ウォーターセブン中心街にある、ガレーラカンパニーが所有する倉庫近くの路地。
本来ならばこの場所は人影もなく、町中に出来た空白地帯のように静寂の似合う場所であるのだが、現在は息苦しいまでの緊張に包まれていた。
その空間を作り出すのは二人。
静かに、だが恐ろしいまでに研ぎ澄まされた殺気を滲ませながら睨み合う二人。
六式使い。
エル・クレスとロブ・ルッチ。
「こうして血が騒ぐのは久方ぶりだな。
任務とは言え、貴様とやり合える事におれは喜びのようなものを感じている」
「へェ、そうかい。こっちとしては、どうでもいいがな。
“冷酷な殺人兵器”だと聞いていたが、案外獣じみたところもあるんだな」
語りこそ淡々としているが、その裏に確かな昂ぶりを感じさせるルッチに、拳を構えたまま飄々とクレスが答えた。
言葉を交わす間も、クレスはルッチの姿を捉え続けている。
───強い。
ルッチの姿を見て、クレスはまずそう感じた。
CP9のロブ・ルッチと言えば、その冷酷さと無慈悲さ、そして過剰なまでの正義から様々な噂が飛び交い恐れられている。
噂というのは何かに付けて尾びれが付くものだが、クレスは確信した。
囁かれる噂は間違ってなどいない。この男ならその噂を全て実現してみせると。
確証こそなかったが、経験により培われた"眼"はそう告げている。
戦うのは危険だろう。まともにやり合えば、ただでは済まない。
だが、今のクレスにとってそんなことはほんの些細なことでしか無かった。
「始める前に聞いといてやろう。ロビンは今どこにいる?」
「それをおれが言うとでも思っているのか?」
「いや、聞いただけだ」
期待などしていなかったので、クレスは軽く肩をすくめるだけであった。
始めから簡単に答えてもらえるとは思ってはいない。
僅かでも情報を漏らし確証に至れば、クレスは今すぐにでもこの場を立ち去り、ロビンを追い町中を駆けまわるつもりであったが、ルッチもその辺りは察していたようだ。
「だが、その様子からすると知ってはいるようだな」
「だとすればどうする」
鋭さを込め言い放つ言葉に、ルッチは動じない。冷酷な笑みを張り付けたままだ。
そこに浮かぶのは、己の力に対する自信か。
クレスの中で最後の方針が定まる。
この男がCP9の“核”で間違いないだろう。
この男さえ打倒すれば、その他を屈服させる事が出来る。
ロビンに関する情報をを聞き出せる。
ゆったりと、ルッチにすら悟られぬような巧みな重心移動によって、クレスは撃鉄を待つ弾丸のように身体を前へと傾ける。
「吐きたくなるまでぶん殴ってやるよ。覚悟はいいか、ロブ・ルッチ」
ドゴッ!! 瞬間、地面が爆ぜクレスの姿が掻き消えた。
目指す標的まで小細工無しの一直線。
地面を削り取るような速度でクレスは瞬きの如くルッチへと肉薄し、渾身の一撃を叩き込む。
「覚悟を問われるのは貴様の方だ、エル・クレス。闇の正義の下、貴様を打ち砕いてやろう」
それを見て、後ろに手を組み不動の姿勢を貫いていたルッチが動いた。
幾多もの返り血を浴びたであろう拳を引き、そしてクレスの拳に合わせるように突き出す。
大気を裂くように鋭く、重厚な唸りを持って、拳は交錯。
打ち合わされた拳は爆発的な衝撃を作り出し、余波のみで町の一角が震えた。
「……!!」
拳を交わしたその瞬間、クレスはロブ・ルッチという男の強さを的確に感じ取っていた。
無慈悲、冷酷、そして沸き立つ血潮の如く獰猛。
決して表に出る事の無い凄惨な戦場を、政府の闇となり戦いぬいたその力と意志は端倪すべからざるものである。
だが、それがどうした。
さりとて、クレスには一切引く気は無かった。
身体を躍らせ、暴れ出しそうになる肉体を押さえつけるように制御し、クレスは己の目的の為に拳を振るう。
勝利条件はロブ・ルッチの撃破。この際に生死はどうでもいい。
肝心の情報は、離れた位置で傍観しているカクという男から聞き出せばいいだろう。
その為には、まず前提条件として、クレスはルッチに対して勝利しなくてはならない。
例え、自分がどうなってもだ。
「喰らえッ!」
無駄を限界まで削ぎ落としたような、機械的な拳がルッチを襲う。
だが、ロブ・ルッチという男はそう甘くは無かった。
クレスの放つ拳打の尽くを、ルッチは捌ききり、お返しとばかりに一打受けるだけでも致命的であろう攻撃を打ち込んでくる。
突き出されるのは弾丸と化した指先だ。
感覚としては、クレスが幼少時に出会った巨大な海王類の爪や牙に似ている。
巨大な体躯に、圧倒的な力。放つ攻撃は果たして効果はあるのか分からず、相手からの猛攻を凌ぎきるだけ。
あの時は、ギリギリの攻防の末、何とか相手を退けたが、今回は軽くその上を行く。
無防備に受け止めれば、最悪命はないだろう。
