今より50年前。
グランドラインのとある国において世界中の人々を驚愕させる事件が起こった。
周辺諸国を実効支配する程の大国であり、なおかつ世界会議(レヴェリー)においても一定の発言力を持つ屈強な軍事大国。その王が倒れた。
それも暗殺などと言った謀殺の類ではない。
下手人は、真正面より挑戦状を叩きつけ、そびえ立つ城砦を破壊し、高らかに名乗りを上げ、立ち塞がる兵士の尽くを打倒し、悠然と王城へと乗り込み、国王を打ち取った。
この間は僅か半日にも満たなかったという。
あまりにも劇的な顛末であり、当初はその場にいた者でさえ夢でも見ているかのようであったという。
だが何より人々を驚かせたのは、これほどの偉業がたった一人の海兵の手で行われたと言う事実だった。
第二十話 「六王銃」
舞踏は続いた。
どこまでも激しく、天井知らずに、何人たりとも入り込む余地などなく、峻烈に。
理を欺く弟子に、理を跪かせる師。
クレスとリベル、二人の戦いは取り巻く世界を置き去りにしながら疾走した。
二人の前に平伏すものは廃墟と成り果てた空間。
完全なモノなど何もない。尽くが朽ち果て、崩れている。
だが、両者にとっての舞台の状況など、些末なものでしかない。
例え司法の塔が崩れ落ちようとも変わらず戦い続るだろう。
だが、拮抗と見せかけられた戦いは、覆しきれない力の差が徐々にだが確実に広がっていた。
「フッ!!」
尋常ならざる圧力を振りまきながら迫り来るリベルに対し、クレスは僅かに顔を歪める。
誰よりも対峙しているクレスが感じていた。
力量は拮抗などとは程遠い。
それ故のクレスの奥の手である<時幻虚己(クロノ・クロック)>。
しかし、時を欺くという異質な技をもってしても、リベルの姿はなお遠い。
当初は先手を取れた動きも、徐々に見破られ、圧倒されつつあった。
「指銃“佩撃”」
息をつく間もなく、リベルより神速の一撃が放たれる。
指先はまるで刃のような鋭さを帯び、なぞる軌道の全てを切断する。
「チッ!」
舌を打ち、クレスは弾かれるように“剃刀”によって後ろに引いた。
神刃と化したリベルの指先自体は辛うじて避けられた。
だが甘い。
クレスの胸元に鋭い痛みが走る。
リベルの指先は触れたもののみならず、前方の空間ごと全てを切り裂いていた。
「―――隙アリだ」
クレスが見せた僅かな隙を、リベルが見逃すはずがなかった。
リベルの蹴撃が強かにクレスを打ち付ける。
為す術もなく、轟音と共にクレスは瓦礫の中へと叩きつけられた。
「どうした? もう終わりかね」
「……うる、せ」
幾多もの攻撃を受け満身創痍であったが、それでもクレスは瓦礫の中より這い上がろうとする。
だが、その姿には僅かな陰りが見えた。
強い光を放っていたクレスの瞳。そこより鬼火の如き紅い光が消えていた。
直後、クレスの脳を震源として尋常ではないほどの痛みが全身に走った。
「―――ッ!」
視界が赤く濁る。脳みそがマグマのように熱い。
ドロリとした嫌な感覚が背筋を堕ちて行き、内部から全身を溶かしていくような痛みを与えた。。
気を抜けば全てを奪い去りそうな痛みであったが、クレスは表情を変えることなく平静を装う。
だが、全ては抑えきれず、罅割れた仮面が毀れるようにクレスの瞳より赤い雫が流れ落ちた。
「……やはりそうか。
それだけ異質な技だ、肉体への負担は生半可ではあるまい。
いや、そもそも今のような使い方を想定すべきではないと言ったところかな?」
得心がいったようにリベルが呟いた。
リベルはクレスの様子から全てを看過したのだろう。
時をも欺くクレスの<時幻虚己(クロノ・クロック)>は当然ながらクレスの肉体にそれ相応の負担を強いた。
だが、それは本来ならば、クレスならば気に留めることもなく戦闘を続けられる程の微々たるものだ。
