この三年間、“あの時”にはいつも感じている感覚。夢から覚めるように唐突ではなく、一度まどろみ、それから緩やかに浮上していく意識。だが、彼女にとってそれは正しく夢の終わりを意味しているのだ。過ぎ去った現実。夢の中でさえ容易くは見させてはくれないその時を、一時とはいえ望む時に見せてくれる。そう、“夢の薬”さえあれば。
それがどれだけの代償を払わなくてはいけないことか、重々承知していたつもりだった。おそらく、いや、きっとこの“夢の薬”を使っている大抵の人はそういうつもりで手を出したのではないだろうか。だが、一度でもこの薬に手を出してしまえば、その中毒性以上に幻覚作用に魅せられ、もはや元の自分には戻れなくなってしまう。それが自分自身に自らの弱さを露呈させることになろうと、どれだけ近い将来の破滅を予見させようと、時間という境界線を取り払ってしまうこの魅力には打ち勝てなかった。
息子がいて、娘がいて、自分がいて、そして新たに一人の少年が家族として加わったあの頃。夢に見る日々は決まっていつも同じだ。今はもう娘以外の顔を見ることもない自分の家族。息子はどうなったのだろうか、彼は、ルルーシュ君はどうなっただろうか、不安は尽きない。せめて、娘だけでも傍におき、成人するまで、彼女が一人でも生きていけるようになるまではその姿を見届けようとしていたが、その娘にも一番身近にいるのに何もしてやれないどころか、忌み嫌われてしまっている。
当然と言えば当然の報い。覚悟もしていたし、耐えていけると思っていた。それが、たった一言の甘い囁きによって打ち砕かれたのだ。自分でもなんと意志の弱い人間だろうかと感じているけれども、もはや戻れないところまで来てしまっている。行き場のない不安は夢の中へと置き去られ、自分の身勝手さには自らの崩壊という形で幕が下りだろう。それすらもまた勝手な振る舞いだろうが、今となってはそれを咎める者もいない。ゲットーを娘を連れて出て行った日から、こうなることは決まっていたのかもしれない。自分のような愚か者には相応しい最期となるであろう。
夢の中から、現実へと引き戻される最中にそんなことを考えながらいたカレンの母。日本に戻ってきて少し感傷的になっているのかもしれない、と徐々にまとまりを取り戻しつつある思考の中で思う。それに伴い目の前に靄のようにかかっていた幻覚も晴れていく。後はいつものように薄暗い空間に放り出されるだけだ。
そう思っていたというのに彼女は、今回は何かが違うことを感じ取っていた。まず目の前が思っていたよりもさらに暗く、いや、黒く彩られている。それが服の生地であると気付くまでに若干の時間を要し、さらに自分が誰かに抱きしめられているということに気づくまでにさらに数瞬の時間がかかった。
これは夢の続きなのだろうか。訳が分からずにそっと顔を上げて、一体誰がこんな奇特なことをしているのだろうか確かめようとする母。そして、自分を腕の中に抱いている人物が誰なのかを知ることで、やはり自分は未だ夢から覚めてはいないのだろうと思わざるをえなかった。一年間も家族同然に過ごしていたのだ、成長して背が伸びようが、顔立ちが変わろうが、自分が見間違えるはずはない。
「ル、ルーシュ、君…」
うまく言葉にならない。なぜこんなところに。なぜこんな状況に。ルルーシュの体から伝わってくる体温が、痛いほどに力の籠められている腕が、これが現実の事象であることを伝えてくるのだが、彼女の頭は混乱するばかりで、それらの情報を処理しきれないでいる。
「はっ、そんなにその女が大事かい?だがな、もう分かってるたぁ思うが、これ以上首を突っ込もうなんざ考えねぇことだな」
ルルーシュばかりに気を取られていたため、彼女は自分の後ろに人が立っていることに、その声が聞こえてくるまで気付くことができなかった。声色や物言いから鑑みるに、薬を売っている者達の一人だろう。
「警察に垂れ込もうたって無駄だぜ。さっき見ただろ?あのナイトメアポリスをよぉ」
