火種を受け取って、足元に小さく火を焚く。
赤い炎の揺らめきと伝わる仄かな温もりに、知らず安堵にも似た吐息がこぼれる。
かいがいしく世話を焼いてくれるくぅちゃんに感謝を向けると、やさしい笑みが返ってきて、それも私を温かくする。
運び手にもお礼を言えば、それは丁寧に遮られた。
彼らは私達の眼前で膝をつき、静かに胡坐(あぐら)をかいて座った。
老武士は手本にしたくなるような綺麗な礼をとる。
少年もそれに倣い、小さな旋毛(つむじ)が見えるほど頭を下げた。
――――― 戦国奇譚 第一部 完 (下)―――――
「日吉殿。このたびのこと、重ね重ね厚く御礼申し上げます。
火急の旅故、恥ずかしながら今は礼を形にもできませぬが後(のち)に必ず」
「どうか頭をあげて下さい。
お詫びもお礼も、心のこもったお言葉をたくさんいただきました。
私達は一介の傀儡子(くぐつし)。座長も、「これ以上は」と申し上げたと思います。
皆も傷つかなかった、人を助けることもできた、ほんとはそれで充分なんです」
「ありがたいお言葉いたみいります。
詳しくは話せませんが、今、この方は一国のかかった重要なお立場。
しかし貴殿が手を差し伸べて下さらなければ、我らには竹千代様をお救いする術はなかった。
……浅慮にも刀を向ける無礼をなしたこと、まこと申し訳なく慙愧に堪えません。
これより我ら一同、日吉社に深く帰依し奉りまして、お詫びの代わりとなす所存」
「それは、ええと、ありがとうございます」
彼の言葉から、完全に私達は神様とワンセット扱いされているのがわかる。
やはりそっちに行っちゃってるのかと、難しい感謝の言葉を脳内翻訳しつつ、ちょっと滅入った。
でもいまさら「あれは奇跡ではなく技術なんです」と、説明するのも無理なので仕方ない。
武士の横では竹千代も同意なのか、一緒に礼儀正しく頭を下げているのを見やる。
元気になったのは嬉しい。けれど、出来れば寝ていてくれた方が安心なのにとも思う。
もう夜も遅い、何もなくても子供は寝る時間だ。感謝の気持ちを表してくれるなら、明日の朝でもかまわないのに。
いっそ神の御威光とやらをかさに着て、絶対安静を申しつけてみようかという悪戯心が、ふとわき起こる。
いや、悪戯心ではないか。
面倒くさいことを考えるのは疲れたから、皆寝てしまえばいいのにという、なげやりな気持ちが多めかもしれない。
でもそれを幼い竹千代にぶつけるのは大人げないと多少は自戒し、やわらかな言い回しに換えてなげかける。
「竹千代様。
手足に力が戻られたようで、良かったです。
でもまだ大事をとってお休みになられていた方がいいと思います。
心の臓も、息を吸い込む肺も、水に驚いて一時動くのを止めてしまったくらいなんですから。
過信はせず、ご自分のからだを大切になさらなければ。
……歩いてみて胸が苦しかったり、どこか痛かったりなどはありませんでしたか?」
「はい。
いたいところも、苦しいところもありません。
日吉さま、ありがとうございました」
「私に『さま』などいらないです。
竹千代様こそ身分のあるかたとお見受けします。
神社と被っちゃってるので少し呼びにくいかもしれませんが、『ひよし』とそのままお呼びください」
「いいえ、日吉さまには命を救っていただきました。
父上は『受けた恩を忘れてはいけない』と、いつも言っておられます。
竹千代も、日吉社のかんなぎさまにいただいたこのご恩、しゅうせい忘れません」
「……巫(かんなぎ)、って…」
「城をでるとき、三河をたのむと父上に言われました。
大事なお役目なのに、はたせなければ竹千代は不孝者となってしまいます。
お国のためとなるならば、竹千代は死をもいといません。そう父上と約束したのです。
でも死んでしまっては、おわびに腹も切れません」
「っ。
自ら、死を選ぶ、のですか?」
「はい。
武士の覚悟です」
5歳の少年の堂々とした自傷宣言に、私の疲れた頭は横殴りでもされたかのようにショックを受けた。
……彼、竹千代は一人では着替えられない子供だ。
太夫達に手とり足とり手伝ってもらわなければ、着物の紐一つ自分では結べない幼子。