この負担は通常の人間では考えられないほどの低リスクなのだが、それは低時間の使用のみに限られた。
「その技は常時発動にはリスクが高すぎるようだね。
本来ならばその運用は通常状態との緩急を意識し、使用するべきものなのだろう」
自身の能力を見誤っていたわけではない。
クレスは本能的に誰よりも自身の能力を理解していた。
命がリスクで、対価が時間。
この技はギャンブルに似ている。
低時間の使用ならば何も問題はない。
しかし、引き際を弁えずに時を欺き続ければ、時間に応じてリスクが跳ね上がるのだ。
そして、抱えきれない負債は痛みとなってクレスに襲いかかった。
「まァ、だからと言って私が相手ではそれも止む無しだったのだろう」
クレスには一瞬たりとも<時幻虚己(クロノ・クロック>を解除するという選択指は与えられなかった。
人知を超えたリベルの動きはもはや、通常状態で追いきれるものではない。
解除すれば、敗北の瞬間すら刻むことなくクレスが地に付していたのは明白だった。
「時間制限(タイムリミット)か。
皮肉なものだ。“時”を欺く君の技が“時”による枷を受けるとは」
欺かれた“世界”はその事実を知った時、欺いた者に逆襲する。
時はクレスにとって敵でもあった。
「意志はあれど、肉体は動かすにはさぞ辛かろう」
リベルは事実を告げるように、抑揚の無い声で言う。
事実、クレスは瓦礫の中でもがくも、立ち上がれないままでいた。
「そして、この地ももう終わりか」
リベルが静かに呟くと同時、エニエスロビー全体に渡り轟音が響き渡った。
音は遠くまで残響して尾を引き、不気味な静寂をもたらした。
「まさか……!」
瓦礫の中でクレスが息をのんだ。
風穴が空いた壁より、クレスは見た。
正義の門を潜り、戦列を為して迫りくる、破壊の権化を。
「そう、始まるのだよ。バスターコールが」
辺りを包んでいた静寂が破られる。
轟音と共に戦艦に積み込まれた砲門が火を噴いたのだ。
「まったく、困ったものだ」
表情を変えることなくリベルが背後に向けて無造作に腕を振り払った。
振るわれ腕より鋭い刺突が飛び、崩れ落ちそうな石壁を突き抜ける。
直後、司法の塔の傍で巨大な破壊の花が広がった。
「……いの一番でこの場所を狙うとは、容赦の無い事だ。
もっとも、振るわれる力に容赦など在るべきではないのだがね」
リベルの背後を爆風が駆け抜け、“正義”の掲げられたコートを揺らした。
「では、幕を引こうか。
覚悟はいいかね、クレス君?」
「いいわけねェだろうが、……バカ野郎ッ!!」
クレスの瞳に再び鬼火が灯った。
直後クレスが咆哮する。
「ッッッツああああああああああああァ!!」
意志は肉体を巡り熱を灯す。
血が煮沸し、全身が軋みを上げる音を聞いた。
もはや動くことですら驚異的である筈なのに、瓦礫よりクレスが這い上がる。
立ち上がり、強く踏みしめた両足が地面を砕いた。
「終わりになんてさせるか」
<時幻虚巳(クロノ・クロック)>再始動。
世界はは歪み、欺かれる。
これ以上の使用は最早自殺行為に近い。だが、それがどうした。
重心を落とし、クレスは即座に戦闘態勢に入る。
間もなくこの地は地獄に変わる。
何もかもが破壊され、炎によって塵と化す。故郷のように。
「“命賭け”というわけかね」
「ここで動けないでいるほど、腑抜けじゃねェ」
「ならばその気概ごと打ち砕こう」
ゆったりとした動作でリベルが第一歩を踏み込んだ。
その瞬間、致命的なまでにリベルによって間合いが侵食される。
気が付けば当然の如くそこに立ち、絶対的な力を振りかざす。
クレスはすぐさま後ろに跳んだ。
轟音が響く。
寸前までクレスがいた場所に破壊の暴風が通り過ぎた。
直撃は避けたものの、リベルの一撃は余波のみでもクレスの身を削った。
