7月20日 PM15:30
終業式が終わってから、俺は家でリニスと一緒に昼食を食べ…適当に時間を潰した後にバイトへと赴いた。
「あ、凌くん…少しお願いしてもいい?」
「はい?何ですか?」
翠屋に着いた俺を待っていたのは、カウンターの隅でパーティ用の持ち帰りバスケットに、懇切丁寧に洋菓子をせっせと詰めていた桃子さんだった。
「翠屋デリバリーサービス♪」
「……そんなサービスが有ったんですか?」
「そ、期間限定の無料サービスなのよ。」
「無料…ですか?」
「えぇ、だってコレ…スクールの皆さんに対しての差し入れだもの。」
「あぁ、成程…そういう訳ですか。」
漸く合点がいった。損得の計算なく、こんな風に気を配れるのは実に桃子さんらしい。
「それにしても、高町じゃダメなんですか?アイツの方が俺より遥かに付き合い長いでしょう?」
「あ、恭也も美由希も先に行かせてるのよ。んー、出て行ったのは…大体20分くらい前かしら。まぁ、それもあるし……」
そう言って桃子さんは洋菓子を詰め終えたバスケットをこっちに差し出してきた。
「…これ、3つ目なの。」
「うぇ!?多すぎじゃないですか?」
「う~ん、これでも足りないかなーって思ってるくらいよ?何せソングスクールの人たち約20人分に加えて、その人達のボディーガードさん達の分も入ってるんですもの。」
「うぁ、凄い大人数になりそうですね。」
「でしょ?」
「分かりました。じゃあ、早速行ってきますね?」
「えぇ、お願いねー!」
受け取ったバスケットをバイクに積み、俺はフィアッセさん達スクールの関係者が泊まっているホテル・ベイシティへと向かった。
第36話「再会」
7月20日 PM15:50―ホテル・ベイシティ―
あっさりと引き受けてしまったが、能々考えてみれば凄いところに足を踏み入れてしまったのではないかと思う。
フィアッセさんやアイリーンさんの「仲間」……例えば、ティーニャ・カスパロフという女性は…ロシアを代表する歌手だ。
ウォン・リーファ、クレスビー・シェプリスもテレビでオペラ系の番組があれば当然のように名前や顔が見られる。その他にも、アムリタ・カムランという人もイタリアオペラで急速に頭角を表し、「新星」と呼ばれて世界を騒がせている一人だ。
そんな人達がこのホテルで一堂に介しているのだ。俺だけではなく…月村や赤星でさえ、こんなところに来たら今の俺と同じようにカチコチになってしまうに違いない。
ティオレさんが泊まっている部屋の番号をフロントで聞き、そんな事を考えながら廊下を歩く。
しばらく歩いてフィアッセさんの部屋を見つけた俺は、扉をノックし…返事を待つ。
「あ、はーい。」
「あ、フィアッセさん…凌です。桃子さんに言われて、差し入れ持ってきました。」
「あ…うん、待ってて?すぐ開けるから。」
ガチャッと、ロックが解除される。中からはフィアッセさんが現れ、部屋の中へ招き入れてくれた。
「いらっしゃい!ゴメンね?わざわざ届けてもらって……」
「いえ、明日から夏休みなんで…元気なんて有り余ってますから。」
「ふふっ、そっか。」
取り敢えずバスケットを机の上に置かせてもらい、フィアッセさんに勧められて調度品のソファーに座る。
「あら、いらっしゃい。」
「こんにちは、ティオレさん。」
部屋の奥から現れたティオレさんに軽く会釈する。ティオレさんも、こっちへやってきてソファーに腰掛けた。
「でも…もうすぐだね……」
フィアッセさんは、唐突に口を開き…そんな事を言った。もうすぐ…というのは、十中八九チャリティコンサートのことだろう。
「………………」
ティオレさんは、その言葉に敢えて答えを返さず…静かにフッと微笑んだ。
「……2人で、歌えるね…」
「……そうね…」
ティオレさんは、フィアッセさんのその言葉に笑顔を深くし…頷いた。2人から、隠しきれないコンサートへの情熱が伝わってくるようだった。初の親子共演…フィアッセさんにとってはずっと憧れていた事が現実になる日なのだ。その嬉しさは、想像や憶測などでは…けして計り知ることなどできないだろう。
コン、コン
と、その時…軽くドアがノックされた。
「…誰だろう?」
「多分、高町と美由希ちゃんじゃないですか?時間的に…そろそろ着いてる頃でしょうし……」
「あ、そっか。じゃあ開けてあげなくっちゃ。」
フィアッセさんは、そう言ってパタパタと扉まで小走りに近づいて……
「……クリステラさんのお部屋で…よろしいですね?」
「……?はい。」
……扉を開ける。
そこにいたのは高町兄妹ではなく、抜き身の小太刀を両手に携えた黒髪の女性だった。
その姿を見た瞬間…俺は立ち上がっていつでも動ける体勢になった。
「あっ………!」
小さく悲鳴を上げ、ジリジリと後ずさるフィアッセさん。その顔には、恐怖の色が浮かんでいた。
「随分と、物騒なお嬢さんね…ご用件は?」
命の危機にあるのにも関わらず…あくまで冷静にその女性に応対するティオレさん。しかし、その額には冷や汗をかいていた。
「……夜分の来訪…すいません…お願いが、あります。」
女性はゆっくりとこちらに近づきながら、静かに用件を言い始めた。
「…………」
「貴方のコンサートを…中止していただけますか。」
「…理由は……?」
「……私の、願いの為…………願いを叶えるために出された条件が、これでした。」
「私のコンサートも…私の夢なの。」
