始まりは何時だっただろうか。
思えば、生まれたその日から歪な人間だった。
訳の分からない自我があって、自分は自分だと認識し、それを疑う事もなかった。
何故だかわからない。成長というものはなく、既に完成していた。
変わるのではない。戻るのだ。
既に出来上がった器に中身が注がれるように。
始めは異常さゆえに排斥されると思いこみ、周囲に溶け込もうと必死にそれを隠した。
そしてそれがばれた時には、今までの日々に終わりが訪れたのだと思いこんだ。
だが、世界は涙が出そうなほど自分に優しかった。
自分はそういうものだと、その時初めて受け入れられた気がする。
それ故に、諦める訳でもなくどこか達観した気持ちで、自分を取り巻く世界で生きた。
見るもの、聞くもの、触れるもの。
その全てが初めてである筈なのにどこか違和感があった。
だが、それを不自由だとは感じることはなく、それならそれでいいと割り切っていた。
だからこそ、その日常に終わりが訪れた時、どうしようもなくても抗おうとした。
しかし、世界はこれっぽっちも優しくはなく、むしろ残酷だった。
必ず返そうと思っていた恩義も、続くと思っていた日々も、炎の中に消え去った。
だが、全てが消えた訳ではない。
赤く燃えた日に交わした約束は導きであり、自身の願いでもあった。
与えられた義務だとか責任だとか言うつもりはない。
とにかく、余りに小さいその姿を自分が絶対に守り抜かなければならないと思った。
その為なら、二人分の泥を被ってもいい。
そのために余計に傷つき、余計に汚れようとも構わなかった。
なぜなら己は欠ける事はなく、汚れすら飲み干せる強さがある筈なのだから。
誤算があったとすれば、既にあったそれが弱かった事だろう。
余りに甘っちょろく、冷徹になるのにも心の奥底で苦悩を続けている。
だが幸いに、その時が来れば迷わずに手を下せるだけの歪さだけは持っていた。
その姿が、心が、安らかになれるその時まで。ひっそりと寄り添う影のように傍に居れればそれでよかった。
そうして今まで生きて来た。
これからもそうやって生きて行くのだろう。
だが、何故だ。
見返りを求めるつもりはない。
自分の幸福ならば捨ててもよかった。
なのに何故。
……わからない。
そう決めた筈のそれはひび割れるように悲鳴を上げていた。
第一話 「理由」
───嫌な夢を見た気がした。
泥のような眠りの果てに、クレスは視界に飛び込んで来た淡い光を見た。
やけに重い瞼を開け、辺りを見回した。
「……ここは……」
目に入ったのは、長旅で痛んだ天井だった。
少し視線を下げると丸い窓から柔らかい光が差し込んでいる。どうやら今は早朝らしい。
紫がかった夜明けの光は、継ぎ接ぎ痕のある壁とフローリング、そしてそこで眠る一味の姿を浮かび上がらせている。
耳に届いたのは、安らかな寝息、朝の静寂。
ぼんやりとした頭の中で、クレスはメリー号のラウンジに居る事を理解した。
クレスは身を起こそうと身じろきする。
「……ん?」
するとその指先がサラサラとしたものに触れた。
柔らかい光を放っていたのは艶やかな黒髪。ロビンのものだった。
ロビンはクレスが眠るベットに顔を伏して、疲れたように眠っている。
クレスは優しげな表情を作り、ロビンを起こさないようにその髪を撫で、鉛のように重い自身の身体を持ち上げた。
「……かなり……鈍ってんな」
自分が使っていた毛布をロビンにそっとかけてやり、クレスは外へと向かう。
外気にさらされ冷たくなった金属のドアノブを握り、もう一度部屋の中を見回した。
一味は誰一人欠けてはいない。それの事に安堵した。
「……すまん」
浮かんだのは謝罪の言葉だった。
