾を展開させた。
2本角が6本角へと変化し、刀身が熱を発する。
大気が揺らぎ、触れたものを正しく一刀両断する必殺の一撃。
その一撃を見舞うため、AGITΩは駆けた。
スコーピオンロードも、同じようにAGITΩへ向けて走りだす。
「はあぁぁぁぁ!!」
裂帛の気合を込めて、すれ違いざまに一閃。…………する筈だった。
キシャーーーーッ!!
アンノウンは健在だった。
それもその筈、AGITΩの一撃は…スコーピオンロードの身に届く前に、完全に止められていたのだから。
AGITΩがフレイムセイバーを構え、スコーピオンロードを斬ろうとした正にその時、空中から盾が出現した。
蠍の姿が描かれたその盾の名は、『冥王の盾』。そう、スコーピオンロードの武器は『冥府の斧』だけではなかったのだ。
見えない力場に阻まれ、フレイムセイバーは盾の数センチ先から1ミリたりとも動かない。この状態に危険を感じたAGITΩは、トドメを刺すことを諦め…後ろに大きく跳ぶ。
ついさっきまでAGITΩのいた場所を、スコーピオンロードの斧が薙いだ。
AGITΩは焦る。
AGITΩが決着を早く付けようとしたのは、一向に決着がつかないことに焦れたわけではない。
今も廃ビルの中に居るであろう那美の存在を気にかけていたからだ。
那美に危害が及ぶ前に倒そうと、切り札を切った。にも関わらず、スコーピオンロードは倒せなかった。
今も、決着がつかないでいる。
シャーーーーー!!
「チッ、はぁっ!!」
思わず舌打ちし、もう一度フレイムセイバーを振るう。だが、結果は同じ。見えない力場によって完全に阻まれる。
その時、一筋の光がAGITΩとスコーピオンロードを照らした。
AGITΩは、もしやと思い…その光の方を見た。
そこには……ライトを持った那美と、スコーピオンロードへ敵意を向ける久遠の姿があった。
それが、致命的な隙を生んだ。
キシャーーーーッ!!!
人並み外れた怪力による大振りな一撃。咄嗟にフレイムセイバーで受けたものの、AGITΩは大きく吹っ飛ばされる。
スコーピオンロードとAGITΩの間に、距離が開く。
スコーピオンロードは、『冥府の斧』を大きく振りかぶってAGITΩへ投擲し、那美に向かって頭部についた尾を伸ばした。
AGITΩに戦慄が走る。
恐れていた事が最悪のタイミングで起こった。
(くそっ!何て間抜けなんだ!)
自身を叱咤しながら、必死に思考する。
たった1秒にも満たない時。
その間に、AGITΩは行動を決めた。
「おぉぉぉぉ!!!」
渾身の力でフレイムセイバーを投擲し、冥府の斧にぶつける。
同時に、左手をドラゴンズアイに当て…フレイムセイバーと冥府の斧がぶつかり、地に落下する瞬間、力強くそれを叩き…ストームフォームへと形態を変える。
後はただ走るだけ。
スコーピオンロードの尾よりも速く、那美の元へ駆けつける。
速く、もっと速く。ただ貪欲に、AGITΩは速さを求める。那美を守るため、自分の大切な人を傷つけさせない為に。
「きゃっ!」
「ぐぅ!」
果たして、願いは届いた。
ただし、己の身を犠牲にする事で。
「ぐあああぁぁぁあ!!!」
AGITΩの首に尾が巻きつき、毒針が刺さる。
苦しみ、悶えるAGITΩ。
そして、スコーピオンロードはそのままAGITΩを投げ飛ばした。
「があっ!?」
廃ビルに激突し、崩れ落ちるAGITΩ。
そのまま地に倒れ伏し、AGITΩは動かなくなった
(那美side.)
「くぅん!?」
AGITΩが倒れたのを見て、久遠は一目散にそこへ駆けつけた。
私は、もう何が何だか訳が分からず…ただ呆然とAGITΩの方を見ているだけだった。AGITΩが自分を庇ってくれたのは分かる。だけど、その理由が分からなかった。AGITΩが、アンノウンを倒して人を守っているというのは、リスティさんから聞いていたが…それでも、自らの身を挺してまで守ってくれるとは思っていなかった。
けど、その疑問はすぐに明かされた。
「ぐぅっ!」
その声と同時に、AGITΩの身体が光に包まれる。
私は、あまりの眩しさに思わず目を瞑ってしまう。
そして、次に目を開けた時…私は我が目を疑った。
「え?」
呆けた声が口から溢れる。だって―――
「せん…ぱい……?」
さっきまでAGITΩがいたその場所に、先輩が倒れていたんだから。
後書き
漸く本編更新。最低でも15回くらいは展開が思うように行かず書き直しました。やり直しのたびに下がるモチベーションを何とか維持しつつ、やっとこさ書き上げました。
クオリティ低いのは勘弁してください。スランプで絶不調な現状ではこれでもマシな方なんですorz実際、書き直したヤツはこれより酷かった。
前回の本編更新からかなり間が空いてしまいましたが、これにて漸く那美編スタートです。恐らく躓きまくることでしょうが、頑張って書いていくので出来れば応援宜しくお願いします。