「では、申し訳ありませんが……腕ずくでも、ということになります…」
その言葉を聞いた瞬間、俺はクリステラ親子と女性の間に割り込んでいた。
「リョウ!?」
「凌くん!?」
2人の驚いた声が耳に入るのが聞こえたが、そんなものは敢えて無視する。
「……止めておいた方がいい。」
………ぴ、と彼女の手から光が走る。光は、棚の上の花瓶に触れて……。くん、と彼女が指を引くと…。
「……!!」
ごとん、と花瓶は切断された。
フィアッセさんがその光景に息を呑む。
「………ッ!!」
そして、一瞬そっちに気を取られた隙に…彼女の左手に持たれた小太刀が迫っていた。
「……ッ!」
峰での攻撃ではあったが、まともに食らえば最低でも気絶は必至…そんな一撃を躱せたのは、高町たちとやった試合のお蔭だった。高町たちの使う御神流に酷似した動き…さっき花瓶を切断したのに使った鋼糸といい、もはや疑いようも無い。最悪だ……高町たちのいないこのタイミングで、この人が来るなんて…
ティオレさんは、厳しい表情を崩さず…目の前の相手を睨みつける。
「……お嬢さん。暴力で何かを変えても、仕方ないのよ。」
「そういった問答は相手を選んでしていただこう。私はできれば穏便に済ませたいが、どうしてもというのなら、こちらにも引けない理由があるのです。娘さんが、大切なら……どうか、コンサートの開催を…考え直していただければと思います。」
「…………っっ!!」
静かな脅迫……目の前にいる俺など眼中に無いと証明するように、ティオレさんへ直接向けられた言葉の刃。ティオレさんが少なからず動揺したのが分かる。
静かに、息を吸い込む。
心を落ち着け、覚悟を決める。
俺は、有りっ丈の敵意を込めて目の前の『敵』を睨みつけた。
ここで動かなければ、俺はきっと後悔する。ティオレさんのことだ…このままここで追い詰められれば、自分の夢を諦めて娘の…フィアッセさんの命をとるに決まっている。そうなれば、あとに残るのは後悔と絶望だ。そんな思いはさせたくない。幸いにして、高町たちは今ここに向かっている…それまで凌ぎきれれば…何とかなる!
『敵』が俺を見下すように視線を向けた。
女性よりも俺の方が背は高い。だが、その威圧感は…まさに見下ろされる時のそれだ。
「……!」
ザッ。
フィアッセさん達に危害が及ばないように、徐々に前に進みながら、闘う体勢をとる。
「勝てると思ってるのか?」
「……さぁ、どうでしょうね。」
一瞬の静寂。
そして……
ジャッ!!
先に仕掛けたのは相手の方だった。
恐ろしいまでの速度で振るわれた小太刀…峰打ちとはいえ、当たり所が悪ければ死に至るそれを、俺は紙一重のところで躱し、大きく踏み込んで彼女の腹目掛けて拳を放つ。
「………!?」
命中。しかし、入りが浅かったせいで碌なダメージは与えられなかった。
相手が驚いた表情になる。
当たり前だ。さっきの攻撃は最初に俺が躱した斬撃とは速さの桁が違った。躱せる訳が無いのだ、武術も習っていない只の一般人には。まして、反撃など出来よう筈もない。
「驚いた……今のは、躱せないと踏んでいたんだが……」
あの瞬間…俺は自分の能力を発動させて、身体能力を跳ね上げていた。より鋭敏化した感覚と、強化された反射神経によって…何とか躱すのに成功したのだ。
「ハァッ、ハァ……」
とは言え、心臓に悪いのは変わらない。まるで長距離マラソンを終えた時のように心臓の鼓動は速くなっていた。
「…なるべく、殺しは……したくない。だから、防げ……」
ずしり、と空気が重くなる程の殺気。素人の俺でも分かる濃厚な『死』の気配。
ヒュンッ!!
ヒュッ!
シャッ!
振るわれる小太刀を、全て既のところで回避する。
「…はぁああああああ!!」
「………くっ!!!」
長い間合いからの、高速の突きが来る。……躱しきれない?!
全神経を次の一撃に集中させる。
「小太刀二刀御神流・裏……奥義之参」
ッ!来る!!
ザシュッ!
そう思った次の瞬間、俺は斬られていた。
「……ぐうっ!!」
「………射抜…」
肩を…掠めた……!
ぷしゃっ、と赤い飛沫が飛び散る。
危ない…咄嗟に屈んでいなければ、今のを心臓に食らっていた……
「リョウ!?」
背後から、フィアッセさんの悲痛な声が聞こえる。
「…ふむ……中々やる…だけど、それなら……今の攻防の意味は…分かるね?」
能力で底上げしていても届かない絶対的な力の差……今度は反撃のチャンスすらも、与えてもらえなかった……AGITΩになれば話は変わるのだろうが…それだけは駄目だ。その一線を越えれば、俺は俺でなくなってしまう気がする。そんな気がする。
それに、俺の役目はもう終わった。
ブチンッとドアに掛かっているチェーンが断ち切れる音がする。
ドンッ!!
「なにっ……!?」
「大丈夫かっ!?」
入ってきたのは俺の予想通り高町だった。遅れて、美由希ちゃんも入ってくる。
新たな乱入者に驚く『敵』。
しかし、すぐに元の無表情に戻り…ティオレさんに向かってこう言った。
「もう一度言いましょう。コンサートを中止してください……どうしてもやる場合は、当日にまた参上します。…ただうたを歌うことと……ご自身と、大切な娘さんの命…どちらが大切か、良く考えて決めてください。」
静かな声で『敵』は言う。
チンッと小太刀を鞘に納め…す、と……高町と美由希ちゃんの脇を通り抜けていく。
そして―――――――――――
(恭也side.)