しかし、クレスとて未熟であった昔に比べ、めまぐるしい成長を遂げている。
強大な存在に立ち向かうだけの力も技も手に入れた。自分が優れているとは思わないが、劣っていると卑屈になるつもりもない。
「勝たせてもらうぞ、負けるつもりは更々ないからな」
クレスはルッチが放つ烈火のような攻撃を、捌き、避け、受けとめる。
そして隙を見れば、空かさず反撃を仕掛けた。
「この男───」
拳を交えたその瞬間、評価を改めたのはルッチもまた同じであった。
ルッチの放つ攻撃に対し、クレスは見事なまでに対応して見せている。
僅かな隙を見て放たれる攻撃は精確無比に急所を狙って来ていた。
まさに、一撃必殺。
ルッチ自身も優れた暗殺者であったが、クレスもまた同じような素養を持っていた。
そして何より驚くべきは、クレスの<六式使い>としての能力の高さだ。
ルッチの情報によれば、クレスは<六式使い>としては不完全であろうと予測されていた。
それもその筈、クレスは<六式>の訓練を受けたものの、それは幼少の頃、五歳から八歳の僅か三年。
通常ならば、この年齢時は基礎の基礎である、六式を扱う為に必要な“土台”作りの時期である筈なのだ。CP9史上最強と呼ばれるルッチですらそれは同じである。
幼少時にたった三年だけ納めた“武技”にどれだけの意味があろうか。
その経験が強さとしての基盤となったとはしても、決して<六式使い>として大成することはありえない。
しかし、目の前の男はその常識を覆していた。
ルッチも始めクレスについて聴かされたときは己の耳を疑ったものだが、今ならそのれに納得できる。
「成程な、確かに貴様は───天才だ」
僅か八歳において<六式>の基礎全てを納め、格上である<六式使い>を相手取り勝利したその才気。
そして逃亡生活中でありながら、独学で学び、研鑽し、己の力のみで<六式>を完成まで至らしめた男。
<六式>の体技のレベルを数値化した“道力”で見れば、カクの言う通り、ルッチとクレスはそう遜色がなかった。
滅多に感情を表に出さぬルッチであったが、同じ武技を扱う者としてクレスに対し称賛のような感情が浮かんでいた。
「さりとて、任務の障害となる貴様は、始末するのみだ」
浮かんだ称賛を冷徹な思考の下に消し去り、ルッチは獰猛な笑みを浮べる。
私情などは任務にとって障害にしかならない。
重要なのは、目的達成への意識、そして“成功”という現実のみであった。
第六話 「エル・クレスVSロブ・ルッチ」
幾度となく、肉体という人知を超えた武器が交差する。
指先は石壁をも穿ち、襲脚は斬撃を生む。
懸ける速さは眼ではおいきれず、その脚力は空すら掴んだ。
相手の攻撃に対する反応もそうである。
攻撃を受ける肉体は鋼よりもなお硬く、なおかつ尋常ではない速度で回避をもおこなう。
これが果たして人間と言えようか。
「全く、派手に暴れよる」
ただ一人の傍観者である、カクが目の前の光景にひとりごちる。
もの静かな筈の路地裏に、爆発のような衝撃音が連続して響いていた。
高速で移動しながら、クレスとルッチがもはや兵器と化した肉体を打ち合せているのである。
傍目から見ればそれは異様な光景と言えよう。
みるみるうちに街路が削られ、水路が荒波のように煽られ、響いた衝撃の余波で倉庫のガラスが割れ、壁に亀裂が入る。
時折、拳や脚をぶつけ合う人間を見る事が出来るものの、それは現実かと疑うほど曖昧でもあった。
これが人界を越えた体技、六式を納め極めた超人同士の戦い。
視認できる人間がこの町に何人いるか。適当に一人連れて来て感想を聞けばこう言うだろう、町がひとりでに朽ちていたと。
カクから見てもそれは同じだ。
カクもまた<六式>を扱う人界を越えた超人の一人であったが、目の前で戦いを繰り広げる二人は次元が違った。
「手出し無用じゃな。ワシはワシのやるべき事をやろうかの」
本来ならばルッチと協同し二対一の状況でクレスと戦ってもよかったのだが、実力差故に下手に手を出すと足手まといになりかねないのだ。
視認こそ出来るものの、付いてはいけない。クレスに与えられた傷を差し引いてもだ。
カクの役目はクレスをこの場所へと誘き寄せること。役目を終え、カクは新たな行動に移ることにした。
「随分と派手に暴れたな。
いいのか、コリャ間違いなく誰か来るぞ?」
幾度となく打ち合わせた攻防を経て、一端月歩で空中に引いたクレスが言う。
その口元には血の痕があるが、気にした様子もなく口元に挑発的な笑みを浮かべていた。
「心配には及ばん。この場所には来させんさ」
クレスの言葉に、同じく傷を負ったルッチが答える。
被っていたシルクハットは無く、長めの黒髪が風に揺れている。
クレスの姿を視界に納めながら、ルッチは隙の無い動きで背後に足を一閃させた。
六式が一つ、嵐脚。
爆発的な脚力は大気を切り裂き斬撃を生む。