「ハァッ!!」
異名に違わず、リベルは武力によって全てを平伏させる。
傷ついた肉体でどこまで持つのか。
クレスの命など蝋燭の火のように気まぐれによっても消え去るだろう。
ならば、その火を限界まで燃やし尽くすまで。
「おおおおォオオッ!!」
世界が白く染まる。
欺かれた時は鈍化し、音すらも掻き消える。
自身を苛み続ける痛みすら消し飛ばし、今やっと、心拍の響きを聞いた。
何もかもが狂おしい程に緩慢。
迷いを燃やしつくし、クレスは硬化させた拳を硬く握りしめる。
「ラァアアッ!!」
眼前に迫るリベルの拳にクレスは全力で反攻する。
互いに放った一撃は中心において交錯する。
衝撃が音を置き去りにして駆け抜けた。
余りの圧力に一瞬クレスの気が遠くなる。だが、それでも前に一歩踏み出した。
再び衝撃が弾ける。
後先など考えるな。今は自身の全霊を持って目の前の男を打倒すること。
それのみに専心する。
「―――六式、」
迫りくるのは流星の如き猛攻。
圧縮された時の中で、その全てを迎え撃ち続ける。
その中で、諦めを知らない狂犬のように喉元に食らいつく瞬間を探り当てる。
「奥義ッ!!」
一瞬、両者の視線が交差する。
やって見せろ。
深遠なリベルの瞳が挑発する。
一瞬だけ、クレスは獰猛な表情を見せた。
直後、振るわれたリベルの一撃は何も捉えることなく空を切った。
「ほぅ……!」
リベルが感嘆の声を上げる。
クレスはまるで幻術のようにリベルの眼前より消え失せた。
しかし、立ちはだかるのは全世界の“武”の頂点に立つ男。
そう易々と欺かれはしない。
突き出されたリベルの腕が鋭い軌道を描く。
その軌道上にいたのは、正面にいたはずのクレス。
突き出されたリベルの拳を潜り抜けるように避け、滑りこむようにして側面に移動。
回避と同時に攻勢。
時を欺く力と、驚異的な肉体制御の技術があってこそ為しえた、クレスのみに許された動きであった。
「ッ!?」
クレスの顔が僅かに歪む。
必殺の一撃を繰り出そうとしたクレスの両腕は解放される瞬間を待つ弓のように引かれている。
対して、リベルの拳は眼前。
間に合わないのは明白だった。
コマ送りのような圧縮された時の中で、颶風を上げた拳がクレスの米神に触れる。
凶悪な一撃はクレスを殺めて余りあった。
刹那にも満たない時の中で、敗北が刻まれる。
覇者の勝利は揺るぎはしない。
「歪み刻め、―――<時幻虚巳(クロノ・クロック)>」
歪んだ時の中で紅い鬼火が眩い閃光を放つ。
音は消え、血は凍り、鼓動は刻むことすら許されない。
世界は淡色に染まり、万象は遍く掌握され、時は刹那において静止する。
必然の元に導かれるべき現象は歪み、欺かれた。
「喰らえ」
時は再び動き出す。
背後から聞こえた声にリベルは目を見開いた。
寸前まで抱いていた、クレスの頭蓋を打ち抜く確信は消え失せた。
背後より響いた声に、リベルは振り向こうとした。
だが、クレスによって突き出された両拳は既にリベルに添えられている。
もう遅い。
「―――六王銃ッ!!」
剃、月歩、鉄塊、紙絵、指銃、嵐脚。
超人的な六つの体技を自在に操る自身の持つポテンシャル。
自身の細胞を炸薬とし、全てを集中させ、突き出した両腕より衝撃として撃ち放つ。
もう二度とチャンスなどない。
この機を逃せば敗北は必至。
持ちうる全てを出し尽くすかのように、クレスは全力を振り絞る。
衝撃は駆け抜け、大気が悲鳴を上げる。
倒れろ。
渇望と共に放たれた衝撃は、リベルを打ち付け吹き飛ばした。
「ぐッ……ァ……!」
直後、クレスの視界が反転する。
全身を抉られるような痛みが駆け巡り、思わず膝を付く。
限界を超越した能力の使用はこの上ない程にクレスを苛んだ。
「ッ…ァア……ハァ……ハァ……」