差し入れのためのバスケットを持って、美由希と2人でホテルの廊下を歩く。
表に藤見のバイクが停めてあったから、多分あいつもかーさんに頼まれたのだろう。…もう一個作るって言ってたからな。
「…どこだっけ、ティオレさんの部屋……」
「えっと……」
瞬間、気配を感じた。
殺気。……しかも明確。意識して自分の出す気配を操るもの独特の、スマートで強烈な殺気だ。
「恭ちゃん?」
「静かに……」
バスケットを傍らの廊下に置き、目を走らせる。
そして、本能の指し示す場所に向かい、走り出す。
「え、恭ちゃん……!?」
「……!!」
扉。……番号に見覚えがある。……間違いない、ティオレさんの部屋だ。
この中に、まるで獲物を威圧するように強く殺気を放つナニカがいる。
俺は、扉を開けて中に入ろうとする。しかし……
ガッ!
「開かない…チェーンだ!」
後から追いついてきた美由希が、そう言ってチェーンに触れる。
「…どいてろ!!」
美由希が下がったのを確認してから、俺はドアに近づく。
懐に入れていた小刀を抜き、チェーンに当てる。
「………………」
御神流、徹
ビギンッ!!!
音を立てて、チェーンは断ち切られた。
俺は、扉を蹴破らんばかりの勢いで飛び込んだ。
ドンッ!!
「なにっ……!?」
ザッ!!
飛び込んだ一瞬で、その場にいる全てのとの間合いを測る。
奥にいるのは…ティオレさんにフィアッセ、そして肩から血を流した藤見…!
そして、その前で殺気を放って立っている黒髪の女性。
「大丈夫かっ!?」
俺と美由希の乱入に、彼女は少し動揺したが…それは隙とも言えないような小さなものだった。すぐさま表情を固くし、無表情になる。
「もう一度言いましょう。コンサートを中止してください……どうしてもやる場合は、当日にまた参上します。…ただうたを歌うことと……ご自身と、大切な娘さんの命…どちらが大切か、良く考えて決めてください。」
俺と美由希の脇を、彼女は通り過ぎていく。
「……っ…」
「……美由希、動くな。」
小声で美由希に指示を出す。
本能と経験が、危険を告げた。………美由希が、素手で勝てる相手じゃ…無い。美由希が少しでも動けば、彼女は一瞬で、美由希を斬り刻むだろう。
「……賢明だ。」
……だが、俺は…彼女の前に立ちふさがる。
「…………」
「……」
…………俺は、するりと手の中から鋼糸を解く。
とーさんに言われ、念のために持ってきていた一刀を鞘から引き抜く。
「やる気か?」
「…生憎、友人を傷つけられて黙っていられるような性分じゃないんで。」
「……そうか。」
……静かに、目の前の相手に呼吸を合わせる。
キィンッ!
「………っ!!」
美由希が息を呑んだのが分かった。かく言う俺も驚愕していた。彼女の放った斬撃は…俺たちが、酷く慣れ親しんだものだったから。
「ふっ!」
近くにあった灰皿を引っ掴み、投げる。
「……」
容易く、俺の放った攻撃は防がれた。
ドッ、クン!!
「!!」
……『神速』を発動させる。鼓動音が遅くなり……ずしり、と空気が重くなる。周囲から色の消えたモノクロの世界で、俺は…彼女へと駆けて行く。
ジャッ!!
ホテルの高価そうな絨毯が抉れる。
その勢いで一気に肉薄。
敵の攻撃を一撃外してから、技を叩き込むつもりで走った。が、
「………」
「!?」
特に表情も変えず、俺のそれを上回る速度で彼女は俺の間合いを殺していた。
翳した剣の間合いの内側、肩を打ち付けるように……そして、その下から走る、剣。
(……マズイ!)
咄嗟に、踏み込んだ足へ限界以上の力を込めて跳躍した。
ダン!!
『神速』の影響で、凄まじい加速で宙へと舞い上がる。
一旦身を翻して仕切り直そうとした。だが、その考えは完全に読まれていた。
その俺の動きに合わせるように身を回転させ……刀を突き刺した。
シャッ!
「…!」
時間が戻ってくる。
「っつ!!」
ドザァッ!!
俺は、傍から見れば跳ね飛ばされたような格好で、彼女との位置を入れ替えていた。
そして、その動きが止まる頃になって、肩から血が吹き出す。
……ブシュッ!!
