夜が明けたばかり……まだ朝もやが残る時間帯だった。
聖堂は朝が早いが、それでも常に比べても更に早かった。
「おはようございます、イシュラさん」
ルドクの明るい声が響く。
「おう。おはよ……なんだ、おまえも出立か?」
「はい。……あの、途中までご一緒させていただいてよろしいですか?」
「あー、それは姫さんに聞かねえとオレの一存では……ちょっと、待ってろ、今、来るから」
リド司祭とユースタ助祭に囲まれたリースレイがやってくる。
「え、あ、お……な、なんで……?」
ルドクは目を丸くして、法衣姿のリースレイを見た。
聖職者だけが着用できるデザインの優美な外套姿……胸元には丁寧な細工のされた銀の十字架がさがっている。
(よく、こんな小さなサイズのものが昨日の今日で準備できたよな)
外套の下の法衣は淡いグレイ。仕立てのよさがわかる美しい仕上がりだった。それも、中古品というわけではなく、まっさらの新品だ。
この他にも、聖職者の正装にあたる純白の聖衣一式、それから年代物の古い聖書を一冊がイシュラの背負う葛篭<つづら>に入っている。すべてが、リースレイの教父となったリド司祭の心尽くしだった。
ティシリア聖教における『教父』とは、教団内における保護者であり、かつまた、師であり、後援者である。これが女性であると『教母』と呼ばれる。
教父ないし教母との絆は強いもので、生涯に渡り固く結ばれるのだという。血族の絆を捨てる聖職者にとって、教父や教母との関係こそがそれ以上の……強い絆になるのだ。
「あー、いろいろあって、姫さんが聖職者に……」
「いろいろ……」
「そう、いろいろ」
イシュラはにやりと笑い、ルドクも笑った。
きっといろいろの内容をイシュラが知らないことを察したのだろう。
ルドクはそのままリースレイに向き直る。
「お祝いを申し上げます、ファナ」
両手を組み合わせ、軽く目礼。信徒が聖職者に対する時の礼だ。
「ありがとう」
ファナとは、洗礼後、未だ叙階していない聖職者への敬称だ。叙階した聖職者は武官であれば腕章を、文官であれば肩衣でその階位がわかるようになっている。それがないので叙階していないということがわかるのだ。
さすがにフェルシア国民だけあって、ルドクは聖職者に対する礼儀や決まりごとををちゃんと知っている。
フェルシア王国はティシリア聖教を国教としており、布教活動も熱心に行われている国だ。隣国ということもあってか、高位聖職者を輩出することも多い。ルドクのように特に熱心ではないという信者だって、十字架や聖書を必ず持っている。
フェルシア王国に生まれた子供に対する一番最初の贈り物は金ないし銀製の十字架で、富裕な家では、毎年それを一回り大きなものに交換してゆく。ルドクのそれはごく小さなもの。18歳まで父親が毎年大きくしてくれた十字架は、その父親の葬式と墓の費用となった。今もっている銀の十字架は、自分で買ったものだ。常に身につけている。
「ところで、新しいお名前は、何と言われるんですか?」
「……シェスティリエだ」
やや含みがありげな様子でリースレイが口を開く。その新しい名を聞いた瞬間、ルドクの目がきらりと輝いた。
聖職者の洗礼を受けた……つまり、聖職の誓いを立てた者は、それまで所有していたすべてを神に捧げる。
象徴的に『名を捧げる』と表現されることが多いが、実際には、名……家名とそれに伴う身分、その家名につながっていた血族との関わりのすべて、さらには己自身といってもいい個人名とその名が所有していたものすべてを神に捧げる。
そして、代わりに神より新たな名を与えられるとされる……それこそが、神名だ。
神名……それは、魂に刻まれている呪だ。聖教の聖職者は、その神名を得る事で、法術を操る事ができるようになるのだ。
「素晴らしいお名前ですね!!」
ルドクの言葉には不思議な熱がある。
「……そうか?シェスとよぶがいい」
「天空の歌姫のお名前です」
「まあ、そうだな。……わるくはない」
リースレイ……いや、シェスティリエは、いつものそっけなさだった。やや憮然としている理由を、イシュラだけが知っている。