どすの利いた声でこちらを脅してくる男。自分には覚えがないことからそれがルルーシュに向けられたものであることが分かる。その雰囲気から、理由は分からないが、彼が良くないことに巻き込まれていることも。こんなところにいる時点で真っ当な展開になっていないことは予想できる上に、これからもろくなことがないであろうことにも予想がつくというものだ。いや、もうそんな事態になっているのだろう。彼の腕の中にいるためよくは分からないが、顔にはあざのようなものが見える。
「こっちはお前の名前も、通ってる学校も分かってるんだ。下手なことは考えるなよ、坊ちゃん?」
さらに増えた男の声。おそらくは売人の仲間だろう。
「その傷も家族には適当にごまかしを入れておくんだな。誰かに悟られるようなへまはするなよ?」
もはや、どう考えてもルルーシュが彼等に脅されていることは疑うべくもない。だというのに、彼女が心配になって覗き込んだルルーシュの顔は一瞬だけ、相手をせせら笑うように口が弧を描いていた。
「…ええ、大丈夫ですよ。嘘は得意なんです」
「カレンに会いました…。今、同じ学校に通ってるんです、俺達」
誰もいなくなった倉庫に残された二人。しばらくは無会話らしい会話もなく、青痣のついたルルーシュの頬を一度心配そうにカレンの母が撫でただけであった。それはゲットーで出会った日のような優しさを感じられる光景ではあったが、今の二人の間にはそれ以上の気まずさが流れている。そんな雰囲気の中ようやくルルーシュが発した最初の言葉が上記の物であった。
だが、“カレン”という名前を聞いた途端、カレンの母はびくっと体を震わせ、顔を俯かしてしまう。そして、弱々しい声で「あの子には…」と言葉にしたきり、顔を上げようともしない。ルルーシュにもその言葉が何を意味するのかは分かっていたし、通常ならばその場の気まずさに口を噤んでしまうであろうが、今はそれ以上に聞いておかなければいけないことがある。
「あいつは頑なにあなたの話題に触れることを嫌っていました。“あんな女なんて言い方までしていました”」
ここまで言ってもまだ彼女は顔を上げようとはしない。耳をふさぐようなこともせず、淡々とルルーシュの言葉を聞いているようだ。
「何があったか教えてくれませんか?あなたとカレンの間に何が…」
「あの子は何も悪くないの…。全部私のせいだから、そんな風に言われても何かを言える資格なんて、今の私にはないのよ」
ルルーシュの言葉を遮るようにしてそう言ったカレンの母は、ようやく下げていた頭を上げ、だが眼は伏せたままで、ぽつりぽつりとこの三年の間に起こったことを話し始めた。彼女からすればそれすらも贖罪の一部であったのかもしれないが。
ルルーシュがクラブハウスに帰ってこられたのは、日付も変わり学園の周りには誰一人としていない時間帯になってからであった。大きな建物なので少々の音を立てても人を起こすことはないだろうが、そこは人間に心理というか、ばれることを嫌うかのようにそっと音をたてないようにして中に入る。
その時のルルーシュの頭の中を駆け巡っていたのは、カレンの母から聞かされたこれまでのことであった。彼女がカレンを連れて、カレンの生家であるシュタットフェルト家へと赴き、今はそこでカレンはシュタットフェルト家の一人娘として、彼女はメイドとしてその身を置いていること。それがカレンの意思を全く無視しての行動であったこと。その結果としてカレンからは邪険にされていること。そして、精神的に疲弊していた頃、リフレイに手を出してしまったこと。そして、話し終えた後、彼女は頻りにカレンには話さないでいてほしいという言葉を繰り返していた。
なるほど、確かにその話を聞けばカレンが彼女をあそこまで嫌うことにも、彼女がリフレインなどに手を出してしまったことにも納得がいく。だが、それで終わっていていいはずがない。このままでいいはずがないのだ。