ルッチが放った斬撃は後方にあった建物を悉く切り裂き倒壊させた。
「道は塞いだ。暫くは誰も通れまい」
「おいおい、“もの”は大切にって教えられなかったか?」
「貴様が気にする事でもなかろう。貴様とて色々と経験済みの筈だ」
嘲るルッチの口調にクレスは眼を細めた。
その通りである。目を欺く為、人目を集める為、逃げる為。理由は様々であるがルッチの言う通り経験は大いにある。火を放った事もあった。
「フン、確かにそうだな。
だが、そんなオレと同列に語るとは<正義>の名が聞いて呆れるぞ」
「なに、課せられた条件下で最適の行動を行う。これも<正義>の為ならば容認されてしかるべきだ」
「胸糞悪くなる答えをありがとよ」
政府の所有する最も過激な先兵の言葉に、クレスは嫌悪感を露わにそう吐き捨てる。
権力に追従する力ほど恐ろしいものは無い。
振るわれる力は全て肯定され、都合の悪いことは全て隠匿される。
そうしてまた一つ政府に対する脅威は消えたと安堵するのだろう。
例え、地図の上から島が消えてもだ。
「ロブ・ルッチ、一つ言いたいことがある」
「なんだ?」
「お前に言っても仕方がない事だとは分かっている。
だが、これだけは仕方がないとも思ってる。
だから単純な話、───ムカついたからマジ殴らせろ」
言葉と同時にクレスは地面を蹴った。
その踏み込みのあまりの力強さに、石畳の路地がひび割れ砕けた。
驚異的な加速を行うクレスはまさに弾丸そのものの速度でルッチへと肉薄し、引き絞られた肉体に拳という矢を番える。
「やれるものならやってみろ」
対するルッチの構えは不動。
浅い息を吐き、クレスの拳を待ち構える。
クレスはその姿から、鉄塊での防御、そしてその後の反撃を予測した。
真正面から、呆れるような一直線を描き拳を突き出そうとするクレス、そしてその拳を振るうその瞬間。
ルッチの目の前からクレスは掻き消えた。
「───ッ!?」
クレスが現れたのは真横。
氷の上を滑るかのような足捌きで直前に方向転換を果たしたのだ。
直後、意表を突かれたルッチの頬骨を強烈な衝撃が襲う。衝撃はルッチの身体を水路で隔てられた反対側の路地まで吹き飛ばすのに十分なものであった。
しかし、クレスが感じた手応えは浅い。おそらくルッチは僅かに後ろに引いて衝撃を殺したのだろう。
「嵐脚“乱”!」
クレスは迷わずに、ルッチに対して脚から幾丈もの斬撃が放ち、追い打ちを仕掛けた。
斬撃は一瞬のうちにルッチの目の前を覆った。言わば、斬撃の弾幕だ。
飛来する斬撃はまるで雨のように濃密でありながらも、その一つ一つが名刀にも劣らぬ切れ味を秘めている。
「大した数だ、だが───」
そんな弾幕の中を、ルッチは月歩により臆す事無く突き進んだ。
巧みな肉体制御によって僅かな隙間を見つけては空を駆け、嵐脚を回避しながら高速でクレスへと肉迫。外された嵐脚は街路に深い爪後を残す。
だが、クレスは迫りくるルッチの軌道を読み切り、逆に自身から距離を詰めて鋼鉄の拳を振るった。
「指銃“剛砲”!!」
砲撃にも勝るクレスの拳は、唸りを上げ、貫くような直線を辿りルッチへと向かう。
鉄塊で硬化させた拳を指銃の速度で打ち出すこの技は、クレスが多用する技の一つだ。
直撃すれば、ルッチといえどタダでは済まない。
だがクレスの拳は空を切った。直撃の瞬間、ルッチの姿がぶれたのだ。
「くっ!」
残像を残し、ルッチは拳を振るったクレスの死角へと身を滑らせる。
先程の意趣返しだ。その程度おれにも出来ると挑発されているようでもある。
そして、
「指銃“黄蓮”!!」
一瞬において幾多もの指銃がクレスを襲った。
ルッチが放ったのは指銃の連撃。だが、そこに秘められた威力たるは全て人体を砕いて余りある。
衝撃は全て直撃し、クレスは後方へと吹き飛ばされる。だが、ルッチの表情は微塵も変わらない。吹き飛ばしたクレスに対して鋭い視線を向け続けた。
「逃がさん」
ルッチの姿が掻き消える。
爆発的な脚力により目でとらえる事すら困難を極める速度で駆け抜け、クレスを追走した。
仕留めてなどいない、クレスは瞬時に鉄塊をかけ、全ての衝撃を受け止めていたのだ。
吹き飛ばされた事により体勢が崩れたクレスに振るわれるのは、弾丸と化した指先。まともに受ければ間違いなく致命傷である。
だが、ルッチの指は身体を旋回させたクレスに弾かれた。
「お返しだ」
換わりに飛び込んで来たのは鋼鉄の如く硬化したクレスの襲脚。
巧みに姿勢を制御し、ルッチの攻撃を弾くと同時に叩きこんだのだ。
クレスの蹴りはルッチに直撃。ルッチを再び後方へと吹き飛ばす事に成功する。
「まったく、面倒極まりない」
ストンと軽やかに地面に降り立ち、クレスは呟いた。
身体が僅かに悲鳴を上げる。ルッチの攻撃を鉄塊で受けとめたものの全ての衝撃を殺し切れなかったためだ。