聖職者になることで一番大きな変化は名が変わることなのだが、新しい名であるはずなのに、教父であるリド司祭が彼女に告げた新たな名……シェスティリエという名は、かつての彼女の名そのものだった。
(リドじいのちからは、ほんとうにめずらしい)
魔力を感じる力があると言っていたが、それはすなわち、魔力の源である真名を感じるという事、なるほど読み解く力にも優れているはずだ。
(かこのなを、よみとるとは……)
だが、わかったことがある。彼女の魂には、ちゃんと過去の己が刻印されているということだ。
それは、今ここにいる彼女と過去の彼女がつながっているということだ。
(まあ、まったくなじみのないなよりはよかったかもしれない……)
リースレイと呼ばれようが、シェスティリエと呼ばれようが、彼女にはまったく変わりがない。
いや、かつての名で呼ばれることは、何だか少しむずがゆかった。
だが、彼女は良かったかもしれないと思ったことをかなり後悔することになる。
「わるくはない、じゃないですよ!素晴らしいお名前です!」
シェスティリエは何かに猛烈に感動しているルドクを不思議なものを見るような眼差しで見た。ルドクのその熱意が何によるものなのかまったくわからない。
「そっか、シェスティリエって天空の歌姫の名か……」
「そうですよ、イシュラさん。シェスティリエ=ヴィヴェリア=ディゼル=アズール……シェスティリエというのが元々のお名前で、ヴィヴェリアというのが魔術師としてのお名前、ディゼルが光の竜王と交換した名で、アズールが闇の竜王と交換したお名前です」
「くっわしいなー」
イシュラはへえ、と感心する。
天空の歌姫はイシュラだって知っている。彼女ののこしたさまざまな逸話は、吟遊詩人達に歌い継がれ、女性の間では、彼女が竜王達と出会う『二頭の竜王の歌』が、男性の間では伝説の天空の城を冒険する『ノーラッドの天空城の歌』が、今でも一、二を争う人気なのだ。
伝説に残る魔導師は何人かいるが、天空の歌姫……あるいは、光と闇の導き手、世界の守護者などと複数の異名で呼ばれるほどの大魔導師は他にいない。
「ファンなんです!」
その瞬間のシェスティリエの心情は、50%の羞恥と39%の絶望、残る10%強が悲しみと哀しみとで構成され、喜びにも似た何かは1%にはるかに満たなかった。
「天空の歌姫は、光と闇を従えし、世界の守護者ですよ!あの『大崩壊』の時に、一人でそれを食い止めた大魔導師なんですよ!そのお名前なんですから、最高に良いお名前ですよ!」
ルドクは、シェスティリエの手を握り、力説する。
「そ、そうか……」
シェスティリエは後ずさった。ルドクのその勢いがこわい。
(……どうして、そのなにしたんだ、リドじい)
他にも浮かんでくる名はあったはずだ、と自分の名がちょっとだけ疎ましく思える。
「はは、すごいぞ、ルドク。姫さんが気圧されてら……」
イシュラが、心底おかしいという顔でばしばしとルドクの肩を叩いた。
「あ、すいません。つい……」
はにかんで手を離すルドクに、シェスティリエはかろうじて、ひきつった笑いを返す。
(……いったい、なんのしゅうちプレイだ……)
「でも、天空の歌姫の名と一緒ってのは、聖職者にもいいんじゃねえの?何たって世界の守護者だぜ。すごいだろう?」
(……イシュラめ、よけいなことを!)
「そうです!すごいですよね、神名が天空の歌姫と一緒だなんて」
「昨夜は満月。きっと、満月の素晴らしい祝福に違いないですのじゃ」
満足げなリド司祭までもが口を挟んでくる。
「そうですよ。神名がかの大魔導師と一緒だということは、あなたは、かの大魔導師の遺した魔術、遺した魔導を使えるかもしれないのです!何てうらやましい」
いつも無口なユータス助祭ですら、ぼそぼそっと羨望を口にした。
「…………………」
(がまんだ、わたし。これは、にんたいりょくを、ためされているんだ)
シェスティリエは、今にも逃げ出したくなるのを必死で我慢していた。
「うわぁ、じゃあ、天空城とかにも入れるんじゃないんですか?!そうですよね?」
(………あんなところ、もういきたくないから!)