ルルーシュは自室へと辿り着くと部屋の電気を点けると、クローゼットの奥底に隠すようにして置いていた紙袋を取り出した。その中には大きな箱が一つだけ収められている。それは三年前に扇がルルーシュに渡してくれと言って和美に手渡したものだ。かつて一度だけ封を開けて以来、手にしてはいなかったもの。部屋の電灯に照らされたそれは鈍く光り、手にするとずしっとした重みがある。それを頭の高さまで持ち上げ、体の前へと突出す。ルルーシュが鏡に向かって立つと、そこに映し出された彼の手には銃が握られていた。
箱の中に銃と一緒に入れられていた手紙には扇の字で、“それはナオトがお前に用にといって用意していたものだ。必要だと感じたときに、お前が使わなくてはいけないと感じたときに使ってほしい”と書かれていた。
「使わなくてはいけない時…」
今をおいてそれが相応しい時があるだろうか。
「思っているだけでは、何も変えられない…」
それはかつて自分がカレンに言った言葉。ブリタニアを憎むだけで何もしようとしなかった者達へと向けた言葉。それが今、そっくりそのまま自分の下へと向けられている。結果はどうであれカレンの母は行動を起こした。娘に嫌われることなど覚悟の上で。
「確かに腑抜けていたみたいだな、俺は」
リスクを背負わないで起こすことのできる行動などない。始めから結果を恐れていて起こすことのできる行動も存在しない。守りたいものも、大切に思っているものも、今こうしている瞬間にも失われつつあるのかもしれない。自分が何もしないでもそれは起こりうる現実なのだから。ならば、自分が取るべき行動はただ一つだけだ。
人差指に力をこめ、引き金を引くとカチンという音がするだけで、弾は発射されない。以前見たときにマガジンは抜いておいたのでそれは想定の範囲内のことだ。ゆっくりと銃を下し、箱の中に収められているもう一つのものへと手を伸ばした。
とその時、突如としてルルーシュの部屋の戸を叩く音が聞こえてきた。状況が状況なだけにルルーシュは一瞬えも言えない緊張感に襲われたが、ここにいるのは咲世子か和美だけであったことことに思い当たると、銃と箱を紙袋の中へとしまい、その袋事態ももう一度クローゼットの中へと戻す。
「あっ、お帰りなさいませ」
そう言って深々と頭を下げたのは案の定、和美であった。もうとっくに仕事時間など終わっているにもかかわらず、今だに黒のワンピースにエプロンといういつもの作業姿のままだ。口調も畏まっている。
「何度かお電話さし上げたのですが、お分かりになりませんでしたか?」
そう言って小首を傾げた彼女にルルーシュは返答に詰まってしまった。言い訳も考えつかぬまま帰宅したことに、その時になってようやく思い至ったのだ。それほどその時のルルーシュの心の中はこれから自分が為すべきことに向けての思考に支配されていた。とっさにまずいと思い頬の痣を隠そうと手を伸ばしたが、それよりも早く和美の手がルルーシュの頬にふれる。
「怪我が…お怪我をなされているのですか?」
「だ、大丈夫だ。大したことはない。そ、それよりもこんな時間までなぜそんな恰好を?」
とっさにごまかすにしても随分と馬鹿な事を訊いた、とルルーシュはその言葉を言った後で内心自分を叱責した。
「どうにも無作法で、溜まっていた仕事がありしたので、寝る間も惜しまなくては明日に差し支えますので」
苦笑いを浮かべながらそう言った和美。そんなものは嘘であることはルルーシュにもすぐに分かる。いつも見ているわけではないが、彼女がそこまで不調法でないことは知っている。三年前ならいざ知らず、今の彼女がそんなへまを起こしはしないだろう。
待っていてくれたのか。言葉にはしないが、それを察することは難しくない。ルルーシュはただ、それが無性にうれしかった。自分の帰りを待ってくれている存在がいることが、とてもうれしかった。それは忘れかけていた感情の一つ。ゲットーでは当たり前のように得ることができた充足感を感じずにはいられなかった。
「今は聞かないでほしい。この傷のことも、今日何があったのかも。でも、いつか必ずお前にも話すことになると思う。だから、待っていてほしいその時まで」
