──捨て猫は、人間に懐かない。人間が自分を捨てたことを、憶えているから。
◆
──蒸し暑い。今は六月、夏はまだのはずなのに、なぜだかとても蒸し暑かった。
ソファの上で目を覚ますと、タオルケットが体にかかっていた。寝る前にそんなものをかけた記憶はないので、多分家主殿がかけてくれたのだろう、と一人得心する。
ふと、髪に手の感触があることに気がついた。そういえば、頭の下がなんだか柔らかい気もする。……やれやれ。またいつもの“あれ”をやられているらしい。
「……ん、起こしてしもた? ごめんなぁ」
頭の上から、聞き慣れた声が聞こえた。家主殿の声だ。彼女の声は歳のわりに大人びていて、その響きはどこか安心させられるようなものなのだが……時折、こんな風にオレをペット扱いしてくる。まったくもって、困ったものだ。
「ちーちゃん、またこんなとこで寝て……、だめやよ? 風邪ひいてまうで?」
「…………」
頭を撫でられていることへの抗議を込めて、あえて返事をしない。子供っぽい行動であることは分かっているが、何だか面白くないのだからしょうがない。
第一、自分より十は幼い子供にペット扱いされて、嬉しい人間はあまりいないだろう。少なくともオレは嬉しくない。
「もう、ちーちゃんはまた意地張って。悪い子には、御飯あげへんで?」
「……うるさいな、どこで寝るかなんてオレの勝手だろう。それと頭を撫でるな、背筋がムズムズする」
……悲しいかな、こちとら居候の身。食事を引き合いに出されれば折れるしかない。とんがった口調くらいは、許してもらいたいものだ。
「あー、まーた“オレ”何て言うて! “私”言いていつもゆーとるやんか! それに乱暴な言葉使いも、ダメ!」
後半部分は無視されて、心の声も届いていなかった。さりとて霞を食べて生きていける体はしていないので、無視するわけにもいかないのが辛いところだ。せめてもの抵抗として首を回して家主殿の顔を睨み付けるが、彼女には一向に堪えた様子が見えない。
……別に、いいじゃないか。女が自分のことを“オレ”って言ったって。
「……石田先生は、似合ってるって言ってくれた」
「よそはよそ! ウチはウチ!」
「何だそりゃ」
「大体、こんなに可愛いんやから……もっと気い張っておしゃれせな、せっかくの美人が台無しやで?」
「…………」
そうニコニコと言う家主殿──八神はやてを一層強く睨む。やっぱりこいつ、オレのことをペットか何かだと勘違いしてやがる。この歳でこんなんなんだから、きっと将来のあだ名は“狸”に違いないな。何て奴の被護下に入っちまったんだか。
──まあ、そうは言っても。
こいつと一緒に暮らす生活を、心地よく感じている自分もいるわけだが。
◆
葛城千早。それがオレの名前だ。枕草子にも出てくる不細工な神様を彷彿とさせる名前ではあるが、幸いなのか不幸なのか、オレは不細工にはならなかった。
むしろ、人に言わせればオレは美人の類らしい。黒髪に黒目、高くも低くもない身長。髪は肩口でばっさり切ってあり、やったのは自分だ。理由は床屋に行くのが面倒だから。
化粧なんて、興味もないから全然していない。服装もあるものを適当に。だというのに、なぜか皆オレを美人だともてはやす。まったく意味が分からない。
大体、美人だったらこれまでの人生、もっと楽に生きられたと思う。美人薄命と言われるがありゃ嘘っぱちで、“美人でいられるのが短い期間”なだけだ。実際は美人ってだけでよく分からない“はく”がついて、そいつの人生は概ねパラダイスだ。
だから何が言いたいかっていうと、オレは世間的に言えば不幸な人生ってやつを送ってきたんだと思うってことだ。
まず、親に捨てられた。五歳の時、オレを託児所に預けたまんま二人は行方をくらました。よく分からんが、養育費が払えなくなったらしい。
んで次に、変なオッサン達が託児所にやってきて、オレを引き取った。いわゆるヤのつく人達だった。どうやら両親は借金も大変なことになっていて、まあつまりオレは売られたわけだ。もちろん、当時はんなこと分かっちゃいなかったが。
そこでオレは……まあ、なんつうか、まずは普通に臓器をとられた。一応彼らも人の子で、死にはしないようにしてくれたが……まぁそんなわけで、オレは本来二つあるはずの臓器が、皆一つしかない。
そしてその後は、わりと普通に育てられた。学校も行かせてもらえたし、結構大切にしてくれた。
……ま、“商品”としてだったが。十歳位から将来の片鱗が見えた(らしい)オレは、ことさら大切に扱われた。……十二で“始めて”を奪われた時は、ちょっとキツかったが。思えば、オレが“オレ”って言い始めたのはそのころだったような気がする。
それから十八までは、昼は普通に学校に行き、夜は店で男の相手ってな生活が続いた。世間がどう思うかは知らないが、オレはその生活に結構満足していた。
生来の怠け者だからかどうかは知らないが、オレは自分の状況にあまりこだわらない性向がある。嫌なのは死ぬこととめんどいこと、オレにとってはメタボリックなおっさんどもの相手よりも、中間や期末の試験のほうがずっと厄介な話だった。麻痺してたのかもしれないが。
ま、そんなこんなでわりと充実の人生を送っていたオレは、
──ある日突然、世界に捨てられた。
思い返せば半年程前、オレは高校からの帰宅途中だった。そうしたら突然、何だかよく分からない黒い穴がオレの足下に開き、オレはその中に落っこちた。
落っこちた穴の中で、オレは変な奴に会った。自称神だ。自分で言ってるんだし、多分そう何だと思う。