「高町!!」
「だ、大丈夫だ……」
こんなものは掠り傷だ。だが、傷の程度よりも…位置の方が問題だった。
その傷の位置は右肩、跳ねた俺の動きを先回りする場所だった。
俺の動きを上回り、尚且つ肩をそのまま真正面から捉えた方が早いのに、ワザと掠らせた。
それは、俺に完全な格の違いを分からせる攻撃だった。
「それでは、コンサートの当日に……」
そうして、今度こそ彼女は悠然と部屋から去っていった。
(恭也side.END)
「リョウ!」
「恭ちゃん!」
美沙斗が出ていったことで、一気に緊張が緩み…凌はその場にしゃがみ込んだ。
フィアッセと美由希は、それぞれ凌と恭也を心配して近くに寄っていく。
「助かった……痛ッ!」
「大丈夫?リョウ。」
肩の痛みに顔を顰める凌。
そんな凌とは対照的に…恭也は肩の傷に構わず、先程の戦闘のことを考えていた。
「なぁ、藤見…さっきの女性の流派……分かるか?」
「『御神流・裏』…だそうだ。『射抜』を喰らったよ。正直、お前のやつを前に見てなかったら死んでたところだ。」
「そう…か。」
恭也は、その事を聞き終えると突然に立ち上がって何かを考え始めた。
静寂が部屋の中を包む。
誰も言葉を話さない。
フィアッセは命を狙われたショックと、凌が傷を負ったことで精神的に追い詰められていた。
凌は生身での初めての実戦で心身ともに疲弊していたし、斬られた傷の痛みもそれを助長していた。
美由希は、長年一緒に鍛錬を積んできた兄弟子が一太刀も浴びせられずに敗れたのが未だに信じられなかった。
ティオレもまた、厳しい表情のままだった。
そんな状態がどの位続いただろうか……唐突に何を思ったか、恭也は部屋を飛び出した。
「恭ちゃん!どこに行くの!?」
美由希の言葉も振り切り、恭也は走る。
(御神流…あの瞳……間違いない、あの人は………)
肩の痛みを気にも留めず、恭也は先程の女性を追った。
ホテルの裏手にある自然豊かな海鳴ならではの雑木林…ホテルを出た恭也はその中を暫く走り、ある場所で立ち止まる。
「………」
息も切れていたが、それで立ち止まったわけではなく…恭也の五感がここを指し示したのだ。
「………」
大きな岩の上に…月を背にして、女性が腰掛けていた。
「……美沙斗、さん」
恭也は女性の名を呼ぶ。懐かしい…その人の名を。
高町恭也と、御神美沙斗……2人は、単に同じ流派を使うというだけの浅い関係では決してなかった。
御神美沙斗は、高町士郎の妹であり、高町美由希の母でもあった。恭也にとっては叔母に当たる存在なのである。
恭也が本当にまだ小さかった頃…とても、優しくしてもらっていたのを覚えていた。
と、ここまでは士郎も美由希も知っている。しかし…恭也と美沙斗はそれより後、1週間という短い期間ではあるが共に過ごしたことがあった。士郎にも、美由希にも…誰にも語らなかったその出会い……
それは、テロによって重症を負った士郎が完全に回復を果たし…以前とほぼ変りない動きができるようになってすぐの事だった。
その頃、恭也の通っていた学校は冬休みを迎えており…恭也は士郎の許可を得て、短期間の武者修行へと出ていたところだった。筋力や強靭さを上げるだけの訓練に限界を感じていた矢先のことだっただけに、修練の方向性を変えざるを得なかったのだ。士郎自身も、師として同意するところだった為、その事に関しては比較的簡単に了承してもらえた。勿論、父親として「無茶だけはしないように…」と厳命していたが。
兎も角、その頃の恭也は…より強い相手と戦いたい。そして技の、動きの本当の意味や使い方を学びたい。そんな思いを抱いていた。
海鳴から出発して、東京からは東海道沿いに剣術道場を転々と訪ね歩き、ただただ腕を磨いた。
御神流のえげつない戦法と、当時はまだ…ほんの1秒にも満たない短い時間しか使用できなかったが、切り札である『神速』の前には実際、敵と言えるほどの強力な遣い手が中々見つからなかった。
やがて、恭也は京都で厄介になった道場でこんな噂を聞くことになる。
「近くの山の何処かに今、『鴉』という渾名の二刀流の凄まじい遣い手がいるらしい。」
暫く前から、その遣い手に試合を挑み…あっという間にズタボロに敗れる武芸者が後を絶たないらしい。
「君も二刀流の遣い手なら、何か得るモノも有るかも知れないし、行ってみてはどうか。」
「まぁ、あくまでも噂だがね」…そう後に付け足された言葉は、恭也の耳には入っていなかった。
言われてすぐ、恭也はその山を目指して歩き出していた。
そして、半刻ほどの時間を要して、その山の中へ入って行ったのだった。
2日か3日ほど、山の中をさまよい…その先で、やっと恭也は人の気配を感じた。
「…………」
果たして、その気配の正体は一人の女性だった。
泉の近くの木陰で女性は瞑想している。パッと見、服はボロボロだが…とても剣の使い手には見えなかった。
……だが、恭也にはすぐに分かった。
相手も既に恭也に気付き、殺気を放っている。
それは、紛れも無く剣士の気配だった。
「…子供か。」
まだ恭也の方を見てもおらず、声すら聞いていないというのに、女性は低い声でそう呟く。
「…………」
「帰れ。……私を倒す気で来たのだろうが、その程度の動きではどうにもならない。」
「!?」
女性は目を閉じたままだった。目を閉じたまま、恭也の動きを把握している。
「……殺気が丸分かりだ。この場所で足音も殺せないようでは、私の動きについてくることはできないよ。」
す、と音も無く立つ。
深い緑と暗い闇に包まれた、一箇所だけポッカリと日の当たる小さな泉。それだけ見ればどこまでも神秘的で、平和な光景である筈なのに……女性が立ち、目を開いたと言うそれだけで、ざわめく様に不吉な気配に変わる。
…先程までよりも強い殺気が、恭也に浴びせられる。
「……ほう。」
女性は、少し驚いたようだった。
「子供にしては良さそうな目だ。」
「………」
恭也の目は、ギラギラと輝いていた。空腹だ、というのもあったし…山の勝手が分からず、あまり眠っていないというのもある。
が、何よりも強い相手が目の前にいる。その昂揚感が恭也の目にそんな輝きを与えていた。
だが、そんな恭也を女性は冷徹な目で見続ける。
「……帰れ。もう少し強くなってから、相手を選んで戦えば…きっと君も強くなれる。街の道場か何かで今は我慢しておけ。」
「…………」
まだ恭也は口を開かない。
漆黒の服、そして漆黒の口布で顔の下半分を覆った、漆黒の髪の女性。それこそ『鴉』と呼ばれるのに相応しい姿のこの女性は、一体どれほど強いのか。自分が持つ、父から貰った二刀でそれを知りたい。そう思って、恭也は腰に差した刀のうち、左の一刀を逆手に抜く。
チャキン。
鍔元が小さく鳴る。刃は落としてあるが、それでもその気になれば人も殺せる凶器だ。
『鴉』はそれを見て、目つきを険しくした。
「一つだけ、教えておこう。鯉口を切るということは、死の覚悟のあるものが許される行為だ。殺人をする者が、やる行為だ。」
「………」
「今までどうだったのか知らないが…私は君に手加減をする謂れはない。向かってくれば、死ぬ。その歳で、死体にも罪人にもなることはないだろう。」
「………」
恭也は、少しだけハッとした気分になった。
実戦剣を身上にする剣士は、真剣で戦うことが当然だと思っていたからだ。勝つ、負けるで済むものと…心のどこかで思っていた節がある。いくら武芸者といえども、誰も罪人になる気はないのだから。
だが、恭也の目の前にいるこの女性は違う。襲い掛かってくるのなら、殺すことも厭わない、そんな人間だ。
「………」
だが、まだ勢いで人生を生きている恭也にとっては、その意味の重さよりも…自分の勢いの方が勝っていた。
ザッ、と足を引く。
半身で、足場を確保する。深く構えて足に力を溜める。
『神速』
まだ子供の身で筋力は足りないながらも、それに見合う体重の軽さがある。これさえ使えば、例えこの女性がどんな遣い手だろうと…勝てる筈。そう、確信していた。
ドックン……!