その時が来るのはきっと日本をブリタニアの手か解放できた時になるであろう。我が儘な話だが、それまでこれからしようとしていることを知られるわけにもいかない。それに、と考えながらルルーシュは心配そうにしながらも真剣な面持ちでこちらを見ている和美の顔を見た。こうして自分の帰りを待ってくれている場所が、これから訪れるであろう過酷な日々の中で少しでも安らぎとなってくれる場所があってほしい。
「分かりました。今は何も聞きません…でも、お体大切になさって、無茶なことは決してなさらないでくださいね?」
そんなルルーシュの願いなど知る由もない和美であったが、彼の雰囲気に感じるものはあったようで、釘を刺した上で彼の言葉に従った。ルルーシュは若干の後ろめたさを感じながらも、「ありがとう」と礼を言うと、仕事はもういいから寝るようにと彼女に促す。すると和美はカチューシャを外し、今度は頭を下げずに「おやすみ」と言い自室へと
帰って行った。
「無茶はするな、か…」
和美の姿が完全に視界から来たことを確かめ、ルルーシュはぽつりと呟く。おそらく、いや、絶対にその彼女の願いを自分は破ることだろう。でなければ成し遂げられない目標があるのだから。だから、せめて彼女の前ではいつもの自分でいられるようにしよう。
ルルーシュが部屋の扉を閉めるとクラブハウスの廊下は暗闇と静寂に包まれた。それがまさしくルルーシュの予想をはるかに超えた嵐の前の静けさになろうとは、その時は思いもよらなかった。
「それで、あいつの帰りが遅かったことを私にどうしろって言うの?」
人気のない校舎と生垣の間にある薄暗い空間。そこで対峙する二人の少女。疑問を口にしたのはアッシュフォード学園の制服に身を包んだ少女、カレンだ。ルルーシュのことで話があると言って声をかけてきた昔の友人、麻倉和美から今彼女がルルーシュのメイドとして働いている経緯を軽く説明された後、和美の話し始めた話題が昨夜のルルーシュの帰宅の時間が遅かったということであった。
「まさか、私が関係してると思ってるの?だとしたら見当違いね。私は何も知らないわ」
どういった経緯で私が関係しているのではと思ったのだろうか、と思いながらもカレンはそう答えを返した。なんだか言いがかりをつけられているようで、ただでさえ悪かった機嫌は悪化する一方だ。
「それだけなら、何もわざわざカレンちゃんになんか訊きに来ないよ」
だというのに、和美から返された言葉はどこか挑発的で、カレンが知っている和美とはどこか違う物腰に、カレンは思わず面喰ってしまった。だがそれも一瞬のこと。ならばいったい何が言いたいのか、と目の前の和美に鋭いまなざしを向けるカレン。
「カレンちゃんが、あなたが日本に帰ってきてからずっとルルーシュ君の様子がいつもと違うの」
そんなカレンの眼差しにも一向に怯むことなく、真っすぐな視線を返す和美。そこには先ほど、カレンとの再会の時に見せたようなもじもじとした様子は全く感じられない。
「私、見てたよ、二人が言い合ってたところ。あの日からルルーシュ君の様子がおかしいの。話しかけても上の空なことが多いし、ずっと難しい顔してる」
「それが私のせいだって言うの?」
カレンもそのことについてはいささか自覚もあるし、できればどうにかしたいという思いも持ち合わせている。だが、あくまでそれは二人の問題であるし、他人に口出しされることではない。もう自分でどうにかしようとしているのだから、余計なお節介は無用だ、と口にはしないが態度で拒絶を示す。それでも、和美は全くひるむことはなく真正面からカレンの子を見返した。
「そうじゃないよ。でも、無関係とは言わせない。この三年間、ルルーシュ君があんな風に変わることなんてなかった」
和美からしてみればここ最近のルルーシュの落ち込み様は異常であった。何がどうしてそうなったかは分からないが、転機はまず間違いなくあの日だ。
「そうだとしたら、私にどうしてほしいわけ?」