すごいなぁ、シェスさま、とルドクはさかんに感心してる。
「ルドク、そこまでファンかよ」
「はいっ。素晴らしい方です!僕、特に『大崩壊』を食い止めるとき、命を削ると制止する光の竜王に命じる時の言葉が好きなんです」
「何て言ったんだ?」
「『例え我が命果て、我が身が消えうせても、世界が残ろう。私は、私一人が残る世界よりも、私以外のすべてが残る世界を選ぶ』です!」
(いってない!そんなこと、いってないから!!なんだ、これ……なんのばつゲームだ!)
シェスティリエは、もはや、涙目だった。
「……姫さん?どうかした?」
「…………………………なきたい」
「は?」
たとえ、誰よりも忠実な彼女の騎士といえども、その言葉の意味はわからなかった。
「あ、シェス様。お願いがあるのですが……」
「なんだ?」
「皇国まで、ご一緒させていただきたいのですが、よろしいですか?」
以前からその傾向はあったが、ルドクの口調はことさら丁寧だった。聖職者に対するごく自然な敬意……例え、相手が幼く、つい昨日成り立てほやほやの聖職者でも、かわらないらしい。
「べつにかまわぬ」
「ありがとうございます。ティシリアを抜けてアディラウルまで行こうと思っているんです。あ、一応、いろいろ便利なので聖地巡礼という体裁にはしているんですけど」
「イモでもたべにゆくのか?」
「はい」
大真面目な顔でルドクはうなづいた。
「別にそれだけというわけではないんですけど、それを一番の目標にしようかと……」
「なんでまた急に?」
この間考え込んでいたのはそれなのかもしれない、とイシュラは思い出す。
「ずっと、このままじゃいけない気がしてたんです。……けど、どうしていいかわからなかった。紹介状がないから、毎日、賃仕事しかできなくて……ただ生きているだけで精一杯だった」
けれど……と一息つき、そして続ける。
「お二人に助けていただいて……それまで、自分が不運だと思っていたのが案外そうじゃないかもって思えました。お二人が来てから、良い事がたくさんあったから」
「良い事?」
イシュラは何かあったか?と記憶を探る。
「ええ。ささいな事なんですけどね。売れ残りの食べ物をもらえたりとか、手間賃を多めにもらえたりとか……でも、それくらいならこれまでもあったんです。ただ、僕がそう思っていなかっただけで……ようは、気持ちの持ちようなんですよね」
シェスティリエは何も口をはさまない。ルドクは別に同意や何らかの意見を必要としているわけではなかったからだ。
「……それで、お二人が出発するっていうお話を聞いた時に、思ったんです。あ、僕も出発しようって」
「どこに?っつーか、何のために?」
イシュラは思わず突っ込む。
「僕、商売やりたいんですよ。まだ、何を売るって決めてるわけじゃないんですけど、最終的になりたいものは決まってるんですけど」
「……なにになるのだ?」
「穀物商です。穀物は、人の命を支えるものですから」
きっぱりとルドクは言った。その顔に、確かな決意が浮かぶ。
「……だから、できるだけいろいろな国を回りたいと考えていたんです。どこで何が作られているのか、どんな風に食べられているのか……イシュラさんと話していて知りました。同じ作物でも、他国ではまったく違う食べ方をしていたりするんですよね。僕は、そういうことがたくさん知りたいです。……だから、とりあえずは、シェス様のおっしゃっていたイモを食べにアディラウルまで行こうと思うんです」
決して思いつきではないのだと、ルドクは告げる。
「皇国までは楽するために、ちゃんと聖帯をいただいていますし、これはって思うものがあったら行商をしながら旅してもいいかなって……」
(無謀ってほどじゃねえし……旅してりゃあ、ちっとは鍛えられるだろうし……)