鼓動の音を聞きながら、目を開く。
狙いは一筋、女性の腹。峰打ちで一撃を加えて、勝つ。
そう決めて、女性目掛けてダッシュした。
ザッ……!!
女性は恭也に反応していない。
いや、反応のしようがない。この速度は、見えていない筈だ。そう思いながらも、恭也はモノクロの世界の中で、身体を揺らしながら的を絞らせないジグザグの走行を行う。
だが、それでも…それだけの事をしていても、恭也の考えは甘かった。【反応していない】と判断した、それ自体が罠だったのだ。
突然、恭也の眼前に出現する黒い鞘。
「なっ……!?」
見えていなかったのは恭也の方だ。だから、防ぐことも、避けることも出来なかった。
ドゴォッッ!!
「がはぁっ!?」
……ドサッ。
時間の流れが正常になり、世界に色が戻ってくる。恭也は完全に吹っ飛ばされている自分が信じられなかった。
『鴉』は元いた位置から一歩も動いていない。
だが、おもむろに突き出した鞘付きの刀は、間違いなくこの女性の手に握られていた。
(『神速』が……破られた!?)
常人には捉えるどころか、まず見ることさえも出来ない圧倒的な超加速。恭也の常識では、目の前に立つ華奢にすら見える女性がいとも簡単に破れるようなモノではないはずだった。
「……ほう。目だけ、という訳でもないのか。」
ゆっくりと剣を下ろし、女性は倒れ伏した恭也を見下ろす。
「だが、技も何もなしに速く動くだけか?それだけで剣士を気取っていたのか?」
「くっ……」
技はある。ちゃんと、恭也は父から教えられている。ただ、油断していただけだ。そう思い、立とうとしたが…膝が立ってくれない。先程の鳩尾への一撃が思いの外効いていた。
「私が億劫がらずに剣を抜いていたら、君の腹には穴が開いている。」
「………」
「油断した…などと馬鹿な言い訳はするなよ?君はその判断で、今死んだのだから。」
「………」
考えを見透かされている。……若く見えるが、女性の強さは間違いなく本物だった。
「………」
「………」
『鴉』は恭也の目を見下ろした。
恭也は負けずに女性を見返す。
「気」でまで、負けるものか。……それは、意地だった。恭也の若く青い「負けたくない」という単純な意地が、そうして瞳に力を与えていた。
「………」
「………」
数秒…いや、もしかしたら数分…あるいは数時間。
瞳と瞳がぶつかり合う。
互いの言葉よりも強く、はっきりと…お互いの「気」を潰し合う。
―――死にたいのか。
(強くなりたいだけだ)
―――何かを殺したいのか。
(誰にも負けたくない)
―――そこまでして、何を求める。
(強くなくちゃ、何も守れない)
―――殺してでも手に入れたいものがあるのか。
(何があっても、守らなきゃいけないものがある)
―――君は。……君はそんなに真っ直ぐなのに。そんなにまで、ひたむきに、こんな殺しの力が羨ましいのか。
(それでも、守り通したいものがある)
口から出る言葉よりも遥かに雄弁に。似たもの同士だけが出来る心のぶつかり合いを、二人は瞳で行う。
ややあって、『鴉』は小さく目を伏せた。数瞬後、女性はポツリと小さな声で恭也に尋ねる。
「……名は?」
「…高町、恭也。」
漸く膝が立つようになる。恭也はゆっくり立ち上がりながら、ハッキリと名乗る。
「小太刀二刀御神流、高町恭也です。」
ちら、と恭也を一瞥してから、女性は背を向けた。
「『鴉』と、呼ばれている。……どうとでも好きに呼べ。」
そうして、『鴉』と呼ばれる女性と恭也の奇妙な共同生活が始まった。
山の中では碌な食べ物が無い。だが、『鴉』はさしたる苦労もせずに川で魚をとっては食い、山菜をどこからか見つけてきては、恭也に無言で残していった。
恭也は恭也で、『鴉』の後を追っては不意に突きかかり、何度も何度も叩き伏せられる。只それを繰り返した。
言葉なんてものは滅多に交わさない。語らうようなことはお互いに殆ど無いのだから。
だが、恭也は時々…あることを不思議に思った。恭也の剣とタイプは違うものの、『鴉』の遣う技はどれも自身が教わった御神の剣と似通っていた。
一瞬、一撃しか相手をしてもらえないほどに剣士としての技量に差があるので、ハッキリとは分からないのだが、恭也が士郎にみっちりと叩き込まれた基本が、『鴉』の剣と酷似しているように感じたのだ。
「せいっ……!!」
ドンッ!!