カレンにしてみればまるで端から自分が悪いと決めつけられているようで面白くない。自然と口調もますます憮然としたものへと変わっていく。相手が和美であるということがまたカレンの心を逆撫でしているようだ。
「事情は分からないから何とも言えないけど、でも、もう一度きちんと話をしてほしいの」
「大きなお世話よ…」
後になって思い返してみてもカレンにはあの時、どうして自分があんな言葉を使ったのか、と後悔することになるのだが、その時にとっさに出た言葉はそれであった。和美は信じられないという顔をしてカレンを見返している。
あんたに言われなくてもこっちはそうするつもりだったと言えれば少しは楽になったかもしれない。けれど、カレンはよく分からない和美への対抗心とが先に立ち、ただそれだけを言うとその場を後にしようとした。
「そんな言い方…ルルーシュ君が心配じゃないの?」
そんな和美の反応もカレンはかなり冷ややかな目で見てしまっていた。
「そんなに心配ならあんたがどうにかしてやればいいじゃない」
どう考えてもそれは配慮に欠けた、いつものカレンらしかぬ言葉。ただ、状況とタイミングと目の前の相手の存在がそれを彼女の口から吐き出させてしまったのだ。一度口にしてしまえばそれがどれだけ無遠慮な言葉であったか、カレンにも分かったが、それはもはや後の祭りである。案の定、和美はまるで今まで堪えていたかのような大声でカレンに食ってかかった。
「何も考えずに、何もせずにここにこうして来てると思ってるの?本当はこうしてあなたに訊きに来ることもすごく悔しいよ…!」
ぎりっと奥歯をかみしめる音が聞こえてくるような形相で和美はカレンへ言葉を返す。
「いつだってそう…ルルーシュ君の一番近くにいたのはあなただった。彼の心を動かすのもあなただった…それが良い時でも、悪い時でも。私はただそれを見てることしかできない」
和美はカレンが見たこともないほど顔を歪ませて言葉を紡ぐ。その様子にカレンは思わず気圧されるようにして半歩ほど足を引いた。
「なんで私じゃ駄目なんだろ…なんで傍にいる私じゃ力になれないんだろっていつも思ってた」
それは単なる独白にすぎない、和美の感じていた劣等感にも似た感情が吐き出させた言葉であった。物理的には一番近い距離にいながら、心理的には一番にはなれない。和美の知る限りではその位置を占めていたのはカレンである。
「きっと今回もあなただけしか彼を変えることはできない…。やらないって言うんだったら私に教えてよ、どうやったらあなたみたいになれるのか」
思いすごしかもしれない。けれど、自分に向けられるルルーシュの感情は、表情は作られたものであったように感じられた、この三年間。和美自身、例え、良くない感情であろうと、辛いことがあるならば、苦しいことがあるならば、自分に見せてほしいと願ってきたし、そういう存在で在れるように努力してきたつもりだ。そうでなければ力になどなれるはずもない。
そうして自分を隠していることがルルーシュの優しさの一部であることも分かる。だが、それはルルーシュと和美の間に存在する壁を、残酷なまでに和美に悟らせるのだ。ゲットーで見たルルーシュとカレンのような関係には自分はなれないのではないか。三年の間、和美の頭にはそんな疑念が浮かんでは、それを無理矢理打ち消すということを繰り返してきた。そうして鬱積してきた感情が今、和美自身思いもしなかった形で爆発している。
「傍にいるのに何もできない…。それがどれだけ悔しいか、どれだけ辛いか…絶対にあなたには分からないよ!」
吐き捨てるようにその言葉を残して、和美はその場から走り去って行った。カレンと交差する瞬間、その眼には涙が光っているようにも見えたが、声をかける暇も、それをするつもりもなかった。
「そんなこと言われても、私にも分からないわよ…」
カレンがやっと呟くことができたのはそんな嘘だけ。彼女は知っている。なぜ、ルルーシュが自分を心理的上位に置いているか。僅かながらも彼の過去を知り、そして、彼の願いを知っている。それが、今の和美とカレンの差であろうことを知っている。