「早くしろ、こっちは急いでんだ。せめて駆け足で来い」
言葉を投げかけた向うから、ゆっくりとした歩調でルッチがやって来る。
クレスと同じく身体からは血が滲んでいたが、表情からは余裕と殺意が感じられる。
「焦る必要もないだろう。貴様はどうせ何も得られはしない」
顔に見透かすような笑みを張りつけルッチは言った。
先程のクレスの攻撃は直撃したものの、手応えは感じていない。やはり相手も鉄塊で防御していたのだ。
「随分な言い草だな。勝利宣言にしてはまだ早すぎるんじゃないのか?」
クレスが感じたところ、大まか実力は互角と言ったところであった。
さすがに純粋な六式使いとしては相手の方が上であったが、何も勝負の優越はそれだけで決まるわけではない。
「戦う以前の話だ。無論、貴様はおれが始末する事には変わりないがな」
ルッチは何食わぬ顔で、クレスの言葉を否定する。
そしてそのまま続けた。
「どれだけ貴様が足掻こうとも、それは全て無駄なことだ。
分かっている筈だ。あの女は自らの意志で我々へと下ったのだとな」
クレスに対しては抉り込むような言葉であったが、クレスの反応は冷ややかなものであった。
「下っただ? そう仕向けたのは、お前らだろうが」
分かっていた。
ロビンは自らの意志で政府へと下った。おそらくはそう仕向けられた。
それがどういう事か分からぬほど、ロビンは馬鹿ではない。
海賊相手に嘘をつくなど常道の世界だ。それでも、政府はロビンが従わざるを得ない“何か”を提示したのだ。
「フフフ、確かにそうだが、選んだのはあの女だ。この意味が分からぬ貴様でもあるまい?」
「それがどうした。選択は始めから一つ。連れ戻す、それだけだ」
「相手がそれを望まなくともか?」
「当り前だ」
そうクレスが言った瞬間、くつくつと口元を歪めてルッチは嗤った。
嘲弄であった。
「愚かしい男だな、エル・クレス。
貴様のような男が傍に居ながら、20年もあの女を追いまわすこととなるとは、政府も随分とぬるい仕事をする。
あの女はもう逃れはせん。貴様がどう動こうとも、状況は変わらない。最後には必ずあの女は自らの意志で我々の手に落ちる。貴様が例え連れ戻せたとしてもだ」
その瞬間、ざわめく様にルッチの姿が震え、変貌を遂げ始めた。
鍛え抜かれた身体は倍以上に膨れ上がり、更にしなやかで強大な肉体へと進化する。
その肌を覆うのは滑らかな毛並みと、黒で描かれた斑紋様。
指先には肉を貫く黒い鉤爪が光り、臀部からは細長い尻尾が覗いている。
異様なまでの威圧感、そして凶暴性を纏い、変化を遂げたルッチはクレスを見下ろした。
「所詮それも、無駄な仮定であろうがな」
鋭い牙の覗く口で、ルッチはそう言った。
「てめェ……能力者だったのか」
目の前で行われたルッチの変化にクレスは息をのんだ。
完全に見上げるまでに巨大化したルッチの姿は、まごうことなき<動物系>。
「<ネコネコの実 モデル“豹(レオパルド)”>」
「ヒョウ人間……!」
瞬間、クレスの背筋を氷塊を流し込まれたような悪寒が襲う。
その防衛本能に従いクレスは全力の鉄塊で全身を固めた。
「ッ!?」
次の瞬間、余りに強い衝撃がクレスの身体を打ちのめす。
能力によって生まれた黒い鉤爪がクレスへと突きたてられていたのだ。
踏ん張った足が衝撃を受け止めきれず街路を砕く。赤い雫が、廃墟と化した路地に落ちた。
「遊びは終わりだ。ひと思いに終わらせてやろう、そのくだらん戯言と共にな。貴様に敗北を刻みこんでやる」
指先についた赤い雫を舐めとり、音も無くルッチの姿が掻き消える。
巨大化したにも関わらず、全くそれを感じさせない、しなやかな脚運びだ。
止まっていては捉えられる。
本能的にそう感じたクレスは、地面を蹴った。
直後、破壊の権化と化したルッチが襲いかかる。
「くそ、さすがにそれは反則だろうがッ!」
この瞬間、均衡していた筈のクレスとルッチのバランスは一気に傾いた。
<動物系>、特にその中でも肉食動物の能力者は草食動物に比べその凶暴性をも増すと言う。
だが、違いはそれだけではない。
生態系の頂点に立つ、肉食獣。その肉体構造はまさに戦う為に生まれたと言っても過言ではない。
厳しい生存競争の中で淘汰され洗練された、その王者たる存在。
人は鍛えなければ強くならない。だが、猛獣たちは生まれながらに強いのだ。言わば生まれながら勝者なのである。
六式を扱う上で、最も重要なのは己の肉体だ。
その肉体に獣の力を取入れればどうなるか、しかもその獣は理性をもち鍛錬を重ねるという。
これほど脅威的なものは無い。
「いつまで持つか、見物だな」
能力を際限なく発揮し、ルッチは瞬く間にクレスを追い詰めて行く。
振るわれる一撃の重さ、力、スピード。その全てが、ただでさえ人外じみていた人間状態のルッチを上回り、凌駕する。