「……ふっ!」
ドガッ!!
…また、叩きつけられた。聞いた噂では『鴉』は二刀流と聞いていたが、今、恭也と行動を共にしている『鴉』は、恭也の前では何故か一刀しか携行していなかった。
だが、彼女の刀の扱いは明らかに二刀を前提とした動きだった。一撃目を外せば、すぐさま次の二撃目に繋げられるようになっている。いくら『鴉』との実力に雲泥の差がある恭也でも、その位は分かる。
「……『鴉』さん…」
むっくりと起き上がりつつ、恭也は初めて会ったとき以来久しぶりに『鴉』に声を掛ける。
「…………」
ぴた、と止まる『鴉』。振り向きはしないが、話の続きを待っているのだ。
「…その剣は、何という剣ですか?」
「この剣か。」
『鴉』はそう言って、手に持っている刀を恭也に見せる。
「いえ……流派です。」
フルフルと首を振り、そう返す恭也。もしかしたら御神流と近しい流派なのかもしれない。純粋にそう思っての質問だった。
他の御神流の遣い手は全員死んだと…恭也は士郎に聞かされていた。だが、似たような流派が無いと聞いた覚えはなかった。
……『鴉』は少しだけ迷ったような間を持ち、そして、いつもと同じくぶっきらぼうに……「我流だ。この剣に名前は無い。」と、呟いて…いつものように森の中へと消えていった。
夜の泉に月の光が差し込んでいる。
その泉で、『鴉』はその裸身を冷水に晒していた。
「…………」
水の湧く音。
風にざわめく木々の音。
金色に輝く月の光に照らされ、引き締まった靭やかな肉体が淡く光る。
『鴉』は満月を見上げながら悩んでいた。
一週間。恭也が『鴉』と出会ってから、既に一週間が経過していた。
『鴉』は思う。恭也は強い、と。正確には、強くなれる素養を持っているという意味だが。
強靭で年の割には充分以上に鍛え抜かれた肉体、確固たる信念、そして生まれ持っての天賦の才。このまま成長を続ければ、もしかすれば自分をも凌ぐ剣士になれるかも知れない。だが、同時に強くなってはいけないとも思う。
こんな剣で、こんな…人を殺すだけしかできない剣で。御神流で強くなってはいけないと…そう思う。
『鴉』が考える御神の剣とは、殺すことと殺されることしか出来ない呪われた剣であった。そんな剣をいくら極めても、決して幸せにはなれない。碌な死に方もしないだろう。殺して、壊すことしか出来ない剣に、何かを守る事なんて出来る筈が無い。寧ろ…それとは逆に、大切なものまで壊してしまうだけだ。
(……止めよう。)
『鴉』は依然として満月を見上げながら決意する。
たとえ恨まれても構わない。せめて、あの少年はそんな死に方をさせてはいけない…と。
「…………」
ジャバ……ッ。
月を見上げていた目を伏せ、泉から上がる。
裸身に薄汚れた衣服を身につけて、口を覆う布を巻きつけて……しかし、思い直してそれは外す。
「……これでいい。」
静かにそう呟き、二刀を掴んで獣道へと入っていく。
月の光に照らされて淡く光っていた鴉は、木々の影に隠れて漆黒へと染まっていく。
一方その頃、恭也は焚き火を焚いていた。
さっき自力で捕った魚を焼くためだ。ちょっとは川魚を捕まえるのにも慣れてきて、いつもより少し多めの夕食が嬉しく感じる。
カサッ。
……ふと目を上げると、奥の森から微かな足音を立てて、『鴉』がやってくるのが分かった。
「…恭也くん。」
「え……」
初めて、恭也は名前を呼ばれた。
しかも、『鴉』はいつも顔を半分隠している口布をつけていなかった。
漠然と、いつもと違う…という違和感が恭也の中に広がっていく。同時に、言い知れぬ不安も。
「なんですか……?」
「……君は、何故御神の剣を遣う。」
「………」
「こんな剣では誰も幸せにはできない。こんな平和な世の中で、こんな殺しの技を磨くなんてバカげている。」
「……!」
恭也は立ち上がる。
その言葉に怒った訳ではなかった。尋常じゃない、『鴉』の壮絶な眼光が、恭也の神経を半ば強制的に戦闘状態にまで引っ張り上げたのだ。間違っても座って火を眺めていられる状態ではない事を否応なしに悟る。
「こんな剣は捨てろ。悲惨な死に方をしたくなければ…」
「……いいえ。」
恭也は、傍らに置いておいた二刀を握り締めた。
「俺の父から、受け継いだ技です。戦い以外の何の役にも立たない剣だとは、分かっている…でも、俺の父は、これで大切なものを立派に守り抜いたんです!」
「そして、死に掛けた。」
「……!」
「私はそんな目にあって欲しくないんだよ、君に……」
「え……」
女性は、『鴉』は、泣きそうな顔をしていた。
「……君に出来る最後の教えだ。君の仮初の師でなく、美由希の母、君の叔母として…」
腰の後ろに差した二刀のうち、一刀を引き抜く。
その刀を見た瞬間、全身を射抜くような衝撃が恭也を襲った。
その刀には、銘が打ってあった。
『龍鱗』と。
「それは……」
「覚えているだろう?」
忘れるわけがない。御神流を遣う者にとって、その銘の意味を知らないわけがない。
御神流正統の証である宝刀、『龍鱗』。
それは、御神家断絶の時に爆発とともに紛失したはずの剣。
そしてそれを見た瞬間、恭也の脳裏に古い昔の記憶がフラッシュバックする。