理不尽な感情をぶつけられたが、初めに引き金を引いてしまったのは人のほうだろうことはカレンも分かってはいる。だから、その言葉はせめてもの強がりだ。醜い感情を抱いているのは何も和美一人ではない。こんな状況にあってまだ、意地を張ろうとする自分に、カレンはえも言えない吐き気を覚えていた。
その翌日のクラブハウス内にはひどく落ち込んだ様子の和美の姿があった。思い返してみても、穴があれば入りたくなるほど馬鹿な事を言っていたと思う和美。あれではただのヒステリーだ。カレンも当然これまでの間たくさん辛いことはあったはずなのに、ただ自分の都合を押し付けていただけ。私はただ二人に昔のように戻ってほしかっただけなのに。と思い返しては落ち込むことを昨日、カレンと別れて冷静になってみてからというもの散々繰り返している。
正直に言えば本当に昔のように戻られてもそれはそれで困るのだけれども、それでルルーシュ元気になるのならば、それぐらいの危険は見過ごしてもいいだろうと思っていたのだが、自体はそれどころではない方向へ向かってしまった。全面的に自分のせいであると自分を責めてばかりで、仕事にも力が入らない。
肝心のルルーシュはといえば、やはりいつもとは違った様子である。ただ、それもここ数日のものとはまた違っていた。相変わらず難しい顔をしていたが、どこか覇気が感じられる姿であった今日のルルーシュ。ますますもってあの日の夜に何があったのかが気にかかる和美。しかし、それ以上に気にかかるのは、本当に自分がしたことが大きなお世話であったかもしれないということだ。それを思うとますます体か力が抜けていく。
はぁ、と一つため息をついたところで今更何が変わるわけでもないが、その時の和美はそうせずにはいられなかったのだ。気を取り直して中断していた生徒会室の掃除を再開すると、突然後ろから誰かが、がばっと抱きついてきた。そんなことを和美にする人物と言えば一人だけしかいないので、和美は特にうろたえることもなく、自分の腰に回された腕をそっと解く。
「ミレイお嬢様、今は勤務中ですのでこのようなお戯れはお止めください」
そう言って和美が振り返ると、ひどく残念そうにしているミレイがこちらを見ていた。
「まあまあ、そう固いこと言わずにさ~。私なりに元気づけようとしての行動なわけだし」
「元気づける、ですか?」
和美が訊き返すと、ミレイはうんうんと何度が頷いてから椅子を引いてそこに座る。そんなに落ち込んだ雰囲気を漂わせていただろうか、と疑問に思っているとミレイはもう一つ椅子を引くとそこを指差し、和美も座るようにと促した。和美は勤務中だからと断ろうとしたのだが、こういう時のミレイの押しの強さは身をもって知っていたので、素直にそれに従った。
「そんなに気の抜けたような態度だったでしょうか?」
自覚はなかったが、周囲から見れば今日の自分はおかしかったのだろうか、と和美は素直な気持ちをミレイにぶつけてみる。するとミレイはクスッと笑い和美の口元を指差した。
「この部屋の入り口まで聞こえてたわよ。その大きなため息」
はっとして口に手を当てたが、今更そんなことをしても無駄だ。和美はそっと手を膝の上に戻すと、頬を薄く赤らめた。
「話してみてよ。何かあるんでしょ…悩み事」
「ですが、今は…」
仕事がと続けようとした和美の言葉は、ミレイによって打ち消される。どうもミレイは今は主人とメイドとしてではなく、ただのミレイと和美として話すことを望んでいるようだ。
「雇用主である私がいいって言ってるんだから…さっ、断片だけでもいいから」
はたから見ればミレイは楽しんでいるようにも見える。けれど、それは彼女なりの思いやりの一部だ。不思議と不快にはならないように、話しやすいようにと相手に合わせて誘導するように相談に乗ってくれる。これまで和美も何度となくミレイに相談に乗ってもらい、時にはアドヴァイスを受け、時には励ましてもらってきた。ただ、今回はあまりにも醜い感情をミレイの前に曝け出してしまうことに抵抗を覚えたため、事実をかいつまんで話をすることにした和美。