農家の5歳児なら最低限は一人でやれと放っておかれて覚えることを、彼は何もできなかった。
周りにやってくれる使用人がいっぱいいるのだろうと、見ていてそう思わせる様子だった。
例え訳ありでも、護衛の武士を大勢使うことの許される守られる立場をみてもそう思う。
いいところの子だろうから、大切にされ甘やかされていたのだろうなと、そんなふうに見ていた。
でも、百姓の子は幼いうちから自立を求められるが、命をかけての責任など負わされたりはしない。
守ってくれるのは肉親くらいしかいないけれど、幼いうちから他者の為に生きる覚悟などいらない。
竹千代の言葉には、ためらいはなかった。
それが私の胸を塞ぐ。
「詫び腹」「追腹」「無念腹」、主をいさめるための諫死(かんし)にさえ武士は腹を切る。
国が落ちれば、女ならば助命の可能性もあるが、男は幼くても命を共にする。
竹千代も武士の子として、「死」は当然の帰結と教わっているのだろう。
彼が自分の言った言葉をどのくらい理解しているのかまでは、わからない。
けれど、その言葉どおりを疑いなく実行するだろうということは信じられた。
私がわからないと思っている、身分の違い。生まれの差。
その心のありようの違いが、拙く幼い子供の言葉だからこそ余計に生々しく、私の胸に突き付けられる。
もう少し大人になった分別のつく年代が言ったのなら、ここまでその差を痛ましく思えたりはしなかった。
「三河の子……」
「はい!
父上も、そう竹千代を呼びます。
それを誇りとせよ、と」
私のぽつりと零した言葉を拾って、竹千代が嬉しそうな顔を見せる。
その純粋な親愛が、痛い。
私の頭の中に、近隣の情勢が浮かぶ。
詮索を望まないようだから深く考えまいとしていたが、私の耳は彼らの情報をちゃんと拾っていた。
今までの彼らの台詞と三つの国名をヒントとして、この状況はひも解ける。
争い続く、「尾張」と「三河」。
夜半人目を避けて移動する、三河の力ある武士の子供。
その子を失いかけた時、首を差し出してまで詫びなければいけない相手がいる。
死を持っての謝罪は、三河の主だけではなく、「今川方」にも及ぶ。
こうなれば見えてくるのは、「今川」と「三河」との密約だ。
子供を相手に渡してまで結ばれる繋がりが意味するものは、同盟か、援軍の求めか。
「尾張」と戦うために差し出される、この子は人質だ。
竹千代の覚悟は、形ばかりの理想ではなく、すぐさま直面する現実だった。
彼の父が、どんなに「恩を忘れない人」であっても。
国を守るためには、情勢によって立場を変なければならないこともある。
肉親すら切り捨て敵にまわしても、最善を選び生き抜く。それが出来なければ、この時代の国責は負えない。
私が助けたばかりのこの小さな子供は、これから命の危険にさらされる場所に行くのだ。
心音を呼び戻すために叩いた、胸の冷たさが指先によみがえる。
浜辺に力なく倒れていた姿と重なる想像に、私は貧血にも似た眩暈(めまい)を感じる。
私が呼吸を吹き込み、必死になって命を呼び戻した子供は、またすぐに死んでしまうかもしれない。
そんなのは嫌だと思った瞬間、―――魔が、さした。
「竹千代様は、御父上が大好きなのですね」
「はい」
「一度は失った命。けれど竹千代様はちゃんと戻ってこられました。
再び息を吹き返されたこと、御父上は喜ばれると思われますか?」
「? …はい」
「私も同じです。
竹千代様の御父上も、竹千代様が生きておられることを望んで下さっていると思います。
日吉社の神様が、竹千代様にそう望まれたように」
「日吉の神様も、父上と、おなじ……」
私は、子供の中の言葉をすり替える。
順番を並べ替え、誰の否定も言わず、けれどほんの少しずつ私の望む方へとずらしていく。
「そうです。
お役目をはたすまでは死ねないという、尊い志。
守りとおす強い心を持ってはじめて、約束は意味をなします。
竹千代様は、御父上との約束を守ろうとなさいました。
きっと御父上も、褒めて下さるのではないでしょうか」
「ちちうえ……」
「日吉の神も、その御心を認められたのだと思います。