クレスは部屋を出ると前甲板へと出た。
寝たきりだった為、思った以上に身体を動かすのに苦労したものの、キャラベル船のメリー号はそう大きな船では無い。
少し歩き、階段を登ると羊顔の船首が見えた。
そう言えばここの上は船長の特等席だったな、とぼんやりと思い、クレスは甲板に座り込み側壁にもたれかかった。
海を背にしたクレスからは島の様子が確認できた。船はまだ出航してはおらず、ロングリングロングランドの岸辺に停泊しているようだ。
「オレは麦わらに……」
ぼんやりと島の様子を眺めながら、クレスは青雉との邂逅から自身が意識を失うまでを思い返していた。
自身が生死の狭間において命を削り、ルフィにそれを止められた。いや、助けられたのだろう。
アレからどれだけ時間が経ったのだろうか。
結果だけを言えば無事に乗り越えられたのだろう。一味は誰一人欠けてはいない。
だが、一味が青雉に勝ったとは思っていない。
おそらく自分達は見逃されたのだ。
「……弱いな……オレは」
クレスはどこか達観したようにそう呟いた。
己の強さは誰よりも理解していた。彼我の戦力差は歴然だった。勝てる筈が無かったのだ。
今だ自分は弱く、襲いかかる理不尽を跳ね除ける事が出来ない。
それがクレスにはどうしても我慢ならない。
今回の件もそうだ。
全ては弱いからいけないのだ。
「……まァ、今に始まった事じゃないか」
風がクレスの頬を撫で、身体が打ち寄せる波によって揺られた。
温暖な気候のロングリングロングランドだったが、早朝はわりと冷えた。
それはむしろ心地よいぐらいなのだが、何故か今のクレスの肌にはただ冷たく感じられる。
「……クレス」
そんな時、名前を呼ばれた。
クレスがそちらへと視線を向ける。
そこには安心したように顔を綻ばせた幼なじみの女性が居た。
「ロビンか……」
クレスは少々ばつの悪そうにその名を呼んだ。
ロビンはクレスへと歩み寄ると、その隣に腰を降ろした。
「もういいの?」
「ああ、迷惑かけたな。ありがとう」
「気にしないで、クレスが目を覚ましてよかったわ」
ロビンは少し疲れがうかがえる顔で答えた。
クレスは心の中でもう一度ロビンに感謝の言葉を贈り、気になっていた事を聞く事にした。
「あれから、どうなったんだ?」
「……船長さんが“一騎打ち”で青雉を引きつけてくれたわ」
「なるほど……大した奴だ」
一味の危機は、ルフィの決断が生み出した青雉の気まぐれによって救われた。
こうしてクレスがロビンと言葉を交わせるのも、ルフィのおかげなのだろう。
ルフィは本能で何をすべきかを感じ取っているように思えた。それは海賊として、船長として、得難く稀な能力であった。
「麦わらの様子は?」
「船長さんは昨日の夕方頃目が覚めたわ。体調も安定してるみたい」
「……今は何日目だ?」
「クレスが倒れてから三日目」
「そうか」
クレスは一旦黙りこみ、重い口を開くように続ける。
気が滅入る、一番したくない問いかけだった。
「一味の様子はどうだ?」
ロビンは予想がついていたのか、静かな様子で口を開く。
浮かんだ感情は、困惑。
「何も事情を聞かずに、みんな……クレスと私を心配してくれていたわ」
「……そうか」
クレスはそれ以上は何も言わなかった。
今回の件は、自分達が招いた災厄だ。一味もその事をうすうすとは気が付いているだろう。
それでいて、なにも問わなかった。
「………」
ロビンもまた黙り込み、二人の間を沈黙が支配した。
行き先は見えずに、ただ暗闇が広がっている。
幾度も味わって来た終わりの足跡だ。
「……潮時か、思ったより早かったな」
おそらくこのまま何も言わずにいても、一味は誰も咎めることはないだろう。