やや危うさを感じないわけでもないが、希望と熱意に満ちている。その熱意に水を差すことはあるまいとイシュラは考える。
「……では、せいちまでは、とくべつにわたしのじしゃとしてやろう」
巡礼者はさまざまな便宜を受けられる。だが、旅をする聖職者は、更にそれを上回る便宜を受けられるものだ。当然、聖従者や侍者と呼ばれる使用人もそれに準ずる。
「シェスさま……ありがとうございます!」
「れいは、アディラウルの『あまいも』でよい」
「……必ず」
ルドクはしっかりとうなづいた。
陽の光が、聖堂の尖塔の十字架をきらめかせる。ニワトリの声が裏庭の方から聞こえていた。
雑居坊の巡礼の団体が目覚めたのだろう。人の声もきれぎれに聞こえてくる。
「……名残は惜しいんですが、そろそろ出立しませんと……」
イシュラは、シェスティリエを促した。
「そうだな。……では、そろそろまいろうか」
リド司祭もそれにうなづく。
「シェスティリエさま、よろしいですかな。……本山に参りましたら受付においてこの書類を提出して下さい。わしは一介の修道司祭なれど、わしの教え子の中には、大司教になった者が数名おりますのじゃ。その中で最も頼りになる者に、御身のことは頼んでありますからな」
リド司祭は、愛しげに目を細めた。
「わかった。リドじい……いや、リドしさいさま」
「じいで結構でございますよ。シェスさまがこのじいなど及びもつかない魔力をお持ちである事は、洗礼時によくわかりもうした。その御名も表層を読み取っただけ。その表層ですら天空の歌姫と同じ御名なのです。シェス様はいずれ、幾つもの神名を得ることになるでしょう」
魂に刻まれた名は一つではない。高位聖職者になればなるほど多くの神名を持つ。
「ことほぎにかんしゃする」
リド司祭は、いつものように髭をのばし、そして、姿勢を正す。
「あなた様の行く道が光輝くものでありますように」
左手を胸にあて、右手の指が空に聖印を描く。それはシェスやイシュラ、そして、ルドクの頭上に光を振りまいて消えゆく。
「わがちちにして、わがしよ。そなたのうえにさいわいがありますように」
小さな白い指が呪文を描き出す。その呪を、リド司祭は知らない。
だが、それが祈りであることはわかった。降り注ぐ光の優しさの意味を間違えるはずも無い。
「イシュラ殿、シェスティリエ様のこと、どうかくれぐれも……」
「リド司祭、ご安心を。オ……私は、どこまでもご一緒いたしますから」
いつもとは違うイシュラの言葉遣いにルドクは小さく笑った。かなり違和感があるからだ。
「そんなの、じいがたのむまでもない。イシュラは、わがきしにして、わがせいじゅうしゃなのだからな」
「申し訳ございませぬ。心配でございましてな。そう。イシュラ殿は聖従者でございますものな」
聖職者に対して剣を捧げている騎士を特別に『聖従者』と称する。リド司祭は、イシュラにも洗礼を受けることを薦めたのだが、イシュラは自身の剣を神に捧げる気は無いと一言の元に拒絶した。例え方便だとしても……例え対象が神であったとしても、他のものに剣を捧げる気はさらさらないのだ。
「そう。だからあんずるな」
その声が、わずかに自慢げだと思うのは、イシュラの願望のせいかもしれない。
「はい」
リド司祭は深くうなづく。
「ルドク、母なる神の導きによって旅する子よ。そなたの旅の無事を祈っておるぞ」
「ありがとうございます、司祭様」
ルドクも笑みを浮かべる。
「道中、ご無事で」
いつも陰気なユータス助祭だが、今日は若干だが晴れやかな表情をしているように見える。
「ありがとう」
「ありがとう。いろいろと世話になりました」
「ありがとうございます。助祭様もお元気で」
ルドクは何度も振り返った。
二つの影はいつまでもそこに立ち続け……そして、やがて見えなくなった。
2009.09.08更新
2009.09.22修正