竹千代様には大事なお役目があると知って、命を返して下さったのだと。
役目を果たそうという志は、言祝がれるべきもの。
やらなければならないことがあるから、竹千代様は還ってこられたのです」
私の長い台詞の全てを、幼い彼が理解する必要はない。大切なのはキーワードだ。
竹千代がすでに覚えている重要な単語を何度も繰り返し、その記憶の狭間に割り込む下地を作る。
落ち着いた聞き取りやすいアルトの声音に、繊細な緩急強弱をつけ、意識をそらさせず。
「強い」や「褒める」といった正(プラス)の印象を重ねイメージを強化しながら、心をつかんでいく。
そして、これが最後の仕上げ。
「竹千代様。
竹千代様は先ほど、『終世恩を忘れず』と約束して下さいましたね?」
「はい」
「ならば、どうか私の言葉を共に忘れずに覚えておいてください」
無垢な黒い瞳が、焚火の炎を映して濡れたように光る。
かすかに笑みを含ませ、たたみこむように続いた言葉をやわらかに緩め。
私を映すその目としっかりと視線を合わせ、解けた心の隙間に手を入れて。
知っている言葉に反応し真剣に耳を傾ける彼を、からめ取る。
神聖な巫女ではなく魔女の囁きを駆使し、心開いた竹千代の耳に自分の願いを注ぎこむ。
「生きなさい。
助かったことを神の加護と思うなら、生きて、あなたの役目を果しなさい。
この先、不遇なことも、辛く苦しいこともあるでしょう。
ですがあなたには、死をも覆すだけの力がありました。
生きることは武士の誇りを汚すことではありません。
耐えることも、忍ぶことも、竹千代様にはそれが出来るだけの強い心があると私は信じます。
御父上から授かったお役目は一つ。
けれど日吉の神は、きっともっとたくさんのお役目を竹千代様に望まれているはずです。
あなたには、果たすべき使命が必ずあります。
だからこそ、竹千代様は生かされたのだと。 どうか、それを忘れないで」
「……神様にいただいたお役目を、はたすまで。
竹千代は、死んではならないのですか」
声音を変えた強い呼びかけに一つ震え、息を呑む竹千代。
たどたどしく返してくる問いかけに、彼の揺れる心が見える。
幼い眼のなかに、父を信じ隠していた怯えと迷いが姿を現す。
そう誰だって、死に対して怖さを感じないはずはない。
私はしっかりと頷いて、竹千代の迷いさえ奪う。
「はい、竹千代様。
それが、あなたに託された命。私の願い。
私は、あなたがどんな時も、生を選んでくれることを、望みます」
少しだけ視線をやれば、竹千代の傍らの老武士は静かに目を伏せている。
彼は黙したまま、最後まで私の言葉に口をはさまなかった。
私は心の中で、謝罪と礼を向ける。
私は武士ではないし竹千代の部下でもないから、この先、彼を近くで守ってやることはできない。
彼の家の教育方針、武士のありようを捻じ曲げるなど、本来は許されないことだ。
でも、これがエゴだとわかっていても、唆さずにはいられなかった。
5歳の子供が死の覚悟だけを持って人質に行くことを、黙って見すごすなど私には出来ない。
「死」の答えしか持たず危険な場所に赴くのでは、自殺しに行くのと同じじゃないか。
生きたいと強く望む気持ちがあれば、土壇場だって奇跡が起きるかもしれないのに。
私が助けた命なのだ。
どんな環境にあっても投げ出さず、最後まであきらめず、生き抜いてもらいたいと強く願う。
途中で何か言われるかと思ったくぅちゃんも私の隣で何も言わず、お目付役の老武士に遮られもせず。
誰に邪魔されることもなく、私の竹千代プチ洗脳作戦は無事完了した。
…………。
……これは見苦しい言い訳だが、今晩は精神的にも上下が激しかったし、私の疲労もピークだった。
自身の生死を潜り抜け、他人の生死を左右して、やっと息を抜いたところに「子供の死の覚悟」だ。
予想もしていなかった竹千代の言葉にとどめを刺され、私のメーターが振り切れていたっておかしくはない。
少し頭が醒めて我にかえれば、偉いことをしでかしちゃったなという感はある。
もちろん後悔なんて全くしていないけれど。
でもあのテンションの高さは、ランナーズハイのように脳内麻薬でも出ていたとしか言いようがない。
