第1章
空が、燃えていた。夜の闇を染めるほど赤く、天を焦がさんばかりの勢いで。
かなり離れたこのエシュラ山までも、灼熱の炎に苛まれた空気のあげる、ごうごうという咆吼が聞こえる。先ほどまで聞こえていた爆音はもう聞こえなかった。
照り返す夕陽で金に縁どられた横顔……男は、ただ一言も口をきかずに燃え狂う炎を見つめていた。
着込んだ甲冑は返り血で汚れ、腕も足も傷がないところはない。一番酷いのは右の太腿だ。ざっくりと槍の穂先が刺さり、折れたのだ。穂先はとりのぞき応急処置はしたものの骨まで達していた傷だ。だいぶ血を失ったし、既に痛みすら感じなくなっている。それはかなり危険な兆候なのだと生粋の武人である彼は知っていた。
(……もはや……)
これまでなのか、と己自身に問い掛ける。
戦場で命を落とすのは武人の常。だが、このように逃げ惑い、まるで獲物のように狩り立てられることは、彼の本意とするところではない。
既に疲労はとっくに限界を越えていた。せめて立ち上がる気力があるうちに武人として敵に一矢報いてから死にたい……という誘惑が心をくすぐる。
(これが最後だとするのなら、随分とつまらん最後だな。オレらしいのかもしれないが……)
男……イシュラード=ユリウス=ヴィ=カノーシスは、ふっと苦笑を漏らした。
彼は、ローラッドの貧乏騎士の家に生まれた。少しでも家名をあげることを望まれて、13歳で従騎士として西方守護を任とするローラッド帝国第三師団に入団した。
ブラウツェンベルグ王国と国境を接する西方は、常に最前線だ。幾つかの戦場を重ね、その剣の腕と運の良さで17歳の若さで騎士叙任を受けた。
以来、彼は近衛に属していた三ヶ月をのぞいて、戦場以外に身を置いたことがない。
ローラッド帝国第三師団ラシュガーク城砦守備隊第一部隊長……それが、彼の今の地位だった。
尤も、ラシュガーク城砦が陥落した今となっては、もはやその肩書きにはまったく意味が無かった。
(『左の死神』の死場所にしちゃあ、つまらん場所だぜ……)
こんな山の中で最後を迎えるのかと思うと、今更ながらに口惜しかった。
剣を振るうしか能の無い自分だったが、いや、だからこそどうせなら戦場で死にたいという思いが胸をつく。
だが、佩いている剣は刃がボロボロでもはや何も切ることができないだろう。鞘口が血で固まり、抜けるかどうかも怪しい。
懐の短刀も、かなり刃こぼれしていてあまり役にはたたなそうだった。今、ここで敵におそいかかられたら、彼に防ぐ術はほとんどない。
それに……。
足元に視線を落とす。灰色の布の塊が小さく動いていた。
よく見れば、それは人形をしている。
「……ん……」
もそりと布の間から小さな手がのぞく。
周囲に気を配る事を怠らないまま、彼は膝をついた。
それは、子供だった。年の頃は、五歳になるくらいだろうか……戦場にいるべきではない幼い子供。
「……リースレイさま」
その名を小声で呼びかけた。起き上がった子供は、目を覚ますように、ふるふると頭を振る。
灰色の外套からこぼれ落ちた銀の髪は、戦場に在る今は埃に汚れ、炎にあぶられたせいで毛先が焦げてもいる。そして、ぬけるように白い肌は煤け、外套も泥と血で汚れていた。
「…………ここ……どこ?」
夜の闇の中で魔力を宿すといわれる紫の瞳を静かに開き、周囲を見回す。
その幼さを考慮したとしても、たとえどれだけ汚れていたとしても、この幼い少女……リースレイ=シェルディアナが美貌の片鱗をあらわしていることは否定できない。
それもそのはずだ。
リースレイの母は、その美貌で皇帝を虜にし、ついには第四帝妃になったカザリナ=アディラインの双生の妹、リーフェルド伯爵夫人アリアナ=フェリディアだ。夫人の姿をはじめてみたとき、イシュラは女神が地上に降り立ったと思ったほどだ。彼女はその母ととてもよく似ている。
「エビモスの森です」
イシュラは膝をつき、騎士の礼をとって答える。足がずくりと痛んだ。気を抜くと意識がもっていかれそうだった。
少女は置かれている状況がまったくわからないようで、何度も目をしばたかせる。
「……リースレイさま?」
ラシュガーク城砦は陥落した。駐留していた部隊もほぼ壊滅したといってもいいだろう。
執政官だったリースレイの父、リーフェルド伯爵アーサー=ヴァニエルは死んだ。
彼の最後の姿を見たのは、おそらくイシュラだ。妻子の保護をイシュラに依頼し、自身はかなりの深手を負った姿で炎の中に消えた。その足が地下を目指していた事と、イシュラが城砦を抜け出た後の爆音を結びつけることは容易だ。
彼は、敵の手に落ちた城塞を破壊したのだ。敵に拠点を与えぬ為に。
「………………だいじょうぶ。ちょっと、きおくをせいりしただけ」
五歳児とは思えぬ落ち着いた声と態度に、イシュラはわずかに違和感を覚える。だが、それをそれ以上気にすることは出来なかった。彼らはそんな状況にはなかった。