撹乱するようにクレスが剃と月歩によって辺りを駆けまわり、必死で攻撃を逃れながら相手の様子を窺うも、その様相はまさに狩る者と狩られる者であった。
「剃刀!!」
空間を切り裂くように駆け、ルッチはクレスを追走する。
剃と月歩、この両方の属性を持つこの技は、滑らかでありそして何よりも速い。
今のルッチならば、空に描いたデタラメな軌道さえも容易く駆け抜けるだろう。
「指銃“撥”!!」
クレスの真横に付くように追走し、鋭い指先から放たれるのは、空気を切り裂き飛ぶ指銃。
放たれる弾丸は、実弾よりも鋭く速い。
クレスは一瞬の判断で身を反転、崩壊しかけている近くの建物へとと跳び込んだ。
数発身体を打ち抜かれたものの、姿を見失った為か、一時的なものであろうがルッチの攻勢は止んだ。
「……本格的に不味いな」
傷を抑えながら憎々しげに言葉を漏らすクレス。
どう考えても、悪魔の実の上乗せ分ルッチが優位だ。
互角であった身体能力も尽くが相手が上、正直なところ絶体絶命である。
どうやら自分は己より強大な相手に対し戦い挑み、勝利を掴まなければならないらしい。
「まぁ……いいか」
自重げにそう嘯いて、光が引くようにクレスの目が細まった。
計画、方法、手順。
正直なところ曖昧な可能性しか浮かばないが、ある程度の強さは把握した。
もういいだろう。
戦う、勝つ。
答えは至ってシンプルだ。
目的さえあれば、やり遂げる可能性はある。
悲観する必要などない、何も格上相手の戦いは初めてではないのだから。
「殺るか」
反撃の狼煙を上げろ。
軽く息を吐いて、クレスは身を躍らせる。
その直後、巨大な怪鳥をかたどった形の斬撃が建物を切り刻んだ。
凶悪な切断力を誇るその攻撃により主要な柱なども全て切り取られてしまったのだろう。隠れていた建物が音を立てて崩壊し始める。
「嵐脚」
斬撃を飛ばしてクレスは建物の一部を切り飛ばし、そこから脱出を図った。
倒壊する建物を背後に剃によって脱出路から飛び出すも、やはりと言うべきかその前にはルッチが待ち構えていた。
「姿を見せたな鼠め。これで終わりだ。覚悟は出来たか?」
「ああ、出来た」
空間を自在に切り裂きながら肉迫するルッチに、クレスは告げる。
「かかってこいよ、ブッ殺してやる」
そして、逆にルッチに対して躍りかかった。
ルッチの指先からは先程の“飛ぶ指銃”が次々と放たれる。
クレスはプログラムのような的確な動きで回避を試みるも、数発避けきれず肉を削り取られた。
「指銃“斑”!!」
痛みを飲み込んで、峻烈なまでの歩を進めたその先にあるのは、ルッチの放った指銃の弾幕。
正面は不味い。そう感じたクレスは襲いかかる魔弾の連打を紙絵で避け、弾幕の数に押される前に、削り取るような勢いで地面を蹴った。
「嵐脚“豹尾”」
だが、それを逃すルッチでは無い。
豹の尾のように螺旋を描く嵐脚をクレスへと放ち、追撃。
クレスは地面に手を突いてアクロバットな動きで回避するも、僅かに身体が切り裂かれた。
路地を血で濡らしながら距離を取るクレスに対し、剃と月歩をハイレベルで併用させた技、“剃刀”により一気に肉迫。クレスにとっては未知の技。
そして射程内に入ったクレスに向け、ルッチは獲物を抑え込む猛獣のように獰猛な五指を突きつけた。
「剃刀」
だが、次の瞬間ルッチの爪からスルリとクレスがすり抜ける。
「な、に……?」
同時にルッチを襲ったのは驚愕。
クレスが使った技は今まさにルッチが使っていた技。
始めから使えた、そんなわけは無い。
使えるのならば、ルッチがこの技を使用してクレスを追い詰めた時に使えばよかったのだ。
隠すことに意味など無い。
ならば、何故今扱えるのだ。
「へェ……なかなか便利な技だなコレ」
空間を鋭い刃物で切り裂くように、自由闊達にクレスは駆けまわる。
その姿はまるで幾度もの鍛錬を重ねたかのように安定。
そんなわけはない。
目を見開くルッチに、更なる驚愕が襲いかかる。
「指銃“撥”」
空気を切り裂き、ルッチへと直撃したのはルッチが使用した“飛ぶ指銃”。
指先から放たれる弾丸は、確かな威力を持ってルッチの肉を削った。
「貴様まさか……!!」
驚愕に対する答えは、巨大な怪鳥をかたどった嵐脚。
嵐脚“凱鳥”。
翼を広げた怪鳥を象った、凶悪な切断力を誇る斬撃だ。
「コレ、何て名前の技だ?」
クレスは皮肉げに口元を釣り上げる。
「おれの技を模倣したと言うのかッ!?」
「そうだが? ああ、ちなみにさっきの“豹尾”とか言うのは個人的に嫌いだからやらないがな」
余裕を見せつけるようにクレスは肩をすくめる。
「別に驚く事は無いだろ。僅かにお前の方が上だが、<六式使い>としてはほぼ同格なんだ。
なら、お前が使える技ならオレも使える。それだけのことだろ?」