その昔、白い洗濯物を干しながら、陽光の下で笑っていた綺麗で優しい女性の姿。
「美沙斗…おば、さん……?」
「……………」
恭也の目の前に立っている女性の目は、嘗てのそれとは似ても似つかぬ程に暗く壮絶で、薄い記憶の中で結び付かなかったけれど…その女性は間違いなく、恭也が幼い頃に少しだけ会った自分の叔母…御神美沙斗だった。
「あの事件のせいで、私は全てを失った。……そして知った。この剣が、こんな殺しの技が、みんなを死に追いやったんだって。」
「そんな……」
御神と不破の一族を爆弾テロで壊滅に追いやった“非合法テロ組織『龍』”その事件が起こったとき、美沙斗は美由希と共に病院にいた。
そして、何もできない内に親族も、最愛の夫も失ってしまった。それが、今も彼女の人生に影を落とし続けている。
「誰も殺さなければ誰も死なないで済んだんだ。こんな、剣さえなければ……」
「違う!!」
恭也は叫んだ。
心からの叫びだった。
父から貰った無銘の刀を握り締め、思いを絞りだす。
「……父さんはフィアッセを、大事なものを守りきったんだ……守り切る力があったから、守りきれたんだ!殺しだけの技なんかじゃない、絶対に!!」
「…………」
美沙斗は、龍鱗を握る手をだらりと下げた。
「もう一度言う。こんな剣は、もうやめろ。こんな呪われた黒い剣は……」
「いやです!!」
「どうしてもと言うのなら…私もどうしても止めなければならない。」
「………!!」
一族を殺された悲しみの記憶。
愛する人を失った虚無感。
その事実が、美沙斗の中で…御神流を忌まわしい呪いの剣としてしまったのかも知れない。
「悪く、思うな。」
美沙斗は剣を深く引く。
「殺しなどに関わるのは…もう、私だけでたくさんだ!!」
「!!」
ドンッ!!
恭也と美沙斗が同時に『神速』を発動させ、白黒の…色のない世界に突入する。
だが、完成された御神の剣士である美沙斗のスピードは、『神速』の領域では尚更恭也には及ぶべくも無いものだ。
一瞬で、己との反応力の差を見せつけられる。
恭也がいくらも動かぬうちに、空気を吸って閃光のように鋭い突きが伸びてくる。
ドギャッ!
「かふっ……!」
ド、サッ……。
美沙斗は、左で逆手に持った刀の柄の先端…頭を恭也の鳩尾に強く叩きつけた。しかも、『徹』を使用して…である。衝撃がダイレクトに肉体へ伝わる。その破壊力は凄まじいものであった。
そして、右の刀を恭也に突きつける。
「……っ!!」
恭也はそれでも立ち上がろうと藻掻く。碌に呼吸もままならず、目の前に刀が突きつけられているのにも関わらず…だ。
本来ならば、喰らった瞬間に意識を落としているのが普通である。そんな一撃を喰らって、まだ恭也がこうして意識を保っていられるのは、自身が信じた「守り抜く」父の御神流を、否定させたくないという…その一念に限られていた。
だがしかし、恭也はその後まもなく完全に意識を失い、次に目が覚めた時…そこに美沙斗の姿はなかった。恭也は麓の病院に運ばれていて、傍には刀身を折られた自分の刀が残されていた。
鞘の中に…簡素な手紙が挟まっていた。
二度と鯉口を切るな。人に刃を向けるな。殺人剣は君には似合わない。せめて、美由希と兄さんと君だけでも幸せに。こんな血生臭い世界に関わらないで生きてくれ。 鴉
~回想~END
「……美沙斗、さん。」
「………覚えてたか…」
「……えぇ。」
岩の上から恭也を見下ろすその瞳に、先程までの殺気はなかった。
ただ悲しく、やるせない表情をしているだけだ。
「……恭也くん」
「………」
「きみは、諦めなかったのか。」
「はい。」
美沙斗は刀を抜き、チキ、と月の光に照らして見せる。
……『龍鱗』。
御神流正統の証は、柄が固まった血で汚れていた。
「君は、それでも殺人剣を遣う悪鬼羅刹となることを選んだのか。」
夜の薄闇の中で、美沙斗はそう言って哀しげに目を細める。
「違う!」
恭也は叫ぶ。
あの時と同じように。
あの時叫べなかった言葉。
あの時言おうとして、自分の未熟さゆえに伝えられなかった言葉。
あの時以上の気持ちを込めて叫ぶ。
「俺の、俺たちの……父さんが教えてくれた御神流は、違う!あなたが思っているような哀しい剣なんかじゃない!」
「所詮は殺人術だ。…これが、正しい使い方だ。」
自嘲気味に、美沙斗は剣を傾け…薄く笑う。
「……違う。誰かを守るため…誰かを悲しみや痛みから守る、父さんから教えられた御神流は…俺の御神流は、その為の力です!」
「戯言だな。」
恭也の言葉を即断し、美沙斗は鋭い目で恭也を見下ろした。
「守るためにあっても、守れなければ何の意味もない。現に……君は私から、あの親子を今守れるか?部屋にいたあの少年が時間稼ぎをしていなければ、あの親子はもうこの世にいなかったかも知れないんだぞ?」
「っ……」
冷たい目。以前、恭也といた時よりも更に冷たく、哀しい目。
「あなたは、何のために御神の剣を遣うんですか?」
「さぁな……いや、そうだな…こう言おうか。」
自嘲するような調子で、美沙斗は恭也に告げる。
「私の全てを奪った連中を根絶やしにしたいだけさ。欲しいものなんて他には何も無い。」