だが、その信頼もいつかは必ず崩れ去る。
海軍に捕捉された以上、必ず一味は標的となる。それは一味をどこまでも追い詰めるだろう。
そうなれば、必ずその原因を重荷に思う。
幾度となく辿って来た道のりだが、この陽気な一味にだけは何故かそう思われたくなかった。
「……クレスは、……どうして私を守ってくれるの?」
どこか思いつめたように、ロビンはそう呟いた。
初めてぶつけられた問いかけに、クレスは僅かに間を置いて答えた。
「どうして、そう思ったんだ?」
「クレスだって分かってるでしょう? 政府が狙っているのは私だけだって。
本当ならクレスは関係が無い。貴方に掛けられた賞金も、本来の目的はそれを通して私を捕まえるものだって。
昔からそうだったわ。クレスは自分も悪いように言うけど、そんなことはない。今回も元をただせば私に責任がある」
「そんなことはない……オレも、お前も、オハラの人間だ。それだけで政府にとっては十分な脅威だ」
「いいえ、それはただの建前よ。
彼らにとって絶対に捕まえたいのは私。アナタじゃない」
クレスがそう言うと、ロビンは自分の膝元へと目線を向けた。
それはずっとロビンの中に燻っていた問題だったのだろう。
幼いまま世界の悪意の中に投げ込まれて、その中で生きて行く事を強要された。
息も出来ないような濃い闇の中で、本来ならばロビンは自分に懸けられた罪を自分で背負わなければならなかった。
だが、ロビンは守られる側の人間だった。
襲いかかる悪意を換わりに受け止める盾があった。
「子供の頃の私は……クレスの後ろに隠れて、ただ震えていたわ。
クレスはそんな私を何も文句を言わずに守ってくれた。一番辛かったあの頃から、私はクレスにとっての重荷だった」
「……たとえそうだったとしても、今は違う筈だ。
お前は自分で戦う術を手に入れ、生き延びる術を学んだ」
「ええ、私もそう思っていた。守られる立場じゃなくなって、クレスの隣に立ててるって。
でも青雉が来て、そうじゃなかったって気付かされた。
今もまだ私は後ろで震えてるだけで、クレスに守ってもらってた。そして私の存在が未だにクレスを傷つけているんだって」
「……それが理由か?」
ロビンは小さく頷いた。
だから、クレスに自身を守って来た理由を聞きたくなったのだろう。
クレスはその意志をくみ取り、絡んだ糸を解くようにゆっくりと語る。
「……母さんとの約束もあったけど、オレは……そういうもんだと思っていた。
お前も気が付いてたと思うけど、オレは……“普通”じゃ、無かった。
それを煩わしく思ったことはないけど、その分、やれることはやらないとって思ってた。
そして何より、お前は幼なじみで、家族も同然だ。見捨てるって言う選択肢がそもそもなかった」
それは偽ることの無いクレスの気持ち。
ロビンを守る事が、クレスの願いであり希望でもあった。
ある意味では、クレスはロビンに依存していたのかもしれない。
逃げ出したくなるような世界で、ロビンの存在は希望であり、守るという行為は救いでもあった。
「……優しいのね」
クレスの言葉を聞き、ロビンはそう表現した。
───違う。
クレスはロビンの言葉を肯定できずにいる自分を自覚した。
この感情は、もっと利己的で、自分勝手なものの筈なのだ。
だが、クレスは何故かその事を言葉に表す事が出来なかった。
口を閉ざしたクレスの前で、ロビンは膝の上で重ねてた自身の手を強く握る。
暫くの時間を置いて、伏せられていた視線が意を決したようにクレスと交差した。
「でも、私はその優しさに甘えたくはない」
正面から覗いた決意。
その意志にクレスは揺らいだ。