「…………ここはあんぜん?はなしができる?」
見上げた瞳には、理知的な光が宿っている。
「いいえ」
「そう。……あなた、なまえは?」
「イシュラード=ユリウス=ヴィ=カノーシスと申します、リースレイ姫。どうぞ、イシュラとお呼びください」
あえて姫と呼びかけた。
リースレイは小さくうなづき、その呼びかけに自然に応じる。
「きしイシュラ、あんぜんなばしょがわかる?」
「この森の奥へ……さすれば、息つく暇も生まれましょう」
ラシュガーク城砦がブラウツェンベルグ軍に包囲されたのは七ヶ月前のことだった。
当初、誰もがいつものように1ヶ月もすれば再び退却するだろうと思っていた。
ラシュガーク城砦は中規模でありながらも堅固であることがしられている。陥落せしめるには相応の被害を覚悟せねばならない。だが、五年前に、ハッシュバーグ城塞が完成している為に、ラシュガークを落としても被害に見合う成果がない、というのが現実だった。
だが、予想を裏切り、ブラウツェンベルグは冬を過ぎ、春を過ぎても対陣を続けた。先に音をあげたのは、街道のすべてを封鎖され、包囲されたラシュガーク城砦側だった。秋の収穫の前に包囲された城砦には、三ヶ月程度の食料しか残っていなかったのだ。
それでも、七ヶ月に及ぶ篭城戦を彼らは耐え抜いた。
だが、三万を越える大軍で国境を越えたブラウツェンベルグが、それなりの重要拠点とはいえ、たかが城砦一つで満足していたはずが無い。周辺地域はとっくに占領下だし、ハッシュバーグ城塞もまた敵の包囲下にあることをイシュラは知っていた。
(全面戦争……)
その事実から、ブラウツェンベルグはついに全面戦争に踏み切ったのだとイシュラは予測する。
だとすれば、直接ローラッドに抜けるのはかなり困難になると予想された。
(帝国は、ラシュガークを捨てた……)
おそらく帝国は、ラシュガークを救援して兵を疲弊させるよりも、ラシュガーク攻略で犠牲を払った遠征軍を万全の体制で迎え撃つことを選んだのだ。
だとすれば、彼らはこのエビモスの森を逆側に抜け、フェルディアに抜けるのが得策だ。
ブラウツェンベルグ軍とて、城砦から逃げ延びたわずかな敗残兵を狩ることよりも、次に対峙する本隊に目が向いているに違いない。……例え、追っ手を放っていたとしても、それほど大きな部隊ではないはずだ。
「では、ゆこう」
リースレイは、すっくと力強く立ち上がる。
まだ幼い少女は、立ち上がっても膝をついたイシュラと目を合わせるのがやっとだ。
「姫……」
彼が助け出すまで、自害した母の遺体の脇で呆然としていた幼子とは思えなかった。イシュラの呼びかけにも応えず、その小さな身体を抱上げたらくたりと意識を失った。
こんな風に強い意志を示せるような子供だとは夢にも思わなかった。
「……わたしは、しぬわけにはいかない」
少しだけこわばった表情で彼女は言った。
「……はい」
イシュラはうなづく。
一度戦場を体験した人間は、劇的に変わることがある。いささか早すぎるにせよ、この幼子の上にもその変化があったのだと思った。
「……だいじょうぶだ。わたしはうんがいい」
幼子は笑った。どこか力強い笑顔だった。
父と母を失ったばかりだというのに、笑って見せる健気さにイシュラはうたれた。
まだやっと五歳……乳母の腕の中で甘えているような年齢だ。両親に守られて幸せに過ごしていればいい子供だったのだ。
……だが、彼女は既に「姫」と呼びかけられることの意味がわかっていた。
本当に知っているかはわからない。けれども、彼女は自分が主であることを無意識に理解していた。
「あしがいたむであろうが、しばし、がまんしてほしい」
「これしきのこと、戦場にあればかすり傷にございます」
イシュラは立ち上がる。本当にそう思えた。
先ほどまで、もはやたちあがることもできぬと思っていたのが嘘のようだった。
(主、ありてこその騎士……)
その言葉がよくわかった。
騎士としての宣誓はしたし、剣は皇帝に捧げた。……だが、それは主を得たということではなかったのだと、今、初めてわかる。
(オレは……)
「ゆこう。わたしが、いきれば……わたしとおまえのかちだ。きしイシュラ」
諦めかけていたはずなのに、リースレイのその覚悟にイシュラの心もまた武人としての心を取り戻した。
「……姫」
執政官として父の赴任に同行してきただけの幼児だった。
イシュラの見たことがある彼女の姿は、執政官が城砦に入城した際に母と共に馬車から手を振っていた……それだけだ。
(だが……)
自分は、この幼い少女の決意に生かされたのだ。
それがはっきりとわかっていた。
静かに目を閉じ、そして、立ち上がる。
「参りましょう」
イシュラは運命を見つけたのだ。
2009.09.01 更新