やけに寒々しい静寂の中で己の荒い息だけが残響する。
今は何も考えられない。
何もかもが白く塗りつぶされ、消え去ろうとする。
その中でクレスは驚異的な精神力で、立ち上がった。
「リベルは……?」
疲労が深く刻まれた顔でクレスは前方を確認した。
クレスが放った“六王銃”の直撃を受けたリベルが吹き飛んだ方向は瓦礫の山があった。
恐らく吹き飛ばした衝撃によって出来たのだろう。
もともと廃墟じみていた部屋であったが、クレスの一撃によって天井すら破壊されていた。
リベルは恐らくあの中にいる。姿こそは見えていないがクレスはそう思った。
先ほどまでクレスを圧していた重圧は消えていて、起き上がる気配はない。
確信こそ持てなかったが、状況はクレスが勝利したことを知らせていた。
「ロビンのところに、行か、ないと」
やけに鈍った頭で、クレスはそれだけを考えた。
知りたいことは山ほどあったが、今のクレスにはロビンのことしか考えられなかった。
まるで水を求めて彷徨う旅人のように、不確かな足取りでクレスは進んでいく。
全身はズタボロだが何とかなるだろう。
崩れ落ちた壁より、躊躇いの橋を見据え月歩により飛び立とうとした。
「どこへ行くのかね?」
静かな。
無人の帝宮に立たされたかのような荘厳な静寂。
その中で、有無を言わさぬ絶対的な帝声が響く。
「邪魔な石屑だ」
次の瞬間、何もかもが衝撃によってかき消された。
音も、光も、影も、世界すらも。
ただ圧倒的な武力によってねじ伏せられ、平伏されられる。
刹那の後、不夜島の眩むような陽光が差し込んだ。
差し込んだ陽光遮るものは何もない。
俄かには信じられないが、衝撃は瓦礫ごと、司法の塔の上階全てを吹き飛ばしていた。
「……リベル」
災害のような威力の攻撃の発現。
顕現する威圧感。
それらを具現できる人間など一人しかいない。
クレスが振り返る。
そこには当然のように屹然としたリベルの姿があった。
「至極の一撃であったよ。
よくぞここまで昇りつめた。
君の師であったことを心底誇らしく思う」
クレスの背後で吹き飛ばされた司法の塔が無数の破片となって谷底へと消えた。
「褒美である。
我が至極の拳を誉として逝け」
不意にリベルが腰だめに拳を構えた。
瞬間的にクレスは悟り、駆けた。
あの拳を放たせてはならない。
なぜならばあの一撃に勝てるものなど存在しないのだから。
だが、彼我の距離は絶望的なまでに遠かった。
「―――六王銃“覇撃”」
その時、クレスは世界が壊れる音を聞いた。
何が起こったかすら分からない。
余りの衝撃に意識が霞む。
指一本動かせない。
息があるのが奇跡だった。
コツコツ。
硬質な音がする。
リベルがゆったりとした歩みで近づいてくる音だった。
「武術とは突き詰めてしまえば、対象を傷つける術だ。
効率的に、効果的に、絶対的に。
それらを極めんとするが為に古より人々は研究し、研鑽した。
あらゆる武技、あらゆる武器は結果を引き起こすために存在し、当然ながら結果には過程が存在する。
拳を引き突き出す。それゆえに衝撃が生じる。こんな風にね。
だが、六王銃は“衝撃”という結果のみを叩きつける。
対象の材質、状態、硬度。それらを尽く無視して、純粋な衝撃のみを打ち出せる。
その本質があるが故に、六王銃は“最強の体技”と呼ばれるのだ」
足音が止んだ。
倒れ伏すクレスをリベルは見下ろしていた。
「幕切れは呆気ないものだったね。
さて、私は先に失礼するよ。
私はこれよりあの子を殺さなければならない。
覚悟があるならば追ってきなさい。まァ、命が続いていたならばの話だがね」
足音が遠ざかっていく。
立ち上がらなければならないのに、身体が動かない。
刻まれた敗北はクレスを縛り付ける。
何も見えない。感じない。
やがて音すらも消え、全ては白に包まれた。