「ミレイさんは嫉妬ってしたことありますか?」
「嫉妬?」
その言葉が意外だったのかミレイは思わず訊き返していた。普段はおとなしい和美からはなかなか連想できない言葉だったのかもしれない。
「一人の女の子がいて、その子は私にはできないことができるんです。私もその子みたいになりたくて、でもなれなくて。それが悔しくて気がついたらその子にひどいことを言ってしまっていて…」
和美は自分でも不思議に思うほど饒舌に昨日のことをミレイに話し始めた。ミレイもその雰囲気が重々しいことをいち早く察し、真剣な面持ちで和美の言葉を聞いている。
「本当はそんなことを言うつもりじゃなかったんです…でもただただ悔しくて。自分がこんなに醜い人間だなんて知りませんでした」
話せば話すほど自分の愚かしさを痛感するようで、和美の頭はだんだんと俯いていく。こうして話していること自体が自己弁論のようで、それがまた愚かであるように感じられる。それでも話してしまうというのはきっと自分の弱さの表れなのだろう、と再び自己嫌悪に陥りそうになった和美は、ミレイから帰ってきた言葉にはっとして顔をあげた。
「私も嫉妬なんてしょっちゅうしてるわよ」
えっ、と思いがけず漏れた和美の言葉にミレイは穏やかな表情で笑いかける。
「人間なんだから、そのぐらいのことは当然あると思うけど」
和美の中でミレイという存在は一種の憧れであった。容姿といい、人好きのする性格といい、たまに羽目を外し過ぎるところを除けば理想的な人物といえる存在。それが、ミレイ・アッシュフォードであったのだ。和美にはそんな彼女が自分と同じように愚かで、醜い感情を抱いているということが信じられない。
「確かにそれで相手を傷つけるようなことを言ってはいけないけれど、誰だってそういった感情は抱くものよ」
ミレイはぎゅっと和美の手を握ると顔を近づけ、その目を覗き込んだ。それだけ、その時のミレイの目には強い意志が宿っていたのであろうか。それだけで和美は自分の内側をのぞかれているかのような錯覚に陥ってしまった。
「その相手の子って噂の紅髪の子?」
「なんで知って…」
まるで本当に心の中を見透かされたようで、和美の思考は混乱間近まで追いつめられる。しかし、ミレイはまたいつものように意地悪そうに笑うと和美の鼻っ柱をつんと突いた。
「あなたの悩み事なんてルルーシュ関係がほとんどなんだからすぐに分かるわよ」
ううっ、と言葉に詰まって頬を赤くする和美に、ミレイはもう一度意地悪い笑みを浮かべると自分は席を立って窓を背にして和美のほうを向いた。もうからかう気はないのか、今度は穏やかな微笑みを浮かべながら。
「いいんじゃない。その子にできることがあなたにできなくても。その子と同じように、きっとあなたにしかできないことがたくさんあるわよ」
「でも…」と反論しようとする和美を静止して、ミレイは言葉を続ける。
「少なくとも、この三年間であなたがルルーシュのためにやってきたことは、彼女にはできなかったことでしょ?」
「でも、それは…」
それでも、自信なさげに言いよどむ和美に、ミレイはゆっくりと近づき和美の肩に手を置いた。
「私はそうは思わない。あなたがいたからルルーシュが助けられたことって、あなたが思っている以上にあるわ。あなたは、あなたにしかできない方法で彼を助けてあげるといいと思うけど」
「私にしかできない方法…」
そんなものがあるのだろうか、と
「もちろん、その子には後で謝らなくちゃいけないけど、卑屈になって手を引いたりしたら駄目だからね」
ミレイはそこでいったん口を閉じると、くるっと後ろを向いて窓のサッシに手をつく。和美にはなぜだか窓から差し込む陽光に照らされたその背中が、いつもの快活で活発なミレイのそれとはまったく別のものに見えた。