「……言ってくれる」
軽く言うクレスだが、それがどれだけ異常な事か。
“出来る”と“使いこなす”ではレベルが異なるのだ。
ルッチとてクレスの扱う技ならば、模倣することが可能であろう。
だが、それを今すぐにものにするのは不可能と言っていい。
「……確かに認めざるを得んな、その異端とも言うべき才気を。
だが、忘れたわけではあるまい。おれと貴様の間にある決定的なまでの力量の差を」
だが、それがどうしたと。
ルッチは覆る事の無い自身の優位性を確信する。
それほどまでに、ルッチの持つ<ネコネコの実>の能力によるアドバンテージは大きい。
実際、クレスは今の今まで増強されたルッチの力に翻弄され、為す術もなく逃げ回っていたのだ。
「確かにそうだが、お前の強さは把握した。なら後はオレが喰らいつくだけだ」
「戯言を……! ならばやって見せろッ!!」
ルッチは剃刀によって、クレスに対し一瞬で肉迫。
クレスに比べ、重さ、スピード、力。その全てを上回る一撃を繰り出し、クレスの命を刈り取ろうとする。
「ロブ・ルッチ、言わせてもらうが───慢心するつもりなら止めとけよ」
振るわれたルッチの一撃を、クレスは紙一重のところで避け、同時に一歩踏み込んだ。
それはルッチにとって予想外の攻勢。巨大化した故にできたほんの僅かな隙間に身体を滑らせ、ルッチの一撃を回避せしめたのだ。
決定的な隙を晒したルッチへと振るわれるのは、すれ違いざまに突き立てる渾身の一撃。
「指銃“咬牙”ァ!!」
無防備に晒したルッチの脇腹に、クレスの五指が喰らいつく。
突き刺さった五指は牙のように、ルッチの身体を引き裂いた。
「ぬッ……ぐァ……!!」
「鼠なめんな。窮鼠猫を咬み殺すぞ」
続いて繰り出されたのは、鉄塊によって硬化された襲脚。
ルッチは鉄塊で防御するも、何故か一切の力を感じない。
それもその筈、一撃目は囮。
クレスは次の一撃をルッチが鉄塊で防御すると読み切り、次の一撃の為の“支点”としたのだ。
蹴りを放った筈のクレスは身体を制御し、今まさに渾身の蹴りを繰り出した。
「鉄塊“杭”」
クレスが叩き込むのは硬化させた爪先。それは地面に突き立てられるアンカーのように、的確にルッチに身体を打ちつける。
直撃したのは先程一撃をくらった横腹。傷口を抉る様に、クレスの攻撃は突き刺さった。
激痛がルッチを襲う。
鉄塊はあくまで自身の身体を硬化させる技である。クレスは的確にその弱点を突いた。
「もう一発ッ!」
「剃刀ッ!!」
更なる一撃を喰らわせようとするクレスから、ルッチは退避する。
体の芯が歪むような痛みがルッチを襲うも、気にする暇などは無い。
ルッチの後を追うように、クレスもまた剃刀によって駆け、先程ルッチから模倣した指銃“撥”を放って来ていた。
それらを全て避けきり、ルッチは滑らかに身体を反転させた。
「いいだろう。生き急ぐならば、今すぐ地獄に送ってやる」
真正面にクレスの姿を納め、猛スピードで駆ける。
もはや、地面などあっても無くても同じであった。
そして凶悪な一撃をクレスへと繰り出す。
「ッ!」
振るわれたルッチの一撃をクレスは硬化させた片腕で受けとめた。
ルッチの攻撃は続く。剃刀によって瞬く間に背後へと回り、もう一撃。その速度はやはりクレスを上回っている。だがそれもクレスは捌ききる。
クレスはルッチの一撃に対し見事なまでに対応して見せていた。時折攻撃がクレスの身体を捉えるものの、それらは全て浅く致命傷には至らない。
それだけでは無い。ルッチが見せるほんの僅かな隙をついて反撃まで行い、ルッチに対し傷まで負わせてきた。
「何故だ……何故、付いてこられる」
その変化はルッチから見ても顕著であった。
傾いていた筈の戦力バランスは、再び均衡へと押し戻されていたのだ。
悪魔の実の力、そして僅かとは言え六式使いとしてもルッチは上回っている。
その差を埋めるものはなんだ。
バランスが引き戻されたのは、建物へと逃げ込んだあの瞬間から。
それまでは、ただ逃げ回るだけだったクレスが、あの瞬間より、急にルッチの攻撃に対し追従するようになったのだ。
あの短時間で何かが出来るとは思わない。
そんなルッチに、クレスの放った言葉が甦る。
クレスは言った───お前の強さは把握したと。
「まさかこの男───」
ルッチはその可能性に至った。
建物に逃げ込むあの瞬間まで、クレスは観察に徹していたのだ。
そして、あの短時間で変えたもの、それはクレスの戦闘リズム。見定め、把握したルッチに対する戦闘法。
傾いていた筈の戦力バランスを一気に引き戻したもの、それはクレスの持つ、全てを見極める類稀なる<戦術眼>であったのだ。
ルッチの持つ情報にも記されていた。
クレスは明らかに格上の相手に対して、その動きを見定め喰らいつき、あまつさえ勝利さえ掴んでいる。