「もう、私のせいで傷つくあなたを見たくない。だからお願い……もう、私を守らないで」
そう言い、ロビンは立ち上がる。
その姿にクレスの中にどうしようもない焦りがこみ上げた。
「ロビン……!!」
感情より先に身体が動いた。
背を向けたロビンの肩を掴み、真っ直ぐに視線を合わせる。
何かを言おうとしたわけではない。だが、こうやって引き留めずにはいられなかった。
「クレス……痛い……」
「……ッ……すまん」
自分が思っている以上に力の篭った手を離す。
ロビンは自分の肩を抱き、クレスから視線を逸らした。
「ごめんなさい、こんな話をして。……少し、一人にしてほしいの」
離れて行くロビンにクレスは何か言おうとして、それが言葉となる事はなかった。
引き留めようと持ち上げた腕が無性に情けなくて、無理やりに拳を握った。
◆ ◆ ◆
青雉との邂逅から5日。
海も穏やかなその日に、クレスもルフィも無事回復を果たす事ができ、一味は次の島へと向けて出港した。
一味は二人の体調を気にしてはいたが、元より異常なまでに丈夫な二人だ。負傷した事が嘘のように自由に動き回っていた。
一味を乗せ、メリー号は青い海を突き進む。
現在は出航より三日目の朝。
空は快晴。気候は春ときどき夏。南風が頬を撫でた。
「う~~ん、いい天気」
温かな陽光を浴びながら、甲板に椅子を広げたナミが気持ちよさそうに伸びをする。
今は波も穏やかで、一味は思い思いの時を過ごしていた。
「なぁ~、クレス、まだ釣れねェのか?」
「……」
ナミの視線の先には、側壁に座り込み釣り糸を垂れているクレスと、釣れた魚を期待するルフィがいた。
もはや恒例ともなりつつある光景だ。
素人のナミから見ても、クレスは面白いほどに魚を釣り上げる。おかげで一味の食卓事情はかなり潤っていた。
以前のように餓死寸前(サンジのおかげでナミは無関係)になりかけていたのが嘘のようだ。
だが、今日はいつもと違い不調のようで、クレスの釣竿には魚が全く食いついていなかった。
「なんだよ、調子悪いのか?」
「悪いな……こういう日もある。
腹が減ったなら、キッチンに行って来い。コックがなんか作ってたぞ」
「お、そうか! 分かった」
ルフィはキッチンへと向かって行く。
クレスはそれを見送ると、ぼんやりとした様子で海へと視線を戻した。
そこには普段釣りをする時感じる独特の緊張感はなく、言ってしまえば、ただ闇雲に釣り糸を海の中に垂らしているようにも見えた。
その事が少し気になり、ナミはクレスに話しかけた。
「全然釣れてないみたいね、クレス」
「航海士か。……なんだ、お前も腹でも減ったのか?」
「違うわよ。ほら、アンタいつもはもっとバンバン釣り上げてるじゃない。
ルフィと一緒で忘れかけてたけど、アンタも一応怪我人だったんだし、調子でも悪いのかと思って」
「体の方は問題ない。
今すぐ海に飛び込んで、海王類を殴りつけても平気なぐらいだ」
「……そこまで求めてないわよ。ならいいんだけど。
なんかいつもと違うのよね、もしかしてロビンと喧嘩でもした?」
「………」
「……もしかして図星?」
黙りこんでしまったクレスにナミは呆れたようにため息をついた。
そう言えば思い当たる節があった。二人は普段通りに見えるのだが、ふとした時にその違和感を感じるのだ。
それはたとえば今も。
いつもの光景を思い返してみれば、天気がいい日に釣り糸を垂れるクレスの傍には、必ず本を開くロビンの姿があった。
「ちゃんとお礼とか言ったんでしょうね?
アンタが寝込んでいる間、ロビンがほとんど寝ないで看病してたんだから」
「……言ったよ、ちゃんとな」
「じゃあ、アンタの余りの甘党っぷりに付き合いきれなくなったとか?