まあそいつが神かどうかは置いといて、奴いわく、オレの両親が死んだらしい。それはいいんだが、どうやらオレの両親は結構な人格者だったらしく、奴としてはどうにかして両親を天国にやりたい。しかしオレという肉親を捨てた罪は重く、それだけで地獄行きは必定。逆に言えば、それさえなければ両親は天国に行ける。
そこで奴は考えた。邪魔なオレの存在そのものを消せば、万事解決じゃないかと。それにオレは姦淫の罪を犯しているし、娼婦だし、神の御加護は対象外なのだからちょうどいいや、と。
いやはや、何とも言えない。某エクソシストの出てくる映画のような神の愛の適当さに、オレは呆れのため息をもらした。そして、命までは取らん、これが神の愛だ、なんて奴の言葉に送られて、オレは世界に捨てられ、別の世界に放り込まれた。
◆
「──ちーちゃん、お昼パスタでええ? ミートソースの」
昔のことを思い出しながらだらだらテレビを見ていると(いいともやってた)、はやてがそんなことを聞いてきた。オレが料理できないのもこの家のなかでヒエラルキー下位な原因なのかな、とふと思う。二人しかいないが。
「んー……ん、それでいいよ」
「分かったー。ほなすぐ出来るから待っとりー」
「うーい」
キッチンで鼻歌交じりに調理を行うはやては、車椅子に乗っていた。何でも、昔からの病気なんだそうだ。だから可哀想だ、とは思わないが、日常を過ごす上で面倒だろうな、とは思う。両親もかなり前に死んじまったらしいし。
考えてみれば、オレの境遇を詳しく語ったことはない。あの日、降り積もる雪の中でわりと途方に暮れていたオレは、はやてに出会った。金はない。保険はない。家もない。戸籍すらない。さすがに戸籍がなかったことはないオレは、警察に助けを求めるわけにもいかずにかなり困っていた。大体面倒なことは性に合わないのだ。
現代人は、わりと冷たい。そして小利口だ。オレも含めて彼らは見知らぬ学生服の女が路上に立ち尽くしていたとて、どうせどっかの学生が遊んでいるか帰宅している最中だと勝手に結論づけて、すぐに意識から追い出してしまう。
──だから、きっと幸運だったのだろう。あの日、八神はやてと出会うことができたのは。
「──なあ、はやて」
「ん? どしたん、ちーちゃん」
料理の手を止めずに、はやてが返事をする。どうやら佳境に入っているようで、こちらにもいい匂いが漂ってきた。
「始めて会ったとき……何で、オレを家に招いたんだ? 言っちゃあなんだが、あの時のオレはただの学生にしか見えなかったろ?」
「ああ、あの時? ……んー、何て言うんかなぁ……」
はやての表情は見えないので推測するしかないが、なんとなく、彼女は笑っている、それも苦笑しているんだろうな、と思った。オレの乱暴な言葉使いをたしなめる時のように、歳不相応に大人びた、けれど可憐と称するにふさわしい笑顔を。
「……ちーちゃんが捨て猫さんみたいな感じやったから、つい、な」
「……捨て猫?」
「そ、捨て猫さん。それも、もう何年も相手にしてもらえへんで、一人の人生にも慣れとって、でもやっぱり寂しいのは嫌で……、ってな、可哀想な捨て猫さん。ちーちゃん、そんな感じやったから……」
……なるほど。捨て猫、ね。言い得て妙だ。
オレは確かに、捨て猫だ。家族に捨てられ、世界からも捨てられた。今でははやてに紹介してもらった良心的な女医からしか治療も診察も受けられないし、気楽に家から外出することもできない。
はやては、オレと似たような境遇の子だ。だから、直感的にそんなことが分かったんだろう。
だけどやっぱり彼女は人間で、オレは捨て猫だ。
「……はやて、知ってるか? 捨て猫は、人間に懐かない。一度捨てられてしまったから、もう信じることができないんだ」
「やけど、ちーちゃんはいなくなったりせぇへんやろ? “ここ”が気に入っとるから」
「──クッ」
……ああ、だけど本当に──、
「──適わない、な」
「おお、やーっと気がついたん? ペットは飼い主さんに適わへんのやで? ──ほな御飯にしよか、ちーちゃん、お皿出しといてーな」
「はいはい──っと」
──捨て猫は、人間に懐かない。人間が自分を捨てたことを、憶えているから。
でもきっと、捨て猫は人間と共にしか生きられないんだろう。人間の温もりを、憶えているから。
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ちーちゃん可愛い、と思った人。あなたは私と同じ人種です。
しかし、書いてて自分で作ったちーちゃん……つかまあ元キャラの両儀さんちのお嬢さんに萌えました。はやての家に転がり込んだ式……が元ネタのはずだったのが、いつのまにか暗い過去持ちに……なぜ?
サブタイは「捨て猫ちーちゃんとオカンなはやてちゃん」。百合ではない。そしてここから長編が始まりそうだが、始まらない。私の長編は執務官一本である。……でもなんか、ちーちゃん出したくなってきた……。
ちなみに、時間軸ははやての九歳の誕生日直前。実はちーちゃんには世界に捨てられた時に発現したスキル『Stray Cat』がある(そのまんまやがな)とか、魔力は飛行がぎりぎりできるくらいはあるけど高所恐怖症だから空飛べない、とか色々設定があるけど……まあ、要望があれば上げます。
それでは、最後に一言。
ちーちゃんは……、ちーちゃんは、ツンデレじゃねぇぇぇぇぇ!(作者魂の叫び)
ではまた〜。
修正しました。
再修正しました。ちなみに、TYPE−MOON二次にちーちゃん出演は予定しておりませんので、ご了承ください。