それより20年間、裏社会を生き抜いてきた。
そこで出会う敵とはどのようなものであれ、幼い子供より格下ばかりという事はありえない。
クレスにとって自身より強い相手と戦うのは、特段珍しい事では無かったのだ。
ならば、明らかに戦力が上回るルッチに付いていけるのも頷ける。
だが、それは余りにも危険な綱渡りでもある。相手が格上ならば、一瞬の過ちが敗北そして死に至る。
しかし、クレスはその全てを成功させてきたのだ。
「思えば、おれの技を模倣したのも、おれに対して隙を作り出す為の布石だったのか。
そして、能力によって生まれた力の差、間合いの差を把握し、おれに反撃を仕掛ける事にまで至った」
驚嘆し、ルッチは純粋にエル・クレスと言う男に脅威と“闇の正義”としての使命を抱いた。
「この男をあの女の“番犬”としておくのは危険すぎる」
幾度かの衝突を経て、クレスとルッチは両端へと離れた。
全身に傷を作りながらも、クレスは依然として鋭い瞳でルッチを見つめ続けている。
そんなクレスを油断なく視界に納めながら、ルッチは浅く息を吐いた。
「生命帰還“紙絵武身”」
能力によって巨大化したルッチの身体が元の人間サイズへと戻っていく。
だが、その姿は未だ<人獣型>のままである。
生命帰還を用いてのバイオフィードバックだ。細胞を自在に操る事により、身体のサイズを切り替えたのだ。
これでルッチは人間状態と同じ感覚で、能力を用いた最大限の力を振るう事が出来る。
「成程、そんな使い方もあるのか」
感心するようにクレスは呟く。
そんなクレスにルッチは鼻を鳴らした。
「貴様に対する考えを改めよう。
我らに楯突く歯牙を砕くだけでは物足りん。貴様はおれの手で葬り去ってやる」
「やってみな、出来るならな。
オレはお前を倒して、ロビンを連れ戻す。それだけだ」
合図は無かった。
だが、二人は全く同じタイミングで踏み込みをかけ、渾身の力を持って相手へと肉迫する。
この瞬間、ルッチは完全にクレスの事を抹殺すべき敵と見定めていた。
そこに自身の力に対する油断や、奢りが入り込む余地など一切ない。冷たき鉄の心。目的はただ一つ、エル・クレスの抹殺である。
「闇の正義の名の下に……消えろッ!」
抉り込むような角度をもってルッチの指先が唸る。
捉える事すら叶わぬほどの速度で振るわれるのは、凶悪な威力を秘めた指先の魔弾。
指銃。
ルッチの一撃は、幾多もの人間を屠ってきたと瞬時に思わせる凶悪さを秘めた、暗殺者のそれだ。
「ハァアア!!」
対するクレスの一撃も指銃。
ルッチの一撃に対抗するのではなく、ルッチの力さえ利用して制する。
放たれた互いの指先は交錯。そして互いの身体を打ち抜いた。
だが、二人は止まらない。
次の瞬間には、幾打もの技が交差し、二人の間に衝撃の火花が散る。
「剃刀!!」
生命帰還によって更に身軽になったルッチは、高速で辺りを駆けまわりクレスを翻弄する。
驚異的な運動量を誇るルッチに対して、クレスもまた同じく、先程会得した“剃刀”によってルッチを迎え撃つ。
だが、やはり身体能力という観点ではルッチはクレスの追随を許さなかった。
ルッチの攻撃はクレスを捉え、小さくは無い傷を刻んでいく。しかし、クレスは追い詰めようとするルッチを何度も振り切り、いつまでも喰らい付いた。
その積み重ねは実を結び、ルッチも浅くは無い傷を負わされた。
「指銃ッ!」
戦いの場は地上などには止まらない。水路によって隔てられた路地上空で二人は、鎬を削る。
もう幾度目になるのか。返り血を浴び、赤く染まった指先をルッチは振るった。
迫るルッチの指先に対して、クレスが選択したのは回避であった。
こうして、ルッチの一撃を回避または防御する事によってじっと反撃の機会をうかがい、そして急所を狙う確実な一撃を狙う。
この選択もまた、クレスからすればセオリー通りの行動だ。
明確な脅威を抱かせる相手に対し、回避に回るのはそうおかしなことではない。
この場で紙絵を選択した事にはそう疑問を抱く事もないだろう。
だが、今回のクレスの行動は明らかに違っていた。
「ッアア!!」
クレスは直撃すれば己を貫くであろう一撃に対して、前に回避行動をおこなったのだ。
異常なまでの瞬発力によって身体をルッチの攻撃から逸らしつつ、同時に目の前の敵に対して一歩踏み込む。
捨て身覚悟の、だがこの上ないカウンター攻撃。
クレスは勝負を急いだのだ。
考えれば当然であろう。このままいけば間違いなくジリ貧。地力ではルッチが上回っているのだ。時間をかけるほどクレスは不利になる。
ここで勝負をかける事には、何ら不思議はない。
だが、それを実現させるほどルッチも甘くは無かった。
クレスの行動に一瞬目を剥いたものの、冷徹な思考の下瞬時に突き出す腕の軌道を変えた。