アンタ何にでもとりあえず砂糖かシロップ入れるじゃない。サンジ君の作ったカレーに入れた時はさすがにおかしくなったのかと思ったけど」
「あれはコックが悪い。オレは辛いのと苦いのが何よりも嫌いなんだよ」
クレスは手に持っていた釣竿の糸を一端回収し、小さく舌打ち。
エサが無くなっている釣り針に新しいエサを取りつけ再び海に放った。
「まぁ、理由はなんとなくわかってる」
「なら早めに謝っときなさいよ」
「……ああ、分かってる」
クレスは口を閉じ、釣竿へと視線を戻した。
どうやら余りこの問題には触れて欲しくはないようだ。
こういうのは本人同士のペースがあるだろうと、ナミは納得し、そしてふと思った疑問をクレスに投げかけてみた。
「今思ったんだけど、アンタとロビンの関係って何なの?
はじめはそういうものだと思ってたけど、何だか違うみたいだし……」
ナミの問いかけに対しクレスは暫く黙りこんだままだった。
しばらくすると、その沈黙に耐えかねるように、ポツリと独り言のように呟いた。
「オレとアイツは……幼なじみだ」
「……アンタはそれで───」
ナミは言葉を紡ごうとしたが、そこで行き詰まってしまう。
僅かな逡巡の後、言葉を続けようとして、
「ナミさ~~ん、おやつ持って来たぁ! ジャガイモのパイユだよ~~~!
っておい、クレス! てめェ、ナミさんに近いんだよ、離れろ、すり潰すぞコラァ!!」
「サンジ君……ハァ……」
「アレ? どうしたのナミさん、もしかしておれの熱い視線によろめいちゃったとか? 照れるなァ~~」
突然のサンジの登場にナミは毒気を抜かれてしまった。
クレスもうるさいのが来たとあからさまなため息を吐いて、犬を追い払うように手を振っていた。
ナミはこの話は終わりだと明るい声でクレスに言う。
「まぁ、いいわ。個人的には気になるけど、私がとやかく言う事でもないし」
「……そうか」
「それよりもその釣竿引いてるみたいだけどいいの?」
「ん? ああ、そうだな」
クレスは撓り始めた釣竿のリールをゆっくりと巻いて行く。撓り具合から見ると結構な大物だろう。
いつもに比べると精彩を欠いていたクレスの動きだったが、それでも順調に魚は船へと向かって近づき、そして水の中から飛び出した。
「へェ……結構大きいじゃない」
魚は八十センチ程で、色鮮やかな赤い鱗を持っていた。
薔薇にも似た美しい鱗にナミが面白がって触ろうとしたが、クレスの鋭い声が飛んだ。
「待て、触んな!」
「えっ……なんで?」
ナミは驚いて動きを止める。
そんなナミをサンジが庇うように魚から引き離す。
「クレスの言う通りだ、ナミさん。コイツは猛毒で有名な魚だ」
「……げ」
サンジの言葉にナミは顔を青くする。
そんなナミにクレスが魚の生態を話した。
「アカバラウオ……<海の毒薔薇>とも言われる猛毒魚だ。
海王類でもコイツの毒を受けると、数分で死に至る。
しかも、毒抜きがめんどくさい上に、調理しても不味い。観賞用にするにも世話が難しいし、扱いづらい魚だな」
「美しい薔薇には毒の棘があるってことさ、ナミさん」
「ちなみに、コイツは毒をとばして攻撃する」
「怖いわッ! もう分かったから何とかして!!」
「まぁ……不注意だったな。悪かった」
クレスは黒手袋を装着すると慎重に針を外し、毒魚を海へと返した。
そしておもむろに釣り用具を片付け始めた。さすがに釣りを続ける気分では無くなったのだろう。
「……生きるためには毒が必要。それを自らで望んだ、か」
「ん? クレス、何か言った?」
「いいや、何でもない。
そういやコック、その手に持ってるやつオレにもくれ」
「てめェのはキッチンにある、自分で取ってこい」
「あいよ」
クレスは真っ直ぐにキッチンへと向かって行く。
ナミはその後ろ姿をしばらく見ていたが、甲板に広げた椅子へと戻るとそこに座り直し、サンジにドリンクを頼む。
その時、クレスの背から小さな呟きが洩れた。
「……オレはそうなって欲しくなかった」
だが、その呟きは風にさらわれ誰の耳にも届くことはなかった。