「そんなことしたら、絶対に後悔することになるから。あなたはそんな思いしたらだめよ?」
何かあったのだろうかと和美が声をかけようとすると、ミレイは再び和美のほうへと向き直り、まるで姉が妹に言い聞かせるようにしてそんなことを言ってきた。その姿があまりにもいつものミレイ然としていたので、どうも考えすぎだったようだ、と和美は先ほど感じた違和感を頭の中から捨て去る。
「分かりました。できるかどうか分かりませんけど、探してみます、私にしかできないこと」
その言葉を聞いたミレイは満足そうに頷いた。本当にそんなものがあるのかどうか、和美は不安ではあったが、負けたくないという思いは未だに強く、何が何でも見つけ出してやろうというつもりで、ぐっとこぶしを握り締めた。
「おっ、やる気になったか。それじゃあお姉さんが景気づけに魔法の一つでもかけてあげましょうか」
その後の生徒会室内にはミレイの「ガ~ッツ!」という大声と、くすくすと洩れる笑い声が響いていた。
「でも、意外でした。ミレイさんがしょっちゅう誰かに嫉妬してるだなんて」
「意外?」
「だって、ミレイさんは美人だし、気配りも出来て、行動的で、誰かに劣っているようなところなんてどこにも…」
あらかた話も終わり、和美も仕事に戻ろうと腰を上げた時、ふと疑問に思ったことを口にしてみた。一体誰に、どんなことで嫉妬するというのだろうか。和美から見ればそんな相手など彼女の周りにはいないように思えるのだ。
「そりゃあ私だってあなたと一つしか違わないんだもの。そういう悩みの一つや二つくらい持ってるわよ」
ミレイにしては珍しく拗ねたような表情でそう言うと、ミレイはおもむろに和美に近づきおでこをつんと突いた。
「どうやらあなたは私のことを勘違いしてるみたいね。別に私なんて完璧でも何でもないのよ。本当の私なんて…臆病なだけなんだから」
「臆病?ミレイさんが、ですか?」
失礼な話だが和美の頭の中では、いつも大胆不敵で怖いもの知らずと言っても何ら差し支えないほどの行動力を見せる彼女と臆病という言葉が全くイコールでつながらないし、臆病そうに振る舞うミレイの姿など全く想像ができない。
「いつも見えてるものが本当の姿だとは限らない、ってことよ。だれだってどこかで自分を演じてる部分があるんじゃないかしら?まっ、私の場合はほとんどが地だけどね~」
最後は茶化すように言いながら、ミレイは部屋の出口へと向かっていく。ひらひらと後ろ手に手を振りながら部屋を出て行った彼女の後姿はやはり、いつもとは違って見えた。
「何言ってるんだろ、私…」
誰もいない廊下にミレイの小さな声が消えるように溶けていく。演じている自分。臆病な部部を隠すために被っている今の“自分”という仮面。思いを気取られるように、けれど離れずにいるために、今を壊さずにいるために演じる自分。そのくせ他の人にはがんばれとエールを送り、臆するなと言う。自分は肝心なところでいつも身を引いているというのに。しかたがないことだから、もう決まっていることだからと理由をつけては逃げ道を作っている。そして、いつも時間切れを待っているのだ。
何も知らずにいれば、これまでのようにそうして過ごせていたかもしれない。ルルーシュや、和美に出会わなければ今までのように仮面を被ったままでいられたかもしれない。だが、彼女は知ってしまった。彼らと出会うことで、運命に抗う術がこの世界には存在しているのだということを。
“その想いがどうしても譲れないものならば自分で行動を起こすしかありません。少なくとも俺ならそうしますよ”
あの日にルルーシュから聞いた言葉が彼女の胸の内をかすめていく。
「譲れないもの…」
口に出してみてもどこからか答えが返ってくるということは決してない。その問いに対する答えは自分で導き出すしかないのだから。はたして“この想い”は自分にとって譲れないものであるだろうか。他の誰かに先を越されても許せるものであろうか。ミレイはいつからか気付き始めていた自らの気持ちに、未だ結論が出せぬままでいた。