それは長年政府の闇として生きてきた者の本能か、舞い込んだ敗北と紙一重のチャンスをルッチは逃しはしなかったのだ。
鮮血が舞う。
ルッチの口角が釣り上がった。
「結末は呆気ないものだったな」
悪魔の実によって姿を変えたルッチの指先は、深々とクレスへと突き刺さっていた。
致命傷だ。
「おれの勝ちだな、エル・クレス」
クレスの目論見は外された。
焦り故か、負傷を厭わぬその行動には驚かされたものの、ルッチには対応できるだけの実力があった。
それでもルッチはクレスに対して、称賛のような感情を抱いていた。
荒削りではあるものの、荒削りのまま、完全な“武技”への完成へと至った男。
能力抜きの純粋な実力ならば、間違いなく拮抗していただろう。
悪魔の実の力を手にしたそこに、差が生まれた。
だが、これが現実でもある。
深すぎる一撃を受けたクレスは人形のように力無く沈黙している。
まだ息はあるようだが、それもどんどんと弱まっていた。
ルッチは幾度となく味わった味気ない勝利に浸る事も無く、無感動に腕を引く。
だが、その表情は次の瞬間凍りついた。
「“捕まえた”」
ギラつくような眼でクレスは笑った。
その瞳に灯るのは狂信の光か。
クレスの肉を貫いている指先が異常なまでに締め付けられる。ルッチが腕を引き抜こうともピクリとも動かない。
次の瞬間、追い打ちをかけるようにルッチの腕に、クレス手が肉食獣の牙のように喰らいついた。
「貴様、何のつもりだ……!!」
「何のつもりもねぇだろうが、<能力者>!
確かに能力でお前の有利になったがな、大事な事を一つ忘れてんだろ?」
どこにそんな力が残っていたのだと思うほど、クレスは力強く、獰猛に空中を蹴った。
行き先は<水の都>ウォーターセブンの代名詞。町中に張り巡らされた水路。
能力者達にとっての共通の弱点。
海。
「まさか、貴様!?」
「さァ、楽しい水中遊泳と行こうや、水嫌いのネコ男。
<悪魔の実>によって差ができたっていうなら、そのリスクは覚悟の上だよな。
悪いが、水中でもオレに勝てると思うなよ。手加減は一切しないからな」
能力者であるルッチは海に入れば一切の力を失う。
ルッチが能力者であると知った瞬間より、クレスはこの瞬間を狙い続けていたのだ。
ルッチにとっては悪夢のような状況であろう。
もともとの実力は伯仲、能力を行使してもクレスはルッチへと喰らいついて来た。
一歩間違えば自身がやられてもおかしくは無い激戦である。
ルッチはクレスを打倒するためには幾つもの攻撃を放つ必要があった。悪魔の実というアドバンテージを経てもそう易々と戦況が覆る訳でもなかったのだ。
だがそれに対し、クレスはルッチを海に落とすだけで事足りた。
海に入らなければいいと、能力者としてのリスクを比較的軽視していたルッチであったが、この瞬間のみは自身に課せられた“業”を呪いたかった。
「おのれ、させるかァ!」
両腕を塞いだ状況であるクレスに対し、ルッチは自由に動かせる左腕で抵抗を試みる。
唸る指先は鋭い弾丸へと換わり、一瞬のうちに幾打もの衝撃がクレスを襲う。
だが、クレスの力は一切緩まない。
ルッチの放った攻撃全てを鉄塊で受けとめ、同時に水面へと加速するように更に月歩で空中を蹴りつけた。
水面までは僅か数メートル。
ルッチも崩れた体勢で抵抗を試み続けるも、もう遅い。
抜けおちそうな意識を何とか保ちながら、クレスは勝利を確信した。
「───えっ」
だが、クレスが感じたのは冷たい水の感触では無く、何か別の力に引き寄せられる感覚だった。
続いて届いたのは、花の香り。
クレスの心に一瞬の空白が生まれる。
その隙をルッチは見逃さなかった。
「危ないところだった。だが、時はおれの味方だったな」
ルッチはクレスの拘束から抜け出すとともに、強烈な一撃を叩き込む。
重く深い一撃はクレスを打ちのめし、水路の中へと叩き込んだ。
赤い染みが暗い水の上に広がる。
クレスが水面へと上がって来る様子は無い。
死んだか? ルッチはその考えを否定する。
「フン、さすがに今一度立ち向かってくる意味が分からぬほど、盲目ではないか。
賢しいな。イヤ、単純に驚愕したとでも言うべきか。どちらにせよ、一度幕引きか」
ルッチは苛立たしげに、一度だけ悪態をついた。
「今回はしてやられた。……計画も修正が必要だな」
ルッチは戦場跡のように見るも無残に荒れ果てた路地へと戻り、落ちていたシルクハットをかぶり直す。
すると、離れていたハトが肩へと止まった。
能力もとき、顔にはいつもと同じ無表情を張りつけ直し、新たに表れた人物へと問いかける。
「さて、話を聞かせてもらおう」
路地の人影が淡々と歩を進める。
深い闇を背負ったその人物は、感情を表す事を拒絶するかのように冷たい容貌をしていた。
ルッチはその名を呼ぶ。
「ニコ・ロビン」