「!……復讐のために、フィアッセやティオレさんを!?」
「そうだ。……これが終われば、あの連中の手掛かりが掴める。そうすれば、やっと…生き残ってしまった私の、役目が果たせる。」
そう言った美沙斗の目は壮絶だった。
死
そのたった一文字。……生きることを、欠片も見ていない。
「そんな事……」
「そんな事じゃないさ。ティオレ・クリステラが夢とか言っていたが、それなら私の夢はそれだと言ってもいい。私の愛する人、大好きだったもの…全てを奪っていった連中を潰すのが私の夢だ。何かおかしいか?」
そう言った美沙斗の目は、自分を修羅だと言い聞かせ、修羅になっている者の目だった。元が優しかった彼女は、そうでも思わないと生きていられなかったのだろう。
「相反するなら強い者の夢が残る。そういうことだ。」
「でも、それじゃあ同じじゃないですか!あなたの大事なものを奪った連中と、同じことをしているだけじゃないですか。」
「そうさ。」
美沙斗は恭也から目を逸らす。……口から出た言葉とは裏腹に。
「君も、無くしてみれば分かる。……手段なんかどうでもいい。そんなものは些細なものだと、憎くて憎くて…何をしてでも殺してやりたいと思う気持ちが。」
「………」
美沙斗の言葉は間違っている。だが、それは確かに…理屈で分かるものではないのかも知れない。彼女の絶望を、悲しみを、憎しみを、後悔を…それらを知らない者がいくら言葉を紡いでも、覆せないのかも知れない。恭也はそう思った。
す、と美沙斗が岩から立ち上がった。
「次は、あの時のような軽い仕打ちでは済まない。……君も、みんなで生き残りたいのなら、ティオレ・クリステラを説得することだ。」
そして、美沙斗は身を翻し、その場から去っていった。
7月20日 PM16:30―ティオレの部屋―
「……やっぱり、中止した方がいいのかしら。」
高町が部屋を出て行ってから暫くして、安楽椅子に座り、うつむいていたティオレさんが、ポツリとそんな一言を零した。
素人目に見ても分かったのだろう。あの人の強さが。高町ですらも勝てなかった彼の叔母、御神美沙斗さん。俺だと、勝てる気がしないどころか、次に対峙して生き残る自信すらもない。
「私だけなら、別にいいけれど……スクールの娘たちや、フィアッセを危険な目に遭わせては、元も子もないものね。」
「いえ。」
それが分かっていて尚、それでも俺は否定の言葉を口にしていた。
この前、俺に自分の身体のことを話してくれたティオレさんの姿が脳裏に映る。
その時に決めた。俺の全てを懸けてコンサートを守ろうと。それに、それすら達成出来なくて、アンノウンから人々を救うことなんて出来やしないのだから。
「まだ、諦めないでください。」
「でも……」
「きっと、高町も同じことを言うと思います。だから、諦めないでください。」
そして、数分後…戻ってきた高町は、やはり俺の言ったことに賛成した。
((絶対に、守り通す!))
俺たちは互いに同じ思いを抱きながら、固く決意した。
7月20日 PM17:15
(恭也side.)
「……本気、なんだな?」
「あぁ、美沙斗さんとは…俺が戦う。」
あの後、ホテルから家に戻った俺は、とーさんにホテルであったことを話した。
そして、ある技を習得するためのサポートを願い出た。
「小太刀二刀御神流、奥義之極み『閃』……俺でもこの領域には到達出来ていない。しかもコンサートまでは後5日だ。それでもやるのか?」
「『閃』じゃないと、美沙斗さんは倒せない。5日間を只の鍛錬に費やしても、あの人には勝てない。」
「……分かった。だが、護衛には俺も加わる。」
「なっ!?でも、とーさんは現役引退しただろう!」
「現役引退しても、俺はお前と美由希の師で、御神の剣士だ。まだまだ遅れはとらん。」
「けど……かーさんが……」
「分かってる。心配掛けることになるが…今回だけは分かって貰うさ。」
そう言って、とーさんは自分の手元に置いていた自分の愛刀『八景』を、俺に差し出してきた。
「とーさん……?」
「免許皆伝の時になったら渡そうと思っていた。受け取れ。」
「免許皆伝って…俺は、まだ……」
言葉の意味が分かりかね、俺はそれを受け取ることが出来ない。
「『閃』を習得すればもう免許皆伝だ。」
「だから、俺は……」
そう反論しようとした俺の言葉を遮り、とーさんは言った。
「だから、必ず『閃』をモノにしろ。それで守り通せ。」
「……!あぁ、分かった。」
俺は、『八景』を受け取り、立ち上がる。
――タイムリミットまであと5日――
それまでに、なんとしても『閃』を体得するために。
(恭也side.END)
後書き
これだけ早く更新できたのはいつ以来だろうか。今回もAGITΩ要素皆無でそっち方面を期待してくださっている方には心苦しい限りです。
さて、今回は恭也が主人公。アンノウンが出てこないで尚且つ対人戦ともなれば凌はあまり出張れないですしね。
あと、感想で言われていた、凌はAGITΩに変身して人間と戦うのか…という問題に関しては、生身のまま戦う方向性で行きたいと思います。AGITΩV.S.人間とかあまり見たくない構図ですしね。