思い返すと、随分大きなことを言ったなと赤面ものだ……。
というわけで、ハイな私が台詞の中で「神様」を連呼したせいか、少年の私を見る目は前にも増して恭しくなっている。
影響力を強めるため彼の大好きな「父上」を並べたのも混ざって、効果は相乗しているらしい。
きらきらとこっちを見る目には慕う色が隠されもせず、とてもかわいい。
少女のようなかっこも合い余って、撫でまわしたくほどの愛らしさに、……良心が痛む。
純真な子を誑かしてしまった、ばつの悪さが私をちくちくと苛む。
だから私との「約束を思い出すよすがに何かを」とねだられて、二つ返事で頷いてしまった。
この時ばかりはくぅちゃんもものすごく何か言いたげだったけれど、止められるまでではなかった。
何がいいかなと考えなくても、竹千代にあげられそうな私の持ち物など、実はたった一つしかない。
一座で買ったものは皆の物なので、私専有を主張できるのは私自身が貰ったものだけ。
その数少ない持ち物の中から、以前吉法師に貰った瓢箪(ひょうたん)に結ばれていた赤い紐を私は選ぶ。
朱糸の中に一本ずつ細い金と緑がひそかに編みこまれている地味ながら良い品だ。
火打ち石や瓢箪までは、さすがに竹千代相手でも手放す気にはなれない。
それでも「これしかないけれど」と渡した赤い紐を、竹千代は満面の笑みで受け取ってくれた。
堅苦しさも取れて年相応に喜ぶ彼の様子には心慰められ、とても和む。
持ち物の話をきっかけに、彼のまだ知らない日用品の話などもぽつぽつと話す。
木綿や竹の話、旅の話。寝物語をもっととせがむ幼子のように甘えられては無下にも出来ない。
話しながら、うちの弟ももう少しすれば竹千代くらいになるのかなぁなんて、ぼんやり考えたりもした。
武士嫌いのくぅちゃんも竹千代の幼さにはそのうち絆され、何か聞かれれば丁寧に答えていたのはほほえましかった。
そしてさらに夜も更けて。
夜明け前の一番世界が暗い時。
竹千代一行の迎えが来る。
「戸田殿、御約束の刻限はとうに過ぎておりますぞ」
「申し訳ない。
おお、竹千代様。ずいぶんとかわいらしいお姿で」
「おじいさま……」
「戸田殿!」
「ふむ、それよりも、随分と大所帯になりましたな」
私達は彼らの邪魔にならないよう脇に控えていた。
迎えの武士達は、ここまでの一行よりも若手が多いようだ。
それを率いる年配者一人が竹千代の様子から身内だとはわかるけれど、どうも温度差がある感じもする。
あの老武士に咎められても適当にかわす誠意のなさは、見ていて気持ちのいいものではない。
紹介したいからと頼まれ私達もまだこの場に居るのだが、歓迎されていない雰囲気もあからさまなのだ。
でも不審者扱いは私達のいる状況を説明するまでは、当然のこと。
しかし、この胸が悪くなるような嫌な予感はなんだろう。
竹千代が移動するために示された籠にのりこむ時に見せた、怯えたな眼。
駆け寄ることはおろか、声をかけることさえできなかったけれど、それもさらに不安を煽る。
そして、竹千代の姿が視界から消えて、わずか一拍。
「竹千代様を先に」との号令に、戸惑いと反論の声を上げる者達に向けて―――、
裏切りの刃が抜かれる。
交わされる剣戟、怒号。罵声と、血臭。
味方と思っていた相手からの抜き打ちの一撃に、手傷を負った者は多い。
「日吉!」「日吉!!」
名を呼ぶ声に手を伸ばすのが精一杯、足は重く疲労に筋が軋む。
引き摺るようにそれでも踏み出して、私も生きるために足掻く。
人にばかり勧めて、自分は生きることを諦めるなんて、そんな無様な真似は晒せない。
「くぅちゃん…」「日吉、うしろっ!」
かわすため前に倒れこむが、背には熱。
誰かが割り込んで追撃に剣を合わせ、私をかばう。
「行かれよ、日吉殿」「えっ……」
背後の声。誰かにつかまれた手。
指先を包む温もりは、痛いほどの力で走れと告げる。
耳を打つ荒い息の中で、誰の声も、もう聞こえない。
熱さに似た痛みと、手を引く感触だけを残して、視界も闇へ。
その後、どれほど走れただろうか。
この手を引いてくれる誰かと一緒に逃げなければとの思いだけを残して、私の意識は途切れた。
第一部 完